『バットマン フォーエヴァー』(1995)考察レビュー|ジョエル・シュマッカー版バットマンが目指したヒーロー映画への回帰を再評価

映画バットマン フォーエバー(1995)のネタバレ感想 ジョエル・シュマッカー監督交代後第一作、バットマンはヴァル・キルマー、ジム・キャリーのリドラーのテンションが最高

90’s『バットマン』
シリーズ全作品レビュー3

――爆発!炎!アクション!ギラギラ輝くネオンの下で……ヒーローの本流へ立ち返ったバットマンシリーズの新章

作品データ

原題:Batman Forever

監督:ジョエル・シュマッカー

製作:ティム・バートン

ピーター・マクレガー=スコット

脚本:アキヴァ・ゴールズマン

リー・バチェラー

ジャネット・スコット・バチェラー

原作:DCコミック『バットマン』

ボブ・ケイン

音楽:エリオット・ゴールデンサール

撮影:スティーヴン・ゴールドブラット

上映時間:121分

出演者:

ブルース・ウェイン《バットマン》:ヴァル・キルマー

ディック・グレイソン《ロビン》:クリス・オドネル

ハービー・デント《トゥーフェイス》:トミー・リー・ジョーンズ

エドワード・ニグマ《リドラー》:ジム・キャリー

チェイス・メリディアン:ニコール・キッドマン

アルフレッド・ペニーワース:マイケル・ガフ

ジェームズ・ゴードン総監:パット・ヒングル

シュガー:ドリュー・バリモア

スパイス:デビ・メイザー

バートン博士:ルネ・オーベルジョノワ

本レビューにはネタバレを含みます。

総文字数:8627文字

読み終わるまでの時間:約23分

目次

製作背景:ユニバース形式以前のアメコミヒーロー映画のユルさ

1989年の第1作目から始まる、DCコミック『バットマン』の実写映画化シリーズ第3弾。シリーズとしては継続しているが、監督がジョエル・シュマッカーに代わり、主演のバットマンもヴァル・キルマーに、一部キャストを除き主要スタッフも変更となった。

今作も本来であれば前作『バットマン リターンズ』までと同じくティム・バートン監督による企画が進んでおり、タイトルの「フォーエバー」も三部作の締め括りとしてつけた仮タイトルがそのまま残ってしまった形だと言う。1作目で今作のヴィラン、後のトゥーフェイスとなるハービー・デント検事が登場していたのもその名残だ。

監督・主演・スタッフと変更……2025年現在であれば“リブート”という言葉を使うのであろうが、MCUなどアメコミ映画がユニバース形式を取り入れる以前は、リキャストやスタッフ変更など日常茶飯事。映画の雰囲気が変わっても何事もなくシリーズが続くのが当たり前であった。この時代を知っていると、現在のMCUの多少の矛盾くらいは抵抗なく受け入れられる気もするが、映画表現の進化に水を差すのは野暮というものだ。“それはそれ、これはこれ”と楽しむべきだろう。

前作が1作目と比べて興収が下がったのもあり、配給のワーナー・ブラザーズは大幅な方向転換を余儀なくされた。前作までの監督であるバートンは製作に回り、新たにジョエル・シュマッカーが監督を務めたことで、シリーズの方向性も一新される。
バートン版のダークさを脱し、ポップなファミリー層向けのアメコミ・ヒーロー映画への回帰を目指した今作は、確かに前作までのトーンを求めると顔を顰めたくなる気持ちもわかる。しかしこの作品単体で観ると、90年代ならではのポップなヒーローアクションの楽しさも確かにあり、どこか微笑ましいノスタルジーを感じもするのだ。

バートン→シュマッカーで一新された世界観

非難轟轟だったバットスーツと近代的ゴッサム・シティ

ワーナーのマークがバット・シグナルへと変わり、カラフルなフォントでキャストの名前が浮かび上がるオープニングから、ダーク&ゴシックなバートン版からの大きな変化を感じる。よりわかりやすく、よりアニメーション的に。音楽担当がエリオット・ゴールデンサールに代わったことで、「バットマンのテーマ」もその旋律は近いものながら別物に差し変わった。

オープニングが終わり、バットマンがスーツを装着するシークエンスから始まるのは、今作がヴィランに主眼を置いていた前2作から、バットマンを主人公とするヒーロー映画に生まれ変わるという宣言のようなものだ。ここではまだスーツの下の顔が見えない新バットマンに対し、継続キャストであるマイケル・ガフのアルフレッドのジョークから始まるのも、シリーズの連続性を示す職人芸と言える。

やたらとスーツにピッチリなバットマンの臀部を強調したカットや、乳首のあるバットスーツなど、シュマッカーが担当した2作で問題視される要素は既にここから。これは次作でも繰り返し描かれることになるが、キャリアの始まりが衣装デザイナーでもあるシュマッカーなりの美学がそこには確かにあったのだとは思う。件の乳首が“格好良い”とはやはりまったく思わないが、前2作の重苦しそうなスーツに比べ、アクション映えするスーツには撮影技術の進歩も感じる。

ゴッサム・シティは、これまでのゴシックな造形美から一転、ネオンと高層ビルが立ち並び、バットマンとヴィランの対決には多くのギャラリーが集う。街の遠景にはCGも使われ、昼間の空はピンク色に色調加工もされている。
ウェイン産業の社長室から真っ直ぐバット・ケイブへと繋がるトンネルや、冒頭ヘリの空中戦で《自由の女神像》に突っ込むあたりでゴッサムの地理感も気になるが、すぐ裏手にダムの如き滝が流れる川がある会社というのもとんでもない欠陥住宅だろう。ウェイン邸もシリーズの繋がりとして相変わらず森の中にあるのだが、バートン版の“現代の異界”というイメージではなく、単純に地理が狂って見えてしまうのは今作のゴッサムのデザイン故だ。
全体的に、実写としてのリアリティラインがグッと下がり、アニメーション的なヒーローの世界観を再現している印象である。

ド派手なアクション・アドベンチャーへの回帰

アクションに関しても同じで、シグナルをバックにターザンのように現れるバットマン、バットモービルから噴き出るカラフルな炎、電気仕掛けのブーメランなど、とにかくケレン味が強い。全体的に“もっさり”していた前2作と比べ、キレ良くスピード感重視、格好良く撮ろうとしているのが伝わってくる。
壁走りをしながら炎に追いかけられるモービルなど、とにかく爆発と巻き上がる炎が多用され、「ヒーロー映画で観たいアクションはこれだろう?」と言わんばかりの詰め込みようだ。何しろ地上戦に加え、空中戦、海中戦まである。
映像はとにかくカットが細かく、場面転換が早い。1シークエンスにつき一つ派手なアクションがあり、アクションシーンの連なりが1本の映画になっているのも、アニメーションらしさを後押しする。

次作になると完全に消え去ってしまうが、ゴッサムの建物の一部デザインにはアントン・ファーストやボー・ウェルチのゴシックの色も残っている。が、基本的には今作においてのバートンはもはや名義貸し程度の関わりであり、実際に数回撮影現場に来た際は「目がチカチカする」とご立腹だったという。
そうしたシリーズとしては急激なトーンの変化はありつつも、スーパーヒーロー映画らしい馬鹿馬鹿しいほど派手なアクションとカラフルな映像は、かつてのバットマン映画『バットマン オリジナル・ムービー』(1966)を90年代の技術で蘇らせたような雰囲気もあり、それはラストにバットマンとロビンが並んで走るシーンからも顕著だ。これは66年の映画に繋がるドラマシリーズ『怪鳥人間バットマン』のオープニングムービーへのオマージュであり、今作は90年代のアメコミのダーク化の潮流の中で、あの時代の“楽しい”アメコミヒーローを甦らせようとした作品とも言えるのだろう。

一作限りのヴァル・キルマーとシュマッカー・カットの噂について

今作でバットマン=ブルース・ウェインを演じたのは前作までのマイケル・キートンに代わりヴァル・キルマー。常に死の影が付き纏っていたキートンのバットマンに比べ、キルマーのバットマンは当時の線の細さも合わせ、原作コミックのプレイボーイ感や、眼鏡をかけて会社を視察する姿にはインテリ社長の雰囲気もある。
自殺で補償が下りないはずの部下の遺族にも補償金を、と言ったりきちんと善人なのだが、社員とのやり取りではしっかりと社長らしい圧も感じられる。シリーズ4作通して、秘書も伴いここまで社長業をやっているのは今作のみ。キルマーのブルース/バットマンには、その若き名士としての二足の草鞋姿がマッチしている。

結果として次作ではジョージ・クルーニーにキャスト変更し、後の『ザ・フラッシュ』(2023)で触れられるのもキートンとクルーニーだけなのでキルマーのバットマンは本当にこの1作のみの幻となってしまったが、ブルースとバットマンという二つの存在としてヒロインを取り合い、バットマンがフラれてニヤリとしてしまう可愛さは、他の二人ではここまでハマらなかっただろう。
キルマー本人は2020年のインタビューにて、今作の撮影中にシュマッカーと不仲であったことや、バットマンに会いたがったスポンサーの孫たちがキルマーには興味がなく、モービルに乗ったりマスクを被ったりしていたという屈辱的な記憶なども語り、バットマン役については良い思い出がなかったようだが、キルマーのこの1作も、歴史に埋もれさせるにはあまりに惜しかろう。

「恋など初めてだ」
「人には闇がある」
と他者に対して閉ざした心境を吐露するも、それが台詞の上だけでバットマンの人格にそこまでリアリティを生んでいないのは、前作までを観ていると物足りない。
(「キャットウーマンとか」とチェイスに言わせながらの「恋など初めてだ」も前作の大ファンとしては-150点だが;笑)
特に今作では未だ両親の死のトラウマから抜け出せず、そこからウェイン邸内の洞窟に落ちてコウモリに襲われたという、バットマンのヒーローとしてのオリジンも初めて語られる。ヒロインであるチェイスが精神科医という役割を振られている以上、ここももう少し深掘りすることも出来たと思うが、断片的な回想だけで終わってしまうのは残念だ。

兼ねてより存在が噂されているディレクターズカット版、通称:“シュマッカー・カット”ではよりこうした過去のトラウマが描かれ、物語全体がダークだったとも言われている。ただ、マイケル・キートンが今作でのバットマンの降板理由について、シュマッカーと面談した際の「なぜバットマンがこんなに暗くて悲しくなっているのかわからない」という(シュマッカーの)発言も挙げており、シュマッカーやキルマーも故人となっている今、その存在がどこまで真実かは断定できない。
脚本家であるアキヴァ・ゴールズマンが、採用されなかった案への未練として語っているとも取れるので、その公開についてはあまり期待しないでいた方が良いだろう。

ロビンとアルフレッド:バットマンの家族が揃った

今作で満を持して登場したサイドキック: ロビン= ディック・グレイソンとバットマンの関係とそのオリジンは原作から良い改変がなされている。
サーカス団という原作の初代ロビンの設定を活かしつつ、その家族の死に今作のヴィランであるトゥーフェイスを絡めたことで、目の前で家族に死なれた孤独をブルースとの共通項とし、かつその家族の死を止められなかったブルースとの間に確執を生むこともできる。
1作目のジョーカー←→バットマンのラインと
今作のトゥーフェイス←→ロビンのラインを繋げることで、バットマンが教え・導く側になるというトラウマからの脱却もテーマとなる。

……はずだが、基本的にディック本人が明るく、映画もテンポ良く進んでいくのでそんな因縁もそこまで重たくならず処理されてしまう。そもそも原作の設定より演じたクリス・オドネルが大分年長(公開時25歳)であるため、ブルースがわざわざ身元引受人になるのにも説得力が薄い。見た目、充分自活出来そうなのである。アルフレッドの美味しいご飯とブルースのバイクコレクションに釣られてウェイン邸に留まるあたりも、家族が死んだばかりの割にノリが軽い。
ウェイン邸で洗濯物をサーカスで培った技術を用いて干したり、バットモービルに興奮して街へ繰り出してナンパしたりと茶目っ気たっぷりのハマり役ではあるが、物語においての苦悩は置いてきぼりにされている。
終盤で「(トゥーフェイスを)殺すかも」と言うが、「まぁ殺さないだろう……」とバットマンだけでなく観客も安心して送り出せてしまう。

ただ、“ロビン”が幼い頃兄を助けた際に父親につけられたあだ名であり、そのエピソードを聞いたアルフレッドによってヒーローネームとして命名されるという今作オリジナルのエピソードは非常に良かったと思う。
原作コミックの設定においてはロビンの名は《ロビン・フッド》から取られており、コマドリのロビンではないというのはキャラクターデザインを担当したジェリー・ロビンソンによって明言されているが、それを逆手にとったエピソード構築は原作を知っているほどニヤリとするはずだ。
ブルースとディックの境遇を重ねながらそれを見守るアルフレッドというのも、前作までの闇に囚われたブルースとのどこか距離のあった関係性よりもずっと存在としての重要性が増しており、二人を見守る親代わりとしてのキャラクターが次作への導線を作っている。

ダークからポップへ……大暴れするヴィランたちの魅力と功罪

ブルースやロビンの描写からもわかる通り、今作の物語は全般的に“軽い”。苦悩と孤独を湿度たっぷりに、切迫感をもって描いていた前作までとはそこが大きく異なる点だ。
それはヴィランたちの描写にも表れている。
今作のメインヴィランの一人、リドラーを演じるのは“コメディ王”とも呼ばれたジム・キャリー。まだ『トゥルーマン・ショー』(1998)にも出演以前、同時期では『マスク』(1994)での“CGを超えた”顔芸でも有名なコメディ俳優である。

このジム・キャリーのリドラーが良くも悪くもこの映画のカラーを決定づける。
マッド・サイエンティストで承認欲求が爆発したナードであり、粘着質でしつこく早口で捲し立てる。自分を否定されればすぐにキレるが、そんな人との距離感が掴めていないからこそトゥーフェイス相手にも物怖じすることなく共闘を持ちかけられる。ステレオタイプな、典型的な“ダメなオタク”だ。
自分が殺した上司を思って嘘泣きをするシークエンスでの「親同然でした……従兄弟と言って良い」など台詞回しも完全に意味不明だが、軽快なステップを踏みながらの杖捌きは実に見事なもので、基本的な衣装が全身タイツなので、その姿は常に滑稽に映る。

眼鏡をかけた姿がなんとなくブルースと似ていたり、ウェイン産業に対抗して社長になった際の姿には歪んだコンプレックスも見え隠れするが、そうした心情面よりもとにかくその異様なテンションの高さと劇中何度着替えたかわからないほど多様なコスチュームに目を奪われてしまう。
これは前作が暗すぎて“玩具が売れにくかった”というマーケティング的な問題もあったのかも知れない。これだけ衣装があれば、マイナーチェンジで商品化もしやすいだろう……とは考えすぎだろうか。

しかし、なんと言っても今作の一番の問題点となるのはトゥーフェイスのキャラクター設定だ。硫酸で顔半分が焼かれ、凶暴な人格と元の判事としての人格に分たれた多重人格のヴィラン……のはずだが、今作ではずっと凶暴な人格のままだ。辛うじてラストにバットマンから「コインはどうした?」と問われた際に冷静な顔が見えたりはするが、基本的にはずっとハイテンションに暴れ回っている。トミー・リー・ジョーンズは実にイキイキと演じているのだが、リドラーとキャラクターの方向性は同じなので二人いる意味はあまり感じられない。

精神科医であるチェイスによって二重人格をバットマンと重ねられたり、硫酸をかけられた昔の映像をブルースが神妙に見ていたりと設定上は色々とバックグラウンドがあるはずが、それは映画の中では何一つ表されないままラストではコインのキャッチに失敗して死ぬというややおマヌケな最期となる。
コインへの執着が仇となり、バットマンの投げた大量のコインにパニックになりながら落ちていく姿はヴィランの最期として面白くはあるのだが、中盤のチェイスを拉致するシークエンスでは裏が出るまで何度もコインを投げるという行動もあり、コイントスの意味自体が薄くなっている。
シュガーとスパイスという白と黒をイメージした二人の情婦を従え、それぞれに両極端な好物を提示されるコミック的な場面なども、もう少し映像的に面白い演出も出来たと思うが、設定をイマイチ活かしきれず、ジョーカーの再演に終わってしまった印象だ。1作目のビリー・ディー・ウィリアムズからリキャストもされているため、そもそもの因縁という意味でも薄い。

90年代ヒロインの描写問題とティム・バートンの特異性

ヴィランたちやブルースの精神面を描くことを半ば放棄してアクションアドベンチャーとしての楽しさを重視した結果、ヒロインであるチェイスの精神科医という設定も単なる肩書きに終わってしまっている。
バットシグナルを「ポケベル代わりに」使ってバットマンを誘惑したかと思えば、ブルースにも近づき、バットマンとブルースの間を行ったり来たりする。これも、バットマンの二面性という意味で深く描こうと思えば描けたはずだが、今作ではどちらかというとコメディ要素となるので、余計にチェイスの株が落ちてしまう。

1作目のヒロインであるヴィッキーを、89年という時代性も加味した上で“トロフィー化されたヒロイン”だと書いたが、今作でもそれは変わらない。パーティーでリドラー=ニグマとチェイスが踊るシーンなどはまさにその典型だ。
1995年……アメリカでは女性の社会進出が進み、政界進出も急増した時期だ。実際に、女性の精神科医でハイ・キャリアなキャラクター造形にはそうした社会の影響も見ては取れる。しかし、依然として所謂ヒーロー映画やスパイ映画には型通りのヒロインが求められていた時代である。そんな中1992年に『バットマン リターンズ』でフェミニズム的描写を描いたバートンはやはり時代の流れに敏感だったのだろうし、一応は続編である今作でそれが1作目の形に戻ってしまっているのは重ねて残念だ。

逆を言えば、今作でも登場するやたら筋骨隆々で奇天烈なアクションをするトゥーフェイスの部下やヒロイン設定など、90年代〜00年代初期のアメコミ映画的フォーマットが1作目にもあったというのは、まだ若手監督だったバートンが1作目の製作時はあれでもかなり譲歩した結果だったとも言えるのかも知れない。そう考えると、2作目の特異な作風はやはり、バートンの暴走だったとも取れるのである。

選択と二面性モチーフを散りばめたヒーローの再生譚

今作の物語は二者択一がテーマとなっている。ファミリー向けの冒険活劇としての明快さに隠れて深くは描かれていないが、ヒーローと人間:ブルース・ウェインとの間で葛藤する姿と、その先を描いたバットマンの新たなオリジンなのだ。
ヴィランがトゥーフェイスであることも本来はその表れであり、中盤でチェイスへの愛のために「バットマンは廃業だ」と言い出すのもそのためだ。

最終決戦でロビンはトゥーフェイスへの復讐心を捨て、ロビンとチェイスの危機に、バットマンは二人ともを助け出す。これぞヒーロー映画の矜持だ。ヒーローは諦めず、両方助ける。「僕はブルースでバットマン。自分で選んだ」二者択一と過去のトラウマを乗り越え、ロビンの指導者としてヒーローは再び走り出す。
こうして積み重ねてきた過去の映画の歴史があるからこそ、同じシチュエーションでの『アメイジング・スパイダーマン2』のラストも光る。リアリティラインが低いゆえの夢や理想を、大っぴらにヒーローが語れた時代。最終決戦に向かうバットマンにサムズアップを向けるゴードン総監なんて、前2作ではとても見られなかった姿だが、良いじゃないか。
今となってはこうした描写も眩しく映るものだ。

リドラーの仕掛ける3Dホログラム装置「BOX」も、公開時の年代を考えると面白い。1995年と言えば、《Windows95》のOSがリリースされ、パソコンというものがようやく一般層に認知され始めた頃だ。
「BOX」の作りなどは今見ると笑ってしまうくらい荒唐無稽ではあるのだが、当時はこうした機械に対する“無知故の夢”があった時代で、一般認知が進んだことからそこにうっすらとしたリアリティもあった。2025年現在の“AIへの危機感”とは違う、“機械そのものへの恐怖感”は、この前後10年ほどは様々なジャンルの作品で繰り返し描かれるテーマだ。

その脳波の奔流によって狂い、最終的には自らバットマンのトラウマを脳に植え付けられて廃人になるニグマの姿も、ジム・キャリーの顔芸が最後まで楽しめる。アーカムの精神科医がバートンそっくりな姿なのもご愛嬌。シュマッカーはシュマッカーなりにバートンの作った前2作について思うところはあったのだろう。

総括:侮るなかれ!ポップでキッチュな唯一無二のバットマン映画

前2作を監督したバートンがあまりにも“孤独”への親和性が高く、バットマンの物語に自身の痛みを重ねてダークな世界観を作りすぎたが故に、今作が軽く見えてしまうのは確かだ。個人的にも、やはりバートン版と同じように評価することはどうしても出来ない。
しかし、前述したブルースの社長描写も含め、シュマッカーはきちんと物語のテーマである“二者択一”を、ヒーロー映画の楽しさの中で子供にもわかりやすいモチーフできちんと演出している。映画全体の軽さも、それは敢えてやったことだ。

今作と次作は合わせて、90年代のDCコミックのリアル路線時代に投げ込まれた『バットマン:オリジナルムービー』なのだ。
結果としてこの2作の世間的な評価もあって後のクリストファー・ノーラン版も、『THE BATMAN-ザ・バットマン-』(2022)もドラマの『GOTHAM』も、凡そバートン版に近いダークな雰囲気の作品となったが、逆にこうしたアメコミ・ヒーローらしいバットマン像は、90年代のこの時期にしか観られなかっただろう。

前述の通り今作でバートンは製作に回ったが、『ナイトメアー・ビフォア・クリスマス』のような積極的な関わりはないので、バートン史としては特別触れる要素はない。
しかし、前作でバットマンシリーズから離れたバートンは今作の“チカチカネオン”とは真逆のモノクロ作品『エド・ウッド』で自身の原点に潜り、その後、まるで自身が“現代のエド・ウッド”になるかのように、『マーズ・アタック!』にて、今度はサイケでチカチカする画作りによってハリウッドどころかアメリカ全体を破壊し尽くす映画を撮ってしまうのである。
その流れを踏まえると、今作で監督をおろされたフラストレーションがバートンの創作に与えた影響というものも、少なからずあったのではないかと思うし、『バットマン リターンズ』がミュージカル『オペラ座の怪人』のアンサーだと信じてやまない筆者としては、後年シュマッカーがその『オペラ座の怪人』を実写映画化するところまで含めて、映画の歴史の面白さを感じてならないのだ。

評価/鑑賞日

⭐ 2.5 / 5.0
📅 2025/07/31(Hulu)

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