『バットマン リターンズ』(1992)考察レビュー|バートン流『オペラ座の怪人』バットマンに託された異形の祭典

映画バットマン リターンズ(1992)のネタバレ感想 ティム・バートンのバットマン続編ペンギンとキャットウーマンの二人のヴィランが描くフェミニズムと孤独の物語

ティム・バートン全作品レビュー6

――白銀の雪に踊る漆黒の怪人たち……孤独を重ねたクリスマス・オペラ

作品データ

原題:Batman Returns

監督:ティム・バートン

脚本:ダニエル・ウォーターズ

原作:DCコミック『バットマン』

ボブ・ケイン

音楽:ダニー・エルフマン

主題歌:Siouxsie And The Banshees

「Face To Face」

撮影:ステファン・チャプスキー

上映時間:126分

出演者:

ブルース・ウェイン《バットマン》:マイケル・キートン

セリーナ・カイル《キャットウーマン》:ミシェル・ファイファー

オズワルド・コブルポット《ペンギン》:ダニー・デヴィート

マックス・シュレック:クリストファー・ウォーケン

アルフレッド・ペニーワース:マイケル・ガフ

チャールズ “チップ”・シュレック:アンドリュー・ブリニアースキー

ジェームズ・ゴードン総監:パット・ヒングル

タッカー・コブルポット卿:ポール・ルーベンス

手回しオルガン師:ヴィンセント・スキャヴェリ

アイスプリンセス:クリスティ・コナウェイ

本レビューにはネタバレを含みます。

総文字数:10388文字

読み終わるまでの時間:約26分

目次

製作背景:ダークすぎるバットマンとマクドナルド問題

ティム・バートン監督による、DCコミック『バットマン』の実写映画化作品で、1989年『バットマン』から主演・監督・主要スタッフが続投した正統続編。

前作ではバットマンのオリジンにバートンの意匠を大胆に織り込み、原作ファンからの賛否両論もあったが、今作ではそれが更に加速。前作の興収によりワーナーからある程度の自由を許された結果、バートンの創作性にバットマンというIPが完全に飲み込まれた形となった。
その結果、あまりにも暗い物語とキャラクターデザインから、当時映画とタイアップを取っていた《マクドナルド》の玩具付きハッピーセットはPTA団体の抗議により前倒しで早期終了、映画自体の興収も前作から落ち、バートンはシリーズを離れることとなる。同時に、主演のマイケル・キートン及び前作でハービー・デントを演じ、次作ではヴィラン:トゥーフェイスとして出演予定だったビリー・ディー・ウィリアムズも降板。それでも、本来R指定にしたかった作品をPG指定まで持っていったとされており、バートンとしては充分配給側に寄り添った結果だったのだろう。

そんな曰くつきではあるが、個人的な話をさせてもらえば今作は筆者にとって人生オールタイムベストのうちの一本。1989年の『バットマン』と合わせ、バットマンの実写化の基準値であり、ティム・バートンの数あるフィルモグラフィーの中でも最高傑作と言って憚らない。
人生で何度観たかもわからないし、数えるのも野暮なくらいに、これからも観るであろう作品……もはや自分はバットマンというIPを語る前に、“ティム・バートンの”バットマンが好きなのだと思う。ただ、そんな個人的な感情を抜きにしても、今作はバートンの初期作品の中でも、その“異形の孤独”というテーマが最も深く掘り込まれた作品であり、この作品及び次作『ナイトメアー・ビフォア・クリスマス』でバートン史はフェーズが一つ変わると考えている、非常に重要な作品である。

映像作家:ティム・バートンはCG黎明期に何を撮ったか

アントン・ファーストの不在とCGが作る新しい創造性

今作のゴッサム・シティは前作『バットマン』でデザインを担当したアントン・ファーストがコロンビア・ピクチャーズとの独占契約及び1991年の逝去により不参加となり、『ビートルジュース』や『シザーハンズ』でもタッグを組んだバートン作品の常連、ボー・ウェルチがデザインを担当した。そのため、あの独特の工業地帯とゴシックの融合といった空気感は薄れてはいるが、基本的にはファーストの路線を踏襲し、その中でよりバートンらしい、ゴシックで奇妙な造形の建物が立ち並ぶ。

すっかりバートン印として定着したミニチュアを用いた撮影や、ラジコンにカメラを乗せた武器視点の映像等もあるが、今作には部分的にCGを用いたコウモリやペンギンの大群、バットモービルの形状変化などの演出も取り入れられている。前作までならストップモーションで演出していたであろう表現をCGで代替したりもしているが、これは大作で予算も潤沢であったが故の実験的な要素も大きく、この後の作品では再びストップモーションを取り入れたり、CGと併用したりしている。
今作公開は1992年、映像業界に大きくCGの技術が取り入れられだした頃だ。
(1991年にあの『ターミネーター2』が公開されている、と言えば想像しやすいだろう)
2025年現在と比べれば技術的にはまだまだで、実写映像からは大分浮いてしまっていたりもするが、こうした新しい表現にも、バートンの映像作家としての貪欲さがよく出ている。
前作でもバットマン視点のPOVで、上空からの俯瞰ショットがあったが、今作でも地下から世界を見上げるペンギンのPOV風俯瞰ショットがある。こうした撮り方も、『フランケンウィニー』からお得意のバートンの意匠と言えよう。

真っ暗なクリスマスに産まれた“異形”の正体とは……

映像はとにかく全体に暗い。劇中明るいシーンは一つもなく、過去回想から劇中現在まで、季節は常にクリスマス間近の冬であるが、その空気感は重く、どんよりと湿っている。街は確かにクリスマス特有の華やかさがあり、ショーウィンドウは飾り付けられているが、画面の中は薄暗いままだ。
冬の日の空気の重さや空の低さが、そのまま映像の中に収められており、地下のペンギンのアジトの工場廃液混じりの緑がかった水の色彩まで含め、ゴシックでダークな雰囲気が一貫して取られている。

冒頭、やはり真っ暗なある年の雪のクリスマス……ダニー・エルフマンによるパイプオルガンの旋律とともに、豪奢な屋敷での出産シーンから物語は始まる。この、出産シーンなのになんとも言えず不穏な空気と、医師や助産師の顔を背けた姿、そして父親の叫び声だけで、ここで産まれた存在が“望まれぬ者”だったことが明示される。
そしてその後、再びクリスマスの日……檻に入れられたその子供が猫を引きずり込むのをまったくの無表情で見守り、両親がその子を地下水路へと棄てるシークエンス。彼らが子供を連れて歩き、同じように子供を連れた家族に「メリー・クリスマス」と挨拶を交わすところから、この物語の異常性と悲劇性は高まっていく。
彼らはその同じ顔で、自分たちの子を地下水路へと流してしまうのだ。

この始まり、そして、物語の中に繰り返し散見されるある符号で、この作品の持つ“ある可能性”に思い至った。これまで何度も観てきたにも関わらず、この段階まで気が付かなかったが……恐らく、今作はティム・バートン流の『オペラ座の怪人』オマージュ作品であり、1986年にアンドリュー・ロイド・ウェバーが創り上げたミュージカル版への、バートンなりの意趣返しでもあったのではないだろうか。
(筆者にとってウェバー版ミュージカル『オペラ座の怪人』もまた、人生ベストに入る作品である)

オペラ座のファントム≒ペンギンが求めたもの

今作は『オペラ座の怪人』と物語の構造が似通っている。しかしながら、バートンによるこの闇のクリスマス・ムービーには、原作やミュージカル版において光の側の存在である“天使”《クリスティーヌ・ダーエ》は存在しない。

奇形を理由に親に棄てられ、地下で育ったペンギンは、まさしくオペラ座のファントムそのものだ。幼い頃にサーカス小屋で見世物として働かされ、そのサーカス団のフリークスたちを部下として従えている設定も、ファントムの殺人鬼としての設定に重なる。
ならば、ペンギンにとってのクリスティーヌ・ダーエは誰だったのか。それは、おそらくバットマンであり、同時にマックス・シュレックでもあったのだろう。

冒頭シークエンスでシュレックを拉致し、お互いを同じ“怪物”と称しながらも、「尊敬される怪物と嫌われる怪物だ」と吐き捨てる。下水の排水溝からクリスマスの街を眺めていたペンギンは、地上で“聖人”を偽るシュレックをどんな気持ちで見ていたのだろう。
ペンギンは偏執的なまでの執念で、シュレックの弱みを握り、シュレックの部下を殺すことでシュレックに接触する。

それは、バットマンに対しても同じだ。
同じ闇の世界の住人ながら、バットマンは光の世界に受け入れられ、ヒーローとして誰もに愛されている。
その光に憧れたからこそペンギンは市長の子を誘拐し、それを救うという自作自演をした上で地上に出てきた。シュレックの市長選出馬の計画に乗ったのも、ペンギンにはどこかでただ認められるだけではなく、自分自身を拒否した世界に、喝采と共に受け入れられたいという願望があったからだろう。
奇しくも、前作のヴィランであったジョーカーもバットマンを持ち上げるニュースに対し「何故バットマンばかり」と不満を露わにしていた。

中盤の展開を考えるに、ペンギンは自身の出自と親については、地上に出る以前にとっくに知っていたことになる。恐らくはもう何年も前にそれは調査していたのだろうし、地下にいながらあれだけの組織を編成していたペンギンである。作中明言されないので断言は出来ないが、劇中では両親共に既に死んでいることからも、ペンギンが手に掛けている可能性もあり得るだろう。

ペンギンは、“人間であること”に執着する。「ペンギンは鳥の名だ」と叫び、自らの本名であるオズワルド・コブルポットを名乗る。
「異常なものを恐れるのは自然なことだ」と語る姿には、『シザーハンズ』に引き続きバートンの自責的な言葉が見え隠れし、親に棄てられ、それを「許さない」と語る姿には、やはりこの時期のバートン自身の家族へのトラウマの表像が滲んでいるようにも見える。
『シザーハンズ』のエドワードと同じく奇形の手を持ちながら、世界を憎んだ者と憎まなかった者。ペンギンの姿はエドワードの鏡写しであり、新聞に書かれた「心があれば手はいらない」もまたそれを連想させる。

キャットウーマンのメタモルフォーゼと1992年の“第3波フェミニズム”

ペンギンだけではない、キャットウーマン、セリーナ・カイルもまた、今作においては異形の側:ファントムの一人であり、彼女は前作のヴィッキーのような所謂“ヒロイン”ではない。

コーヒーを注ぐのすら覚束ず、シュレックに対していらぬタイミングで失言をし、イベントのスピーチ原稿を渡すのも忘れてしまう。ぬいぐるみと猫に囲まれ、留守番電話にはパートナーからの別れの言葉と、母親のお節介、セールスのデータが積み重なっている。
わかりやすくナードな雰囲気を出しながら、誰もいない部屋に「Honey, I’m Home」と呟く姿には、都心部で独り暮らしをする寂しさも滲む。
1992年と言えば、アメリカでは《第3波フェミニズム》の潮流が始まりかけていた頃であり、セクシャル・ハラスメントや家庭内暴力に対する女性の自己決定権の奪回が叫ばれていた頃である。
そんな中で、物語前半、セリーナは男性に虐げられ、略奪される存在として描写される。

「コーヒー“だけは”素晴らしい」と仕事上の役割を与えられなかった彼女は、実際は優秀であり、勘も良かったが故に、シュレックの汚職を知ってしまい、口封じにビルから突き落とされる。
この、ビルから突き落とされ、キャットウーマンへと変貌するシークエンスがまさにバートンの真骨頂だ。どこから現れたか……何匹もの猫に群がられ、指を齧られ、真っ白な顔で雪の中で“人ではないもの”に変わっていく。ぐにゃりと手脚を曲げ、白目を剥き、ガタガタと身体を揺らしていた遺体が、大きく目を見開いたとき、彼女は“変態”するのだ。
自宅に戻るとミルクをがぶ飲みし、彼女の家の象徴だったぬいぐるみやドールハウスを破壊し、洋服をスプレーで汚した後、ツキハギだらけのキャットウーマンのスーツを仕立てる。このあまりにも非現実的で圧倒的なメタモルフォーゼを、ミシェル・ファイファーは狂ったような笑顔と虚ろな瞳で完璧に演じ切り、観ている側もゾクゾクと高揚感を感じてしまう。

“ツギハギの女性”は、バートンが繰り返し描くモチーフであり、その登場は今作が初だ。
『ナイトメアー・ビフォア・クリスマス』のサリー、
『ティム・バートンのコープスブライド』のエミリー、
『ビートルジュース ビートルジュース』のドロレス。
彼女らは皆一度死に、ツギハギには砕けた心の隠喩がある。バートンはそうした存在への共感と偏愛を抱えており、それが表に初めて現れたのがこのキャットウーマンだったのだろう。

同時に、このセリーナからキャットウーマンへの変貌は、男性から虐げられる女性像からの脱皮も示している。
セリーナを突き落とした後、シュレックは何の感慨もなく、その遺体を確認しようともせず、翌日のやり取りから、息子のチップもその死を黙認している。彼ら親子にとって、秘書であるセリーナの死は“その程度”なのだ。それはゴッサムという犯罪都市の荒廃以前の、今作発表年の社会における女性の軽視をも表す。
セリーナはこれ以降、服装や話し方も変わり、自信に満ちていながら、常に闇を抱えた表情で過ごすようになる。
ブランドショップのマネキンの首を刎ね、暴漢に襲われそうな女性を救いながら「バットマンばかり期待するな」と告げるのは、こうした男性優位社会からの脱却だ。

これは今後もっと先の作品……『ビッグ・アイズ』などでも顕著なのだが、バートンは“自身が体験できない痛み”に対して無神経な描き方を極力しないようにしている。勿論0ではないだろうし、バートン自身の描きたいものが優先されてはいるが、そうした部分には人一倍敏感にテーマを選んでいると思わされるのだ。それはやはり、自身が“理解されない”異形としての痛みを抱えてきたからなのだろうし、だからこそ、同じ“異形”へと変換することで理解できないその痛みや、社会情勢にも焦点を当てようとしているのだと思う。
『シザーハンズ』での障碍や今作でのフェミニズム表現も、あくまで“異形”という形で自分に理解できる形で表現しているのが、バートンの表現者としての誠実さだ。

また、多少踏み込み過ぎかも知れないが、前作までの女性恐怖症的な表現に代わるこうした描写は、今作撮影時にバートンが最初の結婚相手: レナ・ギエスケとの関係を解消し、90年代のバートンを公私共に支えたリサ・マリーとの関係が始まったことも多少影響があるのではないかと思っているが、これはあくまで余談として捉えて頂きたい。

幼児性の檻〜怪人たちの三つ巴

原作コミックから逸脱したヴィランたち

今作に登場する異形たちは幼児性に囚われている。ぬいぐるみに囲まれて生きていたセリーナも、ペンギンの乗るアヒルボートも、その象徴だ。
中盤、バットモービルを乗っ取って運転するペンギンの姿も、悪党というよりデパートの屋上の乗り物で遊ぶ子供そのものだ。計画通りいかずに癇癪を起こす姿も、正常な大人の姿とはとても思えない。
彼らは大人になりきれず、社会に受け入れられなかった存在として描かれる。

親に棄てられた奇形のペンギン。
上司に殺されるも、猫の命を貰って生き返ったキャットウーマン。
『バットマン』のキャラクターにこんなにも暗いオリジンが付与されているのは唯一この映画のみで、DCコミック原作を離れ、完全にティム・バートンの世界観だ。前作では後に原作コミックに逆輸入された設定もあったが、今作ではあまりにも強烈なその設定は原作に入り込む余地を許さなかった。

原作のペンギンは数いるヴィランの中でも心理的には正常であり、奇形の設定もなければ生魚を食べることもしない。キャットウーマンも同様で、彼女はバットマンと同じく、まったくの生身の人間であり、超能力の類は持たない。当然、9つの命なんてものもないので撃たれれば死んでしまうだろう。
後年、脚本のダニエル・ウォーターズのインタビューなどを見る限り、バートンは今作でも脚本にはかなり口を出しているようで、前作以上に好き放題に自身の世界観を詰め込んでいる。

異形の殺人者として描かれるヒーロー:バットマン

そしてそれは、幼い頃に両親を殺され、その日から一歩も抜け出せていないバットマンもまた同様だ。水槽の中、玩具の屋敷に仕込まれたボタンを押すとアイアン・メイデンが開き、そこからバットケイブへ繋がる滑り台が現れる。自宅にこうした仕掛けを作っているのは、バットマンも彼らと同じ幼児性の檻に囚われた異形だからだ。
バットマンは今作におけるクリスティーヌのような、穢れなき世界の理想像そのものではない。主人公である彼もまた、ペンギンやキャットウーマンと同じ、闇の住人であり、ファントムの側の存在だ。

今作でもバットマンは、原作の“原則:不殺”を完全に無視している。冒頭5分で敵をバットモービルの炎で火だるまにし、敵の身体に爆弾を巻きつけては、ニヤリと笑って地下へと落とす。それは自警としての正義を超えた虐殺にも見え、その笑顔には、それを愉しむ感情すら見え隠れしている。

ペンギンが地上に出た後、「両親の話だ。見つかると良い」と語る……ここには、ブルースからペンギンへの、同じ傷を持つ者への共感が見て取れる。が、ペンギンが地上で活動を始めると、今度はブルースが地下でペンギンの過去について調べるシーンが挿入されるのだ。ブルースはペンギンに、共感はしている。しかし、だからこそ疑う。それは本能に近い疑心だったのかも知れない。彼らは双方共に“怪物”であり“嘘吐き”なのだ。
同じようにブルースは、キャットウーマンへと変態したセリーナと初めて会った際、バットマンとして元のセリーナを救った際には非常に“そっけない”態度だったのが、その場ですぐに惹かれているように演出される。
その後に街で会った際も「君には陰の生活があるね」とセリーナに告げている。
彼らはそれぞれ境遇は違うのかも知れない。
だが、本質的には極めて同じ場所に存在し、異形同士が本能的に相手を理解していることが明示されているのだ。

異形同士の理解すら否定するバートンの“人間観”

しかし、今作はだからと言って、“異形同士の理解”が描かれているわけではない。“異形同士でしか分かり合えない”という絶望を描き、それすら最終的には否定する。

ペンギンは女性であるセリーナを見下し
キャットウーマンは障害者であるコブルポットを見下す。
彼らは互いに異形の世界の住人でありながら、それでも決して理解し合うことがない。『シザーハンズ』では、障碍者への善意に似せた悪意を描いた。だが今作では、そんなペンギンすら女性であるセリーナに歪んだ差別心を抱いてることが可視化される。これが、バートンの見る世界の真実の一端なのだとしたら、今作はあまりにも救いがない。

ペンギンは権力に固執し、その権力には性的欲求を満たしたいという欲望が見え隠れしており、それはキャットウーマンに対しても例外ではない。
ヴィランとして、対等な協力者としてバットマンを貶める計画を立てたはずが、性的な目を向けられ、それを拒んだことで殺されかけるキャットウーマンの慟哭は、作中最悪の絶望だ。
自らが異形であるはずのペンギンが「長男も次男も三男も……男も女も関係ない」と結論づけるのはペンギン軍団の爆弾による圧倒的な死の前だけであり、死を前にして初めて差別は存在しなくなる。『ビートルジュース』から続く、生より死の世界にこそ救いがあるというテーマ。

人間の持つ差別心とその裏側の善意が示すものとは……?

そうした人間の差別の象徴として、マックス・シュレックもまたもう一人の怪人だ。人間側の象徴でありながら、『吸血鬼ノスフェラトゥ』(1922)の主演俳優の名を冠しているのは意図的にやっていることだろう。ブラム・ストーカーの『吸血鬼ドラキュラ』を非公式に映画化したこの作品から名前を取った皮肉が、今作における“人間”の立ち位置を明確にする。この作品には、人間の存在が完全に排除されている。

このシュレックの善意を敢えて描くのが、ある意味『シザーハンズ』の答え合わせにもなっているのが恐ろしい。汚職を隠し、セリーナを殺し、ペンギンを利用した彼だが、家族への愛は繰り返し描かれる。
彼がゴッサム全体を巻き込んだ汚職を犯すのは“息子への遺産”を遺すためであり、その息子もまた、街がペンギンの部下に襲われた際にはシュレックの盾となり、終盤の仮装パーティーではそんな息子がペンギンに拐われそうになる身代わりをシュレックは自ら買って出る。
セリーナを殺し、蘇った姿を散々に口汚く罵りながら、亡くなった妻のことだけは決して悪くは言わない。

シュレックを徹頭徹尾悪人として描きながら、家族と相対する時だけは、その良心を敢えて描く。短い描写で、映画全体で言えば、なくても成立するようなカットを、わざわざ残す。
親に愛されずに棄てられ、最後は街中の子供を攫って家族という群体そのものを破壊しようとしたペンギン、
人間としての価値を認められず、女という理由で、死ぬことすら無価値に貶められたキャットウーマン……
その両者を裏切ったシュレックの善意で、“人間の無意識の悪意”そのものを描いている。

『オペラ座の怪人』オマージュ徹底比較!素顔という“仮面”

『オペラ座の怪人』……特にミュージカル版のオマージュと捉えられる要素は数多くあり、終盤の仮装パーティーのシークエンスはそのまま第二幕の「Masquerade/Why So Silent…?」であり、ペンギンの「招待されないから来てやったぞ」の台詞はそのままオペラ座のファントムの台詞だ。
シュレックが地下でペンギンに囚われた水の上檻も終盤でラウルがファントムに囚われる檻のオマージュ的だし、そこには何と猿までいる。『オペラ座の怪人』の猿と言えば、オープニングのオークションでも披露される、ファントムが地下に残した置き土産の猿のオルゴールだろう。
ダニー・エルフマンによる劇伴も、前作でのコミカルな曲調は廃され、徹底してクラシックでゴシック調な曲にクワイアも多用されている。

ブルースとセリーナが、仮装パーティーで踊るシークエンスでは、お互いが仮面をつけず、素顔でその場に現れる。
異形たちにとって、素顔こそが最大の仮面だ。そこでの、バットマンとキャットウーマンとしてした会話からお互いの正体に気づいたその表情。前作でヴィッキーに告白をしたときとはまったく違う。その先の絶望に互いに気づいた表情だ。
ウェイン邸でキスを交わしたときの、互いが敵として付け合った傷に触れまいと隠し、互いにアルフレッドを介して好意を伝え合う少し笑えるすれ違いからのこれは、あまりにも救いがない。

セリーナ:キャットウーマンは今作のヴィランだ。しかし、だからこそ、彼女は今作のヒロインとして存在している。
前作ヒロイン:ヴィッキーの話も劇中の会話で交わされるが、異形であるブルースの秘密に、ヴィッキーは耐えられない。異形は、異形同士でしか理解し合えないのだ。
ラスト、ブルースはシュレックがいる場でマスクを剥ぎ取り、セリーナの凶行を止めようとする。今作を含むシリーズ中、いやこれ以後の『バットマン』の名を冠した作品群でも、バットマンが他に誰かがいるシーンでマスクを自ら外すのは見たことがない。バットマンは闇の存在であり、ブルース・ウェインに重なってはならない。ヒーローは、仮面を取ってはいけないのだから。

けれど、彼はマスクを外す。しかし、仮装パーティーのシークエンスで分かる通り、彼らは仮面を外すことこそが仮装だ。ブルースとセリーナが理解し合うことも、共に暮らすこともありえない。彼らはバットマンとキャットウーマンとして闇に潜むときにしか分かりあうことは出来ない。『オペラ座の怪人』では、最後にクリスティーヌは仮面を外したファントムにキスをすることで、ファントムは救われた。今作は、互いに仮面を外すことで、彼らは救われない道を選ぶことになる。

セリーナからシュレックへの電気を帯びた死のキス……『オペラ座の怪人』のクリスティーヌから怪人へのキスと違い、愛のない、怪人から悪党へのキス。その口にあるスタンガンは、冒頭セリーナが人間だったころにペンギンの部下が落としたものを拾ったものだ。仮面を外したセリーナ・カイルとして人間マックス・シュレックを殺したからこそ、彼女はもう、戻れない。

名前を奪われた怪物……ペンギンは何者として死んでいったのか

もう一人のファントム:ペンギンの死に際も強烈な印象を残す。すべてを失い、スーツやハットもなく、選挙戦で「地下には鏡がないのか」と揶揄されたタイツ姿で、口から黒い血を吐き出しながらバットマンへの殺意を剥き出しにする。
お得意の傘を模した銃を手に取り、しかしそれがおもちゃの傘だった情けない最期。
誰にも愛されなかった彼が、光に憧れた彼が、喝采も賞賛もなく、冷たい地下で、宿敵バットマンの前で静かに死んでいく。彼を看取り、水に沈めるペンギンたちの切なさ、沈んでいくペンギン、オズワルド・コブルポットの哀しさ。

「人間には名前がある」と叫んだ彼は、最終盤には「オズワルドと呼ぶな」とペンギンに戻る。
悪事を暴かれ、街を追われ逃げていくペンギンが辿り着く場所が、かつて自分が捨てられた橋なのも皮肉が効いている。
ジョーカーと同じく、部下すら簡単に撃ち殺すペンギンが信じていたのは、自分を育てたペンギンたちだけだったのだろう。
実際、同じフリークスだったはずの部下たちも、最後のピンチの中で一人また一人とペンギンを見捨てて逃亡した。
最終盤でのバットマンでの戦闘中に叫ぶ「俺は仮面がなくても生まれつきの鳥人間だ」は今作から『オペラ座の怪人』への最大のアンチテーゼだ。三人のファントムの中で、彼だけがずっと醜い素顔を隠そうとしなかった……。

総括:メリー・クリスマス……初期ティム・バートンの終着点

今作はファントムたちの物語だ。
人間に憧れ、人間になれなかった怪人たちの物語。クリスティーヌもラウルもいない、仮面を外せない『オペラ座の怪人』。

『シザーハンズ』で“拒絶される異形”を描いたバートンは、今作では“異形同士の理解”すら否定した。
ブルースとセリーナもおそらく、この先二度と再会することはない。孤独と孤独を重ねても、それは孤独を埋めることには決してならない。どこかで生きているという予感……それがブルースにとっての救いなのか絶望なのかもわからない。

次作『ナイトメアー・ビフォア・クリスマス』でバートンは“異形だけの世界”のハッピーエンドを描くことになるが、あれは監督であるヘンリー・セリックとディズニーの意向が強く、本来のバートン案ではあの形にならなかったという話もある。
だからこそ、ここまで深い絶望を描いたバートンは、一度自分自身を見つめ直すかのように、幼き日の憧れを『エド・ウッド』で表現したのだろう。今作はバートン初期作品の、底の底。バートンの絶望がどこまでも描かれた、それ故に、あまりにも哀しい大傑作だ。

「メリークリスマス……メンに幸あれ、ウィメンにも」
この“メン”が言語の意味としては「人々」という意味でありながら、わざわざ“ウィメン”=女性に、と付け足すところに、今作のテーマの一つがある。ブルースには、人々から無意識に弾かれた者=女性の存在が見えている……そしてその中には、彼が愛した、二度と会えない人の姿もあることも。バートンの世界の異形たちが救われるまでには、まだここから長い時間が必要だ。

評価/鑑賞日

⭐ 5.0 / 5.0
📅 2025/07/23(Hulu)

🎬 ティム・バートン初期作品考察レビュー

フランケンウィニー(1984)

ピーウィーの大冒険(1985)

ビートルジュース(1988)

⛄️ ティム・バートン“異形の孤独”考察レビュー

バットマン(1989)

シザーハンズ(1990)

ナイトメアー・ビフォア・クリスマス(1993)

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