ティム・バートン全作品レビュー8
――色褪せない白黒のフィルムの中に浮かぶ、眩しいほど輝いた映画作りのキセキ
作品データ
原題:Ed Wood
監督:ティム・バートン
脚本:スコット・アレクサンダー
ラリー・カラゼウスキー
音楽:ハワード・ショア
撮影:ステファン・チャプスキー
上映時間:127分
出演者:
エド・ウッド:ジョニー・デップ
ベラ・ルゴシ:マーティン・ランドー
ドロレス・フーラー:サラ・ジェシカ・パーカー
キャシー・オハラ:パトリシア・アークエット
バニー・ブレッキンリッジ:ビル・マーレイ
アメージング・クリズウェル:ジェフリー・ジョーンズ
ヴァンパイラ:リサ・マリー
トー・ジョンソン:ジョージ・スティール
オーソン・ウェルズ:ヴィンセント・ドノフリオ(声: モーリス・ラマーシュ)
ロレッタ・キング:ジュリエット・ランドー
ポール・マルコ:マックス・カセラ
コンラッド・ブルックス:ブレント・ヒンクリー
トム・メイソン:ネッド・ベラミー
ジョージ・ワイス:マイク・スター
※本レビューにはネタバレを含みます。
総文字数:10669文字
読み終わるまでの時間:約27分
製作背景:「エド・ウッドを観て育った」バートンが監督を執った理由
“ハリウッド史上最低の映画監督”と呼ばれた男:エド・ウッドの半生を描く、ティム・バートン監督の伝記映画。
今作の企画は元々、脚本を書いたスコット・アレクサンダーとラリー・カラゼウスキーにより、ジョン・ウォーターズの許に持ち込まれた。“世界で一番下品な人間”の座を競い合う伝説のカルト映画『ピンク・フラミンゴ』(1972)の監督で知られ、自身もエド・ウッドに影響を受けたというウォーターズはこの仕事にピッタリだと思われたが、すでに『ヘアスプレー』(1988)や『クライ・ベイビー』(1990)でメジャーのフィールドに立っていたウォーターズはこれを拒否。
企画が宙に浮いてしまうことを恐れたアレクサンダーとカラゼウスキーは次に南カリフォルニア大学の同級生であるマイケル・レーマンに声を掛け、今作の映画化企画は動き出した。当時『ハドソン・ホーク』(1991)の失敗でスタジオからの信用を失っていたレーマンは、スタジオを納得させるためにバートンをエクゼティブ・プロデューサーとして指名したが、なんとバートンはこの自身の憧れの対象であるエド・ウッドの映画化を自ら監督することを主張。逆にレーマンの方が製作総指揮を執ることになってしまう。
結果として今作はTV放送でエド・ウッドの映画を見て育ったと言うバートンのフィルモグラフィーにおいて、あまりにも重要な作品となった。
バートンが現実に存在した、実在の“異形”への究極の理解と共感を描いたファンレターでもある今作は、バートン作品の中で最もリアルで、そして同時に、バートン作品の中で最もファンタジーな究極の伝記映画であり、優しい御伽噺だ。
モノクロとチープな造形にこだわった“あの日の”エド・ウッドの再現
幻の未公開作品『ナイト・オブ・ザ・グールス』での幕開け
今作の映像は全編モノクロで撮られ、そこにはエド・ウッドが映画を撮った50年代への愛と、バートンがゴシック・ホラーに傾倒していた自身の原点への憧憬が溢れている。
同時に、この映画が興行的に振るわなかった理由もそこにあり、公開時は1994年。同年の映画には『スピード』や『フォレスト・ガンプ/一期一会』があった。映像技術は日進月歩、CGも映画に使われ始め、それまで実現不可能だった画をフィルムに刻みつけていたそんな時代に、敢えてモノクロに回帰した映画のウケが悪かったのは当然のことだろう。実際、今作の配給にはほとんどの会社が難色を示し、最終的に『ナイトメアー・ビフォア・クリスマス』で組んだ《タッチストーン・ピクチャーズ》での公開となった。
冒頭は今作では登場しなかったエド・ウッドの『プラン9・フロム・アウタースペース』(1957)の次の作品、『ナイト・オブ・ザ・グールス』のオマージュから始まる。この映画も、現像代が支払えず劇場にかけられることがなかった幻の作品で、死後差し押さえられていたフィルムが安く買い叩かれたことで日の目を見たという逸話がある。
アメージング・クリズウェルのナレーションに始まる、当時の映画を意識したオープニング・クレジットから、普段のバートンらしい映像と、あの頃の再現が混じり合う。
明らかに作り物とわかUFOのミニチュアに、水中で動くリアルなタコは劇中の『怪物の花嫁』(1955)へのオマージュだろうし、それが水から出てくるとストップモーションになるのはバートンらしい映像作りだ。そのストップモーションも、『ビートルジュース』や『バットマン』でのものよりカクカクした不自然な動きをしており、その辺りのチープさにエド・ウッドへのリスペクトや、バートンが同じように影響を受けたレイ・ハリーハウゼンへのオマージュも感じる。
ミニチュアによる《ハリウッドサイン》と街並みから現実の画、映画本編へと移っていくのは、お得意のバートン節である以上に、まるでエド・ウッドからバートンにバトンが渡されたかのようなシークエンスで、ここから既にグッときてしまう。
エド・ウッドの生きた時代を甦らせたバートンのこだわり
ストップモーションやUFOの造形が妙にチープなのは、恐らく意図的にあの時代を再現しようとした結果だ。何しろこの同じ時期には、あのストップモーションの名作『ナイトメアー・ビフォア・クリスマス』の原案・製作に携わっているのである。バートンの元にいる製作チームが本気で作れば、当時もっと緻密なものが作れたはずだが、それを敢えてチープに作る。これは、エド・ウッドへの最大の賛辞と返礼でもある。
劇中で再現されるエド・ウッドの映画たちは、当然撮影中(という劇中シーン)なのでカット割や見せる角度は微妙に実物とは違うものの、実際の映画のシーンにそっくりで、バートンにとってその作品たちが、本当に血となり肉となっていたことが窺える。
その他にも、劇中エド・ウッドとベラ・ルゴシが出演するバラエティ・ショーの生放送のカメラや、ヴァンパイラの登場するホラー番組など、バートンが幼い頃に観た数々の映像を1990年代の世界に再現している。まさに偏愛とも言うべきこだわりでエド・ウッドが生きた時代を蘇らせているのだ。
エド・ウッドとバートン……映画に魅せられた異形を繋ぐジョニー・デップの青き情熱
エド・ウッドを演じたジョニー・デップは『シザーハンズ』に続き2作目のバートン作品への出演。まだ若き日のデップの演技がそのままエド・ウッドの青い情熱を表現する。
エド・ウッドは、楽観的で、どこか社会の正当な輪からは外れた“異形”だ。撮影中のセットに入り込んで目を輝かせたり、《ストック・フッテージ》(= 当時の映画用のフリー映像素材)を観ては自分ならどんな映画を撮ると夢を語り、大好きな映画俳優とその出演作を観てはうっとりと陶酔する、好奇心旺盛で映画が大好きな男……まさに、映画に魅せられ、映画を撮るために生まれたアーティストそのものである。
だからこそ、彼は“普通”には生きられない。
恋人であるドロレスに慰められ、家賃を払わせ、家事をさせ、台本のタイプまでさせた上でスポンサーになりそうな女性がいれば平気で主演をドロレスから差し替えてしまう。
どんなに新聞に自分たちの演劇の酷評が載っても、仲間の前では至極ポジティブに振る舞い、しかし夜中になるとドロレスに不安を吐露する。こうした不安は、創作を志す若い者なら誰もが一度は通る不安だ。オーソン・ウェルズという先達への憧れと羨望、自分の現在の年齢でその先達は何をしていたのか?どんなに慰められても、今は下積みだと言われても、そこには「一生下積みで終わったら?」という不安が付き纏う夜はある。それでも朝になると、また自分は天才だと信じて、根拠のない自信を振り撒きながら前へ前へと進んでいく……。
この創作者のよくある姿……歪さと純粋さの狭間にある、常人からすれば狂気にも近いサマを、デップはあまりにもキラキラした瞳で演じる。
世間的な評価としてバートンの映画には“異形愛”があるとよく言われる。けれどバートンの異形は、一般的な異形の存在、怪物や死霊を指すわけではない。『ビートルジュース』のリディアも、『バットマン』のブルースもまた異形であり、『シザーハンズ』のエドワードや『バットマン リターンズ』のペンギンに連なる存在である。
今回のエド・ウッドもそうだ。バートンの異形は、形=容貌が“異なる”存在ではなく、魂が歪な存在……それは幼き日に、社会的通念や、両親の求める理想の子供像を体現できなかったバートン自身の孤独に通ずる。ゴシック・ホラーへの傾倒や死後の世界への共感もまたバートンの本質ではあるが、本来はそうした異形の、人の世に交われない姿そのものに、幼少期のバートンの孤独は共鳴していたのではないだろうか。
書いた脚本をすぐに読ませて感想を聞きたがり、家にもたくさんの映画のポスターが貼られている。そして何より女装が趣味で、恋人の服は勝手に着てしまうし、戦場にすら女性物の下着を着て出向いたと語る。
そんな他者には理解し難い異質さに、バートンは自分自身を見たのだ。
エド・ウッドは世間的な評価を得られず、バートンは世間に広く受け入れられたという違いはあるとしても、そこに同じ苦しみと痛みを、それを分かち合える友人がいることへの喜びを、バートンは自分自身に重ねて撮った。
だからこそこの役はやはり、デップにしか出来なかったのだろう。『シザーハンズ』で不幸なまま終わった自分自身の表像に、次は自分自身の情熱と原点を演じさせなければならなかった。
ベラ・ルゴシとエド・ウッド≒バートンとジョニー・デップ
マーティン・ランドーが演じた老いた名優の悲哀
この映画のもう一人の主役は、マーティン・ランドー演じるベラ・ルゴシだ。往年の名俳優、『魔人ドラキュラ』(1931)のドラキュラ伯爵の役と言えば、その顔を思い浮かべられる人は2025年現代でも多いはずだ。
老いて人気が下火になったベラ・ルゴシとの友情もこの映画の軸であり、ランドーのルゴシは第67回アカデミー賞でアカデミー助演男優賞を受賞、またアカデミーメイクアップ賞も受賞し、この作品の賞レースでの受賞を一人で担っている。
一説にはバートンがこの映画のモノクロ撮影にこだわった理由の一つには、ハンガリー出身ルゴシの目の色がわからなかったから、というものがあるとも言われている。そのくらいに、ルゴシの存在はこの映画に必要不可欠だ。
薬物依存に陥って金に困り、その薬物依存を抑えるために鎮静剤を打つ。身体には周りが目を逸らすほどの注射針の跡があり、往年の大スターが僅か1000$で出会ったばかりの名も無き映画監督の映画に出る。
スタジオに来るなり金をせびるが、それでも威厳だけは失わず、共演者にサインを求められれば上機嫌でサインを書く。しかし、そこでボリス・カーロフの話が出ると激昂してペンを投げ捨てるプライドもある。そんな老いたるルゴシの孤独と痛みを、ランドーは完璧なまでに演じ切り、ルゴシの“ハンガリー訛り”までも完璧に再現した。
「ハリウッドは人を噛んで吐き捨てる。私は食べかすだ」という言葉は、現代でもリアルに響く。ルゴシに出会って興奮するエド・ウッドにドロレスが言う、「もう故人かと」も、悪意がないからこそその言葉は残酷だ。
近年観なくなった俳優やタレントを「あの人は今」なんて揶揄するのは、今も昔も変わらない。映画の製作会社の人間……散々一緒に仕事をしてきた、そうした俳優で稼いできた立場の人間すらそれを言うのだ。
妻に逃げられ、映画会社からもそっぽをむかれ4年映画に出ていないと語り、犬たちと失業年金で暮らす孤独な独居老人の姿には、現在も変わらぬハリウッドの、芸能の闇がある。
ただ、この部分の描写に関しては多少誇張もあるようで、実際のルゴシはハリウッドでの映画出演は確かに減ったり、脇役に回されることは多かったものの、エド・ウッドの作品に出るまでも仕事は0ではなかったし、4度の離婚は経験していたが晩年は5度目の妻と穏やかな暮らしの中で最期を迎えてもいる。
このあたりはエド・ウッドとルゴシの友情を物語上の中心軸にするためのフィクションと考えて良いだろう。
(重篤な薬物依存のため撮影の度に“モルヒネ代”として金を渡していたのは事実だと言うのだからやはりかなり危険な状態ではあったのだろうが)
歳を超えた友情の裏にあった薬物依存と自殺未遂
ルゴシが最後の仕事相手となったエド・ウッドに依存し、夜中に呼び出したり自殺未遂をして「一緒に死んでくれ」と銃を向けたことは、現実にあった出来事だ。
ただ、これは時系列が若干違い、実際には『グレンとグレンダ』の撮影後、『怪物の花嫁』撮影前のこと。説得には次作の撮影として『怪物の花嫁』の約束をしたのが事実だそうだ。
劇中ではこの自殺未遂の後にエド・ウッドによってルゴシは施設に強制入院させられるが、ルゴシの入院や薬物中毒のカミングアウトに関してもエド・ウッドは関与していないと思われる。この辺りも時系列を整理するための創作と考えて良い。
それでも晩年、ルゴシとエド・ウッドが、歳は離れていても無二の親友であったことは真実で、ロバート・クレーマーの書いたルゴシの伝記作品には「晩年のルゴシを助けようとする者は誰もいなかった。エド・ウッド以外にはね。本当に彼だけだったんだ」という一文もあり、エド・ウッドの言葉として「僕はね、ベラほど思慮深くて面白い人間はこの世に二人といないと思っている」というものも登場する。
ルゴシを献身的に助けるエド・ウッドの姿は監督と俳優という損得を超えた友情がある。
勿論、実際の姿とは違いがあるのかもしれない。それでも、そこに確かな絆があったからこそ、ルゴシは最後までエド・ウッドの映画に出続けたのではないだろうか。
フランケンシュタインの怪物の役を断り、怪奇映画より今は怪獣だと吐き捨てたルゴシが、エドの映画には出演してタコと格闘したのも、老いて金銭的に困っていたからだけではないのだろう。
(ただ、エド・ウッドの伝記にもルゴシ本人と書かれたこの格闘に関しては、映像を観ると代役を立てたとしか思えない部分もある。年齢や体力に限界があったのも確かではあるのだろう)
ルゴシとエドの関係は、バートンとデップにも重なる。
今作ではまだ後の黄金コンビと呼ばれる前夜の二人だが、この映画がなかなか配給元が決まらず企画が進まなかった際にも、『シザーハンズ』でのバートンへの恩義から数々の映画の出演依頼を断ってデップはこの映画にこだわったとも言う。
2025年現在、デップは『ダーク・シャドウ』以来10年以上バートン作品に出演がなく、彼自身プライベートでの様々な問題からハリウッドと距離を置いた状態だ。しかし、2022年にはバートンはデップとの共演を望む旨をインタビューで話し、デップもバートンのドキュメンタリー『Tim Burton:Life In The Line』にてインタビューを受けている。近作での二人の共演には実はあまり良い評価をしていない筆者ではあるが、そろそろまたこの二人の本当の意味での復活作も観たいものだ。
異形の世界から離れる者……ドロレスに見る『シザーハンズ』の再演
エド・ウッドはいつでもどこでも映画のことを考えていた。今作の物語は、そのあまりにも無邪気で純粋な姿を、彼が映画作りに喜びを感じられた最良の時期だけを描いている。
熱はあるけど、熱だけの人。
想いはあるけど、技術がない人。
けれどその熱こそがものづくりにおいて何より大切なことだ。
その空回りする愛情と熱意のすべてを、悪いところも良いところも丸ごと肯定して、共感して、バートンはこの“異形”の物語を撮り上げた。
これは異形と、異形を愛した異形たちの物語だ。だから、ドロレスは途中で退場する。彼女は、それを理解できなかった人だから。
人前で女装をし、それを映画にまでするエド・ウッドを彼女は理解できず、撮影所の人間のことも“変な人”ばかりだと感じる。
実際、エド・ウッドの生きた1950年代は、公開時の1994年よりももっとずっと女装する男性への偏見は強かったはずだ。ドロレスはバニーと三人でいるシークエンスでバニーが性転換への希望を語る際にも「小さな声で」と言っている。
彼女自身、冒頭劇団で共に作品作りをしていた際も、エド・ウッドが悩んでいた際も“根拠のない自信と楽観”に満ちていた。けれど、段々と彼女はその群れから外れていったのだ。
『怪物の花嫁』の打ち上げパーティーで女装してルゴシと踊るエド・ウッドに「みんな異常よ」と言って去る彼女の姿は、『シザーハンズ』でのキムの姿にも重なる。恐らくバートンは、ドロレスにはここまでの作品の“異形の否定”の役割を背負わせたかったのだろう。
そんなドロレスは実際にはこの後作曲家となり、プレスリーの曲を作るなどして大成する。劇中「普通の人生を」と言った彼女が、事実ベースではエド・ウッドとは違い芸術の世界で一番の成功者になったのだから皮肉なものだ。
ただ勿論、映画前半のエド・ウッドのドロレスの扱いは人として褒められたものではなく、彼女が去った理由は映画で語られていないことも沢山あったのだとは思う。これはあくまで、映画としての役割だと考えた方が良いだろう。
空回る情熱で人を動かした“史上最低の映画監督”
「俺が欲しいのは金になる映画を4日で撮る監督だ」と言われた通り、エド・ウッドは信じられないほどの早撮で知られている。
テイクは1回で済まし、ロケの撮影許可も取らない。脚本の矛盾もセットのチープさよりも、とにかく撮り切ることを優先する。
普通なら撮り直すようなシーンもまったく撮り直さない姿には、本当にこの人は映画が好きなのか?とも思う。
でも、違うのだ。
お金がなくて撮影所から追い出されても、自ら資金を集めて映画を作る。なんとしても作る。細かいことは気にせず、とにかく映画を作りたい、完成させたいのだ。
『怪物の花嫁』の撮影中に自分の役柄についてどんな役か現実的な説明を求めるドロレスと、感覚人間で説明より撮影を優先するエド・ウッドのエピソードは、トムクルーズが語った『シザーハンズ』降板のエピソードのそのままで、バートンはエド・ウッドのそうした撮影の在り方に自分を重ね、自身の経験を物語に語らせたのだろう。
実際のトー・ジョンソンはそれ以前から端役デビューはしていたようだが、劇中のプロレスを観て興奮して、そのレスラーをその場で映画俳優として誘ってしまうエド・ウッドの姿はとにかく愛らしい。
ジョンソンは『怪物の花嫁』でドアにぶつかるNGを、プレミア試写会でもやっていたが、きっとバートンは「そんな人だったら良い」という夢をそこに反映させてもいるのだろう。
周囲のスタッフも、撮影監督が色弱だったり、一番の友人であるバーニーは性転換を望んでいたりと、エド・ウッドの座組には通常の映画業界の常識からは外れた存在ばかりが集まっていた。
エンドロールで語られるその後の関係者たちの軌跡を見ても、エド・ウッドに関わった人々は誰もが魅力的で、けれど決してA級にはなれないB級で、どうしようもない人々だったかも知れない。
彼らは映画業界の中の“異形”だった。
しかし彼らは多くの人に影響を与えるという“偉業”も成したのだ。
その作品は映画としての評価は低くくとも、誰かの胸に強烈な爪痕を遺した。買い手がつかず、TV業界に安売りされた“どうしようもない映画”を繰り返し観た子供たちが、現代の映画業界を作り上げたのだ。
映画を作る上での資金繰りに困り、何度も形ばかりのパーティーをやって蔑まれても。
半ば詐欺のような言葉で捕まえたスポンサーにすら、映画を良いように作り替えられ、身内の宣伝に使われても。
中盤の『怪物の花嫁』のプレミア試写会は観客からの大ブーイング……それはもはや暴動と言っても良い。それでも、彼らは映画を諦めたりしなかった。ただただ楽しそうに、物を作る歓びに満たされていた。
ドラキュラ伯爵に捧ぐ……二人だけで撮った最後の映画
晩年のルゴシにとっても、エド・ウッドとの映画作りは人生最後の、最良のときだったのだと思う。
大暴動となった試写会を「あれこそプレミアだ」と言い、街中でその最後の台詞を暗誦するルゴシの堂々たる姿は、まさに名俳優ベラ・ルゴシの最後の一人舞台。拍手で迎えられ、完成品を観られなかった映画を「心の中にある」と言ってこの世を去ったルゴシの葬式には、エド・ウッドとその仲間の姿しかなかった。
それでも、ドラキュラの衣装を身に纏う彼の姿は、永遠に仲間たちの目に焼き付けられたに違いない。
退院ではなく、その実は病院を強制退去させられたルゴシの家の前で、エド・ウッドと二人だけで映画を撮る姿は物哀しくも、やはりどこか希望に満ち溢れていた。
実際にはルゴシの葬式はここまで物哀しいものではなく、葬儀費用をフランク・シナトラが出していたりということもあり、往年の名俳優を葬り出す儀としてそれなりの形ではあったと言う。ただ、少なくともバートンは、あの映画『プラン9・フロム・アウタースペース』とエド・ウッド、ルゴシの姿を観て、そこにこうした物語を想像し、思い描いていたのだ。
誰かの心に残った作品こそが、真に意味を持つ。バートンの心に、創作性に、確かに今も彼らの魂は遺っている。
映画に託したラブレター〜バートンの“優しい嘘”
この映画のラスト20分程度、『プラン9・フロム・アウタースペース』の撮影からのシークエンスは、この映画最大の“嘘”だ。
ここからは伝記ではなく、バートンからエド・ウッドへのラブレター。“あったかも知れない物語”で、“あって欲しかった物語”。
実際には、エド・ウッドは彼が憧れたオーソン・ウェルズには、生涯で一度も会うことはなかった。けれどこの映画の中で、ウェルズは冒頭でエド・ウッドが憧憬と羨望の中で語った『市民ケーン』(1941)について、意志を貫き、映画業界のオトナたちに1コマも触らせなかったと語る。「映画作りは報われますか?」「成功すればな」という会話も、「夢のためなら闘え、他人の夢を撮ってどうする?」という言葉も、これはバートンからエド・ウッドへの時を超えた激励であり、自身が貰いたかった言葉でもあるのかも知れない。
同じ悩みを抱え、欲しかった言葉を、欲しかった人に言ってもらう。そんなシーンを映画のラストに用意することで、エド・ウッドの作品と人生を讃えてみせた。ルゴシの代役を立て、その演技に「ルゴシが甦ったようだ」とはしゃぐ姿は、そのまま撮影中のバートンの姿だ。きっとこの映画を撮ってる間、ずっとバートンはあんなふうに無邪気に笑っていたんじゃないだろうか。
実際の『プラン9・フロム・アウタースペース』は、プレミア試写会が行われるような大規模作品にはなり得なかった。それどころか映画には買い手がつかず、その売り込みに尽力したプロデューサーが亡くなったことで、エド・ウッドはアルコール依存に陥り、その後は映画業界にはほとんど関わることが出来なかった。極貧生活の中で、ポルノ小説を書いて食い繋ぎ、失意のうちに彼は死んでいったのだ。
ここまでが、それでも自分の才能を信じた、明るいエド・ウッドがいた最後の時期だった。
この映画は、それだけを描いた。仲間たちと共に試写で映画を観、舞台挨拶でルゴシへの感謝を述べ、彼の最期のシーンを見て涙する。
「これこそ僕の生涯の作品だ」
そうして試写会が終わると、彼はキャシーにプロポーズをする。エド・ウッドを最後まで支えた女性。
遊園地での初デートではお化け屋敷に大喜びし、怪奇映画に取り憑かれた子供のままのエド・ウッドの、そのままを愛してくれた女性。『怪物の花嫁』の試写会のブーイングから逃げる彼のためにタクシーに身を乗り出し、女装趣味を否定せず、ルゴシに「羨ましい」とまで語らせた最愛の人。このタイミングのプロポーズや、この車のエピソードは実際の出来事とは違うそうだが、彼女がエド・ウッドが失墜した晩年も寄り添い続け、その死後に再婚もしなかったことは事実だ。
彼女は本当に、生涯エド・ウッドを愛した。その人に、生涯最高の作品を作り、その完成試写の直後にプロポーズして車で走り出すところで、今作は幕を閉じる。実際のエド・ウッドの映画人生は、ここで終わったも同然だった。けれど、この映画で彼らが走り出すその先には、あまりにも眩しい未来だけが広がっている。
そんな、最高の瞬間を切り取って、この映画は終わるのだ。
総括:バートンが“現実”を描く時……創作の原点に込めた祈りと第二幕の始まり
実際、今作は予算1800万$、全米興収約588万$と、この規模の映画としては大赤字で、2025年現在までのバートン作品史上でも興収的にはかなり低位置だ。そりゃあそうだろう。世間はエド・ウッドの生涯になんて興味はない。彼の映画は評価にすら値されないと言われ続け、“カルト人気”と言うより“カルト不人気”……特に監督作ではないがある種の代表作である『死霊の盆踊り』(1965)などは、“Z級クソ映画”なんて触れ込みで半ば肝試しのように鑑賞を勧める人もいるくらいである。
けれど、今作はそんなエド・ウッドに捧げる、究極に個人的な映画であり、同時に異形への共感と親愛に満ちた、ティム・バートン史上でも上位の傑作だ。
確かにエド・ウッドは“最低の映画監督”と呼ばれ、訳のわからない、つまらない映画ばかりを撮ったかも知れない。けれど、彼に憧れる映画監督はバートンだけではない。デヴィッド・リンチ, サム・ライミ, クエンティン・タランティーノ……稀代の芸術家として名作を次々と生み出した彼らはある意味で、間接的なエド・ウッドの作品でもあるのだ。
ティム・バートンという一人の奇妙な天才もまた、その孤独な幼少期にエド・ウッドの作品を楽しみ、そこに自身の創作への憧憬を重ねながら、ハリウッドで沢山の映画を撮り、着実に成功と力を手に入れていった。ディズニーという巨大企業で作品をお蔵入りにされながら、バットマンというアメコミの特大IPを自身の色に塗り替え、古巣ディズニーに蹴られた企画を持ち帰るまでに成長したのだ。
今作は、バートンの描く“異形”が、世界から弾かれ続けた異形が、仲間たちと共に世界に受け入れられるまでを描いた。その後半部分は、御伽噺で、“優しい嘘”だったかも知れない。けれど、『バットマン リターンズ』で一度自身の闇と孤独を極限まで描いてしまった当時のバートンには、一度こうして自身の原点へ帰ること、そしてそこに救いを見出すことが必要だったのだと思う。
バートンは、必ず彼の創作の節目には“現実”の作品を描く。
現実と空想を曖昧に、“何処でもない世界”を描くバートンが、伝記物語である『エド・ウッド』や『ビッグ・アイズ』、現実と空想をハッキリ二分した『ビッグ・フィッシュ』を描くのは、彼の中で創作のフェーズが変わる合図とも言える。今作はその一作目。ここから『ビッグ・フィッシュ』のトラウマ治療の完結までが、ティム・バートンの第二章とも言える。
だからこそバートンはこの後、現代のエド・ウッドとして、まるで『プラン9・フロム・アウタースペース』を再現するかのように『マーズ・アタック!』を撮り、何よりも愛した怪奇映画への回帰として『スリーピー・ホロウ』を撮ったのではないだろうか。
そう考えれば、『マーズ・アタック!』での世間からの酷評もまた、バートンからすれば「してやったり」だったのかも知れない。
……更にそうした失敗の弊害としてその後、本当に商業監督として、THE・お仕事映画『PLANET OF APES/猿の惑星』を撮るところまで含めて、ティム・バートンの人生もまた一本の映画のようなものだ。
“優しい嘘”でエド・ウッドの人生を包み込んだバートンは、後の『ビッグ・フィッシュ』にて、嘘と御伽噺の優しさを、自分自身の過去に捧げることになる。今作はそんなバートンのトラウマ治療期における最初の一作であり、同じ夢を見た先達に捧げる感謝と愛情のこもった手紙なのだ。
⭐ 4.0 / 5.0
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