ティム・バートン全作品レビュー5
――今も雪を降らせ続けている……伸ばした手が誰かを傷つける、誰より優しいカイブツのお話
作品データ
原題:Edward Scissorhands
監督:ティム・バートン
脚本:キャロライン・トンプソン
原案:ティム・バートン
キャロライン・トンプソン
音楽:ダニー・エルフマン
撮影:ステファン・チャプスキー
上映時間:105分
出演者:
エドワード・シザーハンズ:ジョニー・デップ
キム:ウィノナ・ライダー
ペグ:ダイアン・ウィースト
ビル:アラン・アーキン
ケヴィン:ロバート・オリヴェリ
ジム:アンソニー・マイケル・ホール
発明家:ヴィンセント・プライス
ジョイス:キャシー・ベイカー
マージ:キャロライン・アーロン
隠居老人:スチュアート・ランカスター
アレン巡査:ディック・アンソニー・ウィリアムズ
※本レビューにはネタバレを含みます。
総文字数:10010文字
読み終わるまでの時間:約25分
製作背景:キャロライン・トンプソンとの間に感じた異形への共感
初期ティム・バートンの大傑作にして、俳優:ジョニー・デップとの黄金コンビの初共演作。
恐らく観たことはなくともタイトルとあらすじくらいは知っている人も多いであろう、90年代ファンタジー映画の金字塔だ。
今作の脚本家であるキャロライン・トンプソンは、脚本家としてのキャリアを築く以前の1983年に『ファースト・ボーン』という短編小説を書いていた。こちらは邦訳もされていない極めてマイナーな作品ではあったが、それを読んだバートンが彼女との間に創作的親和性を感じたことで、今作の企画は持ち上がる。10代の頃から着想したアイディアをスケッチブックに書き溜めていたバートンは、“怪物の胎児”の妊娠・中絶を描いたトンプソンの物語と、そのスケッチの中にあったキャラクターとの間に心理的共通点を見出し、彼女と共に脚本を書き上げたと言う。
バートンは前作、前々作でタッグを組んだワーナーに自ら今作の脚本と企画を持ち込んだが、ワーナー側はこの脚本を理解できずに難色を示し、結果としてその上映権は20世紀FOXに売却されて製作が始まった。約2億$を超えた興収を記録した『バットマン』をしても、まだバートンの創作が完全に理解されるには足りてなかったということだ。
両手がハサミであることで、人と触れ合うことができない異形の人造人間の孤独……デビュー作『フランケンウィニー』から連綿と脈打つ、ティム・バートンから『フランケンシュタイン』へのオマージュ作品の一つであり、バートン自身の“異形への愛”と、その異形に自らの孤独を重ねた、あまりにも暖かく、優しく、哀しい、雪の日の御伽噺だ。
二面性のあるデザインとバートン流超科学
今作におけるデザインは、常に二面性を意識しているように思う。カラーや造形が両極端になるように設計されており、それが物語の中での“異質感”を強める。
ペグやキムの住む街のカラフルで現代的な家屋の数々と、その街から外れた山の上に聳える、エドワードの住む漆黒でゴシックな屋敷。街での撮影はフロリダ州タンパ近郊の町に実在する現役の住居を用いて行われており、この家屋を住人の許可を得て塗り替えて使用している。その外れの山の屋敷は、遠景の合成になると明らかに“浮いて”いるが、これも恐らく半ば意図的にそう映しているのだろう。前作と同じく、現代の都会の中に異界を置くバートンの意匠だ。
街の家屋はあまりにも明るいパステルカラーで、その色彩は妙に不自然で観ていて落ち着かない。更にそんな街の住人たちは、朝になると皆が同じ時間に、一様に車に乗り込み家を出ていく。
こうした街のイメージは、バートンが幼少期に暮らしたバーバンクの思い出から着想していると言い、幼き日のバートンにとって、世界がどれほど異常で、空虚に見えていたのかが垣間見える表現になっている。孤独な天才の描き出すファンタジーの世界は、同時にあまりにも異質なヒューマンホラーだ。
ここでのダニー・エルフマンによる劇伴も少しホラー味のある旋律なのが象徴的で、二人の創作家の目線の重なり合いが感じられる。
今作をもってバートンは、後の作品でも繰り返し描かれる自身の“異形性”と世界との関係を、ようやく真の意味で映像化することが出来たのではないだろうか。
エドワードの屋敷の異質さは、そのままエドワード自身の異端と孤独を表しているが、一度その門を潜れば、そこに現れるのは、色彩豊かに手入れされた美しい庭園だ。街の人工的で不自然な色彩と違い、屋敷の庭の花たちには、自然の美しさと明るさがある。後の街での描写でこの花たちの飾りはエドワードのハサミによって行われていたことが明示され、エドワードの芸術的なセンスにはバートン自身の表像が重なる。
不自然でカラフルな家の庭の空虚さと、無骨で薄靄のかかった屋敷の庭の鮮やかさ。この対比は、公開年1990年におけるアメリカ都市部の中産階級社会の不安も影響しているのではないだろうか。一家に1台、ないしは2台の車を持ち、経済成長によって豊かな生活を手に入れた一方、そこには社会全体の落ち込みや不安も共存していた時代だ。そうした時代の空気感が、あの街の明るいがどこか空虚な雰囲気に繋がっているのだろう。
冒頭のミニチュアを用いた街や屋敷、そこから実写へのシームレスな切り替えも相変わらずのお家芸で、発明家の作ったクッキー焼き機のスチームパンクなデザインも本当に見ていて楽しい。バートン作品特有の、本格SFではなく、限りなくファンタジーな表現としての超科学。そこにどんな科学技術やシステムがあるのかが問題なのではない。あくまで、世界を語る構成要素としての超科学だ。
ゴシックな屋敷の中にそうした機械があるという不釣り合いさも含め、『ピーウィーの大冒険』から続く、バートン独特の世界観が演出されている。それを考えると、やはり後の『PLANET OF THE APES/猿の惑星』の“本格的”なSFとしての宇宙描写などは、バートンの作風としてはやはり相性が悪かったのだと思う。
ジョニー・デップとの初共演
キャリアと周囲からの見え方に悩んだ若き日のジョニー・デップ
今作において最も輝いているのはエドワード:主演のジョニー・デップに他ならない。
デップは当時まだ映画俳優としてのキャリアは無名に近く、FOXのドラマシリーズ『21ジャンプストリート』の主演を務めたものの、そのイメージを引きずることや自分がアイドル的な消費をされることへの忌避感に悩まされていた。そんな中送られてきた今作の脚本に感銘を受けたデップは、「この役を演じるべきは自分しかない」と感じてオーディションを受けたと言う。
とは言え、この当時のデップはバートン曰く「箸にも棒にも掛からない下手くそ」だったらしく、この役を射止めたのもそのキャリアからすれば奇跡に近い。しかし、オーディションの際にバートンを「この人こそがエドワード・シザーハンズ本人だ」と確信したというデップの感性や、そのキャリアへの不安と自分の意識と世間のギャップに苦しむ姿は、バートンの求める役者像にピッタリとハマったのではないだろうか。結果として多くの人が知る通り、今作の後にも、デップとバートンのコンビはある種の“黄金コンビ”として数々の映画作品を生み出すことになる。
そんな新人俳優であるデップの持つ緊張感がまたエドワードの“初めて世界を見た”役柄にしっかりと息を吹き込んでいる。
序盤でペグに連れられ、車から初めて外の世界を見たその無邪気な表情や、写真のキムを見つめる、なんとも言えないほどに優しい顔は、世界に触れたばかりの異形の喜びに満ち、演技であることすら忘れてしまうほどだ。
初めて庭の木を恐竜型に切り揃えたときの晴れやかな笑顔も、ケビンの学校でハサミ芸を披露した際の、子供とも大人とも取れないエドワードのなんとも純粋無垢な喜びの表情も、そのあどけなさは若き日のデップだからこそ出せたものだろう。
バートンの孤独への理解……黄金コンビの生まれた日
見るものすべてが初めてで、ウォーターベッドには穴を開けてしまうし手が不自由であるが故一人では服も着られない。
そんな、生まれながらに周囲の人間を傷つけてしまうエドワードの姿は、幼少期のバートンの“異端”を記号化した、バートンの孤独の表像そのものだ。バートン自身どこかで、自身の異端に対して自責的な感情があったのだろう。
世間のごく一般的な“当たり前”より、自身の空想の世界に浸っていたこと。それに対する理解を求める一方で、それが理解されないことを、誰よりもわかっていたからこそ、こうした“異形”の姿に自身を重ねたのだと思う。
自らの手のハサミによって傷だらけの青白い顔にボサボサの髪の毛……ここから長らく、デップが様々な作品で演じることになる役の原型のようなこのキャラクター造形は、即ちバートン自身の表像であり、それを体現化するには、やはり誰よりもジョニー・デップという役者が適任だったのだ。
ちなみに、このエドワード役にデップが決まるまでの間には当時すでに大物だった俳優も多数候補に上がっており、その最有力候補には『トップガン』(1986)や『レインマン』(1988)でヒットを飛ばしていたトム・クルーズもいた。
が、クルーズはこの脚本に対しハッピーエンドを希望し、それを断固拒否したバートンとの間で交渉が決裂しキャスティングは白紙に戻ったとか。また、クルーズはエドワードの役作りについて「(ペグに出会うまで)どうやって風呂に入っていたの?何も食べてなかったの?」といった意味の質問を繰り返し、バートンから納得のいく説明がなかったことも役を降りた理由として後のインタビューで答えている。
これはどちらが良い/悪いという話ではなく、感性と空想の世界のバートンと、理性と現実の世界のクルーズの違いということなのだろう。そして、それはそのまま今作のテーマに当てはまり、それを理解できたからこそ、デップにはこの役を表現することが可能だったのだと思うのだ。
“異形”が社会から拒絶されるまで〜善意を被った搾取構造
物語は“異形”の存在であるエドワードが、一度は街の人間に受け入れられるも、その異端故世界から拒絶されるまでを描く。と、同時に、今作は“純粋無垢な存在”への、善意に見せかけた搾取構造……社会のどこにでも存在する、そんな醜い人間の在り方について描いてもいる。
エドワードが街に受け入れられる過程で、無償で街の人間の庭を手入れしたり、犬のグルーミングやヘアカットをするのは、ビルが言うように2025年現代で言うなら“やりがい搾取”の典型だ。彼らはそれに対価を与えようとも、それに思い至りもしない。レモネードやビスケットを対価にするのは、エドワードを一人前の人間ではなく、“無知な子供”として扱っている証左だ。
それはエドワードにとっての恩人であり、劇中で圧倒的に“善人”の側として描かれるペグですら変わらない。ペグはそんなエドワードの行動を善しとし、街の人間たちにも勧めることでエドワードの存在を認めさせようとしている。その“仕事”をエドワードの天職とでも言うかのようにTVにも出演し、実際にそれを商売とするようにサポートもするが、実のところそこに至ったのは結果論でしかなく、実際にはエドワードという異形に対して、“一般的な生活”を送る対価を支払わせたに過ぎないことに気づいていない。
ジョイスのしようとしたことに関しては、圧倒的な性的虐待に他ならない。
彼女は自分の願望を叶えるための道具としてエドワードが利用できないことがわかると、被害者仕草でエドワードの尊厳を傷つけ、何も言えないのを良いことに自身は安全圏からエドワードを排斥する。1990年と言う時代にこれだけのことを描けたバートンの目線は非常に鋭いし、今となってはこうした劇中のエドワードの孤独が、現実のジョニー・デップを巻き込んだ事件とも重なり胸が苦しくなる。
ジョイスにされたことをエドワードが口数少なに語っても、それがエドワードを被害者として扱うのでなく、ジョイス側の加害に思い至ってもいないようなペグの仕草もまた恐ろしい。
序盤でエドワードを車に乗せたペグの噂がすぐに街中に伝わり、留守番電話のテープがなくなるほどのメッセージが録音されている(この描写は現代では懐かしいと言うか理解し難いかも知れない;街ぐるみのグループLINEの未読が100件近く溜まっていたようなものだと思ってもらいたい)のと合わせ、この街全体の同調圧力と、ゴシップが広まる恐怖が描かれている。
バートンの目に映る差別の形とは?障碍や黒人警官の描き方
また、同時に今作の物語には、“身体障碍者に対する無自覚の差別”に対しても非常に鋭い視点がある。
エドワードは確かに屋敷に一人で住み続け、見るもの触れるものは初めてのばかりで無邪気な反応を見せるが、誰が相手でもきちんと会話は成立しているし、TVのインタビューでは「普通になりたい」と語り、手のハサミに肉や野菜を刺して「シシカバブだ」と言ったりと知識もある。
こうした描写をわざわざ入れるのは、エドワードを無自覚に子供扱いする人々に違和感を感じさせるためだろうと思う。
ペグは作中随一の“善意の人”だ。しかし、だからこそ、彼女のエドワードへの対応はすべてがタチが悪い。
服が着れないのは手がハサミだからで、エドワードの能力が低いわけではない。なのに、ペグがかける言葉はまるで小さな子供に洋服を着せるかのようだ。ナイフとフォークの食事に慣れず、なかなかうまく食べ物を掴めないエドワードを見つめるケビンに対し、「そんなに見つめないで、失礼よ」「かわいそうよ、見ないで!」という言葉を掛けるのも、エドワードに対しての善意のようでいて、高い位置からの憐れみに他ならない。こうした仕草には、現実世界で問題視される看護師や医師の患者に対する“赤ちゃん言葉”のような、なんとも収まりの悪い違和感を感じてしまう。
終盤でジムに利用され、泥棒として身代わりに捕まったエドワードは、キムのために自分がされたことを黙っている。エドワードはそれを黙っていられるほどに、充分に理性的で、物事を判断する力がある。
それでも、一緒にしばらくの時間を過ごしたはずのペグも、ビルもそれを信じようとはせず、“何も知らない(と思い込んでいる)”エドワード自身が、進んで泥棒をしたと信じ込み、エドワードの説明を待たずに勝手に自己完結してエドワードに“正しい倫理”を説明しようとするのだ。
序盤、街で義足の男性から「身障者と呼ばせるな」とも言われ、それを遮るかのようにジョイスから「あなたはユニークよ」と言われているが、こうした“障碍は個性”という論調も、他人が言うのは単純に無責任で、本人からすれば腹立たしいだけだ。
こうした障碍への無自覚で無責任な善意を被った悪意を、この時代にここまで鋭く描けていたことには驚きもあるが、そもそもバートンには、そんな高尚な考えまではなかったのかも知れない。バートンにとって、“他人から奇異の目を向けられる”というのは非常に身近で、覚えのあることだったのだろう。自分自身がそれを経験してきたからこそ、障碍者へのそうした目線に気付き、共感していただけだったのかも知れない。
『ビートルジュース』でバーバラからリディアに「(あなたは)普通の子よ」という台詞を言わせたように、その言葉を一番欲しかったのは幼少期のバートン自身だったのだろう。
白人ばかりの街の中で、最後までエドワードの味方でいたアレン巡査役が黒人であるディック・アンソニー・ウィリアムズなのも暗示的と言える。彼には恐らく、迫害されるエドワードの気持ちが理解できている。だから彼は、最後の最後でエドワードの存在を、街の人間から隠そうとしたのだ。
そもそも、舞台は公開年の1999年より更に過去であるはずで、その時代に街に黒人警官がいるのはかなり珍しいこと……あり得ない時代ですらあったかも知れない。そうした違和感にも、“迫害される異形”のモチーフを込めているのだろう。
現代では、物語の中にメッセージがあるのではなく、物語がメッセージを伝えるための道具になり過ぎている作品も多いように思う。それは表現法の変化や、脚本の在り方の変化ではあると思うし、こうしてさり気なく劇中の描写にメッセージを込める演出は現代の視聴者には伝わり難いという側面はあるのかも知れない。
しかし、押し付けがましさや嫌らしさを感じさせず、物語の中に違和感や発見を込めるこうした演出の在り方も、今一度映画として評価したいものだ。
未完成の手を伸ばして……発明家が遺したもの/残せなかった物
エドワードは、愛する人を抱きしめることもできず、救おうと手を伸ばすことさえ傷つける結果になってしまう。そんなエドワードは間違いなく人間の街において異質な存在で、異形だ。
未完成な彼を完成させるはずの、人を傷つけない手は、与えられるその直前で失われてしまった……このエドワードにとって“最高になるはずだった”最悪の過去を、終盤でエドワードが街を追われ、一瞬邂逅出来たキムを抱きしめるシーンと重ねて演出するのがあまりにも残酷だ。
与えられるはずだった手が、倒れていく発明家に伸ばしたエドワードの手によってズタズタに引き裂かれてしまうシークエンスの無情さと哀しさ。
柔らかい手だ。与えられるはずだった手は、柔らかい人間の手だったのだ。
このあたりの描写の細かさと悪趣味さはあまりにもバートンらしく、そしてその手が引き裂かれていくのと、現在のエドワードの心が引き裂かれるシークエンスがオーバーラップするのは、終盤の畳み掛けとしてやり過ぎなまでに異形の孤独の物語を印象付ける。
オープニングシークエンスでも発明家の横顔と手が映り込むことから、エドワードにとって、この日は本当に“人生が変わった日”で、“変わるはずだった日”だったのだろう。
また、この発明家を演じたのがあのヴィンセント・プライスであることも非常に意義深い。今作が遺作となり、バートンにとっては幼い頃から怪奇映画でその活躍を見てきた憧れの対象の1人だ。それを、今作のエドワードの親として設定したところにも、バートンの今作にかける並々ならぬ想いが伝わってくるし、病床を押してこの役を演じたプライスの演技も鬼気迫っている。後の『フランケンウィニー』(2012年リメイク版)にて、この発明家を模したようなジクルスキ先生が「化学も愛によって成立する」という台詞を言うのは、今作へのアンサーとも言える。
ウィノナ・ライダーのキムに見るバートンの“女性恐怖症”
『ビートルジュース』ではバートンの表像として“異形側”だったウィノナ・ライダーが、成長して今作では異形を迫害する人間の側としてエドワードの前に立っているというのもバートンのキャスティングの妙だ。
キムは今作のヒロインであり、エドワードの心に触れる存在ではある。ペグたちと同じく、決して悪人ではないし、彼女への恋慕はエドワードの救いでもあっただろう。
しかし、彼女はどこまでも受動的で、人間の悪意に流されてしまう。キムには何度も、エドワードを救えるタイミングがあった。けれど彼女はそこで、自分を優先してしまう。そうやって、エドワードの孤独を深めてしまう。
キムが唯一エドワードに対して能動的な動きを見せたのは、彼の腕に抱かれた時だけだ。それすら、“抱かれる”という受動的行動を、介助のようにエドワードにさせたにすぎない。
キムがもう少し早く、せめてペグたち家族にだけでもエドワードの無実を伝えてあげられていたら……と思わずにはいられない。せめて彼らだけでも、本当のエドワードの心を知っていてくれなければ、あまりにも報われないではないか。……そうした、ままならないところまで含めてこの御伽噺は成立しているのではあるが。
この時期のバートン作品は、徹底して異形と人間の隔たりを描く。異形の世界と人間は交わらず、互いの孤独を埋め合わせることは出来ない。商業監督としてある程度の成功を収め、ようやく自身の創作を存分に発揮できるようになったバートンが行き着いたのは、こんなバッドエンドの物語だったのだ。
また、この頃のバートンというのはどこか女性への恐怖があるように読み取れる。彼の中にあるナードな性質がそうした演出を選んでいるというのは、やや深読みしすぎかも知れないが感じるところだ。
『フランケンウィニー』も今作も、スパーキーやエドワードを追いやるのは基本的には街の女性が主で、男性は彼らの連れ合いに引っ張られるような形であることが多い。
これは実際、その後の作品においても、どうしても普通にベッドシーンを撮れないあたりにもその片鱗が窺える。『ダーク・シャドウ』や2025年最新作の『ビートルジュース ビートルジュース』ですら、ベッドシーンはアクロバティックな茶化しがないと撮ることが出来ないのだから。
異形への拒否感と世界への拒絶:決して混ざり得ない二つの世界
エドワードの排斥は“手がハサミだから”だろうか。そうやって排斥されてきたのは、手がハサミの人間だけなのか?エドワードを通し、物語はそう問いかけてくる。
けれど一方、“異形”は決して普通の人々とは生きられない。どちらにとっても「いない方が幸せ」。物語は、そんな現実も見せる。
バートンは拒絶される異形を描いたが、今作の段階では、バートン自身が世界を拒絶する側でもあるのだ。
今作においてヴィラン的な役割であったジムにハサミを突き立てた瞬間、物語はカタルシスを迎えない。あれはバートンの学生時代のコンプレックスの裏返しとも取れるし、溜飲は下がるだろう。しかし、この物語はそもそも、エドワードが街に来なければああした結末には至っていない。エドワードが鍵を開けられる、とそれを利用する手を思い付かなければジムはあんな行動には出なかった、ただの少し悪い不良で終わっていただろうし、キムとの関係は決して悪くなかったのだから。
街の人間に追い詰められ、ケビンの顔に怪我を負わせたエドワードにキムが言う「逃げて」は、究極の拒絶だ。あの言葉も、キムは善意から放っている。けれどこの物語において、あの言葉は異形が人間の世界に拒否された、その最後の一手なのだ。
これはその後のアレン巡査の銃声と共に放つ「逃げろ」とはまるで違う。キムのそれは、逃げだ。彼女は人間の世界に居続けるために、エドワードから逃げたのだ。
総括:切なく美しい雪の日の御伽話
氷の彫刻から降る雪の下でキムが舞うシーンはあまりにも有名で、あまりにも美しいシーンだ。この物語が御伽噺として最高潮に至る瞬間であり、エドワードにとっても、この時のキムの姿が永遠に記憶に残り続けているのだろう。
ラストシークエンス、キムは歳を取り、孫に『シザーハンズ』の物語を語るが、エドワードは当時のままの姿で、今も屋敷から雪を降らせている。何年も、何年も。あの日と同じように、雪が降らないはずの街に、彼女のために雪を降らせ続けているのだ。
例え彼らが結ばれていたとしても、同じように歳を重ねることはできなかったのだということが明示される。
あまりにも美しく切ないラストシーンだ。
今作から
次作『バットマン リターンズ』
次々作(原案・製作)『ナイトメアー・ビフォア・クリスマス』
まで、バートンは3作品連続で雪の降るクリスマスを舞台にした映画を撮ることになる。
そのどれもが、一般的なクリスマス・ムービーとは違い、どこかビターで、単なるハッピーエンドとは違った終わり方をする。そこに降る雪は常に孤独の象徴で、バートンの中でこの雪のモチーフが変わるには、1999年の『スリーピー・ホロウ』を待たねばならない。
その最初の雪を画面に降らせたのが、バートン自身の表像でもあるエドワードで、それを演じたのがデップであるというのも非常に運命的なことだと思う。
初めて観た頃は10代。
今観ても感動できるだろうか、エドワードの孤独に自分を重ねることができるだろうかと不安に思いながら鑑賞したが、いらぬ心配であった。
この優しく美しい御伽噺は、時代を超えて心に雪を降らせ続けてくれるのだ。
※【注釈】31年後に示された救いの物語
最後に余談にはなるが、今作には続編作品がある。
2021年、第55回《スーパーボウル》で放送された、キャデラック社のハンズフリー技術搭載車のCMにて、エドワードとキムに息子がいた、という設定の物語が語られた。エドワードの遺伝で手にハサミを持った息子のために、キムがハンズフリーでの自動運転が可能な電気自動車をプレゼントするという内容だ。
キムを演じたのはウィノナ・ライダー本人であり、その内容を観たバートンが公認したことでも知られるが、もちろんバートンが公式に作ったものではないし、二次創作と呼んだ方が正しい。
ただ、2021年と言えばバートンが“異形たちの祝祭”を『ミス・ペレグリンと奇妙なこどもたち』で描いた後、『ダンボ』でディズニーとの確執を味わった後のことになる。
(詳しくは該当レビューを参照されたい)
もう、バッドエンドにこだわった当時のバートンではない。むしろ傷心のバートンには、当時ハッピーエンドに向かえなかったエドワードの“あり得たかも知れない記憶”に喜ばしい気持ちもあったのではないだろうか。
キムのその後を演じたライダーはその後2025年に『ビートルジュース』の続編でバートンに再びキャスティングされており、もしかしたら、ここでキムのその後の人生を見たことがその創作の取っ掛かりの一因くらいにはなっているかも知れない。
実際の物語ではキムとエドワードの間に流れる時間には圧倒的な隔たりがあり、彼らがその後再会することはなかったのだと思う。それでも、31年後にこんな幸せな可能性が示されたって良いじゃないか。御伽噺なんだから、救いがあっても良い。当時から誰もが、ずっと願っていたのだから。
そのエドワードの息子を演じたティモシー・シャラメが後に『ウォンカとチョコレート工場のはじまり』(2023)(→『ウォンカとチョコレート工場のはじまり』(2023)考察レビュー)で(正確には同一人物ではないが)ジョニー・デップと同じくウィリー・ウォンカを演じるところまで含めて、出来過ぎなくらいの物語。やはり今作には、魔法がかかっているのだと思う。
⭐ 4.0 / 5.0
📅 2025/07/16(Disney+)
🎬 ティム・バートン初期作品考察レビュー
⛄️ ティム・バートン“異形の孤独”考察レビュー

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