ティム・バートン全作品レビュー7
――昔々、ある処に……ハッピーエンドに隠された,行き場を失った異形の孤独
作品データ
原題:The Nightmare Before Christmas
監督:ヘンリー・セリック
製作:ティム・バートン
デニーズ・ディ・ノーヴィ
脚本:キャロライン・トンプソン
原案:ティム・バートン
音楽:ダニー・エルフマン
撮影:ピート・コザチク
上映時間:76分
出演者:
ジャック・スケリントン:クリス・サランドン/歌唱:ダニー・エルフマン
サリー:キャサリン・オハラ
フィンケルスタイン博士:ウィリアム・ヒッキー
ウギー・ブギー:ケン・ペイジ
サンディ・クローズ(サンタクロース):エド・アイヴォリー
町長:グレン・シャディックス
ロック:ポール・ルーベンス
バレル:ダニー・エルフマン
ショック:キャサリン・オハラ
※本レビューにはネタバレを含みます。
総文字数:9480文字
読み終わるまでの時間:約24分
製作背景:ディズニーに置いてきた幻の企画と製作遅延による監督降板
ヘンリー・セリック監督、ティム・バートン製作のディズニーのストップモーション長編アニメ映画。
今作の原案となったバートンの詩は、ディズニー在籍時の1982年から存在し、バートンはドクター・スースの絵本『いじわるグリンチのクリスマス』(1957)を正反対にしたような物語としてこの詩を思いついた。バートンはクリスマスやハロウィンといったホリディに対する愛着が人一倍強く、そのためタイトルもアメリカでよく知られる詩『クリスマスのまえのばん』(原題:The Night Before Christmas)をもじったものにし、ディズニーでの初監督作品『ヴィンセント』製作時に、既に次作として企画の打診をしていたと言う。
しかし、当時まだ実績の浅い若きアニメーターの企画としては、ディズニー上層部がOKを出すにはあまりにそのデザインも物語も尖りすぎており、結果として『フランケンウィニー』のお蔵入りに伴って今作の映画化の話も流れ、この企画は会社所有のままバートンはディズニーを退社することとなる。
その後、『バットマン』の大ヒットで名を挙げたバートンはこの企画を買い戻そうとするも、同じ時期にディズニー側でもこの企画をバートンと長編映画にする計画が立ち上がり、双方からの申し出により契約が締結。バートンとしては外部監督として数年ぶりのディズニーでの仕事となり、自身の企画としては10年にも及ぶ夢が叶った瞬間でもあった。
しかし、脚本家に『ビートルジュース』のマイケル・マクダウェルを招聘し製作に取り掛かるも、当時のマクダウェルは薬物やアルコール依存の症状がひどく、脚本がいつまでも出来上がらなかった。その後脚本家は『シザーハンズ』のキャロライン・トンプソンに交代して製作は続行されたが、撮影開始は大幅に遅れ、その間にバートンは『バットマン リターンズ』の撮影及び『エド・ウッド』の製作に入ったことで監督業の兼任が難しくなってしまう。
そんな中白羽の矢が立ったのが、バートンにとってはカリフォルニア芸術大学時代からの旧知であり、ディズニーでも共に仕事をしていた同志のストップモーション作家:ヘンリー・セリックだった。MTVのMVや短編製作をしていたセリックにとっても、大規模予算の長編作品の監督業は歓迎すべきものだったのだろう。
今作はこの時期のバートンの孤独や異形の世界観が、セリックの作風によってうまくディズニーの子供向け映画の形に収まった、二人のクリエイターの合作として評価すべきだろう。今でもハロウィンの時期になると必ず流れる名曲「This is Halloween」と合わせ、季節の風物詩として欠かせない一本だ。
ヘンリー・セリックとティム・バートン〜二人の合作である意味
バートンの悪趣味ポップが一般大衆に受け入れられるまで
「昔々の〜」という御伽噺の定型から始まるオープニング・シークエンスから、「This Is Halloween」の旋律と共にディズニーらしい寓話性を感じられて期待が高まる。
舞台となる《ハロウィン・タウン》の墓場の造形には、『フランケンウィニー(1984)』から続くバートンらしいデフォルメされたデザインが詰め込まれており、ゴシックな石像などには『バットマン(1989)』のゴッサム・シティを思わせる一面もある。《クリスマス・タウン》のクッキー焼き機もピタゴラ装置的なお馴染みの造形で、バートンの頭の中に広がる幻想世界の要素が散りばめられた舞台は見ているだけで楽しい。
曲に合わせて次々と現れるモンスターたちもそれぞれに個性が爆発しており、『ビートルジュース』のゴーストたちと同じく、彼らがどんなキャラクターなのかが一目でわかり、その悪趣味スレスレのゴアな造形は子供向けとはいえ一切の遠慮がない。
ギロチンで首が斬り落とされる怪物や、首吊りのガイコツ、ゴーレムよろしく身体がとけかけている怪物など、どいつもこいつも表情豊かで可愛らしくもあるのだが、その姿はグロテスクな恐怖演出と紙一重でもある。ディズニーでこれが許されたのはやはり当時のバートンの権限がハリウッドにおいて相当強くなっていたからとも言えるし、ここまでの作品の積み重ねで観る側にも“バートンらしさ”が浸透してきていたのもあるのかも知れない。
とは言え、実は今作は公開当初ディズニーの作品として発表することはせず、ディズニーの大人向けレーベル《タッチストーン・ピクチャーズ》名義でPG指定での公開となった。タイトルロゴに「Tim Burton’s」と冠されているのも、こうした事情からターゲットとする顧客層に届かないことを加味した結果だったのだと言う。
2025年の今でこそキャラクター商品も人気で、ジャックは“ハロウィン”という言葉と共に誰もがイメージするキャラクターとなったが、当時の子供向け試写の評判は最悪で、批評家評は良かったとは言え興収的にも決して高くはなかった。今作は、そのマニアックさ故に公開から時間をかけて今の人気を築いていった作品なのだ。
不遇の扱い?ヘンリー・セリックの作り上げた繊細なストップモーションの世界
ただ、全体的な画のカラーリングや、ストップモーションに使われた人形のタッチについては、実は明らかにバートンのものとは違っている。後にバートンが監督したストップモーション作品『ティム・バートンのコープスブライド』や『フランケンウィニー(2012)』、もっと言えばディズニー在籍時の超短編『ヴィンセント』と比較するとわかるのだが、今作の画面はバートンのものより明度・彩度が高く、人形たちもバートン監督作品より丸みを帯びていて柔らかい表情をしている。
これは監督であるヘンリー・セリックの作風だ。今作はバートンの代表作のような扱いをされてはいるが、当時のバートンは前述の通り他作品の撮影に掛かり切りであり、セリック曰く2年を費やした撮影期間のうち現場に訪れたのは5回ほど、時間にして8〜10日間程度だったとも言う。この点は後年監督したセリックも不満を露わにしているが、やはり今作はきちんとセリックの作品としても捉えなければならない。
ミニチュアの世界を昔ながらの絵本のようなアナログ線画的に見せるための、セットの表面に線を刻み込むという工夫や、ストップモーションで撮った素材をCG変換して映像に組み込むといった技術も用いられており、犬のゴーストであるゼロの浮遊している画も実に面白い。
ゼロはそのふわふわとした動きを出すために他の人形たちと違い鉛を使った素材で作られていると言い、そうした丁寧で細かなこだわりが映像の端々から感じ取れる。
ストップモーションアニメの制作は非常に精緻で時間の掛かる作業であり、今作で使用した総セット数は230、人形も1キャラクターにつき3〜4体の複製を作り、合計で200体近くある。100人を超える技術者たちの手による繊細なポージングと撮影により、キャラクターは何の違和感もなくイキイキと動き回っている。
自身の脳を触りながら物を考えるフィンケルスタイン博士の描写や、バラバラになった身体を自身で縫い合わせるサリーなど、主要キャラクターのデザインにはバートンらしい悪趣味ポップの匂いが感じられるが、「バートンが卵を産んで、僕が孵した」というセリックの言葉もある通り、後の『ジャイアント・ピーチ』(1996)や『コララインとボタンの魔女』(2009)などの映像と合わせると、やはりその演出や画の作り方にはセリックの意匠がしっかりと見て取れる。
『ジャイアント・ピーチ』もまたバートン製作、セリック監督でこちらと作りは同じだが、原作がロアルド・ダール作品ということでバートン作品と見なす人は少ないような気がする。
あくまで監督はセリックで、セリックの意匠もたっぷりと含まれた作品であることは、ここで今一度強く伝えておきたいところだ。
(『チャーリーとチョコレート工場』(ロアルド・ダール原作)と繋げてしまうとやはりバートン作品扱いされてしまうので、そういった意味でセリックはやはり不遇であると思わざるを得ないが)
孤独の“理解”と“感受”〜バートンとセリックの違い
ここまで様々な作品で“迫害される異形”を描いてきたバートンが、今作ではいよいよもって異形だけの世界を描くことになる。今作の物語では、“異形の世界”はそれぞれに分かたれており、冒頭シークエンスでは《ハロウィン・タウン》, 《クリスマス・タウン》の他に、《イースター》や《バレンタイン》の街の入り口があり、それぞれの世界の存在が示唆される。
それぞれの世界は互いに交わらず、世界同士に交流はない。『バットマン リターンズ』での“異形同士の無理解”と、実はテーマ自体はそこまで変わっていないのだ。
そんな中主人公のジャックは、《ハロウィン》に飽き飽きし、毎年、毎日の同じことの繰り返しと、それを良しとする周囲にもうんざりしている。
ハロウィン・タウンのリーダー的存在であり、誰かを怖がらせることにかけては右に出る者はいない。「怖い」が価値基準の最高位である街で、彼ほどリーダーに相応しい人間はいないだろう。……しかし、だからこそ、その退屈は誰からも理解されない。
それは王者ゆえのジレンマであり、“常識”の枠から外れた者だけが感じる孤独だ。ハロウィン・タウンという街では恐怖が常識だが、これは単純に一般社会の常識を置き換えて描いているに過ぎない。同時にこの孤独は映画監督として成功を手に入れつつあったバートン自身の孤独とも重なるのかも知れない。
ハロウィン・タウンでハロウィン以外のホリディを求める者……ジャックはやはりどうしようもなく、バートン世界における異形の存在なのだ。
そしてその孤独の描き方こそが、バートンとセリックで大きく異なっている点だろう。セリックはジャックの孤独を、ハロウィン・タウンでの“退屈”と、それに伴う孤独として描いている。仮に今作をバートンが監督・演出していたならば、このジャックの孤独はよりフォーカスされ、自身を受け入れなかった社会との関係性を隠喩することになっただろう。
これは脚本上の孤独を“理解”しているか“感受”していたかの違いだ。バートンの孤独は、脚本を上書きしてしまう。だからこそセリックが演出した今作はバートンの原案と同じようで“少し違う”内容になったのだと思う。
ツギハギのヒロイン:サリーとフィンケルスタイン博士の親子関係
ヒロインであるサリーもまた、そんなジャックに共感し、自分を作り上げたフィンケルスタイン博士の束縛から逃れようとするキャラクターだ。彼女もまた、ここではない世界を求めている。
「サリーは魅力的であること」を、バートンは
製作の際に強く念を押していたと言う。
前作のキャットウーマンに引き続き“ツギハギの女性”として登場するサリーは、後の『ティム・バートンのコープスブライド』、『ビートルジュース ビートルジュース』へも繋がっていく、無理やりに繋ぎ合わされた心のメタファーだ。
自ら掴まれた腕の縫い目をほどいて博士から逃げるシーンや、バラバラに飛び散った身体を自ら繋ぎ合わせるシーンなど、ともすればグロテスクにも見えるシーンもその行為の不恰好さそのものが彼女の存在を象徴するものであり、ジャックのために博士に閉じ込められた部屋からダイブするシークエンスは純粋な愛と自由への渇望だ。霧を出してなんとかクリスマスを台無しにしながらも、ガッカリして肩を落とすジャックを心配する姿もまたいじらしく、ハロウィン・タウンの良心として大いに活躍している。
彼女は自由を求め、それゆえに博士から「失敗作」の扱いを受けるが、そんなところにもバートンらしいテーマ性がある。自由を望み行使する者は支配する側からすれば失敗作とされる。ここには、バートンの親との関係性もまた透けて見えるが、やはりセリックのカメラはそこにはフォーカスしない。ここもまたバートンとセリックの大きな違いなのだと思う。
実は今作のヴィランとなるウギー・ブギーの正体がフィンケルスタイン博士だったというどんでん返しもセリックからの案として検討されていたらしく、これはDisney+の未公開映像のストーリーボードで観ることができる。
ただこれは物語の根幹を揺るがすアイディアであり、セリックから提示された際にバートンはスタジオの壁に穴を空けるほど激怒したという逸話も残っている。
今作までのフィルモグラフィー、そしてその後の流れを見ても、バートンにとって“家族”というテーマは非常に重要で、慎重に扱うべきテーマである。“自らが作りあげた存在に愛されたかった孤独な博士”というテーマは映画としては面白くはあるが、フィンケルシュタインの名前が『フランケンシュタイン』からとられていることは明白であり、このテーマを繰り返し描いてきたバートンからすれば、セリックのそれはまったくの解釈違いだったのだろう。
こういった逸話からも、それは良い/悪いではなくセリックとバートンとでは同じ脚本を演出してもそこに込めるテーマはまったく違うことがよくわかる。
交わらない“異界”〜諦観混じりのバートン的世界との関わり方
今作は、世界と世界の交わりを描かない。あくまでホリディの世界同士は“別の世界”としてそれぞれの役割を全うすることが大切だと結論づけられる。
ハロウィン・タウンのモノトーンと、クリスマス・タウンのカラフルな造形は『シザーハンズ』のエドワードの屋敷とキムたちの街の対比に近く、二つの街の“クリスマスの準備”が重ねて描かれる後半のシークエンスもまたその印象を補強する。
ハロウィンにおいて重視される“恐怖”。
クリスマスにおいて重視される“楽しさ”。
クリスマスに憧れたジャックも、結局のところハロウィン・タウンの常識の中でしかその楽しさを解釈できなかった。
中盤でクリスマスを研究しながらも『クリスマス・キャロル』の本をつまらなそうに投げ捨て、子供たちのプレゼントを恐怖で塗り替えてしまう姿にも、そうした価値観の違いと、“理解することができない”という現実が描かれている。ジャックは型だけを自分の側に寄せて模倣するが、それは真の理解とはまったく別種のものだ。
これらの描写は子供向け作品らしく面白おかしく描かれてはいるが、“差別”の根源にはこうした“理解のふり”がある。
人間世界の価値観からすれば、ジャックが子供たちに与えたプレゼントは“恐ろしい”異常事態だ。しかし、ハロウィン・タウンの子供たちであれば、それはきっと“楽しい”ものなのだ。
バートンは、そんな世界同士が無理やりに交じり合うことを善とは描かない。そうではなく、互いの世界を交わらせないことの方が両者のためだと説く。それは、『シザーハンズ』や『バットマン リターンズ』で繰り返し描かれた、ある種の諦観だ。
幻の初期案:セリックが『ナイトメアー・ビフォア・クリスマス』をディズニーにした
Disney+で観られる特典映像:初期バートンの詩にナレーションをつけたバージョンのジャックは、より孤独に満ちている。
サンタクロース(サンディ・クローズ)への憧れは嫉妬に近く、クリスマスを奪い、自身の間違いに気づいた後はさめざめと泣いている。そこにあるのは、いつも通りの“異形の孤独”だ。ジャックが撃ち落とされる場所が墓場の天使像の手の中というのも初期案からあるもので、この皮肉めいた演出もバートンらしさと言えるだろう。
良かれと思ってやったことが、結果的には誰のためにもならず、世界の側に否定される。このまま作っていれば、かなりビターなエンディングになっていたはずだ。
今作が“異界”同士が最終的に認め合う優しいエンディングに落ち着いたのはセリックの演出によるものだろう。バートンの原案では、その受容は諦観であり、癒やされぬ孤独の表像だったのだと思う。少なくとも初期案の段階では、サリーやその他のキャラクターも登場していなかったのだから。
撃ち落とされたジャックが反省からすぐに立ち直り、ハロウィン・タウンへ意気揚々と戻っていくなど、どこかカラッとした明るさがあるのはバートンではなくセリックの意匠なのだと思うし、それがあればこそディズニー作品としても今作は成立している。初期稿の脚本を『ビートルジュース』のマイケル・マクダウェルが担当していたことからも、本来想定していた作品はもう少し尖った作風だったのではないだろうか。
(ただ、あくまで配給はディズニーなのでどこまでバートンの色になったかは想像の範疇を出ない)
ヴィランであるウギー・ブギーとの決着が後半の短いシークエンスでアッサリと終わるのもディズニー作品らしい形とも言えるが、この正体が虫の大群であることは実にバートンらしい。
強大に見せている者が、矮小な存在の群体であるというのは、社会そのものへの暗喩であり、そうした存在が更に小さな部下を従えているというのも非常に暗示的だ。
そういった意味でも、やはり今作はあくまでバートンの物語をセリックが映像化したものなのだろうし、その際に、物語上の解釈がセリックによって孤独から受容に寄せられた、と考えるべきだと思う。
それは悪い意味ではまったくなく、セリックは学生時代〜ディズニー社員時代からの長い付き合いであるバートンの世界観を、自身が専門とするストップモーションアニメーションで、ディズニーの意向も汲みつつ完璧な形で一本の映画に仕上げている。
後の『ティム・バートンのコープスブライド』や『ジャイアント・ピーチ』にも繋がっていく今作での仕事は、互いにとって非常に有意義だったに違いないし、実際セリックも「あれは自分の作品だ」というニュアンスの言葉は遺しているが、その不満はあくまでディズニーのプロモーションに向けられたものであり、バートンとの仲は良好なようである。
ミュージカルとしての楽しさとダニー・エルフマンとの喧嘩別れ?
今作は全編ミュージカル作品であり、音楽はいつも通りダニー・エルフマン。更に今回は《オインゴ・ボインゴ》でのリードシンガーだった経歴を活かしジャックの歌唱まで担当している。ジャック自身の王者故の孤独には、バンド時代のエルフマンの孤独も重なっていたと言う。
76分ほどの上映時間のうち、ほとんどのシーンに歌があって、メロディのない台詞は少ない。ミュージカル作品としても珍しいくらいに歌がメインで、そのためにむしろミュージカル作品が苦手な人でも違和感なく観られる。
テーマソングである「This is Halloween」を始め、サンタクロースを誘拐しようとロック・ショック・バレルが歌う「Kidnap the Sandy Claws」なども軽快で口ずさみやすいメロディが踊り出したくなるほどだが、歌詞はしっかり物騒なハロウィン仕様なのも面白い。
当初は脚本の遅れから曲を先に作らざるを得ず、エルフマンはバートンと二人、バートンが語る物語に合わせて曲を作っていったというのだから流石の職人芸であるし、ここまでコンビを組んできた二人の創作的な絆が見えるエピソードだ。
……ちなみに、今作でジャックの歌唱はエルフマンが担当しているが、台詞部分はクリス・サランドンが担当している。実は収録時にはエルフマンが台詞も担当していたのだが、その出来にバートンが納得できず、エルフマンには伝えずにサランドンを起用し録り直したんだとか。次作『エド・ウッド』でエルフマンは“創作上の意見の食い違い”で降板しているが(後に和解して現在までほぼバートンの全作の劇伴を担当している)、まさかその理由の一つにこの件があったというのは考えすぎだろうか(笑)
また、これはまったくの偶然であろうし、完全な余談ではあるのだが、『バットマン リターンズ』を“ミュージカル版『オペラ座の怪人』への意趣返し”と解釈した身としては(→『バットマン リターンズ』(1992)考察レビュー)、「Sally’s Song」の旋律の一部にオペラ座の「The Point of No Return」を感じる点や、ジャックの日本語吹替版声優が市村正親であることにも意味を感じずにはいられない。
(市村正親は劇団四季版『オペラ座の怪人』初演のファントムのキャストである)
総括:受容か諦観か……異形の孤独を通して2人のクリエイターが表現したもの
「ハッピーハロウィン」「メリー・クリスマス」と言い合うジャックとサンタクロースのやり取りは温かな後味を残し、“異形同士の世界”の遠からず、近からずな、優しい共存の在り方を示す。『シザーハンズ』から始まった“異形のクリスマス”三部作とも言うべき三作の中で、初めて楽しいクリスマスを描いた作品とも言えるだろう。
ただ、結果としてハッピーエンドにはなっているが、今作も前二作と根幹は変わっておらず、あくまで“理解し得ない”というテーマに収まっているのも忘れてはならない。
異界はあくまで異界であり、今作はジャックがプレゼントを配る人間の世界も、徹底して大人の顔を映さないように演出し、画面に現れるのは子供と異形だけだ。この幻想の世界において、それを理解し得ない大人の存在は排されている。
ジャックとサリーは結ばれ、確かに表面上はハッピーエンドだが、彼らは結局ハロウィン・タウンから一歩も外には出ず、ジャックも自身が“ハロウィンの王”であることから、抜け出そうとして抜け出せなかった。物語のスタート地点から、彼らの立ち位置は何一つ変わってはいないのである。
今作がこの形になるには、ディズニーの意向や、監督であるセリックの趣味もあっただろう。しかし、そこにはどうしても隠しきれないこの時期のバートンによる、孤独と人間不信の要素が多分に含まれている。であるからこそ、バートンが撮ったバージョンを観てみたいと思う気持ちは少なからずあるし、同時にバートンが監督であったなら現在のように子供が楽しめる作品として残ったかは疑問の余地もあるのだ。
結果論ではあるが、異形の孤独を『バットマン リターンズ』で極限まで描き切り、今作では異形が自らの存在を認める姿をセリックが描いてくれたことで、バートン自身の創作も次のフェーズへと移ることが出来たのかも知れない。
こうして、次作『エド・ウッド』で自身の創作の根を再確認した後に、バートンはいよいよ『ビッグ・フィッシュ』へ向かう、トラウマの治療期に入っていくのだ。
※【注釈】続編は絶対に許さない!バートンの想いとカプコンのゲームと
最後に余談になるが、バートンにとって今作は若き日に組み上げた最も大切な作品の一つであり、続編・前日譚・リブート等の製作には断固反対している。2022年『ダンボ』の後のディズニーへの決裂宣言の理由の一つには、Disney+オリジナルコンテンツとして今作の続編製作を持ちかけられたこともあると言われているほどだ。
2023年には公式続編と銘打たれた小説『ナイトメアー・ビフォア・クリスマス パンプキン・クイーンに栄光あれ』(著:シェイ・アーンショー)なども刊行されているが、バートンがどこまでを認めているのかは不明であり、正式にコメントを出した『シザーハンズ』のCM続編とは話が違うので注意して頂きたい。
これとは別に2002年にPS2ゲームとしてカプコンから発売された『ティム・バートン ナイトメアー・ビフォア・クリスマス ブギーの逆襲』という作品もあり、これには共同製作でバートンも関わっており正式続編と言って良いだろう。こちらは本編から1年後、ロック・ショック・バレルによって復活したウギー・ブギーも登場する。
カプコンはディズニーとのコラボゲームを80年代終わり頃から多数出しており、これもそのうちの一作ではあるが、現在ではプレイできるゲーム機器もなく、手に入れるのも難しいだろう。筆者も未プレイではあるが、どのような物語だったのかは気になるところだ。
こうした映画以外の続編というのも、製作者としては肩肘張らずに監修できる意味で、あの時代はいくつか出ていたものだ。Disney+という独自コンテンツが生まれる前の徒花かも知れないが、そうした文化も覚えておきたいものである。
⭐ 3.0 / 5.0
📅 2025/07/24(Disney+)
🎬 ティム・バートン初期作品考察レビュー
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