『六人の嘘つきな大学生』(2024)ネタバレ考察レビュー|原作の強みを捉え損ねた実写化……ミステリー実写化の難しさ

――その嘘は誰のため、何のためのもの?書類に書かれた履歴にその人の本音は映せない

作品データ

原題:六人の嘘つきな大学生

監督:佐藤祐市

脚本:矢島弘一

原作:浅倉秋成『六人の嘘つきな大学生』

音楽:佐藤直紀

主題歌:緑黄色社会

「馬鹿の一つ覚え」

撮影:花村也寸志

上映時間:113分

出演者:

嶌衣織:浜辺美波

波多野祥吾:赤楚衛二

九賀蒼太:佐野勇斗

矢代つばさ:山下美月

森久保公彦:倉悠貴

袴田亮:西垣匠

波多野芳恵:中田青渚

鴻上達章:木村了

石川宣親:渡辺大

本レビューにはネタバレを含みます。

該当作品の他、本作原作小説,及びコミカライズ版

アガサ・クリスティ『アクロイド殺し』(1926)等のトリックについても言及有。

総文字数:7662文字

読み終わるまでの時間:約19分

目次

製作背景:2022年《このミス》話題作の実写化!

2021年にKADOKAWAより刊行された浅倉秋成氏による同名小説『六人の嘘つきな大学生』の実写映画化。

原作は

2021年の《週刊文春ミステリーベスト10》第6位、

2022年の《このミステリーがすごい!》では第8位、

同年の《ミステリが読みたい!》でも第8位と、

2020年代を代表するミステリー小説のうちの一冊。

監督は今作と同年2024年にNetflixオリジナルムービー『シティーハンター』の実写化で話題を攫った佐藤祐市監督、主演に浜辺美波と赤楚衛二ということで話題性も充分だ。

『バトル・ロワイアル』(2000)を始めとした所謂“デスゲームもの”が流行り始めた00年代始めから早20年……今ではそのジャンルは多岐に渡り、今作ではいよいよ人が“死なない”デスゲームと言うべきか……就職活動をテーマにした裏切りと策謀の物語が描かれた。このジャンルの見せ方や物語作りは既にもう出尽くしてしまった感があり、今では若手注目株の俳優陣の熱演と、そこに“推しを見つけられるか”、“推しが出演しているか”が一つのテーマとなっているのかも知れない。

今作もその御多分に漏れず、映画としての出来も役者陣の演技も悪くない。

……が、残念ながら原作付きの映画としては、その表現を致命的なまでに失敗してしまった、という印象だ。

若手売れっ子役者陣の好演〜3つの舞台で変化する関係性

基本的な舞台は面接会場として指定された会議室でのグループディスカッションになるわけだが、このほとんど画代わりしない映像の中でも、役者陣は見事に画面を彩ってくれる。

『らんまん』(2023)の浜辺美波、『舞いあがれ!』(2022〜2023)の赤楚衛二と山下美月、佐野勇斗の『おむすび』は撮影時期で言うと同時期に当たるだろうか。倉悠貴も『おちょやん』(2020〜2021)に出演しており、嘘つき大学生六人のうち五人がNHK朝ドラ出演経験者で、うち四人はメインキャラクターを務めた実力派揃いだ。

今作は後半で8年後に舞台を移し、彼らが久しぶりに再会する様子も描かれているのだが、この8年ぶりに会った際の微妙なぎこちなさや、加齢による表情の変化などもきちんと演じ分けている。

上映時間113分の映画にまとめる際に、当然原作のすべてを映画化は出来ない。今作の物語はグループディスカッションの準備期間→最終選考→8年後の謎解きと三部構成になっているわけだが、そうなると映画版で一番カットされやすいのは準備期間のパートになる。原作小説及びコミックではここにも充分なボリュームがあるため、各登場人物が関係性を深めていき、最終選考の選考方法が変わり、困惑の中で当日に向かう様子がたっぷりと描かれているが、映画ではそのパートでのそれぞれのやり取りはかなり省略されている。

なので、基本的には嶌への波多野の淡い恋心以外に、それぞれの双方向的相関関係は描かれていないのだが、そんな中でも、彼らが短い期間でそれなりの友情を育んだ様子はきちんと伝わる。脚本としての描写がない分、それぞれが表情や距離感で各々の関係を表現し、なんとなく互いの感情や関係性が読み取れる。こうした群像劇の映像化はそういった物語の表に現れない関係性が見えてこないと途端に薄っぺらくなってしまうが、歳の近い俳優陣の現場での関係性も影響しているのか、この辺りは行間を演技の力で埋めてくれているので安心して観ることができる。

中盤からはそんな関係性が疑心暗鬼になり、お互いの“知られたくない秘密”が暴露され信頼が脆くも崩れ去っていく様が、このジャンルの見所の一つだろう。

ただ、若手の実力派がきちんと演技をしていることがマイナスに働いてしまったのか……この疑心暗鬼のトーンが徐々に下がっていってしまうのは気になるところだ。リアル志向でいくなら、人間の心理としてはこれは何も間違っていない。人間というのはどんなに異常な状況に置かれたとしてもそれに慣れていってしまうものだし、結局は劇中袴田が言及したように“最初の一人が割を食う”のは当たり前だ。それは理解できる……のだが、映画として観るとそれは段々と画が地味になっていくことを意味する。

原作小説、およびそのコミカライズ作品では、一回一回の暴露で暴露された本人が率先して大袈裟な反応を示してくれていたので、この映画での演出は意図的にやったことだとは思うのだが、そうすると密室劇の物語はどんどんトーンダウンしていってしまう。物語の構造、最後のネタバラシも含めて考えると、この六人の登場人物の反応自体はこれで正解なのかも知れないが、それが映画的な演出としてはやや地味に感じてしまうのだ。

物語の根本的弱点が浮き彫りになる実写化

印象が薄くなってしまった六人の嘘の演出法

そもそも、六人の大学生の“嘘”そのものにも内容の重さにバラつきがあり、それを演じている側も演出する側も“理解してしまっている”のが何とも煮え切らない印象を与えているような気がする。

袴田の“イジメによる同級生の自殺”

九賀の“元カノへの中絶強要”

森久保の“マルチ商法詐欺”

に比べ、矢代の“キャバクラ勤務”は明らかに罪として軽すぎる。それは劇中矢代自身も言及しているし、嶌も「(それで落とすならスピラリンクスは)随分前時代的な会社だな、て」と言ってしまう。

それぞれが暴露された秘密は勿論原作通りではあるのだが、そうなると物語中盤、波多野を犯人と断定する理由となる“未成年飲酒”の罪の軽さの印象も随分と薄くなる。

波多野が犯人と断定されるのは、それぞれの秘密を抑えた写真が撮られたと思わしき日のアリバイが一人だけないことと、暴露された罪が他に比べ明らかに軽いことが理由になる。

申し訳程度に矢代に「私より全然軽い」といった台詞を言わせてはいるが、この二人の“罪の重さ”については議論の余地があるのではないだろうか。昨今の芸能人のスキャンダルなどを見ても未成年飲酒のペナルティはかなり重く、法的に問題にならない仕事に就いている矢代と、明らかに法を犯してる波多野で波多野の方が罪が軽いというのは疑問が残る。少なくとも、テーマが就職活動である以上は、波多野の方が不利だと考える人がいてもおかしくない。

この点を恐らく、映画の製作側も演じている役者陣も“わかって”いる。なので、言い訳のような台詞や演出が入ってきてしまう。

原作において最も一般人からは縁遠い秘密を抱えた嶌の秘密をオミットしてしまったため、残る五人の秘密は妙に現実的で、“一人の大学生が調べ得る秘密”に終始する。そのため、今一つ物語が盛り上がって来ない。暴露された秘密の衝撃度で言うなら、やはり最初の袴田が一番大きくも見えてしまうので、それ以降はどうしても出オチ感が出てしまう。

原作では、この告発に合わせて8年後のそれぞれの姿がオーバーラップして描かれ、それが彼らの秘密の補強にもなるという演出がなされる。これが原作においては最大のトリックにもなっているのだが、今作ではそのシーンがカットされ、関係者への聞き取り調査のみになっている。これはこれで似たような効果は生んではいるが、やはり本人の姿というインパクトには敵わず、秘密の内容の補強にまではなっていないので、印象は変わらないままだ。

その面接、そんなに大事ですか?

また、就職活動というのが大学生にとって一大事なのはわかるのだが、彼らは皆日本人なら誰もが知るような実名の有名大学に在籍し、前半のグループディスカッションの準備を見る限り皆能力も高い学生のようである。実際、それぞれの8年後はそれなりの成功を収め、充実した日々を送っていることが示唆されている。

で、あるなら、ハッキリ言ってこんな異常な最終選考を用意する会社などさっさと見切りをつけても良い。と、言うかこの時点で他の会社の内定が一つもないなんてことを考える方が難しいだろう。そういう立場だからこそ他の会社や大学に秘密が漏れることを警戒しているのだ、とも言えなくもないのだが……どうにも登場人物たちがこの物語に関わる動機が薄く感じてしまう。

原作だと実はスピラリンクスに入社した嶌と比べ、袴田や森久保なんかは明らかに格差を感じる描かれ方をしているのだが、映画版の未来を見ると正直彼らがこの会社にこだわる理由はまったく見えてこない。

明らかに就職の面接に無関係な秘密の暴露大会が始まっても止めに入ることもない面接官の問題に加え、そもそも今作の舞台は一企業の面接会場。通信手段のない嵐の孤島でもなければ、時限爆弾式の首輪が巻かれているわけでもない。こんな不愉快な事態に巻き込まれたのなら、さっさと面接を辞退して席を立てば良いのである。同じ就職活動というシチュエーションでも、『エグザム』(2009)なんかは拳銃を持ったガードマンが監視していたが、今作は現代日本が舞台で、そんな異常事態が起きるはずもない。

にも関わらず、誰一人として退場を提案する者はなく、あくまでルールに則った上で、席上の封筒を開封するか否か、投票を続けるか否かだけで話を進める。役者陣の演技でなんとか持たせてはいるが、実際のところこの状況そのものには大した緊張感があるわけではないので、観てる側の感覚とはどんどん乖離していってしまう。

原作ミステリーの仕掛けの巧みさ

こうした要素の大半は原作小説そのままの設定であり、“=原作小説にも存在する弱点”ではある。ならば、原作小説に問題があるのか?と言うと実はそうではなく、原作には前述した過去と現在を重ねた表現など、随所にミスリードや叙述トリックが仕掛けられている。

今作が原作付の実写化として致命的に失敗してしまっているのはこれが原因だ。

原作小説『六人の嘘つきな大学生』は“構造で読ませる”《ミステリー小説》。

しかし、今作、映画版は“物語を魅せる”《ヒューマンサスペンス映画》、として演出してしまった。

原作小説がミステリーとして面白かった仕掛けをオミットし、その構造を再構築してしまっているため、原作の物語の弱い部分、弱点ばかりが目立つ結果となる。結果として物語の没入感は削がれ、その弱みへの無用なツッコミばかりが出てしまうのは、脚本が今作をミステリーとして書いていないのが原因だろう。

映画と原作小説の違いの一つとして、原作小説では前半の最終選考が波多野の一人称で語られる点がある。波多野の抱える緊張感や猜疑心、就職活動への焦りや恐怖がそのまま文章として綴られるため、この異常な空気に飲まれていく雰囲気を読者に追体験させ、物語の違和感を感じにくくさせている。

しかし、俯瞰して物語を観る映画ではそれが通用しない。各々の秘密の暴露に関しても、演出がアッサリしているので緊張感を煽る展開にならない。物語の内容は原作と変わらないのだが、今作では脚本がその“登場人物だけが焦っている”という違和感を理解した上で、それを無視して物語を進めてしまっているような気がする。なので、物語後半のカタルシスも必然的に弱くなる。

原作小説は、物語を構造や見せ方でうまく演出していたが、映画ではそれがないので、最終的に導き出される結論に納得は出来ても、どんでん返しによる「騙された!」という気持ちよさが生まれない。

この、謎解きの快楽から導き出される結論こそが、原作の最大の魅力で、最大のミステリー仕掛けなのだ。

原作小説では、後半は視点が8年後の嶌に移り、それぞれが暴露された秘密について再び探っていたことが明かされる。ここも映画と大きな違いだが、原作ではその際の探偵役の嶌と彼らのやり取りの一部を、前半の最終選考のシークエンスに“巧妙に隠しながら”重ねることで読者をミスリードし、彼らが就職活動で暴露された秘密通りの人間……どころか、時が経ちより酷い人間になっているかのように見せる叙述トリックが仕掛けられている。また、探偵役が嶌であり、波多野が既に故人であることも一つのどんでん返しとなっている。

映画では嶌の設定をすべてオミットし、あくまで語り部として物語に設置している。調査については就職面接の復讐をしようとした波多野がその役割をすべて担い、嶌はその調査記録から結論を導いたにすぎない。結果として過去と現在のシーンのリンクがうまくハマっていないので、暴露された内容の補強以上の印象の変化がないのだ。

映画と原作小説で、六人(正確には嶌を除いた五人)の嘘の内容に違いはない。結局はその内容のほぼすべては誤解であるわけだし、内容の大小の差もそのままだ。けれど、原作はそこに二度のどんでん返しを仕掛け、それを読者にミスリードさせる、その構造の巧妙さで面白く読ませている小説なのだ。

トリックではなく物語を翻訳してしまった製作のミス

今作は原作小説の映画化として、その翻訳は“物語として見るなら”間違った方向性とは言えない。おかしな改変も、登場人物のイメージの乖離もしていない。

映画化の際に、映像の尺に合わせてある程度設定のオミットは仕方がないし、普通の原作なら、今回オミットした要素は、“なくてもギリギリ成立する”部分だ。実際物語そのものはまったく破綻していない。嶌の秘密を削って完全な語り部として作用させても、物語の内容……本質的なテーマや結論、その見え方は変わらない。

しかし、実はその“物語の根幹ではない”要素こそがこの原作小説をミステリーとして成立させており、それがラストのカタルシスを生んでいる。そこを捉え損なってしまったのが映画製作としての失敗だ。

ミステリーを映像化する難しさとはこの点なのではないだろうか。ミステリーは物語の意味だけでは語れず、仕掛けや伏線が読書体験の面白さを生む。そこをきちんと理解して脚本執筆や演出をしないと、物語の内容だけで勝負するには難しい作品も多い。

他作品のネタバレになるが、『名探偵ポワロ』の「アクロイド殺し」はあの叙述トリックがなければアクロイド氏が殺された事件をポワロが解いただけになってしまい、歴史に残る名作とは言われなかっただろう。

(残念ながら名シリーズであるデヴィッド・スーシェ版ドラマではまさにそうした実写化になってしまっていたのだが)

原作の物語のテーマは波多野の言う(原作ではこれも嶌の発言)

「人は月の裏側は見えない」=人には様々な側面があり、そのすべてを知るのは難しい

という普遍的なテーマで、今作でもそれを六人の大学生を通して描いたわけだが、実は原作においてそれは作者の“描きたいこと”の半分でしかないのではないか。

原作は恐らく、このテーマと同時にミステリーの謎解きの快楽に重きを置いて書かれている。二重のどんでん返しも、テーマの補強と言うより、それをより強めるための仕掛けだ。

《このミステリーがすごい!》などで評価されたのはそういった部分であり、そこをバッサリカットしてしまえば、印象が変わってしまうのは致し方ないことだろう。

“誤解の物語”の印象が弱い理由とは

原作では

【善→悪→善?いややっぱり悪→善】

と登場人物たちの印象が移り変わり、けれどその善性は結局最初の印象通りだった、というその間の“悪”の誤解を生む叙述トリックが解けたときにカタルシスが生まれる。

が、映画では

【善→悪→善】

と流れが一直線なので、なんとも淡白な印象になる。

その積み重ねがあって、原作最後には波多野にも単なる善だけではない一面があったことが明かされ、本当の意味で人の多面性を表して物語が終わるのだが、それも映画では描かれていないので、波多野の悪性については調査段階での五人への復讐心だけで終わってしまう。

犯人である九賀の告白も、演じた佐野勇斗は熱演しているわけだが、物語全体の驚きがないので、動機について「そんな理由で?」という疑問ばかりが湧いてくる。そんな怒りに満ちた表情で語らなくても……と観ている側は冷めてしまうのだ。原作だと8年経っているということで九賀はもはやそのこと自体に対する怒りや憤りは消えており、むしろより厭世的にかつての仲間達を揶揄しているような印象もあるが、今作では仲間たちを目の前にしているためああした演出になったのだろうか。

すべては真犯人である九賀の誤解と、彼の元カノの言う通りに「自分にも他人にも厳し過ぎる人」であったことがこの事件の発端だったのだが、原作ではその誤解を読者にも仕掛けるために、重大な秘密を二つ隠している。

一つは、嶌が足に障碍を負っており、それを全登場人物が認知している点。これが読者への叙述トリック。

これがあることで、現在の調査シーンなどで彼らが取った“問題行動”が、実は嶌への気遣いで、善意からきていたことがわかる。

もう一つは、九賀が今回の暴露を思いつき、五人の仲間に失望するキッカケとなった飲み会の一件。これは、九賀と読者に隠された秘密で、飲み会では酒の飲めない嶌に無理強したりということもなく、その飲み会自体が店の予約を間違えた森久保への気遣いということが明かされる。

この二点が物語からオミットされたために、

“誤解の物語”の印象は薄くなり、“人の多面性”を描いた物語としても深みが足りなくなる。結果として、謎が解かれた後の九賀の叫びも、なんだか宙に浮いて見えてしまう。これは演じた佐野の責任ではなく、原作と変わってしまった物語で原作通りのアクションを取れば当然そうなると言う話だ。

総括:原作の面白さ/評価の軸とはどこにあったのか?

原作小説の映像化として、悪手を取ったとまでは言わない。オミット、再構成の方向も、その取捨選択は“物語のテーマだけを”描くだけなら省略可能な要素ではあったかも知れない。しかし、物語の内容とミステリーの快楽とは必ずしも一致しない。今作は原作小説が評価された点を捉え間違い、ヒューマンサスペンスとして演出してしまったが故に映画としては何とも印象の薄いものになってしまった。

最終盤での録音された過去の波多野の推理の音声と、精神世界での他の五人とが会話するシーンの演出からも、今作は“人の多面性”というテーマの側を映画の主軸にしているのは明らかだと思われる。

結果として、今作は

「暴露された秘密の内容が薄い」

「こんな面接をする会社はおかしい」

「なんでこのディスカッション誰も止めないの?」

といった原作の弱点ばかりが浮き彫りになり、物語の結論も、なんとなく「みんな良い奴らだった」で終わってしまう。

(ちなみに原作ではこの面接を取り仕切った面接官と嶌が話すシークエンスもあり、こうした疑問点にもある程度説明がついている)

邦画というと、規模感の演出のために“爆発させる”か“海外ロケに行くか”……がよく取り沙汰されるが(これは主に連続ドラマ→映画化の方程式とも言われている)、今作はそこまで大規模なシーンもなく、連続ドラマでじっくりと過去と未来を交差させる『リバース』(2017:TBS)のような形式の方が物語の見せ方が活きたような気さえする。

それだけの尺があれば、ミステリーとしての仕掛けも充分に演出出来ただろうし、前半の関係が構築されるまでもしっかり描くことが出来たはずだ。

映画化か、ドラマ化、は難しい問題ではあるが、原作付きの実写化をどう落とし込むか、というテーマを考える際に、今作は重要な材料になる映画なのかも知れない。原作が何故ミステリーとして評価されたのか、それを改めて突きつけられたような作品であった。

評価/鑑賞日

⭐ 2.5 / 5.0
📅 2026/01/04(prime video)

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