――「あの一言」の衝撃が背筋を撫ぜる……誤魔化しなく作られた“新本格ミステリ”の前に言い訳はもういらない
作品データ
原題:Huluオリジナル 十角館の殺人
監督:内片輝
脚本:八津弘幸
早野円
藤井香織
原作:綾辻行人『十角館の殺人』
音楽:富貴晴美
主題歌:ずっと真夜中でいいのに。
「低血ボルト」
製作:日本テレビ
配信:Hulu
回数:全5話
出演者:
江南孝明《ドイル》:奥智哉
島田潔:青木崇高
中村紅次郎:角田晃広
守須恭一:小林大斗
松本邦子:濱田マリ
中村青司:仲村トオル
中村和枝:河井青葉
吉川誠一:前川泰之
吉川政子:草刈民代
島田修:池田鉄洋
中村千織:菊池和澄
※本レビューには作中のトリックについての重大なネタバレを含みます。
該当作品の他、原作・コミカライズ版,
アガサ・クリスティ『そして誰もいなくなった』(1939),
アガサ・クリスティ『アクロイド殺し』(1926)等のトリックについても言及有。
総文字数:11318文字
読み終わるまでの時間:約28分
製作背景:実写化不可能と言われた原作〜叙述トリックの映像化とは
1987年に講談社より刊行された、綾辻行人による同名小説『十角館の殺人』の実写ドラマ化。Huluオリジナルコンテンツとして配信され、2024年末〜2025年始にかけて地上波でも放送された。
原作は言わずと知れた綾辻行人のデビュー作。後に『館シリーズ』と呼ばれるシリーズの一作目となり、日本における《叙述ミステリー》として初めにそのタイトルを挙げる人も多い大傑作だ。《新本格》というジャンルを切り拓いた最初の一冊ともされ、その後の新本格ムーブメントの中には、綾辻行人以外にも我孫子武丸や京極夏彦など、映像作品好きにとっても無視できない錚々たる面々の名が連なる。
監督は内片輝監督。視聴者参加型ドラマ『安楽椅子探偵』シリーズやWOWOWでの『殺人分析班』シリーズ、『相棒』シリーズのエピソード監督も多数務め、ミステリーはお手のもの。『安楽椅子探偵』シリーズの共同脚本家でもある綾辻氏とも20年来の付き合いがあり、今作を手懸けるまでに何度もディスカッションを重ね、綾辻氏曰く「その信頼は揺るぎない」とまで語られている。
《叙述トリック》の映像化ほど、難しいものはない。それは読者の思い込みを利用し、視覚情報がない文字媒体:小説だからこそ成せるトリックであるからだ。ミステリーの事件そのもののトリックとは別種の、“作者から読者に仕掛けられた”トリック。視覚情報がダイレクトな映像作品では、それを成立させること自体が不可能とも言える。正直なところ、これまでいくつもの叙述トリックの名作が映像化に失敗してきた歴史を見てきた身としては、期待半分、不安半分……いや期待3割不安7割くらいの鑑賞だったことは否めない。
……が、今作は見事にそれをやってのけた。不可能を、小手先の技を使わず正攻法で突破したのだ。
『十角館の殺人』の「あの一行の衝撃」
を、ほぼ完全に再現し、かつドラマとして新たな魅力も引き出している。間違いなく、歴史に残る実写化作品の一つと言えるだろう。
見所は「あの一行」だけじゃない!原作を深く理解・尊重した演出の数々
実寸大で作られた中村青司の十角館
この作品を語る上で、どうしても観ている側は“あの一行”に至るトリックに注目して観てしまう。が、今作は叙述トリックの再現以上に、原作小説の映像化について非常に真摯な取り組みがされており、実写化作品が陥りがちな“雑さ”がない。
全5話という尺の中で、原作シリーズの最重要要素である中村青司設計の十角館の造形、原作出版当時の時代性も含め、ほぼ完璧な形で表現していると言って良いだろう。
天窓や調度品、用意された食器まですべてが十角形で占められた十角館という舞台。なんと言っても“館”シリーズである以上、この造形がチープではお話にならない。
実寸大で再現されたセットはまさに十角形のホールに十角形のテーブルが置かれ、原作中盤で「おかしくなりそうだ」と称された建物が顕在している。本島側と比較して、昼間でも明かりの差し切らない薄暗い雰囲気もよく表現されており、事件が進むほどにその不気味さが増していく。
後述する“撮り方”もあるお陰でホールから見渡す屋敷の全景が伝わりやすく、観ている側も常に“十角形を意識”させられることになる。
だからこそ、事件の中で大きな意味を持つ“一つだけ十一角形のカップ”も、実際ああして並べられるとかなり注視していなければ気付かずに見過ごしてしまうだろう。こうした部分にも内片監督の“映像マジック”が隠されており、十角館という建物の奇妙さを再現している。食器や灰皿といった小道具に至るまで、一つも妥協する事なく作られたそれらは、まるで本当にスタッフの中に中村青司が存在しているようではないか。
地上波では観られないリアルな遺体描写と1986年の再現性
今作の素晴らしい点は他にもあり、遺体描写の残酷さもその一つだ。
地上波ドラマでは、(公開・鑑賞時)2024年現在あまりに過激な死のシーンは描かれ難く、血糊も最小限に抑えられている。が、今作においての遺体は、皆白眼を剥き、口を開け、ハッキリと死体であること、その死が予期せぬ恐ろしいものであったことが表現されている。
勿論、青白い顔に白眼を剥いて、というのもあくまでイメージに過ぎず、実際の殺人事件の遺体がどんなものなのかは想像の域を出ない。しかし、ドラマ作品……エンターテイメントとして必要なのはそれが“そう見えるか”だ。
今作で第一の被害者:オルツィが死んだ際にポゥが言う「見ないでやってくれ」も、こうしたシーンが真に迫るのは、遺体描写の映像的リアリティがあってこそだ。
過去回想での中村千織にせよ、角島のミス研メンバーにせよ、つい先ほどまで生きていた彼らがそうして哀れな遺体になるからこそ、またそのギャップが強いほど物語の切迫感は増していく。まだ若いキャスト陣……中にはアイドルとして活動するキャストもいる中でこれだけの描写をやれたのも、配信限定ドラマだからこそなのかも知れない。
また、舞台設定が1986年という時代性もあり、登場人物たちは常にどんな場所でも煙草を吸うのだが、こうした喫煙描写ももう地上波ではあまり観なくなった。喫煙描写は必須とは言わないが時代性を表す重要な要素でもあり、また今作においてはそれぞれが吸っている銘柄が犯人に繋がるヒントにもなる。実物の銘柄を使うわけにはいかなかったにせよ、それぞれの登場人物が吸う煙草は原作で銘柄が明言されたものは出来る限り“それとわかる”ようパッケージデザインも工夫されており、そうした細かい描写にも原作への深い理解とリスペクトが感じられる。
流石に現代の若い役者陣の煙草の吸い方があまりにもサマになっておらず、肺まで煙を入れずに“フカして”いるようにしか見えない点に関してはご愛嬌だろう。
演出においては概ね好印象で、ロケ、セットに加え《インカメラVFX》という被写体を撮影するカメラの位置情報に合わせてバーチャル空間のカメラをリアルタイムで同期させる技術を用いることで、グリーンバック撮影の不自然さやキャストの演じにくさを軽減し、角島のスケール感や連絡や逃亡不可能な空気感を充分に味わわせてくれる。
細かい台詞の言い回しに昭和感が感じられなかったり、実写だと原作にあるような“K大学”や“J崎”“O市内”といった伏字表現が不自然に聞こえてしまうなど、気になる点もあるにはあるが、このくらいは些末な問題だろう。
ドラマ化の改変点①厚みの増した人間ドラマ
物語は実写化にあたり、
原作ではやや弱かった登場人物の人間ドラマに厚みを出すために、“大きな改変”と“細かな改変”が積み重ねられている。
これは決して原作が悪いというわけではなく、原作の館シリーズはミステリーでいうところの
《Who done it?》=誰が殺したか?
と
《How done it?》=どうやって殺したか?
に主眼が置かれた作りだということだ。勿論多くの人物が登場し、その背景や人物像も描かれてはいるのだが、彼らの事件外での日常についての細かい描写はない。
犯人の動機:《Why done it?》=何故殺したか?についても、そこに至るまでの物語を詳細に語るわけではないので、人間ドラマとしての叙情性は意図的に省かれた構造になっている。
しかし、ドラマ版では角島のミス研メンバーに関しても、大枠は原作通りでありながら細かな演技描写や台詞によってその心情が補われ、ラストに至る物語の解釈に幅が持たせられるようになっている。
各々の会話やちょっとした仕草から、7人それぞれの関係性が推し量れ、普段どのように過ごしていたのかが透けて見える。
カーの失恋を本人がいない場で笑っている男たちのシークエンスや、オルツィと距離を縮めようとするアガサ、夢の中では先輩方にタメ語になるルルゥなど、そこには日常を積み重ねてきた登場人物たちのリアルがあるのだ。
原作を読んでいた際には“イケ好かない大学生”(敢えての死語w)という印象だった彼らだが、こうして若い役者陣が実際に演じているのを観ると、その“痛々しさ”まで含めて大学のサークル仲間としてのリアリティに見える。
お互いを推理作家の名で呼び合い、ミステリー談義に気取った口調で花を咲かせる。その馬鹿馬鹿しいやり取りも含め、“若気の至り”という言葉がピッタリで観ていてむず痒くも、懐かしくも感じるのだ。
食事や珈琲などの準備を基本的に女性陣に任せ、男たちはそれに対してただ座っているだけ、という令和の今では時代錯誤に過ぎる描写も、それを当時の描写として当たり前に、登場人物にも気にさせていないのも良い点だ。こうした描写を現代の価値観で無理に隠そうとするほど、物語のリアリティは死んでしまう。
被害者たちは確かに青く、愚かではあったかも知れないが、極悪人ではない。原作においては今回の事件の発端となった件について彼らが語るシーンはほとんどなく、カーの一人称視点の文章ではむしろ揶揄するような記述もあり殺人動機としては妥当という印象にもなるが、ドラマ版では回想シーンでの救命活動など、すれ違いによる誤解という側面が強く出ている。
(この救命活動は真犯人以外の人間の回想という形で何度となく挿入されるシーンなので、ほぼ事実の通りと思って良いはずだ)
第1話で酒を持ち込んだカーにオルツィが激昂する場面や、ルルゥがカーに言う「あの時もそう言ってましたよね」などには、ミス研メンバーが必ずしも中村千織の事件を忘れているわけではないことが確かに表されているし、そんなルルゥの台詞の場に“あの人物”がいなかったのも意味深い。まだ誰も被害者が出ていない時に、この言葉をキッカケに会話が行えていたなら、最悪の結末は防げたのだろうか……。
ドラマ化以前に発表されていたコミック版でもそうだったが、被害者たちの人間性を深く描く上で、発端となった事件を改変するのは非常に重要なことだったように思う。
発表当時は1987年。まだ“アルハラ”という言葉も、その認識もない頃で、学生の新歓コンパでの急性アルコール中毒による死亡事故や救急搬送が日常茶飯事だった頃だ。そうした事例や死についての対応も軽かったし、責任の所在についても、その場にいた学生たちすら深く考えていなかった頃かも知れない。
(勿論社会問題としては取り上げられていたし、世間的な問題意識はあったが、当の大学生やそうした行為を黙認していた層がどこまで責任意識を持っていたかは疑問だ)
なので、原作の描写そのものも、当時の大学生の描き方としては間違ってはいなかっただろうし、その場の描写自体がないのでハッキリしないが、被害者たちに“未必の故意”と呼べるほどの意識もなかったであろうことは読み取れる。
今作ではそれを拡張し、回想の中でその事件の顛末を描いているため余計に遣る瀬無さが増す。また、その舞台が居酒屋等の店舗ではなくミス研の部室になったあたりも、店舗の黙認も罪となる現代の倫理観に合わせて描写をマイルドにした結果だろう。そのおかげで、ラスト第5話での謎解きで明かされる中村千織の真実も意味を持つので、結果として良い改変だったと思う。(未成年飲酒の描写もなく、ここにはかなり気を遣ったのだろう)
コミック版では時代設定そのものが改変されたことで、中村千織の死の原因が書き換わり“誤解”の要素が強くなっていたが、あくまで原作通りの設定でそこに再解釈を加えたのは、原作を読んでいる身としても歓迎したいものだ。
(コミック版ラストの切なさも勿論良い改変で、これは表現媒体による違いが出た面だろう)
もしも犯人もその場にいたのなら、今回の事件は起こらなかったかも知れない。そうした可能性を見せてくれるのが、ドラマのエンディングに痛みを残す。角島の事件の中で被害者それぞれの取った言動も“あの日の再現”になっており、彼らは緊急事態において“その程度”の大学生であったことが示されてもいるのだ。
探偵役であるエラリィも気取った話し方やその態度は原作通り鼻につくものの、外部犯説を常に主張し、その証拠が見つかる度に興奮している様子を見るに、彼は最後の最期まで、仲間たちを信じていたのだろうというのが感じ取れる。
ルルゥ死亡時に彼の遺体の泥を拭いながら呟く「張り切ってたのにな、編集長……」の台詞は、原作にもあった台詞ではあるが、その顔を拭う姿や行方不明になったルルゥを必死に探していた姿と合わせてその意味合いがだいぶ変わって見える。自分を慕いいつも横にいる後輩に対して、エラリィは本人なりに深い友情を感じていたのだろう。
また、事件が起こってからも個人個人で動くことが多かった原作と違い今作では基本的に島の探索も全員で行っており、そんなところにも彼らの普段の関係性が見え、描写として自然さが増している。
ドラマ化の改変点②主人公となった江南と島田の本島組
角島の面々に加え、本島での島田-江南コンビの描写も大幅に増え、これは今作における最大の改変ポイントだ。
原作における江南はどちらかと言えば事件の記述者的な側面が強く、真犯人から江南への感情もほとんど描かれないため、物語の“外に置かれた”人物という見え方が強かった。しかし、今作においては島田や守須とのやりとりや過去回想が膨らまされ、江南が事件を追う理由づけが強くなっている。
麻雀して朝帰りし、ミステリー本に囲まれた小汚いアパートで大家に怒られながら過ごしている大学生というのも、現代ではあまりいなくなった、80年代の大学生、という感じがして非常にリアルだ。
島田と出会って好奇心だけで事件を追い、酒を飲み交わしながらミステリー談義をするシークエンスなども、角島側の不穏さと対照的な日常描写がより事件の悲劇性を高める。
島田に「江南(コナン)くん」と呼ばれながら、ワトソン役でしかない自分にコンプレックスを抱いていたり、そのちょっとした嫉妬は友人である守須にも向いているのも、江南に一人のキャラクターとして深みを与えている。
江南と中村千織の関係を掘り下げたことで、本島組は“探偵主人公コンビ”として物語の本筋に組み込まれた。
中村青司と紅次郎の兄弟関係や千織との関係を時間をかけてゆっくりと捜査するため、紅次郎犯人説も観てる側にミスリードさせるポイントになり、第4話終盤でそれが明かされてからも、“あの一行”がくる瞬間までミステリーを楽しむことができる。
江南が千織に“ワトソンとしての自身を認められた過去”を描くことで、第3話で守須に言う「ここで投げ出したくない」のシークエンスには説得力が生まれ、ただ好奇心に流されていただけの原作とはかなり印象が変わってくる。
千織のことをほぼ覚えておらず、飽き性な性格を自覚しながら島田に振り回されて事件を追っていた原作と比べ、今作の江南には徐々に明かされていく千織の背景を追いかける理由がある。
物語の進行を僅かに原作と変え、本島と角島の時系列を完全に同期したことでラストの仕掛けに対してもよりフェアな見せ方になり、「あの一行」の衝撃もより強くなった。ルルゥの本名を第1話で早々に明かしているのも物語を推理する上で重要なヒントになる(原作では名前が出てきてもそれが島側の“誰か”まではわからない)。
本島の推理パートが長くなったことで島田との関係性も深まり、凸凹コンビ的なコミカルなやりとりや、大学の部室での「自分のせいで何かが変わったなんて考えるのは傲慢だ」という島田の台詞も重く響き、アパートの大家さんとの会話も合わせ、事件後の江南への救いも示唆されているように思う。
キャスティングイメージと若手俳優陣の好演
原作付きである以上、キャスティングのイメージについても合う/合わないが取り沙汰されるところではあるが、これもどのキャストも好演していたと思う。
島側で唯一ポゥだけは原作で描写された外見(髭面の大男)からは離れていたが、医学部の学生らしい神経質な面が出ていて、そこまで気にはならずに観ることが出来た。もちろん、キャスティングについては原作を好きな人ほど意見はあるだろうし、コミック版を先に読んでいるとそのイメージで固定されている人もいるだろう。
(あちらは江南がコナン“さん”になっているが;笑)
若手俳優陣が多く演技についての厳しい意見も目にはするが、個人的にはどのキャストも物語を壊すようなものではなかったと思うし、前述の通り細かい視線や台詞によって役柄のパーソナルな背景を演じられていて非常に良かったと思う。
島田を演じた青木崇高の飄々とした演技はまさに原作の島田そのものであったし、今では原作小説の続編を読む際に、島田と江南は常に青木崇高と奥智哉のイメージで読むようになってしまっている。
「あの一行」はどのように映像化されたのか?
さて、とは言っても今作において最大の争点になるのは、やはり原作を伝説たらしめた叙述トリック……「あの一行の衝撃」をどう再現したか、だろう。
人間が演じる実写作品において……更に言えば、作中の人物については“騙す必要のない”、完全に作者が読者の思い込みを信頼して成立するトリック……これを内片監督はどう映像化したのか。
これに関しては、間違いなく成功していた。筆者は初見ではなく、原作のトリックもすべて知り及んだ上で鑑賞している。が、それでも、原作における「あの一行」、映像においては「あの台詞」が発せられた瞬間は、息を飲むほどの衝撃であったし、思わず膝を叩いた。わかっていたのに、死ぬほど驚いたのだ。原作を初めて読んだあの衝撃が、映像でそのまま再現されていた。
同時に、今作においてこの仕掛けが成立したのは、内片監督自身が、“映像作品の可能性”を強く信じ、そこにあるマジックに対して絶大なる信頼を置いているからだ。叙述トリックの成立自体は、原作と変わらない。観ている側は完全に、映像作品における“思い込み”にハマっているのだ。
今作におけるトリックは作品におけるメタ的な構造も利用している。
角島側、ミステリー研究会のメンバーは、所謂スター俳優ばかりが集まっているわけではない。まだまだ映画やドラマ主演級のキャスティングをされた経験が薄いメンバーの中で、特にフィーチャーされるエラリィ役には映画『五億円のじんせい』(2019)や『向こうの家』(2019)でも主演経験のある望月歩、第一の被害者であるオルツィ役にはHUNNY BEEでのアイドル活動中の米倉れいあ、画面の中で圧倒的な華やかさを持つアガサ役には元欅坂46で卒業後の活躍も目覚ましい長濱ねるが当てられている。
言ってしまえば意図的にキャストの知名度に格差をつけることで、画面に映る時間の差をわかりにくくしているのだ。
実際、ほぼ原作通りに進行する物語の中で、アガサの登場シーンは原作よりやや増えている。こうしたメタ的構造があるために、姿があまり映らないキャラクターの不自然さが誤魔化されているのだ。特に、第1,2話でまだ生存者が多い段階では、そんな不自然さに初見で気づく人間はほぼいないだろうし、第3話以降の後半戦まで来ると、思い込みによる刷り込みは完全に成功しているだろう。第4話ではもはやあの人物を隠す気もなく正面カットも徐々に増えてくるが、それでも疑問に思う層はわずかなのではないだろうか。
こうした仕掛けのために事前のキャスト発表では角島側を徹底的に隠し、EDクレジットも第4話終わりまで出さなかったこだわりも流石だった。
「あの一言」で混乱する視聴者にダメ押しで流れるクレジットによるネタバラシ……これは毎話EDクレジットを入れざるを得ない地上波の連続ドラマではあり得ない演出であるし、全話一挙配信だからこそ許された演出でもあるのだろう。
本来なら事前告知で役者のファン層の視聴者を増やすこともできたキャストを隠し、そんなプロモーション上のマイナスも加味した上で、“あの一行”を再現したのだからそのこだわりようには頭が下がる。
事実、配信後はアガサ役の長濱ねると原作者:綾辻行人氏との対談も配信されており、事務所も製作側も相当“我慢”していたのだろうなと思わされる。正直原作者との対談相手としてアガサ役は違うだろうとは誰もが思うはずだが(笑)、それは長濱ねるというネームバリューと存在感の成せる技だ。
ここから、真犯人についての記述があります。
原作既読勢でも膝を叩いた「あの一行」=「あの一言」とワークショップ型オーディション
もう今更奥歯にものが詰まったような言い方をしてもしょうがない。
今作の真犯人:島側のヴァン=本島側での守須を実現させたのは作品の構造、カメラワーク、プロモーション含むすべての要素による複合的な成功だ。それにより、“あの一行”が完成した。
ワークショップ型オーディションにて1ヶ月の期間を経て、演技指導と選別を同時に行い見事に役を勝ち取った小林大斗は、本当にヴァンと守須の一人二役、いや一人を二人に見せる仕掛けを完璧に演じ切っている。(ちなみにカー役の瑠己也もこのオーディションから選抜された)
地上波ドラマやTV経験がほぼなく、馴染みのない顔だったからというだけではない。本島側では髪を上げ、胸を張って自信に満ちた姿でいるが、角島では体調不良のために髪を下ろし、顔色も悪いため、本当に一見して同一人物には見えない。だからこそ、あの海風で髪が落ちた瞬間をカメラが捉えたとき、観ている側は息を飲む。
「ヴァン・ダインです」
眼鏡を外し、前髪に隠れたその顔のアップと共に台詞が聞こえたとき……余計な演出はなく、ただ表情と目線だけでヴァン=守須が観ている側の中で繋がる。
台詞の響きは、あくまで雑談のトーンだ。物語の中でのあれは本当に雑談で、驚いているのは“神の視点”を持つ読者=視聴者だけなのだから。そういう、重要でありながらさらりと言わなければならない台詞が、絶妙な間とトーンで放たれる。
また、わかってから観ると本島での千織の話題が出たときの表情の変化や、江南や島田とのやり取りなど、きちんと犯人としての感情線が表れているのもわかり、演技演出の一つ一つが実に丁寧に行われていたことがわかる。
角島側でも、前半第1,2話は確かに不自然なくらいにヴァンの姿は見切れていたり、アップにならないシーンが続く。会話の際にわざわざ他の人物に顔を向けているカットを俯瞰で撮っていたりと、意識して観返せばおかしなシーンはいくらでもあるのだ。
全員での会話の中で、すぐに横にいる人物へ顔を向ける姿や、部屋に入る際にアップになる顔がすぐ次のカットに移り変わるなど、通常ならばギリギリやらないような撮り方、悪い言い方をすれば「編集が下手」とも取られかねない演出をしている。
ただ、前述のキャスティングのメタ的な問題や、角島では常に話題の中心にいるのはエラリィやアガサであり、ヴァンは体調不良で言葉少なであるため、そこに違和感を感じにくくなっている。十角館には電気が通っておらず、夜にはランプを用い、昼間も窓が少なく薄暗いのが拍車を掛ける。
後半戦第3,4話になると徐々にアップのシーンも増えてくるので疑問も頭から消えてしまう。本当に絶妙な綱渡りでラストまでを進行しているのだ。4話で死んだルルゥの眼鏡を取り上げるヴァンの姿には何故か観ているこちらがハラハラしてしまう。
本当に、原作の設定のすべてを味方につけた上で、この映像トリックを作り上げてしまった。
出演者:角島側:ミステリー研究会
《エラリイ》:望月歩
《アガサ》:長濱ねる
《ルルウ》:今井悠貴
《ポウ》:鈴木康介
《オルツィ》:米倉れいあ
《カー》:瑠己也
守須恭一《ヴァン》:小林大斗
審判を下したのは誰か?江南による謎解きの意味
最終話ではヴァン=守須の犯行とその動機がモノローグと共に語られていくが、千織と出会ったときの不器用なお互いの存在のアピールなど、淡い幸福が描かれることで原作にはなかった犯人としての絶望が描かれる。
そして、今作が原作にはない人間ドラマとしての完結を見せるのは、原作では最終盤の謎解きに一切姿を見せない江南が、守須のもとへ来て自身の推理を語るシークエンスがあるからだ。
結果としてその推理は誤りであり、守須は自分への告発が発せられると思っていたところで拍子抜けしてしまうのだが、その江南の真っ直ぐに自分を信じる姿と、生前の千織と江南の話を聞く事で、自分自身が犯した最大の過ちに気づいてしまう。江南はあくまでエラリィ犯人説を前提に推理を語り、守須への信頼は揺るがない。しかしだからこそ、守須にとっては二重の苦しみを感じる場面だったはずだ。
内緒で付き合い、二人だけの世界を守るという建前……けれどそれは自身の身勝手で、その秘密が千織を苦しめてもいたこと、それが観ている側には作中の中村青司の無理心中とも重なってしまうのがまだ残酷だ。
また、島田は恐らくこの時点ですべてに気づいているのも、島田-江南の関係性を表し、守須の逃げ道のなさを示している。だからこそ、彼は、審判を受け入れざるを得なかった。
「そうか……審判か」から波音だけになり、その場にいた子供に瓶を渡す。
運命の審判を、その場にいた、ただ偶然にその場にいた何の関係もない存在に託すのが切なさを際立たせる。原作通りではあるのだが、そこにある静かな後味は、映像化の魅力が最大限に活かされ、最後までこの作品は、映像というものの強さと可能性を信頼して作られたのだと納得できる。
コミック版はよりドラマチックに、守須の深い後悔と江南の叫びと共に物語は終わるが、こちらでは守須にとって、まだどちらの可能性もあるからこその余韻が残る。
事件の回想の中で最終盤のエラリィと二人になった際にも、「どうしても中村青司犯人説を譲る気はないのか」ともはや犯人である守須が一番疑心暗鬼に怯え、エラリィはずっと外部犯説を唱えていた。千織が死んだ時のエラリィの「不幸な事故だ」も、あくまで仲間たちに罪の意識を感じさせないため……単純に彼にとって一番大切な居場所を守りたかっただけだったのかも知れない。
総括:原作の魅力のすべてを引き出した実写化作品として
“実写化”作品というものは、時に大きな失望を感じることがある。日本における実写化では原作者の軽視も度々問題となり、明らかに製作者都合の原作改変や、「出来ないなら何故作ろうと思ったのか」と思わされるような再現性の低さにがっかりすることもある。
そんな中、余計な小細工も小手先の誤魔化しもなしに、叙述トリックの名作を完璧に映像化したその手腕も、そしてその再現が映像表現の可能性への強い信頼と工夫によって成り立っているのが伝わるという意味でも、今作は今後のあらゆる映像作品や実写化が参考にするべき作品であると思う。観た後の満足感は、そうしたこの企画そのものへの満足感でもあるかも知れない。
同じ原作者である『Another』、同じように叙述トリックの作品として有名な『ハサミ男』が共に実写化成功とは言えなかった中で、今作の存在は映像業界において大きな指標にもなったはずだ。
惜しむらくは原作がすでに古い作品であり、この叙述トリックは恐らくアガサ・クリスティの『そして誰もいなくなった』や『アクロイド殺し』に並ぶほど有名になってしまっていることだろう。
かく言う筆者も“あの一行”については当然すべてわかった上での視聴である。その上で、「成功している」と心から思うのだが、本当に知らなかった場合、どこまで衝撃を味わえたのか……どうにも完全初見の視聴者というのはほとんどいなかったんじゃないかとも思っているので、そこは本当に勿体無いと思ってしまうのだ。完全初見でも、騙されると信じてるのだが、どうだろう?
どうにか完全初見の人に観せたいと、こんなネタバレだらけのレビューの中で言うのもお門違いとは思うのだが……(笑)
出来れば、原作を読んだ時と同じ衝撃を、このドラマ化から味わう人がいて欲しいものだ。原作の映像化という意味ではほぼほぼ過不足はない。先にこちらを観る人がいても、何の問題もないと思っている。
叙述トリックとはミステリーにおける諸刃の剣であり、タネが明かされてしまえばそこで読書体験が終わってしまうと思われがちだ。
しかし、優れたミステリーは、犯人がわかっていても、何度読んでも事件が防げないとしても、繰り返し楽しむことが出来る。
今作もまた、そうした作品に仕上がっていると思うし、その仕掛けを成立させるための緻密な積み重ねや、原作から再解釈された物語の厚みにより、噛むほど味が出る作品になっている。今後《館シリーズ》の映像化はシリーズ展開も期待される。江南/島田のコンビが原作以上の魅力に満ちている今作の後だからこそ、中村青司の次の館で彼らに会えるのもまた楽しみでならないのだ。
⭐ 4.5 / 5.0
📅 2024/03/29(Hulu)
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