ティム・バートン全作品レビュー15
――復讐に取り憑かれた男と, 愛に囚われた女……血に濡れた剃刀と人肉パイだけが二人の絆
この作品はどんな作品?
ティム・バートンが学生時代に影響を受けたスティーヴン・ソンドハイムの名作ミュージカルの実写映画化。
映画的な翻訳、尺の調整はあれ、原作に忠実で丁寧な映像化に、バートンお得意のセットや血糊表現へのこだわりでミュージカル版のファンも納得の出来。ただ、バートンとして描きたいものがあったかと言うと疑問が残る。
この作品はどんな人にオススメ?
噴き出る血糊や人肉パイなど、ノワール的残酷表現の美しさに惹かれる人。
スティーヴン・ソンドハイム作の同名ミュージカルが好きな人。
産業革命時代のロンドンのゴシックでありながら荒んだ雰囲気を思い切り味わいたい人。
作品データ
原題:Sweeney Todd:The Demon Barber of Fleet Street
監督:ティム・バートン
脚本:ジョン・ローガン
原作:スティーヴン・ソンドハイム/ヒュー・ホイラー
ミュージカル『Sweeney Todd, the Demon Barber of Fleet Street』
音楽:スティーヴン・ソンドハイム
撮影:ダリウス・ウォルスキー
上映時間:116分
出演者:
ベンジャミン・バーカー《スウィーニー・トッド》:ジョニー・デップ
ラヴェット夫人:ヘレナ・ボナム=カーター
ターピン判事:アラン・リックマン
ビードル・バムフォード:ティモシー・スポール
ジョアンナ・バーカー:ジェイン・ワイズナー
アンソニー・ホープ:ジェイミー・キャンベル・バウアー
アドルフォ・ピレリ:サシャ・バロン・コーエン
トビー:エド・サンダース
物乞いの女:ローラ・ミシェル・ケリー
※本レビューにはネタバレを含みます。
総文字数:9804文字
読み終わるまでの時間:約25分
製作背景:学生時代のバートンが感銘を受けた原作ミュージカル
ティム・バートン監督による、スティーヴン・ソンドハイムとヒュー・ホイーラー作1979年の同名ミュージカル実写映画化。
ミュージカル自体も1970年の戯曲『スウィーニー・トッド』を原作としており、更にその大元には19世紀イギリスで流行した怪奇小説がある。
今作の企画は1980年代、バートンが映画監督としての地位を確立しつつあったタイミングから始まっている。
バートンはカリフォルニア芸術大学の学生時代に原作ミュージカルを観ており、当時自身の将来の展望に迷っていた彼にとって、それは大きな衝撃だった。ミュージカルというジャンルを好んでいなかったはずのバートンは、その衝撃を引きずり何夜も連続して観劇に向かったと言う。
(そもそも始めに観に行ったのは「ポスターが格好良かったから」という非常に感覚的な理由だったというのもバートンらしい)
その後映画監督としての頭角を表したバートンは自らソンドハイムに映像化の企画を持ち込み、ソンドハイム側もすぐに快諾したものの、バートン自身の多忙により話が宙に浮いてしまっていた。
その後も企画自体は進行しており、2000年代前半には『ロード・トゥ・パーディション』(2002)のサム・メンデスが監督として起用されるも、メンデスは『ジャーヘッド』(2005)の撮影のために降板し、ここでようやく当初の希望通りバートンが登用されることになる。
バートンは当時アメリカの人気漫画家ロバート・リプリーの半自伝的物語を描く実写映画『Ripley’s Believe It or Not!』の企画が予算超過によって頓挫しており、二つ返事でこの企画に飛び乗ったのだそうだ。
そもそもがバートン本人が望んで始まった今作……学生時代のバートンが衝撃を受けた作品を、映画監督として成熟した状態で撮るという創作者にとっては夢のような企画であり、原作ミュージカルへの愛とリスペクトに満ちた、丁寧で誠実な翻案作品である。
ミュージカル:「The Ballad of Sweeney Todd」のカット〜舞台→映画の翻訳
今作は原作ミュージカルの忠実な映像化であり、バートン作品としては二作連続でのミュージカル作品となる。楽曲はすべて本家ミュージカルから新録し、シーンと尺の都合で削られたものはあれ追加楽曲の類は一切ない。そのため、今作ではいつものダニー・エルフマンではなく、全曲作詞作曲スティーブン・ソンドハイム。ただし、ミュージカル版よりもより壮大で映画的な規模のサウンドにするため、オリジナル盤編曲者ジョナサン・チュニックによって原盤の27人のオーケストラ編成から、78人のオーケストラ編成へとリアレンジされている。
歌唱もすべて役者本人。キャスト陣に本格的なミュージカル俳優は一人もいないが、ソンドハイム監修の下、各楽曲はキーやテンポをキャストに合わせて調整してある。
ミュージカル版では各所で「The Ballad of Sweeney Todd」のメインテーマが歌われ、これが物語を外から説明する役割を担っているのだが、今作ではこの曲を始め所謂アンサンブル……街の人間や脇役の歌唱のほとんどをオミットし、あくまでスウィーニー・トッド/ベンジャミン・バーカーの復讐の物語として再構築している。
これはバートンが初めて原作ミュージカルを観た際に感じた“音楽付きの無声映画のような作品”というイメージをより強め、かつトッドをバートンの“異形”として描く作劇を強めている。
メインテーマの旋律自体は劇伴として流れており、あの印象的なリフレインはきちんと物語を彩ってくれるので原作を好きな身としても安心だ。
実際にはクリストファー・リーやピーター・ボウルズ、アンソニー・ヘッドなど総勢8名をゴーストとしてキャスティングする案もあったそうだが、撮影スケジュールの都合もありそちらはすべてカットとなった。
これまでのバートン作品でもナレーションが登場する作品はあったが、それらは作中登場人物によるモノローグとしての意味が付与されることが多かったので、結果としてこの選択はバートンらしい意匠になったと言えるだろう。
その他にも映画のテンポを重視する意味で、いくつかの曲がカットもしくは短くアレンジされ直している。
アンソニーとジョアンナ周りの物語もだいぶ削られているが、前作『ティム・バートンのコープスブライド』では物語の主体がやや散漫な印象もあったので、個人的にはこの改変は成功だったように思う。

映像論:ゴシックロマンと噴き出す血糊……バートンの描く残酷喜劇
モノクロ映像にも近い陰鬱な灰色世界を生きる者達
画面の作りは一目でバートンとわかる、徹底して薄暗く、陰鬱な闇の世界。
前作から二作続けてお得意のゴシックでレトロな時代を描いているが、今作はまさに舞台となったロンドンのパインウッド・スタジオで撮影されており、その空気感ごと世界観を再現している。企画段階ではセットを最小限に抑え、グリーンバック撮影を主とするはずだったのだが、俳優がCG合成の世界で歌うことの不自然さをバートンは許容しなかった。
結果として大規模なセットが組まれたかつてのフリート街は、ネズミが這い回り、猫の肉さえパイにすると噂されるこの時代のロンドンの薄汚さ、貧富の差により生まれる独特の陰りが感じられる見事な出来だ。産業革命時代の黒い煙が空を覆い、終始薄暗い世界観の説得力を高める。工業地帯とゴシック建築の融合には同じくパインウッド・スタジオで撮影した『バットマン』のゴッサム・シティの匂いも感じられ、その街の外観はまさに「ロンドンのような所は他にない」。この街になら、人肉パイを売る店があってもおかしくないと思わせる。
劇中明るいシーンはほとんどないが、その中でもトッドとラヴェット夫人がいるシーンと、その他のキャラクター、アンソニーやジョアンナが登場するシーンではその彩度が異なっており、物語が後半に近づくほどトッドやラヴェット夫人のシーンでは画面が暗くなる。
特に終盤、ラヴェット夫人とトビーが「Not W Hile I’m Around」を歌うシークエンスは、もうほぼモノクロ映像と言って良い。息子代わりに愛したはずのトビーの口を封じることをラヴェット夫人が決断するこの場面は、いよいよラヴェット夫人が最後の一線を超えてしまったことを表しているのだろう。
そんな中、トッドの世界には一度だけ光が射す瞬間がある。冒頭ロンドンに戻り、ラヴェット夫人から返された愛用の剃刀を手にした際の、恍惚とした表情……その時画面の彩度が、全体の暗さはそのままほんの少しだけ上がり、薄曇りのロンドンの黒雲を割って太陽が姿を見せる。今作で太陽が画面に現れるのは、このたった一度きりだ。
スウィーニー・トッドという復讐者が目的を手にしたことで、世界は色を僅かに取り戻す。前作『ティム・バートンのコープスブライド』での死者と生者の再会のシークエンスで僅かに彩度が上がったあの演出が、今作でも光る。これは確実に映画だからこそ出来た表現であり、舞台ミュージカルから映像化された意味が大きく感じられるシーンだ。

噴き出すオレンジの血糊とバートンらしい殺人椅子の造形
バートンは原作ミュージカルを高く評価しつつも、血生臭く噴き出す血液が使えない演出には懐疑的だったということで、今作では血糊を思い切り使い、殺戮シークエンスでの撮影はスタッフが皆ゴミ袋を被って臨んだという徹底ぶり。その血には絶妙なぬめりと重みがあり、血の質感までしっかりと感じられるのがさすがのこだわりだ。
血糊の使用量は1シーンに対して1人の人間の体内総血液量を優に超えるほどだったと言い、更に使われた血糊には、彩度を下げて造られたセットとライティングの中でその色が映えるよう、通常の紅ではなくオレンジに近い色にする工夫が取られた。
終始燻んだ色調の世界で、画面を切り裂くように輝く剃刀や、画面処理によって真紅に輝いたそのオレンジの血液だけが、この世界で唯一の、曇りのない輝きだ。灰色かセピアの記憶しか存在しない世界、現在形の時間軸にはほぼ色が着かない画面の中で、初めて美しい色を放つのが、1人目の被害者であるピレリから噴き出る血液なのだ。
『スウィーニー・トッド』と言えばやはりトッドが首を切るセット椅子だが……その殺人椅子を作るシークエンスはバートンらしいDIY精神に満ちている。死体の通り道はお得意のピタゴラスイッチ的な作りで、その残酷な使い途に反し、地下の作業室へ死体が滑り落ちていく一連の流れは不謹慎にも観ていてワクワクさせられる。ミュージカルのセットでは見られないその描写の細かさが如何にもバートンらしい。
死体が落ちる際の「べしゃっ!」という絶妙に柔らかさを残した嫌な音もきちんと演出され、バートンが映画化するならこれは是非とも観たかった!というものが完全で完璧な形で再現されている。パイ焼きのオーブンの蓋の造形や、肉挽き機にはスチームパンク的装飾も見え、まごう事なきバートンの映画であることを表明している。
キャラクター考①:生きたまま死んだ男ベンジャミン・バーカーとラヴェット夫人
スウィーニー・トッド=ベンジャミン・バーカーを演じるはすっかりバートン作品の常連となったジョニー・デップ。デップはバンド経験者ではあるが、そちらではギタリストであり、ミュージカル作品は未経験だった。
(前作でデップが歌う場面はなし)
バートンは今作の製作にあたりデップを最初にキャスティングしているが、これはソンドハイムの承認を受けた他のキャスティングと違ってバートンの独断であり、歌声を聴いたことがなかったプロデューサーや、他ならぬバートン自身もヤキモキしていたとか。バンド時代の仲間と劇中曲の「My Friends」をレコーディングしたものをデップが提出し、それを製作陣が聴いたことでようやく今作の撮影・録音は本格始動した。
その歌声は決してミュージカル歌唱として正確なものではないが、俳優として培ってきたキャラクターの作り方、その低く感情を押し殺したような声色は、まさに生きたまま死んだ男、ベンジャミン・バーカーの苦悩がそのまま歌になったようだ。
復讐に走る猟奇殺人鬼でありながら、その殺しはまるで作業のように静かに、軽やかに行われ、劇中感情を露わにするのはターピン判事が絡む時のみ。彼にとって復讐以外のすべての行為は無意味であり、そこに一切の感情が入らない。そんな亡霊のような存在を、デップはこれまで以上に表現力豊かに演じている。
今作の主要な登場人物たちは、皆“死”や“嘘”に傾き、まっとうな生者としてはカウントされていない。肌色は画面の彩度に合わせて薄暗く、目元にはクマのように濃い紫や茶色のアイメイク。寝不足で目が開き切ったときのような、光はないのに大きく見開かれたトッドとラヴェット夫人の目には、そんな日本の歌舞伎役者にも近いメイクが施されている。
アンソニーやジョアンナといった、物語の中では“正常な側”にいる他の登場人物らにはこのようなメイクは施されず、彼らと一緒になると、トッド達の肌のその異常な白さも際立つ。対比的なその演出により、彼らが既にこの世の者ならざる、異形としてそこにいることが視覚的に表現されているのだ。
これは中盤、ラヴェット夫人が歌う「By The Sea」のシークエンスでも顕著だ。
ラヴェット夫人が夢見る海辺の風景は明るく、そこを歩くエキストラもごく普通の肌色であるのに、トッドとラヴェット夫人の二人は薄暗いロンドンの色彩のままで、画面の中でそこだけが浮き上がっている。
物語中盤から彼らの生活に加わるトビーもまた、登場時は普通の登場人物と同じ肌色であったはずが、このシークエンスまでくると同じように色彩を失っている。知らずとも、トビーはラヴェット夫人とともに人肉パイを売り、既にその計画に巻き込まれている。ラヴェット夫人にとってはこの薄暗い三人こそが、理想的な家族なのだ。
演出論:原作からの変更点……トビーとルーシーの見せ方
青年から少年へ~悲劇性を増す擬似親子の物語
トビーは原作ミュージカルから最も設定が変わったキャラクターであり、その変更はバートンらしく、そしてそれゆえに今作の物語は悲劇性を増す。
トビーは原作ではトバイアス・ラグという青年で、知的障碍を持った人物として描写されることが多い。(時代や、国ごとの翻案演出により変わることもある)
殴られ、酷使されてもピレリの傍を離れることが出来ず、その虐待を気にも留めないトビーの姿は、ラヴェット夫人への依存や最後の展開に繋がるわかりやすい布石になっており、親を亡くしていることから、彼もまた疑似家族への愛に飢えていたことがよくわかる。
原作のトバイアスはピレリの搾取構造から救ってくれたラヴェット夫人へ恋慕を募らせることになるが、少年トビーになったことで、その依存の理由が恋→親愛へと変化し、その親愛が裏切られる悲哀がより増している。
また、ラヴェット夫人が見せる母性についても、トビーの低年齢化で無理なく描けており、親を亡くし、そして引き取られた場ですら居場所を失くしてしまうトビーの家族像には、これまでにバートンが描いてきた“機能不全家族”の意匠も見て取れる。
ラヴェット夫人はトビーを「巻き込まないで」とトッドに頼むシーンもあり、「By The Sea」の理想のシーン中にも登場していることから本当に三人での生活を夢見てはいたのだろう。
しかしそれでも、彼女にとってはトッドの方が大切だった。トッドとの未来のためならば、トビーの命を差し出すことさえ厭わない。これは、トビーを少年にしたことでよりその残酷さが際立ったシーンであり、どこまでもラヴェット夫人は、“親”ではなく“女”であろうとした。
トビーをパイ焼き作業室に閉じ込めたラヴェット夫人はなんとも言い難い、諦観とも悲しみとも取れる表情を浮かべるが、その後トッドとトビーを探しに来た際には、優しい声色で囁きかけながら、その手にかけることを心に決めている。この残酷な二面性こそが、ラヴェット夫人のキャラクターの本質だ。
正気を失っていたのはどちらか〜ルーシー(母)の親愛とラヴェット(女)の情愛
ラヴェット夫人と対比して描かれるのがトッドの元妻であり、物語の中では既に正気を失い物乞いとなっているルーシーだ。
ミュージカル版ではターピン判事の辱めの記憶からか、娼婦のように振る舞うシーンもあるが、今作ではそういった台詞は全面的にカット。代わりにラヴェット夫人への恨みと不信、娘ジョアンナへの想いが強調されている。
劇中ハッキリと描かれるわけではないが、ラヴェット夫人に対しては常に不信を振り撒き続けており、彼女が正気を失うまでにも、二人の間に何かしらの出来事があったのでは?と考察する余地がある。ラヴェット夫人はルーシーが毒を飲むのを止めたという劇中の台詞もあるが、これも恐らく嘘なのだろうし、ラヴェット夫人がトッドの剃刀と部屋を保全していたことからも、彼女の横恋慕はトッドが街にいた頃からだったのも推察できる。
アンソニーがジョアンナを店に匿ってくれと持ち掛けた際も、彼女はアンソニーを殺し、ジョアンナと自分と三人で暮らせば良いとトッドに説いている。彼女からすれば、トッドとの間に疑似家族を築けるのであれば、トビーでもジョアンナでも、“子供役”はどちらでも構わなかったのだ。
記憶を失っても娘を見守り続けた母親と、母性を感じながらも息子(トビー)より夫/恋人(トッド)を選んだラヴェット夫人。果たして正気でなかったのはどちらの側か。
同じことはトッドにも言える。彼はあれほど焦がれた妻の姿も、娘の姿もその目に入れることはなかった。目の前にいながら、復讐に囚われ、過去の姿にだけ執着した彼は、現在の二人の姿に気づくことさえなかったのだ。
舞台での第二幕……映画中盤からは、ルーシーの顔はほとんど隠れていない。序盤こそ前髪や汚れで顔が見えにくくなっているが、中盤からは隠す気もなく、勘の鈍い観客でもすぐに物乞い女=ルーシーのカラクリには思い至るだろう。気付かぬはトッドばかり。恐らく、これは意図して演出したことだろう。
何人もの首を切り、血塗られた手でルーシーの写真を汚すトッドの姿には、もう戻れない異形の復讐者の姿があり、そうなってしまった彼はもう二度と、愛する妻子のもとには帰ることが出来ないのだ。
キャラクター考②:嫌悪感を増したターピン判事のじっくり描かれた殺害シーン
ターピン判事とバムフォードの嫌らしさも、映像化されたことでその解像度がグッと上がった。
ターピン判事がジョアンナの部屋を覗き穴から見ているシーンは、そのあまりの気持ちの悪さがアラン・リックマンの芸達者ぶりで表現され寒気がするほどだ。トッドを流刑にした後、ルーシーへの求愛を断られてもまるでピンと来ていない表情なども、ターピン判事の異常性がしっかりと表現されている。
身嗜みを特に気にしていなかった原作と比べ、バムフォードに指摘されて言い訳をしているあたり、そうした客観性は持ち合わせているようでより性質が悪い。逆に言えば、身嗜みさえ整えれば本当にジョアンナが自分のものになると思ってさえいる、その勘違いが恐ろしい。
ターピン判事のキャラクターはある意味で非常にバートンらしい、女性に及び腰なナードであり、そうした存在が力を持つことの恐ろしさが描かれている。今作ではジョアンナへの劣情を歌うターピン判事のソロ曲「Johanna」がカットされており、このターピン判事であの曲の歌唱は観てみたかった気もする。
バムフォードはどこまでもターピン判事に媚びへつらい、子供さえ死刑に処すターピン判事にやや顔を歪めながらも、すぐに手をこねくり回す醜悪さと、それと反比例するように身嗜みにこだわるナルシスティックなところがより残忍に映る。
バムフォードについては他の被害者と同じく、むしろより扱いがひどくその殺害シーンすら描かれないが、ターピン判事の殺害シーンはたっぷりと時間を取って濃密に描かれる。
トッドは何度も何度もターピン判事に刀を突き立て、首にもゆっくりと、線を引くように剃刀を滑らせる。血糊の量も、ここまでとは比べ物にならず、天窓にまで血飛沫が舞う。
直前のルーシーを殺害したシーンとは比べ物にならないほどに詳細に描かれたこのシークエンスが、スウィーニー・トッドの復讐劇とその地獄の終章。狂った笑みを浮かべたトッドは、ここでもう役割を終えるのだ。
物語論:すれ違うだけの愚かなロマンスと無言の最期
ただ一度目を合わせたのは,殺人という手段への合意だけだった……
復讐と愛に囚われた異形……トッドとラヴェット夫人の、ただひたすらすれ違うだけの関係性は、このミュージカルを残酷喜劇たらしめる。
トッドは劇中ラヴェット夫人と、ほとんど目を合わせることがない。トッドはラヴェット夫人の言葉に耳を貸さず、一度たりとも彼女に向き合わない。この目線と心の隔たりを演出出来るのも、カメラや編集で俳優の顔をアップに出来る映画ならではだ。
二人が唯一目を合わせるのは、中盤「A Little Priest」で人肉パイを売ることを決めるシーン。このシークエンスでのみ、二人は“共犯者”として心を交わし合う。劇中二人の目的が一致するのは、唯一ここと、ピレリの育毛剤を貶すときだけだ。
この人肉パイは物語の中核であり、しかし同時に、この二人の目的には“何の関係もない物”でもある。
トッドの目的はターピン判事への復讐であり、彼の過去を知り脅したピレリ以外の殺しは、その目的には何の因果もない。
ラヴェット夫人にとっても、パイ屋の繁盛などは実際二の次。彼女は徹頭徹尾、トッドの傍にいたいだけだ。
彼らの行う殺しと人肉パイ作りには何ら正当性はなく、この作品の主題に捉えられがちだが、物語的には何の意味もない。二人がようやく目を合わすのは、そんな無意味な瞬間だけなのだ。
この「A Little Priest」のシークエンスでは、パイの原料となる人間が次々と映り、その味を品定めするかのようにトッドとラヴェット夫人の歌が流れていく。元々歌詞は非常に悪趣味なものだったのだが、そこに生きた人間の映像が加わることでよりその残虐さがより増し、それがコミカルに表現されてしまうのがバートンらしい。
一人一人の姿とパイが映されることで、元々くすんだ画面でまったく美味しそうに撮られていなかったパイがより酷いものに見えてくる。
これもやはり、ミュージカルでは味わえない面白さだ。
音のついた無声映画……バートンが描きたかったラストシーン
物語のラスト、ラヴェット夫人をトッドがパイ焼き釜へと放り込むシーン。彼は炎に焼かれるラヴェット夫人を一瞥するも、すぐにその空気孔を閉ざし、彼女の最期の視線すら拒絶する。
この容赦のない描写の残酷さ……それはトッドが劇中徹頭徹尾、一度たりともこの疑似家族に感情を持っていなかったことも表されている。……いや、既に、自身の本当の家族のことすら、トッドは見失っていたのだろう。彼が見ていたのは、幻想の中の、思い出の中の家族の姿だけで。彼はもう、ターピン判事に島流しにされた時点で死んでいたのだから。
ラヴェット夫人を焼き殺し、静かに自分が手にかけた妻の遺体に語りかけるトッドと、その首を無言で切り裂くトビーの描写は、原作ミュージカル以上に衝撃的で残酷な終幕として胸に刻まれる。
ミュージカル版のトバイアスは「殺人はダメなんですよ」といった台詞を言いながら近づいていくが、トビーは無言で、悲しみとも怒りともつかぬ表情で、トッドの首を一気に切り裂く。
切る方も切られる方も無言のシークエンス。それがこれまで歌い踊るように演じられてきたミュージカル映画の中で際立って静謐で美しい。
自らの首から溢れる血でルーシーの遺体を汚すトッドは、妻の上に倒れ、抱きしめることすら叶わない。バートンの言う“無声映画のような”ラスト。ミュージカル映画が、音を亡くすことで、世界は閉じていく。
総括:丁寧で忠実な映像化……そこにバートンの作家性はあったのか
今作は映像作家としてのバートンの魅力が全面に出た傑作だ。その残酷喜劇への造詣の深さや、画面演出力、手作り感あるセットや小道具のセンスが、舞台ミュージカルの世界を120%の力で映像化している。
バートン自身がこのミュージカルに惚れ込んでおり、「ストーリーは変えたくない。パロディもエンディングも、ストーリー・テリングに関わることは何一つ変えたくない」と語っていたことも、原作者のソンドハイムが全面協力していたことも、この完璧な映像化に関係しているだろう。
しかし……
ここまで語った上で敢えて言うならば、今作でバートンがやったのは、言ってしまえば
【忠実で完璧な映像化】と
【それに伴う映画的翻訳】でしかなく、そこにバートンとして描きたいものや表現したいものがあったのか?という点に関しては疑問が残る。
アンサンブルの歌唱やアントニーとジョアンナ周りの歌唱を削ったのは映像化における翻訳であってバートンの意匠を汲んだ再構築とは言えない。
ティム・バートンは本来非常に作家性の強い、その作家性故の良し悪しもありながら、既存の物語を自身の色に染めてしまうような監督だ。
『バットマン』・『バットマン リターンズ』では巨大IPの人気キャラクターに新たなオリジンを描き加え、玩具会社の戦略や要望と正反対に自身の孤独の物語を描き、
『チャーリーとチョコレート工場』ではウィリー・ウォンカに自分自身の物語を重ね、父との和解のその先を描いた。
そんなバートンが、今作には自身の物語を投影した様子がほぼ見えない。
これが残念ながら『ビッグ・フィッシュ』以降顕著になる、バートンが自己模倣に陥っていると感じてしまう所以でもある。
今作は、原作ミュージカルを好きな観客のウケも良く、評価されて然るべきだ。けれど、血の表現も、19世紀ゴシックロマンの世界観も、既に過去のバートン作品で観たことがあるものであり、その先のバートンの新しい目的地が見えてこないのだ。
この時期のバートンは『ビッグ・フィッシュ』で一区切りをつけたあと、自分の創作の原点へと回帰しつつある時期だったのではないだろうか。
『スウィーニー・トッド フリート街の悪魔の理髪師』
→『アリス・イン・ワンダーランド』
→『ダーク・シャドウ』
と、この三作はすべて原作付きであり、バートン自身が若い頃や幼少期に見聞きしたものの翻案作品になる。
ディズニーと再び組んだりという流れはありつつ、その三作すべてがジョニー・デップとヘレナ・ボナム=カーターを含むお定まりのチーム・バートンの布陣で挑んでおり(『ティム・バートンのコープスブライド』や『チャーリーとチョコレート工場』も含めると5作品連続)、自己回帰はむしろ自己模倣に落ち着いてしまったという感もある。
バートン自身の創作性がどこに向かっているのかが今ひとつ見えてこない、今作はそれ自体は秀作であるのに、そんな迷走期の始まりに思えてしまってならないのだ。
⭐ 3.5 / 5.0
📅 2025/09/04(Hulu)
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