ティム・バートン全作品レビュー14
――薄暗い“生の世界”/明るく楽しい“死の世界” さぁ婚礼だ,婚礼だ 自由になったのは一体誰?
この作品はどんな作品?
マイク・ジョンソンと共作となる,バートン監督作としては初のストップモーション・アニメーション長編映画。
明るい死者の国と薄暗い生者の国の対比,死者と生者の悲恋など……バートンらしさ満載ながらどこかバートンがバートンを演じているかのようなぎこちなさを感じる作品。エミリーは本当に自由になれたのだろうか?
この作品はどんな人にオススメ?
『ナイトメアー・ビフォア・クリスマス』のような、バートンの描く“異界の物語”が好きな人。
『ビートルジュース』や『アダムス・ファミリー』のような不謹慎でちょっとグロテスクな死者世界が好きな人。
ハロウィン・シーズンにピッタリな、明るく楽しいミュージカル映画を観たい人。
作品データ
原題:Tim Burton’s Corpse Bride
監督:ティム・バートン
マイク・ジョンソン
脚本:パメラ・ペトラー
キャロライン・トンプソン
ジョン・オーガスト
音楽:ダニー・エルフマン
撮影:ピート・コザチク
上映時間:76分
出演者:
ヴィクター・ヴァン・ドート:ジョニー・デップ
コープスブライド(エミリー):ヘレナ・ボナム=カーター
ヴィクトリア・エヴァーグロット:エミリー・ワトソン
バーキス・ビターン卿:リチャード・E・グラント
ボーンジャングルズ:ダニー・エルフマン
クロゴケグモ/ミセス・プラム:ジェーン・ホロックス
マゴット/東西屋:エン・ライテル
グートネクト長老:マイケル・ガフ
ちび将軍:ディープ・ロイ
ネル・ヴァン・ドート/ヒルデガード:トレイシー・ウルマン
ウィリアム・ヴァン・ドート/メイヒュー/ポール・ヘッド・ウェイター:ポール・ホワイトハウス
モーデリン・エヴァーグロット:ジョアンナ・ラムレイ
フィニス・エヴァーグロット:アルバート・フィニー
ゴールズヴェルス牧師:クリストファー・リー
※本レビューにはネタバレを含みます。
総文字数:8648文字
読み終わるまでの時間:約22分
製作背景:ジョー・ランフトが語った昔話/初の共同監督によるストップモーション
ティム・バートンとマイク・ジョンソン共同監督による、2005年のストップモーション・アニメーション映画。
初期作品の『ヴィンセント』は6分程度の超短編であり、『ナイトメアー・ビフォア・クリスマス』は監督をヘンリー・セリックに任せていたため、意外にもバートンが長編映画としてストップモーション・アニメーションを撮ったのは今作が初。とは言えこちらもジョンソンとの共同監督であり、単独監督作品は2012年の『フランケンウィニー』まで待つことになる。
(1996年の『ジャイアント・ピーチ』もセリック監督・バートン製作作品である)
今作の製作は『ナイトメアー・ビフォア・クリスマス』の頃から始まっており、元ディズニーのストーリーボード・アーティストであり、バートンとはカリフォルニア芸術大学時代からの旧友であるジョー・ランフトがバートンに話したユダヤの民話が基になっている。
(ランフトはあのポール・ルーベンスも在籍した即興劇団《グラウンドリングス》にも所属しており、バートンの交友関係には奇妙な縁がある)
ランフトが語って聞かせた生者と死者の両方から求婚される男の物語、という民話の世界観はバートンにとっても魅力的な題材だったのだろうが、『ナイトメアー・ビフォア・クリスマス』の流れでディズニーへと持ち込んだこの企画に“またも”上層部は難色を示して拒否し、結果、構想から十年近くを経過した2003年、『ビッグ・フィッシュ』の作業終盤頃になってようやくワーナーでの製作が始まることになる。
製作のキッカケとなったランフトも製作総指揮に加わっていたが、彼は今作完成間近に事故で逝去。エンドロールには彼への献辞も掲載された。
今作の撮影は『チャーリーとチョコレート工場』と同時期に行われ、キャスト・スタッフも数名が重複している。そうした作業量の多さもあったため、演出をジョンソンと共同監督し、ジョンソンはバートンの求める理想の画にスタッフを導く潤滑油のような役割を担っていたようだ。
そんな二本撮りが影響したのか、そもそもテーマそのものが構想からの十年の間にバートンの中で変わってしまったのか……今作は第78回アカデミー賞長編アニメ映画賞にノミネートされ、2006年の英国アニメーション賞で最優秀ヨーロッパ長編映画賞、2008年アメリカ映画協会の「トップ10アニメーション映画」リストにもノミネートされるほど評価の高い作品ではあるのだが……、個人的にはどうにもバートンらしくない、バートンらしさが表面的になってしまっているような、そんな印象を感じてしまう出来である。

ミュージカル:This is Halloween的キラーチューンの不足
今作は『ナイトメアー・ビフォア・クリスマス』以来の全編ミュージカル映画となり(バートン監督作としては初)、楽曲はお馴染みダニー・エルフマン。当然歌唱も担当しており、「Remains of the Day」はエルフマン演じるボーンジャングルズによって歌われる今作のメインチューンだ。
(今回エルフマンは無事台詞部分も担当、しかし次作ではまた音楽担当を外れている……これは既存ミュージカルの実写化だからで喧嘩した訳ではないゾ)
曲の展開が次々と変わり、歌われる内容は“エミリーが如何にして殺されてしまったのか?”という悲劇の物語なのに、やけに明るく歌うボーンズと、ビッグバンド/スウィングジャズ風の曲調が画で観ていても楽しい。互いの骨を楽器に見立て、弦(骨)を弾いたり頭の髑髏を打楽器の如く叩いてみたりと、音楽と映像も見事にマッチしている。
同じように後半の「The Wedding Song」も、ボーンジャングルズを中心に歌われるヴィクターとエミリーの結婚を祝い、死者たちが“上の世界”……生者の世界へと向かっていく曲だ。
どちらの曲も、劇中延々鬱々とした、薄暗い映像と重苦しい雰囲気が流れる生者側の世界と違い、ひたすらに明るく、死者たちが現在の新たな“生(死)”をひたすら楽しんでいるのが伝わってくる。
生者側の劇伴が劇中舞台に合わせ、パイプオルガンやハープシコード中心のゴシックな空気感や時代性を感じる曲調なのに対し、死者の世界のビッグバンド調は明らかに劇中時代設定とは異なっており、こんなところにもバートンの時代や世界を曖昧にする演出への接続が見られる。さすがにバートン×エルフマンの長年のパートナーシップを感じさせてくれるというものだ。
ただ一方、『ナイトメアー・ビフォア・クリスマス』での「This is Halloween」のような、時代を超えて残るキラーチューンがないように感じるのも確かだ。
同じようにハロウィンシーズンに公開された今作だが、2020年代の現在でもハロウィンの時期に必ず街で流れているのは「This is Halloween」であり、今作の曲も聴くことはあってもそこまで強いイメージはない。
(正確には違うのだが)同監督・同作曲家で同じシーズンに公開された映画ということで、二作が比較されてしまうのは致し方ない。今作の曲は展開にしろメロディにしろ気軽に口ずさむにはやや複雑に過ぎ、物語の中で強烈にリフレインされるわけでもないのでインパクトに欠けて感じてしまうのだ。

映像論:死と生の二つの世界を分けたバートンらしい色彩感覚
モノクロに近いバートンカラーで描かれた生の世界
映像はストップモーション・アニメーションであれ、背景美術の作り込みはいつもの通り。むしろ、ロケを必要とせず、すべての舞台を自身の思い通りに作り出せるということで、普段以上にバートンらしいゴシックな世界観が広がっている。
物語の舞台は19世紀ヨーロッパ。『スリーピー・ホロウ』や次作『スウィーニー・トッド フリート街の悪魔の理髪師』にも近い時代の、バートンの得意とする時代感だ。
教会や凍りついた川、石造りの橋のデザインなど細やかな造形にも相変わらず暗い美しさが宿るが、やはりエミリーと初めて出逢う森の中、絡まり合う木の枝と、それがエミリーの指へと変化していく様子がまさにバートンの世界観だ。こうした表現はCGではスムーズに過ぎ、ストップモーションならではの不自然さによって演出される奇妙さこそがバートンの真骨頂。
実写作品でもこだわり続けた技法を、いよいよ作品の主軸演出として扱うのだから、力も入ると言うものだろう。
ヴィクターとヴィクトリアの住む街、生者の世界の色彩はくすんだ灰色で、モノクロにも近いカラーで描かれる。
魚屋であるヴィクターの家が成り上がれるだけあって、街では魚屋が商売として活発なようなのだが、そこで売られている魚もどうにも活きが悪い。魚は当然ストップモーションのパペットであり、19世紀ヨーロッパという舞台性を鑑みても、生魚を食す日本人としては見ただけでご遠慮願いたい鮮度に感じてしまう。
街の人間たちの表情も皆どこか覇気がなく、自動的に同じ動きを繰り返しているかのように描かれる。『シザーハンズ』での同じ時間に車を走らせる街の住人たちを思い出させる演出だが、ストップモーションだからこその無機質さが強調されており、世界観と映像とがうまく噛み合っている。
不謹慎ギャグにまみれた明るい死者の世界
一方、エミリーたちのいる死者の世界は打って変わって明るく、ハッキリとした色彩で描かれる。
これまでも生者の世界よりもむしろ死者の世界をこそ明るく描いてきたバートンだが、今作ではこれまで以上にその色彩の違いがハッキリし、色の濃淡や画面の明るさが完全に二分された。
周辺数作品でバートンの色彩感覚も変化しており、所謂仄暗いイメージの“バートンカラー”以外にも扱える武器を手に入れてきたからこその対比が生まれているのだ。
『ビートルジュース』以来の“死者大喜利”は不謹慎さを増し、キャラクター・デザインのセンスにもますます磨きがかかった。
ボーンジャングルズのリーダーは眼窩に片目しか眼球がなく、彼が歌い踊り、首を傾ける度それは左右に移動する。ボーンズが自分たちのドクロをバケツリレーのように交換し、余った頭を蹴り上げるパフォーマンスなども、やってることはグロテスクなのだが本人たちはやたらと明るく楽しそうだ。
身体が真っ二つに分かれたハーフマンがヴィクターに道を開けようとベリッと身体を割るアクションや、ちび将軍と長身将軍が酒を飲み交わし、身体に空いた傷跡からびたびたと酒が溢れていく姿などはこれぞまさにバートン流“死の大喜利祭”。
エミリーの目に住み耳からも出てくるマゴットなど、一歩間違えば悪趣味なキャラクター・デザインに愛らしさすら感じさせてしまうセンスもさすがの一言だ。
青白い手が傘立てに何本も差さった「人手あります」のブラックジョークや、頭だけのウエイター“頭”や、クロゴケグモの“後家さん”などは、字幕翻訳のセンスも実に良い。
(原語版のBlack Widow SpiderのWidowには“未亡人=後家”の意味がある)
死者側のキャラクターと生者側のキャラクターではデザインチームやパペットの製作チームも別に組まれていたらしく、そんなところからも、このカラーの差が生まれているのだろう。
演出論:バートンらしくない?異形の存在に寄り添わないバートンのカメラ
物語はそれぞれの両親の計略により結婚させられるヴィクターとヴィクトリア、二人の姿と家庭の状況を歌う「According to Plan」から始まる。“計画通り”という曲名の通り、二つの家庭は完全に子供たちを自分たちの生活の糧としか見ておらず、その結婚に本人たちの意志は反映されていない。
会ったこともない相手と結婚するその前日のヴィクターは部屋で飼っていた蝶を空に放つ。これは『スリーピー・ホロウ』の冒頭で鳥を放したイカボットと同じで、自由と拘束のメタファーだろう。
愛のない婚約、親との不和……そして、それとは別の場所で交わされる、死者との婚礼。
今作は物語の舞台も、そしてそのテーマも、実にバートンらしい。
……はず、なのだが、どうにも今作のバートンは、これまでのように“異形の孤独”にカメラを向けていないように感じてしまう。
バートンはこれまで、“異形”の悲恋を幾度となく、繰り返し描いてきた。
『シザーハンズ』のエドワードとキム、
『バットマン リターンズ』のバットマンとキャットウーマン……
彼らは世界を内に閉ざし、その殻は人を傷つける刃物そのものだった。
だから、彼らは手を取り合うことが出来ない。ハサミの手も、コウモリのスーツも、猫へのメタモルフォーゼも、そうした他者を傷つけ、他者の世界に入っていけないバートン自身の表像を、自身が愛した怪奇映画の怪物や、ゴシックな意匠へと潜ませたメタファーだった。
しかし今作の物語は、本当の意味での死者と生者の間を迷う“三角関係”の物語ではない。
ヴィクターとヴィクトリアは政略結婚ではあるが、互いに出会った瞬間から既に惹かれ合っており、ヴィクターは結婚そのものに迷っているのではなく式のリハーサルでの失敗で自信を失っただけに過ぎない。
エミリーが受けた求婚はあくまでエミリーの“勘違い”であり、ヴィクターの心は徹頭徹尾ヴィクトリアの側にしかないのだ。
そう言う意味では、今作はメロドラマにもなっていない。ヴィクターのハッキリしない態度に終始振り回される二人の女性……そしてエミリーの勘違い。それが死者と生者に分たれた舞台で展開されているだけだ。
キャラクター考①:死者にも生者にも交われないエミリーの孤独
今作はヴィクターが主体となり、ヴィクトリアとエミリーの間で迷う彼の視点で物語が進む。
しかし本来ならば、今作の主体はエミリーに置かれるべきで、エミリーが抱える孤独こそが、これまでのバートンが描かれてきた“異形”の姿だったのではないだろうか。
エミリーはかつて婚姻の前日にその相手に騙され、死者の世界で“コープスブライド”となって結婚の夢を見続けている。その身は既に生者に非ず、顔の一部は腐り落ちかけ、片手は骨だ。
婚姻の相手が今作のヴィランであるバーキス卿であったことからも、エミリーはまだ死んでからもそこまで長い時間が経っていないこともわかる。
彼女が地上の世界に出て、月の光を見るシークエンス。
「長い間暗闇にいたからー忘れてたわ、月の光の美しさを」
そこには今作冒頭で自由の象徴として描かれた蝶が飛んでおり、彼女はその月の下で楽しそうに踊ってみせる。ここは今作屈指の美しいシーンであり、同時にエミリーが、実は死の世界ですら異端の存在であったことが示されてもいる。
彼女は死の世界にいながら、まだ生の世界を捨て切れていない。グートネクト長老の言う「皆死ぬほど地下に来たがってる」という言葉とも、明るく踊り歌うボーンジャングルズたちやゴーストたちとの感覚とも、どこか交われない。
マゴットや後家さんといった友人もいながら、彼女は本当の意味では自らの死を受け入れていない。
二つの世界どちらにも交われない異形……これまでバートンの幼少期の孤独の物語が託されてきたのは、こうしたキャラクターだった。
そこには別段、キャラクターの性別は関係しない。事実、バートンの幼少期の家庭の不和と孤独が初めて表現されたのは、『ビートルジュース』のリディアだったはずだからだ。

キャラクター考②:同じ名前を持つヴィクターとヴィクトリアの絆
しかし、今作の物語はそのエミリーの孤独とどこか距離がある。エミリーのヴィクターへの恋心は勘違いとしてコ
メディ的に流されてしまい、『シザーハンズ』のエドワードからキムへのような切実さが見られない。
これまでの物語の中では異形と人間の世界は……いやむしろ異形同士の恋であっても、真の意味でその感情は交わることはなく、その哀しみにはいつも切迫した苦しさがあった。
ただ、今作ではバートンのカメラが、どうしてもエミリーの側に向いていかないように感じてしまう。あくまで主人公はヴィクターなのだ。
前述の通りヴィクターにもバートンの物語の要素はある。彼もまた劇中の時代の青年としては異端であり、女性に及び腰なところも、そのもじゃもじゃ頭に色白という造形もいつものバートンの表像で、声を当てているのもその役割を多く担ってきたジョニー・デップだ。
ヴィクトリアもまた結婚に愛を求め、母に「はしたない」「情熱的に過ぎる」と否定される音楽を愛する女性で、二人共に異形の存在としてバートンの物語において主体となり得る存在だろう。
ヴィクターとヴィクトリアがともに同じ名前の男性名・女性名であることや、この二人が似た境遇で、共に同じように家族との不和を抱えているのも、二人で一人の、孤独を埋め合える相手として描くためだと思われる。
結婚に愛を夢見て、バーキス卿との間に無理矢理に結ばれた婚姻の場であまりにも無感情な表情を浮かべるヴィクトリアが、ヴィクターを取り戻そうと奔走する姿は、間違いなく今作のヒロインであり、その物語にはもう、エミリーの孤独が入り込む余地がないのだ。
作家論:何故バートンはエミリーへの共感を失ったのか?
ヴィクトリアとエミリーは常に対比的に描かれる。
エミリーとヴィクトリアはそれぞれヴィクターとのことについて近くにいる老齢……グートネクト長老とゴールズウェルズ牧師に相談するが、親身になってエミリーの話を聞くグートネクトと、「頭がおかしい」と突き放すゴールズウェルズは完全に対比構造だ。
ヴィクターとヴィクトリアが初めて出会ったとき、ヴィクターはヴィクトリアの家にあるピアノを弾いていた。
ヴィクトリアは音楽を愛しながらそれに触れることが許されなかった女性だ。だからこそ、それを奏でるヴィクターに惹かれ、そこで初めて会話を交わすことで二人の気持ちは通じ合う。
一方、エミリーとも死者の国で、ヴィクターは同じ曲を連弾することで気持ちを通わせる。傷心のエミリーが弾くピアノに引き寄せられるように、隣に座ったヴィクターはピアノを奏で、二人で曲を奏で合っている。
音がほとんどない生者の世界と違い、死の世界はボーンジャングルズもそうだが音で溢れている。互いに音楽を奏で合い、セッションし、そこで気持ちが通じ合う。この対比構造は見事にハマっているのに、ヴィクターの視線は一度もエミリーには向いていない。
ヴィクトリアとエミリーには精神的な対比構造は生まれず、あのシークエンスで取れた腕がそのままピアノを弾き続けるように、エミリーの側はあまりにも残酷な一人芝居を続けることになる。
ヴィクターのかつての飼い犬であるスクラップスを見つけてきてプレゼントしたり、転がったエミリーの目をヴィクターが拾って「君の目は可愛いよ」と言ったりと、心を通わせるような出来事自体はいくつかあるのだが、ヴィクターはヴィクトリアと出会った際に貰った花をずっと胸に入れており、出逢った瞬間からずっとその心はヴィクトリアの側にあって揺らぐことがない。
エミリーとの婚姻を決断するのも、結局バーキス卿とヴィクトリアの結婚の話を聞いて心が折れたからであり、エミリーに対して気持ちがあるわけではない。『シザーハンズ』でキムがジムを拒否してエドワードを抱きしめた状況とは、まるで意味合いが違っているのだ。
バートンは今作に至るまでに、『スリーピー・ホロウ』と『ビッグ・フィッシュ』を経由し、同時期には『チャーリーとチョコレート工場』も撮っている。更には今作の脚本には、『ビッグ・フィッシュ』からの付き合いであるジョン・オーガストも参加していた。
バートンとオーガストは共に抱えていた内なる両親との和解を二作続けて描き、バートンは私生活でもヘレナ・ボナム=カーターとの間に一児を設けていた。製作時のバートンは既に、エミリーの側ではなくヴィクターの側におり、この物語を構成する要素に対する共感は失われていたのではないだろうか。
邪推に過ぎるかも知れないが、今作ではどうにもバートン自身が、これまでならば主体として撮っていたエミリーに自分の共感が向ききらないことに戸惑っているような……そんな迷いすら感じてしまうのだ。
物語論:死者と生者の邂逅……ハッピーエンドから弾き出されたコープスブライド
ラストは、死者と生者の邂逅。かつて『ビートルジュース』のラストでリディアとメイトランド夫妻が踊っていたように、蘇った死者たちは生前の愛する恋人、家族と引き合い、ひとときの楽しい時間を過ごす。この時死者たちが地上に上がってくると、画面のライティングがそれまでよりやや明るくなる。あくまでさり気なく、生者の世界の全体的な薄暗さはそのままにほんの少しそれまでよりトーンが明るくなる、その匙加減が絶妙で、死と生を対比して描いてきた今作の中で、それが交わる瞬間がラストシークエンスに当てられるのは見事な作りだ。
ただ、そこでもやはり最後までエミリーだけは、このどちらの世界にも交われずに終わる。彼女はヴィクターとヴィクトリアの婚礼を見届け、無数の蝶になって、彼女の愛した月に向けて飛び去っていく。このメタモルフォーゼは確かに美しいのだ。彼女はようやく自由を手にし、心から満足して逝ったのだろう。
死の世界にも生の世界にも居場所がなかった彼女は、ようやくその心を解放し自由になれたのだとは思う。
しかし、そこに至る物語の中で、エミリーの孤独は今作の主軸として語られることはなく、彼女の葛藤に答えは出ないままに、ただ物語の外側にいる存在として終わってしまう。
それは延いてはヴィクターにしても同じで、彼はただフラフラと二人の女性の間を揺れ動き、自分自身では何の決断も下さないまま、流されるようにヴィクトリアとの結婚というハッピーエンドを迎えてしまう。ヴィクターはこの物語において、何の成長も、迷いすらもしていなかったのではないだろうか。
不仲だった家族も死者たちが地上にやってきたタイミングでフェードアウトしてしまうので、そこにも答えは出ないままだ。
これまでなら主体となって描かれたはずのエミリーの孤独は、ヴィクターとヴィクトリアの愛の物語の舞台装置となり、その愛の物語についても、描くべき葛藤を描けずに終わる。
バートンのカメラが、まるで劇中のヴィクターのように終始どこにそれを向けるべきか迷っているのだ。
総括:バートンが自己模倣に陥り始めたキッカケの一作
ストップモーション・アニメーションの製作作業は大変時間が掛かるものだと言い、2分の映像を撮るのに1週間掛かる、とも言われている。それを考えると今作の90分という尺感はそれでも途方もない作業だったのだろうし、物語もある程度削らざるを得なかったという事情も理解は出来る。
しかし、それならそれで、物語の中心軸に置くべきキャラクターはもう少し考えても良かったのではないだろうか。
今作でのバートンは、構想時に思い描いた異形と人間の悲恋、その捉え方や感じ方が、既に根本的に変わってしまっていたのではないか。
既にバートンの描きたいものは別の地点にあるはずなのに、昔と同じことをやろうとしてしまったかのような……『ビートルジュース』+『シザーハンズ』をやろうとして、結局両者の良いところを潰し合ってしまっているような印象だ。
過去に描いたものをよりブラッシュアップして描こうとしたが、既にそこに描きたいものはなく、技術だけが進歩して共感に欠けた再演になってしまったような……そんなノリ切れなさを、どうしても感じてしまう。そして、それはまるでバートン自身が“かつてのバートン”を模倣しているような、“自己模倣”のようなイメージすら作品全体に与えてしまっている。
残念ながら、今作を契機とするように、ここから数作のバートン作品にはそうした作品が増えていってしまう印象だ。
またそんなこの先の作品群に、かつてバートンが幼少期〜青年期に触れた作品や、自身の監督デビュー作のリメイクが集中しているところにも、バートン自身が自身の創作の根を再び辿ろうとしていたような、そんな苦悩を感じてしまうのだ。
⭐ 2.5 / 5.0
📅 2025/08/27(Netflix)
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