ティム・バートン全作品レビュー13
――とびきりオカシくて,とびきり甘い,それは優しい家族の物語
作品データ
原題:Charlie and the Chocolate Factory
監督:ティム・バートン
脚本:ジョン・オーガスト
原作:ロアルド・ダール『チョコレート工場の秘密』
音楽:ダニー・エルフマン
撮影:フィリップ・ルースロ
上映時間:115分
出演者:
ウィリー・ウォンカ:ジョニー・デップ
チャーリー・バケット:フレディ・ハイモア
ジョーおじいちゃん:デイビッド・ケリー
ウンパルンパ:ディープ・ロイ/歌唱: ダニー・エルフマン
ウィルバー・ウォンカ:クリストファー・リー
ウィリー・ウォンカ(幼少期) :ブレア・ダンロップ
バケット夫人:ヘレナ・ボナム=カーター
バケット氏:ノア・テイラー
ジョゼフィーンおばあちゃん:アイリーン・エッセル
ジョージーナおばあちゃん:リズ・スミス
ジョージおじいちゃん:ディビット・モリス
オーガスタス・グループ:フィリップ・ウィーグラッツ
バイオレット・ボーレガード:アナソフィア・ロブ
ベルーカ・ソルト:ジュリア・ウィンター
マイク・ティービー:ジョーダン・フライ
オーガスタスの母親:フランツィスカ・トローグナー
バイオレットの母親:ミッシー・パイル
ベルーカの父親:ジェームズ・フォックス
マイクの父親:アダム・ゴドリー
ポンディシェリー王子:ニティン・ガナトラ
※本レビューにはネタバレを含みます。
総文字数:10025文字
読み終わるまでの時間:約26分
製作背景:原作者遺族が望んだ再映画化への道筋
ティム・バートン監督による、ロアルド・ダールの児童文学『チョコレート工場の秘密』を原作とするファンタジー映画。
同原作にはメル・スチュワート監督による『夢のチョコレート工場』(1971)という映画化作品もあるが、今作はリメイクではなく同じ原作による別の作品と考えた方が良い。日本でのプロモーションも、今回は“リ・イマジネーション”ともリメイクとも謳っていないが、71年版は日本での劇場公開がなく知名度も低いため、これは仕方がないことなのかも知れない。
(本国で当時どのようなプロモーションがなされたかまでは未確認)
71年版は原作者であるダール本人が脚本草案を書きながらも、監督メル・スチュワートとプロデューサーの意向により無断で改稿が繰り返され、ダール本人が原作・脚本に込めた意図とはかなり異なる作品に仕上がってしまったと言う。当然出来上がった映画に対しての評価も苦い物で、ダールは71年版を自身の作品とは認めない旨を語っており、原作続編である『ガラスの大エレベーター』の映画化についても企画倒れに終わっている。
そうした経緯を踏まえての“再映画化”の企画は90年代初頭から動いてはいたものの、生前のダールが自身の原作の映画化に反対していたこともあり、遺族の了承が得られず難航していた。1998年に今作配給のワーナー・ブラザーズが、ダールの遺族たちから成る《ダール財団》に俳優、監督、脚本家の選択等、アート面における完全承認権を授与したことで、ようやく企画は本格始動することになった。
テリー・ギリアムやスパイク・ジョーンズなど、数多くの監督、脚本家の推薦の後、一度はゲイリー・ロス監督・スコット・フランクの脚本で撮影が始まりかけるも、やはりこれも2001年頃に頓挫した。
(バートンはこのフランク版の脚本も気に入っていたとか)
その後、これまでの数々の候補の中でほぼ初めて、ダール財団からの満場一致によって2003年にバートンの起用が決定され、脚本も前作『ビッグ・フィッシュ』で組んだジョン・オーガストによってゼロから書き直された。
原作者遺族との問題により長い時間をかけた、まさに待望の再映画化でありながら、そこはあのバットマンを自身のキャラクターへと塗り替えた鬼才:ティム・バートン。原作付きとは言え今作にもバートンの描く“少し不思議”な世界観が満載であり、かつ、『ビッグ・フィッシュ』以降のバートン作品として、“家族”のテーマがより一歩進んだ形で描かれた。
全世界興収4億$を超える大ヒットを記録した今作は、2025年現在でもバートンの代表作の一つと言うべき良作だ。
帰ってきたバートン・ワールド〜ゴシック&サイケなチョレート工場へようこそ
これまでとこれからを想像させる画作りとデザイン
バートンらしい映像の色味が抑えられていた前作・前々作と比べ、今作ではその画のカラーやライティングにバートンらしい色彩感覚が映えている。とは言えそれは単純に以前までの方向性に戻ったというわけではなく、今作ではこれまでに培ってきた画面表現をキャラクターの心情に合わせて変化させているように感じる。
序盤の雪景色や終盤のウォンカの父が住む家、チョコレート工場内部はやや薄暗い映像になり、
子供たちが住む街の様子や、最終盤のチャーリーの家などでは前作のような温かな映像に切り替わる。
そうした変化する映像に工場内のトリッキーでサイケデリックな色調とデザインが加わり、観ていて最後まで飽きることがない。工場内部はカラフルながら、どこか冷たさを感じる青みがかったフィルターが掛かり、それが単純にチョコレート工場を“夢の国”に見せていないのも面白い。
“物理的に”傾いたバケット家や、ドイツ表現主義やファシスト建築のような造形のウォンカの工場が同居する街はどこか中世の雰囲気もありつつ、《ウォンカバー》を運ぶトラックはアニメーション的なデザインで、その不釣り合いさもバートンのお家芸。ゴールデンチケットの争奪戦で世界各国の様子が映し出されるも、その世界観はどこか作り物めいていて、近未来のようでも、60〜70年代のようでもあり、相変わらず時代や場所を曖昧にファンタジー世界を創り上げる手法も健在だ。
今作ではこれまでのゴシックロマン/スチームパンクの雰囲気にプラス、ルンパランドの巨大な虫と粘り気のある血液、ウンパルンパが主食とする緑色の芋虫など、新しいデザインも散見される。その“自然界ではあり得ない自然物”のイメージは、この後の『アリス・イン・ワンダーランド』の奇妙な世界へも続いていく。
敢えてのチープさとこだわりのリアリティ〜鬼才の描くファンタジー
バートンらしいなんちゃって科学……“少し不思議”なSF描写も遺憾無く発揮されており、お得意のピタゴラスイッチ的な機械は言わずもがな、原作では宇宙まで飛び出すガラスのエレベーターやウォンカヴィジョンの造形は非常に近未来的で、特にガラスのエレベーターはチョコレート工場を縦横無尽に移動し空さえ飛んでしまう。これらの映像にはCGも使われているが、そのわざとチープに作られた映像が余計にこの物語の時代感を曖昧にしてくれる。
ウォンカヴィジョンに映し出される映像の『サイコ』(1960)や『2001年宇宙の旅』(1968)などのオマージュにはバートンの映画愛が溢れており、わざわざ猿たちがモノリスに触れるあのシーンを選んだあたりには『PLANET OF APES/猿の惑星』のことを思い出してクスリとしてしまう。
今作でもバートンはできる限りCGを使わずに演出しており、ベルーカを襲うリスのナッツ剥きなども、登場するのは訓練された40匹の本物のリスである。CGでその数は増やされてはいるが、動物トレーナーによって19週間かけてトレーニングを積み、実際にクルミを剥かせたその映像は、まさにダール財団が満場一致でバートンを迎え入れた面目躍如と言ったところだろう。
(71年版では予算問題で別のシーンに差し替えられている)
さすがにベルーカを穴に落とすシーンのリスはCG合成しているようだが、そこにも実物と変わらないほどリアルな質感のリスたちがいる。CGを敢えてチープに表現する場面と、とことんリアルにする場面。バートンの作り出すチープが敢えてのものなのは、こんなところからもよくわかる。
技術も予算も掛けられたトロけるチョコレートの川
卵から孵るチョコの鳥や、インドのポンディシェリー王子に造ったチョコ宮殿などの造形はバートンらしいファンタジーに満ちており、今作を象徴する工場を流れるチョコレートの川も、71年版の“薄茶色の水”と比べてしっかりとチョコレートらしい粘度があり、その重みと質感はまさしく原作の世界から不思議が飛び出してきたようだ。
すべてがお菓子で出来ているチョコレート工場の草木は実際にパティシエが作った本当に食べられるものらしく(撮影用の光沢をつけるためと腐敗防止でニスは塗られているようだが)、チョコが主役の映画として、その魅せ方は徹底されている。
ただし、予算や技術が圧倒的に向上した2005年版と71年版を単純な比較は出来ないのでそこは留意したい。むしろ今作のチョコレート川は本物のチョコではなく、食品を用いて作った“限りなくチョコに見える”偽物であり、71年版こそが本当にチョコを溶かした水だった。映像表現において、本物であればそう見える、というわけでもないということだ。
チョコレートの川をボートで渡るシークエンスでは、71年版がその演出で後年の音楽アーティストのMVにオマージュされたりと、そのサイケな演出が「子供には怖すぎる」と評された一方、今作ではCGを用いたジェットコースター・アトラクション的な動きで子供がその世界に入りたくなるような映像になっている。
船も普通のボートだった71年版と比べ、飴で出来たタツの落とし子のようなデザインになっており、その毒々しさにはバートンらしい悪趣味ポップの要素もきちんと見え隠れする。
スパイの存在で心と工場を閉ざすまでのチョコレートは思わず食べてみたくなるような夢に溢れているが、本編チョコレート工場は色鮮やかでチョコの質感もリアルなのにどこか寒々しく食欲をそそらないのも、ウォンカの心情と映像がリンクしていて良い演出だ。
バートンの表像:ジョニー・デップの演じるウィリー・ウォンカ
71年版や原作におけるウィリー・ウォンカは、超自然的で内面が読めず、物語においての神に近い存在であり、子供たちをテストする試験官の役割だった。そのテストは、主人公であるチャーリーすら例外ではない。翻って今作でのウォンカは、人間臭く、陰気で内気な、孤独を抱えたキャラクターとして描かれる。
ベルーカの父から渡された名刺は一瞥もくれずに捨て、子供相手の商売をしながらも子供に抱きつかれれば飛び上がるように嫌悪を露わにする嫌なオトナの面。
一方、類稀な発想と技術力を持ちながら、その発明を“世紀の大発明”にする気はなく、理屈での説明を求められれば拗ねるような、幼いコドモの面。
常に早口でまくしたてて顔は引き攣り、用意した原稿がないと人と喋るのも覚束ないコミュ障ぶり、「ご両親」という単語を口にすることができず、度々父のことを思い出してはフリーズするヘンテコなキャラクター。
家族関係のトラウマを抱え、大人になり切れなかった、社会から外れた存在。何のことはない。今作のウォンカもまた、いつも通りのバートンの表像であり、一般的な世界の規範から外れた“異形”なのだ。
ウォンカを演じるのはお馴染みジョニー・デップ。バートンは最初からウォンカ役にデップを推薦していたようだが、スタジオ側では71年版に強く影響を受けたことでも有名なマリリン・マンソンや、マイケル・ジャクソンなども候補に上がっていたと言う。それはそれで非常に面白く、話題性もあるキャスティングだったとは思うが、恐らくもっとミュージカル色の強い作品になっていたと思うし、今作の色も変わってしまっただろう。
バートンの第二候補にはドウェイン・ジョンソンもいたようだが、デップとジョンソンではかなりイメージが違うのでそうなっていたらどんな作品になっていただろうか……。想像する分には面白いものだが、やはり今作のウォンカには、バートンの表像を何度も演じたデップが最適解だったように思う。
デフォルメされた悪ガキから見る寓話的物語
物語は児童書らしい明快さで、
“素直な子が得をして、悪い子に罰が下る”という教訓めいた寓話になっている。
71年版ではゴールデンチケットの争奪戦の中で、大人たちもチョコに群がり、チケットを巡っての誘拐事件や、身代金としてチョコを要求されて「考えさせてほしい……」と躊躇う妻など、狂乱の中にいる大人たちの描写が多々含まれていた。ウォンカの“読ませない”契約書などシビアな描写も多かったが、今作ではそういった要素は一切なくし、映画前半は5人の子供たちがそれぞれチケットを手に入れるまでと、彼らがどんな子供かを描いていく。
なので、やや間伸び感のある71年版と比べチョコレート工場へ向かうまでもスムーズだ。
ただ、これには当然映画公開時の時代性もあり、60〜80年代の子供向け映画には、割合シビアな描写も多かった印象で、『アニー』(1982)には大恐慌時代の失業者の描写がしっかり描かれていたし、バートンが監督した『ピーウィーの大冒険』にも子供向けとは言い難い台詞回しが存在していた。当時はそうした描写を子供向け映画でやることに寛容で、子供たちの両親にもそれが受け入れられていたということだろう。
今作においてチャーリー以外の4人の子どもたちは、典型的な小憎たらしい“クソガキ”キャラクターになり、その分物語も観やすくなった。キャラクター造形自体は71年版も原作を踏襲しているのだが、スラグワース社のスパイをするという独自設定があったせいか、全員どこか狡賢く、悪い意味での子供の嫌らしさが強調されていたように思う。
対して、今作の子供たちは確かに性格は悪いのだが、ファンタジー的なデフォルメの入った大袈裟なキャラクターになっているので、その顛末まで含めてきちんと御伽噺になっている。
原作はイギリスの児童書であり、『メリー・ポピンズ』(1934〜:パメラ・リンドン トラヴァース著)などもそうだが、貧しいが心の豊かな者がお金はあるが心が貧しい者に勝る、というテーマのものが多くあり、今作原作もそれに沿ったものだ。なので、金にあかせてウォンカバーを買い占めるベルーカや、チャーリーを「負け犬」と呼ぶバイオレットなどがヴィランとして設定され、彼らは親も含めそのプライドの高さや愚かさが強調されることになる。
今作では原作通りウォンカの手痛いお仕置きに遭った子供たちが工場を出ていくシーンも映像化されているが、子供たちはまるで反省せずむしろケロッとしているので、観ていて悲壮感はない。全身のブルーベリー果汁を搾られて関節がふにゃふにゃになってるバイオレットや、身体を伸ばされてペラペラになってしまったマイクなどは、ファンタジーのフィルターがあっても今後の人生を考えるになかなか悲惨な状況なのだが、本人たちに気にしている様子がないので観ている側もそこまで深刻にならずに済む。
今作製作時にはバートンはヘレナ・ボナム=カーターとの間に一児を設けており、そんな子供たちを咎める親の側が描かれたのは、バートン自身が親になったことも関係しているのかもしれない。オーガスタスがチョコの川に溺れても自身の持つチョコを手放さないオーガスタスの母や、バイオレットの今後の人生における賞与受賞の可否を気にするバイオレットの母など、その愚かさは描きつつも、帰り際にはそれぞれきちんと子どもを叱る描写がある。
ただ親になったとは言え、根本にある自身の幼少期の異端性からくるマジョリティ側の子供たちへの、羨望と侮蔑の入り交じった幼い憎しみは消えていないのか、チャーリー以外の子供たちがひたすらに可愛くないのは、『シザーハンズ』でキムのボーイフレンドのジムを描いてるときから変わらないバートンらしさである。
チャーリーは主人公ではなく,ウォンカの理想像としての“子供”
温かな家庭……バケット一家
対してチャーリーの家族バケット一家は、貧乏ではあるがみんなが善人として描かれる。
具を細かく切ったキャベツで水増しし、ベッドから動けない老人4人と暮らしていても、家族の目には希望と優しさが満ちている。
普段は皮肉屋なジョージお祖父ちゃんも、チャーリーのゴールデンチケットが外れた際にはしっかり一緒に落ち込んでいるし、そんなジョージお祖父ちゃんがゴールデンチケットを当てた生意気な子供たちに対して叫ぶ罵詈雑言をチャーリーに聞かせないように耳を塞ぐ父や、食事の場では仕事の話はなしと決めてる母も、チャーリーの育った家庭の温かさが、それぞれの所作にきちんと描写されている。
ウォンカバーを家族で分け合うシークエンスではチャーリーが食べるまで家族は誰も口にしておらず、こうした家族の温かさは他の子供たちにはないものだ。
今作においてチャーリーの工場見学に同行するジョーお祖父ちゃんにはかつてウォンカの工場で働いていたというバックグラウンドが付け加えられ、それによってチャーリーがゴールデンチケットにこだわるのが、自身のためだけでなくジョーお祖父ちゃんのため、という理由が加わる。
なけなしのへそくりでジョーお祖父ちゃんがチャーリーにウォンカバーを買いに行かせるのも、その共犯関係がより二人の絆を強くし、工場内で常にお祖父ちゃんの手を引く姿と合わせラストの展開に綺麗に繋がっていく。
チャーリーこそがウォンカの導き手だった
今作において、チャーリーは主人公=テストされる側ではない。今作の主体は明確にウォンカの側であり、チャーリーはむしろ、ウォンカにとっての理想像として描かれる。
配給のワーナーは当初71年版のようにチャーリーの父をオミットし、ウォンカを“理想の父親”として描く案を出していたそうだが、バートンはこれを拒否して今の脚本の形になったと言う。
今作のウォンカは5人の子供を平等にテストしていると言うより、初めからチャーリー一人に狙いを定めていたような節さえあり、子供たちが一人減るたびに「やらせだ」「計画してた」などと言われている。チャーリーにも「なぜ招待を?なぜ5人だけ?」と問われて答えを濁しているが、やはりウォンカは自身の後継者として初めからチャーリーを選んでおり、他の4人はその当て馬のようにも見える演出が取られていたように思える。
『ナイトメアー・ビフォア・クリスマス』では人間の大人を徹底して描かず、夢を見ないものの存在を物語から排除していたが、子供であってもそれは変わらない。
理屈やわがままで通そうとする子供たちに反して、チャーリーだけが「理屈抜きで楽しいのがチョコだ」と語り、チョコの滝を「きれい」と言う。そんなチャーリーだからこそ自身への共感が生まれ、その孤独を埋められる存在だとウォンカも考えたのだろう。
工場見学の後、チャーリーに家族を捨てさせようとするのは、ウォンカにとって“正しい”選択であった父親との断絶が、チャーリーにとっても正しいはずだと信じている……むしろ信じたかったからだ。
だからこそ、チャーリーが「家族が一番大切だ」とウォンカを否定することで、ウォンカの世界は瓦解する。「断られるなんて考えてもみなかった」「ヘンだな」と呟くウォンカに、超然的な支配者の姿はない。そこにはただただ孤独な異形の姿がある。
『シザーハンズ』で人間の世界に拒否されたエドワード、
『バットマン リターンズ』で理解し合うことなく背中を向けたバットマンとキャットウーマンと同じように……これまでなら、物語はここで終わっていただろう。

ウォンカの相談役としてのウンパルンパ
孤独なウォンカが、工場内で唯一心を通わせることができるのがウンパルンパだ。
ウンパルンパは原作の初版ではアフリカの先住民として描かれ、その描写の問題から71年版ではオレンジの肌に緑の髪、という人間離れした“架空の存在”とすることでそこに対処した。
今作では敢えて人間離れしたデザインには“しない”ことで、原作で問題となった人種偏見や奴隷問題に繋がる見え方を別の形で残しているのだろう。
今作のウンパルンパはディープ・ロイが一人多役で演じ、全員同じ顔で服装のみが働く部署によって違うのが面白くもあり、どこかホラーにも見える要素もある。チョコの川に入っても一切汚れることはなく、よく見ると女性のウンパルンパまでいるのも見所だ。
工場内のあらゆる役職を務め、カウンセラーとしてウォンカの相談役にもなっているのは、これまでただ孤独だった異形が、世界を共有し始めた、『スリーピー・ホロウ』以降のバートンの物語。ラストでは物語のナレーターであったことも明かされ、この世界の語り部としてウォンカを見守っていたこともわかる。このウンパルンパがいなければ、ウォンカは再びチャーリーに会いに行くこともなかったのだ。
……ちなみに、今作ラストのウンパルンパのナレーションは71年版ラストのウォンカの言葉に近いものがあり、バートンはオーガストの脚本執筆にあたり71年版を「観なくて良い」と言ったとも伝えられているが、今作の製作において71年版も必ずしも無視されたものではなかったのかも知れない。
ダニー・エルフマン完全オリジナル曲による唯一無二のチョコレート工場
今作はミュージカル映画というジャンルにも含まれるが、登場人物の大半が歌い踊る作品と言うより、歌唱はウンパルンパに集約されている。
(歌部分はダニー・エルフマン)
歌詞には原作にあるダールの詩をそのまま採択し、それに合わせてエルフマンがそれぞれの子供のキャラクターに合わせて作曲しているのだが、これが実に多彩だ。様々な曲のジャンルを組み合わせ、マイクの歌に関してはKISSやthe Beatlesなど往年のロックのオマージュがコスプレしたウンパルンパの映像と共に奏でられ、非常に面白いし、エルフマンも楽しんで作曲したのではないだろうか。
前作・前々作とややバートンらしくない作風で、エルフマンもそれに合わせた劇伴を作っていたが、今作では久しぶりのバートンカラーに寄り添っている。冒頭の「Main Title」からゴシックな雰囲気が漂い、「Wonka’s Welcome Song」は人形が燃える映像と合わせそのB級ホラー的なサウンドが気持ちを昂らせる。
後のミュージカル版でも使われたチョコレート工場の代名詞とも言える71年版楽曲「Pure Imagination」や「The Candy Man」などの楽曲を一切使わず、まったくの0から楽曲を構築した、エルフマンらしいサウンドトラックだ。
ウィリー・ウォンカの実写映画化3作のうち、楽曲面では明らかに異彩を放っており、そんなところもやはり、バートンとの長いパートナーシップを感じさせる。
父親との和解……『ビッグ・フィッシュ』でやり残したこと
ウォンカの父親との関係性と、その和解までが描かれるのが、バートンが前作でやり残した今作のテーマだ。原作にはないこのシークエンスがあることで、今作は一気にバートンの物語になる。
ダール財団も当初は“ウォンカの家族”というテーマの追加には相当迷ったという話だが、ダール本人が存命ならなんと言っただろうか……正直、物語の食べ味の変化を考えれば、71年版以上に激怒した可能性すらある。
前作のレビューにも書いた、バートンが母の家を訪ねた際、そこにはバートンがそれまで撮った映画のポスターが飾られていたというエピソード。それを再現するように、ウォンカの父の家には、ウォンカが家を出てからの彼の功績を讃えた新聞記事が所狭しと飾られ、切り抜いた記事がスクラップされている。
同じようにウォンカもまた、「家族は足手まといになる」と言いながら、その歯は幼い頃父に言われた通りに、綺麗に手入れをされていた。
前作の製作時に、自身の創作の根源に父からの影響があったことにも気づいたバートンの想いが、そこには反映されているのではないだろうか。
幼い日のウォンカがハロウィンで持ち帰ったお菓子を、父が暖炉にくべるシーン……この時の青い炎には、『スリーピー・ホロウ』で母の遺したものを燃やしたイカボットの父の姿が重なる。
状況や環境は違えど、どちらの父も、息子の大切なものを奪い、焼き尽くした存在の暗喩だ。
「お前の帰る家はないぞ」のセリフで本当に帰る家がなくなってしまうのはバートンらしいファンタジーだが、同時に、ラストでウォンカが向かった父のその家は周囲に何の建物もなく、雪に囲まれたその画は孤独に満ちていた。かつてのバートンにとって雪は孤独と別れの象徴であり、今作の序盤や、この父の家に降る雪にはそれが集約されている。
前作での父親との和解は、死を前にし、父が死ぬことで果たされたものだった。それはバートンの現実においてもそうで、その和解は、生きているうちに間に合うことはなかった。
あくまで今作は『チョコレート工場の秘密』の実写化作品であり、71年版の“作り直し”という側面もあったため、バートンにとってもオーガストにとっても重要な“父親との和解”がラストでやや駆け足に終わってしまう作劇は残念ではあるが、これはある意味前作『ビッグ・フィッシュ』で辿り着いた結末のエピローグのようなものであり、本来あり得なかった“優しいif”だ。だからこそ、あまり長く描くものではなく、この程度で終わらせる方が良かったのだろう。

総括:バートンのトラウマ治療〜そのエピローグとしての物語
チャーリーの家庭の温かさは、ウォンカにとって理想と憧れの象徴だった。
かつて『フランケンウィニー』で8mmフィルムを撮るヴィクターを両親が優しく見守っていたのも、それはバートンが得られなかった、“もしも”の過去への望郷だったように思う。
これまではトラウマの根源としてしか描かれなかった父親という存在は、今作でようやく共に歩んでいく存在になった。互いの誤解を解き、生きているうちに、生きている同士での和解が果たされたのだ。
チャーリーの父が歯磨き粉製造業だったのと、ウォンカの父が歯科医という対比構造があり、そのチャーリーの父の失業の原因がウォンカのゴールデンチケットなのも、最後にはチャーリーの父もまた仕事に戻れるというのも美しい円環だ。
“子供のような大人”はその実子供ではない。
本当の意味で子供を理解することは、実はできない。人は本当の意味での大人になることで、初めて子供と手を取り合い家族になることが出来る。
引き攣った笑顔から少しだけ柔らかな表情になり、実の父と和解したウォンカは、更にはチャーリーの家族の一員という居場所も手に入れた。そうしてチャーリーにただ工場を譲るのではなく、共に新たな夢を描いていくのだ。
『スリーピー・ホロウ』、そして『ビッグ・フィッシュ』と……バートンは少しずつ孤独から歩を進め、“誰かと共に歩むこと”を受け入れてきた。そうして今作では遂に、トラウマの根源であった父と、真の意味での和解を果たす。
だからこそ、今作のラストに降る雪はこれまでとはまったく違って見える。ウォンカの工場に降る雪は、冷たい氷の粒ではなく、甘く優しい粉砂糖であり、それはどこまでも暖かく心に降り積もるのだ。

⭐ 3.5 / 5.0
📅 2025/08/20(Hulu)
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🩺 ティム・バートン“トラウマ治療期”考察レビュー
※PLANET OF THE APES/猿の惑星(2001)



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