ティム・バートン全作品レビュー22
――帰ってきた悪趣味な死後の世界, バートンと異形たちが積み上げた36年間
この作品はどんな作品?
ティム・バートンのキャリアを決定づけた初期名作『ビートルジュース』の36年ぶりの続編。
相変わらず大暴走のビートルジュース、母親になったリディアと娘アストリッドの不和から見る親になったバートンの物語。死者と生者の世界に線を引き、そうして「私たち」は生きていく。
この作品はどんな人にオススメ?
大俳優/名優マイケル・キートンが若かりし頃に演じた大暴走の復活を見たい人。
ティム・バートンの描く悪趣味で明るい死後の世界『ナイトメア・ビフォア・クリスマス』や『コープスブライド』が好きな人。
思春期の子供との関係に悩む親御さん・思春期になって親との関係に悩むお子さん。
作品データ
原題:Beetlejuice Beetlejuice
監督:ティム・バートン
脚本:アルフレッド・ガフ
マイルズ・ミラー
原案:セス・グレアム=スミス
音楽:ダニー・エルフマン
撮影:ハリス・ザンバーラウコス
上映時間:105分
出演者:
ビートルジュース:マイケル・キートン
リディア・ディーツ:ウィノナ・ライダー
デリア・ディーツ:キャサリン・オハラ
アストリッド・ディーツ:ジェナ・オルテガ
ローリー:ジャスティン・セロー
ドロレス:モニカ・ベルッチ
ウルフ・ジャクソン:ウィレム・デフォー
ジェレミー:アーサー・コンティ
リチャード(声のみ):サンティアゴ・カブレラ
ボブ:ニック・ケリントン
※本レビューにはネタバレを含みます。
総文字数:10435文字
読み終わるまでの時間:約26分
前作レビューはこちらから
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製作背景:コロナ禍の収束と共に蘇った36年ぶりの続編
ティム・バートン監督初期作品、1988年の『ビートルジュース』のなんと36年ぶりの続編。続編作品の製作自体、バートンとしては『バットマン リターンズ』以来のこととなる。
バートン初のオリジナル企画での長編作品だったにも関わらず(『ピーウィーの大冒険』は主演のポール・ルーベンス主導)、1作目は興収・評価共に非常に高く、公開後の1989年にはTVアニメ化、1991年にはゲームも作られ、キャラクターIPとしての人気は当時から確立されていた。続編製作の話も立ち上がっては消えており、バートンがDCコミック『バットマン』の映画化に着手したため企画倒れとなってしまったが、 1990年にはハワイに移住したディーツ一家が原住民の墓の上でリゾート開発をする……という物語の『ビートルジュース・ゴーズ・ハワイアン』も製作一歩手前だったとか。ビーチ映画のサーフィンの背景にドイツ表現主義を組み合わせてみたいと、バートン自身企画には割と前向きであったらしい。
(それはそれで非常に観てみたかった)
2015年末にも続編製作の話は本格化しており、リディア役のウィノナ・ライダーは当時レギュラー出演予定だったNetflixドラマ『ストレンジャー・シングス 未知の世界』(2016〜)の出演条件において、“『ビートルジュース』の撮影が始まった場合、シリーズの出演を一時中断させて欲しい”というものを挙げたほどだったと言う。
結果としてこの企画は再び棚上げとなったが、ライダーにせよバートンにせよ、1作目から今作までの30年以上、かなり長い期間に渡りこの企画への情熱を燃やしていたのだ。
『ダンボ』公開後、2022年フランスの《リュミエール映画祭》での記者会見でディズニーとの“決裂宣言”とも思える発言を残したバートン。コロナ禍の影響もあり、『ダンボ』から今作までには約5年という期間を要し、一時は監督業の引退すら考えたほどだったと言う。
そんなコロナ禍の2021年から製作に入り、Netflixで公開されたドラマ『ウェンズデー』が好評を博した後、バートンが長年形にならなかった自身の原点たるホラーコメディに着手したのは自然な流れであったように思う。
コロナ禍も凡そ収束に向かった2024年、当時のオリジナル・キャストに新たなファミリーを加えて撮影された、コンプライアンス違反スレスレの“暴走機関車”ビートルジュースは、それ自体が“ディズニーへの意趣返し”のような痛快な快作だ。
映像論:CGとアナログ撮影が合わさったバートンの箱庭
ミニチュア×実写=懐かしきウィンター・リバーと呪いの家
まずは1作目とまったく同じ、ミニチュアで作られた舞台:ニューイングランドの田舎町の空撮から始まる。懐かしのウィンター・リバー……そこにはアダムとバーバラのメイトランド夫妻が事故に遭った場所も、リディアが通った学校もあの日のままに存在しており、当然、丘の上には呪われたあの家が聳えている。
ダニー・エルフマンによる印象的な例のテーマの新録版と共にキャストの名前が画面に現れ、街の上空をカメラが流れていく。80年代にタイムスリップしたようなこのオープニングシークエンスは懐かしいだけでなく、ミニチュアの技術も楽曲も当時よりパワーUPしており、その映像は実写かミニチュアか一見しただけではまったくわからない。前作では実写→ミニチュアへと変化して本編が始まったが、今作ではミニチュア→実写と変化していく。これがあまりにもシームレスなのだ。
今作はオープニングシークエンスだけでなく、作中あらゆる場面において、バートンお得意のストップモーションや特殊メイクなど、現在の技術であればCGでいくらでも広げられる映像を、敢えて当時と同じ“手作り感溢れる”撮り方で表現しているのが見て取れる。
何しろ、あのボブを始めとする頭の小さなゴーストたち《シュリンカーズ》もCGキャラクターではない。巨体の俳優陣の首から上を衣装で隠し、小さな頭を乗せて撮影したというこのゴーストたちは、以前はボブ一人だけだったが今作では随分と増えてしまった。
ボブはアフリカで猛獣狩りの最中に呪いで頭が縮んでしまった設定だったはずで、その呪い師も1作目のラストでは死者の順番待ちで並んでいたが……あいつ、あの世で何人の頭縮めたんだ。
悪趣味でポップなブラック・ジョークの数々
『ビートルジュース』には徹底した“悪趣味ポップ”が全編貫かれ、そこは良い意味で古臭い80’sの雰囲気を引き継ぎつつ、36年分の表現の蓄積でより磨きがかかったデザインと造形美が息づいている。
上半身をサメに齧られたリディアの父:チャールズの断面から喋るたび血が噴き出す描写は、『SAW』シリーズなどのゴア描写にも近いグロテスクさがある。しかし、その頭も顔もないチャールズがまたペラペラペラペラとよく喋るので(「頭が妙に軽いな」じゃないのヨ……)、グロさよりむしろ笑いが勝つ。
当時の役者:ジェフリー・ジョーンズが2002年の事件により出演出来ないのを逆手に取り、その死の場面もハッキリ本人とわかるほどソックリなストップモーションアニメで処理してしまう。チャールズの葬儀では聖歌隊が“あの”「バナナボート」を歌い、家族の思い出を彩る。あの世でそんなチャールズとは逆に下半身がないサーファーと会話するシーンなど、これぞティム・バートン!と拍手喝采の悪趣味さだ。
刑事気取りの(役の?)ウルフ・ジャクソンの頭のメイクも、ビートルジュースの「頭はリアルすぎ」という台詞の通り、2024年の技術ならもっとリアリティのある特殊メイクにすることもできたはずだ。けれど、そこは敢えて“作り物っぽい”メイクに抑えることで、ギリギリコメディのラインを踏み外さない。
序盤でデリアのショーが中止になったことで揉めていたアーティストが、外に出るなりいきなりマンホールの穴に落ちて死者の国の仲間入りを果たすシーンも軽快なポップさでブラック・ジョークにしてしまう。
無駄死にである。このキャラクターに関しては本当に無駄死にで、これが笑えてしまうのがまごうことなき『ビートルジュース』だ。
リアリティとポップさのバランス。1作目の時代の成熟しきっていない技法を敢えて残すことで、今作の死者の世界はある種の造り物感=お化け屋敷のような極彩色の闇を描き出し、2作の間の時間の流れを止めてしまう。死者の国に、時間の概念などないのだ。
不謹慎ネタの宝庫……見てすぐ死因のわかるゴーストたち
その他にも相変わらず見ただけで死因のわかる大量のゴーストたちは“不謹慎ネタ”の宝庫だが、その死者の描き方も当時とは随分変化している。1作目では働くゴーストはオーソの言う通り自殺者ばかりだったが、今作ではざっと見たところ自殺者らしきゴーストはいない。中盤の《ソウルトレイン》の受付にアストリッドの父(アマゾンでピラニアに喰われて死亡)がいることからも分かる通り、その設定は完全になかったことにされたようだ。
1作目は80年代……“自殺”をネタに笑いに変えるのが不謹慎だったことには変わりはないが、2020年代の現代よりも自殺は“遠い出来事”だった。現代では、自殺は人々の身近なところにあり、精神医学などの発展により当時名前すらついていなかった心の病に、きちんと医師の処方がつくようになっている。そんな時代の変化が死者の描写一つとっても感じられ、そこには36年で死が近くなった世の中への切なさを感じもするものだ。
技術の進歩で死者のバリエーションは増えた一方、1作目のバーバラが寝ていると思ったら宙に浮いていた、というような“死者ギミック”の面白さは今作ではあまり登場しない。これは単純に新人死者が登場しないためでもあるのだろうが、ああした軽いジョークの楽しさはもう少しあっても良かったかも知れない。
CGに関しても決して毛嫌いして使わないというわけではなく、必要な箇所にはしっかりと取り入れている。バラバラの身体をホチキスで繋ぎ合わせるドロレスの断面には血が滴るリアルさがありながら、その合体描写はパーツ毎のポーズも合わせ非常にポップに、たっぷり時間を取って演出される。こうした映像は当時の技術では難しく、近代的なギミックでも画面を盛り上げてくれる。
また、そんなドロレスに魂を吸われて一気に萎むゴーストたちの描写も恐怖と笑いのスレスレのラインを、CGでなければ出来ない表現でうまく演出している。バートンのイメージした世界を創り上げるのに、今ではCGもきちんとその役を担っているのだ。
キャラクター考:変わらず変わったビートルジュースの大暴走
本家本元・唯一無二のマイケル・キートンのビートルジュース
そんな死者の国の最凶人間怖がらせ屋:ベデルギウスことビートルジュース。1作目では92分の本編中実は11分程度しか登場していなかったことが話題にもなったが、今回は序盤からガンガン暴れ回る。当時30代だったマイケル・キートンも今作撮影時には72歳。にも関わらず、そのパワーはまったく衰えていない。
軽快なステップで踊る、歌う、壊す、暴れる。その後様々な媒体で映像化され、2019年には舞台化もされたが、やはり本家本元のこの爆発力は唯一無二。今回日本語版の吹き替えは残念ながら西川のりお師匠ではなくなったが、師匠は師匠で吹き替え版の一部でゲスト出演しているので探してみると楽しい。
今作のインタビューでキートンは、『ダンボ』について「(当時の自分の演技は)バートンを失望させたかも」と語っており、バートンはそれに「君が何を言っているかわからないよ」という返事をしていたが、恐らく監督であるバートンだけでなく、出演者にとってもあの作品は納得のいくものではなかったのだろう。そんな中で「なるべくコンプラに配慮したくない」という意志で今作の撮影に臨んだキートンは、良い意味で変わらないビートルジュースを演じ切ってみせた。

時代に合わせつつ、キャラクターの暴走っぷりはそのままに
もちろん、88年当時と2024年では、社会情勢も、エンターテイメントに求められるものも大きく変わった。それは悪い意味ばかりでなく、「ダメなものはダメだ」ときちんと言えるようになったということでもある。相変わらず相手への同意などお構いなしにアストリッド救出の交換条件としてリディアと婚姻契約を結ぶなど、やってることはまったく変わっていないのだが、今はもういきなりキスをしたり触ったりとセクハラ行為はしないし、煙草も吸わない。それはそうだ、600年生きた亡霊も現代の流れには合わせないといけない。
これは物足りなさを感じるところではない。ビートルジュースの暴れ方は、形は変えたがしっかりと受け継がれているし、相変わらず性格はちゃんと最低だ。ビートルジュースはヴィランだが、人に憎まれるキャラクターになってはいけないのだ。
(インフルエンサー大量虐殺について?あれは多分……んー、大丈夫そのうちスマホから出てくるんじゃないカナ)
また、キートンは今作撮影前、DCEUの作品アンディ・ムスキエティ監督の『ザ・フラッシュ』(2023)にて、バートンとの共演作『バットマン』の役にカムバックしている。アメコミシリーズのマルチバース展開も考えるとバートン版バットマンと完全な同一人物とは言い難いが、スーツのデザインや作品内のバット・ケイブに《ジョーカーの笑い袋》が置いてあったりと、製作側はかなり意識していたに違いない。キートンも撮影時ウェイン邸のセット写真をバートンに送るなど、二人で楽しんでいたようである。
今作には関係ない余談ではあるが、『ダンボ』でのダニー・デヴィートとの共演、バットマンの再演を経ての今作でのビートルジュースは、キートン自身にも何かしらの影響を与えていたと考えても考えすぎではないだろう。
物語論:リディアとアストリッド〜ひたすら面倒臭い親子の確執
孤独で親との不和を抱えるアストリッド……しかし彼女は主役ではない
今作は本当に面倒臭い問題だらけの親子が、お互いのことを再び理解し合うまでの物語だ。そして同時に、バートンの目線が『ミス・ペレグリンと奇妙なこどもたち』から引き続き、
“親を理解できるようになった子供”
から
“子を理解しようとする親”に変わったことを強く意識させられる作品でもある。
物語はリディアの娘、当時のリディアとそっくりなアストリッドが軸となる。
アストリッドのキャラクターは、前作を知る観客からすれば、驚くほどにリディアに似ている。学校ではナードとして浮いてしまっているところも、死んだ父親のことがあるためリディアに反発心があるところも……中盤からは霊も見えるようになり、顔色の悪さだってしっかりバートン・ファミリー。チャールズの死に対し「生きる方が酷かも」なんて言うところも、当時のリディアと重なる。男運が悪いところだってそっくりなのだ。
こんなにも共通点の多い親子なのに、携帯に登録されたリディアは【自称:母親】。電話には出ないし話す時に目を見ようともしない。
アストリッドの孤独は、自らが作り出したものではなく……母親のインチキ(とアストリッドは思っている)霊能力のためであり、学校に居場所がないのは、母親が“悪い意味での”有名人だからだ。リディアは父の死についてアストリッドと語ることを避け、死者が見えるはずなのに父に関しては見えないと言う。
アストリッドにも、幼い頃はリディアを信じていたときはあったのだろう。けれど父の死にショックを受けたアストリッドに、リディアは望む回答を与えられなかった。そうして少しずつ、関係は崩れていったのではないだろうか。アストリッドが環境問題に興味を持っているのは父の影響もありながら、霊能力という非現実的なものに固執する母親への反発でもあったのだろう。
アストリッドの造形は、これまでのバートン作品に登場してきた孤独な子供時代の表像だ。しかし、『ビートルジュース』の物語は代替わりしたのではなく、娘・アストリッドを通して、母親であるリディアを描く。今作の主役はアストリッドではなく、1作目から引き続きリディアのままなのだ。

バートンが自身を投影したリディアの36年はバートンの36年でもある
リディアを演じたライダーは、『ビートルジュース』でのリディア役以降、バートンとは公私共に仲の良い関係が続いていた。
2024年にバートンがハリウッド殿堂入りを果たした際には「30年前にあなたは私の人生を変えたのです」と語ったこともある。
ゴスロリ・霊感少女……リディアはバートンのフィルモグラフィーにおいて、最初にバートン自身の表像として描かれたキャラクターだ。
バートンが自身を投影したキャラクターと言えば、『シザーハンズ』のエドワードのように、ジョニー・デップが演じてきたキャラクターを指すのが一般的な考え方だろう。
しかし、1作目で父の再婚相手であるデリアに反発し、孤独な自殺願望を抱えていた少女は、幼少期の両親とのトラウマを長らく抱え、ホラー映画や絵の世界に没頭していたバートンの姿にどうしても重なってしまう。
やはりリディアはバートンが長編の実写映画において初めて描いた自身の表像であり、本当の意味でのバートンの“異形”の一人目ではないかと思うのだ。
そんなリディアも今作では母となり、当時の自分と同じ思春期の娘とのうまくいかない関係に悩んでいる。
リディアは完璧な母親として描かれない。現在のリディアは少女時代に輪をかけて不安定な状況であり、故に娘であるアストリッドにきちんと向き合うことが出来ない。携帯はローリーに握られ、精神薬を飲むことさえ理解されない。それでも依存心が捨てられず、セラピーとローリーに縋ることで幼い頃の恐怖心:ビートルジュースの幻影から逃れようとする……ローリーに言われるがまま“死者が見える存在”としてTVに出て、インチキ霊能者として世間からもどこか冷めた目で見られている。それはデリアにも指摘されており、「私を苦しめたゴスガールはどこ?」などと言われてしまう。
アダム・バーバラが登場しない理由〜ウィノナ・ライダーの人生とリディア
今作でアダム・バーバラのメイトランド夫妻が登場しないのも、ここで意味を持ってくる。10代の頃のリディアは、当時新人ゴーストだったアダム・バーバラ夫妻との交流によって救われた。1作目のラストでは、家族同然の関係でリディアの心の支えになっていたはずだった。そんな2人はもう、124年を待たずに家を離れてしまっている。これは単純にキャストの状況や、年を取らないはずの二人を歳を重ねたキャストで撮るわけにいかなかった、というメタ的な事情以上に、リディアの現在の孤独を強調する意味もあったのだと思う。
これは、ライダー自身の人生にもリンクする。12歳でそのキャリアをスタートし、15歳でバートンと出会った彼女のキャリアは決して順風満帆とは言えなかったし、詳細はここでは省くが、スキャンダルによってキャリアが危ぶまれる状況もあった。数年に一度会うたびに『ビートルジュース』の続編の話をしていたというバートンも、当然そのことは把握していたはずだ。
今作のリディアには、そんなライダーの人生そのものが投影されているようにも感じられる。そしてそれは同時に、当時のリディアに幼き日の自身を重ねて描いたバートン自身の環境や状況の変化も然りだ。
作家論:バートンの視点は親側になり、子供から親への目線も変化した
バートンは親からの視点で物語を紡ぐようになった
これまでのバートン作品は、『ビッグ・フィッシュ』と『チャーリーとチョコレート工場』で自身の内にあるトラウマ的父親像との和解を果たして以降、“親を理解した少年(少女)”の目線で物語が紡がれていた。バートン自身が親になった経験を加味しても、これまで主体はあくまで子供側のものだったのだ。
だからこそ、子供側でいようとする物語と、親になったバートンのカメラに不整合が生じてしまうような作品も、『ビッグ・フィッシュ』以降は散見されもした。
しかし、『ビッグ・アイズ』『ミス・ペレグリンと奇妙なこどもたち』で親の目線から異形を描いたバートンは、今作でついに、自身の表像であったリディアに“子を持つ親”の目線を託している。
アストリッドは学校で母親のことを揶揄された際、「将来バツ2で子持ちでも同じこと言える?」と苛立ちを口にしているし、屋根裏部屋では久しぶりに父親の話が出来て嬉しそうな顔をしている。母親への愛はありながら、それをうまく表現できていない。
実際のところ、思春期の親子の無理解とは、そうした側面が多々あるものだ。あれほど“思春期の孤独”を描き続けたバートンが、今作では親子の問題を、どちらか一方の視点だけで語るのではなく、その両側から描こうとしている。
リディアとデリアが手を取り合う世界……36年でのバートンの変化
これこそが36年間バートンが積み上げ、自身のトラウマと向き合ってきた歴史の表れでもあり、だからこそデリアもまた、1作目のような“気の合わない継母”というだけではないキャラクターとして描かれることになるのだ。
リディアと同じく続投のキャサリン・オハラが演じたデリアは相変わらず強烈でトリッキーなキャラクターだ。アーティストとして大成した彼女はアストリッドを「ただでさえ病んでるのに」と辛辣に表現するし、夫チャールズの死に対してもその悲しみを自身のアートに活かそうとする。神父の話は退屈そうにまともに聞こうともせず「読書って有害」と言うような、相変わらずの俗っぽさだ。
けれど、前作ではそんな“どうしようもない大人“をどちらかと言えばヴィラン側に配置し、一歩引いたカメラを向けていたバートンが、今作ではグッとデリアの側にも寄っている。それはデリアからリディアへの言葉にだけ表れてるわけではなく、今作ではリディア自身が親となり、当時のデリアの心境も理解できる年齢になったからだ。TVタレントのリディアとアーティストのデリア、立場も近い。リディアはデリアを拒否しなくなっているし、デリアの「私は前から好きよ」という言葉も、リディアにきちんと届いている。
恐らくデリア本人の描き方やキャラクターはそこまで変わっていないのだろう。けれどそうした言葉やデリアの表情を、バートン自身がフォーカスして撮れるようになっている。
離婚→再婚→離婚を経験し、リディアとアストリッドの立ち位置は、実子であるという点を除けば当時のデリアとリディアの関係に近い。
だからこそ、ラストであの世に向かうデリアに対してリディアは「寂しくなるわ」と言えたし、デリアも溢れんばかりの投げキスをしながら去っていく。このデリアの死に様に関しては本人が「恥」と言う通りまさに冗談みたいな死に方なのだが、そんなところもデリアらしい、と笑えてしまうのが今作の良さだ。死を“悲壮にしない”、死後の世界にもルールや規則がある。死を過剰に美化するのではなく、「それはそれで楽しそうじゃないか」と思わせる、バートン流の死後の世界。
死者の世界との共存ではなく、明るい別れを描く作品に
88年の『ビートルジュース』から2005年の『ティム・バートンのコープスブライド』でも。悲しい死や孤独の物語を描く一方、死後の世界にそんな明るさも見出してきたのがティム・バートンの意匠だ。
1作目製作当時のバートンにとって、“死者の世界”は生者の世界より魅力的に映っていたのだと思う。当時のリディアは父であるチャールズやデリアを信用せず、メイトランド夫妻にだけ心を開いていた。それはバートン自身の生者の世界への不信そのものであり、だからこそ初期のバートン作品には、あれほどまでに死の香りが漂っていたのだ。
今回のアストリッドとリディアの和解も、死者が間に入ることで成立する。しかし、あくまでそれはサポート役。本当に大事なのは生者の生き方だ。
悪い男(のゴースト)に騙され、死者の国に行って身代わりにされそうになったアストリッドを、あれほど恐れていたビートルジュースとの結婚を条件にしてまで救いにきたリディア。
二人は、《ソウルトレイン》の受付で働いていたアストリッドの亡き父に救われる。ピラニアに全身を喰われ、それでも二人を見守ってきた、と語る父が、親子の間に立つ。死と生に分かたれた家族の邂逅を以て、アストリッドもようやく父の死を乗り越えるのだ。
演出論:アッサリと処理される死の世界の物語に2020年代のバートンを見る
生者の物語が深く描かれた分、死者側の物語はやや雑だ。
両親を殺したゴースト、アストリッドを騙したジェレミーはビートルジュースによってアッサリと地獄に落とされるし、バートンお得意のツギハギのモチーフのドロレスにしても、大暴れした割にはそこまで強烈な見せ場もなく、サンドワームによってローリーと始末されてしまう。
一応前作から引き続いてのキャラであるボブも、ビートルジュースの身代わりにドロレスに魂を吸われて萎んでしまう。嗚呼可哀想なボブ……美しき思い出は誰も忘れはしまい。頭が縮んでいるため身体だけ萎んで頭はそのままなのは芸が細かい……ってやかましいわ!
終盤のそうした雑な展開には、やはり近年の“異形への共感”が薄くなったバートンが見え隠れするのだが、その雑さも含めて許せるのが『ビートルジュース』の世界観とも言える。
これはシリアスで小難しい物語じゃない。死んだら死んだで、《ソウルトレイン》で踊りながらあの世へ行けば良い。1971年から2006年までアメリカで放送された音楽番組をパロディしたこの演出が、1988年と2024年を繋いでくれるんだからオシャレじゃないか。固いこと、言いっこなしだろう?
ラストの解決が1作目と同じくサンドワームなのも、それがしっかりストップモーション・アニメーションとの合成なのも最早サービスだろう。2024年ならCGにしてしまった方が画面浮きはなかったはずだが、ビートルジュースとの結婚式やジェレミーの部屋で宙に浮かび上がる際の映像の質感も、1作目ラストのリディアを彷彿とさせる“少し古い”……言ってしまえばチープすぎるくらいにチープな合成なので、これも恐らく敢えてのことだ。
コロナ禍もあり、世界情勢が決して明るくなかった時代……死が身近になりすぎた時代だからこそ、久々にこんなポップコーン・ムービーがあったって良いじゃないか。
堅苦しくしたり顔でメッセージを投げかけるディズニーより、フルーツサラダの仮装の方がよっぽどマシなんだから(と、作中で言ってただけである、個人の意見ではない!笑)
総括:死者と生者に線引きを……いつかの三度目に備えよう
死者が間に立つことで再生する家族の物語……その結末は1作目の焼き直しのようでありながら、今作では生者と死者の間にきっちりと線を引く。
死者は死者、生者は生者。両者の世界は、混じり合うことはあっても決して同じ場所にはない。『ティム・バートンのコープスブライド』、『ダーク・シャドウ』を経て、その境界に、今のバートンははっきりと線を引いた。リディアの口から「死者との交流より、生きることに集中します」と語らせたのも、ラストシークエンスでのリディアとアストリッドの顔色が良くなって、普通の人間らしくなっているのもその表れだろう。
アストリッドが『ウェンズデー』で主演を務めたジュナ・オルテガなのも暗示的で、バートンにとって『ウェンズデー』は創作活動に戻る火種だったのだろうし、同じくライダーにとっても、『ストレンジャー・シングス 未知の世界』で築いた新たなキャリアは財産だ。
ローリーが呼び出したインフルエンサーの中にはNetflixの幹部もいたそうだし、ディズニー始めとした大手配給会社と度々揉めるバートンからすると、Netflixは救世主のようなもので、アストリッドはそのメタファーでもあるのかも知れない。
今作は5年ぶりの映画製作というバートンにとっての“リハビリ”であり、同時に新たな表現のフェーズに向かう最初の一作品になるだろう。
『ミス・ペレグリンと奇妙なこどもたち』で親の視点から再びファンタジー・異形の世界・その世界で生きる子供たちを肯定し、今作ではその上で、人間と異形の世界にきっちりと線を引きながらの共存を描いてみせた。
バートンの描く“異形の物語”は次のフェーズに向かい、“異形への愛の向け方”もまたもう一段、別の段階へ上がったのだと思う。
だからこそ、まだ見ぬ次の作品への助走として、36年ぶりに“ビートルジュース”という暴走機関車が必要だったのだろうし、それを経て、バートンは再び創作への喜びを取り戻したのではないだろうか。
まだ二度しか唱えてない。死者との間に線を引いても、しつこいビートルジュースは三度目をきっと待ってるはずだ。
ビートルジュース
ビートルジュース
ビートル……
⭐ 3.5 / 5.0
📅 2025/07/05(Netflix)
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