ティム・バートン全作品レビュー20
――ようやく訪れた異形たちへの祝祭, さぁ時間を超え君の待つ場所へ
この作品はどんな作品?
ランサム・リグズの不思議な写真付ファンタジー小説の実写映画化。
バートンの映像演出の集大成たる奇妙な子供たちを、子供の成長を見守る親の目線で描いたバートンの新境地たる傑作。異形たちへの文句なしのハッピーエンド。
この作品はどんな人にオススメ?
ティム・バートンの描く奇妙な世界や不思議なキャラクターが好きな人。
少年少女が力を合わせてハッピーエンドを迎える王道のストーリーが好きな人。
異形と人間の異種間愛……その報われる様が見たい人。
作品データ
原題:Miss Peregrine’s Home for Peculiar Children
監督:ティム・バートン
脚本:ジェーン・ゴールドマン
音楽:マイク・ハイアム
マシュー・マージェソン
主題歌:フローレンス・アンド・ザ・マシーン
「Wish That You Were Here」
撮影:ブリュノ・デルボネル
上映時間:127分
出演者:
ジェイコブ・”ジェイク”・ポートマン:エイサ・バターフィールド
エイブラハム・”エイブ”・ポートマン:テレンス・スタンプ
エイブ(幼少期) :カラム・ウィルソン
アルマ・ルフェイ・ペレグリン:エヴァ・グリーン
エマ・ブルーム:エラ・パーネル
イーノック・オコナー:フィンレイ・マクミラン
オリーヴ・アブロホロス・エレファンタ:ローレン・マクロスティ
ミラード・ナリングス:キャメロン・キング
ホレース・ソムナッソン:ヘイデン・キーラー=ストーン
ミスター・バロン:サミュエル・L・ジャクソン
エスメラルダ・アヴォセット:ジュディ・デンチ
ブロンウィン・ブラントリー:ピクシー・デイヴィーズ
フィオナ・フラウエンフェルト:ジョージア・ペンバートン
ヒュー・アピストン:マイロ・パーカー
クレア・デンスモア:ラフィエラ・チャップマン
双子:ジョゼフ & トーマス・オドウェル
グリーソン:スコット・ハンディ
ミス・エドワーズ:ヘレン・デイ
フランクリン・”フランク”・ポートマン:クリス・オダウド
マリアン・ポートマン:キム・ディケンズ
ナンシー・ゴラン:アリソン・ジャネイ
ジョン・ラモン:ルパート・エヴェレット
※本レビューにはネタバレを含みます。
総文字数:11946文字
読み終わるまでの時間:約30分
製作背景:バートン流X-MEN?過小評価されがちな埋もれた大傑作
ティム・バートン監督によるランサム・リグズのファンタジー小説『ハヤブサが守る家』の実写映画化作品。
原作小説はリグズの長編小説デビュー作であり、元々は写真蒐集家でもあったリグズが集めたトリック写真など、幻想的なアンティーク写真を掲載したフォトブックとして企画されていた。しかし、それらの写真が持つ物語性に注目した《Quirk Books》編集者からのアドバイスにより、企画は写真付き長編小説の執筆へと変わる。
自身の写真だけでは長編小説の物語は紡げないと危惧したリグズは、蒐集仲間の紹介で手に入れた新しい写真も用いて物語を構築し、発売された小説は瞬く間にベストセラーとなった。
リグズが大学卒業後映画製作を学び、脚本業などにも携わった経験があるためか、物語は非常に映像的で映画栄えするものでもあったため、原作発売同年には今作配給の20世紀FOXが映画化権を取得し、その時点でバートンの監督起用もほぼ内定していた。
バートン自身は企画をもらうまで原作の存在は知らなかったということだが、独特の世界観や“異能の子供たち”という設定は、まさにバートンが映画化するに相応しい題材で、実際、原作小説に掲載された数々の写真に、バートンは一目で引き込まれたのだと言う。
ちなみに、今作公開後に原作小説の邦題も『ミス・ペレグリンと奇妙なこどもたち』に改められたが、個人的には元の70〜80年代児童小説風のタイトルも雰囲気があって嫌いではない。
製作が20世紀FOXで特殊な能力を持つ子供たちの施設、更には当時既にMCUシリーズで大活躍していたサミュエル・L・ジャクソンまで出演となると、人によってはどうしても『X-MEN』シリーズを想像してしまうところだろう。実際、脚本のジェーン・ゴールドマンは『X-MEN』シリーズにも2作で関わっている。
しかし、そこはさすがのゴシック・ファンタジーの巨匠ティム・バートン。SFではなくファンタジー、近未来ではなく古典の画でしっかり期待通りのものを見せてくれた。
バートン後期作品、お馴染みの出演者もなく、世界興収も2億9千万$と、ヒット作ではあるのだが他のバートン作品と比べると影の薄い作品かもしれない。
だが、それは過小評価に過ぎると声を大にして言いたい。
今作はある意味、バートンの集大成にして新天地。一つ一つのシーンを心から楽しんで演出しているのが伝わり、何より今作でバートンのファンタジーは、また新たな地平を開いたように思う。親となったバートンが描く異能の子供たちへの祝祭。今作は、バートン監督作品の新たな基準値となる傑作だ。
映像論:明暗を使い分けた映像と実在の城を借りたロケ撮影
退屈なフロリダから異界の入り口:ケルン島へ
今作の映像にはここまでの数作でバートンが築き上げてきた画作りが活かされており、いよいよ今作でバートンは、我々観客の生きる現代現実世界に異界を出現させることに成功している。
主人公のジェイクが生きる世界は公開年の2016年に合わせられ、終盤でミスター・バロンも言う通り、“退屈なフロリダ”の風景は我々が生きる世界と何も変わらない。
そこに不思議はないし、スマホがあり、車も銃もある。危険な存在と言えば暴漢や野犬であり、当然手がハサミの怪人も頭のデカい緑の火星人もいない。
退屈ながら優しい上司のいるドラッグストアでバイトをし、精神を病めばカウンセリングを受け、変死した祖父の謎は事件となり警察が動く。間違いなく、現実の世界だ。
しかし、これがメイン舞台であるケルン島に降り立つと不思議と空気感が変わってくる。
これまでのように明らかに映像のライティングが変わるわけではなく、島へ向かう船のシークエンスから、ほんのわずかに画面の彩度が下がり、ジェイクが異界に足を踏み入れたことが暗示されていく。
今作はこの“空気の変わる”瞬間の作り方が実に巧みだ。ケルン島自体は異界ではない。確かに多少時代から取り残された田舎町ではあるが、パブ兼任の宿や牧場があり、野鳥観察のスポットもある現代の島だ。しかし、そこにはどこか不穏な空気が漂っており、その島の奥にある廃墟となった施設や、ループの入り口である石塚も含め、異界へ繋がる入り口が至る所に顔を見せている。
これまで異界と現実とを完全に断絶してきたバートンが二世界の境界を曖昧に描いたのは、後述する物語も含めてバートンの映画作りそのものの変化でもあり、もはやバートンにとって、二つの世界は断絶したものではなく調和し始めていることも示しているのではないだろうか。
ホロコーストの爪痕を遺すベルギーロケによるリアリティ
今作でもバートンは出来る限りロケ撮影にこだわり、廃墟となったミス・ペレグリンたちの住む施設も、ベルギーのアントワープ近郊にある《トーレンホフ城》の外観とセットを併用し、セット内の小物もすべて1943年の時代に合わせたアンティークを揃えたのだと言う。
本来であれば、原作者のリグズが外観の参考にしたとされる同じくベルギーの《ノッテボーム城》を使いたかったそうだが、実際に見てみるとそちらは老朽化の影響で撮影の安全性が確保できる状態ではなかったとか。
今作はナチス・ドイツによる爆撃が物語の中で重要な意味を持っており、実際にベルギーは戦時中ナチスの侵攻を受けた地でもある。
実在する城に内包された歴史が、止まった時間と現在の時間との隔たりをその手触りごと映し出す。廃墟を巡るシークエンスで映し出される、爆撃により時間を止めた時計や焼跡に遺る子供たちの生活の跡は、それが子供たちのものであると劇中でハッキリと見せることで余計にその悲劇性を増す。
この廃墟を冒頭で見せることで、《ループ》に入り、生きた時代のミス・ペレグリンと奇妙な子供たちに会う場面での対比に繋がり、同時に現実の歴史で起こった悲劇への学びとしてもこれ以上ない演出になる。
中盤ジェイクがループに戻ってきた際にラジオから流れる放送も、実際に1943年9月3日にイギリスで放送されたウィンストン・チャーチル首相のラジオ演説であり、戦争という歴史を描くにあたり、ジェイクが初めてループに入った際に疑われるのが“スパイかどうか”という点も合わせてきちんとリアリティを以って向き合っている。
これだけ細部にまでこだわりながら、ケルン島を襲うドイツ軍の爆撃機と落下弾に関しては敢えてチープなCGで表現するのもバートンらしい意匠だ。これは『ビッグ・フィッシュ』の戦争描写でも取られた演出であり、そこにはバートンなりの“悪の描き方”が見て取れる。
バートンはファンタジーで現実世界を包み、差別や障碍などのメッセージも表面的にわかりやすくは描いてこなかった。そうしたリアリティは敢えて徹底して排除しながら、現実で人を傷つけたものに憧れを抱かせるような描き方もまた決してしないように心掛けてきたように感じる。その芯は初の長編映画『ピーウィーの大冒険』から変わらず一貫している。
その上で、異形の存在への迫害の視線や、物語全体に漂うホロコーストの匂いは決して隠そうとはしない。わかりやすい言葉でそれを責め立てることをしない描き方には賛否もあるだろうが、それは“経験していない出来事”に無責任な描き方をしないバートンの矜持でもあるのだと思う。
『ビッグ・フィッシュ』や『ダーク・シャドウ』で表現した、音楽によって背景にある時代を匂わせる演出も顕在で、劇中初めてジェイクが《1943年のループ》に入り込んだ際、逃げ込んだパブで流れる音楽ですぐに元の世界と違うことを(少なくとも観てる側には)ハッキリとわからせる演出も実に見事だ。
ループ内世界の安全性を示すように画面の彩度が再び明るくなるのも特徴で、その明るい画面の中で特殊な力を持つ子供たちの顔見せが始まるのも、今作でいよいよバートンの異形たちが、明るい太陽の下に出られるようなったということを示しているようにも感じる。
キャラクター考①:ジェイクはこれまでのバートン作品主人公とはまるで違う
バートンにとってジェイクは“かつての自分”なのでは?
それは主人公であるジェイクの人物造形からも明らかで、今作でのジェイクは、確かにバートン作品でよく登場するナードな少年だ。
学校に友達は少なく、ドラッグストアでのバイト中にクラスメイトの女の子に声を掛けても、覚えられていないどころか馬鹿にされ、その彼氏に陳列棚の商品を滅茶苦茶にされてもヘラヘラしているしかない。
家庭でもイマイチ両親とうまくいっているとは言えず、学校にも家庭にも居場所がない。『ビートルジュース』のリディアから脈々と続く、バートンの表像を表したかのようなキャラクター。
しかし今作では、バートンはジェイクに共感のカメラを向けない。“向けることができない”のではなく、明確に、意図して“向けない”。
今作でバートンはジェイクを自分の表像としてではなく、“かつての自分”として撮ろうとしているように感じるのだ。
物語冒頭から、ジェイクは必ずしも孤独ではない。
学校での描写はなく、家庭では家族との会話もなかった『ビートルジュース』のリディア、
誰もいない屋敷で膝を抱え、何年も一人で暮らしていた『シザーハンズ』のエドワード、
思想的にも職務の上でも孤独で、人里離れた村へ都落ちさせられた『スリーピー・ホロウ』のイカボット……
しかし、ジェイクはドラッグストアの店長であるシェリーとも良い関係が築けており、彼女はジェイクの祖父の具合が悪いと聞けば家まで車で送ったり、ジェイクの叫びを聞けば銃を持って駆けつけてもくれる。
ジェイクも確かに家族との仲は良好とは言えない。しかし、それはあくまで思春期特有の“うまく親と話せない”雰囲気だ。ジェイクは必ずしも両親のことを嫌っても、不信を振り撒いてもいない。
中盤でエマの「ループに残れば良い」という提案を断る際、勿論そこには何の能力もない(と本人は思っている)故のコンプレックスもあるのだろうが、そこでジェイクはハッキリと「ここには残れない、家族がいる」と言う。
不器用な親子関係に共感と理解が芽生えた
ジェイクの父:フランクと祖父であるエイブの関係は、そのまま『ビッグ・フィッシュ』のエドワードとウィルの関係に置き換えられる。幼い頃から家を空けがちで、その理由に不思議な話ばかりをするエイブの浮気をフランクは疑い、その関係は決して良好ではなかった。
しかし、そんなエイブの“作り話”を好み、祖父になついたジェイクを、フランクは決して頭ごなしに否定したりはしない。
フランクは親としては不器用な男だ。
ケルン島に行けばどう考えても息子とは性格的に合わなそうな少年二人に案内を任せ、野鳥観察に行っても自分より高装備な商売敵を見れば消沈して不貞寝し、精神状態が心配な息子からは目を離してしまう。
祖父の死に戸惑い、おかしなことを言う息子にうまい言葉も掛けられず、今作の物語の中で目立った活躍は何もない。
しかし、そんな不器用な父親が確かに愛を以ってジェイクに接していることを、今作でのバートンは理解した上でカメラを向ける。同時に息子であるジェイクもまた、それを理解しているから、出来る限り父には心配をかけないように祖父の秘密を探っていく。
バートンの描く親子が、明らかにこれまでとは違う段階にいっているのだ。
物語論:子供のままで終わらないジェイクの旅路にカメラが向く
これまでのバートン作品には見られなかった主人公の成長
今作の物語は、ジェイクという少年の成長を描いた物語だ。
これまでのバートンの異形たちは、実は物語の中でほとんど成長はしてこなかった。リディアやエドワードにあったのは環境の“変化”であって精神的な“成長”ではなかった。
この成長という要素は『スリーピー・ホロウ』から見え隠れし、『ビッグ・フィッシュ』以降で顕著になる。
『アリス・イン・ワンダーランド』のアリスや、『フランケンウィニー(2012)』のヴィクターが一度は死んだスパーキーを諦めようとした点にもそうした表現が目立っていた。これもバートンの目線が、異形の子供そのものとは同期しなくなった証左なのだと思う。
また、今作でのジェイクは決して受動的に物語に“巻き込まれる”キャラクターではない。祖父の秘密を探りにケルン島に行くのも、父に止められても島の調査・ループへ向かうのも、自らの意志で決め、父に隠れて動いていく。
バロン扮するゴランが誘導していたり、エイブが死に際に遺した言葉もあるにはあるが、あくまでそれはキッカケに過ぎず、基本的にはジェイクが自ら決めたことであり、ミス・ペレグリンもエイブも彼を導く役割になる。
言えなかった言葉を……出会う前の祖父との電話
エイブとジェイクの関係性も非常に良く、ジェイクは幼い頃からエイブの物語を信じ、彼が見せる奇妙な子供たちの写真のことも信じて生きてきた。
しかし、幼い頃は楽しい物語への信頼は、大人になるにつれ社会によって壊されていく。学校で馬鹿にされ、世の中を知るにつれそれは“あり得ない物語”になる。
『ビッグ・フィッシュ』のウィルは、そうして父を否定するようになった。しかし今作のジェイクは、必ずしも祖父を否定はしない。
祖父の語る物語は過去になったかも知れないが、祖父への愛は変わらずにそこにあった。だからこそジェイクは、祖父の死をキッカケにケルン島へ向かうことになる。
ミス・ペレグリンが囚われ、ループが壊れる直前、若き日のエイブから掛かってきた電話をジェイクが取るシークエンスは、短いながらも非常に良い場面で、かつ今作の大きなテーマの一つが表されているようにも思う。
「失望させたならごめんなさい。
世界一のお祖父ちゃんだ」
一度は疑い、その世界を否定した祖父に、まだ出会う前の祖父に別れを告げる。これはエイブにとっても大切なシーンであり、きっと、エイブが二度とループに戻らず、生まれてきた孫をディグリスク(=小さな虎)と呼んで信じ続けたのはこの出来事があったからなのだろうし、ジェイクにとっても、ここでエイブと話したことで本当の意味で覚悟が決まったのだと思う。
この二人の会話は時間軸の捩れがあってこそであり、こうした描写にも、バートンの“なんちゃってSF”要素が見えて楽しくなる。
演出論:映像作家ティム・バートンの集大成と新境地
ミス・ペレグリンのループ〜考察要素と設定の面白さ
今作ではこうした演出にも様々なアイディアが詰め込まれており、映像作家バートンとしての新しい境地も見えてくる。
ミス・ペレグリンの作ったループの映像は、時間移動ものとして実に秀逸だ。逆戻しで時間が巻き戻る画の発想自体は同ジャンルでも観ることは出来るが、今作はループ世界と現実の断絶がポイントになる。
ミス・ペレグリンのループはその歴史を時間の輪の中に閉じ込める。廃墟になるはずのもの、歴史上死んだはずの子供たちが、閉じられた時間の中で永遠に生き続けているのだ。
観ている側が既に壊れた状態を知っている、その運命そのものが、無理矢理に戻されていく。
ペレグリンのループは歴史の内側で過去を繰り返すものであり、その歴史的パラレルワールドにおける「卵が先か鶏が先か」なども考えてみると非常に面白くなる。
終盤ではジェイクが2016年1月のループを出口とすることで歴史は変わりエイブも生存するが、そうなると1943年のループは未来で既に廃墟となることが確定している=ループが壊れることは織り込み済みだったとも考えられる。
こうした考察要素もまた面白みの一つであり、エイブやミス・ペレグリンがどこまでを想定していたのかを考えてみるのも楽しみの一つだ。
また、このループで落下弾が落ち、家が破壊されかける瞬間を「スリルがあるのよ」と語る子供たちの姿や、ループというリセットの中では人殺しさえ手段として厭わないミス・ペレグリンには、無邪気さの中に僅かな恐怖を滲ませるバートンらしさがある。
ミス・ペレグリンが連れ去られ、ループが壊れる演出も、一瞬時間が巻き戻りそうになりながら、しかし時の流れに抗えず施設が爆風に呑まれていく描写が素晴らしい。時間の流れの残酷さ、歴史の止まらなさをまざまざと見せつけてくれる。
これは物語としても重要な意味を持っており、ループ世界で時間を止めていたものは、元の時間が流れ出すと、人も物も時間に追いつかれてしまう。
ジェイクがループから持ち帰った花が砂に変わるシーンは、もし仮にループの中の子供たちがジェイクの時代に来たら?というifを表し、彼らの物語に残酷な別れが待っていることと、エイブが二度とループの中に戻らなかった理由をハッキリと見せつけていく。
奇しくもバートンが監督から製作へとシフトした『アリス・イン・ワンダーランド/時間の旅』も同じく時間移動の物語であったが、舞台が《アンダーランド》というファンタジー世界なため、時間移動による画の変わり映えも、両時代の間にある文化的変化による面白さも表現し難い作品だった。
今作でバートンがあの作品への意趣返しをしていると見るのは穿った見方になるかも知れないが、やはり時間移動の面白さでは今作の方が圧倒的に上だろう。
原作設定を改変して優先した水中ロマンスの美しさ
ジェイクとエマの水中シーンは、今作でも最も美しいシークエンスだ。
本来原作では身体が軽く空中浮遊してしまう能力はオリーブのものであり、エマの能力は今作でのオリーブと同じく手から炎を生成する能力である。バートンとゴールドマンはこの空中浮遊能力を拡大解釈し、“空気のように軽い=空気を自在に操る”とすることでこの水中のシークエンスを作り上げた。
基本的には原作の流れを踏襲した今作の中で、かなり大きな改変だったとは思うが、それはバートンがジェイクとエマのロマンスを最高の形で彩ろうとした結果だろう。
鉄の靴を履いたまま海中へ沈み、沈没船の中に入っていく二人。船の中には乗船していた人々の骸骨がそのまま椅子やテーブルに座しており、内装もそのままに残っている。
本来そんなふうに遺るはずはないのだが、そんな野暮は言いっこなしだ。このシーンでの二人の唇から漏れる気泡も、エマの放った空気の塊で出来たマスクもすべてが儚く美しい。
なんとこのシークエンスでの演技は水中で実際に行い、水中で目を開ける訓練までしたのだと言う。衣装を着用した状態で、目を開けての演技……今ならCG処理でいくらでも再現できるところを、敢えて危険な方法でリアリティを追求していく撮影に、バートンの“ファンタジーに対する徹底したリアリズム”という、一見すると矛盾した執着を感じさせる。
(当然撮影には充分な安全に気を配り、ダイバー帯同の上で行われている)
廃船の中のセットも一部はCGにより合成しているようだが、実際に小道具を水に沈めてその質感を確認した上で撮影していると言う。
終盤ではこの船が再び現れ、子供たちがミス・ペレグリンの救出に向かう乗り物として大活躍する。
海底の船を海上に引き上げ、その船に乗りラストバトルへ向かう際のワクワク感や大仰さは、これまでのバートン映画でも随一のスケール感で、あの骸骨たちもラストバトルへの伏線になる。
海中から引き上げた船のエンジンに火をつけていくオリーブなど、子供たちの個性も発揮されており、ここで子供たちに阻まれたジェイクとエマのキスが、ラストで回収されるのも最高じゃないか。
レイ・ハリーハウゼンオマージュ〜ストップモーション風CGの楽しさ
そんな船の骸骨が大活躍する終盤ブラックプールでのラストバトルではCGもふんだんに使い、そのストップモーション風のCGの使い方は『マーズ・アタック!』のミドリ人たちも彷彿とさせる。
CGでありながらわざとコマ抜き処理でストップモーションのような動きをさせたガイコツと、完全なるCGで滑らかに動くホローの動きの対比が出ることで、コミカルさもありつつ非常に見応えのあるバトルシーンになっている。
バートン曰く、「あのシーンは自分の“子供時代へのラブレター”」だそうで、自身の血肉になっている巨匠レイ・ハリーハウゼンの、『シンドバッド』や『アルゴ探検隊』へのオマージュ愛に満ち溢れたシークエンス。
CGをブラックプールでのロケ撮影に重ねることで映像にはリアリティと奇妙な違和感が同居し、『アリス・イン・ワンダーランド』でのグリーンバック撮影のトラウマを乗り越え、ついにバートン独自のCG表現が完成した感がある。
このシークエンスでの目に見えないホローが雪玉やペンキで姿を現すシーンもバートンの映像作家としてのセンスに溢れており、ここでバートン本人がカメオ出演していることからも、バートン自身今作の撮影はかなり楽しんでやっていたのではないだろうか。
CGキャラクター同士の戦いではあるが、見えない存在がそこにいるかのような見せ方、雪に残る足跡や、物や人に引っ掛かり、ぶつかる音やきしみ、歪みなど、映像の楽しさだけで何度も観たくなってしまう名シーンだ。
キャラクター考②:奇妙なこどもたちとヴィラン:ワイトの存在
個性的で魅力的なこどもたちを必ず好きになれる
今作でバートンの演出の筆が“ノッて”いると感じるのはなんと言っても奇妙な子供たちの描写だろう。
子供たちは総勢11名、ミス・ペレグリンも含めると12名もいるのだが、その一人一人の能力の見せ方が非常に上手く、各シークエンスで見せ場もきちんと用意されているので観終わった後で印象の薄くなるキャラクターがいない。
勿論、127分の上映時間で限りはあるのだが、子供たちの魅力は充分引き出されているので、観終わった後で誰か一人、好きなキャラクターが出来ているはずだ。
ここでは全員の能力を詳しく語ることはしないが、透明人間のミラードの裸ネタや、植物を急成長させるフィオナが人参を大きくしたり、施設からの脱出の際に木を大きくすることで子供たちを助けるなどは物語の中で大きな意味を持っているし、後頭部の口で物を食べるのを恥ずかしがるクレアも可愛らしい。
骸骨バトルでも活躍するイーノックの能力は、無生物である人形や、既に命を亡くした存在に動物の心臓を埋め込むことでそれを動かすという実にバートン好みの悪趣味な能力。
ジェイクとの初対面の能力見せで争わせる人形のデザインもまさにバートン流悪趣味ポップで、そのまま『ナイトメアー・ビフォア・クリスマス』や『ティム・バートンのコープスブライド』にキャラクターとして登場できそうだ。
チェコのストップモーション・アニメーション作家のヤン・シュヴァンクマイエルに影響を受けて撮られた短い人形劇のシークエンスは、僅か1分程度のシーンながらストップモーションで丁寧に作られ、こうしたちょっとした演出にも余念がない。
(シュヴァンクマイエルは1988年に『不思議の国のアリス』の大胆な翻案作品も作っており、バートンとの親和性は抜群だ)
エマの“空気より軽い”を表現する鉄の靴のデザインや、それを脱ぐと本当に重力を忘れたように宙へ浮かんでいく姿、触れたものを燃やさないように肘まである黒い手袋をしているオリーヴなど、視覚的にもわかりやすい表現でそれぞれの能力がしっかりと表現されているのも魅力的だ。
ループが破壊されるシークエンスで施設から逃げ出す際も、常に年長組が年少組を守り導こうとしている姿もよく、一人一人の性格や彼らが築き上げてきた関係性がしっかりと映し出される。
これまで、異形同士であってさえ必ずしもわかり合えない世界を描いてきたバートンが、これほどまでに互いに寄り添い合う異形たちを描いていることも、非常に大きな変化だ。
イーノックは嫉妬深くジェイクとはいがみ合ってばかりいるが、最終的にオリーブに不器用な告白をするのも、ちゃっかり最後に手を繋いで去っていくのも可愛らしく、この二人の物語ももっと観たいと思わせてくれる。
サミュエル・L・ジャクソンの怪演が物語に軸を通す
ヴィランであるワイトたちにはバートンの怪奇映画趣味や悪趣味さがしっかりと出ていて、中心人物ミスター・バロンを演じたサミュエル・L・ジャクソンはやはり流石の怪演だ。
バロンのキャラクターは原作のヴィランを何人か掛け合わせたオリジナルキャラクターであり、物語も今作一本で完結するように作られているが、お陰でL・ジャクソンの登場時間が大幅に増え、メインヴィランとしての格が上がっている。
原作ヴィランのゴランの名前もきちんと精神科医として残っており、顔を変えどこにでもいる原作での恐ろしさも充分に出る良い改変だったのではないだろうか。
顔が変化する描写もCGで表現できたのだろうが、洞窟の暗闇の影から出る度顔が変わるというアナログな演出にはバートンが影響を受けた30〜40年代の怪奇映画の匂いも感じられ、わざわざこうした演出を取るところにもバートンの演出へのこだわりや楽しみが滲んでいる。
異能の子供たちの目を食べることで化け物:ホローから元の姿に戻っていく気味の悪い演出も実にバートンらしく、その私欲によるワイトたちの自業自得な死に様も含めて、物語の軸をしっかりと固めてくれた。
子供たちを攻撃する際のノリノリの煽りっぷりと、それでも決して小物的に見えないバランスは名優サミュエル・L・ジャクソンにしか出せなかっただろう。年若いキャストが多い今作の中で、最高の仕事をしてくれているのではないだろうか。
作家論:バートンの目線は,子供を見守る大人の視点に
今作はバートンが、大人の立場から子供の物語を撮った作品だ。
今作のバートンはジェイクの立場ではなく、エイブや、ミス・ペレグリンの立場でカメラを持っている。
ジェイクの父であるフランクも、エイブも、ミス・ペレグリンとて、完璧な親ではない。子供たちはそれぞれに悩み、痛みを抱え、それでも生きていかなければならない。
みんなが他人で、それでも家族。これまでそこに踏み込むことを避けてきたバートンが、いよいよそれを真正面から描き、そして何よりも、主人公であるジェイクがそれを受け入れる。
ミス・ペレグリンがジェイクと子供たちのために自らミスター・バロンに捕まるシーンも、ジェイクに「あの子達を守って」と約束するシーンも。そして、最後のジェイクの選択に、背中を押すエイブの姿も。
それは親としての不器用な責任の取り方であり、これからを生きる子供たちへの圧倒的な信頼の表れだ。
ジェイクは、一度は自分の世界に戻りながら、異形の世界へもう一度自ら足を踏み入れる。けれどそれは、必ずしも自分自身がいた世界を捨て去ることと=ではない。彼は自分が愛するものすべてを犠牲にしないことを選び、そして受け入れる。この強さは、バートン作品の主人公としては初めて描かれたものだ。
ジェイクはこの物語の中で確実に成長し、だからこそ、彼は最後の選択でループに戻る道を探す。
ラストシーンでエマたちのいる船に戻ったジェイクは髪型も変わり、彼の語るエピソードによれば恐らく数年単位での旅路を経てそこに行き着いたことがわかる。一度隔たれた時間のねじれを戻すには、それだけの時間が必要で、彼はその中を生き抜き、その過程で海軍に入隊までして、エマのいる船に辿り着く。
恐らくこのジェイクの歩んだ旅路だけで映画一本分になりそうだが、そこは各々、外見から変化したジェイクを見て想像力を働かせて頂きたい(笑)
総括:異形たちの涙への祝祭と,バートンの少年時代の卒業
これまで異形たちの世界は隔たれ、その恋は悲しい結末を迎えてきた。
『シザーハンズ』のエドワードとキムは抱きしめ合うことも叶わず、歳を取らないエドワードと老いていくキムという、圧倒的な“時間の断絶”が物語を終わらせる。
『バットマン リターンズ』でマスクを取ったブルースと、マスクを取らずに復讐へ走ったセリーナは、“異形と人間の差異”を埋められないまま、哀しいクリスマスの夜に背を向け合った。
『ビッグ・フィッシュ』以降の作品である『アリス・イン・ワンダーランド』ですら、アリスはあくまで現実世界を選び、“隔たる世界からの卒業”を選んでいた。
ジェイクは、過去も未来も諦めなかった。
すべてを受け入れ、抱きしめ、エマのもとへと帰った。ナードで、同級生にはいじめられ、誰よりも愛した祖父を信じることさえ出来なかった少年が、何一つ諦めずに異形の世界を抱きしめたのだ。
『ビッグ・フィッシュ』以降のバートン作品において、本当に見たかったハッピーエンドが、ここでようやく描かれたとも言える。
異形の世界を受け入れ、時間の断絶さえも越えた最後のキス。それは、これまで繰り返されてきた“悲しい別れ”とはまったく異なる、“はじまりのキス”だ。
ここにきてようやく、ティム・バートンが描いてきた“異形たち”は報われた。『シザーハンズ』から流れ続けた涙は、この笑顔のためにあったのかもしれない。だからこそ今作は、バートンから異形たちへの、真の意味での祝祭とも言えるのだ。
同時に、バートンは今作で、とうとう自身の中の“傷ついた少年”を過去にしたのではないだろうか。
異形の世界から現実の世界に戻り、家族を持ったエイブが、ジェイクを再び異形の世界へと送り出す。このエイブの姿に、2016年当時のバートン自身の姿を重ねても、考えすぎとは言えないだろう。
『ビッグ・フィッシュ』はある意味で、“ファンタジーからの卒業”を描いた作品でもあった。ファンタジーを肯定しながら、ファンタジーの裏にある“現実を見せる物語”だった。
今作ではその更に先を行く。『ビッグ・フィッシュ』では子供に見せたくない現実をファンタジーで装飾し、優しい嘘で物語を作った。今作では、そうして作った物語の先に、本当のファンタジーが存在した。
「自分が兵隊に行っている間に自分のいた施設が爆撃に遭い、友人は全員死んだ」
そんな暗い現実を孫に伝えないための優しい嘘:“閉じた時間と奇妙な子供たち”……
しかし実際に時間の狭間には、本当に奇妙な子供たちが存在していたのだ。
バートンはこの作品によって、改めてファンタジーを肯定してみせた。
だからこそ、今作はバートンにとってこれまでの集大成であり、新たな地点へと向かう基準点となる作品なのだと思う。
そうして物語は、バートンがキャリアの中で初めて自らの表像として描いた存在:リディアを親として描く『ビートルジュース ビートルジュース』へと続いていくのだ。
……ただ一点、大絶賛の今作に不満があるとしたら……
かの007のM:ジュディ・デンチのアヴォセットをあんなに雑なギャグ処理で死なせてしまったのは許されないんじゃねぇかなぁ?笑
⭐ 4.0 / 5.0
📅 2025/09/26(Disney+)
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