――この世で最も恐ろしい怪異……それは純粋なる“母”の愛 見ツけテ下さッて,アりがトウございまス
この作品はどんな作品?
背筋著『近畿地方のある場所について』から分岐した文庫版と映画版という双子の物語の片割れ。
原作本の恐怖はそのままに、白石監督らしいモキュメンタリー演出と“母の愛”を軸にした物語で、静かに壊れた呪いを描くメディアミックスの革命的作品。原作・文庫版・映画すべて合わせて味わって一つの作品である。
この作品はどんな人にオススメ?
『近畿地方のある場所について』の原作本・文庫版を読んだ人・これから読む予定がある人。
(映画鑑賞だけでなく読書体験も好きな人)
虚構と現実の境界が曖昧なモキュメンタリー・ホラー演出が好きな人。
正体不明な怪異・“見せないホラー演出”に耐性がある人。
作品データ
原題:近畿地方のある場所について
監督:白石晃士
脚本:白石晃士
大石哲也
原作:背筋『近畿地方のある場所について』
音楽:ゲイリー芦屋
重盛康平
主題歌:椎名林檎
「白日のもと」
撮影:高木風太
上映時間:103分
出演者:
瀬野千紘:菅野美穂
小沢悠生:赤楚衛二
佐山武史:夙川アトム
永野遥:佐藤京
凸劇ヒトバシラ:九十九黄助
目黒裕司:のせりん
塚田正純(住職):ドン・クサイ
高見了:山田暖絆
高見洋子:末冨真由
※本レビューにはネタバレを含みます。
該当作品の他、本作原作小説,及び文庫版についても言及有。
総文字数:10607文字
読み終わるまでの時間:約27分
製作背景:監督・白石晃士と原作者・背筋の奇妙な関係
ホラー作家背筋(せすじ)による、KADOKAWAと株式会社はてなが共同開発した小説投稿サイト《カクヨム》にて連載されたモキュメンタリー(=フェイク・ドキュメンタリー)作品を原作とした、白石晃士監督の実写映画化作品。
2023年1月からカクヨムに投稿されたこの物語は同年4月の最終話(第34話)までに累計2000万PVを超え、同年8月に単行本化された書籍の累計発行部数は2025年9月に80万部を突破、宝島社『このホラーがすごい!2024年版』でも国内編第1位となった、令和の日本の大バズりホラーコンテンツである。
今作の監督は日本のホラー映画界を牽引する監督の一人・白石晃士。
原作小説のモキュメンタリーの形式は、そもそも白石監督による『ノロイ』(2005)の影響をかなり受けていると言い、背筋は白石監督の大ファンでもある。そのため、今作の映画化企画そのものが、ある意味では“子から親に還る物語”でもあった。
そしてこの映画化にあたり、原作小説に大幅な加筆修正を加えた……いやむしろその内容そのものが大きく変化した、セルフリメイクとも言うべき『近畿地方のある場所について 文庫版』が出版されているのも面白い話だ。
『ノロイ』が原作『近畿地方のある場所について』を生み
それを『ノロイ』の白石晃士が映画化し
その製作過程で背筋が『近畿地方のある場所について 文庫版』という新たな物語を生み出した。
この捻れた歪な“親子関係”こそが、今作最大の特徴であり、この関係性を踏まえることで、映画単体での評価だけでなくこのプロジェクト全体の評価が変わってくる。今作を観る際は、是非その関係性込みで楽しんで欲しい。
映像論:白石晃士の『ノロイ』に連なるモキュメンタリー映像
画質や記録媒体にバラツキがある故のリアリティ
今作は近畿地方に纏わる大量の映像資料のアーカイブを調査・まとめていくような作りになっており、それらの資料の多くで白石監督お得意のフェイク・ドキュメンタリー映像が存分に楽しめる。
オープニングの制作:日テレアックスオンの映像から、古めかしいビデオ映像のようなザラザラとした質感が期待を高めてくれる。その後も佐山によって集められた映像資料の一つ一つが、それぞれの時代や機材の変化まで含めて丁寧に作り込まれ、本当に実在したかのようなリアリティで観る者を怪異の世界へと引き込むのだ。
2000年代後半に入ってからの《ニコニコ生放送》の配信映像や、スマホのカメラで撮られた映像は当然ながら観ている側にも馴染みのある綺麗な画質だが、古いVHSテープや手焼きされたDVDソフトなどは、再生する際に音量が大きくなったり小さくなる、所々映像に砂嵐が入って途切れる、元データの画質の荒さが目立つなど、一つ一つがその状態含め丁寧に再現されている。
2013年設定のバイクでのドライブを記録した映像は、台座に固定したカメラが度々風に揺れ、人に見せることを意識し切れていない“素人の記録映像”といった手ブレや画角の悪さなども意識的に演出されている。2010年代前半はまだギリギリスマホの普及率が悪かった頃。このバイカーも10代の若者というわけではないが故、手持ちカメラでの撮影となったのだろう。設定された時代や、その撮影者のパーソナリティに合わせて機材を変えているのも芸が細かい。
集められたテープ映像はあらゆる手段で収集した時代も機材もバラバラなものであり、保管状態・録画状態が良いものばかりであるはずがない。さすがに『ノロイ』や『ほんとにあった! 呪いのビデオ』(1999〜)を撮ってきた白石監督らしく、そうしたこだわりも見どころの一つだ。
Jホラーの恐怖は、基本的に怪物の姿をハッキリと見せる海外ホラー作品と違い、その恐怖の源泉の姿をぼかす、正体不明で異質なものとして演出するのが一般的だ。所謂《子中理論》という定義もあるが、そうした演出法と、この“素人が記録した映像”という設定は非常に相性が良いように思う。
撮ろうとしたわけではなく、たまたま映ってじった、そこにピントを合わせたわけではないが故の恐怖。今作の映像資料にもそれは数多く映されており、中盤で登場する《赤い女》の呪いを受けた青年・目黒のスマホに収められた動画にはそうした“得体の知れない、見えてはいけないもの”への恐怖がある。
修学旅行中の中学生の集団ヒステリーの映像なども、旅先で浮き足だった子供たちがたまたま撮っていた映像、という“肝心なものが見えそうで見えない”作りが実に良い。
終盤での劇中リアルタイムなシークエンスまでは、こうした恐怖がじわじわと迫りながら、その正体には決して触れられないというなんとも言えない焦燥感が常に感じられる。
ただ、もちろんあくまでこれらは“そう見えるよう撮られた映像”であり、実際には映像作りのプロである白石監督とその座組が作っているものだ。そういう意味で、たとえば修学旅行の映像もあのようなパニック状態でカメラを手放さずきちんと撮り続けていたりと、普通の人間の精神状態を考えると疑問に思わないでもないのだが、そこまで言い出すと映画にならないので、それはご愛嬌だ。
今作は、“上手な嘘”で少なくとも映画を観ている間はきちんと騙してくれる。難しく考え過ぎるのは野暮なことだろう。
昭和・平成の下世話なTV番組の再現度の高さ
同じように、90〜2000年代初め頃のニュース番組や、報道バラエティのような映像もいくつかあるだが、こちらも実によく出来ている。
白石監督は今作の制作に入っている日本テレビから過去の映像のアーカイブを用意してもらい、テロップの入れ方や、そのフォント、ナレーションBGMに至るまでかなり細かく確認しながら当時風の映像の再現に努めたのだと言う。
そうすることで、《ましらさま》を遊ぶ子供たちや、チェーンメール特集での平成ギャルの映像まで、もちろんそれらは初めて観るものであるはずなのに、なんとも言えない懐かしさを感じてしまう。確かに、ほんの10〜15年ほど前のTV番組はああいった雰囲気だったのだ。
こちらも、子供たちやギャルの喋り方が、まったく平成らしくないという感想も聞こえてはくるが、実際に平成を生きた身としては、正直そこまで気にはならなかった。
もう今は遠い昔。つい最近のように感じはするが、記憶自体は薄れてきている。TV番組の作りにあの頃の匂いがきちんとあり、女子高生がガラケーを「パカッ」と開く、携帯やゲーム機を持たずに走り回る子供の姿があるというだけで、なんとなくあの時代にタイムスリップは出来てしまうものだ。ビデオ録画に収められたTVの時報などにも、もう何年も聞いていないあの頃が確かにそこには再現されている。
そして……今こうして再現されるあの頃のニュースやバラエティの映像を観ていると、TVというのは今も昔と変わらず下世話なままだと思っていたが、それでも当時に比べれば令和の現在は随分と綺麗に取り繕おうとしているのだということもわかってくる。
あの頃のTV番組には、どこかまだ人間や情報を消費することを“隠そうとしない”下品さがあり、BGMやテロップにそれが表れていた。行方不明になった少女を心霊と関連づけるなど、不謹慎極まりない無邪気な邪悪さがあるが、こんな不愉快な心霊番組は、つい数年前まで何本もゴールデンの時間帯に放送されていたのだ。
演出論:Jホラー的“見せない恐怖”と《子中理論》
サラウンド音響による臨場感とジャンプスケア
今作は音響面にもかなりこだわりが感じられた。ホラー映画の用語に《ジャンプスケア》というものがあるが、これは突然の大きな音や画で観客を驚かせる演出なのだが、その効果を最大化するには音響面がかなり重要になってくる。
今作ではオープニングの街中……XやYouTubeのshort動画を拡散する人々の声がかなり広範囲に音が散らされており、映画館では四方八方から聴こえてくるその声に臨場感を煽られた。
もちろん現代の映画ではサラウンドミックスが当たり前ではあるのだが、こうした細かな演出でホラーへの没入感はまったく変わってくる。
特に映画を最後まで観ると、このSNSによる拡散はこの物語において非常に重要な意味があり、映画作品として作られたこのモキュメンタリーの“最後の仕上げ”でもある。
その大切な音響面をオープニングからしっかりとこだわったことで、開始1分で、今作が如何に“本気”かが伝わってくる。
凸劇ヒトバシラのニコ生配信〜本職故のリアルな恐怖シーン
今作でなんと言っても一番恐ろしいのは、映像資料の一つとして登場する《ニコ生主の配信映像》だろう。
こちらは底辺配信者:凸劇ヒトバシラが近畿地方の廃墟……心霊スポットとして有名なその家に突撃するというもので、“迷惑系YouTuber”などを見てきた2020年代の現代では非常に身近に想像しやすい出来事だ。演じているのが実際にYouTuberでもあるかいばしら(現:九十九黄助)であり、実年齢も平成初期をリアルタイムで生きてきた世代(実は筆者と同い年)なためか、その手持ちカメラの画角や、ニコ生配信への解像度が非常に高く、映像としてのリアリティが他と比べても一段上の段階にいる。
この廃墟は物語においても重要な場所であり、自殺した少年の部屋にある写真が不自然に目が離れた宇宙人のような顔に変化していたり、今作ラストにも放たれる印象的な言葉「見つけてくれてありがとう」という言葉もある。
見てはいけないものが画面に映り込む様子や、画面の外側からはわからない、その場にいるものだけがわかる場の異常性に少しずつ正気を失っていくヒトバシラの姿は、あまりにもリアルで実際にその配信を観ているかのような気分にさせてくれる。
廃墟自体にも物語全体の様々な伏線が隠されており、その荒れ果てた様子や人気がなくなってどんどん崩れていっている家屋は、実際に何か“よくないもの”が映り込んでいてもおかしくないと思わせる。このシークエンスは、ホラー描写としては今作一だろう。
一方、これは実写映画であるために仕方がないことではあるのだが、原作では映像資料の他、ブログだったり、掲示板への書き込みだったりと、現代社会に存在するあらゆる怪異の痕跡がやがて一つに収束していく様子が描かれている。
今作で選ばれたエピソードはそれらがニコ生配信や個人撮影の映像という形に改変されており、映画としては観やすい反面バリエーションには欠ける結果となってしまった。
千紘と小沢という、劇映画としてのキャラクターがいた以上、映像媒体以外にも資料を用意しても良かった気もするが、モキュメンタリー・ホラーと劇映画を融合させた作品としてのギリギリの恐怖とリアリティを狙うにあたっては、これが良いバランスだったのかも知れない。
原作との比較:原作小説から分岐した二つの近畿地方〜文庫版と映画版の違い
虚構か現実か?原作小説はなぜバズったのか?
劇映画パートでは序盤の千紘が「対面では久しぶりだもんね」と言うように、今作は明確に公開時の時間軸、2025年のコロナ禍を経た日本で描かれる物語になっている。そうした細かい時系列の合わせ方はリアルさを担保してくれるし、その台詞も殊更強調するでもなくさり気なく入れてくるのが、モキュメンタリーの巨匠白石監督の演出の強さだ。
勿論今作は菅野美穂と赤楚衛二という誰もが知る俳優二人を主演に据えており、これをモキュメンタリーとして観るのは観る側にとって難しくはあるのだが、そうした細かな演出によって、原作にもあったリアリティ、“現実と虚構が曖昧になる恐怖”がきちんと表現されているのは流石だと思う。
モキュメンタリー=フェイク・ドキュメンタリー作品というものはその名の通りあくまでフェイク=“創作物”であり、原作小説、及び今作映画内の出来事は実際に起きた事件ではない。しかし、原作が書かれた2023年当時、作者の背筋はまだ無名の作家であり、現在では顔出しもしているが、カクヨム連載時には本当にインターネットの向こう側にいる人。性別も、年齢も不明な、ネットの海に存在する“読み手と同じ立ち位置の人”でしかなく、それが物語の仕掛けに一役買っていた。
少しずつ投稿される物語の断片は、ネット掲示板の書き込みや雑誌の切り抜きを集めたものとして掲載され、その作り込みや設定はあまりにもリアルだった。書き込みに混じるネットスラングには、同時代を生きてきた当事者にしかわからない独特の“本物臭さ”があり、そんなスレッドが実際にあった可能性を誰も否定できない。まさに、現実と虚構の境界がどこにあるのかわからない感覚があった。
作者背筋のカクヨムやTwitter(現X)のプロフィールも含め、完璧に演出されたその物語は瞬く間にネット上で話題になり、作者であり主人公の“私”(背筋)が、行方不明の友人を探す目的でそれらを投稿しているという設定も含め、現代……2020年代のSNSにおいてそうした“情報収集”が読み手にとってもリアルだったことから、この小説が事実か虚構か?当時は実際に騙された人も一定数いたようにも感じる。
だからこそ、原作小説は“バズった”。それが単行本化され、物語として世に受け入れられてからも、どこかそこには不思議なリアリティがあった。
そして……今作の映画化、及び前述の文庫版を以て、“最初の一本”であった原作小説は、本当の意味でモキュメンタリーから、ドキュメンタリーへと変貌してしまった気さえするのだ。
原作は真のドキュメンタリーとなり、二つの物語が生まれた
原作小説では主人公は背筋本人であり、その背筋が正体不明の存在であったことから、実は背筋は女性であった、という終盤の展開が叙述トリックに近い形式で描かれた。
今作ではその役割を菅野美穂が演じる瀬野千紘が担っており、初めからその存在は明らかになっているのが、原作からの大きな改変である。
……の、だが、実はこの瀬野千紘という人物は原作小説にも登場する。正確には、原作の文庫版。映画公開と相前後して発売された文庫版の登場人物として逆輸入された形になる。
ただし、文庫版では名前が瀬野千尋になり、小沢に関しても小澤雄也という、原作とも今作とも違う名前とパーソナリティが与えられている。
つまり、一つの原作から、二つに分岐したまったく別の物語が生まれたことになる。
原作小説は、あくまでモキュメンタリーとして描かれていた。だから、主人公は“私”であり、小沢も下の名は明かされない。彼らは語り部とそこに登場する無記名な存在であり、その物語は薄っすらとしか描かれていなかった。
反して、今作は劇映画だ。瀬野千紘にも小沢悠生にも、パーソナルな物語と目的があり、観客の目にも彼らは役者が演じる登場人物に見えている。
小沢が終盤のあの状況で最後までカメラを向け続けたり、「原稿も落とさない……」と命より締切を気にしているのにも、リアルさより物語の登場人物らしさがある。
そしてそれは、本来ならモキュメンタリー小説であったはずの文庫版でも同じだ。瀬野千尋と小澤雄也には物語があり、彼らは透明な語り部にはなり得ない。むしろ、文庫版は三作品の中で最もエモーショナルで、感情的な作品として描かれる。当然、彼らはもう、背筋のパーソナルからも離れた存在になっている。
まるで原作のドキュメンタリー、“実在に起きた出来事”を基に、二つの解釈で物語が描かれたような……そんな作品に、この二作品はなっているのだ。
キャラクター考:瀬野千紘に感じる違和感
瀬野千紘を演じた菅野美穂の演技はまさに圧巻だった。
彼女には序盤からどこか常に違和感がある。しかしそれを違和感と感じさせない。違和感があるのに、違和感がない。何ともギリギリの境界線上で物語に存在している。
どこかふわふわと安全圏にいるようで、あまりにも“普通”なのに、普通ではない。
例えば、終盤で行方不明になっていた佐山の家を見つけ出し、そこに向かうシークエンス。
千紘と小沢は、動物の死骸だらけで荒れ果て、汚れ切った佐山の家に入っていく。ゴミも散乱し、腐臭が漂う、とてもじゃないが足を踏み入れたくもない家。小沢はそこに、土足で踏み込もうとするのだが、その時千紘は、それを咎めるように「ちょっと?」と言うのだ。
ここが、実は一番怖い。最後まで観るとその怖さはいや増すし、この時点でも、あまりにも違和感がある。
この前段階で既に小沢は怪異に取り込まれ、会社から意識のないまま逃亡するなど、かなり危ない目にも遭っている。状況は切迫し、なりふり構っている状況ではない。そんな時に、目の前の“異常”に対して“正常”な倫理観で向かおうとしている姿が、あまりにも狂気的だ。
彼女は劇中、ほとんどの場面で穏やかで優しい。小沢にとっては良い仕事仲間であり、歳上の先輩で“頼れる姉さん”といったところだったのだろう。
だからこそ、佐山が失踪した中で、千紘にその仕事の後継ぎを頼むことにした。千紘自身も、小沢に対して「一人で暴走しないでよ」と警告するなど、その関係は決して悪くなかったことが窺える。
劇中終盤までは、彼女が激昂するのは、小沢が勝手に調査を進めて怪異に巻き込まれ、《赤い女》に取り込まれかけるときだけなのだから。
物語論:狂わず壊れた母の愛……物語は反転する
何故千紘は霊である赤い女を車で轢けたのか?
……これが、物語後半で一気に反転する。
彼女のこれまで小沢に言っていた言葉も、行動も、すべてが一つの意味へと収束していく。
窶れ切った小沢を自宅に招き、食事をさせながら微笑んでいた「野菜も食べなよ?」
あれは、供物に向けた笑顔であり、大切に育てた家畜への慈しみだったのだ。
思えば千紘は始まりから、妙にこの事件の調査への飲み込みや、情報の受け取り方が早かった。小沢を心配しているようでありながら、決して調査を邪魔はせず、ある一つの結論へ導いているようにも見えた。
……何より、彼女は劇中、実はずっと“赤い女”だったのだ。怪異である赤い女と同じように、彼女もまた赤いコートを常に着込んでいた。彼女もまた、とっくに怪異の側に堕ちた存在だったのである。
冒頭開始5分、まだほとんど調査も開始していない出版社のエレベーターに乗る千紘と小沢のシーンに、赤い女のサブリミナル映像が被る。これも、考えてみればおかしなシーンだ。ホラー映画的演出と言えばそれまでだが、彼らはまだ“何もしていない”はずだった。
けれど、そんなことはない。千紘は既に佐山を生贄としていた。だからこそ、中盤で小沢の肩を叩くシーンでも、千紘の手は血に塗れている。あれは、小沢の恐れのイメージシーンではなく、単なる事実、千紘のしてきた業が映像化されていただけだったのだろう。
小沢と共に近畿地方に向かい、ましろさまの祠に向かう際に彼女が赤い女を轢くのもそうだ。
これはある意味では笑ってしまうような場面かも知れない。怪異であり、幽霊に物理をぶつける。幽霊を「邪魔なんだよおおお!」という慟哭と共に車で吹き飛ばすなど、一歩間違えばホラーではなくコメディだ。
霊体に物理攻撃を喰らわすなどというのは白石監督の得意技で『サユリ』(2024)でも観られた演出ではあるのだが、これはそれとはまた意味合いが違って見える。
この時点で、千紘は既にもう、人間の枠を外れてしまっていたのではないだろうか。
いや、そもそもおそらく、この時点より遥か前、物語開始時……いやむしろ息子を亡くした時点で、千紘はとっくに“壊れていた”のだろう。
佐山の荒れ果てた家の様子や、完全に狂ってしまった佐山のパートナー……動物を身代わりにし続けた大学生の目黒。呪いを受けた人間は皆一様に窶れ、生活は荒れ果てていく。小沢でさえ、そこに片足を突っ込んでいた。ヒトバシラが行った廃墟を見れば、生前の赤い女もまた、息子を亡くし、その復活を願う過程でどんどん狂っていっていたのがわかる。
しかし、千紘は、壊れてはいるが、狂ってはいない。自宅は整然と整理され、仕事をし、後輩である小沢に穏やかに接する。彼女の壊れ方は、狂うなんてレベルをとうに超越していた。
そんな彼女に、狂った先で霊体となった赤い女が、勝てるはずもなかったのだ。
生贄となった小沢に向ける視線はなかった
この物語は最初から
赤い女(首吊り屋敷の高見洋子)と赤い女(瀬野千紘)が、生贄を奪い合う物語だった。
「極限状態になれば何にでも縋る」と言った千紘にとっては、すべてが手の内だったのだ。
物語終盤の千紘の表情はまさに“背筋が凍るような”何よりのホラーである。
「小沢くんは、私の、一番の友人だよ」
それはそうだろう。小沢の犠牲で、彼女の望んだものは手に入った。
石から赤ん坊の泣き声が聞こえてきたときの心からの安堵とその微笑みは、まさに母の愛。愛する子供を抱きしめる、あまりにも優しい表情だ。それが、何よりも恐ろしい。彼女は、目の前で起こったことを、まるでなかったかのように微笑む。
石に取り込まれた小沢の最期の「嫌だ……」の言葉も、伸ばした手も。彼女にはもう、どうでも良いのだ。
その後も、度々挿入される千紘のSNS上の動画は、額の怪我が治り、時間が流れていることが示されている。彼女は、蘇った我が子のために、今も生贄を捧げているのだ。
小沢も近畿地方に着いてからは、徐々に千紘の言動に違和感を感じているのが見て取れるのだが、それでも最後の一歩、疑惑は確信に変わらなかった。逆を言えば、それだけ平時の二人の関係は悪くなかったのだろう。
「僕は……生贄?」
菅野美穂の演技ばかりを語ってしまったが、このシークエンスでの赤楚衛二の、最後までどこか千紘を信じたかったが故の絶望感は、その声色や表情から痛いほどに伝わってきた。
メディアミックス:賛否両論のましらさまが姿を現した意味とは?
映画版と文庫版では、原作にも描かれたいくつものピースの調査を進めながら、それが後半に向かうほど分岐し、収束していく形になる。
それぞれの視点
【映画版】瀬野千紘-小沢悠生
【文庫版】瀬野千尋-小澤雄也
で物語に向き合う目的が違うため、調査するピースの中で、主眼となるものも結論も違っているのだ。
原作には中心となる三種の怪異がある。
すべての始まりである《石》
そこから生まれた《ましらさま=まさる》
そしてましらさまの呪いから生まれた《赤い女》と《あきらくん》。
映画版はましらさまと石の話が
文庫版は赤い女とあきらくんの話が中心になる。
原作からそれぞれ採択された怪談と、省かれた怪談を照らし合わせると、両者がまったくベクトルが違う物語を描いていることがわかるはずだ。今作だけを観ても、赤い女やあきらくん、あの呪いのシールの情報はほとんど説明されない。これは半ば意図的に取られた演出だとは思うが、それを知るためにもまずは原作、そして文庫版へと進む必要はあるだろう。
今作では《日本昔ばなし》に似せた昔のアニメ風の映像でまさるの物語が語られ、そこに登場する神と石の秘密の一端に触れることになる。
この日本昔ばなしが非常に怖いのと気持ち悪いのが合わさり、既に放送終了したあの番組の懐かしい雰囲気がよく出来ている分、初見の際はラストに現れたましらさま=まさる、の化け物じみたデザインと、CG合成丸出しの姿を画面にハッキリと映す演出に戸惑ったのは確かだ。世評としても、あれはかなり評価が分かれている。
ただ、逆に言えば今作:映画版は石に焦点を当て、その正体に迫る作品であったからこそ、ああしてましらさまを表現しなければならなかったのではないだろうか。
文庫版は、徹底的に赤い女の物語を解剖した。それは、原作ではホラーで、奇妙で、恐ろしい存在であった赤い女とあきらくんを、哀れで、あまりにも哀しい存在に変えてしまった。
その反対側に位置する今作では逆に、徹底的にましらさまと石を解剖する必要があった。だからこそ、ましらさまの姿は、ああしてきちんと、“地球外の存在である”と明言しなければならなかったし、そこから生まれた千紘の子もまた、化け物として描く必要があったのだと思う。
総括:幽霊を見てしまうのは、死んだ人がいるからだということをどうか忘れないでほしい
今作は互いに影響しあった原作者と、その元ネタを作った映画監督によって、三種類の物語が構築された、そのピースの一つだ。当然、今作一作では成立しないし、その奇妙な“ねじれ”と親子関係を理解する/しないで、かなり見え方の変わる作品であると思う。
個人的には、まるで優れた創作者同士のアーティスティックなキャッチボールのような……奇異な殴り合いによって生み出されたこの作品群は、“メディアミックス”という言葉に新たな意味をもたらしたような、そんな革命的な作品だと思っている。
ましらさまのヴィジュアルなど演出面での疑問や、説明不足な面は確かにある。映画単体で⭐︎5評価でつけるなら3.5とつけた。しかし、メディアミックス全体を見るなら間違いなく⭐︎5である。
フェイク・ドキュメンタリーとして書かれた原作を元に、物語へと移行した映画版と文庫版がしかし、どちらも最終的には「愛」をテーマとし、その哀しみややるせなさこそが何よりもホラーであるという方向に向かったことには、個人的にはかなり納得だ。そしてそれを生み出した創作者同士がまるで擬似親子のような関係であることも、創作の神はここまでやるのかと驚いてしまう。2025年……“ホラーの当たり年”と言われたこの年ホラー作品である今作と、『見える子ちゃん』、『ドールハウス』などがどれも、期せずして“母の愛”をテーマに描かれているのもまた興味深い事実だ。
個人的には
単行本→映画→文庫版という順序で読み、その上で最後にもう一度単行本のラストと、今作来場者特典の短編小説を読むと、物語の構造がより深く理解出来、円環が綺麗に収束するだろうと思うので、お試し頂きたいものだ。
特典の短編はもう読む方法がないのが残念だが……手元にある人が近くにいれば、是非読んでもらいたい。すべての謎が説明はされずとも、物語の起点は充分想像できるようになっている。
この来場者特典小説は、原作や文庫版と同じ、単なるモキュメンタリー形式の文章かと思ったら、きちんと映画内の小道具の役割を果たしているのもニクい演出だった。
最後に、この『近畿地方のある場所について』を締め括る、物語が辿り着いた結論。文庫版の最後の一文を引用したい。
筆者はこの文に頭を殴られたような衝撃を受け、そして、涙を流した。文庫版は傑作だ。未読の方は是非読んでもらいたい。この言葉は、ホラー作品を楽しむ全ての人が受け止めるべきだろう。
–幽霊を見てしまうのは、死んだ人がいるからだということをどうか忘れないでほしい。–
-『近畿地方のある場所について 文庫版』より
……ちなみにこれもよく言われていることだが、監督と原作者のアーティストバトルが行われている“近畿地方”に、わざわざ「東京」を連呼する主題歌を書いて殴り込みをかけてきた“歌舞伎町の女王”椎名林檎のブレなさもまた、非常にアーティスティックではないか。最高である。
⭐ 3.5 / 5.0
📅 2025/08/11(劇場鑑賞)

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