『アリス・イン・ワンダーランド』(2010)ネタバレ考察レビュー|CGまみれの不思議の国に,バートンの異形の居場所はない

映画アリス・イン・ワンダーランド(2010)のネタバレ感想 誰もが知る名作児童書をバートンが独自解釈で実写化、ディズニーナイズドされながらも見え隠れするバートンの作家性を深掘りレビュー

ティム・バートン全作品レビュー16

――お帰り,不思議で《Wonder》不気味な《Under》夢の世界へ さぁその選択が君の真実《Alice:Aletheia》

この作品はどんな作品?

『不思議の国のアリス』のオリジナル後日談をティム・バートンがディズニーで実写映画化。

バートンデザインの奇妙で極彩色の不思議の国と、19歳のアリスが自分自身の在り方を見つめ直す物語はこれまでのアリスとは一線を画すが、メッセージはディズニーの定型、CGだらけの画にはバートンらしさも薄い。

この作品はどんな人にオススメ?

バートンが描いた不思議の国……その独特で奇天烈なデザインに酔いたい人。

勧善懲悪でディズニー作品らしいメッセージや物語に抵抗がない人。

“女性らしさ”や「こうでなければいけない」という定型に息苦しさを感じている人。

作品データ

原題:Alice in Wonderland

監督:ティム・バートン

脚本:リンダ・ウールヴァートン

原作:ルイス・キャロル『不思議の国のアリス』

(キャラクター原案)

音楽:ダニー・エルフマン

主題歌:アヴリル・ラヴィーン

「Alice」

撮影:ダリウス・ウォルスキー

上映時間:109分

出演者:

アリス・キングスレー:ミア・ワシコウスカ

マッドハッター:ジョニー・デップ

イラスベス《赤の女王》:ヘレナ・ボナム=カーター

ミラーナ《白の女王》:アン・ハサウェイ

イロソヴィッチ《ハートのジャック》:クリスピン・グローヴァー

マクトウィスプ《白ウサギ》:マイケル・シーン

チェスール《チェシャ猫》:スティーヴン・フライ

アブソレム《青芋虫》:アラン・リックマン

マリアムキン《ヤマネ》:バーバラ・ウィンザー

サッカリー《三月ネズミ》:ポール・ホワイトハウス

トウィードルダム/トウィードルディー:マット・ルーカス

ジャバウォッキー:クリストファー・リー

チャールズ・キングスレー:マートン・チョーカシュ

ヘレン・キングスレー:リンジー・ダンカン

アスコット卿:ティム・ピゴット=スミス

アスコット夫人:ジェラルディン・ジェームズ

ヘイミッシュ・アスコット:レオ・ビル

イモージェン叔母さん:フランシス・デ・ラ・トゥーア

本レビューにはネタバレを含みます。

総文字数:10060文字

読み終わるまでの時間:約25分

目次

製作背景:これまでの『不思議の国のアリス』には不満があったバートン

ティム・バートン監督による、『不思議の国のアリス』の実写・ディズニー映画。

とは言え、今作はディズニーアニメーション版『ふしぎの国のアリス』(1951)の実写化ではなく、ルイス・キャロル原作の児童書『不思議の国のアリス』及び続編『鏡の国のアリス』の後日談的ストーリーとなっている。

今作の企画は2006年頃から始まっており、元々は脚本家であるリンダ・ウールバートンが着想、プロデューサー陣に提案した物語だった。大人になったアリスが不思議の国に戻ってくるというオリジナル続編の企画はすぐにディズニーに快諾され、その後この脚本の映像化に最も適した存在として、ディズニーからバートンへと声が掛かる。

この際バートンは今作と自身の実写映画デビュー作『フランケンウィニー』のリメイクを3D撮影する契約を交わしており、ここから、古巣ディズニーでの二作の撮影が始まった。

原作についてはバートンも幼い頃から触れてきたのかと思いきや、カリフォルニアのバートンの育った地域はルイス・キャロルの著作が本屋に置かれているような環境ではなく、実はほとんど読んだ記憶はなかったのだと言う。ただ勿論、詳しい物語は知らずともキャラクターや翻案作品に触れる機会自体は人並みにあったと言い、彼自身過去に映像化されてきたアリスには不満を持っていたのだそうだ。

『ナイトメアー・ビフォア・クリスマス』以来久しぶりのディズニーでの大規模映画仕事ということで、当時は大きな期待を以って製作、公開された。事実、全世界興収も10億$を超える大成功作であり、日本での興収も100億円超、独自の小説版やコミカライズ版まで描かれた。間違いなく、今作はバートンの代表作の一つと言って良い。

……が、個人的にはこの映画を、ティム・バートンのフィルモグラフィーの中の一本として捉えるのは、かなり厳しいと言わざるを得ない。

当時流行だった3D映像など、ディズニー映画が2010年代にかけて始める実験的な映画作りの発端としての意味合いが強く(後述)、バートンらしいデザインやキャラクターが満載でありながら、そこにバートンの作家性は感じ難い。ディズニーナイズドされた“当たり障りのない”物語には、バートンらしい映画を期待すると筆者の様に肩透かしを感じる人もいるだろう。

映像論:グリーンバック×CG映像がバートンのデザインを変えてしまった

ワンダーランド≠アンダーランドの摩訶不思議な色彩

『ビッグ・フィッシュ』で自然な色彩表現を手に入れてからというもの、バートンは意図的に現実世界と異界とのカラーリングを分けて演出するようになった。今作においてもそれは顕著であり、アリスの本来いるべき世界である19世紀ロンドンと、劇中メインの舞台となるワンダーランドとではハッキリとそのカラーが分たれている。

特に今作においてのワンダーランドは幼いアリスが聞き間違えたもので、実際には“アンダーランド”だったという設定がある。これはバートンらしい言葉遊びでもあり、原作初期タイトル『地下の国のアリス』(Alice’s Adventures Under Ground)への接続にもなっている。

アンダーランドという言葉通り、バートンの描く不思議の国は終始全体的に薄暗く、そこにはやたらとカラフルでサイケデリックな色遣いの動物たちが走り回り、植物たちが生い茂っている。

その色遣いは非常にバートンらしく、どこかアングラな世界観にピッタリの毒々しい画が楽しめる。劇中ではアリスが再訪した時点でアンダーランドは赤の女王の統治下にあり、白の女王は追放され国の人間は皆疲弊し切っていた。そうした世界観が、この画面の薄暗さにも表れている。

原作本の挿絵:ジョン・テニエルの描いたイラストからイメージを膨らませて再構築されたキャラクターたちの、“少し悪趣味”なデザインはまさしくバートンの真骨頂だ。

青い芋虫のアブソレムやチェシャ猫のチェスールの造形には、キャラクター商戦を好むディズニーがグッズ化するにはギリギリのラインであろうリアルな生々しさがあり、可愛らしくデフォルメされたディズニー・アニメーション版とは一線を画す。水煙草を吸い、哲学的で煙に巻いたような語り口調のアブソレムも、首を刎ねられても胴を消して切られることがないチェスールも、原作の印象的な描写がバートンのどこかグロテスクな表現で見事に再現されている。

特に、チェスールの大きく縁取られたニヤニヤ口が、透明になる身体に合わせて三日月へと重なるシーンには、バートン独自の美的センスが光っていた。

赤の女王に仕える蛙や魚のフットマンたちも妙にリアルなぬめぬめとした質感で、アンダーランドに生い茂る草花の不自然な巨大さも含め、その奇妙奇天烈なデザインセンスこそが、まさに幼い頃アリスの世界観に慣れ親しんだ人が感じる“不思議で、どこか怖さも感じる”世界そのものであり、その感覚は他の翻案作品では味わい切れなかったものだ。

赤の女王の城へ続く顔型の飛び石に足が入ってしまった際に唾液が染み付く描写や、やけに澄ました顔のおしゃべり花たちなども、子供向け映画ながら見えにくいところに遠慮のないバートン印が刻まれており、これはやはりバートンにしか作れないものだろう。今作は第83回アカデミー美術賞と衣装デザイン賞を受賞しており、その点の評価も非常に高かった。

「ここは自分の現場じゃない」グリーンバック撮影にうんざりしたバートン

問題は、こうしたキャラクターや、舞台であるアンダーランドのほぼすべてがCG合成であることだ。本来バートンの画の特徴は、ストップモーションやミニチュアを多用した、手作り感溢れる箱庭世界だ。緻密なセットを組み、特殊メイクや趣向を凝らした小道具によって、時代や国を超えた“少し不思議”を創り上げてきたのが何よりのバートンらしさであったはずである。

しかし今作では、マッドハッターのお茶会でカップに注がれる紅茶までCGという徹底して人工的な合成世界。バートンのキャリアは元々ディズニーのアニメーターから始まっているわけだが、これではどうにもバートンの作家性が活きてこない。何しろ、人間的造形で、特殊メイクでも充分表現できたであろうトウィードルダムとトウィードルディーの双子すらCGキャラクターになっている。

ディズニーの持つCG技術は、勿論この2010年の段階でも誰もが認める素晴らしい水準のものではあるのだが、今作においてはそのデザインも含めて所謂“不気味の谷現象”(=※人間に似すぎたロボットやCGは親近感が増す一方、あるレベルを超えると急激に嫌悪感に転じる心理現象)が起こっているようにも感じる。

デザイン自体はバートンらしいものの、今作は“バートンのデザインをCG映像にしました”という見本市であって、そこにバートンの映画らしいワクワクが感じられない。

「Eat Me」「Drink Me」で身体が大きくなったり小さくなったりするケーキも実際に食べられるものを作ってあるそうで、そうしたこだわりはバートンらしいと思う。しかしアリスの身体の変化描写はCG合成であり、平素のバートンであれば、『ビッグ・フィッシュ』の巨人カールのように遠近法で騙し絵のような撮り方も出来たはずだと思ってしまう。服がうまく身体の変化に合わせて脱げたり破れたりしないのも、ディズニーらしいご都合で、それが悪いというのではないが、やはり不自然さは拭えない。

事実、今作の撮影は90%がグリーンバックスクリーンでの撮影だったと言い、バートンは後のインタビューで「最初の1週間で“これは自分の現場じゃない”と感じた」と語っているほどだ。前作ではグリーンバックでキャストが歌う不自然さを防ぐため大規模なセットを組み上げたバートンだが、今作においてはディズニーの提示した3D映画化、という弊害もあったのだろうと思う。

ディズニーの3D映画元年……3D演出の不自然さと不必要さ

今作の公開時期は空前の3Dブーム。『アバター』(2009)を3D元年としたディズニーは「3D+ブランドIP+ファミリー層」という方針に舵を切り、今作でそのブランディングを確立しようとしていた。

バートンは慣れない3Dカメラではなく、従来通りの2Dカメラでの撮影を選び、3Dには後からコンバートして仕上げたそうだが、結果どうにもCGと人間の演じるキャラが溶け合わず、切り絵のように“浮いた画”になってしまっている。

ちなみにこの2Dから3Dへのコンバートという形式については、『アバター』を撮ったジェームズ・キャメロンが「まったく無意味なことだ」と批判的な言葉も残しており、この時代の撮影法についてはクリエイターの中でも思うところが様々あったのだと思う。

アリスが白ウサギのマクトウィスプに導かれて穴に落ちるという、『不思議の国のアリス』を象徴するオープニングシークエンスは、3D化を念頭に置いた画の作りだとは思うが、それは単なるアトラクションであって画としての面白さには直結しない。

石や葉が舞い散るシーンや、強い風が吹くシーンも随所に挿入されているが、あからさまに3D化が意識されているそうした演出も、そこに物語としての意味も必然性も感じられないのだ。

演出論:アリスを取り巻く女性蔑視は現代へ続くディズニー的メッセージ

バートンはマイノリティを“そこにいるもの”として描いてきた作家だ

今作の物語はアリスの成長譚であり、夢の世界を彷徨う、バートン曰く“単なる奇人巡り”に過ぎなかった原作や従来の翻案作品から離れ、一本の物語を紡いでいる。

「すぐれた人は皆おかしいのさ」という父の言葉の通り、礼節や服装に捉われず、19世紀の女性の枠から外れたアリスの性格設定は、確かに異端で、バートンの“異形”に連なるかも知れない。

……と、言うのは半ば無理矢理な辻褄合わせであり、バートンの描く異形と、今作のアリスとでは根本的なところが違っている。

バートンがこれまで描いてきた異形は、抑圧に押し潰された存在だ。これは悪い意味ではなく、バートンの描いてきた異形たちは社会や世界の抑圧と、自分一人では闘うことも、勝つこともできない。

バートン自身が自罰的な性格であることも影響しているのかも知れないが、そんな弱さを通して見る世界の無関心や差別、偏見といった同調圧力が、マジョリティによって“自然に行われる常識”への恐怖こそが、バートンの描く異形が感じてきた孤独だ。

故にバートンの物語において、異形たちの孤独は完全に解消されることはない。どんなハッピーエンドの世界であれ、そこに人がある限り差別や恐怖は残り続ける。

『ビートルジュース』のリディアにせよ、『バットマン』のブルースにせよ、彼らの孤独は決して消えることはなかった。

超短期間の撮影……ディズニー的メッセージとバートンの相性の悪さ

アリスの物語は、決定的にそこが違う。アリスは確かに抑圧されてきたが、彼女は元よりそれを口にする強さもあり、胸に強く抱いた、父から受け継いだ信念がある。

こうした女性の描き方にはやはり、バートンの意匠よりもこの2010年代から徐々に顕著になっていく“ディズニーの理想の女性像”の描き方を感じてしまうし、婚約者のヘイミッシュの愚かしいキャラクター像と言い、時代が違うとは言え、『バットマン リターンズ』であれほど早い時代にフェミニズムの意匠を組み込んだバートンにしては、あまりに画一的な描写に感じられる。

作家性があまりに強いため誤解されがちだが、バートンは脚本兼任タイプの監督ではない。どちらかと言えば、与えられた脚本に対して職業作家的に演出を加えていく作家だが、これまでの作品の多くには、それでも色濃くバートンの物語が投影されてきた。

それだけ撮影現場でのアドリブ的な画作りや、キャストとの緻密なやり取りを大切にする監督でもあると言うことだが、今作は苦手なグリーンバック撮影に加え、撮影期間は僅か3ヶ月ほどだったという話もある。同時期に撮影に入った『フランケンウィニー』がストップモーションで長大な時間を要するということもあったかも知れないが、配給側の求めたスケジュールにもかなり無理があったのではないだろうか。

実際、この時期ディズニーは海賊盤流通を防ぐという理由で劇場上映保有期間短縮を目論み、欧州の映画館から大反発を受けたという話もある。

そうした現場の環境で、バートン自身の意匠を組み込むことはほとんど出来なかったというのも考えすぎではない気がする。

ただ、それでもバートンが監督から製作へシフトチェンジして撮られた続編『アリス・イン・ワンダーランド/時間の旅』を観ると、その物語はより単純化されテーマの描き方も露骨になっており、バートンらしくないと思っていた今作でも逆説的に、実はギリギリのラインを見極めてバートンの意匠が織り込まれていたことにも気づかされてしまうのも嘆かわしいことだ。

キャラクター考①:赤の女王の大きな頭にバートンの異形の孤独を見る

今作のヴィランとして設定された赤の女王には、バートンの描いてきた異形の孤独が滲んでいる。

彼女は『不思議の国のアリス』の《ハートの女王》と『鏡の国のアリス』の《赤の女王》を掛け合わせたオリジナル・キャラクターになるが、これは原作本においても混同されやすい両者を実際に一人のキャラクターとしてまとめたという遊び心であり、ディズニー・アニメーション版でハートの女王が原作での赤の女王の台詞を口にすることにも繋がっている。

基本的な性格設定はハートの女王に近いが、原作では「首をお刎ね!」という台詞がありながら実際に処刑される者ははぼいないのに対し、今作の赤の女王はこれまでに多くの者を処刑してきたことが示唆される。

さすがのバートンでもディズニーの子供向け作品でそこまでの表現は出来なかったようだが、中盤イロソヴィッチと話す際に城から見下ろした川は血で赤く染まり、そこには処刑された多くの家臣や人民たちの首が浮かんでいるのが見て取れる。暗がりでほとんど見えないシーンではあるのだが、こうしたヴィランの残虐性は『バットマン』の頃から徹底している。

赤の女王が巨大な頭を持ち、奇形の存在として描写されるのがバートンらしい意匠だ。これは2007年に生まれたバートンの娘がインスピレーションの基になっていると言い、わがままで暴君な彼女を赤ん坊のように描写したかったと言う。

彼女には劇中一人たりとも仲間がおらず、本人の言う通り、“愛されなかった女性”だ。従者たちは彼女に合わせて奇形を演じ、鼻や耳など、身体の一部を大きく見せているが、これは内心で彼女の大きな頭を嘲笑っていることの証左だろう。彼女は愛した存在であるイロソヴィッチにすら実際のところ見下されており、その嘘に対して簡単な言葉で懐柔される素直さにも、彼女の抱えた幼児性の悲しさが滲む。

マッドハッターたちが語る「ダデカヘッ!(打倒デカヘッド)」の合言葉も、彼らにとっては勇気の合言葉であるかも知れないが、それは裏を返せば差別用語そのものだ。

「頭の大きいものは大歓迎」と身体が大きくなったアリスを歓迎し迎え入れる姿や、従者たちの奇形が偽りだったと知ったときの慟哭には、『バットマン リターンズ』で仲間のフリークスに見捨てられたペンギンの姿も重なる。

一般的な世界に生きる人々、マジョリティは皆自分たちこそ正義だと信じ、常識の外側にいる異形の存在を追い立ててきた。善悪の境界を曖昧にし、この世界に当たり前に存在する差別がどのように成立してきたのかを描く表現は、まさしくバートンが繰り返し描いてきたテーマだ。

キャラクター考②:狂え“ない”マッドハッターは抑圧された芸術家の表像

同じようにジョニー・デップが演じたマッドハッターにもまたバートンらしい意匠が込められている。

原作においては奇妙なお茶会を開催する狂ったキャラクターというだけで、アリスとの関係に感情的な意味は与えられていなかった。今作ではアリスを信じ待ち続けていた存在として描写され、アンダーランドで唯一、最初から再訪したアリスを13年前のアリスと同一人物だと確信している。

マッドハッターの造形もまた水銀中毒を明示するオレンジの髪や視線の向きや表情がわかりにくいカラーコンタクトにより、“狂った”帽子屋の設定をきちんと具現化している。

彼は赤の女王の統治後の世界では怒りに身を任せ、政治のことしか口にしなくなったとチェスールに指摘されている。

お茶会のテーブルの上を歩き回り、その茶器を滅茶苦茶にしてしまうその姿や、赤の女王への反逆だけを望み血生臭い話をする彼に失望した様子のチェスールなど、原作ではあり得ないこの両者のやり取りは、如何にもバートンらしいビターな目線だ。

赤の女王に捕らえられて帽子作りをする姿には、どんな状況下でも物作りに喜びを見出してしまう創作家らしさが表れており、狂った世界で政治を語る姿の悲哀と共にバートンが自身を投影しているかのようにも見える。

我に返って作った帽子を壊していくシークエンスは『フランケンシュタイン』の物語で怪物の花嫁作りを放棄するシーンのオマージュにも見え、その姿はバートンが何を壊したかったことの表れなのか……は、邪推過ぎるのであまり語らない方が良いだろう。

作家論:完全な善人として描かれた白の女王へのバートンの反発

“誰からも愛されない”赤の女王と対比して描かれるのが“誰からも愛される”白の女王だ。

ディズニー・ムービーは基本的に勧善懲悪の世界であることを求め、白の女王には赤の女王と対比した善性が脚本には描かれているが、そこに疑問を投げ掛ける撮り方をしているところにバートンの僅かな抵抗と毒を感じる。

演じたアン・ハサウェイは白の女王を「パンクでヴィーガンの平和主義者」と称しており、可愛いけれどどこかサイコパスを感じさせるキャラクターとして演じていると言う。

白の女王はどこか間の抜けた、空虚で滑稽な撮られ方をしており、妙に濃いメイクと合わせ、単純な善人として描かれてはいない。最後にイロソヴィッチに「殺してくれ」と求められた際の、「なんの恩義で殺すの?」という言葉にも、冷徹な残酷さが滲んでいる。

今作でアリスが父から託された“6つの不思議なこと”は原作においては白の女王がアリスに進言することであり、彼女はアリスの飼い猫の一匹で不思議の国の夢を作り出した存在と定義されているが、そうした設定はすべてオミットされている。

結果として白の女王は物語において空虚な理想像となり、「殺生はせぬと決めたの」とアリスにすべてを託すところにも、人任せな統治者として胡散臭い存在にも映る。

正直バートンは、白の女王に設定されたキャラクターに対してはほとんど共感を持てなかったのではないだろうか。

バートンの“美しさと悪意”が両方入ってるキャラクター、とハサウェイも語っていたが、善意の裏にこそ悪意が隠れている、というのはバートンらしいキャラクター像だ。続編では赤の女王との確執の原因となる過去も明かされるが、これは今作でバートンが作った隙間が功を奏したとも言える。

家族の問題の掘り下げもあり、続編の脚本の方がむしろバートン的な意匠を入れ込み易かったような気もするが、基本的に続編を撮らないで有名なバートンであるし、ディズニーでのアリスの世界観については今作でもう辟易してしまったのかも知れない。

白の女王もマッドハッターも、続編ではメイクが少し薄くなり、より“普通”に近づいていることからも、白の女王の滑稽にも見えるメイクは敢えてやったことだったように思える。

物語論:アリスの成長譚……その裏側で犠牲になった異形たちの孤独

バトル展開は必要?赤の女王の物語にカメラが向かない

ラストのジャバウォッキーとの闘いも、そのデザインやシーンの作り方に、どうにもバートンらしさが感じられない。

赤の女王のトランプ兵と白の女王のチェス駒のような兵のデザイン的な対比や、トランプ兵がドミノ倒しのように倒れていく演出も映像的には面白いのだが、ラストのバトル展開にはどうにも取ってつけたような印象を受ける。

『バットマン』や『PLANET OF THE APES/猿の惑星』を観ればわかる通り、バートンは元々アクション監督ではない。今作では更に苦手なグリーンバックとCGも加わり、余計に画面の中で何をやっているのかわかりにくくなっている。

同じようにディズニーで製作した『フランケンウィニー』のリメイクもそうだが、ラストにヴィランとの戦闘という展開を持ってくるのは如何にもディズニーの定型的で、本当の意味でバートンがこの展開を望んでいたのかは疑問に感じてしまうところだ。

何よりも問題なのは、このジャバウォッキーとの戦闘によって、本来この物語のヴィランであり、異形の孤独を体現した存在である赤の女王もまた、あまりにもアッサリと物語から退場させられてしまうことだ。彼女は家臣にも兵隊にも裏切られ、自分を愛していると信じていたイロソヴィッチには共に追放されることすら拒まれ、ナイフまで向けられる。

赤の女王は徹底して、誰からも認められず、誰からも求められない。

しかし脚本はこの赤の女王の孤独に対して、一切の慈悲をかけようとしない。彼女はあくまでディズニーヴィランとして、退治されるべき存在として退場してしまうのだ。

ティム・バートンは既に“異形の孤独”を描く段階から一歩踏み出している

物語は原作と同じように、アンダーランドがアリスの夢であり、そこに登場する住人たちもアリスの実際の知り合いがモデルになっているようにも見えるように描かれる。

トウィードルダムとトウィードルディーがヘイミッシュのところの双子の姉妹であったり、時計を持ったマクトウィスプは結婚の決断に迷うアリスが求めた“時間”の暗喩のようでもある。彼女を導くアブソレムとの別れは父の思い出との決別で、イロソヴィッチの不誠実な愛情は、冒頭不貞シーンが描かれたアリスの姉の夫がモデルなのではないだろうか。

それを考えれば、赤の女王はヘイミッシュの母親なのだろう。序盤の薔薇の花を「赤いペンキで塗れば大丈夫」と語るエピソードが、13年前のアリスが赤の女王の城を訪れた際のエピソードと重なることからもそれは示唆されている。

しかし、そうした表現に落ち着かせてしまうことで、赤の女王の孤独は更に矮小化され、物語の軸から遠ざかっていってしまう。

前作のコープスブライド:エミリーの退場もそうだったが、今作でもまた、脚本のせいばかりでなくバートンが自身の視点を異形の側に置けなくなっていることが示されているように感じる。

『ビッグ・フィッシュ』、『チャーリーとチョコレート工場』までのバートン作品は、自身の幼少期の孤独や痛みを物語に投影しながらも、その孤独の描き方は徐々に変化していった。

その孤独を極限まで掘り下げたのが『バットマン リターンズ』であり、それから『ビッグ・フィッシュ』へ向けて、その孤独は少しずつ解放されていった。

にも関わらず、『ティム・バートンのコープスブライド』でも今作でも、バートンが描いた異形の孤独は、これまでの作品で一度観たものの再生産でしかなかった。

だからこそ、そこに既に共感を持ってカメラを向けることができず、物語の主眼がどこにあるかがブレてしまう。現実世界に戻ったアリスが“運命の相手”を待つ叔母をアッサリと否定するのも、脚本の物語としては“結婚という檻からの脱出”とテーマには沿っているが、その一義的な断罪には、バートンらしいマイノリティへの共感が感じられないのだ。

総括:バートンの歴史上の時期も,脚本も悪かった史上最高売上の大ヒット作

多くの人々に馴染み深い『不思議の国のアリス』という児童書に隠れた、アングラさや悪趣味な残酷さを、ディズニー映画の枠組みの中で精一杯に描こうとしたのは見て取れる。要所要所にはバートンらしい意匠もあり、その独自性のあるデザインには一見の価値は間違いなくあるだろう。

赤の女王やマッドハッターは初期のデザイン案のスケッチを見る限り今作のものより更に異形としての印象が強く出ており、職人と芸術家の狭間で揺れるバートンの葛藤は『PLANET OF THE APES/猿の惑星』の時以上に強かったのではないだろうか。そんな今作がバートン監督作品史上興収としては最大の大ヒットというのも痛し痒しだ。

今作公開は2010年。『シンデレラ』が2015年、『美女と野獣』が2017年なので、昨今のディズニーアニメーション実写化の先鋒を切った作品でもある。

2014年の『マレフィセント』は『眠れる森の美女』を悪役の側から描く作品だったように、まだこの頃は完全実写化より企画の自由さが許されていた時代。逆に言えば大変な論争を巻き起こした『白雪姫』(2025)にしても、この時代に本編とは異なるアナザー・ストーリーとして実写化していれば、あのような騒ぎにはならなかったかも知れない。そういう意味では、この時代のディズニーの空気感を知る上でも観ておく理由は充分あるだろう。

バートンのフィルモグラフィーとしては、その作家性の希釈具合にも、創作的テーマの変化に自身のカメラが追いついてないこの時期の作品群としての弱みも出ている作品だが、今作でのグリーンバック撮影の実験があってこそ、後の作品でまた再びストップモーションやミニチュアを用いたり、そこに自然な形でCGを合わせるといった撮り方も出来るようになったとも言える。

ディズニーという大資本の中で自身の作家性を最大限に引き出すのはバートンほどの監督の力を持ってしても難しい。その監督に対して思い入れがあるほど、大資本の中でもがく姿に違和感を感じてしまう作品も多いだろう。今後似たような作品が出てきても、鷹揚な気持ちで観ていきたいものだ。

評価/鑑賞日

⭐ 2.5 / 5.0
📅 2025/09/10(Disney+)

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