ティム・バートン全作品レビュー17
――ひび割れた心臓,奪われた記憶……永遠に続く196年の呪い それでも貴方を愛してた
この作品はどんな作品?
70年代の大人気ゴシックソープオペラをティム・バートン×ジョニー・デップがリメイク。
ヴァンパイア,魔女,狼人間……バートンお得意の異形が集合しながら、救われるべき孤独が犠牲になり消費される物語にバートンを感じられない。バートン自身の変化にカメラが追い付かなかった時代の、表現過渡期の終着点。
この作品はどんな人にオススメ?
ティム・バートンのゴシックロマン趣味に溢れた映像が好きな人。
世紀を跨いで復活/タイムスリップするキャラクターによる無理解不条理ギャグが好きな人。
原作ドラマ『ダーク・シャドウ』、映画版『血の唇』などの作品の予備知識がある人。
作品データ
原題:Dark Shadows
監督:ティム・バートン
脚本:セス・グレアム=スミス
(原案) ジョン・オーガスト
原作:ダン・カーティス
(原作ドラマ版)
音楽:ダニー・エルフマン
撮影:ブリュノ・デルボネル
上映時間:114分
出演者:
バーナバス・コリンズ:ジョニー・デップ
ヴィクトリア・ウィンターズ/ジョゼット・デュプレ:ベラ・ヒースコート
アンジェリーク・ブシャール:エヴァ・グリーン
エリザベス・コリンズ・ストッダード:ミシェル・ファイファー
キャロリン・ストッダード:クロエ・グレース・モレッツ
ロジャー・コリンズ:ジョニー・リー・ミラー
デヴィッド・コリンズ:ガリヴァー・マグラス
ウィリー・ルーミス:ジャッキー・アール・ヘイリー
ミセス・ジョンソン:レイ・シャーリー
ジュリア・ホフマン博士:ヘレナ・ボナム=カーター
サイラス・クラーニー:クリストファー・リー
アリス・クーパー(本人):アリス・クーパー
※本レビューにはネタバレを含みます。
総文字数:11167文字
読み終わるまでの時間:約28分
製作背景:70年代名作ソープオペラの大ファンが集う大人の遊び場
監督:ティム・バートン×主演:ジョニー・デップの黄金コンビによる70年代ゴシック・ソープオペラのリメイク映画。
原作は全1225話、1966〜1971年の5年に渡り放送された長寿ドラマ。こちらは残念ながら日本未放送ながら、ドラマ版のキャストを多数続投させ再編成した映画『血の唇』(1970) は日本でも公開され、その続編『血の唇2』(1971)もビデオ販売されている。両作品とも、現在でも国内盤DVD/Blu-rayが視聴可能だ。
《ソープオペラ》とは当時アメリカで午後2〜4時(時差による)の時間帯に放送されていたドラマにつけられた名称であり、スポンサー企業に石鹸会社が多かったことが由来。本来は家庭の主婦層に向けて作られたメロドラマ枠で、原作ドラマは最初の一年視聴率が低迷し、番組は辛うじて続いている状況だった。
そんな中、当初家族の物語として描かれていたこの作品にバーナバス・コリンズというヴァンパイアのキャラクター、及び狼人間や幽霊など、怪奇映画の影響を受けた超常現象の要素が取り入れられたことで、学校帰りの子供たちからの需要が急激に高まった。当時はこの奇異なスタイルは、“昼ドラのスタイルを変えてしまった”と評され、低視聴率が一転、番組は一気に大人気シリーズに登り詰めることになる。
監督であるバートンも当然子供の頃にそれを観ており、その週5日放送という過密スケジュールからくる、基本的にワンテイク撮影のスタイルや、セリフの間違えや小道具が落下するハプニングもそのまま映像に残すという、エド・ウッドの映画のような雑な作りもまた、バートンの琴線に触れていたのかも知れない。
2007年頃、配給のワーナー・ブラザーズは原作ドラマの製作総指揮であったダン・カーティスの遺族から今作の映画化権を取得し、その時点でジョニー・デップが主演に決まっていた。デップもまた幼い頃からこのドラマに慣れ親しんでおり、バーナバスを演じることは長年の夢でもあったと言う。自ら製作にも加わるほど強い思い入れを持って今作に携わったデップは、2007年〜2008年の全米脚本家組合のストライキによって製作に遅れが生じた際、これ幸いとばかりにバートンを監督に逆指名する。
その後脚本に前後数作でバートンとタッグを組んだジョン・オーガストが参加するも、オーガストは企画が進むうちに降板。最終的には今作で脚本家デビューにして、自身もバートンの大ファンであるセス・グレアム=スミスにより脚本が仕上げられることになる。
原作ドラマが日本未放送でもあるため、スタッフ・出演者の熱量が実感としては伝わって来ないのだが、1991年にもリメイク版ドラマが製作されたりと、かなりの人気作であったことは伺える。何しろ、エリザベスを演じたミシェル・ファイファーもドラマ版の大ファンであり、バートンが監督をするならと直訴しての出演だったとのことだ。
原作ファンで旧知の大人たちが集まって出演・監督をし、更にその監督の大ファンが脚本を書くという壮大なオトナのお遊び、夢の遊び場のような映画であるわけだが……今作もまた、映像や設定はバートンらしいのに、その中身にどうにもバートンらしさが感じられない、そんな作品に仕上がってしまった印象だ。

映像論:『ビッグ・フィッシュ』以降の進化と『アリス・イン・ワンダーランド』の反省
ゴシックロマン×70’sミュージックの融合
今作の舞台はドラマ終了時に合わせた1972年。バーナバスとアンジェリークの生きた18世紀から遺るコリンウッド邸は、「ヨーロッパの美とアメリカの富の融合」とされ、コリンズ家の富裕層としての驕りを示す古風で豪奢なデザインとなっている。
手入れする者もなくかつての栄華そのままに朽ちかけた屋敷は、現代パートの中では異質な空気を纏っており、バートン作品における“現代の異界”の役割を担う。18世紀の屋敷の庭に、修理代も出せず放置されたシボレーが置かれているという不釣り合いさもまさにバートンワールドだ。
邸内にある調度品の数々もバートン好みのゴシック調だが、屋敷中の隠し扉や地下通路にも遊び心が溢れており、バーナバスの杖を鍵代わりに開ける扉の仕掛けなど、観ていてワクワクさせられる。
1970年代はバートンやデップが思春期を過ごした時代。
T.REX、カーペンターズ、アリス・クーパーなどグラム・サイケ音楽や当時のコンテンポラリー・ミュージックが心地よく流れ、「ラブ&ピース」「イージーにね」を口癖に、マリファナ片手にベトナム戦争について語るヒッピーたちが屯している。『ビッグ・フィッシュ』の父エドワードの回想でも、50〜60年代のヒット・ソングがその空気感を作り上げていたが、やはり音楽や娯楽というものは、何よりもその時代を思い起こさせてくれるものなのだろう。
同時に、本人曰く決して明るくはない青春期を過ごしたバートンだからこそ、バーナバスによってその時代を滅茶苦茶に引っ掻き回すような作劇になったのかも知れない。
中盤コリンウッド邸で行われる舞踏会ではなんとアリス・クーパー本人がカメオ出演!
30年以上前の本人役を演じられてしまうロック・スターの年の取らなさはまさに彼こそが真のヴァンパイアであるとさえ思え、こうした遊び心には筆者も1ロック好きとして拍手を送りたくなる。バーナバスよ、何が「醜い女」だ、とんでもないぞ。
棺から出たバーナバスが目にして衝撃を受ける映画館、公衆電話、レコードなど現代(1970年代)の風景は、公開時の2012年の観客からすればまさに“実際には見たこと・体験したことがないノスタルジー”であり、バーナバスとはまったく逆の視点でそれを見ることになるというのも面白い逆転現象だ。
『ビッグ・フィッシュ』で観客の住む世界に地続きな世界を描いてからと言うもの、『ティム・バートンのコープスブライド』や『アリス・イン・ワンダーランド』では異界と現実をハッキリ二分して描き、『スウィーニー・トッド フリート街の悪魔の理髪師』ではモノクロ映画に近いほどの陰鬱な画面処理で現実を描いた。
今作ではこれまで分かたれてきた要素を、一つの画面の中に融合させている。70年代のアメリカ郊外に現れる、18世紀のヴァンパイアや魔女。後の『ミス・ペレグリンと奇妙な子どもたち』や『ビートルジュース ビートルジュース』へと続いていく、“現代の異界”の表現だ。
今作ではCG処理も必要最低限に留め、終盤コリンズ邸の装飾品が生き物のように動く不可思議な映像や、ひび割れるアンジェリークなどにはバートンの目指す、“ストップモーション風CG”の手触りが感じられる。前作で一度極端な表現を経たからこそ、その活用方がバートンに根付いたのだろう。
大規模セットで再現された70年代とウーマンリヴ運動による社会の変化
冒頭では、海を渡りアメリカで事業を発展させた、18世紀当時からすれば進歩的なコリンズ家の姿が描かれる。18世紀に端を発した街が、その面影を残しながら70年代へと移り変わる冒頭シークエンスで、200年という時間の重みと人間の本質が表される。
かつてバーナバスが棺に封印された魔女狩りシークエンスも、終盤の現代パートでアンジェリークはまったく同じ手段でコリンズ家を追い詰めており、そうした人間の恐怖を煽る手段は、時代を経ても変わることはない。道具や服装が変われど、人の愚かさだけは何も変わることはないのだ。
『アリス・イン・ワンダーランド』での全面グリーンバック撮影にバートンも相当懲りたのか、コリンズポートの街並みはロケとセットを組み合わせてデザインし、70年代のコンテナ化に伴い変化した街の様子や、そうした社会情勢に合わせて発展を遂げたエンジェル・ベイ社における、アンジェリークの時代を嗅ぎ取る嗅覚の鋭さも描写されている。
70年代はウーマンリブ運動に伴う第2波フェミニズムが台頭した時代。その中で、コリンズ家の代表として、そうした風潮に反発する(劇中時間軸での)現代人エリザベスと、200年を生きながらその時々で姿と名前を変え、常に先進的な女性として生きてきたアンジェリークを対比させているのもバートンらしい。
18世紀当時は先進的な発展を遂げた一族であろうと、一度栄えてしまえば落ちるばかり。コリンズ家に対するそうした皮肉にもなっている。
エリザベスを演じるのが、『バットマン リターンズ』で第3波フェミニズムと絡めるように表現されたキャットウーマン役のミシェル・ファイファーであるのも面白い。
バートンは度々、役者たちに一度演じた役柄と真逆のキャラクターを演じさせることがあり、それは役者への信頼だけでなく、キャスティング含め物語を構成するバートンの意匠なのだと思う。
(『チャーリーとチョコレート工場』のバケット夫人← ヘレナ・ボナム=カーター→『スウィーニー・トッド フリート街の悪魔の理髪師』のラヴェット夫人、
『ビッグ・フィッシュ』のエドワード←アルバート・フィニー→『ティム・バートンのコープスブライド』のフィニス・エヴァーグロット(ヴィクトリアの父)など)
そう考えると、やはり『アリス・イン・ワンダーランド』でのわかりやす“すぎる”女性のエンパワーメント描写は、バートンの意匠ではなくディズニー脚本に依るものであったことも推察出来る。

キャラクター考①:アンジェリークとヴィクトリア……犠牲になった孤独な異形
過酷な時代を一人きりで生き抜いたアンジェリークの女性像
アンジェリークはバーナバス、いやむしろ、コリンズ家の最大の被害者だ。
使用人の娘として生まれた時からバーナバスと共に人生を歩み、幼少期から彼を愛していた彼女を、バーナバスは本人も認める通り、完全にただ火遊びのつもりで弄び、「愛してる」の一言も言わなかった。
バーナバス主観のナレーションでは彼女が初めから魔女で、それに気づかず誘惑されたかのように語られるが、アンジェリークを魔女にしたのは間違いなく、バーナバスの不誠実な行いだ。それでもバーナバスには、彼女を壊した自覚がまったくない。
閉じ込められていたバーナバスがざっくり「200年」と語る年月を「196年よ」と一年刻みで記憶しているアンジェリークの愛はあまりにも重い執着で、確かにそれはバーナバスの言う「愛ではなく所有すること」ではあるだろう。
しかし、その執着と孤独こそが彼女の不器用な強さに繋がり、196年の年月を掛けて愛する者の名を冠した街を、自身の街《エンジェル・ベイ》へと変貌させる原動力にもなっていたのではないだろうか。
彼女は“悪魔”を退治したとは言え、所詮は使用人の家の出であり、18世紀の女性がそこまでの地位を確立出来たとは思えない。1972年という時代とて、真の意味での男女平等からは遥か遠かった。
彼女はそんな196年の間、すべて本人の歴代肖像画を見る限りずっと、女性として君臨し、街の「人気者」になってきた。それは魔女であることを加味したとて、あまりにも過酷な歴史ではなかったか。
詳しくは語られていないが、配偶者を利用するなどの手段を取ることもあっただろう。しかし街の漁師たちの姿を見るに、彼らはバーナバスがしたように催眠術を使って従わせられていたわけでもなく、仕事上の契約としてエンジェル・ベイ社と関係を築いている。バーナバスの「不満があろう?」も、あくまでバーナバスの価値観でしかない。
アンジェリークは、必死にこの世界を生き、どこか不器用にバーナバスを待ち続けた。それは、バートンがこれまでの作品で描いてきた、異形の姿そのものではなかったのか。
人と違うことによる孤独……そこから抜け出して辿り着いたはずが……
ヒロインであるヴィクトリアもまた、異形の孤独を抱えたキャラクターだ。それも、かつてバートンが初めて自身の表像として物語に組み込んだ、『ビートルジュース』のリディアと同じ特性を持っている。
ヴィクトリアには幼い頃から死者の姿が視え、それ故親に疎まれ、精神病院に収容されてきた。青春の日々のすべてを奪われ、そんな生活から抜け出すために、病院を脱走しコリンウッド邸へやって来たのだ。
マギーという元の名を捨てた彼女は、コリンウッド邸の歪んだ家族の中にようやく自分の居場所を見つけ、バーナバスを愛した。
霊との交流で人生に明るさを取り戻すことが出来たリディアとは大きく違う。彼女に視える霊は、アダム・バーバラ夫妻のように心の支えにはなってはくれなかった。
その孤独は、手がハサミである『シザーハンズ』のエドワードや、奇形として生まれた『バットマン リターンズ』のペンギンと同じ、他者との関係をうまく築けないバートン自身の自罰的な暗喩であり、彼が誰よりも共感を示してきた、幼い自分の表像でもあるはずだ。
ヴィクトリアとアンジェリークはどちらも異形であり、今作で描かれる三角関係は『ティム・バートンのコープスブライド』の再演にもなっているのではないだろうか。
問題は、このヴィクトリアの視る霊が、バーナバスの婚約者であり、かつてアンジェリークの呪いによって命を落としたジョゼットであることだ。彼女はジョゼットの目的のために利用され、持たなくて良い能力を持ってこの世に生まれてきた。ヴィクトリアはずっと、ジョゼットの生贄だったのだ。
ヴィクトリアとジョゼットをベラ・ヒースコートが一人二役で演じていることから、ヴィクトリアはジョゼットの生まれ変わりとして描かれているのだろう。だからこそ今作の物語の結末は、あまりにも救いようがない。
原作ドラマのヴィクトリアとマギーという二人のキャラクターを統合し、その設定を組み合わせたのは原作改変として面白いのかも知れない。しかし、その物語を悲劇と感動のエピソードに転化するのは、倫理的にも感情的にも無理があったのではないだろうか。
キャラクター考②:反省も後悔も成長もない主人公・バーナバス
演じたデップが長年の夢だったと語る主人公のバーナバスは、あまりにも身勝手な特権階級のキャラクターだ。この物語においてバーナバスはむしろ、物語の語り部ではなく圧倒的にヴィランとして設定されるべきキャラクターであり、バーナバスの存在こそ、アンジェリークとヴィクトリアの人生を永遠に変えてしまった諸悪の根源でもある。
バーナバスは、常に富裕層の思い上がりで他者を振り回す。アンジェリークを捨てジョゼットを選ぶのも家柄に縛られた貴族階級の価値観であるし、現代においても、彼は自らの家族であるコリンズ家以外の人間には、まるで価値を見出していない。
目覚めて早々工事現場の人間たちを皆殺しにするのも、ヒッピーの集会に混ざって彼らの血を吸い尽くすのも、「大変心苦しいが」とは言いつつ、そこに後悔や反省は一つもない。
バーナバスは自身による“平民の犠牲”を当然のこととして割り切っているようにさえ見える。彼はヴァンパイアという異形ではあるが、その立ち位置は常に強者で、そこに孤独や痛みは滲まない。根っからのプレイボーイで、アンジェリークにした過ちを再び繰り返すようなホフマン博士との関係についても、まるで気にする様子はない。
それどころか、自身を利用したホフマン博士には自らを棚上げして激昂し、慈悲もなく彼女の血を吸い尽くす。遺体を処理するために使用人のウィリーを連れ出した際にも、「他言すれば残虐非道な方法でお前を殺す」と言い放っているのだ。
そんなバーナバスの愚かさに、物語は最後まで何の罰も与えない。むしろ、このバーナバスを魅力的な主人公であるかのように、愛嬌たっぷりに描いてしまう。
中盤アンジェリークとの交渉の末、誘惑に負けて繰り広げられるやたらとアクロバティックなベッドシーンは、確かにバートンが真面目にこういったシーンを撮れない作家としての“照れ”も感じて微笑ましくはある。しかし、それを「不本意な展開だった」とコメディ的に流してしまうのは、バーナバスの側にあまりにも葛藤がないのではないか。
バーナバスの精神構造は、言ってしまえば『バットマン リターンズ』でのマックス・シュレックや、『アリス・イン・ワンダーランド』のヘイミッシュと変わらず、ただただ身勝手な支配者の奢りに満ちている。
今作最大の問題は、バートンのカメラが向くべき異形に向かず、異形が単なる怪物を指す言葉として、“設定”に落ちてしまっていることだ。
演出論:エピソードの羅列で薄くなった“家族の物語”
物語の内容を考えると笑えなくなるコメディシーン
物語はバーナバスとアンジェリークの確執を軸に、コリンズ家の復興とヴィクトリアとのロマンスを描いていくわけだが、1225話ある原作ドラマから様々な要素を組み込もうとしたせいか、どのエピソードも薄く、コリンズ家の面々もただ“いるだけ”になってしまっている。
そもそも、『ティム・バートンのコープスブライド』もそうであったが、こういったテーマをコメディとして描こうとするのが間違いではないだろうか。
オーガストが初期稿を書いていた際には、“ヴァンパイアによる『ゴッドファーザー』のような大河ドラマ”を目指していたそうだが、企画が進むうちに方向性が変わり、オーガストの降板に繋がったと言う。
今作は原作ドラマの昼ドラ的な軽さを再現しようとするあまり、物語の根幹が失われてしまったように感じる。
200年ぶりに目覚めたバーナバスがマクドナルドの看板に「メフィストフェレス!」と臨戦体制を取ったり、TVに映る人物を「小人」と言うのは確かに笑える。カーペンターズを大工と勘違いしてキャロリンに呆れられるのも、世紀を跨いだジェネレーション・ギャップのあるあると言えるだろう。
しかし、そうしたコメディはどれもどこかで観たことがあるものばかりで、2012年公開当時でも既に“おサムい”ギャグだ。
キャロリンへの「夜の女」発言やホフマン博士への「女の博士とは」という時代錯誤な女性蔑視も、これまでそうした表現を感度高く表現してきたバートンからすると、随分とヒネリがない。アンジェリークとバーナバスを対比するにしても、ならば余計にバーナバスが物語の主体であることに疑問が生じてしまう。
アンジェリークに再び棺に封印されたバーナバスを助けに来たデヴィッドとの
「何百年経った?」
「……20分だよ」
「バーナバスおじさん、なぜ顔にパンツが?」
というとぼけたやり取りや、しっかりアンジェリークに被せられた脱ぎたてパンティを噛み締めてるバーナバスのエロヴァンパイアっぷりには正直笑ってしまったのだが……物語全体を考えると、こんなエロ男爵のためにアンジェリークとヴィクトリアは犠牲になったのか……と暗澹たる気持ちにもなる。
デヴィッドにしても、この直前にバーナバスが人ならざる者であることを知って逃げ去るシークエンスがあるわけで、助けに来るまでの葛藤がほんの少しでも入れば見え方も変わったと思うのだが。

詰め込みすぎた原作設定……繋がらないエピソードの数々
コリンズ家の人々は物語開始以前から既に機能不全に陥り、没落した家に縛られた存在だ。
しかし、それぞれのエピソードは『ビッグ・フィッシュ』や『マーズ・アタック!』のように一つのテーマに収束していくカタルシスに欠け、言ってしまえば、今作自体がリメイクされたドラマのダイジェスト版にさえ見えてしまう。
母親を亡くし、孤独に耐えるようにシーツを被って幽霊のフリをする息子の孤独に向き合わず、舞踏会でクロークの女性を誘惑して来客の財布を漁るロジャーは、一人の父親としても一族としても完全に道を踏み外している。
バーナバスに「デヴィッドのよき父になるか、金を受け取って消えるか」の選択を迫られ、僅かばかりの金を選んで目も合わせずに去っていく姿などは、少ない場面の中でその愚かさを充分に描いていると言える。
「役割で呼んでたら女に進歩はないわ」と時代の先をいく女性像を描きながら、結局はルッキズムに囚われ破滅するホフマン博士や、都会を夢見ながら自由になれないロック好きのキャロリンなど、面白くなりそうなネタは散りばめられているのだが、それらがすべて深掘られず終わってしまう。
キャロリンの狼人間への変身は、原作における彼女の交際相手が狼人間であることや、祖先であるクエンティンがアンジェリークの呪いで狼人間になることを合わせた改変であるということだが、それもファンサービス以上の意味が物語上に存在しない。劇中不仲に見えるデヴィッドとの霊感設定との相互理解に繋がればまた話も変わってきただろうが、正体判明後は早々に気絶して以降は出番なし。ミセス・ジョンソンに至っては本当に“いただけ”だ。
「家族が財産」というバーナバスの言葉から、家族の物語もテーマの一つなのだろうが、互いの関係性に設定が関係してこないのでただ怪物たちを羅列しただけになっている。
デヴィッドには母の霊の姿が視え、それを家族からは「頭がおかしい」と否定されているわけだが、それこそ家庭教師であるヴィクトリアと同じ傷を持つ者としてその孤独を分け合うようなエピソードも作れたはずだと思う。
ドラマを観ていた側からすると、レギュラーキャラクターが全員揃っていることには意味があるのかも知れないが、やはり詰め込み過ぎた脚本にはグレアム=スミスの空回りを感じてしまう。
舞踏会でオリジナルキャストの一部がカメオ出演するのもファンには嬉しいところなのだろうが、それも物語の面白さには関係してこない。
作家論:“傷ついた子供”から親の目線へ……バートンの過渡期だった
コリンズ家の中で唯一バートンの“次の表現”が見えたのは家長であるエリザベスの描写だ。彼女は70年代の女性の社会進出に対して懐疑的な“古い”人間であり、娘であるキャロリンの自由も許さない。これまでのバートン作品であれば、子供たちにとっての“敵”と見做されていたキャラクターだろう。
しかし、今作では彼女の親としての責任、実子であるキャロリンもデヴィッドも分け隔てなく愛するその優しさも描かれる。
デヴィッドの死んだ母親も霊として息子を守るために最終決戦の場に現れるが、こういった親側の描写は、これまでのバートンにはなかった描き方だ。
『チャーリーとチョコレート工場』までで内なる両親との不和を解決し、自身も親となったバートンはおそらく、これまでのように“孤独な子供”の立場では物語が描けなくなってきていたのではないだろうか。
だからこそ、この周辺数作品でのバートンはこれまでのような表現の刃は鈍り、まるでかつての自分の表現を模倣しようとしているような作品が増えていた。
しかし、今作でようやくバートンは、親の立場から物語を紡ぐ可能性を見出した。これが、『ビッグ・アイズ』での作品と子供、両方の親であるマーガレット・キーンを描くことにも繋がっていくのではないだろうか。
とは言え今作ではまだ、バートンのカメラはそうした自身の目線の変化を受け入れきれていない。これは脚本の問題も確かに大きいのだろうが、バートン自身が自分の創作上の変化にまだ気づいていなかったということかも知れないし、周囲が求める“バートンらしい映画”像に縛られていた証でもあるのかも知れない。
物語論:「我が呪いはついに解けた」犠牲を積み上げたアンハッピーエンド
アンジェリークとヴィクトリアが迎えた結末については、筆者は個人的に納得も理解も出来ないし、したくはない。
この物語は詰まるところ、バーナバスとジョゼットという富裕層の恋人により、アンジェリークとヴィクトリアという二人の平民の女性が犠牲になった物語だ。
「呪うのは愛情の裏返し」と語り、どんなに裏切られ、憎まれても愛を請い続けたアンジェリークは最後にはひび割れ、その差し出した心臓すら受け取られることはない。彼女は、最後まで孤独なままだった。
たった一人で闘い、たった一人で人々の意識を変え、たった一人を愛しながら、その愛を否定され、憎まれ、死んでいく。そのひび割れた姿も、バートンが何度も描いてきた“ツギハギの美女”に連なる姿ではないのか。
アンジェリークの愛はエゴイスティックで、狂気的で身勝手でもある。しかし、バートンはそんな愛に寄り添える作家だったはずで、だからこそこれまでの異形たち……キャットウーマンや、エドワードの悲恋は、観た者の胸に刺さり抜けない棘のように残ってきたのだ。
だからこそ筆者としては、他ならぬバートンだけには、アンジェリークの差し出した心臓を否定して欲しくなかった。
ヴィクトリアもまた人格を奪われ、ジョゼットの復活の依代としてその身を捧げることになる。
崖から身を投げ、目覚めたヴィクトリアは自らをジョゼットと名乗り、バーナバスはそれを受け入れ、物語はハッピーエンドを迎えた。「我が呪いはついに解けた」……バーナバスの呪いは解けたのかも知れない。しかしそれは、アンジェリークとヴィクトリアを永遠の地獄に突き落とし、新たな呪いを生み出してはいないか。
ヴィクトリアは劇中、一人の人格としてバーナバスを愛し、バーナバスもまたヴィクトリア自身を愛し、彼女のためにホフマン博士を利用してまで人間に戻ろうとしていたはずだ。
「(名前を)省略めさるな」「美しすぎて一音節たりとも失ってはいけない」とまで言った愛はどこにいってしまったのか。
結局のところ、バーナバスにとって、ヴィクトリアはジョゼットの代替品でしかなかったのだ。
原作ドラマでのマギーには、他ならぬバーナバスの洗脳によってジョゼットに仕立て上げられるというエピソードがあるそうで、それからすればこの展開は決して間違ってはいないのだろう。だが、このエンディングは、それこそこれまでバートンが描いてきた異形たちの人生の否定でもあると思うのだ。
ヴィクトリアは、劇中デヴィッドの母親の霊を認識していなかった。つまり、彼女は霊が視えるのではなく、ずっとジョゼットの幻影を視て、彼女に導かれていただけだったということになる。
彼女は生まれてから、その身体を奪われて消え去るそのときまで、ただただジョゼットに利用され続けていたとも言える。親に見捨てられたのも、暗い病院で数年を過ごしたのも、すべてはこの日のためだったのだ。
それでは、あまりにもヴィクトリアが救われないではないか。こんな結末がハッピーエンドであるはずなど、絶対にない。
総括:バートンの創作の転換点となった意義ある失敗作
富裕層からすれば平民の命など無価値である、と、そうしたメッセージを含んだ、ある種のバッドエンドであるならそれでも良い。しかし、それならそれで、バーナバスやジョゼットには、然るべき報いの先を見せなければその物語は成立しない。
ティム・バートンは怪物を偏愛し怪物を描いてきた監督と言うよりも、怪物に自身の過去の孤独を重ね、慰めてきた監督であったはずだ。
言葉を選ばずに言うならば、バートンには、このような作品は撮って欲しくなかったのだ。
『ティム・バートンのコープスブライド』〜『フランケンウィニー』
と続く作品群の中でも、その外見だけがバートンらしく、あまりにもその物語にバートンを感じない作品である。やはりどうしても、異形の存在に救いがなく、本来ならば断罪されるべき存在がなんとなくハッピーエンドで終わってしまう物語は、筆者としては受け入れ難い。
ただその分、本当にこれはバートンにとって過渡期の作品であり、今作を経由することで、バートンはようやく“傷ついた子供”から大人に、“親である異形”になれたとも言える。
そうした意味では、製作上は先に作られていたバートンの原点『フランケンウィニー』のリメイクが次作であり、その次作に『ビッグ・アイズ』が控えていることにも納得がいこうと言うものだ。
『ビッグ・アイズ』は実在の人間の歴史を辿る伝記であり、作品と子供の二つの母を生きた人の物語だ。それは奇しくも、バートン自身の人生にも重なってくる。
創作家という異形もまた、親となる。バートンはそのことを次作でようやく受け入れたのかも知れない。
同時に、今作を以てこの数作でずっと起用し続けたジョニー・デップ、ヘレナ・ボナム=カーターもバートン作品を離れることになる。私的な部分では2014年、『ビッグ・アイズ』公開と相前後してバートンとボナム=カーターはパートナーシップを解消しており、デップとも2025年現在今作を最後に共演していない。
バートンの創作は確実にここでまたフェーズが変わったのではないだろうか。
⭐ 2.0 / 5.0
📅 2025/09/18(Hulu)
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