ティム・バートン全作品レビュー18
――大人は時々おかしなことを言うんだ…… いつまでも傍にいたかった,そんな友達があなたにもいませんでしたか?
この作品はどんな作品?
ティム・バートンの原点、ディズニー在籍時に作った初の実写映画をストップモーションでリメイク。
予算と製作期間の問題で当時実現できなかった長編として生まれ変わるも、バートンの創作の根は既にここに在らず。異形としてのスパーキーへの共感やヴィクターの孤独の目線が薄れ、尺が伸びた割に物語は薄まってしまった。
この作品はどんな人にオススメ?
ティム・バートンの作るストップモーション・アニメーションが好きな人。
初期ティム・バートンと2010年代のバートンの中で、どのような変化があったか一目瞭然に理解したい人。
(原作と合わせて観ても2時間の映画約一本分)
飼っていたペットなど、大切な家族との別れを経験したことがある人。
作品データ
原題:Frankenweenie
監督:ティム・バートン
脚本:ジョン・オーガスト
音楽:ダニー・エルフマン
撮影:ピーター・ソーグ
上映時間:87分
出演者:
ヴィクター・フランケンシュタイン:チャーリー・ターハン
エルザ・ヴァン・ヘルシング:ウィノナ・ライダー
エドワード・フランケンシュタイン/ブルゲマイスター町長/ナソル:マーティン・ショート
スーザン・フランケンシュタイン/フシギちゃん/体育の先生:キャサリン・オハラ
ジクルスキ先生:マーティン・ランドー
トシアキ:ジェームズ・ヒロユキ・リャオ
エドガー・”E”・ゴア:アッティカス・シェイファー
ボブ:ロバート・キャプソン
スパーキー:フランク・ウェルカー
ペルセポネ/おヒゲくん/ワー・ラット/コロッサス/シェリー:ディー・ブラッドリー・ベイカー
ジャイアント・シー・モンキー:ジェフ・ベネット
※本レビューにはネタバレを含みます。
総文字数:9309文字
読み終わるまでの時間:約23分
原作レビューはこちらから
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製作背景:30年の時を経て蘇るフラン犬〜ディズニーでリメイクされたデビュー作
ティム・バートン監督による、2012年のファンタジー映画。原作は1984年、自身初の実写映画となった短篇をリメイクした作品であり、バートン初の単独ストップモーション長編監督作となった。
企画自体は2005年末から動いていており、製作には同年の『ティム・バートンのコープスブライド』のスタッフも多数参加している。脚本の執筆自体も既にその頃から進められていたが、2007年にディズニーデジタル3Dでの『アリス・イン・ワンダーランド』と今作の製作契約が結ばれ、撮影は2010年7月にようやく開始されることになる。公開順としては間にワーナーでの『ダーク・シャドウ』があるが、今作は公開が2011年11月→2012年3月→2012年10月と延期されており、最終的な公開はディズニーのハロウィン商戦に合わせたとも思われるので、製作順序としてはこちらの方が先かも知れない。
バートンにとっても思い入れの強い初期作品……それも、当時まさにディズニーによってお蔵入りになり退社の一因ともなった作品を、ディズニーで再び創作するということで、バートンからすれば「故郷に錦を飾る」どころの話ではなかったはずだ。
当時は予算と製作期間の問題からストップモーションでの表現が許されなかった作品を、理想的な形で、更に当時と同じく敢えてのモノクロで撮影したのも非常に挑戦的な作品だった。
……が、個人的な気持ちを言えば『アリス・イン・ワンダーランド』から始まるこの前後数作品……もっと言えば『チャーリーとチョコレート工場』以降、『ダーク・シャドウ』までの5作品はまさにバートンの“迷走期”。自身の創作の根を辿りながら、何を作るべきか模索しているようにも感じてしまう時期である。リメイク作品としてもどうしても、原作を現代に正しい形で“蘇らせた”とは言えないのが正直な感想だ。

映像論:ストップモーションとモノクロで描かれたバートンの幼少期
実写よりも感情豊かなキャラクターとバートンの色彩感覚
ストップモーションで作られた映像は、『ティム・バートンのコープスブライド』に引き続き素晴らしい。400体以上のパペットを用い、撮影中に何度も修繕を繰り返しながら造られたキャラクターたちは、生きた人間や動物に負けないほどに豊かな感情表現を見せてくれる。1秒の映像に24回の撮影をし、1週間かけて僅か2分の映像素材しか作ることが出来ないという途方もなくアナログで緻密な作業だが……その結果、アニメでも実写でも再現できない独特の温かさが生まれている。
舞台となる街の雰囲気や小物類はバートンの幼少期の時勢……50〜60年代をイメージしており、細部まで精巧に作り込まれ、観ている側にこれがミニチュアの世界であることを忘れさせる。「パソコン」という言葉も登場するので時代としては現代なのだろうが、そこは時代や世界を超えるバートン・ワールド。そのアンバランスさが独特の空気感を作り、バートンの作り出す世界は“何処でもない此処”になる。
原作と同じく、2010年代に敢えて採用されたモノクロフィルターに隠された、実在する世界の色彩は、むしろ通常のカラー映像よりも鮮やかに世界を魅せてくれる。
白黒の世界でのコントラストを表現する為、キャラクターの肌の色や、小物類、衣服に至るまで、本来意図した実在の彩色とはカラーリングを変えている部分が多くあると言う。
そうすることで、モノクロ映像に落とし込んだ際にハッキリとしたコントラストがつき、観ている側の想像力でその本当の色彩が浮かび上がる。ただ単純にカラー映像をモノクロ化したわけではなく、“モノクロで撮られる前提の世界”を創り上げたのはさすがのバートンである。
バートン作品の特徴と言えば、少し燻んだダークな色調の世界観を想起する人も多いだろう。『スウィーニー・トッド フリート街の悪魔の理髪師』でも、仕上がりの灰色がかった世界で鮮血の紅を映えさせるために、撮影時には敢えてオレンジ色の不自然な血糊を用いたという話が残っている。恐らくそれはバートン自身が優れた色彩感覚を持っていながら、それを敢えて濁らせることで、その世界に精神的な陰影をつけているというだろう。極端に色の限られた世界に落とし込むことで、逆説的にそうしたバートンの色彩感覚の鮮やかさが理解しやすくなっており、そうしたこれまでの作品群での経験は、今作での色彩表現でより磨かれることになる。

幼き日の憧れをカメラに戻したモノクロ表現への憧れ
そもそも1984年の原作からして、時代を考えれば明らかにそのモノクロ表現は意図して選択されたものであり、そこにはバートンが幼少期に観てきた30〜40年代のホラー映画への憧れが強く表れていた。今作及び原作が『フランケンシュタイン』(メアリー・シェリー著)に影響を受けていることはそのタイトルからも間違いなく、中でも1931年から始まったユニバーサル・ピクチャー版の映画シリーズを翻案に作られていることは想像に難くない。
スパーキーの身体に埋められ、雷が流れる特徴的なボルトはユニバーサル版フランケンシュタインの怪物の特徴であり、メイクアップ師のジャック・P・ピアースが作り上げたこの造形は長らくユニバーサルが著作権保護していたものだ。そして、当時ボリス・カーロフが演じたこの怪物は製作当初は『エド・ウッド』にもキャラクターとして登場するベラ・ルゴシが演じるはずであり、映画内ではその事実にも触れていた。
バートンにとって、今作を再びモノクロで撮るということは、若き日の作品を再び作り直すこと以上に、幼き日の憧れをもう一度自分のカメラに戻す行為でもあったのだと思う。
奇しくも2011年5月にはミシェル・アザナヴィシウス監督の『アーティスト』がモノクロ・サイレント映画として公開されて高い評価を得ており、モノクロ映画の再評価の風潮が高まっていた。今作が公開時期を延期したのには、そうした背景も関係があったのかも知れない。
物語論:「愛があれば英雄」はバートンの映画のキャッチコピーと言えるか
今回のリメイクにより、
原作の29分の物語は87分と3倍近い尺になっている。
……のだが、その原作から追加された各要素や新しいテーマが、原作の持っていたそもそものテーマと今ひとつ噛み合っていないのが問題だ。
長くはなれど、
深くはなっていない。
物語の流れそのものは原作と変わらず、受ける印象やテーマも変わっていないだけに、追加されたシーンの必要性に疑問を感じてしまうのだ。
そもそも今作のコンセプトとして掲げられた
「愛がなければ怪物、愛があれば英雄が生まれる」
というコンセプトワードからして、実はバートンの作品としてはかなり違和感がある。
ティム・バートンという監督はこれまでも、“異形の存在”を通して孤独に寄り添ってきた。あのアメコミヒーロー:バットマンを描いてすら、バートンの手に掛かれば孤独な少年の亡霊を抱え込んだ蝙蝠の化物になってしまう。
であればこそ、これまでのバートンの作品において怪物たちは“ただ断罪される立場”としては描かれてこなかった。
『バットマン』のジョーカー,
『バットマン リターンズ』のペンギン,キャットウーマン,
『シザーハンズ』のエドワード……。
彼らの生まれ持った孤独は即ち、少年時代のバートンが抱えた孤独でもあり、彼らのその異形の造形は、“社会から阻害された者たち”の象徴でもあった。
しかし、『ビッグ・フィッシュ』や『チャーリーとチョコレート工場』以降のバートンは、幼き孤独のトラウマ治療を完了してしまい、そこには“異形への共感”が失われつつあるような気がしてしまう。
例えばこれまでのバートンならば、今作においてヴィランの位置に置かれたおヒゲくんやその飼い主であるフシギちゃんは、単純に断罪されるだけのヴィランにはなり得なかった。
フシギちゃんは学校でも浮いた存在のナードであり、どちらかと言えばヴィクターと共鳴するキャラクターとして描くこともできたはずである。
演出論:子供たちの暴走とヒロイン・ヴィランに見るディズニー・フォーマット
映画オマージュに満ちた子供たちとペットの描写に愛は感じるが……
今作の後半、ラストに至るシークエンスでは、フシギちゃんを始めとする“自分たちのスパーキー”を作ろうとした子供たちがとんでもない怪物を生み出してしまう。その自業自得な展開そのものが『フランケンシュタイン』に代表されるモノクロ・B級ホラー映画のお定まりであり、更に言えば、この怪物たちのモデルが《ガメラ》や《グレムリン》だったりするのも、確かにバートンの映画愛とオマージュ精神に満ちている。
エドガーのキャラクターデザインは『ヤング・フランケンシュタイン』(1974)でのフランケンシュタイン博士の助手:イゴールや、『ノートルダムの鐘』のカジモドのようでもありながら、日本人であるならそのデザインに漫画家・水木しげる氏の描く妖怪の姿を想起する人もいるだろう。
死んだ亀のシェリーを蘇らせるトシアキは、その亀の怪物が明らかに日本人には馴染み深いあのガメラに似せたデザインであり、トシアキという名前も東宝の『ゴジラ』シリーズのオーディオコメンタリーの聞き手役としても有名な佐藤利明氏がモデルと思われるのも、日本人ならニヤリとしてしまうところだ。こうした細かいネタを拾ってくれるところにバートンの特撮オタクぶりが発揮されているし、台詞も原語ではきちんと日本語も発してくれているのは嬉しい。
ボブの改造したシーモンキーは明らかにグレムリンで(その弱点が何故か“塩”なのも皮肉が効いてる)、ナソルがミイラ男ライクな姿になってアイアンメイデンに閉じ込められてしまうのも怪奇映画趣味で微笑ましい。そんなナソルのペットのコロッサスがハムスターで、その顛末が『バンビ、ゴジラに会う』(1969)のオマージュなのはわかる人にだけわかる面白ネタだろう。
こうした小ネタの数々には、原作の成功から実写映画監督のキャリアを積み始め、そのキッカケともなった『ピーウィーの大冒険』のラストも彷彿とさせ、バートンが本当に原点に立ち返ってるのがわかり、作品史の中で観ると非常に意義深いものだ。
……とは言え、こうした映画オマージュは必ずしも映画の物語そのものの価値には直結しない。今作の核にあるのはバートン独特の“ファンタジーSF”で、確かに科学的考証などはこれまでの作品でも重要視はされてこなかった。しかし、それにしても、スパーキー以外のペットたちの復活やその怪物描写はあまりにも雑だ。
雷で命が蘇るまでは『フランケンシュタイン』の翻案としてのトンデモ科学で理解できるし、ジクルスキ先生の授業内容と繋がっているので物語としての意味がある。しかし、動物たちの怪物化は急にB級ファンタジーホラーの世界観になってしまい、授業の内容とも科学ともまったく関係なくなってしまう。こうした描写の一つ一つが、要素としてはバートン的でありながら、その芯に“異形への共感”が欠けて見え、『ダーク・シャドウ』の狼人間:キャロリンと同じように、“出しただけ”のように感じてしまうのだ。
また、『チャーリーとチョコレート工場』でも確かに子供たちの反省などは描かれず、それがチャーリーとの対比を生んではいたのだが、今作では彼らもまたチャーリーと同じく“科学を弄んだ側”で、そこに“愛がなかった”側だ。子供たちのキャラクターの名前やデザイン、復活させたペットの名前が『フランケンシュタイン』の著者メアリー・シェリーの名前や、その数々の翻案作品から取られてるだけに、その顛末はもう少し丁寧に描くべきではなかったのではないだろうか。

おヒゲくんとフシギちゃんはバートンが救うべき異形ではなかったか
そもそもおヒゲくんは、他の子供たちのクリーチャーと違い、手違いでクリーチャーと化した。にも関わらず、まるで諸悪の根源かの如くヴィラン役となり落下してきた木材に胸を貫かれて死んでしまう上、フシギちゃんからそんなおヒゲくんへの感情を表すシーンすらない。トシアキとシェリーにすらその描写があったにも関わらず、だ。
フシギちゃんのキャラクター造形もまた『ビートルジュース』のリディアや『マーズ・アタック!』のタフィのような、社会的なマジョリティからはどこか外れた存在のはずなのだが、何故か中盤ではトシアキたちに混ざってヴィクターの屋根裏に忍び込んでいる。
ヒロインであるエルザも叔父であるブルゲマイスター町長に抑え付けられたキャラクターで、この二人のキャラクター造形は明らかに似通ってしまっているのだ。
原作において幼き日のフランシス・フォード・コッポラの娘:ソフィア・コッポラが演じたチェンバース氏の娘の役柄を二人に分けたのだろうが、結果として二人のキャラクターは薄まり、両者共に物語においての存在意義を失ってしまったように感じる。原作でのチェンバース氏の娘も、演じたソフィア・コッポラの存在があるため目立ってはいたが、キャラクターとしてフィーチャーする意味はなく、それをわざわざヒロインとヴィランに分けて設定したのも疑問だ。
あくまで邪推になってしまうのだが、今作でのリメイクの追加要素に関しては、本当に
“バートンが望んだ改変”
だったのか
“ディズニーが求めた物語フォーマット”
だったのかは余計な勘ぐりをしてしまう。
『アリス・イン・ワンダーランド』でのラストの対:ジャバウォッキー戦や、
その後の『ダンボ』のヴィラン:ヴァンデヴァーなどの存在も考えると、
今作のおヒゲくんも、ラストのバトル展開のためにディズニー側から提示された要素のようにも見えてしまう。
ヒロインの存在、ラストのバトルなど、“ディズニーの王道映画”の型に無理やり原作をはめていると考えても考え過ぎではないだろう。勿論これまでのバートン映画にも、ヒロインがいたりラストがバトルのものも沢山あるが、『フランケンウィニー』の物語はどちらかと言えば『エド・ウッド』や『ビッグ・フィッシュ』のような、至極個人的な物語として描くべきだったように思う。
そう邪推してしまうと、子供たちの暴走も『チャーリーとチョコレート工場』の再演にしか見えなくなる。
リメイク比較:1984年版と2012年版比較〜スパーキーは主人公でなくなった
Disney+で観られる今作のメイキング映像の中でバートンは、「スパーキーの出番を増やしたい」と語っていたが、結果的に増えた尺のほとんどは追加要素に使われ、スパーキーの描写にはほとんど変化がないのも問題だ。
原作ではスパーキー目線のPOV表現がいくつかのシーンで用いられ、それが観ている側にスパーキーの心情を説明する良い効果になっていた。それは勿論今作でも用いられているのだが、実はその回数が尺が1/3だった原作より減ってしまっているのだ。
勿論回数の問題ではなく、大切なのは演出的効果なのだが、例えば復活してからのスパーキーがおヒゲくんと追いかけっこをするシークエンスなど、街の人とのすれ違いも描かれる場面なだけにここでこそ使うべきだっただろう。
原作では、生前と死後で二回のPOV表現を入れ、復活したスパーキーが間違いなくスパーキーのままであることを証明するような演出だったのだが……。
スパーキーの描写で今作で新たに加わったものとしては、身体の継ぎ目からハエが湧いてくるシーン。あれにはバートンらしい悪趣味ギリギリの面白さがあって見事だ。原作から28年、沢山の死者の世界を撮ってきた経験が活きているのだと思う。
また、ヴィクターの家から逃げ出したスパーキーが車に怯える描写や、鏡に映るツギハギだらけの自分の姿に驚愕するシーンも、スパーキーの心理描写として素晴らしいのだが……増えた描写と言えばその程度だ。
原作は完全に実写だったので、犬は意図した通りに動いてくれずにテイクを重ねるのも大変だったとは思う。しかし、今作に関してはストップモーションで、スパーキーにも自由に演出をつけられる良い機会だったはずだ。その割に、肝心のスパーキーよりも物語の本軸に絡みの薄い子供たちの描写が増えてしまっているのは、どうにも腑に落ちない。
ラスト、街の人々にスパーキーが追われるシークエンスも、原作ではその街の人に見つかってスパーキーが暴れてしまうまでの流れがスムーズだったのだが、今作では街中で子供たちの怪物が暴れてしまい、それを退治した後に現れたスパーキーが何故かすべての元凶扱いになるという、まったく意味の繋がらないシークエンスになっている。終盤で急にヴィラン側の知性が下がるのはディズニー映画らしいと言えばらしいのだが……。
キャラクター論:幼年期の憧れから幼年期そのものにリメイクされたヴィクター
今作が原作版と何よりも違うのは、
原作は“スパーキーの物語”であり、
リメイク版は“ヴィクターの物語”である点だ。
バートンは今作製作時のインタビューで「自分の家庭はヴィクターの家庭のように温かな家庭ではなかった」という旨を語っており、原作版での家庭像はある種の憧れの幻像であったようにも思う。
冒頭、スパーキーと共に8ミリフィルムで映画を撮る姿はバートン自身の経験に基づいているようだが、実際にはそれを両親に見せることはなかったのだろう。
ただ、近所の友人を招き、ただひたすらその映画を褒める原作版と違い、学校にそこまで親しい友人もなく、そんな映画を撮るヴィクターに対して不安気な両親の姿は、今作がよりバートンの個人的な物語に肉薄したということでもある。同時に、“ディズニーの子供向け作品”のフォーマットに完全に則って作ろうとした在籍時の1984年と違い、バートンが自身の作家性を出すことがある程度許される外部監督として登用された証左でもあるのだろう。
スパーキーの死の原因がヴィクターの放つホームランであり、その野球に連れ出したのが父エドワードであるという点も、バートンの父が元スポーツ選手であったことと、それが内向的で芸術志向のバートンとは性格的に合わなかったというエピソードに起因している。
ヴィクターというキャラクターは、バートン自身の子供時代のトラウマそのものであり、スパーキーとの別れについても、幼い頃の飼い犬の死が根底にはある。
「子供にとってペットとの最初の関係は最初の愛の体験なんだ。そして……人間より寿命が短いから、初めてのピュアな絆だけでなく、初めての永遠の別れも経験することになる……」とインタビューでも語る通り、この物語はバートン自身の幼少期の悲しみを描くための物語であったはずなのだ。
原作では天真爛漫な子供らしい性格だったヴィクターが、よりバートンの映画の主人公らしいキャラクターに設定された分、スパーキーの異形性に自身の表像を重ねる必要はなくなったのだと思う。
しかし、その一方で、バートン自身の創作性においても、既にヴィクターに自身の幼少期を重ねる必要はなくなっていたのではないだろうか。

作家論:バートンの目線は傷ついた子供から親の目線に変わりつつある
ヴィクターの学校の理科教師であるジクルスキ先生は、本来なら物語の新しいテーマを最も体現する存在だったはずだ。モデルとなったのは恐らくヴィンセント・プライス。戦後を代表するホラー俳優であり、バートンにとっては憧れの存在の一人で、彼の遺作となったバートン監督作:『シザーハンズ』でも発明家の役を演じていた。今作で声を当てているのも『エド・ウッド』でベラ・ルゴシを演じたマーティン・ランドーであり、バートンにとっては非常に重要な役柄だったに違いない。
ジクルスキ先生が学校を去る際に言う「科学も愛によって成立する」という言葉は、原作から20年以上の時を経て新たに加えられたメッセージだ。
ヴィクターの蘇らせたスパーキーと、他の子供たちの蘇らせたクリーチャーたちとの大きな違いであり、コンセプトワードとも密接に繋がってくる。が、この言葉を言ったジクルスキ先生は中盤で物語から退場してしまうので、この言葉は完全に物語の中で浮いてしまっている。
ヴィクターの家庭像がよりバートンの幼少期の家庭像に近づいた以上、ジクルスキ先生の授業をキッカケにヴィクターがスパーキーの復活を試みるのは、ある種の“擬似親子”の繋がりを示すシークエンスでもあったはずだ。
しかし、実際にはそのシーンは原作と同じ単なる授業として流され、その後学校を去るまで先生とヴィクターとの会話はほぼない。化学展の試作品でボブが怪我をして学校を追われる際、保護者会で言わなくても良いことを言って自分の立場にまったく頓着がないようなマッド・サイエンティスト的な描写にはバートンの描く異形の空気感があるが、そこでもヴィクターとの絡みはないので常に物語の本筋からは外れている。
ヴィクターからの信頼は両親の口から語られるが、肝心のヴィクターと先生の心のやりとりがないのでその関係性は伝わりきらない。本当ならラストシークエンスでの子供たちの暴走の後、科学教師として何かしらの教訓を語るべきだったのだろうし、両親との関係は原作と比べやや複雑化しているものの、基本的にはフランケンシュタイン家の関係は悪くないため、何とも中途半端なイメージになる。
これにはやはり、バートン自身がもう、両親への複雑な心境を描き切り、『ビッグ・フィッシュ』や『チャーリーとチョコレート工場』で和解の物語を描いてしまった後だからというのが何よりの理由ではないだろうか。
「パパの仕事は真ん中を探すことだよ」という父の言葉や、ラストにスパーキーを蘇らせるシークエンスでの、
「あきらめろって言ったよ」
「大人時々おかしなことを言うんだ」
というやり取りは原作にはない2012年のバートンだから描けた台詞だ。
バートンの視点はすでにヴィクターでもスパーキーでもなく、親であるエドワードの側に移っている。こうした描写からは、それを改めて思い知らされてしまい、それが今作にどこかテーマがぼやけているような印象を与えてしまう。
総括:ティム・バートンが幼年期の傷ついた少年に別れを告げた作品
1984年の原作はまさにバートンの創作の“雛形”であり、誰もが見たことのあるバートン作品の、その源流が色濃く現れていた。しかし今作では原作の単純で真っ直ぐな物語を複雑化した結果、物語はただ寄り道を繰り返しただけに感じてしまう。原作で既に描き切った物語に、今バートンが新たに描きたかったものは、本当にあったのだろうか。
脚本の問題やディズニーとの製作体制も影響しているとは思うが、この迷走期の作品群を観ると、バートン自身が“求められる自分”と“変化していく自分”の間で揺れていた時期でもあったのではないかと思う。
同時に、バートン自身がこれまで描いてきた“異形”を見つめ直し、そこにどんな感情が乗るのかを試しながら、自身の変化をゆっくりと受け入れるためにも、これらの作品群は間違いなく必要だったのではないかとも思うのだ。
だからこそ、その時期の最終作となる今作が自身の初実写映画監督作品のリメイクであり、現在のキャリアのキッカケとなった作品を通して、自身の幼少期に今一度向き合うことが、バートンの創作においては非常に大きな意味を持っていたのではないだろうか。
実際、今作のヴィクターは原作のように、スパーキーを無邪気に生き返らせようと言うよりも、ラストのシークエンスではその死を受け入れているような描写もある。ある意味で今作は、バートンが自身の表像を通して、幼い日の自分に別れを告げた作品とも言えるのかも知れない。
そうしてこの迷走期をバートンが抜けるためにも、次作では現実の物語……実在の人間と、アートの関係を、親子のテーマに密接に絡めて描いた『ビッグ・アイズ』が必要だったのだ。
⭐ 2.5 / 5.0
📅 2025/07/03(Disney+)
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