ティム・バートン全作品レビュー19
――芸術家であり,母親である彼女の二つの宝物……それは誰にも奪えず,誰にも汚せない
この作品はどんな作品?
70年代のアート界を震撼させたゴーストペインター事件の中心にいたマーガレット・キーンの伝記映画。
自身も父となったバートンがマーガレットの人生を通して芸術家と親の目線を統合するキッカケとなった作品であり、全ての芸術家への讃歌と“持たざる者”の哀しみへの共感も見え隠れする、バートン創作の転換点となる傑作。
この作品はどんな人にオススメ?
芸術と商売という両極な要素に関して苦しみを感じる創作を志す人。
子を持つ親としての、守るべきものを持っている人。
プライドを維持するための嘘や虚飾に雁字搦めになってしまっている人。
作品データ
原題:Big Eyes
監督:ティム・バートン
脚本:スコット・アレクサンダー
ラリー・カラゼウスキー
音楽:ダニー・エルフマン
撮影:ブリュノ・デルボネル
上映時間:106分
出演者:
マーガレット・キーン:エイミー・アダムス
ウォルター・キーン:クリストフ・ヴァルツ
ジェーン(幼少期):デラニー・レイ
ジェーン(10代):マデリン・アーサー
ディック・ノーラン:ダニー・ヒューストン
ディーアン:クリステン・リッター
ルーベン:ジェイソン・シュワルツマン
ジョン・キャナデイ:テレンス・スタンプ
エンリコ・バンドゥッチ:ジョン・ポリト
判事:ジェームズ・サイトウ
※本レビューにはネタバレを含みます。
総文字数:10157文字
読み終わるまでの時間:約25分
製作背景:キーン愛好家として作品の再評価を願っていたバートン
ティム・バートン監督による、実在の画家:マーガレット・キーンとその夫:ウォルター・キーンについての伝記映画。
–私はキーンの絵を素晴らしいと思う。
万人に愛されるのは魅力があるからだ。
by アンディ・ウォーホル-
《ビッグアイズ》(=大きな目の子ども)の絵を、ある一定の年齢層の人間なら一度は見たことがあるだろう。同時代のアンディ・ウォーホルと並び、“消費されるポップ・アート”の代表例ともなったその作品群は、絵画そのものよりむしろポストカードやカレンダーなどでその存在を知ったという人も多いはずだ。
マーガレット・キーン……いや当時はウォルター・キーンの絵として売られていたそれらのアートは国際連合児童基金(ユニセフ)にも寄贈され、作者のキーンは60年代の“最も成功した画家”の一人とまで称された。それが一転……1970年のラジオでの告発に連なる裁判の中で、その絵は20世紀のアート界を揺るがす“ゴーストペインター事件”の中心に置かれることになる。
脚本を務めたスコット・アレクサンダーとラリー・カラゼウスキーにより企画された今作は、元々は二人が監督も兼任で映画化される予定だったが、キャスティングが難航し数年の間、企画は宙に浮いていた。そんな中、本来製作として参加するはずだったバートンが監督に手を挙げたことで、今作はようやく本格的に動き出す。
子供時代からキーンのブームを体感し、 2000年には当時のパートナーであったリサ・マリーと愛犬の肖像画を依頼したほど彼女の絵の愛好家でもあったバートンは、事件後にマーガレットの絵が正当に評価されにくくなったことを苦々しく思っていたと言う。事あるごとにその作品への愛を表明していた彼にとって、今作を自ら監督するのは願ってもないことだっただろう。
奇しくも日本では今作公開一年前、あの有名な佐村河内守のゴーストライター事件が起こっており、そうした意味でもこのテーマを受け入れやすい土壌が出来上がっていたと言える。
今作は実在の人物の伝記であり、その映像や物語に対し「バートンらしくない」という評も見かける。
しかし、バートンの描く“異形”とはそんな形式的なものではない。自らの芸術に真摯な、内向的で世間から隔絶されたマーガレット・キーンという女性。今作を観れば、その姿がまさにバートン作品の異形に連なる存在であることがわかるはずだ。
今作はバートンが影響を受けた芸術家の人生を通し、再び自身の創作の意義を見出した作品であり、フィルモグラフィ全体の中でも非常に大きな意味を持つ傑作と言えるだろう。
映像論:明るい太陽は現実の女性を囲む檻でもあった
映像面には確かにバートン特有の薄暗さや、霧がかったようなトーンはない。しかし、『ビッグ・フィッシュ』にも通ずる、観ている観客と地続きな世界を描く明るいライティングこそが、実は今作の持つ圧倒的な閉塞感を表しているのではないだろうか。
キーンの絵(ここでは敢えてマーガレットの絵ではなく、「キーンの絵」と表記する)がポップカルチャーの中心にあった60年代は、公民権運動による人種差別への意識の変化や、ウーマン・リブによる第2波フェミニズムなど、保守的なアメリカが少しずつ変化していった時代だ。しかし、そうした運動が起こるということは、裏を返せばその“必要性があった”時代だったとも言える。
振り返れば歴史は動いていたかも知れないが、渦中の一般層にとって意識改革はまだ机上のものであり、彼らの生活にその変化の影響は及んでいなかっただろう。
「この時代は男性優位だった」
「女性は仕事がなければ離婚しなかった」
そう語られる現実が、マーガレットを取り囲んでいた世界だ。
北カリフォルニアの横暴な前夫:フランクの家から逃げ出した日の空、
“自由の国・サンフランシスコ”で友人:ディーアンと再会した日の空、
休日のフリーマーケットが開かれる公園で、未来の夫:ウォルターと出会った日の空、
幸せの絶頂の中、そんなウォルターと家族になったハワイの空……
その景色は広大に開けて常に明るく、気持ちのいい太陽が輝いていた。
この社会には人の想いなど関係なく日が巡る。搾取され続ける芸術家にも、娘と共に何も持たず車を走らせる母親にも。そんなことは気にも留めず、光は平等に降り注ぐ。
物語が進むにつれ暗くなるマーガレットの表情を置き去りに、やはり世界は明るいままだ。
空虚な成功の先にあった豪邸の屋外プール、
楽園を求めて逃げ込んだホノルルの家、
長い裁判の果てに手に入れた勝訴を掲げた裁判所の入り口……
そこにもやはり、いつも変わらぬ光が満ちていた。
バートンのこれまでの作品は、二つの異なる世界を描く際、登場人物の心情や環境に合わせるように、そのライティングやカラーリングを大きく変化させてきた。それが今作では、マーガレットの状況に関係なく、太陽はいつでも無遠慮で不躾な光を放つ。
そんな変わらない、その現実そのものが、当時を生きた女性の“檻”でもあったのではないか。
キャラクター考①:マーガレットという一人の芸術家を描くということ
バートンの描くフェミニズム/差別や障碍への無理解という理解
マーガレット・キーンの伝記を描くにあたり、男性優位社会やフェミニズムについて語らないわけにはいかないだろう。
これまでにもバートンは、『バットマン リターンズ』や『ダーク・シャドウ』の物語の中に、フェミニズムのモチーフを織り込んできた。しかし同時に、彼自身が男性であり、それを語る立場にないこともまた、誰より理解した上でそこに触れてきたようにも思う。
バートンはテーマに寄り添いながらも、過剰に理解を示そうとはしない。性差別、人種差別、障碍者差別……これまで多くの差別を物語に含ませながら、それを全面に押し出した表現や、差別される側への“理解したフリ”すら自身の作品に許してこなかった。
それは彼自身が世間に交じり合えない異形の自認があり、バートンはそこから生じる孤独によって彼らに共感を示してきたからで、“理解されないこと”への理解こそ、バートンが異形を描く何よりの理由だからだ。
今作でもバートンはマーガレットに対し、“搾取される芸術家”としての共感と、自身の傷を重ねてカメラを向ける。
そこにマーガレット役のエイミー・アダムスが女性としての共感を乗せて演技をすることで、今作はバートン監督作としても、一人の女性を描く伝記としても重要な意味を成すようになるのだ。
名も無き芸術家への搾取と女性の生きづらさ
作中のマーガレットは、決して“弱い女性”としては描かれていない。むしろバートンは、彼女がそう見えてしまうことだけは絶対に避けるように、一つ一つの描写に気を配っているように感じる。
彼女は世間知らずで働いた経験もなく、エスプレッソの存在すら知らなかったが、それはこの時代の女性像であると同時に、芸術家としての純粋さ故だ。
ウォルターと出会うシークエンスで繰り広げられるのは、まさに名もなき芸術家の誰もが感じたことのある屈辱ではないだろうか。
彼女がそこで描く似顔絵は、今作の中心となるビッグ・アイズに他ならない。しかし、それは特別価格と提示した2$すら値切られ、マーガレットは1$で絵を描かされる。これは女性差別である前に、買い叩きによる芸術家への差別だ。
芸術とは形がなく、そこに費やした時間や労力への対価がつきにくい。だからこそ安売りも出来てしまうし、逆にどんな高値でも売れることもある。
同じことは中盤の展覧会の場面にも言える。このシークエンスでマーガレットはウォルターの……いや実際にはマーガレットの描いたビッグ・アイズの脇にひっそりと、“彼女名義の”作品を展示する。
本来なら、それは同じように評価されて然るべきものだ。同じ作者が、別のタッチで描いたというだけなのだから。しかし、やっとの思いで自分の名義を手に入れた彼女に向けられるのは、男性からの性的な目線であり、作品について語る自由さえウォルターに奪われてしまう。
マーガレットが1$で絵を描く横で、ウォルターは口八丁で自身の絵を売ろうとしており、そんな二人の出会いが、そのままその後の彼らの関係性にも繋がっていく。
確かに、キーンの絵はマーガレットの力だけでは売れなかっただろう。
裁判でマーガレットも認めた通り、販売と宣伝にかけてウォルターは天才的な手腕を持っていた。どんな嘘でも真実にし、彼は魅力を“生み出す”ことが出来た。
高値の絵画が売れないならば、チラシやポストカードに印刷したものを大量に売れば良い。これは、芸術家からは決して出てこない発想だ。
そして、残念ながらそうした安売りこそがキーンの絵がポップカルチャーの中心となった要因の一つであり、「人は心に従い絵を買う」と言ったマーガレットを蔑んだウォルターの考え方は、残念ながら必ずしもすべてが間違っていたわけではないのだ。
絵描きとしての共感と純粋さ故のグルーミング
マーガレットは、あまりにも芸術に対して純粋過ぎた。口下手で芸術家気質なマーガレットの姿は、そのまま若き日のバートン自身にも重なる。
家具の製造業職の面接に自身の描いた絵を持ち込み、「少なくとも絵は描けます」と答えることも、ディーアンがウォルターに対しての不信を口にする際に「彼は救いの主だ」ということも。
そこにはこの60年代の女性の生きにくさが反映されているが、同時にマーガレットのウォルターへの信頼が、同じ絵描きとしての共感故であることも強く描かれる。
初対面でウォルターの告げた「そんな値で売って良い絵じゃない」という言葉は、彼女にとって何よりの救いだった。
彼女がグルーミングされ、“共犯者”という言葉に騙され続けたのも、この始まりがあったからなのだろう。
同じ絵描き(と信じた人間)に認められ、そんな彼に“チーム”と言われ続けたこと。
一番の理解者が、一番の搾取者であったというあまりにも残酷な事実。そこには、アートの現場において、バートン自身が見たり、経験した痛みも含まれているのではないだろうか。
二人の実際の出会いとは違ってはいるのだろうが、自身の価値を認められず、そのことに反論もできない彼女にとって、この出会いがどれほど大きかったのかは想像に難くない。
中盤、マーガレットが完全にウォルターへの愛情を失い、寝室を共にすることさえ拒否したのは、彼が描いたと語る風景画すら彼の物ではないと知った瞬間だった。
このシーンには、バートンの芸術家としての深い洞察と共感、そしてどうしようもない苛立ちの感情が感じられるのだ。
キャラクター考②:ウォルターという“持たざる者”への共感
虚飾に塗れた,芸術家に憧れた男の成れの果て
しかし一方でバートンは、今作で敬愛するマーガレットの人生を主体に描きながら、彼女を苦しめたウォルターという加害者についても同情と共感のカメラを向けている。むしろ、これまでの作品に登場してきた異形のキャラクターにより近いのはウォルターの方と言えるのかも知れない。
ウォルターは“何者にもなれなかった自分”に狂い続けた人物だ。バートンはそんなウォルターについても、単純なヴィランとして断罪することはしない。
序盤でのウォルターは自身が不動産業を営んでいることを隠し、同じ絵描きとしてマーガレットに近づく。デートも共にスケッチという絵描きらしいデートだ。
真っ白なキャンバスをジェーンに指摘され、飄々と「模索中でね」と返すが、マーガレットとジェーンが目を逸らしたタイミングで、ほんの僅かに顔を歪めてジェーンを睨みつける。
この数秒の表情にクリストフ・ヴァルツの演技が光っており、そこには、ウォルターという虚飾にまみれた男の複雑なコンプレックスが見え隠れする。
ウォルターの言葉にも、経歴にもほとんど真実はなかった。彼にはしかし、歪な劣等感をこじらせた自己顕示欲だけは人一倍に強くあり、それは自らの(マーガレットの)絵が売れるほどに彼を蝕んでいったのだと思う。
マーガレットにプロポーズした際、彼の目は一枚のビッグ・アイズに吸い寄せられ、その瞳から逃げるように顔を背けていた。まだキーンの絵は売れておらず、ただただ、絵描きになれなかった自分を誤魔化してマーガレットに近づいた頃。
この時からずっと、ウォルター自身もビッグ・アイズに囚われていたのだ。
土俵にすら立てぬまま膨らみ続けた芸術への偏愛
ウォルターは初めてマーガレットの絵を画廊に持ち込んだ際、その絵をきちんと妻の絵と語り、それが「イラストの通信教育で入賞するレベル」と否定された際には、「人に愛される絵だ!」と憤慨してもいた。
始まりは本当に、マーガレットの絵に対して純粋な評価を求めてのことだったのかも知れない。
ウォルターには間違いなく良い絵を見極める審美眼も、芸術に対するプライドもあった。けれど彼は、自らが愛した芸術には愛されず、その愛はどんどん歪んだものに変わっていった。
自分の絵をマーガレットの物と比べるどころか、彼には一枚の絵すらない。
画廊に売り込み否定された絵も、クラブのトイレの前で誰にも見られることのない絵も……それは彼の筆から生まれたものではない。
マーガレットと比べて劣等感を感じる土俵にすら立つことが叶わないまま、ウォルターはその持たざる者の劣等感を刺激され、少しずつ壊れていったのだろう。
演出論:裏『エド・ウッド』〜芸術に愛されず狂った失敗者として
才能はなくとも輝きを求めたエド・ウッド/才能を騙り輝きを偽ったウォルター
現実でのウォルターはマーガレットから絵のトレーニングを受け、ビッグ・アイズを自ら描こうと試みたこともあるそうだが、今作劇中での彼はただの一枚の絵も仕上げることが出来ない。
自分の中での真実が曖昧になり、「絵を描けない者が批評家になる」と叫び批評家に襲い掛かったウォルターの目の前には、どんな世界が広がっていたのだろうか。これも映画として誇張された表現ということだが、バートンはこのシークエンスを通して、ウォルターの何を描きたかったのか。
彼の怒りは何処から来たもので、傷つけられたプライドの根底には何があったのか。裁判ドラマ『ペリーメイスン』を見つめる目など、合間合間に挿入されるカットに、バートンからウォルターへの憐れみと同情を、どうしても感じずにはいられないのだ。
このウォルターの描写には、かつて今作脚本のスコット・アレクサンダー&ラリー・カラゼウスキーのコンビと製作した、『エド・ウッド』に通ずるものを感じざるを得ない。
エド・ウッドには、映画の才能はなかったかも知れない。けれど彼には、それでも自分の創作を信じる強さも、情熱もあった。そしてそれに共感するたくさんの仲間たちがいた。その姿を、一番綺麗な記憶をバートンは映画にしている。
ウォルターは、そんなエド・ウッドと真逆の道を走っていく。絵の才能はなかった、けれど燻った情熱と嫉妬の気持ちは誰よりも強く、それ故手にした成功に溺れていった。その虚栄心がマーガレットを裏切り、搾取することで空虚な心は一瞬でも満たされていたのだろう。
豪奢な展覧会やパーティで張り付いた笑顔で来賓と手を握り合い、マーガレットの去った家には女性を呼び描いてもいない絵の自慢話を語り続ける。
「人生は模倣アートだ」と嘯く彼は、結果として誰より孤独でもあったのだ。
新聞社と共に裁判に挑み、その後ろ盾があると信じていたはずが、新聞社は自分たちの側の裁判を終えるとさっさと引き上げてしまう。
彼には人を惹きつける力があったが、それはその瞬間だけのこと。実際は彼の周りには誰もいなかった。本当の意味では彼を守ろうとする者も、彼を愛した友人もいなかったのではないだろうか。

滑稽で愚かな裁判エピソードは実話よりも控えめ
終盤の軸となる告発から裁判までの流れは事実とは異なり、複数のエピソードを1つの訴訟劇としてまとめて描かれている。実際には1970年のラジオでの告発から最初の裁判までは10年以上の歳月を費やしており、ラジオ告発もサンフランシスコ在住時のことである。
ただし、劇中裁判で描かれたほとんどのエピソードは1986年のホノルルの米連邦地裁のものだ。
ウォルターが行った一人芝居……弁護士と証人の一人二役も、裁判にまったく関係のない有名人との関係を語り続けて判事に止められる姿も、物語的な脚色ではなくすべて事実であり、裁判記録と比べるとむしろ映画の描写は事実より抑え目であるとすら語られている。
新聞社との裁判中のやり取りや、弁護士を立てなかったことに現実どのような意図があったかはわからないが、こうしたエピソードを畳みかけることで、ウォルターの孤独と精神の崩壊の様も描こうとしたのではないだろうか。
今作は、裏:『エド・ウッド』と見ることも出来る。
エド・ウッドの目には、現実を捻じ曲げるほどにキラキラと美しい映画の世界が見えていた。
ウォルターの目にも、彼の信じた“画家:ウォルター・キーンの世界”が見えていたのかも知れない。裁判での滑稽な姿も含め、彼には人を惹きつける“何か”があり、どこかエド・ウッドに通ずる人たらしな一面があったのだろう。
ただそんな中で、ウォルターが絵のインスピレーションの根源として語った、“戦後の混乱の中で見た子供たちの姿”。このエピソードだけは、彼の中にあった唯一の真実だったのではないだろうか。
御涙頂戴で、よくある作り話の、ウォルターの虚偽の一部でしかなかったと一蹴することは簡単だ。しかし、このエピソードはNY万博での『Tomorrow Forever』やTVインタビューのシークエンス以外に、日常でマーガレットと話すシーンでも度々ウォルターの口から語られていた。
9割の嘘に紛れた1割の真実……それがあったからこそ、彼の物語は“真実”として昇華されてしまったのかも知れない。
物語論:男性優位社会の被害者としてだけの描写に終わらない人生の物語
「彼女の2つの宝物-それは娘と絵だ」
今作の物語は、必ずしもマーガレットを“男性優位社会の被害者”として描くのではなく、“芸術に真摯すぎたアーティスト”として、そして同時に、誰よりも娘を愛する一人の母親として、自分自身と重ねながら撮ることをバートンは選んだ。
映画のラストに語られる「彼女の2つの宝物-それは娘と絵だ」というのはある意味でその宣言のようなものだったのだと思う。
マーガレットがウォルターの支配から逃れられなかったのは、彼女が弱い人間だったからではない。女性が働くのすら困難だった時代に彼女がウォルターとの生活を守ろうとした最大の理由は、一人娘であるジェーンの存在だ。
どんなに信用が崩れても、友人であるディーアンとすら引き離されても、マーガレットはジェーンのためにウォルターと暮らし続けた。
いよいよマーガレットがウォルターの家を飛び出したのは、彼の狂気と暴力がジェーンにまで牙を剥いたからだ。
ホノルルに逃げてまで彼女がビッグ・アイズを描き続けたのは、そこでのジェーンとの生活を守らなければならなかったからだ。
ゴーストペインターとして絵を描くたびに、自身の芸術と、ジェーンの信頼を裏切っていることに苦悩した。
中盤、マーガレットは教会の告解室で娘を裏切っていることを告白する。「夫に無理強いされ、初めて娘を騙した」と。
しかし、この告白は司祭によって肯定されてしまう。キリスト教……とりわけカトリックには男尊女卑の一面がある。娘がその嘘で傷つかないのなら、ウォルターの嘘は肯定するべきである、と。こうしてマーガレットは、宗教にさえ自身の芸術と娘への裏切りを肯定されてしまうのだ。
このエピソードがあることで、終盤にマーガレットが《エホバの証人》へと入信する流れにも説得力が生まれる。
エホバのエピソードはマーガレット・キーンにとって事実ベースの物語ではあるが、映画としては宗教についての描写は表現し難い面もあっただろう。それを、こうしてジェーンへの嘘と合わせてカトリックへの不信を先に描くことで、物語やテーマをぶらさずに繋げたのは良い演出だったように思う。
マーガレットは二つの大切なものを裏切った後ろめたさに苦しんだ
「あの絵は私の分身、子供を失うようでした」
芸術家にとって作品は子供と同じだとよく言われる。バートンは、今作でマーガレットの目を通すことで、ようやくそれを実感することができたのではないだろうか。
だからこそ、初めて「絵が売れたぞ」とウォルターが告げた時の喜びの表情も、そんな絵を運んだ際に、ウォルターが自分を作者と偽る姿を見たときの表情にも重みがある。
マーガレットは今作で、愛した二つのものを同時に裏切ってしまったことになり、それに対してウォルターは「共犯だ」と脅し続けた。
それが彼女を延々と苦しめることになったのだろう。
“自分の分身”と語る絵が安売りされ、消費され、その“共犯者”とまで言われても彼女は何も言えない。それは彼女自身の問題だけではなく、自身の大切にしたものすべてを裏切ってしまった後ろめたさからだ。
だからこそ、ジェーンがアトリエに入り、ビッグ・アイズの秘密を知ったことで、この嘘の物語は終焉へと向かい始めるのである。
作家論:バートンはマーガレットの目で芸術家であり親である自分を見た
この物語は裏:『エド・ウッド』であると同時に、裏:『ビッグ・フィッシュ』でもある。
映画のトーンが同じように“現実の世界”を描いたものであることもそうだが、タイトルが同じ【ビッグ】から始まるというところにも、なんだか偶然とは言い難いものが感じられる。
“嘘を真実にした虚構の物語”:『ビッグ・フィッシュ』と
“真実を嘘にした史実の物語”:『ビッグ・アイズ』。
物語はジェーンの存在を、“守らねばならない枷”として描くこともしない。
劇中マーガレットが何かを決断する時、その傍らには常に娘のジェーンがいた。
最初の夫から逃げ出したとき、彼女は車を走らせながら、後ろに乗る娘の手を握る。同じように、ウォルターから逃げ出す時も、彼女はジェーンの手を握った。彼女にとっては常に、娘の存在が支えだ。訴訟を決意するのもジェーンの一言があったからこそだ。
ジェーンにとってのマーガレットは、必ずしも完璧な親ではなかっただろう。それでも、ジェーンは決してその手を離さなかった。
マーガレットにとってジェーンは、守るべき存在であり、何よりも力をくれる存在でもあるのだ。
バートンはこれまで……少なくとも『ビッグ・フィッシュ』を作るまでの間、親を、“子を傷つける者”“子から何かを奪う者”として定義づけて作品を表現してきた。しかし、自分自身が親の目線に立ったことで、自分自身が親になったことで、“傷ついた者”も親になり、親も“傷ついた者”になるという事実をようやく飲み込むことができたのではないだろうか。
そうしてようやく、作品作りをする芸術家である自身と、子を持つ父親である自身が繋がった。今作のマーガレットという、芸術家であり親である存在を通すことで、バートンはようやくそれを自身の中に落とし込むことができたのだろう。
実際の裁判で行われたのが信じられないほどに見事な大岡捌きである《1時間ペイントオフ》。
マーガレットは53分で絵を描き上げ、ウォルターは肩の痛みを理由に、絵を描くことさえしなかった。芸術が嘘に勝った瞬間、芸術に愛されなかった男が自らの嘘にすら見放された瞬間……バートンはこの裁判の記録に、アートへの希望を見出した。だからこそ、今作のラストはこのシーンでなければならなかったのだろうし、ここに繋がるシーンでも、マーガレットはやはり、ジェーンの手を握る。
ウォルターとて、絵の地盤がない人間ではなかった。何か少しでも描こうとしていれば、彼自身の主張にも僅かにスジは通っただろう。それすら出来なかったからこそ、彼は“何者にもなれなかった”。
自らをビッグ・アイズの作者だと主張し続け、無一文に死んでいったウォルター……その顛末が、エンドロールで敢えてマーガレットより先に語られたのは、バートンがウォルターへの同情を捨て切れなかったからなのかも知れない。
裁判のシークエンスのベンチに、マーガレット・キーン本人がカメオ出演しているのはバートンのささやかな優しさだ。本人に、外側からあの日々を見せようとしたのだと思う。
エンドロールでの、キーン本人と、エイミー・アダムスの穏やかな笑顔のツーショットにも、バートンから芸術への強い賛歌と、今作を作り上げたことへの感謝が込められている。

総括:敬愛する芸術家の人生に触れることで,バートンの創作は次の段階へ
バートンらしくないと言われがちな本作ではあるが、それはあまりにも本質を見誤った評価だ。
今作にはバートンのアーティストとしての矜持と優しさが詰まっており、そして同時に、“傷ついた子供”であったバートンが“傷ついた親”へとその視線を移すことに、ようやく辿り着いた作品でもあるのだと思う。
ここまでの数作で、バートンは自身のこれまでの創作を振り返りながら、少しずつかつての自身の視点では物語を語れなくなっていることを自覚していったのかも知れない。
『バットマン リターンズ』で孤独の底を描き尽くし、
『スリーピー・ホロウ』で他者と手を取り合うことを学び、
『ビッグ・フィッシュ』『チャーリーとチョコレート工場』で幼年期のトラウマであった両親との関係を清算した。
その後は、『ビートルジュース』や『バットマン』で描いた傷ついた子供の表像を繰り返しながら、少しずつ大人になった自分、親である自分を受け入れてようとしていたのだと思う。
そうして今作では、彼の原点に近い場所にいる芸術家:マーガレット・キーンの人生を通し、彼自身の創作と、現在の自分自身の在り方を見つめ直し、バートンはこの先描いていくべきテーマが見つけたのではないだろうか。
だからこそ、次作『ミス・ペレグリンと奇妙なこどもたち』では再びファンタジーの世界を描く。そこには異形の子供たちを見つめる“親として”のバートンの目線と、異形の存在への祝祭にも似たメッセージが含まれているのである。
⭐ 4.0 / 5.0
📅 2025/09/23(DVD)
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