『PLANET OF THE APES/猿の惑星』(2001)ネタバレ考察レビュー|バートンは何が撮れないのか?巨大IPに飲み込まれたバートンの創作性

映画PLANET OF THE APES/猿の惑星(2001)のネタバレ感想 ティム・バートンは何故リメイクに失敗したのか?猿の惑星の問題点を深掘りレビュー

ティム・バートン全作品レビュー11

――文明とは誰がために創生されるのか?猿人の進化の先に見た人類の未来図

作品データ

原題:Planet of the Apes

監督:ティム・バートン

脚本:ウィリアム・ブロイルス・ジュニア

ローレンス・コナー

マーク・ローゼンタール

原作:ピエール・ブール『猿の惑星』

音楽:ダニー・エルフマン

撮影:フィリップ・ルースロ

上映時間:120分

出演者:

レオ・デイヴィッドソン大尉:マーク・ウォールバーグ

アリ:ヘレナ・ボナム=カーター

セード将軍:ティム・ロス

アター隊長:マイケル・クラーク・ダンカン

デイナ:エステラ・ウォーレン

カルービ:クリス・クリストファーソン

リンボー:ポール・ジアマッティ

クラル:ケイリー=ヒロユキ・タガワ

ティバル:エリック・アヴァリ

ガナー:エヴァン・デクスター・パーク

サンダー元老院議員:デビッド・ワーナー

ゼイウス(セードの父):チャールトン・ヘストン

本レビューにはネタバレを含みます。

総文字数:10610文字

読み終わるまでの時間:約27分

目次

製作背景:10年以上宙に浮き続けた『猿の惑星』新シリーズ企画

ティム・バートン監督による1968年の名作SF映画『猿の惑星』のリメイク作品。公式にはリメイクではなく、“リ・イマジネーション”作品と呼ばれており、どちらかと言えば原作であるピエール・ブールの同名小説の再映画化と考えて良い。

『猿の惑星』新シリーズの企画は既に80年代後半から動き出しており、当初はリメイクではなく1970〜1973年のシリーズに連なりつつ、5作目『最後の猿の惑星』(1973)の続編とは別の、第1作目の新・続編とすることが条件だったと言う。(この時点で音楽担当にはバートン関係なくダニー・エルフマンがキャスティングされていたとか)

その後、企画・脚本は何度も見直されながら10年以上宙に浮き、サム・ライミやオリバー・ストーン、フィリップ・ノイス、クリス・コロンバスなど……監督候補も幾度となく変わっていった。1994年頃には主演にアーノルド・シュワルツェネッガーを据えるという今思えば冗談のような企画や、ジェームズ・キャメロンやマイケル・ベイを監督起用するという話もあったというのだから驚きである。

経緯を見ているだけでもこの企画には前途多難な印象しかないが、それだけ『猿の惑星』というIPが巨大だったということでもあり、90年代の映画史バブルを感じさせるエピソードでもある。

棄却された脚本案の中には『グラディエーター』(2000)のようなものや、後の『猿の惑星:創世記』(2011)に近いものもあり、どれもきちんと作っていたら興味深いものになったとは思うのだが、結果として2000年にバートンが監督起用されるまで、製作が本格始動することはなかった。

誰もが知る名作SFの衝撃をバートンはどうアレンジしたのか

そもそも今では作品自体が有名になり過ぎ、映画を観たことがなくても「エンディングだけは知っている」という人も少なくない『猿の惑星』(1968)ではあるが、あのオチが原作小説から大きく改変されたものであることはなかなか知られていない。

(映画に関してはもはや隠す気もなくDVDソフトのジャケットが“例のラストシーン”なのは失笑ものであるが)

1968年版の物語は当時の冷戦……更にはベトナム戦争真っ只中という世情が影響しており、その結果として猿の惑星は“核戦争によって崩壊した地球だった”という衝撃的な終幕が演出された。

現実的な話として、あのエンディングはただでさえ少ない予算を猿人の特殊メイクで使い果たし、原作の世界観の再現が不可能だった為に荒廃した世界にせざるを得なかったという理由もあるらしいが、そのインパクトは半世紀以上を過ぎた2025年の現在でも超えるのは難しい。

公開年2001年には冷戦は終わり、《2000年問題》は不発、“AI社会により滅びる人類”というテーマは既に『マトリックス』(1999)が取り上げていた。そんな中で、1968年版と同じような結末を新たに演出したところで意味がないことは誰の目にも明らかだったのだろう。

しかし、『猿の惑星』をリメイク(リ・イマジネーション)するのなら、やはりエンディングに関心が向くのは観客心理としては当然のこと。それに対して今作は、より原作小説に近い形を、更に衝撃的な表現にすることで解答を出してみせたのだ。

……

で……、

だから、映画が面白くなるわけではない!

というのが今回の“オチ”なわけだが……(乾笑)

繰り返された改稿と急拵えな製作期間「続編を撮らされるくらいならビルから飛び降りた方がマシだ」

そもそも、今作はシナリオの製作過程からどうにもぎこちない。10年以上掛けてライターも次々と代わり、スタジオ側が求める要素と描きたいものとの間に相違も葛藤もあったことは理解できるのだが、今作の脚本は撮影段階でも完成形が見えておらず、「撮影している横でシナリオが刷られていた」と、冗談めかして語られるほどだった。事実、機密保持という理由でラストシーンがシナリオには書かれていなかったという話もある。

メイン脚本家であるウィリアム・ブロイルス・ジュニアが書いた初稿はバートンの監督就任時にリライト要請が出され、この時点では恐らくバートンの意匠も含んだものになるはずだったのだろうが……バートンの想定した予算規模にスタジオの承諾が得られず、その半分の予算にするためのリライトで、ローレンス・コナーとマーク・ローゼンタールが脚本に加わることになった。

そうした改稿が繰り返された結果、恐らくバートンが想定した物語からはどんどんかけ離れてしまったのだろう。撮影開始も予定より遅れた上に、洋画の大作としては異例なほどにタイトな約半年程度の製作期間で今作は仕上げられている。秘密保持までされたラストシーンについてもバートンは「意味はわからないが、続編が作りやすいようにはした」とバッサリで、まったくやる気のカケラも感じられない。

ちなみに今作の続編の製作予定を尋ねられた際には、「誓って言うが、続編を撮らされるくらいならビルから飛び降りた方がマシだ」とまで語っている。

そんな今作は『猿の惑星』“待望のリメイク作品”として、興収と比較して確かに世間的評価は大変低い。が、改めて観るとそこには確かにバートンが描こうとしたもの、これまでの作品の延長線上にあるものが見え隠れしている。

SF作品としての矛盾の数々が無視出来ない

1968年版とは《猿の惑星》成立過程そのものが違う

まず大前提として、今作のシナリオにはSF作品としての整合性が欠けている。SFやファンタジーというものは、物語の推進力で如何に矛盾や疑問を気にならなくするか、そこで上手な嘘が吐ける作品が所謂名作と呼ばれるものだと思う。

今作は、そこが圧倒的に巧くない。矛盾が気になって物語に入り込めず、没入感が削れてしまうのだ。

終盤で猿人たちの始まりの地……禁断の地:《カリマ》がレオの乗っていた宇宙ステーション《オベロン号》であり、レオがいるのは遥か数千年は未来の世界であったことが明かされる。

禁断の地:《カリマ》がボロボロの動物研究区画の残った文字から名付けられたというのは洒落た演出で、このあたりは少しワクワクさせられる。

(CAUTION:LIVE ANIMALS→CA LI MA)

設定としては1968年版に近いわけだが、ここで重要なのは、遺された船員のビデオメッセージにより、この星が「航宙図にない無人の星」だったということが明かされる点だ。

つまり、数千年前の時点ではこの星には人間も猿もおらず、現在のデイナ達人間も、セード将軍他猿人も、すべてこのオベロン号が起源ということになる。

猿人たちの言語が英語なのは、彼らの祖先が宇宙ステーションの実験動物の猿だったからで説明がつく。

だが、デイナたち人間はどうだろうか。彼らは猿に支配されてはいるが、1968年版と違い、きちんとコミュニケーション可能な言語を持ち、文化もある。自分たちが奴隷的扱いをされていることも理解しており、セード将軍の家に仕える人間たちに関しては「猿化してる」という揶揄もしている。

いや、彼らはオベロン号の生存者の子孫であるわけだから、英語は使えて当たり前だろうというのはわかるのだが……あれだけカリマを禁断の地として誰も近づけず、防衛線まで引いて守っているセモス一族……セード将軍の家系が、数千年の間人類から言葉を奪わなかったのはどうにも解せない。

数千年、いや数百年もあれば猿人が人間から言葉を奪うには十分な年月だっただろうし、猿人が人類に文化・教育を与えたままなのは不自然ではないだろうか。1968年版では人間から言葉を奪い、完全に猿と人類の立場を逆転させている設定になっており、そうした方が絶対に面倒は起こらなかったはずだ。

更に問題は、彼らの文化程度だ。

セモスたちから猿人の間の進化過程にどの程度時間がかかり、あの惑星に文明が生まれてからどの程度の歳月が経っているのかはハッキリしないのだが……猿人の進化過程と人類の退化過程のバランスが悪すぎる気がする。

どちらも、基準となる場所はオベロン号だ。人類は恐らく居住地を追われ、二度とオベロン号には近づけなかっただろうから、退化は仕方がない。2世代3世代までは宇宙船を作れる程度の知識の継承はされていただろうが、やがてそれも絶えていっただろう。

ただ、猿人にとっては、学習の基準値は常にオベロン号なのである。言語を学んでいくにも、文明を築いていくにも、猿人の最初の3〜4世代はオベロン号に残されたデータから学ぶしかなかったはず。

1968年版の猿人が人類の文化を準えたようになっているのは、あくまであの星が元々地球であり、人類の文化が残っていたからだ。

崩壊したオベロン号しかない無人の惑星で、人類の中世に近い文化圏が作られるものだろうか……アターがセモスに祈りを捧げる際に「アーメン」という台詞も言っているが、これもさすがに看過できない。オベロン号にも当然キリスト教徒もいただろうし、聖書が持ち込まれていた可能性はあるが、祈りの言葉をそのまま使うだろうか。せめて何か別の造語を作るなりなんなり出来なかったのだろうか……。

登場人物たちの言動の矛盾〜感覚派:バートンらしさとSF作品

セード将軍の一族が代々誰にも、特に人類は絶対に近づかせないよう守ってきたカリマにしても、終盤では人間たちがレオを求めてワラワラと訪れてしまうわけで、あれではあまりにもセキュリティが弱過ぎるのではないだろうか。

少なくとも中盤のアクションシーンの舞台であるあの川を挟んだ防衛線にはあの時点で既にセード将軍も控えていたわけで、あの人数が川を渡り切れたのならば、とっくに猿の軍勢を壊滅させていてもおかしくないのだ。レオの宇宙ポッドを発見しただけの部下を殺すほど用心深いセード将軍がそれを許すはずがないと思うのだが。

また、細かい点で言えば宇宙飛行士としてそれなりに優秀である(と思われる)レオが、いくらポットが水中に沈んだからとは言え、何の調査もしていない未知の惑星で宇宙服を脱ぎ捨てて外に出るのもリアリティに欠ける。

結果として酸素もあり呼吸も出来ているのだが、プロとはとても思えない不用心さである。1968年版では、同じように船が沈没寸前でありながら、きちんと外気の確認をした上で外に出ていたし、そもそも地球なので何の問題もなかったのだ、とロジックも繋がりやすいのだが、今作は地球でもないし彼らはあの星を事前に探索していたわけでもないので、あの行動は完全に“自殺行為”である。

ラストに宇宙ポッドで地球に帰還する際も、あまりにも軽装でポッドに乗り込んでしまい、2時間近く映画を観てきた身としてはもうツッコむ元気もない。

そもそも大前提、バートンはSF監督ではない。『バットマン』や企画倒れした『スーパーマン リヴス』などアメコミヒーロー映画は広義の意味ではSFと言えるかも知れないが、これ以前に撮った作品でSFと言ったらよりにもよって『マーズ・アタック!』しかなく、本格SFよりむしろ“なんちゃってSF”をファンタジーに組み込むことを得意としている作家であるのはこれまで何度も語ってきた。

バートンは『シザーハンズ』でのトム・クルーズ降板のエピソードからも分かる通り、基本的には理論より感覚派の作家だとは思うのだが、そのバートンにこの企画を任せたことがまず間違いだったという気さえしてくる。

編集は丸投げ?バートンらしかぬ映像の質感

バートンは製作過程ですっかりやる気をなくし、最終的に編集まで丸投げにしたという噂もあるほどだが、その通り全体的に映像にもバートンの匂いは薄い。

長いフィルモグラフィーの中には確かにバートンらしかぬ作品がこれ以降にもいくつかあるが、これほどまでにバートンの意匠が“脱臭”された作品は他にないだろう。筆者としてはあまり評価の高くない『アリス・イン・ワンダーランド』や『ダンボ』でも、映像の色味やデザインには消すことの出来ないバートンの“アク”があった。

確かに部分部分にバートンらしいデザインを見ることは出来て、猿人が暮らしている家屋や街にはバートンお得意のドイツ表現主義的な雰囲気があり、木々の生い茂る森の怪しげな雰囲気にもそれらしさを感じることは出来る。猿人たちが旧作と違い、馬に乗り剣を持つ中世の騎士を思わせる雰囲気なのも、文化程度の問題や馬が星に生息していることへの疑問に目をつぶればバートンらしい趣味と言えるだろう。

しかし、映像は全体的に明るく、バートンらしい色彩感覚はそこにはない。宇宙描写も宇宙船もしっかりと予算の掛かった大作SFらしい本物志向であり、『マーズ・アタック!』のようなチープさもない。

逆に今作は開始1分で「バートン、宇宙撮れたんだな!」という気持ちにはしてくれる。延いては『マーズ・アタック!』のあのチープさがわざとやっていたという確信が持てただけでもこの映画に価値はある。(←投げやり)

ただ、ここでこうした“現実的”カラーリングの映像作りをしたことで、次作『ビッグ・フィッシュ』のような、現実と幻想……バートン的世界観にハッキリとした区分けをする作品も撮れたのかも知れない。

バートンが描こうとした猿人と人間の関係性

恐らくバートンが監督を引き受けた際に頭に思い浮かべた“リ・イマジネーション”はもっと別の形だったのではないだろうか。そして、物語の中にはその片鱗がきちんと見え隠れもしている。

猿人たちと人間の関係性を通して、『シザーハンズ』や『バットマン リターンズ』で描いた“人間の善意に見せ掛けた悪意”や“無意識下の差別”をより深く表現しようとしたのだろうし、バートンならばそれをもっと深く描けたはすだとも思う。

猿人たちが人間から言葉を奪わなかった点を疑問点として挙げたが、それによって猿人たちは捕らえた人間たちを男女に分けた檻に入れ、言葉できちんとコミュニケーションを取るという描写が可能になった。それは動物的な扱いではなくむしろ“奴隷制度”を思わせる描写だ。

この世界では最初から猿人と人間の差異は“人種の違い”扱いだったということだ。それは序盤でレオが「猿は檻に入れて餌をやる」という旨を話した際に信じられないような顔をするデイナにも表れている。

今作にはヒロインにあたるキャラクターが二人いるが、劇中レオは常にアリの側に惹かれているように描かれ、デイナの存在感はほとんどない。ラストで星を去る際にもアリには自分から、デイナには受け身でキスを交わしているのだが、それでもレオはあくまでアリを“猿”として認識しており、それがレオの煮え切らない態度に繋がっている。

バートンにはラブシーンを真っ直ぐに撮れないというある種の悪癖があり、今作のデイナとアリとの三角関係という形で恋愛事情が描かれ方や、アリと話すレオを横目にむくれて輪を離れるデイナや、レオと会話して得意気なアリなどは確かに“らしくはない”のだが、そこにはこの惑星においてあくまで猿人と人類は互いに差別対象ではあるが、そういった意識が向くほどには対等な存在である、という設定も隠されている。

だからこそ、猿を“動物扱い”するレオこそがこの世界では異常であり、自分たちが宇宙ステーションで飼い慣らし、危険な任務にも平気で人間の代わりに就かせていた猿に逆襲されるという猿の惑星の在り方そのものが、バートンらしい舞台としてもう少し深掘りし、主題となるべきテーマだったのではないだろうか。

バートン映画らしかぬ、一般的なSF作品にありがちな主人公であるレオ……バートンが彼に感情移入して物語を描いていないことは見て取れるが、で、あるからこそこうした描写はより詳細に描くこともできたはずだ。

“同情”という差別を鋭く描く猿人の描写

アリを通して描かれる猿人による“人間差別”は、まさにバートンがこれまで描いてきた人間の無意識の差別を表している。

アリは“人権擁護派”で人間の知性を信じ、差別なく扱っているようだが、その実どこかで人類を“救うべき対象”として一段上から見ている様子が描かれる。

これは序盤のオベロンでの女性研究者の「恋人なんてごめんよ」と猿を愛でる姿に重なる。

デイナの父の死に対して「立派だった」と肩に手を置きながら、それに反抗されるとウキーッと猿人としての威嚇をし、その姿はまるでペットに手を噛まれたようなものだ。同時に、ここで“如何にも猿らしい威嚇”をアリにさせることで、それを観ている側が「猿じゃないか」と内心思うところまで含めて分かり合えない異形との関係、無意識下の差別に対するメッセージにも感じられる。

人権派と保守派だったり、猿人の文化や差別にはそのまま人間の世が映し出されており、それを猿の姿でやっているから滑稽にみえるが、実際の世界では同じことを人間がやっていて、その争いは『マーズ・アタック!』での2人の将軍と変わらない。猿人の世界を通して、人間世界の愚かさを再確認するような描写は、バートンらしい皮肉に満ちている。

ただ、そうして猿に人間の愚かさを背負わせた結果、これまで障碍者差別や女性差別に対して、自身の性別などを踏まえ一線を引きながら感度高く描いてきたバートンからすると、妙にステレオタイプな描き方だとは思えてしまうのは、脚本の甘さをカバーし切れなかった結果かも知れない。

猿人政治家夫妻の旅行先自慢や、老いに対する悩み、権力を盾にアリを襲おうとするセード将軍なども、人間の持つ悪い部分はすべて猿人に引き継がれており、中盤でレオが地球での猿の在り方や、それに対する人間の仕打ちを聞くと、アリは「人間は賢い生き物だと思っていたのに」とも語るが、こうした描写に滑稽さを感じるのも、“自分だけはそうじゃない”と人は無意識に自己弁護しているからだ。

1968年版で主人公ジョージ・テイラー大佐を演じたチャールトン・ヘストンがセードの父親を演じ、「人間の知恵は愚かさと同居しておるのだ」と1968年版とも通ずる台詞を言わせているのも、人間と猿人の逆転をキャスティング含めて表現しており、そうした描写にもまたバートン流の皮肉が感じられる。

そもそもこの猿の惑星が誕生するキッカケとなったレオの磁気嵐の事故にしても、レオが猿であるペリグーズに嫉妬していたことが原因であるというのが皮肉なことである。

“モンキー”を進化過程の差別用語とし、“エイプ”と呼称しろと怒りを露わにするシーンなども、言葉遊びのようであり、人間社会の差別用語やそれを安易に使う人間への警鐘のようで、そのモンキーを「人間の少し上」という猿人たちの姿は、悍ましいほどの醜悪さに満ちている。

猿人のリアリティとエイプ・スクールでの学び

今作はそれだけ深く猿人について描くだけあり、猿人の造形に関してはバートンらしい意匠が最大限に込められている。バートン自身、いくつかの演出はかなりノリノリだったのではないだろうか。

当初の企画では猿人たちの顔はすべて俳優の顔にCG合成されるはずだったが、バートンは特殊メイクでの表現を主張した。1968年版では当時のメイクアップアーティスト: ジョン・チェンバースによる特殊メイクが高い評価を得、アカデミー賞にメイクアップ賞が設立された後の1981年にアカデミー名誉賞を受賞している。今作ではハリウッドの特殊メイク技術をかなり先に進めたとも言われてたそのチェンバースへのリスペクトを込め、バートンらしい手作りの猿人にこだわりを見せたのだろう。

反面、1968年版の猿人は演技自体は人間らしく演じており、それ自体も物語の伏線になっていたが、今作ではそこで《エイプ・スクール》での学習を俳優陣に課し、猿人を猿から正当に進化した存在として演出した。まさに、モンキーは進化過程、彼らはエイプなのである。

セード将軍の言う「皆胸を叩き私に従う」のように、感情を表す際に胸を叩く仕草や、走り出すと四つ足になるところなども如何にも猿であるし、特筆すべきは後ろ足を使ったアクションだろう。

防衛壁でカードゲームに興じる兵士が後ろ足に隠したカードでイカサマしようとするシーンや、銃で脅された奴隷商人のリンボーが手を上げながら後ろ足で武器を取ろうとしているシーンも、猿にしか出来ないアクションだ。

これがきちんとメインキャラクターで物語のヒロインであるアリにも適応されているのが良い。序盤でアリが何か書き物をしていると思わしきシークエンスでは、手かと思いきやカメラが動くと後ろ足だった、という演出があり、人権派として“人間に近い”と観客に思わせていたアリが、この猿人の後ろ足アクションを初めて演じるというのも面白いものだ。

老猿同士のセクシー絡み……手を叩いて変な踊りをする求愛行動や、怖くなると飛び上がって逃げる姿や、寝る前に入れ歯とカツラを外したり、脇の臭いを嗅いで花でデオドラントしてみたり、と猿人の動きはすべてがリアルだ。

猿らしさを残したまま、人間のように進化しようとした歪な猿たち。このあたりの描写は、1968年版にはないバートン版オリジナルの強みであり、後のリブート三部作にも引き継がれていくことになる。

オランウータンやゴリラといった種別ごとの性格づけもきちんと生物学的に正しいものになってると言い、このこだわりにはバートンの執念すら感じるところだ。

ラストシークエンスにおけるバートンと製作の不和感

最終盤ではバートン映画史上最も人数の多い大迫力のバトルシーンが描かれるが、この画面がどうにもゴチャゴチャしていて迫力が伝わって来ない。猿人たちもアップになればそれぞれのキャストの面影がしっかりとあるのだが、遠景のバトルシーンになると誰が誰だかもわからず、基本的に肉弾戦になるので余計に画面は見にくくなる。

このあたりの映像演出の稚拙さは、やはりSF大作、アクション映画専門ではないバートンの悪い所が顕著に出てしまっている点だろう。

また、レオと旅を共にしたガナーが何のドラマもなくアッサリと死んでいったり、デイナが完全に闘いの場では“いるだけ”になる点には、

“放っておくとどうしても猿人側に寄っていってしまう”バートンと、

“なんとか人間の物語にしたい”脚本・製作側の葛藤が見て取れるようで、そのチグハグさを邪推して笑ってしまう。

猿人のアター隊長とクラルの因縁にしても、中盤以降になって突然台詞でその関係性が語られるだけで、脚本上大した感情的な盛り上がりはないのだが、バートンのカメラはどうしてもそこにフォーカスしてしまう。

決着のつかない闘いを終わらせるのが序盤に行方不明になったペリクリーズであり、これが猿人たちの伝承に近い形で行われるご都合主義的な展開もどうかとは思うが、結果として惑星にとっては歴史の起点となったレオとペリクリーズが友好的な関係であることが彼らの遺恨を終わらせるという展開自体は悪くないのだと思う。

人間と猿人の遺恨が、数千年の歴史の割には浅く感じることや、オベロン号に集まった民衆が誰もアリやクラルに対して反発する様子を見せないことなども設定の甘さを感じる部分ではあるが、物語の畳み方としてはこのくらいしかなかったとも言える。

やたらと可愛くサムズアップを決めるペリクリーズは呑気なもので、猿人をこれだけ“人間らしく”描いてきた最終幕が“ペットすぎる”のはどうかとは思うが。

そもそも、猿人たちの祖先であるセモスについてはほぼ描写がなく、オベロン号にいた際の何が原因となって反乱を起こしたのか、そのあたりの深掘りもないので今ひとつ因縁が繋がらないということもある。

実際の人種差別の根強さはバートン自身これまでも何度も描いてきて、よく理解しているはずで、それがこんな簡単に遺恨もなく解決してしまう様子には、やはり違和感を感じてしまうのだ。

総括:バートンの“失敗作”に見つけた次作へ続く物語

前作『スリーピー・ホロウ』で“他者を受け入れる異形”を描いたバートンは、恐らくこの作品では“異種族間が受け入れ合う姿”を描こうとしていたのではないだろうか。

ただ、それは“人間vs猿”という『猿の惑星』IPの中では、うまく表現することが出来なかった。

本来はもしかしたら、デイナを始めとする人間のキャラクターは、もっとずっと少なかったのかも知れない。

『エド・ウッド』で「自分のために映画を撮れ」という言葉を遺し、

『マーズ・アタック!』で商業的映画界に中指を立てまくったバートンが、IPやスタジオに飲み込まれるように自らの創作性を発揮できなかったことは頭を抱えてしまうばかりだが、長いキャリアの中で、こうした時期はあるものなのだと思う。

1968年版主演キャストであるチャールトン・ヘストンが今作では第22回ゴールデンラズベリー賞においての最低リメイク賞・最低助演男優賞を受賞しているのも映画史的には大事件であるが、しかし、そんな思い通りの脚本でない中にも、バートンの意匠は精一杯に詰め込まれており、そこからバートンの思い通りに撮られた架空の“リ・イマジネーション:猿の惑星”を想像するというのもまた楽しいものだ。

ただ、それでも今作にはちゃんとバートンの“次作”に繋がる導線がある。

この撮影でバートンは後のパートナーであるヘレナ・ボナム=カーターと初共演しており、このボナム=カーターについては撮影中に“あるエピソード”がある。

撮影現場にボナム=カーターの母親が訪れた際、猿人メイクの多くの役者の中から、娘であるヘレナを母はすぐに見つけて声を掛けたというのだ。それだけなら“親子の絆”を示す微笑ましいエピソードなわけだが、これは家族関係にトラウマを持つバートンにはある意味映画の製作に関わる問題よりも衝撃的な出来事だったのかも知れない。

『ビッグ・フィッシュ』の製作のキッカケはボナム=カーターと二人で自身の母の家を訪ねたことだったというエピソードもあるので、彼女との出会いはバートンのトラウマ治療の最後の一押しだったとも考えられる。そうなると、映画外のエピソードではあるが、今作はやはり『ビッグ・フィッシュ』に繋がる重要なピースではあるのだ。

(ただ、今作には前パートナーのリサ・マリーも共演していたことを考えるとそう単純に美談扱いするのは憚られるところだが;笑)

結果として今作は『猿の惑星』IPの中でも、その物語は何処にも繋がらない“空白の黒歴史”と化してしまい、『マーズ・アタック!』と合わせて「バートンにSFは撮らせちゃダメ」という不名誉な世評にも繋がってしまったが(これ以降SF大作は2025年現在までなし)、これはバートンの描きたいものと、今作に求められた題材があまりに不均衡だっただけなのだと思う。

いつかバートンが思い通りに自分の創作性を発揮した“少し不思議な”宇宙の物語があるとしたら、それを観てみたいという気持ちはやはり捨て切れないものだ。

評価/鑑賞日

⭐ 2.0 / 5.0
📅 2025/08/13(Disney+)

全作品のレビューがまとめて読みたい方はこちらから!

ティム・バートン全作品レビュー一覧

🩺 ティム・バートン“トラウマ治療期”考察レビュー

エド・ウッド(1994)

マーズ・アタック!(1996)

スリーピー・ホロウ(1999)

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