――チョコレートは甘くとも子供たちには甘くない……教訓と寓意に満ちた70年代カルト・ファンタジー
この作品はどんな作品?
『チャーリーとチョコレート工場』より30年以上も前に作られた『チョコレート工場の秘密』の初の映画化。
未成熟な撮影技術と厳しい世相が反映されたサイケデリックでドラッギーな世界観とシビアな物語……ファンタジーを具現化しようとした当時の作り手の意地も感じられる不思議なミュージカル映画を一度は観るべし。
この作品はどんな人にオススメ?
『チャーリーとチョコレート工場』・『ウォンカとチョコレート工場のはじまり』の両方を観てその原点に触れたい人。
『オズの魔法使い』や『不思議の国のアリス』など、古い時代のファンタジー映画が好きな人。
マリリン・マンソンの「Dope Hat」のMVを知っている人/その影響元に触れたい人。
作品データ
原題:Willy Wonka & the Chocolate Factory
監督:メル・スチュアート
脚本:ロアルド・ダール
デヴィッド・セルツァー
原作:ロアルド・ダール『チョコレート工場の秘密』
音楽:アンソニー・ニューリー& レスリー・ブリカス
ウォルター・シャーフ
撮影:アーサー・イベットソン
上映時間:100分
出演者:
ウィリー・ウォンカ:ジーン・ワイルダー
チャーリー:ピーター・オストラム
ジョーおじいちゃん:ジャック・アルバートソン
アーサー・スラグワース氏:ギュンター・マイスナー
お菓子屋のビル:オーブリー・ウッズ
チャーリーの母:ダイアナ・ソウル
オーガスタス・グループ:マイケル・ボルナー
バイオレット・ボーレガード:デニス・ニッカーソン
ベルーカ・ソルト:ジュリー・ドーン・コール
マイク・ティービー:パリ・テメン
オーガスタスの母親:ウルスラ・レイト
バイオレットの父親:レナード・ストーン
ベルーカの父親:ロイ・キニア
マイクの母親:ノラ・デニー
※本レビューにはネタバレを含みます。
総文字数:9644文字
読み終わるまでの時間:約24分
製作背景:新作お菓子との連動企画から生まれた後のカルト映画
ロアルド・ダールの児童小説『チョコレート工場の秘密』を原作とした、メル・スチュアート 監督による1971年のファンタジー・ミュージカル映画。
原作小説は1964年刊行で、世界中で翻訳された児童文学だが、その初の映画化作品である今作の存在は日本ではあまり知られていない。
元の企画としてはスチュアートの当時まだ幼かった娘が原作本を気に入り、その頃家に出入りしていた今作のプロデューサー: デビッド・L・ウォルパーに映画化を頼んで欲しいとせがんだことから始まっている。スチュアートから話を聞いたウォルパー側も、当時アメリカの製菓会社クエーカーオーツ社と新商品のプロモーションについて話し合っており、この商品を《ウォンカ・バー》とすることで映画と連動したプロモーションを図ろうとした。結果としてクエーカーオーツはこの商品の販売には踏み切れず映画への投資だけに終わったが、そもそもがお菓子の販売の連動企画だったのである。
公開当時の興収はギリギリ制作費回収程度の結果であり、日本では劇場公開すらされていない。クエーカーオーツとしても出資自体が無駄に終わってしまった形になるが、ワーナー・ブラザーズにその権利が売却された70年代後半〜80年代に今作はTVで繰り返し流され、VHSソフトも発売されたことで半ばカルト的な人気を博すようになる。
日本ではティム・バートン監督による『チャーリーとチョコレート工場』(2005)の方が翻案作品として有名になってしまったが、映画化はこちらの方が30年以上も先なのだ。
同じ原作で、同じ物語でありながら、バートン版とは明らかに鑑賞の食べ味が異なっており、70年代のまだ映像技術が未熟だった時期のファンタジー映画の映像作りが楽しむことができる、歴史の証文としても意義深い作品である。

ミュージカル:チョコレート工場の代名詞ともなる名曲の数々
今作は全編ミュージカル映画であり、全曲作曲はアンソニー・ニューリー、作詞はレスリー・ブリカスが行い、歌唱も原則演じた役者本人が担っている。
この歌唱については面白いエピソードがあり、冒頭のお菓子屋で歌われる「The Candy Man」の歌唱も演じたオーブリー・ウッズ本人だが、実はこのウッズの歌唱は作詞家のニューリーによって「その商業性の欠如に愕然とした」とされ、曲のアレンジと再録音を自身で行えるのなら、映画での報酬を放棄しても構わないとまで語られていたそうだ。
結果としてその後サミー・デイヴィス Jr.がカバーしたバージョンは大ヒットナンバーとなったが、この映画で聴けるウッズのバージョンも、ミュージカル映画の中の一曲としては決して悪くはない。子供たちにお菓子を配りながら狭い店内を縦横無尽に踊り、歌われるこの楽曲は、物語のオープニングとしてこれ以上なく気持ちを高め、今作の世界観に引き込んでくれる。
デイヴィス Jr.のバージョンを聴くと「さすがにシナトラ一家!」とはなるものの、Candy(→スラングにおいてドラッグの意)という言葉に余計な意味合いが想起されてしまいもするので、映画での使われ方とキャスティングには個人的には納得である。
メインテーマとなる「Pure Imagination」は派生作品でも度々使われ、様々なアーティストにもカバーされた、チョコレート工場の代名詞と言うべき名曲だ。『ウォンカとチョコレート工場のはじまり』(2023)でも効果的に使われるこの楽曲は劇中でワンカ(今作字幕表記:後の作品ではウォンカ)によって歌われるテーマソングで、2013年から始まったミュージカル版でもこの曲と「The Candy Man」が流用されている。
それぞれのバージョンに良さはあるが、ワイルダーにより歌われるこのオリジナル版には独特のもの哀しさがあり、劇中でほぼその胸中が語られることのないワンカの今作に至るまでの人生が透けて見えるようで非常に良い歌唱だ。
また、ウンパルンパの歌う「Oompa Loompa Doompa-Dee-Do」は、すべて同一のメロディの曲に子供たちそれぞれの悪事とその顛末についての別の歌詞が乗っており、耳に残りやすくも淡々とした曲調と歌唱は、今作の不気味さを演出するのに一役買っている。
言葉だけが変わることでわらべ歌……マザー・グースのような雰囲気にもなり、原作や2005年版と違いお仕置きを受けた子供たちのその後が描かれない今作においては、その不穏さをより増す効果を出している。
演出論:原作者激怒!?子供向け映画とは思えないシビアな描写
チャーリーの貧困家庭描写と1971年のアメリカの世相
今作の公開は1971年。ベトナム戦争は泥沼化し、アメリカの世情は必ずしも明るいものではなかった。冷戦は緩和されつつあったがインフレが加速し、ドルの信頼低下により社会全体に政治不信が広がり、世の中には暗いムードが漂っていた時期だ。
原作はイギリス児童文学として一般的な、“清貧”というテーマが描かれている。“金はあるが心は貧しい者より、金はなくとも心が豊かな者こそが正しい”といったテーマだが、そうしたメッセージが、それまでよりリアルに観ている側に共感と救いを生む時期だったのではないだろうか。
冒頭子供たちがお菓子屋に群れをなし、それを外から眺めるだけのチャーリーや、学校でゴールデンチョコレートを何枚買ったかを先生に問われ、他の生徒が100枚200枚と言う中「2枚」と答えて先生を含むクラス中から薄ら笑いを浮かべられるなど、チャーリーの貧困描写にはファンタジー的な遠慮やデフォルメが一切ない。チャーリーの母のバゲット夫人が歌う「Cheer up, Charlie」なども、チケットが当たることを信じるよりも、「きっといつかは良いことがあるよ」というような歌詞で、2005年版のような無条件の希望を信じる朗らかさはそこにはない。
チャーリーの家から父親をオミットして母子家庭に寝たきり老人4人としてしまったことで、チャーリーの誕生日プレゼントが祖父母4人で編んだマフラー、というのも、微笑ましさよりむしろ家庭の貧しさを際立たせる要素に感じられてしまう。
新聞配達をしながら家計を助けるチャーリーが給料日に一斤のパンを買い、そのお釣りをジョーお祖父ちゃんのタバコ代に、と渡す姿や、それに対して「タバコはもうやめたよ」と優しく拒否するお祖父ちゃんなど、描写があまりにもリアルなので観ていてキツくなる人もいるかも知れない。また、そんなチャーリーがチョコレート工場を眺めている際に近づいてくる謎の男に対しては「浮浪者だよ」と無意識的な差別を隠そうともしていないのも妙にリアルだ。
バートン版の『チャーリーとチョコレート工場』を観て今作に戻ってきた人にはかなりシビアな描写に感じられるだろうが、こうした描写もまたこの70年代の映画の背景ごと味わってもらいたいものだ。
ウンパルンパの変遷とロアルド・ダール原作の関係考
劇中で非常に印象的なキャラクターであるウンパルンパにしても、原作初版ではアフリカのピグミー族として描かれていたが、その人種差別的な表現が問題視され後の版で設定が変更されたという背景がある。
そのため今作ではオレンジの肌に緑の髪というある種の人間離れした存在、精霊としてのデザインに置き換えられ、低身長症の俳優たちによって演じられることになった。
リアルな世界観の今作においては、その描き方次第では奴隷制度などを思わせてもしまっただろう。ウンパルンパのデザインについては原作においても、映画化作品においても現代までに幾度も改訂がされ続けており、こうした歴史もまた、“物語を語り継ぐ”上で留意する必要がある。
そもそも児童文学とは言え、原作本には60年代独特の政治風刺やユーモアが多分に含まれており、未発表の手書き原稿には性感染症にちなんだ《ヘルペス》という名の子供が登場していたという話もある。2025年現代とは、あらゆる媒体において“子供向け作品”に求められる倫理観が大きく違っていたのだ。
ただし、今作の脚本草案は原作者であるダール本人が書いているのだが、実際には幾つもの改稿がなされ、クレジットはされていないがデビッド・セルツァーが脚本家としてまとめ上げたともされている。そんな改稿の大部分はダールの意に則したものではなく、ダールは後年、今作については自身の作品と認めない旨を語り、続編の製作や後の自作品の映像化に対しても否定的になったと言う。
前述のチャーリーの学校の先生も映画オリジナルのキャラクターであり、こうしたシビアな描写そのものが、ダールの原作からはかけ離れたものだったのかも知れない。
映像論:CGや撮影技術が未発展な中で生まれたサイケデリックなファンタジー
発想の力で空想を作る……映画作りの原点に触れられるデザイン
一方、チョコレート工場内のデザインやワンカの魔法、ファンタジー描写には、まだCGや撮影技術が発展し切ってない中での創意工夫が見られ、非常に面白い形で原作の世界観を再現しようとしているのが見て取れる。
『オズの魔法使い』(1939年)や『不思議の国のアリス』(1985年)などの世界観にも似た、サイケデリックな色遣いの独特な作り物感と、それによって観る側に“異界”を感じさせる手法は非常に巧みだ。1940〜1980年代後半までの40年と、1990〜2020年代での映像技術の発展速度の差を感じる意味でも、2025年現代から観ると面白いのではないだろうか。
この時代のファンタジーにはまだ、“この世にないもの”を作り出す技術は圧倒的に足りておらず、あるもの・想像しやすいもので“どれだけ奇妙に見せるか”を試行錯誤している印象だ。
ワンカの言う「発明とは93%の努力と6%の電気、4%の蒸酸、2%のパタースコッチ」という言葉の通り、世界にあるものの組み合わせによってあり得ない世界を生み出す演出……「時間は無駄に出来ん」と時計を鍋に放り込んだり、同じように靴を洗濯するように泡だらけの鍋でに煮込んでいたり……ジンジャーエールやジンジャービールなど、泡の出る飲み物を燃料に動くワンカモービルも、子供の発想を形にしたような発明品は面白いし夢に溢れている。
その吹きこぼれた泡で汚れた後、“ハサワカノ”= wankawashの逆読み:hsawaknawを潜れば元通り服も乾く、というのも、言葉遊びと画の面白さがマッチしている。その「日本語?」と言われるネーミングの響きや、炭酸の燃料に対して「政治家より中身が濃い」といった風刺的ブラックジョークにも70年代らしさが詰まっている。
肝心のチョコレート工場にしても、中心となるチョコレートの川はさすがに2005年版と比べると見た目の質感的にかなり厳しいが、実際に食べられるものが1/3ほどを占めていたというお菓子の森は、毒々しい色合いや造形が如何にも欧米の古い駄菓子類のようであるし、ワンカがお茶を飲み、そのまま食べてしまうカップなども、“一度は体験したい”子供の夢を体現している。
舐めるとそこに描かれた果物の味がする壁紙も、視覚的に難しいことはしておらずとも、わかりやすさと観る側の想像力で夢を形にできる演出で、そうした夢の作り方には現代とはまた違った、“絵本や御伽噺が実写になる”空気感があって楽しい。
ナッツの選別をするリスの代わりに置かれた《金の卵を産むガチョウ》も、原作のリスが予算都合で映像化出来なかったことから生まれたシークエンスではあるものの、一般的で誰もが知る寓話をモデルにしたわかりやすさが良かったと思う。
同じく原作にはないチャーリーとジョーお祖父ちゃんが体験する《ふわふわドリンク》にしても、泡と共に宙に浮き、ゲップで下に降りるというのは馬鹿馬鹿しくも楽しそうで、まだ遊園地のアトラクションも大掛かりなものばかりではなかった時代に、子供の夢を刺激してくれる映像だったはずだ。
マリリン・マンソンにも影響を与えたトンネル・ボートシーンの発明
しかし、何より今作の演出で白眉なのは、やはり中盤で登場するトンネル・ボートのシークエンスだろう。後にMarilyn Mansonの「Dope Hat」のMVにもオマージュされたこの場面の異質さには、今作がカルト的人気を博した理由が詰まってると言って良い。
演じる子供たちや保護者役の俳優陣にも演出の全貌が伝えられていなかったというこのシークエンスでは、子供たちが本気で怖がっている様子がリアルに映し出されている。
グルグルと渦巻く周囲の風景、爬虫類の捕食シーンなどグロテスクな映像が流され、ワンカは目を見開いて不気味な詩を詠唱している。途中「危険が迫っている」という台詞もあるが、どう考えても危険なのはワンカ御本人である。唯一楽しんでいるチャーリーにはだからこそ“最後の一人”に選ばれた説得力が生まれるが、あまりにドラッギーなシークエンスにそんなチャーリーの精神構造がそもそも心配になる。
「人類には小さな一歩でも我々には偉大な一歩だ」という今作のほんの2年ほど前に達成された月面着陸をオマージュした台詞でこのシークエンスは締められるが、後に様々なアーティストや映画のヴィランの造形へと続いたこの演出も、ある意味そのくらいにエポックメイキングなものだったと言えるかも知れない。
キャラクター考①:子供たちをテストするウォンカ(ワンカ)は神の如く
今作でのワンカは常に超自然的な存在として描かれ、アダルト・チルドレンな監督の表像として描かれた2005年版とも、後の前日譚で“夢見る青年”として描かれた『ウォンカとチョコレート工場のはじまり』ともそのキャラクター造形はまったく異なっている。
しかし、夢を否定するベルーカに対し「私たちは夢を夢見る者なのだよ」と激昂する姿や、オフィスにある家具がすべて二分割されその半分ずつしかない奇妙さには、後のウォンカたちへと続いていく“歪な夢の求道者”の原型がある。
今作でのワンカは5人の子供たちを完全に平等にテストしている。自分のスパイをした企業スラグワース(今作の字幕では“ワルタ”)に扮した自身の部下を子供たちに差し向け、そのスパイ活動による報酬(これは子供により違ったのだろう)をほのめかしながら子供たちの善意をテストする。これは非常に狡猾な大人のやり方で、とてもじゃないが子供相手に仕掛けるような罠ではない。こうした改変もまた、ダールの不評を買った要因の一つなのかも知れない。
(ただ、世界中に散っているはずの子供たちが金のチケットを当てた際、常にスラグワースが傍にいたり、家の中に自然に紛れていたりするのはワンカの魔法使い描写として非常に良い)
ワンカは子供たちへのお仕置きもまるで無感情に行なう。2005年版のウォンカはどこか楽しそうに見えたが、今作のワンカは脱落した子供については一切の興味を失っているのだ。
チョコレート工場に子供たちが訪れたシークエンスでの、足を引きずり、杖をつきながら登場する演出は、脚本にはない演じたジーン・ワイルダー自身が役のオファーを受けた際に出した演出条件だったと言う。これも子供たちには内緒で決めたことであり、このシーンで子供たちとは初撮だったことで、その反応はリアルなものになったのだとか。ワイルダーはこの演出によってその後のシーンでのワンカの言葉が真実か嘘かを曖昧にしたかったと語り、事実その登場からラストまで、今作のワンカは一貫して物語の中の“神”として存在し続けることになる。
「時間は山ほど、見るものはない」といった逆さ言葉や、子供たちがお仕置きされた後に呟く意味深な言葉にもどこか人を喰ったような雰囲気があり、大人相手に嘘をついたり、媚びに対して逃げるのではなく受け流す姿にはきちんとビジネスの世界で生きてきた人生が透けており、その果てに人間不信になり子供たちをテストしている、哀しい魔術師の姿がある。
併走作、前日譚として作られた2023年版を観てからこちらを観ると、この何十年の間にどれだけの苦労を負ってきたのかを勝手に想像してしまい、あちらは後付けの物語であるが切なくもなる。

物語論①:子供特有のイヤらしさに満ちた“悪い子たち”のリアルさ
物語としては児童書らしい寓意に満ちており、“悪い子にはお仕置きが下り、良い子は救われる”という至極単純な物語で、そこに“清貧”のテーマ性も重なってくる。このチャーリー以外の4人の子供たち、“悪い子たち”の描写が、なんとも絶妙に嫌らしいのだ。
大食漢のオーガスタスの父親はインタビューで向けられたマイクまで丸齧りするような表現がされており、そこにはまったく現実味がないはずなのだが、それすらどうにもファンタジー的誇張になっていない。
まだTVゲームが一般化していなかった時代のためTV中毒のウエスタンマニア設定となったマイクにしても、おもちゃの銃を持ちながら本物を欲しがり、「殺し合いこそが世界さ」と言うような捻くれっぷりを見せており、子供たちが皆本気で可愛くない。
今作の子供たち、及びその両親には“子供独特の嫌らしさ”とその愚かな親の姿が凝縮されている。
前述の通りワンカは子供たちが脱落した瞬間に関心をなくし、ウンパルンパの歌にはわらべ歌的な不気味さがあるので、子供たちのお仕置きにもポップさよりむしろホラー的な恐ろしさがある。ワンカは子供たちについて「ここを出れば元のひどい子供達だ」と語ってはいるものの、お仕置きされた後は物語に登場しなくなるために本当に工場を生きて出たのかもわからないままだ。
原作に書かれているその後の子供たちを当時の技術では映像化出来なかったという理由はあるのだろうが、今作のワンカにはどこかそういった底の見えない恐ろしさが宿っている。
チョコレートの川からパイプで吸い上げられ、オーガスタスがそのパイプに引っ掛かった際の「あの太さだぞ(抜けないだろう)」という台詞や、ブルーベリー球体と化したバイオレットを転がして遊ぶウンパルンパなど、その描写にはあまりにも無情で残酷な目線がある。
キャラクター考②:単純ないい子にはならないチャーリーの描き方
また、主人公であるチャーリーのキャラクターについても同じことが言える。今作のチャーリーは他の子供たちと立場が変わらず、ワンカが“やってはいけない”と言ったことをやってしまっており、決して特異な存在としては描かれていない。
「触るな」と言われたチョコの川に触ったオーガスタス、「食べるな」と言われたキャンディを食べたバイオレット、ガチョウを持っていこうとしたベルーカ、ワンカヴィジョンを使用したマイク……チャーリーもまた同じように、「飲んではいけない」と言われたふわふわドリンクを飲み、下に降りられたから良かったが、あわや天井のフィンに巻き込まれてしまうところだった。
だからこそ、ワンカも一度はチャーリーを拒否する。
「与えるものは何もない」とチャーリーを帰そうとし、ジョーお祖父ちゃんはそれに対して「詐欺師め!」と激怒する。ここでのジョーお祖父ちゃんも「ワルタに売ってやる!」とチャーリーが持ちかけられたスパイ行為を容認しており、その言動は決して善人とは言い難い。
こういった描写が全体的にファンタジーの装飾を削ぎ落とし、妙にリアルな物語として今作を印象付けている。それが決して悪いわけではないのだが、2005年版の印象が強いとやはりその点に違和感を感じる人も多くいるだろう。
物語論②:メインはチョコレート工場よりも狂った社会そのもの
2005年版の物語が明確にウォンカを主人公とするものだったのに比べ、今作のワンカはあくまで“物語の障害”……どちらかと言えばヴィラン(悪役)としての役割が与えられており、物語の主体はチャーリーとそれを取り囲む世界の暗さである。これは、劇中前半45分程度……全体尺の約半分が工場見学に行くまでを描くのに使われていることからも明らかだ。
このシークエンスも必ずしもチャーリーがメインではなく、描かれるのはむしろゴールデンチョコに熱狂する世界各国の様子だ。2005年版ではほとんど描かれなかったこれらの描写があまりにもリアルに描かれているのが今作の特徴でもあり、同時に本編には直接関係のないそれを楽しめるかどうかも、今作の評価が分かれるポイントだろう。
ニュースキャスターが「世界中がイカれています」と報道する通り、世界のあらゆる場所でチョコが買われ、食べられずに捨てられる映像が流れる。
これ自体が、チョコを買えないチャーリーとの対比になっており、バケット家が一枚のチョコを家族で分け合うシーンに重ねるように、ベルーカの親が工場職員にチョコレートのパッケージを剥かせるシーンに切り替わったりと、チャーリーの貧困と世界の熱狂を対比させて描いていく。
スーパーコンピューターの演算で当たりを引こうとする科学者や、カウンセリングを行いながらその相手からチョコを奪おうとする医師、イギリスでのオークションには女王陛下も現れるなど、この辺りの大人たちの描写はかなり風刺的で面白い。
誘拐事件で被害に遭った夫を心から心配していたはずの妻が、身代金としてウォンカバーを要求された途端に「……考えさせてちょうだい……」となるところなども皮肉的であるし、そもそもそれらは当たるか当たらないかもわからないチョコで、その当選確率を少しでも上げるためだけにそうした過激なことが起こっていると言うことだ。
これらは勿論当時の世相、インフレによる社会不安を風刺したものではあるだろうが、2025年現代から見ると、おまけグッズの転売問題を予見していたようにも見えてくる。
売り物に付加価値をつけることにはこうした弊害もあり、人の欲望の醜さは止めどない。ジョーお祖父ちゃんがタバコ用のへそくりでチャーリーにチョコを買いに行かせ、外れたそれを「金の券のおかげでチョコがまずいね」と言うシークエンスは、まさにそうした本質を言い当てた言葉だと言えるだろう。
5枚目の偽チケットが当選した際にニュースキャスターが言う「喜びの中に悔しさもありますが、もっと大切なものは皆さんの手の中にあるのです」といった台詞や、もう当たりが出切った、その後だからこそ拾ったコインで改めてチョコを買うチャーリーの姿にもそれは表れている。チャーリーだけが、純粋にチョコをお菓子として大切にしていた、という物語で、ワンカの心を絆したのもそれがあったからなのだろう。
総括:何故今観るべきなのか?ファンタジー映画前夜のリアリティ
最後にはチャーリーが一人、ワルタに売るために隠し持っていた《溶けないキャンディ》をワンカへと返す。
これが試験の合格へとつながり、チャーリーはチョコレート工場の後継者となるのだが、これに関しては、“一度は悪いことをしようとしても反省したなら許される”という子供たちへのメッセージになっており、ただ素直な良い子だった2005年版よりチャーリーの人間味も出ている。
元々のダールが書いた脚本ではここでジョーお祖父ちゃんが「やったー!」と言って終わるという御伽噺らしいアッサリとした終わり方だったようだが、スチュアートはこの終わり方が気に食わず、わざわざ撮影している真っ最中にセルツァーに電話をして現行のラストシーンに改稿させたという逸話も語られている。
あのラストのセリフ「チャーリー、突然夢がかなった人はどうなったと思う?一生幸せに暮らしましたとさ」には、劇中唯一ワンカの本心が垣間見え、その優しい表情と声色にやっとワンカを人間として見られるシーンだ。
これは実は2005年版でもウンパルンパによって同じような言葉がラストに語られており、そのオマージュにはニヤリとさせられた。
今作は確かに原作者ダールからも否定され、2005年版を観た後では、今更観るべき点はほとんどないものかも知れない。
しかし、映像技術が未成熟な中でファンタジーの世界を再現しようとしたその創意工夫の在り方や、70年代初めの世の中の刺々しさをそのまま封じ込めたような作劇は、今観てもまた新しい感覚を与えてくれるものだと思う。
何より、『ウォンカとチョコレート工場のはじまり』は2005年版ではなく今作の前日譚として作られており、楽曲だけでなく、ウォンカやウンパルンパのデザインや台詞、様々な要素がこの作品へと繋がるように作られている。
そういった意味でも、今作のことも忘れることなく、一度はきちんと観る機会を持って欲しいとも思う。ファンタジー作品の世界を発想の力で具現化しようとしたこの時代の質感、忘れずにおきたいものだ。
⭐ 3.0 / 5.0
📅 2025/08/21(DVD)
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