『8番出口』(2025)考察レビュー|8番出口に迷い込んだのは製作陣?二宮和也の演技に全振りしたA24になり切れなかった実写化

映画8番出口(2025)のネタバレ感想 KOTAKE CREATEの大人気ゲームの映画化 二宮和也主演

――人生とは日々無限の♾️出口の向こうにノイズキャンセリングはない

作品データ

原題:8番出口

監督:川村元気

脚本:平瀬謙太朗

川村元気

原作:KOTAKE CREATE『8番出口』

音楽:中田ヤスタカ(CAPSULE)

網守将平

撮影:今村圭佑

上映時間:95分

出演者:

迷う男:二宮和也

歩く男:河内大和

少年:浅沼成

ある女:小松菜奈

女子高生風の女性:花瀬琴音

本レビューにはネタバレを含みます。

該当作品の他、本作ノベライズ小説版,

映画『CUBE』(1997),

映画『CUBE 一度入ったら、最後』(2021)への言及も有。

総文字数:6198文字

読み終わるまでの時間:約16分

目次

製作背景:ホラー豊作の年と令和の大バズコンテンツ

日本のインディーゲームクリエイター:KOTAKE CREATEにより開発されたウォーキングシミュレーターゲームを、日本映画界屈指のヒットメーカー・プロデューサー:川村元気が監督として実写映画化。

原作ゲームはインディーズ作品ながらYouTubeやTikTok等、動画サイトでの実況やSNSのショート動画から火がつくという、まさに令和の日本発の大バズりコンテンツである。数多くの類似ゲームやパロディCMなども作られ、全世界180万ダウンロード、TikTokタグ #Exit8の再生数も億単位と脅威的な数字を叩き出している。
ゲームをプレイしたことはなくとも、実況プレイを見たことがある人はかなり多かったはずだ。


2025年は洋邦大小問わず、ホラー映画が豊作な年。

今作と同じ時期には『見える子ちゃん』や『近畿地方のある場所について』など原作付きのものから、『事故物件ゾク 恐い間取り』や『きさらぎ駅 Re:』などのシリーズ続編もあった。洋画でも少し前に『サブスタンス』や『ノスフェラトゥ』があり、スティーブン・キング原作の『THE MONKEY/ザ・モンキー』も話題になっている。そんな中、“バズの中心地”からまた一作、Jホラー文脈の新作が現れたというわけだ。

〜異変があれば引き返す/異変がなければ進む〜
実にシンプルなルールの下、ループする0〜8番までの駅構内を進み、8番出口から脱出するというゲーム。
無機質で延々と変わらない地下通路と、多種多様な異変がゲームのキモであり、ストーリーらしいストーリーはなく、ゲーム内の体験そのものが物語になる。
そんな作品を、新海誠作品や『ドラえもん』映画作品をプロデュースしてきたヒットメーカー川村監督はどう料理したのか……。
期待も不安も大きい中公開された今作はしかし、なかなかどうして原作と同じように実験的な試みはしているものの、映画全体としてはどこに向かっているのか今ひとつわかりにくい、中途半端な作品に落ち着いてしまった、という印象だ。

日本でアート映画を作る難しさとは……?

名もなき男は観ている側の“アバター”になれたのか

主演は二宮和也。言わずと知れた大スターを、原作の体験型ゲームに合わせ《迷う男》という名も無き登場人物にしたのがまず実験的だ。
ただ、この《迷う男》が普遍的な“誰でもない男”かと言うとそうはなっていない。派遣バイトでうだつの上がらない日々を送りながら、別れ話をした直後の元カノから「子供が出来た」と言われてしまう、喘息持ちの青年。割と個人的な属性がしっかりと設定されているキャラクターなのだ。


映画として一本の物語にする場合、何の背景もない人物が主役では物語になり難いので、これはある程度仕方のないことではあるのだが、それならば名前をつけなかったことに意味はあったのだろうか?少なくとも《迷う男》は、観ている側にとって“自分かも知れない誰か”=原作ゲームと同じ“アバター”としては描かれていない。
川村監督自身が執筆したノベライズ版では更に様々な過去が語られており、そちらを併せて読むと物語は非常にわかりやすくなるのだが、この映画がどんどんマス向けの“わかりやすく整えられた”作品であることが露わになってしまう。

この映画最大の問題点はまさにそこだ。
POVや長回し、ワンシチュエーションやBGMの選定などが限りなくアート映画寄り……最近の流行りで言うとA24配給のアリ・アスター監督作品:『ヘレディタリー/継承』(2018)や『ミッドサマー』(2019)ライクな作風でありながら、そう言い切るにはどうにも情緒的、説明的に過ぎるのだ。

3人の迷える男の関係性に迷う

この映画は基本的に二宮の演じる《迷う男》視点で物語が進むが、中盤以降彼の他にも8番出口で迷っていた人物がいたことがわかり、彼らの視点での物語も語られていく。

8番出口に迷い込む人々は
《迷う男:The Lost Man》=二宮和也
《歩く男:The Walking Man》=河内大和
《少年:The Boy》=浅沼成
と3人いて、それぞれの登場時には劇中でも上記のようにテロップが出る。

その文字が画面に徐々に現れていくという演出なのだが、その最初に浮かぶ文字が

迷う男:The Lost Man→《test》
歩く男:The Walking Man→《hell》
少年:The Boy→《he》となっている。

これも考察の余地を残すシーンで、演出にはこうした物語に隙間を残す手法がかなり多く散見される。

例えば《迷う男》と《少年》の会話の中で
「お父さんいないのか……俺もだ」
という台詞があったり、
《歩く男》がパニックになって
「急いでるんだ!久しぶりにガキに会うんだ!」
と《少年》を怒鳴りつけるシーンがある。

《少年》の登場時の《he》表記などからも、
「もしかしたら全員時空と立場を変えた同一人物なのではないか?」
「彼らには血縁関係があるのではないか?」
というような深読み考察も出来そうではあるのだが……、終盤の展開と後述のノベライズにより、この迷える三人の関係性はほぼ確定させられてしまう。

このあたりも、常に製作側が迷いながら撮られているような気がしてしまうのだ。
答えを確定させたいのであれば台詞の選択をもう少し考えるべきだと思うし、考察させたいのであればシーンの演出を考えるべきだ。
《歩く男》のパートで恐らく8番出口に取り込まれた女子高生の言う「ここって地獄?煉獄?」の台詞も、急に邦画にありがちな不自然な台詞が出てきて面食らってしまう。
結果として、意味ありげなシーンのほとんどが単なるノイズと化してしまうのだ。
まさかこれが冒頭の“ノイズキャンセリング”イヤホンと合わせて狙った演出というわけではないはずだ。

A24ライクな演出と大資本映画の不一致

映画序盤は雰囲気も見事なもので、POV(主観ショット)の長回しから始まり、シームレスに現実世界と8番出口を繋げていくオープニングシークエンスはまるでゲームの世界に入り込んだような臨場感で、3周繰り返したあたりでようやく《迷う男》が事態のおかしさに気づくのもリアルな恐怖を感じさせる。

その一方で、終盤で《迷う男》が見る、恐らく彼が最終的に選ぶべき未来の海辺のシーンなど、劇中でぼかしていた設定を確定させてしまうような場面もあり、それが全体的に映画をどっち付かずな作劇にしてしまう。

ホラー演出に関しては、物語自体が所謂《幽霊ホラー》や《クリーチャーホラー》ではなく、原作もあるため難しかったとは思うが、笑いながら背後に立つ《歩く男》や、人間の身体部位のついたネズミの大群など、不気味で意味ありげな演出はJホラーの分野では新しい恐怖演出だったように思う。
気持ち悪さと恐怖の狭間の生理的嫌悪は、『ボーはおそれている』(2023)などを思わせ、全年齢対象の映画のギリギリを攻めていたと思うし、ネズミのネタが最序盤に流し見していたSNSのニュースであるというのも、現代的な風刺が効いている。

こうした前半のホラー演出や、考察させようと敢えて意味深に切り取られた台詞などは実にA24作品的で、作り手の目指す着地点の一つは間違いなくそこにあったと思うのだが、現実には二宮和也主演の大資本映画という、“わかりやすく作らねばならないお膳立て”がされている。

しかも監督するのはプロデューサーとして数々のヒットを飛ばしてきた川村監督だ。


故に、どうにも座りが悪いと言うか、どちらにも振り切れない迷いが感じられてしまう。
“中途半端”ならともかく、迷ってしまってるあたりが何とも言い難い。
まさに映画の作り自体が8番出口に迷い込んでいる気さえする。
更に、公開から数日後には、なんと終盤の海辺でのシークエンスをポスターヴィジュアルとして解禁してしまった。ホラー文脈で語られていた映画とあまりに不釣り合いなポスターは確かに話題にはなったが、これによりこの映画の目指すところは更にわからなくなってしまった。

ノベライズ版の功罪

“映画の設定解説書”になったノベライズ

ノベライズ版は映画の脚本完成後に書かれ、映画の編集と同時進行で執筆が行われたというインタビューがあったが(水鈴社公式noteより)、やはり商業作家としての川村監督は映画での説明不足が気になってしまったのかも知れない。小説はそのまま“映画の設定解説書”になってしまっていて、考察の余地はほとんど残らない作りになっている。
しかし、それならそれで、最初からそういう“如何にも”な作りにしてしまえば良かったのではないか。
(そうであれば、「好みでない」とハッキリ言い切れたのだが……)

ノベライズ版で明かされた設定で言うと、
喘息がコロナの後遺症であるということ:これは画面上では説明はなされないものの、後半になるにつれその症状がほぼ出なくなることから、心理的なものに起因していることは映画だけ観ていても明らかであった。ならば、それを“新型コロナの後遺症である”と確定させて書いてしまうのは、2025年現在においても問題があるとも思う。映画での描き方だけならば、“心理的な何かしらの要因に依るもの”とぼかすことはいくらでも出来ただろうし、その設定を確定させることが物語において重要な意味を持つわけでもない。

津波に関してもわざわざ説明せずとも、あの描写を観て東日本大地震を想起しない者はほぼいないのではないだろうか。
ただ、警報まで鳴らしたあのシーンは賛否が大きく別れるだろうが、個人的には日本の作品で、これだけ大きな企画であの演出が通ったことは、映画の評価とは別に希望を感じる点であった。あれから14年が経ち、未だ完全に復興したわけではないが、サザンオールスターズの「TSUNAMI」が封印されたりといった生々しい悲しみに、エンタメ業界から一歩を踏み出すキッカケを与えようとしたのは非常に勇気がいることだったはずだ。
川村監督は新海誠監督作品『すずめの戸締まり』のプロデューサーでもあるので、エンターテイメントにおいてあの震災をどうにか乗り越えようとしている意図は強く感じられた。

ノベライズ版での《迷う男》には地元で共にバンド活動をしていた友人を置いて小松菜奈演じる《ある女》と上京しており、その友人が東日本大地震で被災して行方不明になっているという設定もある。それが彼が結婚に踏み出せず、彼女と別れた原因の一つにもなっているのだが、このあたりは映画ではまったく語られない。
……それも、語らないなら、語らないでよかったと思うのだ。そういった背景を語らない映画として撮るならば、ノベライズ版でもそんな設定を明らかにすべきではなかったのではないだろうか。

考察させたいのか/説明したいのか?

通常の邦画大作として撮りたいのであれば、過去のエピソードを回想などでしっかり語った上で、《少年》を救い出すシーンでは大仰なBGMを流して“泣かせる演出”を取るだろう。ノベライズ版の内容を映画自体にてんこ盛りにして、説明過多な映画にしてしまっても良かった。
けれど、この映画はそれをしない。
説明を省き、二宮の演技の力でそれを語らせようとする。

そこまで振り切るならば、ノベライズ版も説明過多になっている海辺のシーンの演出も、もう少し別の描き方が出来たのではと思ってしまうのだ。
どちらか完全に振り切るならば、プロモーションのやり方も変わって、観る層の意識も変わっただろうが、どちらにせよ原作ゲームと主演の知名度で“売れる映画”という結果は出せたのではないだろうか。現状の描き方だと、ライトに観に行った層には難解すぎ、届けたい層には説明過多なおかしな状況にもなりかねない。
ちなみに、ノベライズ版では《歩く男》の背景も語られてしまうので、劇中の考察要素的な台詞の余白はほぼすべて語り尽くされ、取り払われてしまう。当然、《迷う男》との血縁関係なんて設定も存在しない。

役者・二宮和也という切り札

映画の上映時間約90分のうちほぼ70分程度は二宮の一人芝居だ。二宮の演技は、単調な画面背景の中でも1人で映像をもたせ、《迷う男》の背景を語るに充分過ぎるほどの説得力と力があった。
中盤、その正体は8番出口における異変であった《ある女》からの電話に出て、泣きながら自分の感情を吐露したシーンも
5周目で0に戻り、溜めに溜めた感情を爆発させるシーンも
津波の中で《少年》を蛍光灯の上へと逃がすシーンの表情も
海辺で未来の息子を抱きしめたシーンの涙も

その演技が観客に想起させるものが、仮に脚本上の意図とは違ったものだったとしても、映画の伝えたいことを破綻させるような結果には決してならない素晴らしい演技だった。
だからこそ、思い切り説明を省いた、悪く言えば半ば意味不明なアート映画に振り切ったとしても、観客に重要なテーマを一つ伝えることくらいは出来たはずだ。
日本の大資本映画でアート映画を撮る難しさも、そのバランスの舵取りの難しさも理解できるが、二宮和也という最強のカードを持っていた以上、もう少し実験しても良かったのではないだろうか。

総括:出口を迷い続けた映画

時間を超越した不思議な場所である8番出口という素材を使い、“あったかもしれない可能性”と“新しい一歩”を描くという物語の描き方は非常にわかりやすいし、ゲーム『8番出口』を映画化するにあたって、一つの最適解だとは思うのだが、考察させたい映画なのか説明したい映画なのか、その迷いが最後まで足を引っ張っていた印象だ。
『CUBE』の日本版リメイク『CUBE 一度入ったら、最後』のような、意味のない物語に無理やり意味を付け足して陳腐になってしまった例とはまったく違う。
ただただどっち付かずの映画、故に観終わった後なんだか釈然としないのである。

映画の物語を貫くテーマ自体はよくある話だが決して悪いわけではない。
【無関心の罪】や【親になる不安】をトラウマと絡め、それを未来の“有り得たかも知れない子供”との交流で乗り越えていく物語で、そのテーマを台詞ではなく映画そのものの画の流れで理解させようとした試みは非常に良かったと思う。

その無限に続く世界を“地獄=hell”と感じながら、自分と向き合うことをせず、子供の助言を無視して8番出口の異変の一つに組み込まれた《歩く男》。
過去のトラウマや不安を乗り越え、自らと、そして生まれてくる子供と向き合うことで8番出口にたどり着いた《迷う男》。

彼はラスト、出られたはずの出口から、もう一度地下へ潜っていく。彼が降りるべき駅はそこじゃない。彼の出口はそこではなかったのだ。
自身に向き合った彼がいくべきは彼女のいる病院であり、生まれてくる子供のいる場所だ。
だから彼は再び電車に乗る。
そして、“最初の異変”を見逃さない。
怒鳴られる親子に向かい、ノイズキャンセリングのイヤホンを外し、外界の音を受け止めながら向かっていくのだ。

《迷う男》と《少年》が別れた後、《少年》はずぶ濡れのまま出口へと向かうが、その後に現れる《迷う男》は乾いた服で「あと一つ……」と周回していく。
これは彼自身が、世界が変わったことを理解した後のシーンなのだろう。彼はあれから長い時間を掛けて周回し、《少年》がいない現在から《息子》に会う未来へ向かうことを心に決めた。だから彼は、♾️無限♾️に思えたあの空間(=迷いの象徴)を抜け出すことが出来たのだろう。

素材もテーマも悪くないだけに、どちらに寄せても作品としての出来はもっとよくなったはず。
ならば思い切りこの規模の作品でアートに寄せてくれれば、好みの作品になったと思うので、個人的には非常に惜しい映画であった。

評価/鑑賞日

⭐ 2.5 / 5.0
📅 2025/09/08(映画館)

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