ティム・バートン全作品レビュー21
――飛んでダンボ,飛んで 君はいつだって,何処にだって行けるのだから
この作品はどんな作品?
ディズニーの名作アニメーション『ダンボ』の実写映画化。
動物主体の原作から、人間視点の物語に改変されるも、その物語とダンボの物語が噛み合っておらず、多すぎるキャラクター一人一人の葛藤が深掘られないまま終わる。結局誰の物語だったのかわからずテーマがブレてしまった。
この作品はどんな人にオススメ?
近年のディズニー実写化作品のテーマや物語が好きな人。
子供も一緒に楽しめる単純明快で華やかな映画を探している人。
可愛らしい動物が大活躍する映画が好きな人。
作品データ
原題:Dumbo
監督:ティム・バートン
脚本:アーレン・クルーガー
原作:Disney’s 『ダンボ』
音楽:ダニー・エルフマン
撮影:ベン・デイヴィス
上映時間:112分
出演者:
ダンボ:エド・オズモンド(モーションキャプチャ)
ホルト・ファリア:コリン・ファレル
ミリー・ファリア:ニコ・パーカー
ジョー・ファリア:フィンリー・ホビンス
コレット・マーチャント:エヴァ・グリーン
V・A・ヴァンデヴァー:マイケル・キートン
マックス・メディチ:ダニー・デヴィート
ミス・アトランティス:シャロン・ルーニー
ロンゴ:デオビア・オパレイ
ルーファス:フィル・ジマーマン
プラミシュ:ロシャン・セス
サザビー:ダグラス・リース
スケリッグ:ジョセフ・ギャット
※本レビューにはネタバレを含みます。
総文字数:10244文字
読み終わるまでの時間:約26分
製作背景:戦前の名作『ダンボ』の実写化〜ディズニー実写豊作の2019年
ティム・バートン監督による、1941年のディズニー・アニメーション『ダンボ』の実写映画化作品。
原作は第二次世界大戦中の公開であり、そんな中でも当時の興収は130万$(現在の約3400万$相当)を超え、2017年にはアメリカ国立フィルム登録簿に登録されたほどの名作。
ダンボのキャラクターはディズニー・クラシックとして誰もが知るものであり、日本語吹替版が初めて製作されたアニメーションとして日本人にとっても非常に大きな意味のある作品だ。
今作公開の2019年にはこの他5月に『アラジン』、7月に『ライオン・キング』がありディズニー実写豊作の年。2019年3月公開の今作はその一作目となった。
ただし、今作の製作は2014年、ディズニー・クラシック実写化の走り(実際にはそれより以前から数作品あるのだが)となった『シンデレラ』(2015)公開以前から始まっており、アーレン・クルーガーが脚本を持ち込んだことがキッカケ。なので企画自体の意図はこのあたりの他の実写化作品とはやや異なっていたと考えられる。
2015年にはバートンの監督起用が決まり、撮影は2017年から始まった。公開まで1年半ほどの間隔があるが、これはダンボや動物たちのCG処理にそれだけ時間が掛かったということで、公開日は当初の予定から変わっていない。
クルーガーは原作アニメーションに深い思い入れを持っており、自身の子供に初めて観せたアニメだったとも語られている。監督のバートンもまた原作のテーマに深い共感を覚えており、幼い頃から好きな作品でもあったようだ。
……の、はずなのだが、今作に描かれた物語は、原作を膨らませるどころか、その大切なメッセージまで損なってしまったように感じる。後に「ディズニーから距離を置く」という発言を残したバートンにとっても(後述)、これが決定的な分岐点だったのだろう。
興行的にも10億$超えの同年実写化作品二作と比べ3.5億$と低調な今作は、バートン作品としても、『ダンボ』の実写化としてもテーマがブレており、バートンが撮る意味さえ感じられないというのが正直な感想である。
リメイク比較:動物ではなく人間視点の物語になった実写版『ダンボ』
今作の物語はサーカス団である《メディチ・ブラザーズ・サーカス》の人間たちが物語の軸であり、ダンボ親子を中心とした動物たちが主体の原作とは、そこがまず大きく異なっている。
今作のダンボたちはあくまで動物であり、豊かな表情で言葉を発し、差別や嫌がらせといった悪い意味での“人間らしさ”も感じられた原作アニメとは設定そのものが違う。
当然、原作で人気のキャラクター、ネズミのティモシーや、1960年代に入り黒人差別問題が取り沙汰されたカラスの一団も登場しない。
同年の『ライオン・キング』は原作通り人間の存在を徹底して廃し、動物同士の会話やその行動に違和感のない作りになっていたが、今作はそもそもクルーガーが脚本を持ち込んだ段階で、人間視点の物語になることは決まっていたと言う。
原作の動物同士のやり取りに関しては「すでにそういった場面が原作に存在する」とクルーガーは語っており、それ自体があることは否定されていないが、原作ダンボの物語を期待すると、そこで大きく肩透かしを喰らう可能性はあるだろう。
結果として“実写映画”という意味では全編CGであった『ライオン・キング』と比べて言葉通りの意味を成しており、人間側のキャラクターがいない場面で動物たちが喋り出すということもなく物語のリアリティラインは確実に上がっている。
思うに本来今作の脚本は、原作アニメーションのリメイクではなく『アリス・イン・ワンダーランド』のような、オリジナル二次創作作品に近いアプローチだったのではないだろうか。
しかし、2019年はディズニーが往年の名作の“完全実写化”で盛り上がりを見せていた時期。そんな中で、『アリス・イン・ワンダーランド』ほど振り切った改変も出来ず、原作の流れや名シーンを残そうとした結果、物語の着地点が不明瞭なまま脚本執筆が進んでしまったのではないだろうか。
そんな穿った見方をしてしまうほどに、今作の脚本は様々な要素がどうにも中途半端に処理されている。
キャラクター考①:ホルトの片腕設定はダンボの大きな耳に重なったか
復員兵の孤独〜居場所を失った家と人々の目線
コリン・ファレル演じるホルトは第一次世界大戦の復員兵であり、戦争で片腕を失くし生まれ育ったサーカスへ帰ってくる。
出兵前は“ケンタッキー州一の曲馬師”と称され、妻であるアニーと共にサーカスの看板になるほどのパフォーマーだった。しかし、復員して戻ってみれば戦争とスペイン風邪(=インフルエンザ)の影響で一座は経営難に陥り、アニーもまたその病魔により彼を待たずにこの世を去っている。
サーカス団は戦前、団員が大勢いた頃はそれなりに儲かっていたのだろう。冒頭では彼らの乗る列車:ケイシー・ジュニア号を子供たちが追いかけ、移動型のサーカスとは言え宿営地ではそれなりに広い部屋が与えられてもいたようだ。
それが戦後の混乱と病気の蔓延で団員は大きく減り、部屋は小さなテントになって家具も失っていた。ホルトの愛馬たちも売られ、ただでさえ腕を失ったホルトに仕事はない。遺されたのは、年端もいかない子供たちだけだ。
ミリーとジョー、二人の子供たちは待ち侘びた父の姿を見て目を輝かせながらも、汽車の吐き出す煙が晴れ、その失われた左腕が見えるにつれ、少しずつ表情が曇っていく。
父に駆け寄れない子供たちや、ホルトの帰還を歓迎しながらもその腕からは目を逸らしてしまう団員たちの姿に、バートンらしい人間への苦い目線が見え隠れする。
サーカスに出た際、観客から「曲馬のホルト・ファリアか?」と問われ、付け髭で雑に顔を隠しながら「彼は戦死した」と答える姿や、
ミリーがダンボとの火事消防パフォーマンスで高い台に登ろうとした際、腕がないためにそれを止めることができないもどかしい表情には、ホルトが失ったもの、変わってしまったものの痛みへの繊細なバートンらしい人物描写が感じられた。
ホルトの孤独とダンボの孤独は似て非なるものである
隻腕故に、サーカスでの仕事を失ったホルトが誰もやりたがらない象の飼育係に回されることで今作の物語は始まり、ダンボとホルトの関係も生まれるのだが……。
このホルトとダンボは、
“片腕が失われた”ホルトと
“大きな耳を持つ”ダンボ、
互いに“居場所がない者”、このサーカスにいる“異形”としてその孤独を重ねた物語を描くことが出来ただろうし、観ている側もそれを期待したはずだ。
しかし、今作はそんな両者の繋がりがきちんと描かれない。
そもそも、“喪失”というテーマはバートンの描く異形とは実は少し意味合いが違う。
バートンがこれまで描いてきた異形……それはバートンの幼年期の孤独のメタファーであり、生まれながらに“他者とは違う”=他者と分かり合えないことへのコンプレックスと苦悩を表すものだった。
そしてそれは今作において、生まれながらに大きな耳を持ち他の象と違って生まれたダンボの姿だ。
勿論バートンはこれまでの作品で喪失というテーマも描いてきてはいるが、今作においてのダンボとホルトは、似ているようで抱える背景がまず違っている。
真夜中に一人で亡き妻の写真を眺めるシーンや、犬たちを相手に投げ縄パフォーマンスの練習をし、それをメディチに見せて失敗するシークエンスにはホルトの苦悩が滲むが、ホルトは常にそうして象の世話から逃れようとしていてダンボとの絆は生まれない。
ジャンボが売られてからはダンボの世話はほとんどミリーとジョーに任せてしまい、ホルトがダンボを世話するシーンもなくなってしまう。中盤でダンボとジャンボを引き離すV・A・ヴァンデヴァーに放つ「乱暴はよせ、赤ん坊だ」などの台詞も、関係性を築くシークエンスがないのでイマイチ浮いている。
ボルトとダンボの共通項には共感が生まれないので、隻腕の苦悩は物語の中で別軸になり、テーマが分散してしまうのだ。
キャラクター考②:ミリーの夢と家業の葛藤はダンボと同じ異形だったか
科学を夢見る少女〜時代の先を行きすぎた女性像
ホルトの娘:ミリーもまた物語の中で“浮いた存在=異形”として描かれている。
サーカス団員の娘として生まれながら科学者になる夢を持ち、「見世物は嫌」とサーカスを否定する少女は、1919年と言う時代設定を考えれば圧倒的に異端だ。その精神性は『スリーピー・ホロウ』のイカボットや、『アリス・イン・ワンダーランド』のアリスにも通ずる、時代の中で“速すぎた存在”でもある。
サーカスの技術を無邪気に覚える弟のジョーと比べ、科学への夢を否定されホルトとの関係が決して良好ではないミリーには間違いなくバートンの描く異形の要素がある。
「サーカスの一家だ、夢を見ていちゃ生きていけない」
「家業だ」
というホルトの家父長制的な価値観と相反しながらも、「行く場所はないの」と自身の夢を半ば諦めているその孤独には、やはりダンボとの共感の芽がある。
しかし、このミリーの家族と自身の夢という葛藤も、物語の中で深掘りされることはない。
物語の大半はダンボを巡る事件に終始し、ミリーの内面に割かれる時間はない。彼女の科学の知識や好奇心は物語を動かす軸にはならず、弟のジョーとの立場の相違も活きてこない。
ヴァンデヴァーとミリーの共通項/ダンボとミリーの共通項
今作のヴィランであるヴァンデヴァーは親という存在を否定し、父親に捨てられたことで自身の仕事に奔走出来たと語る。
「誰にも夢を否定させるな」とミリーに説き、「子供が成長するというのは自力で生きる術を学ぶことだ」とヴィランの立場から語らせる。
そこでミリーとヴァンデヴァーに繋がりが生まれれば、ヴァンデヴァーのキャラクターにも深みが出ただろうし、ミリーとホルトの葛藤が物語の主題になり終盤のドラマにも繋がっただろう。
中盤でコレットがホルトに語る「完璧な親なんて求めてない、信じて欲しいだけ」という台詞も、その後の《ワンダーズ・オブ・サイエンス》での親子の会話も、物語の積み上げがないのでミリーの苦悩と解決に感情の盛り上がりがない。
ホルトがミリーの夢に反対していたのは序盤だけであり、ミリーからそんなホルトに対する感情も、ダンボが登場してからはほとんど描写されることはない。
この親子関係をきちんと描くならば、ダンボが初めてサーカスで飛んだ際の「知ってたのか」「親子の断絶だな」もギャグ的な演出でやるべきではなかっただろう。
母であるジャンボと離れ離れになったダンボ、
母アニーを失ったミリーと、
ダンボとミリーも共通項がある“異形同士”なはずだが、やはりミリーとダンボの共感は深く描かれない。
ミリーの母の形見の鍵とダンボが飛ぶための羽根を重ねて描いているが、その鍵自体が特に物語上の意味はなく、最後にミリーに捨てさせるためだけのアイテムになっているのも問題だ。
原作のティモシーの台詞に確かに、「悩みの種が幸せの鍵だったんだ」というものがあるのだが、それを物質的な鍵としてオマージュするのは意味合いが違ってきてしまうのではないか。
身も蓋もないが、このアイテムは鍵でなくて良かっただろう。
物語論:なぜダンボの物語と人間の物語が噛み合わないのか
増やしすぎたサブキャラクター,代弁者不在の主人公?ダンボ
今作の最大の問題点はまさにそこにある。
原作でのダンボの孤独を語る“ダンボの代弁者”がおらず、人間側もキャラクターそれぞれの悩みや葛藤が別々の方向に散っているため、終盤に向けて物語が収束していかないのだ。
例えばそれはエヴァ・グリーンの演じたコレットにも同じことが言え、序盤の彼女はヴィランであるヴァンデヴァーのパートナーとして現れ、メディチ・サーカスのみすぼらしいテントを鼻で笑い、ホルトに対しては一瞥すら向けない様子が描かれる。
が、その後ホルトたちがドリームランドに買収されると、彼女とヴァンデヴァーの支配的な関係性や、演目の稽古時には薄化粧になり懸命に取り組む姿を見て、ホルトや子供たちとの関係も変わってくる。
ダンボとの演目で飛行中の安全確保のネットが外されていたり、Disney+にある未公開シーンでは自身の看板がダンボのものに差し替えられるのを見つめるシーンなど、彼女の葛藤や変化も描かれていくが、既にホルトとミリーの物語すら深掘りされず、ダンボの物語ともうまく噛み合ってないので、ただただキャラクターの整理ができていないだけに見えてしまう。
ダンボがいなくても成立する物語になってしまった実写版
今作はダンボを主軸にしながら、ダンボの物語になっていない。ダンボの物語と人間の物語が乖離し、人間ドラマも描くべき要素が多すぎて一つ一つが表面的になぞっただけになる。
極論を言えば、今作の物語において、
ダンボの位置にいるのが“空飛ぶ大きな耳の象”である必要がまったくないのだ。例えばダンボの代わりに走りの悪いビンテージ車を置いたとしても、物語の終着点はそう変わらないだろう。
ダンボはあくまで人間側のドラマの舞台装置であり、彼らの物語と、ダンボとの関わりが著しく薄いのだ。
今作はホルトとミリーをW主人公とし、それぞれの傷をダンボの物語を同期させ、ジャンボとダンボをホルトとミリーの親子関係に対比させて描くことも出来たはずだ。
今作の人間ドラマには、原作にあった大切な要素がほとんど含まれていない。
物語はちぐはぐなのに、サーカスのテントが潰れる様や、ピエロメイクのダンボ、ピンクの象やサーカステントを飛び回るダンボなど、原作の名シーンはきちんとそのカット割なども含め出来る限り網羅しようとしているので、映画全体のバランスも悪くなったのではないか。
そもそも、原作はそのまま描いてもバートンらしい物語になったはずだ。
同じ象の群れの中で、僅かに他と違う要素があるだけで排斥されてしまうダンボ、
そんなダンボに寄り添うネズミのティモシーとの友情は異種間の関わりであり、サーカスの一団の中で最も大きな動物と最も小さな動物の友情、そんな小さなネズミのティモシーがダンボを排斥した象たちを一喝する姿、
そしてやはり異種間でダンボを馬鹿にしながらも、その飛翔を心から祝福するカラスの一団……
これらの要素は、これまでバートンが描いてきた物語と根底のテーマに繋がりがあり、フィルモグラフィー上での前作『ミス・ペレグリンと奇妙なこどもたち』でバートンはその物語に最高の結末を描いたばかりではないか。
例えば原作におけるダンボの被差別の要素にはホルトを、孤独の要素にミリーを、ティモシーの役割をジョーに振り、コレットはカラスの一団の役割にすれば、人間ドラマとダンボの物語はここまで乖離しなかったと思うのだ。
映像論:バートンらしいドリームランドの造形とやや期待はずれなピンクの像
映像には、確かにバートンらしい面白さもある。
《ドリームランド》のデザインは1930年代のコニーアイランドを基にし、今作の時代設定とは幾分ズレてはいるのだが、そこはまさに時代を曖昧にするバートンらしい意匠があり、その豪華絢爛さとメディチの移動型サーカスの対比も面白い演出だ。
ダンボの母:ジャンボが囚われている《ナイトメア・アイランド》の造形はバートン好みの怪奇映画趣味に溢れており、狼やワニにメイクを施して作られたアトラクションは、実際に見てみたいと思わせる楽しさに溢れている。
終盤このナイトメア・アイランドを舞台に繰り広げられるジャンボの救出作戦でも、動物の影が暗闇から出てくる演出にはそうしたホラー映画の雰囲気が感じられ、短いながらもバートンらしい映像が微笑ましい。
しかし原作においてダンボが誤って飲んでしまったお酒に酔って見る“ピンクの象”のシークエンスは、当然その飲酒自体が動物虐待を思わせるためかカットされ(団員がパフォーマンスを大成功したダンボに「乾杯だ」と言って団長に止められるシーンはあり)、ドリームランドでのダンボお披露目の際の前座として披露されたが、こちらはバートンらしいサイケな色合いながら、全編CGでシーン自体も短くイマイチ盛り上がらない。
64分しかない尺のうち4分以上も使っていた原作とは比べるべくもなく、このシークエンスでの団長とヴァンデヴァーの
「ピンクの象?」
「いかんか?」の会話に至ってはもはや自由に演出出来なかったことへの皮肉にも感じてしまう。
演出論:CGでありながら実体性のあるダンボ/感情をなくした原作代表曲
クリーチャー・パフォーマーの演じる実体としてのダンボの存在感
物語の主役であるダンボは、勿論キャラクターとしてはCG処理せざるを得ないのだが、モーションキャプチャーでクリーチャー・パフォーマーのエド・オズモンドがほとんどのシークエンスを役者たちと共に演じ、その感情をきちんと観ている側に伝えてくれる。
役者たちは何もない場所に向けて演じているわけではなく、きちんとダンボの存在や肉体を感じながら演技をしているので、今作のダンボには生きた存在の手触りがある。
リアルな象の質感はやはりアニメーション版のような可愛らしさよりも幾分“気持ち悪さ”も感じてしまうのだが、つぶらでキラキラとした瞳の輝きにはしっかりとディズニーのスター・キャラクターらしい華がある。
だが、今作のダンボは、断じてあのダンボではない。今作のダンボは、ずっとただ可愛いだけの空飛ぶゾウで、数々の原作オマージュも単なるファンサービスに終わっている。
原作でも登場したダンボ視点のPOV演出にしても、その象のやや狭く潤んだ視界は映像としては面白いが、それが今一つダンボの感情表現には繋がっていない。
サーカスに初めて出演した場面や、ドリームランドに連れて行かれる際など、ダンボが恐怖を感じるシークエンスでPOVは演出されていると思われるのだが、感情の変化を表すならまったく別の場面でも用いた方が良かったのではないだろうか。
結果として、ダンボは今作の物語の中でどんどん単なる象徴になってしまう。
最終局面ではホルト親子を助けるために自ら火の中に飛び込んでいくが、これもダンボの成長と言うより、ミリーの物語のための舞台装置としてしか機能していない。
このあたりになるとダンボが急に知性を増す代わりにヴィランのヴァンデヴァーの知性が著しく落ちて滅茶苦茶な行動をし始め、そのディズニーヴィランらしい末路には思わず笑ってしまうのだが(笑)。
名曲「Baby Mine」の無意味な消費とサーカス団
団長のマックスをダニー・デヴィートが演じている時点でサーカス団の雰囲気もほぼそのまま『ビッグ・フィッシュ』と変わらず、彼らの出し物や終盤のジャンボを取り戻す際の闘いなどにはバートンらしい演出が見え隠れしているが、キャラクターは皆ディズニーらしい善人で個性は感じられない。
序盤に登場するルーファスのホルトへの歪んだコンプレックスには深掘りできる要素があった気もするが、その役割がそのまま原作の名もなき意地悪少年なため、序盤でテントの下敷きになってあっさり退場してしまう。
マックスは財政難で様々なものを売り払ったり団員に無理を強いたりもしていたが、基本的にはずっと善人で二面性というほどの行動もないのでそれ以上の展開には繋がらない。
ヴァンデヴァーによって団員たちがクビにされるエピソードは『グレイテスト・ショーマン』(2017)そのままだが、マックスの側の葛藤は描かれず、団員たちも聞き分けが良いのでエピソードとして機能しきってはいない。加害とそれに伴う痛みがあればこそ「This Is Me」は輝き、後の反省に繋がるが、それがなければあの物語の感動は生まれないのだ。
何より問題なのは、ミス・アトランティスが歌唱する「Baby Mine」だ。
今作は原作と違いミュージカル作品ではなく、劇中で歌が歌われるのはこの曲だけだが、これは本来、離れ離れになってしまったダンボに対して、母ジャンボが「泣かないで、大丈夫」と伝える歌のはずだ。
しかし、今作のジャンボは動物なので当然歌など歌わない。その代わりにミス・アトランティスが歌うのだろうが、彼女は劇中の誰の母でもなく、この歌を歌う理由がないのだ。
原作を象徴する名曲としてどうしても使わなければならなかったのかも知れないが、結果としてこれでは単なる場面BGMになってしまい何の感情も乗らない。
せめて、ミリーらの亡き母アニーが歌った曲、と回想で語るなど意味をつけられなかったのだろうか……。
作家論:バットマンvsペンギン再び……キャスティングに見るバートンの作家性
物語は終始ダンボの扱いに迷い、主軸となる人間側の主人公も定まっていないが、そんな中で唯一バートンらしい毒の欠片を見つけることが出来る。
それが、ヴィランであるヴァンデヴァーとサーカス団長マックスの関係性だ。
実はこの二人は同じくバートン監督作の『バットマン リターンズ』でも共演しており、今作ではこの二人の物語がキャスティングの”メタ的な見方”をしても非常に面白いことになっている。
メイキングでデヴィートは「前回は僕が悪役、彼が善玉、今回は逆」と語っていたが、問題はそこではない。
この二人の配役は、役柄の“立ち位置”は変われど、キャラクターの“立場”については何も変わってないというのが重要だ。
マイケル・キートン:V・A・ヴァンデヴァー/バットマン=ブルース・ウェインはどちらの作品においても“持つ者”の立場だ。確かにバートンの描くブルースは孤独だが、彼は大富豪の側の人間であり、バットマンも世間に認められたヒーローである。バットマンとヴァンデヴァーは、《資本家》という立場については何ら変わらない。
ヴァンデヴァーは大企業の社長であり、多くの部下がいて、金融業者とも繋がりがある。資本主義の象徴たる、ディズニーらしいヴィランだが、ではバットマンはどうか?彼もヒーロー活動という一点を除けば、ヴァンデヴァーと変わらない、恵まれた存在だ。
一方ダニー・デヴィート:マックス・メディチ/ペンギン=オズワルド・コブルポットはどうだっただろう?彼は両作品“持たざる者”だった。ペンギンは親に捨てられ、サーカスに育てられ、その痛みを引きずりヴィランとなった。そして、その最期は冷たい水路で仲間にも見捨てられ、ペンギンたちだけに看取られて死んでいく。彼は、家族を得られなかったマックスであるとも言えるのだ。
マックスも今作で一度はヴァンデヴァーに騙され、彼の家族を裏切ろうとするが、最終的にはメディチ・「ファミリー」・サーカスの団長として愛する団員たちに囲まれ、新たな家族と再起することになる。
この勝敗の逆転劇が、異形が居場所を手に入れるという前作からのバートンのテーマに合致しており、『バットマン リターンズ』からの歴史を踏まえると非常に意義深いのだ。
ヴァンデヴァーの秘書を務めたサザビーが反旗を翻すのも、バットマンの唯一の家族が執事であるアルフレッドであることを考えると最高に皮肉が効いている。
後にバートンは今作を振り返り、2022年のリュミエール映画祭にて
「自分はダンボで、ディズニーは“巨大なサーカス”だった」とまで語り、
「僕自身がこの恐ろしい巨大サーカスで働かされるダンボで、そこから逃げ出さなきゃって気づいたんだ」という言葉を残している。
自身のキャリアはディズニーのアニメーターから始まり、だからこそディズニーには出来る限り寄り添ってきたと自著の中でもバートンは記していたが、やはり今作も自由な創作環境であったとは言い難いのだろう。そんな中で、脚本の流れに逆らわず、彼を知る人だけがわかるように忍ばせたこの演出の毒が、バートンの芸術家としてのせめてもの抵抗だったのかも知れない。
ヴァンデヴァーのキャラクターをウォルト・ディズニーのメタファーと見る向きもあり、ラストで《Dream Land》の“D”が外れて《ream Land=懲らしめランド》になるところや、ジャングルに返すダンボの額の“D”マークをコレットが剥ぎ取るシーンをアップで入れるなど(これはCGと手だけのシーンなので、“わざわざ”入れてるのは明白だ)、わかりやすすぎるほどにわかりやすい「D」isneyへの不満の発露は、今作の感想としてバートンやクルーガーへの不満を述べること自体がお門違いな気さえしてしまう。
総括:ディズニーとの絶縁宣言に繋がったバートンと大資本との軋轢の終焉
映像やカット割に原作ダンボへの出来る限りのリスペクトが感じられたり、服を着たティモシーのようなネズミがいたり、ダンボが生まれた夜にはコウノトリが飛んでいるような描写もある。一人一人丁寧に演出された視線や言葉の雰囲気など、細やかな人間ドラマの描写には、バートンらしい演出もきちんと見え隠れはしているのだ。
ただそれはあくまで脚本の行間にある物語を演出や役者の力で補っているに過ぎず、今作の物語自体はやはり整理されずに散らかされたまま終わってしまっている。
ティム・バートンの作家性は漂白され、ディズニー9:バートン1くらいの割合ではないだろうか。これならば別段、この脚本はティム・バートンが撮る必要はない。
今作の製作発表がされた際「バートンが撮るゾウなんて誰が観たいんだ?」と冗談混じりに言ったことがあるが、そもそもダンボにほとんどカメラが向いていない作品になってしまっていたのだから何とも言い難い。
『マーズ・アタック!』『PLANET OF THE APES/猿の惑星』などの作品的低評価によって「バートンに宇宙はダメ」なんてレッテルが貼られてしまった気もしていたが、それに続き今作で「バートンに動物はダメ」レッテルまで貼られてしまったのではないだろうか……。
いや、まぁそれより何より「バートンにディズニーはダメ」が大正解なのか……。
この『ダンボ』からしばらく、コロナ禍も合わせて映画を撮らず、引退まで考えたほどだったというバートン。そんな彼がコロナ禍が収束に向かった2024年、次作『ビートルジュース ビートルジュース』にて「(ダンボでの自分の演技は)バートンを失望させたかも」と語るマイケル・キートンと36年ぶりの続編を撮ったことを考えれば、今作もフィルモグラフィーにおいて必ずしも無駄にはなっていないのだろう。
⭐ 2.0 / 5.0
📅 2025/10/01(Disney+)
全作品のレビューがまとめて読みたい方はこちらから!
🧑🧑🧒 ティム・バートン“親としての異形愛期”考察レビュー

コメント