ティム・バートン全作品レビュー2
――“異形”の友と作り上げた、散らかしたおもちゃ箱の世界
作品データ
原題:Pee-wee’s Big Adventure
監督:ティム・バートン
脚本:フィル・ハートマン
ポール・ルーベンス
マイケル・ヴァーホル
音楽:ダニー・エルフマン
撮影:ヴィクター・J・ケンパー
上映時間:92分
出演者:
ピーウィー・ハーマン:ポール・ルーベンス
ドティ:エリザベス・デイリー
フランシス・バクストン:マーク・ホルトン
シモーヌ:ダイアン・サリンジャー
ミッキー:ジャド・オーメン
ラージマージ:アリス・ナン
ケヴィン・モートン:ジェイソン・ハーヴェイ
※本レビューにはネタバレを含みます。
総文字数:7670文字
読み終わるまでの時間:約19分
製作背景:恩人・ポール・ルーベンスとの出会いと初期衝動
ティム・バートンのディズニー退社後、実写長編としては初の監督作品。
ポール・ルーベンスが演じる《ピーウィー・ハーマン》という人気キャラクターを主人公とした映画シリーズの第1作目だが、バートンが監督を務めたのはこの一作のみである。
ピーウィーことポール・ルーベンスの半自伝的シリーズで、前作『フランケンウィニー』(→『フランケンウィニー(1984)』考察レビュー)を観たルーベンス本人とプロデューサーからの打診により、若き日のバートンが監督として雇われた。ディズニーから退社し、クリエイターとしての先行きが見えなかったバートンにとって、この誘いは非常に大きなチャンスであったに違いない。実際、ルーベンスとバートンの関係は後年まで続き、2023年のルーベンス逝去の際にもバートンは追悼のコメントを出している。1991年のルーベンスのスキャンダル直後にも、そのカムバックの後押しをするかのように『バットマン リターンズ』(→『バットマン リターンズ』考察レビュー)にキャスティングしており、バートンにとっては恩人とも呼べる存在だったのではないだろうか。
次の映画製作の話が自分にくるかもわからない、ある種“背水の陣”とも言うべき状況下で作られたためか、
前作『フランケンウィニー』がバートンの創作の“魂の初期衝動”だとするなら、
今作は“映像作家の初期衝動”。
後の作品群に繋がる、バートンの持てる映像技術のほとんどが、この初期作品には目一杯に詰め込まれ、ジャンル不問の“変な映画”として見所たっぷりに仕上げられている。
一方、後述する1985年という時代性を背景とした無意識的な暴力性……“強いアメリカ”の表像は2020年代に観るとさすがに古さを感じるが、そこは80年代のハリウッドの共通認識だったということを捉えておきたい。
ティム・バートンの世界:摩訶不思議な空想と現実の狭間
ティム・バートンの描く世界は、『ビッグ・フィッシュ』に到達するまではどこか現実と空想の境界が曖昧な描かれ方をしてきた。前作のアニメーション的な動物墓地のデザインにしてもそうだが、『バットマン』のゴッサム・シティのような原作付きのもののみならず、『シザーハンズ』や『マーズ・アタック!』などに登場する実在する土地や街であっても、そこにはバートンらしい“少し不思議”な違和感が潜んでいる。それが物語を空想化し、時間や場所を曖昧にする効果を生んでいるのだが、この初の長編作品でそのフォーマットは既に固まっていたと言って良い。
冒頭ピーウィーが住む家には近未来的な全自動朝食作り機があり、洗面所の窓の外の風景が水槽になっていたりと、まるで現実とは思えないギミックが繰り出される。この朝食作り機のピタゴラ装置的な造形は後の『シザーハンズ』や『チャーリーとチョコレート工場』に綿々と続いていく、まさにバートン印の萌芽。この世界観の楽しさに早速胸を掴まれてしまう。
レコードに繋がる目覚まし時計で目を覚まし、登り棒を伝って階下に降りていくピーウィーは、その一瞬でパジャマからスーツへと衣装が変わっている。普通の人間が使うには大きすぎる歯ブラシで歯を磨き、何故か顔中にセロハンテープを巻きつけて身嗜みを整え、満足げな顔をする。そうしてやはり大きすぎるバターナイフとフォークで食事をしていくが……このどう見ても奇天烈な人物を独特のポップさで見せてしまうから不思議だ。冒頭わずか5分、既にバートンとピーウィーの不思議な世界に取り込まれてしまう。
ピーウィーの自宅の庭に所狭しと並べられた置き物は雑多で何の統一感もなく、見ようによってはゴミ屋敷のようにも見える。かと思えば、物語の主役である自転車の格納庫はやけにハイテクな近未来SF風の機材で隠してあり、そのスイッチが桜の木の枝であることも、お洒落かつ不思議な世界観を後押しする。
このやりたい放題の冒頭シークエンスが、まさにこの映画を象徴しているのだ。バートンは今作の映像に、自分の持っているすべて、やりたいことをとにかく全部、無節操なまでに詰め込んでいる。そのすべてが効果的とは言わないが、ポール・ルーベンスの描くピーウィー・ハーマンという“極端なキャラクター”を描いたドタバタ・コメディの脚本は、そのバートンの溢れる創造性を受け入れられるほどに破茶滅茶で、自由度も高かった。また、ピーウィーの部屋や庭にある置物の一部にはルーベンスの私物も含まれていると言い、この奇妙な映像が、監督と主演:二人の特異なクリエイターの共鳴から生まれた“おもちゃ箱”の映像化であることがわかる。
奇妙なデザインの装置や機械だけでなく、ストップモーション、ホラー演出、騙し絵、モノクロ映像……中盤ではなんとバートンのかつての主戦場、アニメーション表現まで飛び出す。この後の作品でもさまざまな演出をバートンは模索していくが、セル画アニメーション表現まで取り入れたのは実は今作が最初で最後。そういう意味でも、他で観られない魅力が満載の作品と言える。
ピーウィーという“異形”
ピーウィー・ハーマンに隠された“孤独”とバートンの描く“異形”
バートンの奇妙な世界観のすべてを引き受ける主人公:ピーウィー・ハーマンは、後のバートン作品に登場する“異形たち”に連なるキャラクターだ。
ピーウィーは元々ルーベンスが所属した即興コメディ集団《ザ・グラウンドリングス》が作り上げたキャラクターで、今作公開の翌年には子供向け番組の看板も持ち、子供にも大人にも大人気のキャラクターだったと言う。子供じみた言動に、ポールの長い手足を利用した大きな動き、大袈裟な笑い方……とかなり極端なキャラクターに設定されている。
が、ピーウィーは後のバートン作品の異形たちのように、見てすぐにわかる孤独に取り憑かれたキャラクターではない。自転車が盗まれたと言えば捜索を手伝うためにそれなりの人数の人間を集めることが出来るし、冒頭シークエンスで奇妙な機械で庭に水を撒き散らす際も、隣の家の住人は嫌な顔ひとつせず窓を閉めてそれを受け入れている。
ピーウィーは奇妙ではあるが、孤独ではない。後の作品の異形たちが他者に対して心を閉ざし、(あるタイミングの作品群までは)物語の作中最後までその孤独を解消することがなかったのに対し、ピーウィーはその奇妙さが受け入れられている。
しかし、どこか女性に及び腰なところや、ドティーに対しての「だが君は僕を分かってない。分かろうと思っても君には分からない。分かってはならないのだ」という台詞の、自身の奇妙さと周囲の差異による孤独の滲み方には、バートンとルーベンスがなぜ後年まで付き合いが続いたのかが詰まっているような気がする。子供向け作品という装飾の内側に、どうしても隠しきれない“異形の孤独”が、バートンとルーベンスの表現の根を繋いでいたのだと思う。
レーガン大統領下の時代が生み出したブラック・ジョーク
ピーウィーの性格設定を観ていると、80年代の“子供向け”作品のややブラックなジョークは、2020年代には改めて新鮮に映る。
ピーウィーは子供っぽく、自転車の乗り方で子供と張り合ったり、癇癪持ちなところは常識的な大人とはかけ離れている。しかし、劇中ドティーやシモーヌへの応対には一歩引いたところは見せるものの、ロマンスそのものの否定はしないし、彼女らに自分をよく見せようとすることは決して忘れてはいない。更に、自転車に掛けた賞金を1万$という極端に大きな数字にする子供っぽさと、それを「払う気はない」と言い切る小狡さも併せ持っている。“子供大人”的なキャラクターではあるが、ドティーにうまく取り入ってバス代を送らせようとするなど、現実にいそうな大人としてのリアリティは絶妙に残されているのだ。
こうしたキャラクター造形は、80年代〜90年代のコメディ・子供向け番組や映画には多かったような気がする。子供向けではあるが、大人が観たときにも納得できる“ギリギリの狡賢さ”を表現することに、時代も当時の子どもたちを囲む親たちも寛容だった時代である。
同時にそれは1980年代のアメリカが、レーガン大統領下による“強いアメリカ”の時代であったことも関係しているのかも知れない。ベトナム戦争後の社会の暗さを跳ね返すように、アメリカのポップカルチャーが黄金期を迎えた時代。
作中重要な位置を占める《アラモ》でピーウィーが言う「アラモは忘れない(=アラモを忘れるな);Remember the Alamo!」とは、メキシコからテキサスが独立した際の1836年《アラモの戦い》での合言葉であり、アメリカにとっては困難な状況でも諦めない勇気の象徴のような言葉である。この戦闘では当然多くの犠牲も出ているが、ソ連(ロシア)との冷戦下でアメリカの国力を上げることが最優先事項であった当時のアメリカにおいて、こうした言葉をパロディ化することが、子供にとっても当たり前だった時代だということだ。
中盤のミッキーの車での警察を誤魔化すための女装仕草や、同じく車が落下するシーンでのゲイセクシャルを揶揄するような会話など、今作には2020年代に観るとどうしても古さを感じる笑いの仕草も多く含まれている。理解できないことも、抵抗を感じることもあるだろうが、同時にそれだけ映画作品というものが時代を切り取ってる証左でもあると思うので、こうした描写も、切り分けながら楽しみたいものだ。
不可思議なロードムービー
バートンが撮りたい画とジャンルの詰め合わせ
このピーウィーが自身にとって命より大切な赤い自転車を盗まれ、それを取り返すために奔走するというのが今作の物語だ。言ってしまえば本当にそれだけで、物語にテーマやメッセージらしいものはない。
自転車を巡る旅の中でピーウィーが様々な人々と出会い、様々な場所で騒ぎを起こすロードムービーなのだが、ここでバートンは、シーン毎に様々な映画ジャンルの撮り方を試していく。製作現場は毎日違う映画を撮っているような有様だったと言い、バートンがとにかく貪欲に映像を作っていたのが伝わる。
ある場面ではホラーになるし、ある場面ではアクションになる。フェデリコ・フェリーニライクな映像トリックを用いることもあれば、ロマンティックなラブ・ロマンスもある。
その中でも、何度か登場するピーウィーの見る悪夢の演出が最高だ。
ミニチュアとストップモーションの融合で見せる自転車が恐竜に食べられる夢と、二度目の夢ではピエロのような奇妙なメイクを施した医者たちが、ピーウィーの自転車を解体しようとする。このピエロの口が裂けたメイクはまさに後の『バットマン』のジョーカーの原型で、バートン世代の《道化恐怖症》の性質が表れている。悪夢のシークエンスは敢えてチープなお化け屋敷的映像にすることで、その異質さを高めており、自転車を担架に乗せて走る廊下の幾何学模様などは、次作『ビートルジュース』でも使われている。豪華なセットでは出せない独特の恐怖感を煽る、サイケデリックで手作り感満載のバートン・ワールドは間違い無く見どころの一つで、観てる側を悪夢の世界に取り込んでしまう。
中盤ミッキーと別れたあとトラックに乗せてもらう大女(ラーズ)マーズの件も最高で、よくある「あの日もこんな夜だった……」という怪綺譚の定型から、ストップモーションでのジャンプスケアは、ホラーではあるのにどこかコメディらしい軽さがあり笑える。
こうしたギョロ目造形は『ビートルジュース』や『マーズ・アタック!』でも観られるバートンの得意技で、死者や霊魂に対して過剰な恐怖心がないのはバートンの意匠としてここから長い期間を経て更に成熟していく表現だ。
ポール・ルーベンスとバートンが後世に与えた影響
ホラー演出がある一方、ロードムービーの楽しさも忘れてはいない。
切れた手錠を手にぶら下げ、どう考えてもベンチを切り刻んだだけで済んでなさそうなミッキーとの友情は笑えるし、アラモで出会う《悪魔の手先団》というバイカーたちとのやり取りも実に楽しい。電話の邪魔だと会話を遮り、バイクを倒してリンチされそうになるも、“ブレークダンス”(注:ブレ「イ」クダンス)で和解してテキーラで乾杯、というところと、その舞台となる店がいかにもメキシコの田舎街にありそうなウェスタンスタイルの店なのも洒落ている。いつのまにかバイカーたちとは仲良くなって肩まで組んでいるが、愛車を愛する者同士、通じ合うことがあったのだろう。
汽車の中で謎のおじさんと歌いながら旅を楽しみ、しかしその歌声に段々我慢ができずに降りた先がアラモだった、というシークエンスや、譲ってもらったバイクで走り出すが看板に突っ込んでものの数秒で事故で終わり、というのも今では鉄板的とも言える“お笑いの定型”だ。
ピーウィーのお笑いには、現代に繋がる様々な要素が見て取れる。
スーツ姿で耳に手を当てる仕草や、デカ耳、デカ指のおもちゃなどは日本のコメディアン、《マギー審司》氏への繋がりを感じさせるし、その風貌などには後の《Mr.ビーン》への影響も感じられる。ピーウィー・ハーマンのキャラは後に日本にも輸入され、和光証券のCMに出演したり、とんねるずの木梨憲武氏が「ノリー・ハーマン」というパロディを演じたりもしていたそうだ。80年代に一世を風靡したこのキャラクターが後のコメディアンに与えた影響は、意識的にせよ無意識的にせよ大きなものだったのだと思う。
一方でピーウィーがアラモにいくキッカケとなる占い師のシークエンスでは窓から見える文字から適当なお告げを占い師が告げるシーンがあり、これは『ユージュアル・サスペクツ』(1995)への影響も感じる。バートンの初期作品として、映画作品としても、やはり多方面への影響を感じざるを得ない。
映画オマージュ:やりたい放題する遊び場としての映画製作
そんなピーウィーの偏執的な自転車への執着に、バートンはとことん寄り添いながらカメラを向ける。自転車を丁寧すぎるほど丁寧に拭き上げる姿や、自転車をピエロの置物に鎖でぐるぐると巻き付ける姿にしっかりと長い時間を使ってシークエンスを作り、自転車が盗まれた後のピーウィーの落ち込みようにも様々な演出をつける。その執着は劇中の誰にも、観客にさえ理解はされないが、最後にはきちんと自転車を取り戻すハッピーエンドに収めてくれる。
ラストシークエンスではまたもバートンがやりたい放題、大量の映画オマージュを炸裂させ、そこには低予算規模の作品とは言え、自由に映画作りをさせてもらえる環境にいられることの喜びが満ちている。
映画スタジオに紛れ込み、愛する自転車を取り戻すシークエンスでは、
ドラマ『宇宙空母ギャラクティカ』(1978〜)
『ゴジラ』(1954)
『類猿人ターザン』(1932)
『ET』(1982)
と言った映画のオマージュシーンに、ビーチ映画のサーファーやクリスマス映画のサンタまで巻き込み、007ライクなバイクアクションまで見せつける。これらのバートンが影響を受けてきた様々な映画の要素は、純粋にそれを「自分のカメラで撮ってみたい」という無邪気な気持ちの表れだろう。
このシークエンスの劇中ゴジラの撮影スタッフが日本語まで喋っているのには要注目だが、実はこのゴジラ、使用許可を取らずに勝手に撮影したということで後に東宝からワーナーが訴えられたという裏話付き。2012年の『フランケンウィニー』ではきちんと許可取りしてガメラを出しているので、この頃の無知さややりたい放題ぷりはむしろ愛おしい。
途中にはロックバンドのMV撮影の現場に突っ込むシーンもあり、MTV全盛期の、どこかで観たことがあるようなMVの雰囲気もよく再現されている。
愛する自転車のためにスタジオの警備から逃げ回り、大立ち回りのアクションを繰り広げるが、ペットショップの火事を見過ごすことは出来ずに捕まるところがご愛嬌。ピーウィーというキャラクターが、奇妙でありながら人に愛される要素はまさにここで、こうした根の優しさが“子供向け作品”として丁度良い落とし所である。
同時に、こうしたどうしようもない不器用さもまた、バートンとルーベンスの間に生じた共感の証でもあるのだと思う。
ダニー・エルフマン:映画音楽初仕事の天才が見出されたもの
ジャンル不問・物語は滅茶苦茶……しかしそんな今作で、ここからバートンと長い長い付き合いになるダニー・エルフマンも映画音楽デビューを果たしている。
正確にはこれより以前、自身の兄であるリチャード・エルフマンが監督した『フォービデン・ゾーン』(1980)にて音楽を担当しているが、こちらはミュージカル映画なのでまだ当時エルフマンが所属していたバンド《オインゴ・ボインゴ》での製作スタイルに近かった。
今作ではオーケストレーションを始めとしてほとんど1から映画音楽を勉強して曲作りをしており、シーン毎にジャンルが変わるおもちゃ箱のような映画の中では、必要となる楽曲も多岐にわたる。緊張感のある楽曲から、軽快で踊り出したくなる曲まで、多種多様様々な楽曲が映画音楽デビューの作曲家から出てきていることにも驚かされ、バートン×エルフマンの黄金コンビが、同じようにこの作品でデビューを飾ることになったという事実含めて面白いものだ。
これだけ滅茶苦茶な映画でデビューを飾ったからこそ、後のどんな作品においても、互いの波長に合わせて最高のコンビネーションを見せてくれているのだろう。
総括:監督 ティム・バートンが“生まれた”日
今作はとにもかくにもトリッキーな作品で、まとまりという意味ではまったくそんなものは無視されている。
ルーベンスとピーウィーというキャラクターを描いた脚本に、バートンがとにかく描きたいものを全部押し付け、ひっくり返したおもちゃ箱をそのままにしているような作品だ。後の作品のような、一本の映画における芯のようなものはないし、とにかく衝動が溢れて止まらないというような作品ではある。けれど、ここには、ただただ映画作りが楽しくてたまらない若きクリエーターの、溢れんばかりの情熱と空回り寸前の気迫がドキュメンタリーのように閉じ込められており、主演のルーベンスもまた、そんなバートンの作る画をひたすら楽しみながら演じているのがよくわかる。事実、映画は興行・評価共に上上で、この後一躍有名監督の仲間入りをしたバートンの元には、数えきれないほどの脚本と映画化の企画が送られてくることになる。
ラストはピーウィーのドタバタがカメラに収められ、それをワーナーが映画化したい、と言い出すメタ的な劇中劇で幕を閉じる。まさに今作自体がそれで出来た映画、とはならず、画面に映し出されるのは007風に美化された『ピーウィーの大冒険』。旅の中で知り合った仲間たちと、ドティーと約束したドライブ・イン・シアターでそれを観るという大団円、バイク泥棒のフランシスは吹っ飛ばされて、と文句なしのハッピーエンドだ。
ドティーはずっとピーウィーに好意を示して、劇中劇の二人は熱いキスを交わしてるのに現実の二人はそんなことはしない。そういうどこか照れ屋な演出も、ルーベンスとバートンの共通項だったのかも知れない。ラストシーンまで観る必要はない、だって「あれは僕だ」。
ここから続いていくバートンのキャリアを指し示すかのような終わり方にはグッとくる。今作こそ、ティム・バートンとダニー・エルフマンの伝説の始まり。バートン作品が好きなのであれば、『フランケンウィニー』以上にやはり抑えておきたい作品だ。
⭐ 3.0 / 5.0
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🎬 ティム・バートン初期作品考察レビュー

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