『バットマン』(1989)考察レビュー|アメコミ・ムービーの歴史を塗り替えた!孤独なバットマンとサイコなジョーカー像を創り上げた原初の作品

映画バットマン(1989)のネタバレ感想 ティム・バートンのバットマンシリーズ第一作目 ジャック・ニコルソンのジョーカー

ティム・バートン全作品レビュー4

――男は一度も笑ってはいなかった……アメコミヒーローの定義を変えた異形の誕生譚

作品データ

原題:Batman

監督:ティム・バートン

脚本:サム・ハム

ウォーレン・スカーレン

原作:DCコミック『バットマン』

ボブ・ケイン

音楽:ダニー・エルフマン

プリンス

撮影:ロジャー・プラット

上映時間:127分

出演者:

ブルース・ウェイン《バットマン》:マイケル・キートン

ジャック・ネーピア《ジョーカー》:ジャック・ニコルソン

ヴィッキー・ベール:キム・ベイシンガー

アルフレッド・ペニーワース:マイケル・ガフ

アレクサンダー・ノックス:ロバート・ウール

カール・グリソム:ジャック・パランス

ボブ:トレイシー・ウォルター

ジェームズ・ゴードン総監:パット・ヒングル

ハービー・デント検事:ビリー・ディー・ウィリアムズ

エクハート警部補:ウィリアム・フットキンス

本レビューにはネタバレを含みます。

総文字数:9393文字

読み終わるまでの時間:約24分

目次

製作背景:80年代後期アメコミのリアル化

ティム・バートン監督による、DCコミック『バットマン』の実写映画化作品。
それまでにも何度か映像化されてきた人気コミック/キャラクターではあるが、今作から始まる4作のシリーズが、後のクリストファー・ノーラン監督シリーズや『THE BATMAN-ザ・バットマン-』(2022)などへ繋がる“ダークなバットマン”のイメージの源流。

アメコミ映画は2025年現在ではMCUやDCEUなど、様々なシリーズ・ユニバースが生まれ一般認知度も高くなったが、今作発表当時の1989年は、まだその競合の数自体が限られていた。アニメやゲームはそれなりの数があったが、実写化作品はクリストファー・リーヴ主演の『スーパーマン』(1978)のシリーズくらいで、バットマンも映画化作品は1966年に始まったABCのドラマシリーズ『怪鳥人間バットマン』の劇場版、『バットマン オリジナル・ムービー』(1966)だけであった。

(正確にはモノクロ時代に“連続活劇”バットマンのシリーズが2作あるが)

両作品共に少年向け冒険活劇としてのスーパーヒーロー映画であり、今のように「ダークはDC」という言葉も(あのマーベルのお騒がせヒーロー曰く、だが)イメージとして浸透してはいなかった。潮目が変わったのは1986年刊行の『バットマン:ダークナイト・リターンズ』(作・画:フランク・ミラー)が契機であり、そこからアメコミの流行自体がダークでリアルな世界観へと移行することになる。そんな潮流の中で映像化された今作の“バットマン像”も、それを加速させた一因だったことは間違いない。

子供向けの勧善懲悪のヒーローから、バートンの意匠を大きく反映したダークでシリアスな世界観へ。今作は筆者にとってもそれこそVHSがすり切れるほどに観た、洋画・アメコミヒーローデビューとなった思い出深い作品であり、そうした個人的な思い入れを抜きにしても、この『バットマン』こそ、バートンの“孤独の異形”の姿を決定付けた傑作の一つだ。

ティム・バートン×アントン・ファースト:唯一無二のゴッサム・シティ

ゴシック美術の荘厳さと近現代スラム街の融合

画面はこれまでのヒーロー映画のイメージと大きく異なり、終始薄暗く燻んだバートン・カラーで、『シザーハンズ』や『スリーピー・ホロウ』などに見られる画面作りの基礎が出来上がっている。
舞台となるゴッサム・シティは原作から登場する架空都市。ニュージャージー州に位置しているという設定になっているが、こうした架空都市の設定はそもそもバートンの作風と相性が良い。空想と現実の境界をぼかしながら世界を作るバートンにとって、架空の犯罪都市という舞台は物語を作りやすくもあったのだろう。

今作のゴッサム・シティのデザインは『フルメタル・ジャケット』(1987)の美術監督アントン・ファーストによるものであり、ゴシック様式と工業地帯の都市観が掛け合わされたどこか無骨で時代を超越した街の雰囲気は、後の映画シリーズやドラマ化作品と比べても唯一無二のものだ。
街の表面を飾るゴシック様式の建物の荘厳さと、その裏にある打ち捨てられたスラムの様な現代的薄汚さ。アルコールや排泄物の匂いまで漂ってきそうなその街の裏側には、ゴッサム・シティのヴィランの気配がしっかりと息づいている。
また、かと思えば中盤バットケイブへと向かう道中には、現代社会にはとても似つかわしくないような生い茂る森が存在しており、“街の中に存在する異界”として、『シザーハンズ』に繋がる意匠も感じられる。

人間・バットマンを際立たせるガジェット

バットマンのスーツのデザインも、それまで原作に登場し、映像化もされてきたタイツ状のものではなく、防刃・防弾性能に強いボディアーマー形式のものになり、戦闘におけるリアリティが増している。
その分、首周りが固定され動きがつけにくかったり、アクションにおける動きもその重量のためか非常に緩慢でもっさりとしているのだが、それが逆に“超能力を持たないヒーロー”としてのバットマン像を強く印象付ける。後にこのバットスーツはリアリティ表現に流れていく原作へも逆輸入されるのだから、今作と原作の相互作用も理解できるというものだ。

中盤登場する空飛ぶバットウィングやジョーカーのヘリをミニチュアで撮影していたり、バットモービルの形態変化をストップモーションで撮っていたりとバートンらしい画作りのギミックもたっぷり。
CGの発達と共に実写映画がカートゥーンの世界に追いついていく00年代から10年前の、ヒーロ映画前夜。工夫を凝らしたデザインと演出によって、この一作だけでも原作に登場するバットマンのガジェットやアクションは出し惜しみせずに見せてくれる。

そもそも原作シリーズからして、所謂スーパーパワーを持つヒーローやヴィランが登場すると言うより、普通の人間や犯罪者が、金と力を利用して闘う泥臭い物語でもある(ベインやキラークロックなどの人間離れしたキャラクターも出てはくるが)。
そういった意味でも、こうしたバートンらしい手弁当な演出こそが、バットマンの本質を最も表していると言えるし、これらのミニチュアの小道具は、キャラクター商戦としての玩具販促にも役に立っていたのではないかと思う。

今作でのバートンは、大人気コミックの原作付きということで、ある程度は原作準拠で商業作家的に仕事をしようとしていたのかも知れないが、そのデザインにも世界観にも、どうしても隠しきれない作家性が出てしまっている。初期監督作品として、前作に引き続きバートンのその創作への衝動が迸るように画面を彩っているのだ。それは今作のヴィランであるジョーカー、そして主役であるバットマンすら、完全にバートンのキャラクターに塗り替えてしまったほどだ。

プレイボーイから狂える復讐者へ……新解釈バットマンの暴力性

今作のバットマン=ブルース・ウェインのキャラクター造形はあまりにも不安定だ。特に中盤、ジョーカーが街に現れた際にバットスーツも着ていない、生身のブルース・ウェインの状態でふらふらとジョーカーに近寄っていく姿は、そのどこか遠くを見ているような表情も含め(ヴィッキー曰く両親が殺された時と同じ表情)、まるで正常な状態には見えない。
原作の『バットマン』において、ブルース・ウェインはバットマンとの二重生活は誰にも悟られないよう、ウェイン社の社長として表面上はあくまで軽薄なプレイボーイとして振る舞っている。この後の映画シリーズ……もとい、監督やキャストは変われど今作の続編として作られている『バットマン フォーエバー』や『バットマン&ロビン Mr.フリーズの逆襲』でもそれはきちんと反映されているが、マイケル・キートンの演じるバートン版のブルースには、常に“死の匂い”が纏わり付いている。

『怪鳥人間バットマン』シリーズでロビンを演じたバート・ウォードが今作を「暴力的過ぎる」批判したように、それまでの映像化作品や原作と比較したとき、バートンの描くバットマンは悪人を殺すことに躊躇がない。原作コミックでのバットマンは極力殺人は犯さないことを信条としているが、今作では開始5分で殺人を厭わないキャラクターであることが示され、実際に作中もジョーカーの部下に対しての攻撃に迷いがない。
こうしたキャラクター造形は当然原作ファンからの批判はあっただろうが、今作でのバットマンはやはりバートンの描く“異形”の一人であり、その異形性はヴィランにばかりに投影されるものではないことがよくわかる。

ブルースは家族を目の前で喪い、その経験が彼をスーパーヒーロー:バットマンへと変貌させた。シリーズ1作目のセオリー通り今作ではそのオリジンが描かれているのだが、この描かれ方は、今後の映画シリーズや映像化作品だけでなく、原作コミックの物語にまで大きな影響を与えることになる。
アメコミ世界は《マルチ・バース》という理論を採用し、キャラクターの権利を出版社が有しその時代や時期によって作画やシナリオライターが変わるという形式を取る。そのため、ライターが変わるたび設定がマイナーチェンジしたり、《別アース》という名目で違った歴史や違った人物を主軸とした同名ヒーローの物語が描かれることもある。

今作のバットマンの設定はバートンオリジナルのものだったが、後に原作にも一部逆輸入されることになる。それによって、原作においてもそれまで以上に今作のヴィラン:ジョーカーの存在は大きなものになっていく。
ジョーカーはただのヴィランではない。ジョーカーとバットマンは表裏一体の“精神的双子”とも言える存在だ。
原作においても今後の映画シリーズにおいても、どんなに設定やアースが変わろうが、この関係性は一貫して表されるようになる。

原点にして頂点:ジャック・ニコルソルが築いたジョーカーのイメージ

『ダーク・ナイト』(2008)の故・ヒース・レジャー
『ジョーカー』(2019)のホアキン・フェニックス……
数々の名優と、様々な解釈で描かれ、その時代その時代のアメコミ・ヴィランの代表と言っても良い存在であるジョーカー。
しかし、ジョーカーというキャラクターの狂気を実写映画という媒体で初めて表現したのは今作だ。これは言い切ってしまっても良い。
ティム・バートンとジャック・ニコルソンの作り上げた、原点にして頂点の、唯一無二のジョーカー像。それはジョーカーというキャラクターのイメージをそれまでのものから完全に塗り替え、そしてその基準点を作り上げてしまったのだと思う。

2025年の今となってはかなり古い作品だ。今作のジョーカーの姿を知らない人も多いとは思う。しかし、何度観てもこのジョーカーの持つ圧倒的な狂気は他の追随を許さない。
ゴッサム・シティを牛耳る犯罪組織の幹部でありながら、ボスのグリソムの愛人であるアリシアと関係を持ち、グリソムを内心見下しながら片腕として暗躍し、警察とも裏取引をする。それまでの子供向けのヴィランから一転してハードボイルドな背景を持ち、ジョーカーに“変態”する以前から既に残酷さとサイコな魅力に満ちている。

そんなジョーカー=ジャック・ネイピアは裏取引していたエクハート警官の裏切りによりアリシアとの関係がバレ、罠にかけられて薬品工場で警官隊と交戦になる。そこにバットマンが現れ、彼は薬品工場の酸の中でジョーカーという狂気に堕ちるのだ。
酸で神経を刻まれ、引き攣った笑顔で表情を固定されたジョーカーは、ティム・バートンのお家芸、愛する異形の化け物そのものだ。
ジョーカーの笑顔は喜怒哀楽の“喜”でも“楽”でもない。ただその表情しか浮かべられなくなった、狂った男の表像でしかない。このジョーカーは、劇中本当の意味では一度も笑っていない。酸に落ちてからは、その笑顔の下に隠された本当の表情は一度たりとも描かれない。彼が最後に本当の意味で笑ったのは顔の治療の後に自身の崩れた顔を鏡で見た時であり、その後の笑い方は常に乾き切った感情のないものだ。

ボスを裏切ってまで関係を持っていたアリシアの顔面を自分と同じように破壊し、ジョーカーとなってからも変わらずについてきた部下のボブを些細な失敗の代償に射殺した彼は、一体何を考え、何を求めていたのだろうか。
終盤の街の中で、バットウィングから放たれる弾丸とミサイルの前に、両手を広げて待ち構えていたジョーカーの姿は、スーツなしでジョーカーに近づいていったブルースに重なる。この二人は、どちらも死を恐れていない。その感覚が麻痺しているのだ。

それまでドラマシリーズでジョーカーを演じたシーザー・ロメロの道化としてのジョーカーのイメージとは確かに違うが、時折見せるコミカルな演技にはその片鱗もあり、それがより今作のジョーカーの狂気を浮かび上がらせる。ジャック・ニコルソンの演技はさすがの一言だ。

このジョーカーとバットマンの関係こそが、バートンの描いた究極のオリジンであり、原作にも継承されていく二人の因縁の始まりだ。
原作においてもこれまで表裏一体のキャラクター、“最大のライバル”として描かれ続けたヴィランは、バートンによって真の意味で“バットマンの影”になった。

バットマンvsジョーカー〜精神的双子であり擬似親子〜

「月夜に悪魔と踊ったことが?」というジョーカーの台詞は、あまりにも印象的に響く。
ブルースにとって、幼少期のトラウマであったこの言葉を放つヴィランと出会うことで、ブルースは自身がバットマンになった理由、自身のトラウマと向き合うことになる。ここから、バットマンの自警活動は、個人の復讐へと変わっていくのだ。

今作のジョーカーは単なるヴィランではない。
ジャックがブルースをバットマンにし、
バットマンがジャックをジョーカーにした。
互いに表裏一体の影であり、
互いを生み出した親でもある。
そして、今作の物語は、いくつもの“親殺し”で構成されている。

若き日のジャックがブルースの両親を殺すこと。ここでのブルースは単なる被害者遺族ではない。ブルースは本来、ここで一緒に殺されていてもおかしくなかったはずなのに、生き延びてしまった。両親の死と引き換えに生き残り、両親の会社を継ぎ、両親の死んだ路地に薔薇を捧げ、その過去への復讐のように“あの日の悪人”を代替のように始末して、街を自警し続ける。

ジャックはマフィアの世界における親であるボスに裏切られ、ジャックという存在を喪い、ジョーカーに変態した。そうして、その親を殺すことで、街を牛耳ろうとする。
しかしそこにある目的は空虚で、支配の先を考えているようには見えない。ジャックの犯罪には理由がなく、ただの破壊行為でしかない。
「グリソムは歌を歌わせるとうまかった」と語るジョーカーの台詞には、どこか親であったグリソムへの感傷が滲んでいるようにも見える。

親を失い、親を殺した二人。
バットマンの親であるジョーカーと
ジョーカーの親であるバットマンの殺し合い。

結局のところ、今作において最も互いの狂気を理解し合っていたのはバットマンとジョーカーだけだったのかも知れない。
仲間も愛人も信用できていないジャックも
唯一の家族であるアルフレッドにも、恋人になったヴィッキーにも心を許せないブルースも
バットマンとジョーカーとして対峙する時のみ、互いの狂気の中で命のやり取りをすることが出来たのではないだろうか。

誰にも心を開けないヒーロー像

初期バートン作品の根底には、“家族への不信”と両親へのトラウマが色濃く表れている。今作は、そうしたバートンの孤独が、形を変えて表出しているように思えてならない。だからこそ、この歪なバットマンとジョーカーの関係性は何より魅力的であり、それが『バットマン』というIPの在り方そのものを大きく変えてしまったのだと思う。

シリーズ4作を通して唯一の皆勤賞となったマイケル・ガフの演じたアルフレッドは、そんなブルースを献身的に支えるキャラクターで、原作同様その視線はブルースへの深い愛情に満ちている。しかし、バートンの表像でもある今作のブルースには、その親愛は孤独を癒すまでには至らない。だからこそアルフレッドは、ブルースの心を溶かそうとバットケイブにヴィッキーを無断で連れて来たりもする。原作のアルフレッドの忠実さを考えれば、この描写は他の3作と比べてすら違和感があるのだ。
ジョエル・シュマッカーに監督が変わる3作目以降とは、二人の関係性もまた違った見え方になっている。

美醜へのアンチテーゼとプリンスの楽曲

物語はヴィランであるジョーカーを通して、“美醜”というものについても鋭く描いていく。
ラストバトルの舞台となるのがゴッサムの教会であることは、バートンお得意の30〜40’sホラー映画へのオマージュであると同時に、ジョーカーの崩れた顔面を『ノートルダムのせむし男』(1831年刊行: ヴィクトル・ユーゴー著)に重ねているようにも見えるし、屋上へ上がる階段でヴィッキーの靴が片方脱げたのを放り捨てるのは、『シンデレラ』への意趣返しにも感じる。

中盤のジョーカーと仲間たちによる、美術館の破壊や、ジョーカーが毒を混ぜるのが化粧品で、最初の犠牲者がファッション・モデルや美容室の人間であるのも、当時の過剰なルッキズムや美醜の定義へのアンチテーゼでもあるのだろう。結果として最後まで自身の崩れた顔を一番コンプレックスに感じていたのはジョーカー自身であった、という描き方には、80’sのルッキズムの捉え方の限界も感じる部分だ。
それを肯定するまでには、まだ社会の価値観は変わっていなかったのだろうし、それを皮肉った表現でもあるのだろう。

終盤のシークエンスにおける、ジョーカーが街で札束を投げる場面の異常性と皮肉にもまた、実にバートンらしい風刺が満ちている。民衆は2000万$という大金に踊らされてジョーカーの元に集い、金を拾い、ジョーカーを讃える。サイコな殺人鬼であろうと、金を配るものは英雄になる。けれど、そのトドメには毒ガスによる地獄が待つ……。
1989年、公開時のアメリカは冷戦終結間近の気配と《レーガノミックス》による好景気が終わり、4%台だったGDP成長率が2.5%に低下し個人消費が落ち始めていた。同時に大都市の荒廃や犯罪件数の高止まり、ドラッグの蔓延により、それまでの“強いアメリカ”が維持できなくなりつつあったのだ。市政200年祭を前に街の人々がゴッサムを捨てて逃げ出しているという設定や、序盤で襲われる家族連れが旅行者の富裕層で、襲う側が路上生活者であるという描写も、当時のこうした社会情勢と無関係ではないだろう。

また、こうしたジョーカーの暴れ回るシークエンスで流れるのがどちらもプリンスの歌付きの楽曲なのも象徴的だ。
今作でも劇伴はダニー・エルフマンが担当しているが、その一部には当時大人気のポップ・スター:プリンスの楽曲が使われている。これはバートンの意向よりむしろワーナーからの要請だったらしく、バートン自身はプリンスのファンでもあったからこそ、そうした無理なコラボレーションに賛同できなかったという話も残っている。
ただ、80年代の“明るい時代”が終わりつつある時期に公開されたダークな映画の、ヴィランが大暴れするシークエンスでポップカルチャー黄金時代の代表選手とも言うべきプリンスの楽曲が流れるのは、“一時代の終わり”の表現として非常に大きな意義があったと思う。

ヒロインが“役割”だった頃……80’s表現の善し悪し

ヒロインのヴィッキーに関しては、時代性と言えばそれまでなのだが、如何にも旧来のアメコミ・ヒロインという描写で、今観るとキャラクターとしての魅力には欠けて見えてしまう。
当時の時代の中では女性の社会進出が増加し、ヴィッキーもカメラマンとしてピューリッツァー賞を狙うなど社会的な存在として描こうとはしているのだが、とりあえず何かあれば叫ぶ、というキャラクター造形は2025年現在のヒロイン像と比較すると流石に記号的過ぎるという意見もあるだろう。
新聞社でノックスと初めて会った際の「僕のヌードを撮るならどうぞ」という台詞や、彼女の撮った戦争の写真を見ての驚きぶりにはまだ女性の仕事が正当に認められていなかった時代の女性蔑視も透けている。

「僕はバットマンだ」が言えないブルースへの「結婚してるのね」なんていうとぼけた台詞や、会話のテンポ感の面白さは、この時代独特のコミカルさではあると思うのだが、個人のキャラクターとしての印象は薄い。演じてるキム・ベイシンガーが非常に魅力的で、美術館のレストランでブルースに待ち惚けをくらって不貞腐れてる姿も非常に可愛らしいのでそういった意味でも活躍のなさが残念だ。
命懸けの状況でもバットマンの素顔を写真に撮ろうとしたり、バットケイブに連れていかれた際も、終始マスクの下を覗こうとしていたりと、記者魂を感じる場面はいくつかあるのだが、最終的にはバットマンの秘密を守るためにピューリッツァー賞をすんなり諦めてしまう。これも、現代からすると違和感が残る描写だろう。

ヒーローとヴィランに取り合いにされるヒロイン像というのは、まさに80年代的な“女性のトロフィー化”だ。このあたりは無理に理解するより、古い時代の一つの表現的特徴であったと留意したい。
結果として、彼女ではブルースの孤独の根源には触れることができない、というのが今作においては重要なのだと思う。シリーズ次作にあたる『バットマン リターンズ』では、“ヒロイン”ではなく一人の“ヴィラン”として登場するキャットウーマンが描かれ、そこで初めてブルースは心を通わせる。まだこの時期、ヒロインという役割では、バートンの物語の孤独に寄り添うことはできなかったのだろう。次作『シザーハンズ』でも、異形と人間は、まだわかりあうことが出来ない。

もちろん80’sらしい面白い描写というのもあって、ジョーカーの部下のミニ・ジョーカーとも言うべき紫ジャンパーの構成員たちは一体何者なのか……二刀流で踊るように襲ってくる者や、曲芸師らしきアクロバティックな動きをする者、巨体の大男など、奇妙な動きをするとんでもない部下たちをジョーカーは一体どこから連れてきたのか。
ギャングの時代の部下には当然こんなコミカルな連中はいなかったし、いたら間違いなくボスのグリソムに粛清されていただろう。こいつらを残してあんなに忠実だったボブをあっさり殺したジョーカーはやっぱりサイコ野郎である。
80〜90’sのアメコミ作品における、所謂モブ兵の“ちゃち”な造形は、今観るとリアル志向の作品とはチグハグなのだが妙に愛おしいものだ。

総括:笑い袋とヒーローの孤独……シグナルに照らされた異形の叫び

今作は結局のところ、バットマンとジョーカーの物語だ。
そのほかのキャラクターは、彼らのオリジンを彩る舞台装置でしかない。

ラスト……地上に倒れ伏すジョーカー=ジャックが、一度も笑っていなかったことを示す笑い袋こそがこの映画最大の象徴と言える。
表情を固定された男は、一度も笑っていなかった。彼は恐らくただの一度も、ハッピーではなかったのだ。
ヒーロー映画の物語としてはハッピーエンドと言えるだろう。ヴィランは倒され、ヒロインにはヒーローであることを明かし、街には平和が戻る。
ラストのバット・シグナルも、「ここからシリーズを続けていくぞ」という宣言のようで、ポスト・クレジットで意味深に先の物語への深読みをさせるのが全盛となった時代においては、このシンプルな期待の高まらせ方が楽しくもある。

しかし、今作をバートンの“異形の物語”として観た時、そこには単なるハッピーエンドには終わらない苦さが隠されている。
異形の存在=ジョーカーは世界から拒否されて命を喪い、親殺しを果たしたバットマンの孤独に光は差していない。ある意味で目的を失ったバットマンは、シグナルが輝く街の中でこれからもヒーローとして期待を背負い続けなければならない。

こうして、バートンは次作『シザーハンズ』で再び世界から拒否される異形を描き、それに続いて今作の続編にして、筆者の人生オールタイムベスト映画でもある『バットマン リターンズ』でその異形への偏愛と孤独を底の底まで描き尽くしてしまうことになる。
そんなあまりにも“極まり過ぎた”作風によりバートンは『バットマン』シリーズを離れることになるが、この時期のバートンによる、異形の孤独と痛みに満ちたトゥー・フェイスやMr.フリーズを観てみたかったという願望は、いつまでもいつまでも捨てられない。特にトゥーフェイスに関しては今作で意味深にハービー・デント判事を出していたのだから……最後まで面倒、観て欲しかったなぁ、バートン!w

評価/鑑賞日

⭐ 4.5 / 5.0
📅 2025/07/16(Hulu)

🎬 ティム・バートン初期作品考察レビュー

フランケンウィニー(1984)

ピーウィーの大冒険(1985)

ビートルジュース(1988)

⛄️ ティム・バートン“孤独の異形”考察レビュー

シザーハンズ(1990)

バットマン リターンズ(1992)

ナイトメアー・ビフォア・クリスマス(1993)

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