――人生とは日々無限の♾️、出口の向こうにノイズキャンセリングはない
この作品はどんな作品?
令和の大バズゲームコンテンツを平成のヒットメーカー川村元気が実写映画化。
二宮和也を主演に、A24的アート映画を作ろうとするも、原作ゲームの擬似体験にも考察タイプの映画にもなりきれなかった迷いを感じる作品。日本の商業型映画でアート系はやはりまだまだ難しい。
この作品はどんな人にオススメ?
ゲーム『8番出口』をプレイしたことがない人(前半部で擬似プレイ感を楽しめる)。
俳優:二宮和也の圧倒的な一人芝居を観たい人(まだ彼の凄さを知らない人も是非)。
※津波・震災に纏わるかなり直接的表現があるのでその点ご留意下さい。
→『8番出口』を観る・購入する
作品データ
原題:8番出口
監督:川村元気
脚本:平瀬謙太朗/川村元気
脚本協力:二宮和也
原作:ゲーム『8番出口』(KOTAKE CREATE)
音楽:中田ヤスタカ(CAPSULE)/網守将平
撮影:今村圭佑
上映時間:95分
出演者:
迷う男:二宮和也
歩く男:河内大和
少年:浅沼成
ある女:小松菜奈
女子高生風の女性:花瀬琴音
※本レビューにはネタバレを含みます。
該当作品の他、本作ノベライズ小説版への言及も有。
総文字数:9568文字
読み終わるまでの時間:約24分
〜筆者より〜
このところやや体調不良で、更新が滞っていて申し訳ございません。
ドルマル論最終作の前ですが、prime video見放題にきた今作についてもう一度書きたくなり、大幅改訂して掲載します。
実はこれまでの記事についても公開後手直しはしているのですが(笑)
このレビューに関しては以前のものが当時filmarksに掲載していたものを若干手直しして再掲したものだったので、文章の書き方や映画の観方が今とやや違っていました。
そうした意味で、いつか改めて書いてみたいと思っていましたので、実験的に改訂版としてupします。
今後もこのくらい内容が大幅に変わったものに関しては【改訂版】として上げることもあるかと思いますので、お付き合い頂ければと思います。
『神様メール』も今週中に上がります。是非読んで下さい。
※改訂前レビューはこちら
→

製作背景:令和の大バズりゲームをヒットメーカー川村元気が実写化
日本のインディーゲームクリエイター:KOTAKE CREATEにより開発されたウォーキングシミュレーターゲームを、日本映画界屈指のヒットメーカー・プロデューサー:川村元気が監督として実写映画化。
Microsoft Windows(Steam)のダウンロード・コンテンツとしてリリースされた原作ゲームは、Nintendo Switch、PS4/5、Xbox Series X/S、iOSと様々なプラットフォームに広がり、映画公開後には新しい異変を取り入れたアップデート版もリリースされた。
2023年の発売直後から瞬く間に全世界で話題となり、YouTubeでの実況動画や、TikTokのショート動画は驚異的な再生数を叩き出している。映画公開時期の販売本数は200万本を超え(2026年現在では300万本)、TikTokタグ#Exit8の再生数は4.3億回を超えた。
ゲームをプレイしたことはなくとも、そうした動画が流れてくるのを見たことがある人はかなり多いのではないだろうか。
《8番ライク》と呼ばれる数多くの類似ゲームやパロディCMも作られ、まさに令和日本発の大バズりコンテンツだ。
川村監督は前作『百花』にて長編映画の単独初監督を務め、“記憶”の表現として独特のワンカットや長回しの手法を用いたことが評価された。第70回サン・セバスティアン国際映画祭の監督賞を受賞したその映像技法を活かし、新たな映像表現を目指す中でプロデューサー:坂田悠人から原作ゲームを紹介され、今作の企画は進んでいったと言う。
製作は脚本の前に美術……ループする8番出口のセットを先に立ち上げ、それに合わせて脚本やキャラクターを練り上げる手法が取られた。また、撮ったシーンを即座に仮編集し、また次のシーンを撮るという通常の映画製作ではあまり見ない撮影スタイルを取り入れたことも、今作独特のループ要素、ゲーム性を具現化するのに役立っているのかも知れない。
2025年夏は洋邦大小問わず、ホラー映画が豊作の年だった。
今作同時期には『見える子ちゃん』や『近畿地方のある場所について』など原作付きのものから、『事故物件ゾク 恐い間取り』や『きさらぎ駅 Re:』など、インターネットミーム発のシリーズ続編もあった。
洋画でも日本は米英からやや遅れて2025年5月に『サブスタンス』と『ノスフェラトゥ』が公開され、スティーブン・キング原作の『THE MONKEY/ザ・モンキー』も2025年9月に公開を控えていた。
そんな中、こうして“バズの中心地”からまた一作、Jホラー文脈の新作が現れたというわけだ。
〜異変があれば引き返す/異変がなければ進む〜
無機質で延々と変わらない地下通路と、多種多様な異変がゲームのキモであり、ストーリーらしいストーリーはなく、“体験”こそがゲーム性を支えている。そんな作品を、新海誠作品やアニメ『ドラえもん』映画作品をプロデュースしてきた川村監督は如何にして物語に落とし込んだのか。
公開に先駆けて第78回カンヌ国際映画祭ミッドナイト・スクリーニング部門での上映が行われた今作はしかし、なかなかどうして実験的な試みはしているものの、映画全体としてはどこに向かっているのか今ひとつわかりにくい、中途半端な作品に落ち着いてしまった、という印象だ。
→KOTAKE CREATE原作ゲーム『8番出口』をプレイする・購入する
映像論:原作ゲームの面白さと奇妙さをそのまま再現した映像
ゲームを追体験する序盤7〜8分の主観映像と8番出口のセット
映像面ではまず美術から作られたということで、舞台となる8番出口の再現度がとにかく素晴らしい。
基本的な画変わりは一切しない、永遠にループする8番出口という異界……何処にでもあるような、その何処かで見たことがあるかのような東京近郊の地下通路はまさにゲームからそのまま出てきたような作りで、映画序盤、迷い込んだ8番出口のループに気づくまでは、まさにゲームをVRで体験しているかのような気分にさせられる。
川村監督お得意のワンカット長回しに、主観視点でのPOVでまず2周、観ている側も主人公と共に8番出口に迷い込む。東京の地下……新宿や池袋の駅構内は冗談めかして“迷宮”とも呼称されることがあるが、まさに歩けども歩けども景色の変わらないそのループは観客にとっても身近な恐怖であるはずだ。
特に現代社会では多くの人がスマホを片手に、耳にはイヤホンをつけて外界からの情報を半ばシャットダウンしている。イヤホンから流れる着信音の響きまで、この辺りは現代描写として本当にリアルだ。道を歩きながら目は道に向いておらず、自分が何処にいるのかも曖昧になる。今すれ違ったばかりの人の顔など、覚えている方が稀だろう。
だからこそ、このループに、1周目は気が付かない。観ている側は当然8番出口のルールを事前に知っているからこそ、その不自然さを見過ごさないように構えている。
しかし、実際にこうした事態に巻き込まれたら、すぐに気づけるかどうか、筆者はあまり自信がない。
今作では3周目で異変が起こり、構内表示が0から1に変化することでこの世界のルールに気づくことになるが、これは非常に巧い見せ方であったように思う。
“主観としての”気づかなさとしても自然な流れで、しかし映画としての“客観”はこれ以上伸ばすと退屈になってしまう。3周目という区切りで明らかな異変を演出し、ルールを明示することで、ゲーム未体験の観客にも世界観のルールがきちんと説明される。
まさしくゲームを初めてやった時と同じ気分で映画鑑賞が進められる作りになっており、ゲームをやり込んだ観客からしても、見過ごされた異変はきちんとカメラがクローズアップしてくれるので、ゲーム実況を観ながら異変に気づいてツッコむ楽しみまで追体験できる。
ホラー演出とA24風の謎多き映像美術
原作ゲームは“ウォーキング・シミュレーター”という冠がつけられているが、その演出にはホラーの文脈がかなり意識されている。
実際に、開発者であるKOTAKE CREATEは原作ゲームについて
“地下通路の不気味さに魅了されたこと”と
“ゲーム『I’m on Observation Duty』(開発:Notovia)をプレイした際に監視カメラとホラーの相性の良さに気づいたこと”
を創作の発端に挙げており、ゲーム内の多くの異変には、恐怖感を煽るジャンプスケアの要素も盛り込まれている。
映画化にあたって、今作でもその要素はしっかりと受け継がれており、コインロッカーから聴こえる赤ん坊の泣き声と、ロッカーの内側から鳴り響く戸を叩く音は、“コインロッカーベイビー”を基にした『渋谷怪談』(2004)などを思わせ、天井や排気口から流れる血のように赤い液体は『シャイニング』(1980)も想起させる。
実はゲームではより『シャイニング』をオマージュしたような異変もあるのだが、今作ではそうした“元ネタがわかりやすい異変”は意図的にオミットしているのだそうだ。
(その他にも、怖さより面白さに振れてしまう異変もカットされている)
何よりやはり不気味なのは、中盤の人間の身体部位のついたネズミの大群だろう。こうした意味ありげな演出は2020年代……A24配給の映画作品を思わせ、Jホラーの分野では新しい恐怖演出だったように思う。
耳、目、口などを身体に埋め込まれたネズミの造形の生理的嫌悪感は、『ボーはおそれている』(2023)のラストの展開にも近い、全年齢対象映画のギリギリを攻めるグロテスクさだ。ネズミのネタが最序盤に流し見していたSNSのニュースであるというのも、現代的な風刺が効いている。
クラシック音楽を劇伴に始まる長回し、ワンシチュエーションやBGMの雰囲気は限りなくアート映画寄り……最近の流行りで言うとA24配給のアリ・アスター監督作品:『ヘレディタリー/継承』(2018)や『ミッドサマー』(2019)のような、“過剰な説明をせず、観客に考察を求める”映画の作りを模倣したような演出になっており、後述する後半の展開と合わせ、この辺りにはかなり実験的な要素が見え隠れしていたように思う。
演出論:名もなき《迷う男》はノベライズで“キャラクター”になった
名もなき男は観ている側の“アバター”になれたのか
今作物語の主演は二宮和也。
日本人にとっては言わずと知れた国民的大スターを、原作の体験型ゲームに合わせ《迷う男》という名も無き登場人物にしたのも面白い試みだ。ただし、この《迷う男》が普遍的な“誰でもない男”かと言うとそうはなっていない。
原作ゲームの“主人公”は名前もなく、思考する様子や台詞もない、完全にプレイヤーが視点を同期するアバターとして、外見の設定もされていない。
しかし、《迷う男》は派遣バイトで日々を食い繋ぎながら、別れ話をした直後の元カノから「子供が出来た」と言われてしまう、喘息持ちの青年。個人の属性がハッキリとした“登場人物”だ。
映画として一本の物語にする場合、何の背景もない人物が主役では物語になり難い。
物語に観客が共感するためには、人物が何もないアバターでは成立せず、その人物を“生きた人間に見せるリアリティ”が必要になる。
それは勿論理解出来るのだが、それならば名前をつけなかったことに意味はあっただろうか?少なくとも《迷う男》は、観ている側にとって“自分かも知れない誰か”として描かれているようには見えず、序盤こそ主観視点で進むが、最終的には二宮和也という役者ありきの存在になる。
序盤においても、電車の窓越しにその姿がしっかり映っているのはどうにも作為的だ。
この映画全体の問題点はまさにそこで、今作は“考察をさせるための要素”と“マス向けの映画としてのわかりやすさ”が常に揺れ動いている。登場人物とその背景説明を極限まで削り、ほとんどのシークエンスで一人舞台に近い演出を採りながら、どこかそこでブレーキを踏んでしまっている印象が拭えない。
更に問題なのは、今作公開に先駆けて発売されたノベライズ版だ。こちらでは、今作で残していた謎はほぼすべてが解説されてしまう。
ノベライズは川村監督自ら書き下ろしているので、そうした設定は映画にも反映されているのだろうし、そうでなければ喘息の描写や後半の異変についても説明がつかなくなる。
しかし……結果として“設定解説書”となったこのノベライズ版があることで、今作の物語から考察要素というものはほぼなくなってしまったように思う。
説明され過ぎた設定は、映像が残した異変を見逃してくれない
ノベライズ版執筆は脚本完成後に始まり、映画の編集と同時進行で行われたというインタビューもあったが、やはりプロデューサーとして数々のヒット作を生み出してきた川村監督は、映画での説明不足を補おうとしてしまったように思う。
しかし、それならば最初からそのような“大作映画としての演出”をするべきだったのではないだろうか。
ノベライズ版では《迷う男》の喘息が新型コロナ感染症の後遺症であること、そして、彼と《ある女》が共に東日本大地震で被災した土地の出身であることが明かされている。
《迷う男》は地元で共にバンド活動をしていた友人を置いて《ある女》と2人で東京に出てきており、その友人は震災以来行方不明となっている。2人は震災後に地元に帰ってボランティアに参加することもなく、行方不明の友人の安否を気にするうちに、関係も崩れていって……というのが映画序盤の展開だ。
この辺りは、新海誠監督と共に東日本大地震について『すずめの戸締まり』(2022)を製作した川村監督らしいメッセージ性を感じるところであるし、今作公開のタイミングでコロナ後遺症について描くのも、現代日本についての物語を新海監督と繰り返し描いてきた川村監督としては当然のことだったのかも知れない。
しかし、それをするにはあまりにも今作は“ぼかし過ぎて”いる。
新型コロナ感染症に関しては、2026年現在でもまだ描写についてデリケートさが必要なものだろうし、映画に余計な論争も付き纏うかも知れない。
しかし、であるならばノベライズですらそうした設定を明かすべきではなかったし、匂わせる程度にしておくことも出来ただろう。
映画本編の画面上で説明はされないものの、《迷う男》の喘息の症状は明らかに物語後半ではその頻度が減るため、心理的なものが起因していることを読み取ることは出来る。
それを、わざわざ“新型コロナ感染症の後遺症”と確定させてしまう点には、医療誤認や倫理的な問題も重なってくる。
ノベライズでは後半の異変が見る人間によって“見え方が変わる”ことも説明され、《迷う男》が直面した異変の数々が、彼自身の抱えるトラウマの表出であり、8番出口という異界が、前にも後ろにも戻れない人間が迷い込む“人生の檻”であるかのように演出される。
ゲームでは単なる異界の舞台であった8番出口に意味を与える物語は非常に上手くいっているとは思う。しかし、ならばこそ、今作は“考察させる映画”として徹底的に答えをぼかすか、“マス向けのメッセージ映画”としてハッキリと物語を伝えるのかをきちんと定めるべきだったのではないか。
→川村元気著:ノベライズ小説を読む・購入する
物語論:8番出口というメタファーの中で人生に迷う男たち
《少年》との関係性が出口を分けた二人の男
物語は基本的に《迷う男》視点で進むが、中盤以降彼の他にも8番出口で迷っていた人物がいたことがわかり、彼らの物語も語られることになる。
《迷う男:The Lost Man》=二宮和也
《歩く男:The Walking Man》=河内大和
《少年:The Boy》=浅沼成
登場時には劇中に上記テロップが出る。文字が徐々に現れていくという演出なのだが、その最初に浮かぶ文字が
迷う男:The Lost Man→《test》
歩く男:The Walking Man→《hell》(最後のlはkの縦線)
少年:The Boy→《he》となっており、それが今作の物語を象徴している。
《迷う男》はtestの果てに人生を取り戻す。
《歩く男》は8番出口に取り込まれ、永遠のhell(=地獄)に落ちる。
そして《少年》は彼らにとってある種の象徴だ。
《迷う男》は自分に子供が出来たことから目を逸らしている。父親になる自信もなく、生きる道を決められない。電車の中で怒鳴られる子連れの母を無視したことで、その迷いはより大きくなった。
《歩く男》も同じように子供との関係に問題があり、ノベライズ版では息子へのDVが原因で離婚もしくは別居中であることが示唆されている。
彼らはどちらも、未来の、或いは過去の子供との関係に問題と不安を抱え、その象徴として《少年》は存在している。そして、彼らが《少年》とどのように接するかで、その結末は大きく変わることになるのだ。
迷う男は何に迷い、そして何処を迷っていたのか?
《歩く男》は《少年》を気遣いながらも、徐々に余裕を失くしていく。《少年》が見つめる異変に気づきもせず、《少年》が必死で止めた偽の8番出口から外に出ていく。
そうして彼は“人間じゃない”ものになった。
《迷う男》は《少年》の言葉に耳を傾ける。共に異変を探し、守り、話をしようとする。《歩く男》の前では無言だった《少年》は心を開き、2人は互いの想いを口に出す。
無限に続く世界に苦痛を感じながら、自身と向き合うことをせず、子供の助言を無視して8番出口の異変の一つに組み込まれた《歩く男》。
過去のトラウマや不安を乗り越え、自らと、そして生まれてくる子供と向き合うことで8番出口にたどり着いた《迷う男》。
二人の違いは、ここで決定的となる。
《少年》の正体はノベライズ版でもはっきりとは明かされない。
《迷う男》が見た夢か幻かのように、本当に未来の息子だったのかも知れない。もしくは単純に、心を決めた《迷う男》にとって、今目の前にいる《少年》こそが心に思い描く子どもの姿なのかも知れない。
どちらにせよ、彼は終盤、人生において最も大きな後悔だったであろう津波から逃げることをしなかった。その異変から逃げるのではなく、守らなければならないたった一人を、命懸けで守ることを選んだ。恐らく、この時点で《迷う男》はもう迷いを捨てている。
だからこそ彼は、《少年》と離れた後、もう一度8番出口を周回する。
それはもう、♾️無限♾️に思える空間ではなかったのだろう。彼は迷いを捨て去り、自分の生きるべき道と、帰るべき場所を知っている。
「あと一つ……」と歩く姿に迷いは感じられない。
この直前のシークエンスで、《少年》の身体はまだ濡れていたが、《迷う男》は服も髪も、完全に乾いていた。彼は、《少年》のいない時間を何度も繰り返し、ここまでやってきたのだろう。《少年》と別れ、未来の子供に会うための道を、長い時間をかけて、異変を見逃さずに一人で歩いてきたのだ。
演出論:考察させたいのか/メッセージを伝えたいのか〜出口を迷い続けた作劇
映像作家とプロデューサーの間に揺れた川村元気の作家性
物語が伝えるメッセージは非常に普遍的なものだ。であればこそ、それを単純なエンタメ作品として、ノベライズ版の設定をきちんと映画内にも反映した物語として作ることも出来た。
それを、どこかアート映画的な、意味ありげなものにしてしまったことが、今作最大の特徴でもあり、同時にどこか迷いを感じる部分でもあるように思う。
《迷う男》と《少年》の交わす
「わざと迷子になった……ママに見つけて欲しくて」
「それ……俺もやったことある」
という会話や、互いに父親がいない点なども、この8番出口の時空が時代や場所を超越していると考えるならば、彼らが実は同一人物だった、という見方も出来るような撮り方をしている。
これに合わせて子供と会えていない《歩く男》もいるため、全員が実はそれぞれの時代を生きた同一人物や、血縁関係があるようにも取れる。
《歩く男》の周回に登場する《歩く女》が、女子高生風でありながらその制服の着こなしがやや時代と合わない平成風なところからも、そうした匂わせはあった。
ただ、それ自体が観る側の深読みと言われてしまえばそれまでではあるが、そうした考察要素も終盤に《迷う男》が見る海辺の夢や、ノベライズ版の描写でほぼなかったことにされてしまう。
映画では考察させようと描写をぼかしながら、ノベライズで答え合わせをしてしまうのでは、それは単純に画としての描写不足になってしまう。
終盤のあの海辺のシークエンスは、今作公開から数日が経った頃にポスターヴィジュアルとしても解禁され、ホラー映画としてプロモーションしてきた今作の印象を塗り替えたことも記憶に新しい。
しかし、それほどに重要なメッセージがあるなら尚更、この作り方には疑問が残る。
映像作家:川村監督はアート映画を撮りたかったのかも知れない。しかし、ヒットプロデューサー:川村元気はメッセージを伝えたかった。
今作はその狭間で、映画自体が8番出口に迷い込んでしまっているように感じる。
新海誠作品とも通ずる現代社会との向き合い方
ただそんな中でも、今作での津波の表現はやはり特筆すべき点があったように思う。
今作は公開から2〜3日が経った後、公式Xなどで該当シーンに対する注意喚起が行われた。物語上の重大なネタバレでもあるため、公開前は控えていたのだろうが、これはやはり後手に回っていたと言わざるを得ない。
東日本大地震はまだ終わっていない。公開時で14年が経過していたが、まだまだ生々しい傷痕が残る震災であり、被災者も、被災者遺族も今作を観る可能性は充分にある。
そんな中、あの描写を邦画で、日本人が、世界に向けた映画の中でやること自体が、かなり大きなことだったのだと思う。
押し寄せる濁流の色、8番出口には似つかわしくない、流されてきた家具や、家の残骸。それはあまりにもリアルにあの震災を思わせ、そして津波が来る前の警報もまた、やはりわかっていても身体が硬直するような感覚に襲われた。
そうした描写の善悪を問うのは難しい。
しかし、今作のような大作映画で、バズの中心地から出てきた原作を用いた作品の中にああしたシーンが入ることには、震災から10年以上が経過した今、やはり意味があるのだと思う。
未だ完全な復興は叶っておらず、サザンオールスターズの名曲「TSUNAMI」も封印されたままだ。
それでも、エンタメ作品がこうして一歩踏み出すように、勇気を持ってこうしたシーンを描いたことには、映画とは離れたところで一つの希望を見出した点でもあった。
『すずめの戸締まり』の例も出したが、エンターテイメントの領域からあの震災を乗り越えようとする意図は、川村監督の作品からは確かに感じられる。
それも含めて、そうしたメッセージは真っ直ぐに伝えて欲しかったように思うのだ。プロデュースした新海監督作品が批判もありつつそこから逃げなかったという意味でも、やはり今作の演出には首をを傾げてしまう点がある。
役者論:二宮和也の演技なら実験作も成功できたのでは?
今作は半分以上のシークエンスが主演である二宮の一人舞台のように構成されている。
《少年》も前半は台詞がなく、《歩く男》は背景になるため、基本的には二宮の演技ですべてが決まる。そして、それは完璧に成功していた。
画変わりのしない単調な画面背景の中で一人で充分に画面を保たせ、台詞がなくとも《迷う男》の背景が充分に伝わってくる。
《ある女》からの電話に出て、泣きながら自分の感情を吐露したシーン、
5周目で0に戻り、溜めに溜めた感情を爆発させ、声なき声で慟哭するシーン……
そして、津波の中で《少年》を蛍光灯の上へと逃がすシーンの表情や、海辺で未来の息子を抱きしめた際の涙も。
その演技が観客に想起させるものが、仮に脚本上の意図とは違ったものだったとしても、映画の伝えたいことを破綻させるような結果には決してなっていない。
その痛みや、苦悩、その人生の背景にあったもの……それは設定として語られずとも、演技だけでも物語を成立させ得るものだった。
役者・二宮和也という最高のカードがあった以上、今作はどちらに転んでも結果は残せたのではないだろうか。
物語にきちんと説明を与え、メッセージ性を強く出したとしても、感動の大作としてプロモーションすることは可能だったはずだろうし、逆に思い切り説明を省き、本当に意味深なシーンが連続するアート映画に振り切ったとしても、その中心に二宮がいる限り映画として失敗することはなかったように思う。
二宮和也主演、人気ゲームの映像化、とプロデューサー目線で見れば完全なアート映画としてリリースし難い面は確かにあるだろう。
しかし、わざわざノベライズで過剰な説明をせずとも、この物語の本質を伝える術は、主演の演技にこそあったはずだと思う。
総括:《迷う男》は出口を見つけた、製作陣は出口を迷い続けた
8番出口という素材を使い、“あったかもしれない可能性”と“新しい一歩”を描くという展開のさせ方はよく考えられたもので、ゲーム『8番出口』を物語にするにあたって、一つの最適解だったと言える。
だからこそ、演出的迷いには最後まで釈然とせず、全体として中途半端な印象になってしまったように思う。
下を向いて携帯を見ているうちに世界を見逃す“無関心の罪”や、SNSを流し見することで、過激な情報に踊らされてしまうことは、現代人には多々ある。
《迷う男》にとって恐怖の対象となったネズミも、序盤のSNSに流れた記事の内容は臓器再建を目指す治療法の成功例のニュースだ。しかし、英語で流れるニュースをわざわざ翻訳してまで読む人は少ない。人々は、過激な写真や、扇情的な見出しだけで物事を判断する。
そんな日々を生きていると、我々は世界の“異変”を見逃してしまう。
ノイズキャンセリングイヤホンで耳を塞ぎ、見たいものだけを見る。理不尽に怒鳴られる人を見逃し、漫然と日々を送る。
だからこそ、出られたはずの出口から再び地下へ潜った男は、イヤホンを外し異変に向かっていく。この出口は、彼が降りるべき出口ではなかったのだから。
映画全体としては、テーマと撮りたい画の間で揺れ動いた結果うまくまとまらなかった作品だとは思うし、どうせならこの規模の映画で思い切りアート作品を作っていれば、邦画として新しい潮流を起こすことも出来たかとは思う。
原作ゲームを有名にした一因でもあるyoutuber:HIKAKINを異変の如くひっそり電車内に出演させていたりと、遊び心も感じるだけに、川村監督には映像の力をもう少し信じて欲しかったものである。
⭐ 2.5 / 5.0
📅 2026/10/02(prime video)→再見
8番出口に迷い込みたい方は観る・購入する
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