ジャコ・ヴァン・ドルマル全作品レビュー2
――その1分の間だけ,すべてを忘れてただ二人だけに“なれた”……社会という枠の中に人は何を選ぶのか
この作品はどんな作品?
ジャコ・ヴァン・ドルマル2作目にして、ダウン症当事者の目を通して人の生き方を問う作品。
1996年公開の時代性を加味した上で、ダウン症当事者の描き方にも物語の展開にも容易に批評し難いものはあるが、人と人とが出会い、影響し、何を選ぶのかがテーマ。何度も観て、何度でも感想が変わって良い。
この作品はどんな人にオススメ?
自分の中に差別心が確かにあることを自覚し、そのことに悩む日がある人。
身の周り・家族親類に障碍当事者がいる人。
日々に追われ、息の詰まりそうな時間の中で、自分を見失いそうな人。
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作品データ
原題:Le huitième jour
監督:ジャコ・ヴァン・ドルマル
脚本:ジャコ・ヴァン・ドルマル
音楽:ピエール・ヴァン・ドルマル
撮影:ウォルター・ヴァン・デン・エンデ
上映時間:118分
出演者:
アリー:ダニエル・オートゥイユ
ジョルジュ:パスカル・デュケンヌ
ジュリー:ミウ=ミウ
ファビアン(ジョルジュの姉):ファビエンヌ・ロリオ
ジョルジュの母:イザベル・サドヤン
アリス:アリス・ヴァン・ドルマル
ジュリエット:ジュリエット・ヴァン・ドルマル
ナタリー:ミシェル・メエ
ルイス・マリアーノ:ラズロ・アルマティ
※本レビューにはネタバレを含みます。
総文字数:10777文字
読み終わるまでの時間:約27分
製作背景:観る側の立場にもより見え方の変わる作品
ジャコ・ヴァン・ドルマル監督による、長編二作品目となるヒューマン・ファンタジー映画。
前作『トト・ザ・ヒーロー』が多数の賞を受賞した後、同作の配給を担当したプロデューサー:フィリップ・ゴドーにより新しい映画製作会社:Pan-Européenne Productionが設立された。ゴドーはドルマルの作品の持つテーマ性に強く惹かれており、今作も同社の企画として製作が開始されている。
前作、初の長編作品で物語構造そのものを探究したドルマルは、今作ではより直線的で現実的な物語を撮りたいと考えており、ゴドーのプロデュースの下、企画は進んでいく。
かつてドルマルの撮った短篇作品の一つに『L’Imitateur』という知的障碍を抱えた青年を中心とした物語があり、今作主演の一人であるジョルジュ役のパスカル・デュケンヌも前作で既にドルマル作品への出演を果たし、今作の地盤は出来ていた。
デュケンヌは1985年からベルギーの障碍者芸術団体《CREAHM》の劇団員であり、ドルマルは妻の紹介でこの劇団とデュケンヌの存在を知ったと言う。
今作の主演を決める際、ドルマルはゴドーとその子供たちをデュケンヌが出演する舞台に招き、その演技を観せた上で製作に入っている。同様にもう一人の主演であるアリー役のダニエル・オートゥイユも撮影前にデュケンヌの舞台を観ており、その存在感には特別なものを感じたと後に語っている。
ドルマルは今作撮影にあたり、全ショットに事前に絵コンテを作るほど入念な準備をする一方、デュケンヌや出演者たちが表す即興性や、気持ちの上での演じやすさを優先してシーンの演出や物語を改定していった。
デュケンヌは数ヶ月に渡り、ドルマルの妻が台詞を吹き込んだカセットを聴いて脚本を覚えた上で、現場でその場面が楽しいか/楽しくないかを素直に表現した。ドルマルはその反応を見ながら、柔軟に撮影法を変えていったと言う。
今作により主演のオートゥイユとデュケンヌの二人は第49回カンヌ国際映画祭で男優賞を受賞し、映画公開後デュケンヌは彼の両親と共に今作のタイトルを冠した団体「Le Huitième Jour」を設立している。
ダウン症当事者であるデュケンヌがダウン症の役を演じたことで、社会的にも大きく話題になった今作は、当然観る側の考え方や、当事者意識の距離感により見え方の変わる作品である。手放しでただ評価することも、何も意識せずに観るのも難しい作品ではあるだろう。しかし、今作で描かれた人と人の関係性の在り方には普遍的なテーマがあり、前作から、2026年現在最新作である『神様メール』までを貫くドルマルの作家性も強く反映されている。
まずは一度、ただ観た上で何を感じるか、それだけでも良いのだと思う。その上で今作は、ジョルジュとアリーの存在を通し、観ている側が自身の中にある無意識の差別心にも向き合うことになる作品だ。そうした観点から改めて観直すことにも意味があるだろう。
映像論:閉塞と解放がハッキリと描き分けされた映像
青白いカラーリングと時間の牢獄のようなセット構成
今作序盤の映像は、ノスタルジックでファンタジーなフィルターが掛かっていた前作と比べ、極めて現実的で、どこか閉鎖的だ。ジョルジュと出会うまでのアリーの世界は青みがかったカラーリングになっており、それがよりアリーの生きる世界の空虚さを強調している。
会社のオフィスも、家族が不在となり空っぽの家の中も……空間としては広いはずの場所に、ソファやデスク、椅子が整然と並べられ、妙に閉塞感がある。そこには人間的な温かさよりも、機能性だけが重視された人工的な冷たさが感じられるものだ。
それはアリーが車を運転しているシーンにも表れている。
運転中のアリーを寄りの画で映すことで、シートやハンドルに囲まれ、その姿はまるで牢獄に囚われているようにも見える。アリーが働くオフィスには自然光がほとんど入っておらず、外界での時間経過がわかり難い。その昼夜の別もない生活の中で、彼は大切な娘たちとの約束すら忘れてしまう。
アリーにとっての時間はタスクの入れ替わりを伝えるものでしかなく、だからこそ、後述のジョルジュとのシークエンスが、アリーの人生にもたらした意味が効いてくるのだろう。
毎朝同じ時間に起き、鏡に向かって作り笑いを浮かべ、同じラジオを聴いて会社へと向かう。アリーは時間に囚われ、にも関わらず大切な相手との約束の時間は忘れてしまう。時間に支配されながら、時間を裏切るアリーが、娘たちに拒絶されて真夜中の真っ暗な部屋の中で妻であるジュリーの幻覚を見る時、アリーの生きる時間の残酷な現実が浮き彫りになる。
だからこそ、いよいよ作り笑いすら浮かべられなくなったアリーは、会社から一度逃げようとした。閉鎖的で冷たい世界に、アリーは既に耐えられなくなっていたのだ。
アリーの閉ざされた世界を開く、ジョルジュの存在
一方、ジョルジュの登場するシークエンスは序盤から非常に開放的で、太陽光など自然の光が映える画になっている。それがまさにアリーとジョルジュの生きている世界の違いを表し、今作ではそれが次第に溶け合っていくまでが描かれていく。
アリーがジョルジュに出会ってからは、二人で車の中にいる場面でもカメラは正面から二人の姿を映し、車内の映像も横に広がり、空間としての形が把握できるようになる。
それまで一人だったところから二人になるため、撮り方が変わるのは当然ではあるものの、そうした見せ方もまたアリーの環境・状況の変化を表しているように感じる。
ジョルジュを生家や姉の家まで送り届ける際には車内にも太陽の光が差し、中盤からは昼間の屋外でのシークエンスが増えてくる。それまで閉ざされた世界にいたアリーが、ジョルジュとの関わりの中で外の世界を知っていく。
だからこそ、まるでそこから逆行していくような、ジョルジュを施設まで送り届けるシークエンスでは、カメラはシートの横からのアングルになり、再びその映像に閉塞感を感じるよう演出しているのかも知れない。
終盤の海辺でジョルジュとアリーが花火を打ち上げるシークエンスは、アリーの精神的な解放を表す物語の終幕であり、そこからラストシーンでの、冒頭のジョルジュとアリーが重なる演出に繋がる。この映像はまさに、ジョルジュの言葉を、アリーが再演した形だ。
物語のテーマが、映像のライティングや撮り方にも一貫して表現されているのだ。
アリーの世界は、ジョルジュによって解放された。
その一方で、ジョルジュはアリーとの関わりの中で、世界の狭さを知ってしまったのかも知れない。二人の世界は溶け合い、互いに影響し合った。それが結果として、ジョルジュの最後の選択にも繋がってしまう。
物語論:時間の牢獄に囚われたアリーの解放
仕事だけに生きたアリーと1996年の過労死問題
今作で取り沙汰される批評の一つに、所謂“感動ポルノ”という言い方がある。身体や精神に障碍を抱えた人の存在が健常者への道徳的教訓として利用され、障碍を持つ人々を過剰に理想化している、というものである。
それはある一面では間違っていないのかも知れない。アリー側からの視点で今作を観るのなら、そう見えてしまうのも致し方ないことではあるだろう。
だが、今作で描かれている本質は、もっと残酷で悲しい、障碍当事者の現実なのではないだろうか。
アリーの人生は、ジョルジュと出会わなければどうなっていただろうか。
それまでのアリーのセールスマンとしてのキャリアは盤石なものだ。飛行機で飛び回り、講演会を行い、ガレージとプール付きの家に住む。一般的な価値観で言えば、彼の人生は誰もが羨む成功者そのものだろう。しかし、その実態は孤独の中で別居した家族の幻影に縋り付き、人生に迷っている。序盤で主人を失った娘の部屋で、玩具のピストルをこめかみに当てている姿は、それが本物であっても躊躇いなく引鉄を引いてしまいそうなほどにギリギリの状態に見える。
綱渡りのような日々の中で保っていた精神は、娘たちからの拒絶で完全にその糸が切れたのだろう……オフィスのエスプレッソマシンに当たり散らし、会社を後にするアリーの背中は、あまりにも小さくもの寂しい。
公開年1996年は、日本では大小企業での労働時間が問題となり、欧米諸国にもその影響と“過労死”という言葉が浸透しつつあった時期だ。
EU(欧州連合)においても、1993年に採択された“週の最大労働時間を48時間以内とする”、“24時間につき連続11時間の勤務間インターバルを義務付ける”といった《労働時間指令》が加盟国において国内法化が求められた時期でもあり、労働時間と労働者の関係は社会問題になっていた。
アリーはその象徴的存在として描かれ、ジュリーと二人の娘もまた、そんなアリーの人生によって家族との絆を失った存在として描かれる。
僕らのための…僕らだけの1分の尊さ
アリーは間違いなく、ジョルジュによって救われたのだろう。時間という制約に捉われず、世間の求める常識にはめ込まれない存在。
ジョルジュと木の下で過ごす1分のシークエンス……広々とした草むらに寝転び、二人で虫を見て笑い、何もしない1分を過ごす。
この1分がきちんと1分間の長回しであり、BGMも台詞もないのが印象的だ。この穏やかなアリーの表情こそが、隠されていた本当の彼の姿であり、ジョルジュの言う「僕らのための…僕らだけの1分」。
アリーのように仕事に邁進し過ぎた人間でなくとも、現代社会で何もない1分間を過ごすというのは実は容易ではない。これは公開年よりも、むしろ2026年現在の方が、より深く感じる人が多いのではないだろうか。1〜3分のShort動画が絶えず流れ込む現代において、こうした1分を感じられる瞬間は極めて少ない。
このシークエンスは今作の最も印象的な場面の一つであるが、前作『トト・ザ・ヒーロー』で主人公:トマの弟セレスティンが言うジョーク「今が何時か聞いて」「昨日の今と同じ時間だよ」との繋がりも感じられるのが面白い。
どちらもデュケンヌが演じた登場人物であり、同じようにダウン症当事者として描写されている。既にこの時から今作の構想はあったのかも知れないし、そうした時間というものへの感覚の違いが、アリーにとって……延いては、監督であるドルマルにとっても重要なことだったのではないだろうか。ここでは恐らく、演じたオートゥイユとデュケンヌも、心からこの1分間を楽しんでいたような気がする。
ただ、ではアリーという存在は、ただ時間という牢獄に囚われた被害者だったのだろうか。
今作でのアリーは、父親としてもパートナーとしても、必ずしも理想的な男ではない。中盤でジョルジュと共に娘たちを訪ねた際の描写で顕著だが、アリーはジュリーの母に家に入るのを拒絶されると、裏のキッチンの開け放たれた窓から家に入り、ジュリーを半ば脅すように娘たちに会わせろと求める。
逃げるジュリーを無理やりに抱き寄せ、最終的には叫び声を聞いて家に入ってきたジョルジュに引き剥がされてもいる。
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アリーもジョルジュも、完全な善性を持った存在ではない
アリー自身が精神的に追い込まれていることを示すシークエンスではあると思うのだが、その態度は非常に支配的で高圧的だ。
轢いてしまった犬の死骸をきちんと毛布にくるんで車に乗せたり、自宅の庭に墓を掘って埋めていたり……何より置き去りにしたジョルジュを結局放っておけなかったりと、劇中アリーの根本的な善性を表すエピソードは幾つもあるのだが、それでも家族にとって、仕事の有無に関わらず彼が“良きパートナー”・“良き父親”であったのかは疑問が残る。
序盤のジュリーの幻はアリーに対し「私の人生はこれだけ?」「私にレクチャーはやめて」といった言葉を投げかけている。彼ら夫婦のこれまでの暮らしは細かく描写されるわけではないが、こうした台詞からも、アリーが家庭においてジュリーにどう接していたのかは想像するに容易い。
今作は必ずしも、社会的外圧の中で自分を見失った主人公が、ダウン症当事者の青年の目を通して善性を取り戻していく物語というわけではない。
むしろ、アリーはジョルジュとの関わりの中で明確に生まれ変わりを果たしている。そして、同時に、ジョルジュとアリーは根本的に違った二人として描かれていると言うより、この二人は常にその描写が重ねられ、表裏一体の存在として描こうとしているように感じる。
だからこそ、結末の二人の選択にもまた、一つの対比関係が出来ているのだ。
演出論①:現代だからこそより感じ入る障碍当事者との関わり方
今作は当事者映画ではなく、当事者を取り囲む世界の視点で描かれる
今作にはデュケンヌ始め障碍当事者が多く関わっているが、真の意味での“当事者映画”ではない。むしろ、今作は障碍を持つ人間と共に暮らす側の苦悩に焦点が当てられていたように思う。
ドルマル自身「これはダウン症についての映画ではない」と語っているように、今作の主軸は障碍のない側であり、ジョルジュの辿る結末も含め、その心情描写はあくまで客体化されたものだ。
しかし、前作『トト・ザ・ヒーロー』でのセレスティンが物語本軸の中でやや描写が薄くなっていたのに対し、今作は当事者との関係性といった部分に正面から向き合っていたように思うし、それは自身が当事者ではない創り手として最大限に真摯な態度だったのではないか。
これは現状、筆者の身の周りにジョルジュのような人がいないからこそ感じることなのかも知れないが、ドルマルは細かな登場人物の描写で、そうした面をしっかり描こうとしていたように思う。
特に印象的なのは、ジョルジュの姉であるファビアンの家に行くシークエンスだ。
彼女は夫と二人の子供と暮らしており、ジョルジュが施設から出て行ったことは当然連絡を受けて既に知っている。そんな中、アリーと共に現れたジョルジュを、彼女は戸惑いとも恐れとも言えないような表情で迎え入れる。
この場面は今作において最も重要なシーンの一つだろう。これを単純にジョルジュへの差別の一つだと思ってしまうと、今作で描いていることを取り違えてしまう。
“障碍当事者の姉”として生きたファビアンの苦悩
ジョルジュはファビアンに「ママは“ジョルジュには優しく”と(言っていた)」と言い、
ファビアンは「ママは私をほっといてお前の世話ばかり」と言う。
泣きながら自分には家族がおり、ジョルジュの世話は出来ないという彼女を見ながら、夫も静かに涙を流す。ファビアンの夫は登場時からあからさまにジョルジュに対して冷たく、ジョルジュになつく子供たちを引き離したりと、その態度には問題があるように見えるが、逆に言えば、彼の判断の中心には常に自分の家族……ファビアンがいるということだ。
障碍当事者家族の在り方のについて、ここですべてを語るのは難しい。
しかし、ファビアンが幼少期に抱えた孤独は、そうした障碍当事者家族にとって他人事ではないのではないか。子供が複数人いる家庭で、障碍当事者がいれば、親の面倒の比重はどうしてもそちらに傾いてしまうだろう。兄弟姉妹で、下の子が当事者なら尚更だ。勿論それは一概には言えないが、少なくともファビアンとジョルジュの育った家庭はそうだったのだろう。
子供が子供のまま、障碍当事者の子供を持つ親のすべて理解するのは難しい。日々「ジョルジュに優しく」と言われ続けることで、“ほっとかれた”意識はより強く、濃くもなっただろう。
奇しくもそれは、前作『トト・ザ・ヒーロー』で長女の役柄を演じ続けたアリスにも重なってくる。
それを責めることは出来ない。育てる親も人間なら、子も人間だ。どちらにも孤独があり、苦悩があり、痛みがある。
そのどちらがより重いか、という話ではない。
障碍を持つ人と暮らすのは、決して簡単なことではないだろう。今作は、そこにきちんと踏み込んでいるように感じるし、そこに単純な“差別”だけがあるわけではないということを、非常に丁寧に描こうとしている。
ファビアンにとって、実家を離れ、夫と子と暮らす今の生活は、恐らく人生で初めて“ジョルジュの姉”という重荷を降ろせた瞬間だったのではないか。そんな彼女を知っているからこそ、夫もまた、そんな二人を見て涙を流しているのだろう。
ジョルジュが知ってしまった“世界からの拒絶”
今作では、ジョルジュを拒絶する人々が多く登場する。序盤の靴屋の店員、中盤でのレストランのウェイトレス……しかし、その誰もが、単純な差別心だけでジョルジュを拒絶しているわけではない。
劇中でジョルジュが女性に対して示す愛は、非常に衝動的で直線的だ。出会ってすぐに愛を告げ、相手の都合などお構いなく、どこまでも追いかけて行ってしまう。
靴屋の店員には結婚を求め、ウェイトレスには花と自らが編んだ編み物を渡す。
靴屋の店員は初めからジョルジュを相手にする気もなく、ジョルジュがダウン症であることを訝しむ様子を見せながら、「結婚してるの」と逃げ口上を言うもその左手に指輪はない。
ウェイトレスは初めサングラスで目元を隠したジョルジュがダウン症であることに気づかず、ジョルジュがそれを外した途端に彼を拒絶し、逃げるように店の裏へと出ていく。
こうした描写の根底には確かに差別心はあるだろうが、では同じことをアリーがすれば、この二人はすぐに頷いただろうか。
映画やドラマでは、そうした“運命の出会い”というものもあろうが、こんな風に突然に声を掛けられるのは、女性の側からすれば恐怖でしかないだろう。
結果として今作で、ジョルジュの愛を受け入れたのは同じダウン症当事者であったナタリーだけであり、施設の中にいたのなら、ジョルジュはこうした拒絶を受けずに済んだのかも知れない。姉であるファビアンにも、女性たちにも……ジョルジュは施設を出たが故にその拒絶に気付かされることになる。
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キャラクター考:ジョルジュとアリーの対比は対等な描かれ方だったか
“純粋無垢な天使”というレッテルに隠されてしまう個人の在り方
障碍のある人に対し、しばしば“天使”という呼称が使われることがある。もしくは、そうした障碍について“ギフト”と呼ぶこともある。そうした言葉を使う感情は否定できない。当事者家族がどのような思いでそうした言葉を用いるのか、そうでない人間には推し量ることすら出来ない。
ジョルジュの母もまた、ジョルジュを天使と呼んでいたであろうことが描写されている。
「お前はなんでもできる、お前は天使よ、誰とも違う」
けれど、ジョルジュは天使ではない。
今作のジョルジュは、決して“障碍がある故に純粋無垢な存在である”といった紋切り型のキャラクターではない。
怒り、愛し、間違い、他人に迷惑もかける。すぐに誰かを愛しては泣き叫び、アリーが自分のせいで殴られれば車に鍵を閉めて自分に危害が及ばないようにしようとする。彼は判断力なくそれをするのではなく、きちんと理解してそれをしている。
今作は、常にジョルジュとアリーを対比して描いている。
アリーがチョコを投げれば、ジョルジュは車の中の携帯電話を投げる。
ジョルジュがファビアンの家でパニックになればアリーが止め、アリーがジュリーに襲い掛かればジョルジュが止める。
そうして互いに互いの涙を拭い、友情を深めていく。
今作には“感動ポルノ”とは異なった角度での語るのが難しい問題がある
こうした描写を通し、障碍当事者と健常者である二人が同じように誰かに迷惑を掛け、間違う様を見せながら、そこにある圧倒的に残酷な差異が浮き彫りになっていく。
アリーにとって電話は、自らを仕事と結びつけるもの……アリーの牢獄の一部だが、ジョルジュにとって禁止されていたチョコは、それでも食べたい自由の一つだ。
アリーの暴力は理性的で本来なら自ら抑えるべき衝動だが、ジョルジュのそれは本能的で、自ら抑えることの難しい衝動であり……だからこそ、二人の対比は今作の残酷さをより深めてしまう。
筆者は今作を“感動ポルノ”だとは思わない。
しかし、アリーとジョルジュの対比は、そのまま健常者と障碍当事者の対比になっており、そこに対し結果として障碍当事者の側に苦しい描き方になっている点は、今作最大の問題であり……同時にドルマルの真摯さの表れでもあり、公開年1996年での限界だったとも思う。
アリーは、時間に囚われた生活の中で、ジョルジュと出会うことで、その時間から逃れ、1分を大切にする視点を得る。アリーの閉ざされた世界は、ジョルジュによって解放を得る。
だから最後に彼は、それまでいた渋滞を外側から眺め、道を塞ぐことに苛立ちを覚えていたごみ収集の仕事を手伝う。彼は、それまでとは違う人生を手に入れたのだ。
一方のジョルジュは、開かれた世界の中に生きていたはずが、一歩外に出れば非常に閉ざされた世界であったことを知ってしまう。
愛することも、愛する人と暮らすことも、自分には容易でない現実を知ってしまったからこそ、彼は禁じられていたチョコレートを食べ、この世界に別れを告げるのだ。
アリーは健常者だったが故に八日目に行けたのではないか
二人は互いに影響し合い、人生の大きな選択をする。
アリーは恐らく、仕事ではなく家族と過ごす時間を選んだ。家族と共に、1分を愛しく思える生き方を選んだ。けれど、それをアリーが選べたのは、彼が健常者だからではないだろうか。
だからこそ、アリーには“八日目”があった。七日という人間の定められた一週間から離れても、八日目という生き方を選べた。
しかし、初めから八日目にいたジョルジュには、選べるもう一日が存在しなかった。
母の言う「誰とも違う」が、ラストで反転してしまう。
「僕は皆とは違うんだ」「僕はやっかい者だ」
中盤の夢の中、ファビアンに拒絶され、「アリーと暮らす」と言うジョルジュに夢の中の母は言う。「アリーには彼の生活があるのよ。それが現実ってものなの」
それまでジョルジュにとって、生きていた頃のまま、理想的な言葉しか言わなかった母は、そう言ってジョルジュの言葉を否定する。
ジョルジュはそうしたことを、少しずつ知っていってしまった。だからこそ、最後に彼は身を投げる。
見ようによっては、ジョルジュにはこの世界に居場所がなかったようにも見えてしまう。結末をそこにしか置けなかったことが、今作の最大の問題であり、限界だったと筆者は思うのだ。
アリーとジョルジュを対比し、選択の違いを描くにはこうした結末しかなかっただろうし、その結末をジョルジュに背負わせたのは、ジョルジュを一人の人格としてきちんと描き切ろうとしたからだとも言える。
しかし、やはりそこはどうしても一義的な物の見方になってしまっているように感じるのは否めない。
ジョルジュの冒頭ナレーションとアリーのラストが重なり、今作のタイトル回収がなされるが、これも、冒頭のジョルジュは一人だが、アリーには家族がいる。そこにも、やはり大きな違いがある気がする。
演出論②:障碍当事者の描き方にはやはり気になる点は多々ある
今作は公開時の1996年、社会的にも非常に大きな意味を持つ作品となった。デュケンヌとその家族が設立した前述の団体もそうであるし、今作によってダウン症の人々への目線が変わった実感は、製作者側には確かにあったと言う。
とは言え、今作を以て実際に障碍当事者の俳優雇用がそれまでより進んだかと言えば、それは断言できない。
実際、カンヌ国際映画祭での賞受賞の直後のニュースに、オートゥイユとデュケンヌが生出演した際にも、司会者はデュケンヌに“受賞俳優”として接するべきか“医療・福祉の対象”として接するべきかを決めかね、インタビューはまずオートゥイユから始められたという記録もある。
2026年現在から見れば30年も前の作品であり、当時こうした作品を、この脚本・キャストで公開し、評価されたのは驚くべきことだと思う。しかしだからこそ、今の視点で見ると、やはり問題となる描き方や、理解が追いついていない点も多々見受けられる。
特に、ダウン症当事者について“蒙古人(モンゴル人)”と自ら語らせるのは、1996年であっても問題だったのではないか。
この例え方は1965年に既にWHOにより廃止が進められた所謂“差別用語”であり、それをジョルジュが自ら名乗るシーンに関しては、ある種のブラックジョーク的な、当事者本人はそんなことを気にしているわけではなく、もっと考えるべきことがある、といったメッセージとしても捉えられる。が、終盤でジョルジュたちがナタリーを迎えに行く際、モンゴル風の衣装を着たイメージシーンを挿入するのはさすがにやり過ぎだろうと思う。
ジョルジュとナタリーがナタリーの両親に止められていた性交渉をするシーンや、アリーとナタリーを迎えに行くために展示会の車を盗むシーンなども、どこかコメディ的描写として流してしまっているが、当事者家族の在り方や、差別と生き方について細やかな描写で描いていた前半部に比べやや描写が浅くなっており、こうした点はもう少し丁寧に描くべきだったとも思う。
118分の映画ですべてを語るのはあまりにも難しい内容であり、語り過ぎれば物語の本軸がブレてしまうのは理解した上で、やはりこうしたテーマを扱うのならもう少し取捨選択すべきだったとも思わざるを得ない。
総括:観る度に感想が変わる……そこにもきっと意味がある
今作は観た感想を表すのが非常に難しい作品だ。
最終盤、倒れ伏すジョルジュにまるでカーテンコールのように歌われるキャストたちの「Maman la plus belle du monde(ママは世界一美しい)」。そこで歌うのはジョルジュを拒絶してきた人たちであり、だからこそ、ジョルジュの遺体が運ばれていく中、アリーだけは歌わない。その葬送歌は、ジョルジュを求めたアリーには歌えるものではない。
他者が他者に与える影響は、必ずしも良いものだけではない。誰かと関わることで、自らの知らなかった劣等感に気付かされることもある。
アリーとジョルジュには、確かな友情が芽生えていた。二人は、互いを求め互いを愛していた。けれどだからこそジョルジュは身を投げたとも言えるし、アリーの幸福は、ジョルジュと出会い、別れなければ成立しなかった。
そうした意味では、今作もまた前作と同じように、人間同士の関係の中で選択を迫られる物語でもあるのだ。
障碍当事者の描き方や、ジョルジュの結末については、どこか一義的に感じる部分はある。
しかし同時に、綺麗事ではなく、その暮らしや生き方に対しての苦悩や、周囲の人間の戸惑いや困難を真正面から描いたことは、やはりこの時代において他にない表現だったのではないかと思う。
少なくとも、安易に障碍当事者を感動のために消費しているような作品ではなく、だからこそ余計に観るのに体力が必要な作品でもあるだろう。劇中描写を単純に差別として断じることも出来ず、同時に自分自身がジョルジュに対しどう感じるかが常に問いかけられているかのような……そんな作品でもあると思う。
ドルマルの四作品の中では、最もその物語外の部分が語られやすい作品でもあるが、そこにはきちんとドルマルが描いてきた“選択と時間の物語”という共通項がある。
自らの人生を他者の視点から見ることで、それぞれが別の選択をした二人の男……この物語を経た後、次作でドルマルは、あらゆる時間や事象の先と、後にある“可能性の物語”を描くことになる。
前作・今作で描いた正解/不正解の問いを問い直すかのように、誰でもない男の、あらゆる選択の物語が描かれることになるのだ。
⭐ 3.0 / 5.0
📅 2026/08/29(DVD)
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📕ジャコ・ヴァン・ドルマル 全作品考察レビュー

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