Sony’s Spider-Man Universe全作品レビュー2
――共存したヒーローは「We」であるからこそ勝てた 共生を描く最高のバディ・ムービー
この作品はどんな作品?
『モービウス』より前倒しで公開されたSSUシリーズ2作目であり、ヴェノム三部作としても2作目。
前作よりパワーアップしたアクション、愛らしさを増したヴェノムと、人気を盤石にした作品。カーネイジとヴェノムの対比により浮き上がる“共生”のテーマを打ち出すも、ユニバースの展開が崩れる一因にもなった作品。
この作品はどんな人にオススメ?
1作目でヴェノムの可愛さにやられてしまった人。
映画の大半がアクションの応酬の激しく楽しいエンタメ作品が観たい人。
短い時間でサクッと楽しめる単純なスーパーヒーロー映画を求めている人。
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作品データ
原題:Venom: Let There Be Carnage
監督:アンディ・サーキス
脚本:ケリー・マーセル
トム・ハーディ
原作:Marvelコミック『ヴェノム』
デイビッド・ミッチェリニー/トッド・マクファーレン
音楽:マルコ・ベルトラミ
主題歌:スカイラー・グレイ
「Last One Standing」
撮影:ロバート・リチャードソン
上映時間:97分
出演者:
エディ・ブロック/ヴェノム:トム・ハーディ
アン・ウェイング:ミシェル・ウィリアムズ
クレタス・キャサディ/カーネイジ:ウディ・ハレルソン
クレタス・キャサディ(少年時代):ジャック・バンデイラ
フランシス・バリソン/シュリーク:ナオミ・ハリス
フランシス・バリソン(少女時代):オルミデ・オロランフェミ
ダン・ルイス:リード・スコット
パトリック・マリガン刑事:スティーヴン・グレアム
パトリック・マリガン刑事(若い頃):ショーン・ディレイニー
チェン:ペギー・ルー
カミール・パッゾ:シアン・ウェバー
ピーター・パーカー/スパイダーマン:トム・ホランド
J・ジョナ・ジェイムソン:J・K・シモンズ
※本レビューにはネタバレを含みます。
総文字数:10417文字
読み終わるまでの時間:約26分
前作レビューはこちらから
→

製作背景:コロナ禍の製作遅延と映画産業の復興に巻き込まれた計画変更
アンディ・サーキス監督による、《SSU(=Sony’s Spider-Man Universe)》の第2作目で、1作目と同じくヴェノムを主人公とした続編。今作公開直前の2021年8月に、Sonyはこのシリーズ/フランチャイズの名称をSSUと明確化し、シリーズはユニバースとして本格的に動き出した。
ヴェノムの単独映画企画が、遡れば『スパイダーマン3』(2007)の頃からのものであることは前作製作背景でも述べたが、より正確に言うならば、今作ヴィランであるカーネイジと合わせた映画化の企画は1997年まで遡ることが出来る。
前作監督のルーベン・フライシャーとクレタス・キャサディを演じたウディ・ハレルソンは『ゾンビランド』(2009)でも共演しており、まだ今作の脚本執筆も始まっていない段階から、二人の間ではカーネイジの登場を想定して内々に出演の交渉が進められていた。1作目公開当時、まだ今シリーズの継続も本決定していない段階でのクレタス(=カーネイジ)登場のポストクレジットは、ハレルソンにとっても“賭けのようなもの”だったと言う。
当然今作の監督を務める意志はフライシャーにもあり、企画段階では製作にも関わっていたそうだが、撮影当時は『ゾンビランド:ダブルタップ』(2019)の製作に掛かり切りでその余裕はなかった。Sony側はSSUの製作・公開を急いでおり、スケジュールの折り合いがつかずに、監督はアンディ・サーキスに交代となる。
当初今作の公開は2020年10月に予定されており、SSUとしてはその前、2020年7月に『モービウス』をシリーズ2作目として公開する予定でそれぞれ撮影は進められていた。
今作も撮影自体は2019年11月から始まっており、前作からそう間隔を置かずにユニバースとして展開する予定だったのだと思われる。
……が、2020年初頭から世界を襲った新型コロナウイルス感染症の蔓延とそれに伴うパンデミックにより、この予定は大きく変わることになる。
両作品共に主要シーンの撮影は2019年内〜2020年頭には終了していたものの、CG処理などのポストプロダクションには遅延が生じ、世界的な外出自粛により映画館での作品上映やプロモーション活動にも制限が課せられた。
作品の公開は延期を重ね、MCU作品としてのMarvelとの共作『スパイダーマン:ノー・ウェイ・ホーム』(2021)の物語展開や、その製作以前に発生していたスパイダーマンの映像化に関するMarvelとSonyの利益分配への意見の相違もあり、この辺りでユニバース構成は当初の予定から大きく変更せざるを得なくなったのではないかと推察できる。
事実、それに伴う物語の変更の為か、両作品共に再撮影も行われている。
結果として、『モービウス』の公開は2022年3月にズレ込み、今作が2021年10月公開と『モービウス』よりかなり前倒されることになった。
これには再撮影等による製作遅延という理由の他にも、アフター・コロナの映画産業自体が盛り返さなければならない大切な時期……まだ本当にコロナ禍が終わりを迎えるのかも不透明な中での公開に、新たなキャラクターIPよりも、既に観客に広く受け入れられているヴェノムを優先したという面もあったのではないかと思う。
今作は興収的には前作に劣る5億680万$だが、時期を考えれば充分すぎる成績だったと言える。実際、作品としても、よりヴェノムとエディの魅力にフォーカスし、前作よりもアクションシーンも増えてかなり楽しい作品だ。
……が、それが故に、今作を以てSSUは本格的に“ヴェノム頼り”という対外評価にもなり、この先の作品群の評価を下げる一因になってしまったのかも知れない。
アクション論:モーションアクター出身監督による前作を超えた激しいアクション
派手な映像と毒のある演出がカーネイジの強大さを表現
今作ではヴィランであるカーネイジとのラストバトルや、カーネイジとシュリークが単独で暴れ回るシーンもあり、映画の尺は97分とコンパクトながら、アクションの満足度は1作目よりも高い。
前作はヴェノムやライオットのアクション・シークエンスでの画面の彩度が暗く、その見せ方もやや弱く感じる面があった。しかし、今作では自身にモーションアクターとしての経験もあるサーキスの演出により、そのあたりの迫力が大いに増し、映像の派手さや魅せ方で充分に満足させてくれる。
クレタスが脱獄する際にはカーネイジによって嵐が巻き起こり、そこにはヴェノムとの圧倒的な能力差が示されている。これにより、終盤でヴェノムが「アンなんて好きじゃないし」とまで言って逃げようとする姿や、戦いの最中に諦めに近い言葉を呟くことにも説得力が出る。
前作のやや弱かったアクション描写も、今作でのカーネイジの暴力的なアクションと合わせることで良い対比になっており、結果論ではあるが監督交代が見事にハマった一例だろう。
レイブンクロフトに収監されたフランシスを助け出し、カーネイジとシュリークとして逃亡するシークエンスは、アクションシーンとしても物語としても今作のハイライトだ。
フランシスの憧れた66年型マスタングで乗り付け、カーネイジの触手で空に浮かべた車の中でクレタスは愛の言葉を囁く。カーネイジの赤黒い触手が伸びたその姿はあまりにも醜悪でありながら、《ボニー&クライド》を思わせる二人の狂気じみた愛情は純粋そのものだ。
一方このシーンでは、シュリークの超音波の能力がシンビオートの弱点に繋がっていることも示唆され、今作のダブルヴィランの向かう先に既に暗雲が立ち込めていることも予感させる。
前作ではヴェノムとエディのバイクアクションが物語を引っ張っていたが、今作ではヴィラン側がカーアクションを魅せており、同じように乗り物とシンビオートの組み合わせながら、前作とは明らかに違うものを作るその画変わりも楽しい。
総力戦のラストバトルに見る、ヒーローとヴィランの大きな違い
今作のラストでは
ヴェノム/エディvsカーネイジ/クレタス、
マリガンvsフランシス/シュリークに加え、
ダンまでもが戦闘に加わる総力戦が見られ、全体的に地味な映像が多いSSUの中でも、アクションの楽しさと言う意味では屈指の作品と言える。
クレタスとフランシスの結婚式ということで、黒いドレスのフランシスと赤黒いジャケットを着るクレタスのヴィジュアルも非常に毒々しく、教会の鐘を使った原作オマージュの演出も嬉しいポイントだ。
鐘の音が鳴る度に共生が剥がれそうになるヴェノムとカーネイジの闘いと、カーネイジがいるために超音波が使えず、全力を出すことが出来ないシュリーク。
そんな彼らと対比するように、何の能力も持たない、“一般人代表”のダンが、「ファイア&サウンド」と叫びながら火を放ち闘う姿には、ヒーロー側とヴィラン側の圧倒的な生き方の差がそのまま表れる。
最終盤でカーネイジとの勝負を決めるのはシュリークから発された超音波であり、ヴィラン側は、最後まで互いの足を引っ張り合う結果になった。叫びながら落下し、教会の鐘の下敷きになったシュリークは音を塞がれ、カーネイジが剥がれ一人で落ちたクレタスは致命傷を負う。
その逆に教会の天窓から落ちていくエディを、ダンとアンはヴェノムに寄生されることで救い出す。ダンの腕からアンの腕へ、一本に繋がるように移動したヴェノムをクッションにし、エディは落下の衝撃を免れた。
この対比が実に皮肉に『ヴェノム』三部作……SSUシリーズ全体を貫いた“共生”というテーマを物語っており、崩れゆく教会と超音波で歪むシンビオートたちと、映像も非常に大掛かりで見応えがある。観終わった後には、大作映画を観た満足感が確かに感じられるのだ。
演出論:PG指定と物語構成の甘さは引き続き課題点
カーネイジとクレタスの狂気はPG指定では再現できなかったか
その他演出面では、やはり前作に引き続きPG指定にこだわってしまったがために、クレタスやカーネイジの残虐さがかなりマイルドにされ、そのサイコな魅力が今ひとつ伝わってこなかったのは残念だ。
クレタスの過去を手書きの絵本風に表現するのはわかりやすく、過去回想を台詞任せにせずうまく伝えてくれたとは思うのだが、結果としてクレタスのサイコパスっぷりは薄まり、その圧倒的なヴィランとしての恐怖感は損なわれてしまったように思う。
手紙を書きながら蜘蛛を潰し、その手を舐めとるというシーンも、その描写やカメラワークがサラッと流されてしまうのでクレタスの“底の見えなさ”が伝わり難い。
この辺りの画作りや演出の弱さは、サーキスの映画監督としての経験の浅さが出てしまった部分だろう。何より折角“蜘蛛”を潰すのだから、もう少し意味ありげに撮って欲しかったものだが……まぁSSUの先を考えると、ここはあまり意味深に撮らなくて良かったのかも知れない。
クレタスとフランシスは共に《聖エステス矯正施設》の出身であり、彼らは生まれながら闇を抱えている。
やはり今作はR指定に振り切ってでも、彼らの狂気を描くべきだったと思う。“人間を食べる”という設定と残虐な殺人鬼の組み合わせの割に、食人シーンは相変わらずハッキリ映されず、基本は触手で刺し殺す程度なので血糊もそこまで出ない。
すべての映画に必ずしもゴア表現が必須というわけではないが、今作にはやはり、強烈な“痛みと虚無”が必要だった。
死刑執行の瞬間にクレタスがカーネイジの力を発現し、被害者遺族や看守を襲って脱獄するシーンにせよ、フランシスを収監していた医師を殺害するシーンにしても、もう少しカーネイジ(=大虐殺)に相応しい地獄を演出すべきだったのではないだろうか。
特にレイブンクロフトの医師に関しては、フランシスにかなり悪辣な処遇を与えており、ここはフランシス自身がトドメを刺す姿を見せて欲しかった。
前述のマスタングを盗むシーンも、本来ならクレタスは無言で運転手を殺害するくらいのことはやるだろうし、フランシスの居場所を調べるためにパソコンを奪うシーンも、売店の店員を殴り殺すシーンは見せないのでやや肩透かしだ。
前作の成功により、ヴェノムというキャラクターの一般認知度が大きく上がったのは間違いないだろう。それに伴い、SSUにおけるヴェノムの立ち位置は“可愛いキャラクター”“マスコット”というイメージに舵を切ってしまったように思う。
今作はそれがヴィランの造形にも影響し、全体的な演出があと一歩抜け切れなかった。クレタスのキャラクターも、前作のポストクレジットや、原作コミックほどの底知れなさを感じられなかったのだ。
物語において重要な設定が台詞のみで語られる
全体的な演出の雑さ、物語のご都合主義的展開も変わらず弱点として存在しており、特にクレタスにシンビオートが寄生する……カーネイジが生み出されるシークエンスはかなり問題だ。
エディとクレタスの会話に憤ったヴェノムが触手を伸ばし、クレタスに襲い掛かっていたわけだが……
看守、目開けたまま寝てるのか?目の前で新聞記者から黒い触手が伸びている。しかもその男はマリガン刑事に事件の関係者として疑いをかけられてもいる。いくらなんでも、そんな異常事態を見て見ぬフリはマズい。
クレタスはクレタスで、噛みついたエディに「俺が知る血の味とはまるで違う味だ」と言っているが……違う、そこじゃない。たった今自分を振り回した触手についてコメントすべきだ。監獄ボケしてるぞクレタス。
またこの時のクレタスはエディを挑発し、エディの過去について語ってもいるわけだが……これもクレタスは一体どこからそんな情報を手に入れたのだろうか。
確かにエディが母親の命と引き換えにこの世に生を受け、それが原因で父親に冷遇されていたという設定は原作のオリジンとしても存在している。“父に憎まれた子”という共通項にクレタスが興味を持つのも理解は出来るし、それを深掘りすれば物語に厚みも増すだろう。
しかし……殺人罪で収監されていたクレタスに、それを知るタイミングなどあるはずがない。精々アンと別れた話くらいはエディが自ら話していてもおかしくはないが、ここでのエディの表情を見る限り、そんな自分の過去話を嬉々として語り聞かせていたとも思えない。カーネイジが寄生した後ならば、記憶の共有という見方も出来たのだが、これはそれ以前だ。
前作から引き続き脚本を担当したケリー・マーセルは出来る限り原作の設定を活かしたかったのかも知れないが、前作ヴェノムの“負け犬”発言と同じく、重要な設定を台詞だけで説明するのは問題だろう。
物語論:“共生”を軸に仕上げた最高のエンターテインメント作品
アメコミ映画2作目傑作の法則
物語については、“アメコミヒーロー映画2作目傑作説”という、筆者が個人的に提唱している説が今作にも当てはまる。
《007シリーズ》などの超長寿作品は別として、『ゴッドファーザー』(1972〜)や『バック・トゥ・ザ・フューチャー』(1985〜)に代表されるように、ハリウッド映画のシリーズには三部作が多い。
元々ハリウッド映画には続編製作という考え方が一般的でなく、『スター・ウォーズ EP4/新たなる希望』(1977)から始まる当時の三部作は、その新たな活路を開いたとも言われている。詳しい話は本論から逸れるので割愛するが、今では4番目のエピソードであることが常識となっている同作も、初期タイトルは『スター・ウォーズ』であり、続編が作られるかどうかは公開してみるまでわからなかったという話である。
そうした地盤があるためか、現在でも基本的にシリーズ物は三部作での製作が多く、1作目が成功した後、主要キャストが残り2作品分の契約を交わす、といった流れが一般化しているように思う。
キャストの年齢や製作期間も考えると、3本で物語をまとめるのが丁度いいということもあるのだろう。
そうした三部作構成の際、2作目というのは一番自由度も高く、物語をエンターテイメントに振りやすい。
1作目ではオリジンの説明にある程度尺を使わざるを得ず、3作目は締め括りとしてのまとめに入らなくてはならない。……そうした意味で“アメコミヒーロー映画3作目の呪い”という説もあるのだが、これは後の『ヴェノム:ザ・ラストダンス』の項で語ることにする。とにかく、2作目である今作は物語としても一番面白く、ヴェノムとエディも序盤から関係性が出来上がっているので、それが故に揉めてしまうという展開もスピーディーだ。
2010〜2020年代の時代を象徴する“共生”というテーマ
今作はヴェノムとエディの、“共生”の意味を問う物語だ。そこには前作に引き続き、公開時の世情に対するメッセージも巧みに織り込まれている。
人間の脳みそを食べたがる宇宙の寄生体であり、お節介で、やかましくて、愛おしい存在。
文化も、価値基準もその尺度も違うが、エディとヴェノムは同じ体を共有し、“残虐なる守護者”として共に戦うことが出来る。
今作は、彼らが「We」という共同体であることが、そのまま勝利へと繋がる物語だ。
中盤でエディから離れたヴェノムがクラブの仮装パーティで演説した
「よそ者(エイリアン)への差別は断固反対だ。オレたちは共存できる、この丸い地球で」
「自由に生きろ」
というメッセージが、非常にわかりやすくそれを表現している。このクラブも、多種多様な人種の若者が思い思いに楽しんでおり、ヴェノムがマイクを奪ったのが黒人の女性歌手であることも象徴的だ。
脚本のマーセルは、インタビューで今作を“エディとヴェノムのラブ・ストーリー”だと語り、このクラブでのシークエンスもLGBTQコミュニティを意識して描写したのだと言う。
QUEENのフレディ・マーキュリーの半生を描いた伝記映画『ボヘミアン・ラプソディ』(2018)でも伝説のライブ・イベント《ライブ・エイド》でのシークエンスにそうしたメッセージが重ねて描かれていたが、やはりこの2010年代後半〜2020年代のアメリカにおいて、このテーマは切っても切り離せないものだったように思う。
原作においても、映画版のシリーズにおいてもシンビオートに性別の設定はない。ブロマンスのようにも、ロマンスのようにも、親子のようにも、はたまた二重人格のようにも見える関係性。
カーネイジはクレタスがエディに噛みついて流れたその血液から生まれており、ヴェノムを「父」と呼ぶカーネイジは、ある意味エディとヴェノムの子であるという見方さえ出来る。
エディとヴェノムの関係は一口に“相棒”と表現するのも難しい、一心同体の共生体……まさに「We are Venom」であり、離れようとしても、離れても、決してバラバラにはならない。
今作でヴェノムは喧嘩別れするエディに「破局だな」とまで言うが、一方エディと別れてクラブでの大演説を立ち回った際には「お前に見せたかった……」と力なく項垂れてしまう。
サーキスはこうしたヴェノムとエディの関係を“倦怠期”と呼んでおり、コミカルな描き方をしてはいるが、やはりこの主人公コンビの関係性は、製作側も様々な見方が可能になるように描写しているのだと思う
キャラクター論:ヴェノムの可愛さの影響で漂白されたクレタスの狂気
今作のエディとヴェノムの関係性は、とにかく可愛さに振り切っている。
アンとダンの結婚を報告されて落ち込むエディに触手を伸ばして滅茶苦茶に朝食を作るシークエンスは、不器用な優しさがあまりにも愛らしいし、チェンさんに寄生してヘソを曲げてる姿も思わず抱きしめたくなるほどだ。チェンさんと仲良くなってしっかり中国語までマスターしているのもポイントで、所々で「サヨナラ」など日本語を話してくれるのも日本人としては嬉しい。
アンに会いに行く道すがら一生懸命エディの髪型を直している姿などは、人懐っこい犬のようで、喧嘩して癇癪を起こす姿も、寄生体の恐怖などどこへやら、だ。
ただ、結果としてここまで振り切ってしまったことで、ヴェノムシリーズは本格的にキャラクター・ムービーになってしまったのだろう。
クレタス・キャサディとカーネイジは原作『スパイダーマン』シリーズにおいて、長年スパイダーマンを苦しめ続けているヴィランであり、子供であろうと平気で手に掛けるその残酷さはシリーズヴィランの中でも群を抜いている。本来なら、今作一作で終わるキャラクターでもない。
確かに今作でもヴェノムより強大な力を持つことは描写され、苦戦を強いられてはいたものの、クレタスのキャラクターは随分と人間らしく演出されてしまった。
死に際の「俺は何を望んだ。-お前との友情だ」という語り口も、エディの記事に「クレタスは家族全員から虐待されていた!(と書かなかった)」という不満を述べるところも、その心情描写は理解“し易くなり過ぎた”気がするのだ。
現代の映画界には多くのサイコパスが登場しており、クレタスはその中で強い印象を残したかと言うとそうとは言い難い。
演じたウディ・ハレルソン自身は、前作でのポスト・クレジットでの演技よりも今作の方が理想に近かったと語っていたが、前作の空虚で感情の見えない姿のまま、今作の物語を見てみたかったものだとも思う。
とは言え、原作コミックでも『Spider-Man and Batman: Disordered Minds』(1995)というDCコミックとのコラボレーション作品においてクレタスはバットマンの宿敵:ジョーカーと共演しており、最終的にジョーカーの狂気には敵わずヴィランコンビの結成は破談になっているので、ああした真性の狂気には元々太刀打ち出来ないのかも知れない。
シュリーク/フランシスはどんなにカーネイジに虐げられようとその宿主であるクレタスへの愛情は決して揺るがず、幼い頃クレタスから贈られた玩具の指輪をずっと大切に指にはめているのも含め、あまりにも純粋な愛情がそこにはあった。
実は原作においてはこの二人に幼馴染という設定はない。今作での彼らは、誰よりも狂気的でありながら、互いの存在だけを希望に生きてきた……けれど、彼らがその狂気に足り得る能力を持ったとき、そこに決定的な決裂が生まれてしまう、その悲劇的な関係性はあまりに儚く美しかった。
今作のクレタスがどこか生まれ持ってのサイコパスというより、人間味が見え隠れしていたのも、もしかしたら聖エステス矯正施設で彼を救った彼女のように“なろうとしていた”からなのかも知れない。
今作ラストではクレタスが死に、フランシスの生死は不明であったが……彼女だけが生き残ってしまったことの因果と絶望を、もしこの続きが観られるなら描いて欲しかったものだ。
シリーズ論:エミネムとの共生と、MCUとの不整合
スリム・シェイディとヴェノムの親和性
今作でも再びEDテーマにはエミネムのラップがフューチャリングされ、この主題歌と本編の関係性にも一つの共生が見られる。
映画の話からやや逸れるので詳細は省くが、エミネムというアーティストは長年、《スリム・シェイディ》という自身の別人格を用意し、エミネムの時とは違ったライムを歌わせてきた。彼はその人格を“ブラックユーモアと狂気に満ちた殺人鬼”と表し、アンチヒーロー的な言葉をそのペルソナに託してきている。
その姿は、まるでヴェノムを抱えたエディのようであり、そんなところもまた彼が2作連続で主題歌を担当した理由なのかも知れない。
今作はメインの歌唱をスカイラー・グレイが担当しており、そうした点も共生と多重人格性を表しているように思う。
日本語吹き替え版のみDISH//の「Shout it out」が主題歌に使われているが、曲の良し悪しではなく、こうしたプロモーションは双方にとって何の得にもならないだろう。配給側の事情もあるのだろうが、やはり今作はエミネムの声で締めるのが正解だ。
マルチバースの設定により混迷を極めたユニバース同士の接続
ポストクレジットでは、いよいよMCUの世界と本格的な繋がりが出来る。
ヴェノムとエディが MCUの世界に飛ばされ、TVに映るスパイダーマンを見つめるシーンで終わるこのシークエンスは『スパイダーマン:ノー・ウェイ・ホーム』を監督したジョン・ワッツによるものだ。
いよいよMCUとSSUにマルチバースの繋がりが出来たということで、当時ファンは大いに湧いたものだが……恐らく、このSSUというユニバースにとってはこれこそが観客にも見える“最初の躓き”だったのだろう。
詳しくは次作『モービウス』のレビューで述べることになるが、MCUフェーズ4が《マルチバース・サーガ》へと方向転換していく非常に重要な作品が、Marvelの単独作でなくSonyとの共同製作であるスパイダーマンのタイトル作であり、その作品でのサプライズが大多数のファンにとって非常に象徴的なものになってしまったことは、MCUにも、SSUの製作にも悪手だったのではないだろうか。
MCUを鑑賞するのは原作コミックのファンばかりではなく、多くの観客にとって、マルチバースという言葉自体に馴染みがなかった中で、誰にもわかりやすい形でスパイダーマンは熱狂を作り上げてしまった。
コロナ禍で製作の遅延やスケジュールの変更が行われる中、Sonyとしても予定していた作品のうち最も“観客動員が見込める”スパイダーマンに合わせて他の作品の公開日を調整するのは必然的であったろうし、物語面でも影響を受けてしまうのもある程度は仕方がなかっただろう。
しかし、もしそうしたユニバース間、会社間の不整合なく、当初予定していた通りにSSUと MCUの世界が接続していたらどんな世界が見ることが出来たのか。どうしてもそんなことを想像してしまうのだ。
『ヴェノム:ザ・ラストダンス』のレビューで詳しく語ることにはなるが、今作のラストで誰もが期待した、マリガン刑事に寄生したと思わしきシンビオート……原作において大人気のキャラクターであり、ヴェノム→カーネイジに続くシンビオートの系譜を表す《トキシン》の登場も、本来ならきちんと物語に組み込まれていたのではないだろうか。
総括:原作最強の「I」であるカーネイジは、映画では共生した「We」に敗れた
今作でヴェノムの側は、劇中ずっと「We」だった。宇宙人と人でなくとも、人間同士でも共に暮らすのは難しいことばかりだ。
時に価値観の違いに迷い、意見の相違で争い、傷つけ合い、悲しむ。前作でエディとアンも別れ、その関係は戻らなかった。ヴェノムとエディも、一度はその共生を解消している。
それでも、彼らは共に戦った。エディとヴェノムを再び共生させるため、アンはまたもシーヴェノムになり、ダンも今回は最終決戦に加わり、ヴェノムはそんなダンを「いい奴だ」と認めた。今作のヒーローは、みんな揃って「We are Venom」だったのだ。
一方で、原作においてヴェノム以上の共生体として、より強い繋がりとしての「I」だったカーネイジは、それであるが故にヴェノムに勝てなかった。
クレタスの愛したフランシスを攻撃し、シュリークの能力が弱点でもある二人は、共闘することも叶わず、シュリークは最大の武器を塞がれた状態で戦わざるを得なかった。
原作コミックにおいて、シュリークとカーネイジが共闘するエピソードでシュリークの超音波がカーネイジを傷つけることはない。
今作では、原作にある設定を大胆に再解釈することで、彼らが決して共生できない「I」であったことを表現したのだ。
SSUは確かにユニバースとしての連続性もなく、MCUのようにシリーズの統括者もいなかったのだろう。
前作に引き続き、今作も映画としての表現は雑であるし、ヴェノム人気を意識し過ぎた結果、シリーズの今後にも同じようなキャラクター・ムービーを期待させてしまうことにも繋がった。
しかし、それは時勢故の偶然だったかも知れず、個々の作品の製作陣はまったく意識していなかったことかも知れないが、SSUには確かにそれぞれの作品に共通するテーマがあったような気がするのだ。
共生出来た者と、出来なかった者。
共生出来た者はヒーローになり
出来なかった者はヴィランに堕ちる。
今作で打ち出したこのテーマは、以降の作品においてもどこかで共通する痛みを描いていたように思う。
残念ながらここからシリーズは、そのテーマに反するようにMCUとSSUの整合性の摩擦の中ですり減り、打ち切りへとひた走っていく。
まずは次作『モービウス』において、ヴァンパイアという異能になった義兄弟の共生が壊れていく物語が描かれる。
⭐ 3.5 / 5.0
📅 2026/05/21(Hulu)
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