ティム・バートン全作品レビュー3
――悪趣味で楽しい死後の世界に落とされた、ティム・バートンの孤独の投影
作品データ
原題:Beetlejuice
監督:ティム・バートン
脚本:マイケル・マクダウェル
ウォーレン・スカーレン
原案:マイケル・マクダウェル
ラリー・ウィルソン
音楽:ダニー・エルフマン
撮影:トーマス・アッカーマン
上映時間:92分
出演者:
ビートルジュース:マイケル・キートン
アダム・メイトランド:アレック・ボールドウィン
バーバラ・メイトランド:ジーナ・デイヴィス
リディア・ディーツ:ウィノナ・ライダー
チャールズ・ディーツ:ジェフリー・ジョーンズ
デリア・ディーツ:キャサリン・オハラ
オーソ:グレン・シャディックス
ジュノー:シルヴィア・シドニー
※本レビューにはネタバレを含みます。
総文字数:8599文字
読み終わるまでの時間:約21分
2026年01月30日、今作及び続編でデリア・ディーツを演じたキャサリン・オハラが逝去されました。数々の素晴らしい作品とその演技に何度も感動と楽しみを頂きました。心から哀悼の意を捧げます。
製作背景:バートンの評価を盤石にしたホラー・コメディ
ティム・バートン監督の初期作品で、初のオリジナル企画での長編実写作品。
ディズニー退社後、前作『ピーウィーの大冒険』により一躍ヒットメーカーの仲間入りを果たしたバートンの元には数多くの脚本が届いたが、その大半が前作の劣化版焼き直しのような内容のコメディばかりで、バートンは一向に映画化を引き受ける気になれないでいたと言う。
(その中にはゴールデンラズベリー賞5部門にノミネートされた酷評作品『マネーゲームで大逆転/しゃべった! 走った! もうかった!』(1988)の脚本もあったとか)
そんな中届けられたのが今作の脚本であり、その内容に強く惹かれたバートンは二作目の長編実写映画の製作に乗り出すことになる。
元々チャールズ・アダムスの一コマ漫画『アダムス・ファミリー』を幼い頃から愛読していたというバートンにとって、死後の世界で暴れ回るビートルジュースの存在は親和性の高いテーマだったに違いない。ただし、脚本の初稿は現在のものより更に過激で、その内容から多くの監督や製作会社が難色を示していたと言う。数ある中からそんな脚本を選び、大ヒットを記録したのだからわからないものだ。
結果的に今作はバートンの世間的な評価を盤石にし、第61回アカデミー賞ではメイクアップ賞を受賞、興収は全米7300万$を超えた。バートンの初期フィルモグラフィーにおいて重要な意味を持つこの作品は、80年代を代表する最高に悪趣味で楽しいポップコーン・ムービーであり、同時にバートンが後の作品でも繰り返し描いていく自身の幼少期の表像を、初めて物語に登場させた作品でもある。
ティム・バートンお得意の“箱庭世界”
まずはオープニング、舞台となるニューイングランドの田舎町、ウィンター・リバーの空撮から始まる。作中非常に印象的な使われ方をする「バナナ・ボート」の旋律が歪み、ダニー・エルフマンによるメインテーマと共にゆっくりと街の上空をカメラが流れていく。街は実写とミニチュアを入れ替えながら映し出されていくのだが、この冒頭シークエンスから既に、後の作品に繋がるバートン独自の世界の作り方が構築されている。
ミニチュアの街は、決して本物と見紛うほど精巧な出来というわけではない。編集はスムーズだが、ミニチュアと実在の景色が入れ替わったことは観ていればすぐにわかる。だが、その“不自然さ”こそが、バートンの描く空想と現実の境界を曖昧にしてくれる。前作ではまだ実験の域を出ていなかったその表現が、今作ではキッチリと物語にハマっている。
蜘蛛が這い回り、メイン舞台となる丘の上の家が観ている側にハッキリ、ミニチュアとわかるところでオープニングシークエンスが終わるのも、よりこの世界の“箱庭感”を強める。とにかく思いついた映像演出、技法を詰め込んだ前作と比べ、今作ではそれぞれの演出が非常に効果的に使われている。
中盤のビートルジュースを呼び出した際にこのミニチュア世界の墓を掘り返す場面でも、スコップが削り取るのはしっかりと作り物の紙細工や土なのが芸の細かいところで、“ミニチュア世界に入り込む”という空想をきちんと映像で再現するそのこだわりがバートンらしい。
“悪趣味ポップ”の裏側にあるもの
『フランケンウィニー』に始まった異形たちのイメージ
今作でバートンが描く世界観は、徹底した“悪趣味ポップ”。グロテスクでゴアギリギリの死者のデザインはまさに現在まで続くバートンの真骨頂だ。
デビュー作のツギハギだらけの犬:スパーキーに端を発したこの表現は、後年の多くの映画監督が描く“異形の存在”たちにも影響を与えていると思われるが、バートンのそれには常にどこかポップな印象がある。毒のある色遣い、時に不快感すら感じさせるゴア表現の中にも、恐怖よりむしろポップさが勝つ。
バートンの根底には30〜40’sのホラー映画への郷愁があり、そのイメージの源流には、レイ・ハリー・ハウゼンのデザインや、低予算映画を撮り続けたエド・ウッド監督の作品からの影響もあるはずで、それがいい意味でのチープな軽みへと繋がっているのかも知れない。
今作では、そんな死者たちに纏わる不謹慎ギャグ“死者大喜利”も見どころの一つだ。
あの世の待合室に群れを成すゴーストの造形には、後の『ナイトメアー・ビフォア・クリスマス』や『ティム・バートンのコープスブライド』へと続いていく、バートン流クリーチャーの造形美のアイデアが遺憾無く詰め込まれている。死者たち一人一人、一目見ればその死因が誰にでもわかるようにデザインされており、画面の端で台詞がない者も含め、それぞれの行動が面白く目で追ってしまう。バートンお得意のストップモーションや模型技術、特殊メイクの数々によって生み出された“手作り感満載”の死者たちはイキイキと動き回り、その姿は生者の世界よりもよっぽど楽しそうだ。
“死”が他人事だった時代……レーガン大統領下のアメリカ文化
上半身下半身が分かれている女性や、足が片方サメに喰われてるサーファー、焼けこげたサンタ……煙草を吸い続けて焼死した見た目は完全に燃え尽きた炭のような男が「節煙中なんだ」と言いながら煙草を薦める姿や、電車に轢かれたのか身体がすっかり潰れた男が自分の服を「印象がウスいかと思って」と語るシーンが次々と繰り出される。
作中でオーソが言う「自殺者はあの世で公務員になる」の台詞の通り、今作においてあの世の待合室や、生者へのクレームを扱うコールセンターで働いているのは、皆自ら命を絶った者たちであろうことが観ていてわかる。
電車に轢かれた男はおそらく自ら飛び込んだのだろうし、その場には首を吊った髑髏もいる。待合室の青白い女性は「知ってたら手首なんて切らなかった」と両手首の傷を見せつける。
こうした悪趣味ギャグの数々が許されていたのは、80年代終了間近のアメリカにあった“無神経な強さ”からくる自信と牧歌性の象徴とも言える。“自殺”という行為そのものが、まだ身近な社会問題として捉えられていなかった時代。
“自殺をする人/した人”はまだどこか遠く、自分たちの世界とは違う場所にいる存在だと感じていたのではないだろうか。だからこそ、映画というエンターテイメントを楽しむ人にとって、それは必ずしもリアルな表現ではなく、観ていて抵抗なく受け入れられていたのだと思う。
レーガン大統領下の《レーガノミックス》で景気は拡大を続け、新たに当選した共和党のブッシュ大統領の下、前年1987年の《INF全廃条約》を契機に長かった冷戦も終わりかけていた。そういった意味で、この時代のアメリカのエンターテイメントには独特の明るさや、ある種の無神経さがあるものも多い。それを現代の価値観で笑うことに抵抗がある向きもあるだろうし、今観るとそこにはある種の“空虚さ”も感じるのだが、そうした時代があったことも留意しておくと、映画を観る際にその違和感ごと楽しめるのではないだろうか。
実は登場時間が少ない!?ビートルジュースは主役ではない
死者の国において最凶の人間怖がらせ屋:ビートルジュース。冬の大三角の一つであるオリオン座:ベテルギウスの英語読みに「ビートル(カブトムシ)」と「ジュース」を当てはめたふざけた名前を持つこの怪人は、タイトルにもなっているが実は今作においての総登場時間は僅か10〜20分前後。にも関わらず、このビートルジュースの印象は非常に強く、この映画の後にはアニメ化やゲーム化までされている。
《新人死者ハンドブック》にチラシを挟み、TVCMまで出して新人死者に取り入ろうとし、人を怖がらせるためなら手段を選ばず暴れ回る。下品で猥雑、口も悪い。吹替版ではなんと西川のりお師匠が声を担当し、アドリブを多量に含んだ(であろう)台詞が非常に印象的だが、原語・字幕でもそのパワーは少しも劣らない。
このビートルジュースの言動については、2020年代現在ではもはや再現不可能で、ジョークにならないレベルなのが時代を感じさせる。パートナーのアダムの前でバーバラに突然キスをしたり身体を触ったりとやりたい放題に暴れ回り、ぷかぷか煙草を吸ってアダムのミニチュア模型の街に勝手に住みつき、そこに作られた娼館で女性ゴーストに囲まれて歌い踊る。好物は模型に集るハエなどの小虫のようで、ミニチュアと実写を組み合わせたその捕食シーンもなかなかにグロテスクな映像なのだが、そんな虫を食べるビートルジュース自身が、元上司であるジュノーの作った娼館に囲い込まれた“ゴキブリ”の扱いをされている皮肉もまた笑える。
少女であるリディアへの婚姻契約を条件にメイトランド夫妻の救助を提案するなどもはや死者だから許せるレベルを軽々しく飛び越えた“最低男”なのだが、どこかニクめないキャラクターに仕上がっているのは演じたマイケル・キートンがイキイキと暴れ回ってくれているからだろう。これが中途半端にイキ切らないでいると、本当に不快感を感じてしまうところだ。
ビートルジュースの広告商売や契約・宣誓の仕草は、あの世のケースワーカー描写やアダムとバーバラの家に対するジェーンと合わせ、80年代アメリカの消費社会への皮肉でもあるのだろう。こうしたテーマは、00年代に入るまでのバートン映画には頻出する描写でもあり、これも一つの時代性と言える。
しかし、これだけ強烈なキャラクターを以ってしても、今作の物語はビートルジュースが動かすわけではない。主軸はあくまで生者と死者の交流で、ビートルジュースは登場時間からもわかる通り、掻き乱し役:“トラブルの一つ”でしかないのだ。
バートンらしい“死後世界”の表現
テンポのいい会話と演出〜80’sコメディの強み
物語はアダムとバーバラのメイトランド夫妻が新入りゴーストになってしまうところから始まる。このゴーストになるまでのスピード感が実に良く、映画が始まり、楽しそうな夫婦が事故に遭って霊体化するまで10分も掛からない。
その事故が、犬を車で轢きそうになったのを避けるため……しかもトドメは完全にその犬が刺しているというのもブラック・コメディで、かつこの二人が乗っている車が当時世界で一番安全な車と呼ばれていた《ボルボ240》なのだからどこまでもふざけている。本人たちにとっては悲劇なのだが、そのスピード感と映像の作り方には悲劇性がない。あくまでジョークのように死を描いていく。
二人が既に死者であること、
死者と生者で時間の流れが違うこと、
死者はある一定の活動範囲までしか動けないということ。
これらの重要な設定も、テンポ良く画の演出によって説明されていく。
特に家の外に出ようとするとサンドワームの砂漠に落ちてしまい、それは画面上ではほんの一瞬の出来事なのにアダムがそこから戻るまでバーバラの体感で約2時間掛かっている、というのは、複雑な設定をバートンの演出手腕で上手に説明してくれて観ていてストレスがない。
バーバラが屋根裏の模型部屋を掃除する際、彼らが事故に遭った日の朝には綺麗だったはずが蜘蛛の巣が張っていたり、二人がゴーストとして脅かしを開始するだに見るからに顔色が悪くなるなど、説明を省きながら画で見せる演出もさすが。
こうしたテンポのいい表現技法の巧みさは2025年現代の映画より優れた表現の一つかも知れない。先述した無神経なギャグ描写もありつつ、こうした映画作りの今にはない強みも注目しておきたい。
不自由な死後世界/ゴーストへの親愛
今作は死者の世界をメインに描くが、だからと言って死者は好き勝手できるわけではなく、生者の世界と同じようにルールや規則が存在している。
“祓われた”ゴーストたちは死後の世界で浮遊する魂になって囚われているし、死者は日々数が多すぎて待合室で長い列を作っている。ジュノーやコールセンターの存在からもわかる通り、死者は死者で不満を抱え、それを誰かに解決してもらおうとさえする。
ここにはバートンの死生観も大きく影響しているようで、「死んだあとは面倒を見てもらえると思っている人には反発を覚える」というインタビューもある。宗教心を、人生に身を入れず、責任を投げ出す言い訳に使うようなことはあってはならないという思想が、死後の世界でのルールの設定や、現実と地続きな空気感に繋がっているのだろうし、“どこに行っても決して自由なわけではない”というバートンの抱えた閉塞感もそこには影響しているような気もする。
アダムとバーバラは序盤、自分たちの死後、家に引っ越してきて好き勝手に改装していくディーツ一家を追い出すために試行錯誤するが、どれもまったく意味をなさない。
バーバラがクローゼットで首を吊り、顔の皮を剥がして脅かそうとするも、それが見えないデリアとオーソはバーバラごと彼女の遺した服を「センスがない」とクローゼットの奥に押し込め、アダムが自身の首を切って首無しゴーストとして脅かそうとしても、それがまったく見えていないので何の意味もない。首が離れたアダムが屋根裏部屋に走り出し、箪笥に思い切りぶつかるシーンなども、顔がない=目が見えないと言うわかりやすいブラック・ジョークだ。
この、死者の世界では身体の作り(外見)を自由に変えられるというのも面白い設定で、そう考えると世に蔓延る“恐ろしいゴースト”たちも人を怖がらせるために必死にメイクを施しているのかも知れないと思え、可愛く感じてくる。
終盤ジュノーに焚き付けられてアダムとバーバラも顔を歪めてクリーチャー化するが、そんな最早原型を留めていない二人もどこか愛らしい。現実の人間よりもむしろそうした異形にこそ親愛を感じるバートンの創造性が、こうした“ポップな”表現に繋がっているのだと思う。
孤独な少女と, 無神経なオトナたち
“見えない”ではなく生者は死者を“見ない”
ベッドに寝ていると思ったら宙に浮いており、引越し業者の物音と振動でそれを自覚して床に落ちる、というような“死者あるある(……なのか?)”でたっぷりと笑わせる一方で、今作では自分たちでも意図せぬまま死者の世界に足を踏み入れたメイトランド夫妻の悲哀もしっかりと描いていく。
特に今作でメイトランド夫妻にとって厄介な存在として描かれるのは、デリアとオーソである。デリアはチャールズの再婚相手であり、アーティスト志望で越してきた家を次々彼女なりの“アーティスティックな”家に改装していく。チャールズとデリアの友人であるオーソもまたそのアート思考に賛同し、共に越してきたばかりの家の壁にスプレーで絵を描いてみたりとやりたい放題だ。
アダムとバーバラがディーツ家とその客人を追い出すため、彼らの身体を操って「バナナ・ボート」の音楽に合わせて踊らせたり、夕食の海老を手に変えて襲ったりと工夫を凝らすものの、最終的にはそれを楽しまれてしまうばかりか、その体験から彼らにビジネスチャンスを見出したチャールズとデリアによって幽霊博物館の見世物に据えられそうになってしまう。
デリアは劇中、静かな生活を望む夫チャールズの意向を無視して自身の希望を押し通し、ニューヨークの芸術界を見返すためにメイトランド夫妻の霊を利用しようとするなど、終始身勝手で野心家なキャラクターとして描かれる。存在が明らかになったメイトランド夫妻に向けた「死者がノイローゼになるわけ?」といった台詞からも、その無神経さが表れている。
そんな大人たちとの対比軸で描かれるのが、ディーツ家の一人娘、リディアの存在だ。
バートンの幼年期を託された一人目の“異形”
リディアはアダムやバーバラ、死者が見える存在であり、夫妻にとって生者の側唯一の味方となる。そしてこのリディアこそが、後のバートン作品の“異形”たちの雛形となる、本当の意味での“最初の一人”なのだ。
バートン作品には確かに、後の『シザーハンズ』のエドワードのように、所謂クリーチャーに近い“異形”も登場するし、今作でのゴーストたちのような、人ならざる者のデザインや設定にもバートンの趣味嗜好が溢れている。
しかし、バートンの描く異形の本質はそこよりもむしろ、自身の子供時代の家族との不仲を投影した、孤独の表像なのではないか。創造性が高く、どちらかと言えばナードな存在だった幼少期のバートンと、元マイナーリーグの野球選手だった父との理解し合えない関係性、そのトラウマの投影が人ならざる者の姿を借りてバートン作品には繰り返し描かれている。
今作の終盤でチャールズのビジネスパートナーであるマクシーが飛ばされる様や、前作から続く遊園地のミラーハウスをモチーフとした悪夢や死後の世界の廊下の表現なども、そもそも幼少期の遊園地に良い印象を持っていないが故なのだろう。
今作でのディーツ一家とリディアも、まさにそうした歪んだ家庭の表像だ。ゴスロリ衣装に身を包み、カメラが趣味で、蜘蛛が這うのも恐れない、内向的な性格のリディア。父の再婚相手であるデリアと関係性が悪く、いつも皮肉な言葉を投げかけているが、実父であるチャールズはそれに気づいてすらいない。リディアとデリアの関係に目を向けることなく、自分一人やっと手に入れたマイホームで新しい趣味を見つけてしまう父と、リディアの気持ちに寄り添おうとはしない継母のデリア。
デリアたち大人は、序盤でメイトランド夫妻の存在に気づいたリディアの言葉をまるで信じず、自身のアートのスポンサーの前で幽霊の話をするリディアに「恥をかかせるな」と叱責する。
リディアにとって親たちは即物的で理解のない存在で、自分は家庭の中で“浮いている”のを自覚している。家庭の中で、居場所のないリディアにとっては“死者が見える”自身の特異性と、その死者であるメイトランド夫妻との関係だけが唯一孤独を癒せる時間だ。
自分の人生を「暗室の中」とまで言い切るリディアは、どこかでそんな自分自身を受け入れてくれる場所を探していたのだろう。だからこそ、「(あなたは)普通の子よ」と言ってくれたバーバラとアダムに彼女は心を許したのだ。
中盤、アダムとバーバラが呼び出したビートルジュースの大暴れによって家中が大変なことになり、チャールズが怪我まで負わされたことで彼女は本当に独りぼっちになってしまう。彼女の孤独はより深くなり、遂には遺書を遺して自ら命を絶とうとしてしまうのだ。泣きながら「私はまったくの独りぼっちです」と記すリディアの姿は、コメディに一雫垂らされたバートンの孤独の表れだ。
機能不全の家族へのトラウマ
今作は、悪趣味ポップの体裁をとりながら、その実孤独な少女が救われるまでの物語だ。同時に、初期のバートン作品の中で唯一異形がハッピーエンドを迎えた作品とも言える。
リディアは終盤、「ここから出してくれ」と言うビートルジュースに「そっちに行きたい」と語るが、バーバラによってそれを止められる。「死んでも楽になるとは限らないわ」という台詞を、意図せず死んでしまったバーバラの口から言わせるのが皮肉だ。
終盤のビートルジュースとの攻防ではチャールズとデリアはデリアの作ったアートに囚われて蚊帳の外に置かれ、アダムとバーバラは降霊術で傷ついた身体(霊体)を引きずり、無理矢理に結婚させられそうになるリディアを必死に救おうとする。
このあたりのストップモーションで描かれるデリアのアートが変化していく様子や、ビートルジュースを返す呪文を言わせないためにアダムの口から歯茎を奪うアクションも映像としては非常に面白いのだが、重要なのは最後までリディアの救いになるのはメイトランド夫妻であるということ。リディアをビートルジュースから救い出すのは、サンドワームに乗ったバーバラなのだ。
実は、台詞や物語の中には、デリアがリディアを理解しようと歩み寄る描写があるにはある。デリアはアーティストとしての周囲の無理解への焦りを感じ、そこには孤独が滲む場面もあるし、最終盤でビートルジュースが去った後はディーツ家の3人が抱き合う姿もある。ただ、まだバートンのカメラがそこにはフォーカスしていない。この時点でのバートンは、まだ生者……いや“親”という存在へ信頼を置けていない。
ここからバートンが真の意味で、親への理解という視点を手に入れるには、フィルモグラフィー上ではこの15年後の『ビッグ・フィッシュ』まで。物語としては36年後の『ビートルジュース ビートルジュース』まで待たねばならなかったのだ。
総括:バートン暗黒期前夜のポップコーン・ムービー
ラストでは死者との共生の世界が描かれ、少しだけ明るくなったリディアが、テストを頑張ったご褒美にアダム・バーバラと宙に浮かんでダンスをするシークエンスで終わる。そこには中盤でジュノーのところにやってきた事故死したラグビーチームの姿もあり、チャールズはそれを階下で笑顔を浮かべて聞いてはいるが、混ざりはしない。あくまでリディアと共に過ごすのは死者たちで、リディアは宙に浮かぶという、“ありえない事象”を楽しむ。
今作は確かに80年代を代表するポップコーン・ムービーであり、細かいことを気にせずに楽しめるコメディだ。しかし同時に、今作で描かれるリディアの“異形性”と孤独は、この後に描かれていく初期ティム・バートンのダークな世界観への移行をしっかりと予感させてくれる。そうして実際、今作の成功を以てこの翌年には、DCコミックス界を「ダークはDC」とまで方向転換させた一因となる実写作品『バットマン』を撮り、ティム・バートンはその異形への偏愛と自らの孤独を、まるでトラウマを治療するかのようにより深いところまで掘り進めていくことになる。
前夜であるこのポップコーン・ムービーの持つ軽快さは、初期バートン作品の最後のハッピー・エンド作品であり、まだ商業と自身の創作性の間で完全には自分のコントロール下に物語を置けなかった頃の記録でもあるのだ。
⭐ 3.5 / 5.0
📅 2025/07/04(Hulu)
🎬 ティム・バートン初期作品考察レビュー

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