『ミスター・ノーバディ』(2009)ネタバレ考察レビュー|人生の選択と可能性,そのすべてへの賛歌

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ジャコ・ヴァン・ドルマル

全作品レビュー03

――過ぎ去った自分も,これからの自分も,すべての自分の選択に祝福を……その向こうで,いつかきっと君に逢えるから

この作品はどんな作品?

ジャコ・ヴァン・ドルマルによる13年ぶりの長編映画にして代表作(唯一の長編英語作品)。

多世界理論など、哲学的テーマを多く含んだSFと捉えられがちだが、その実テーマ自体は実に真っ直ぐに人生の選択と生への賛歌を描いたヒューマン・ラブ・ストーリー。人生に迷う時何度でも観返したい傑作。

この作品はどんな人にオススメ?

あの日あの時、選択を間違ったと今も悩む日がある人。

自分の人生には他の可能性もあったんじゃないかと、今の自分を認められない人。

人生の大きな岐路の前で、動くことができなくなっている人。

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作品データ

原題:Mr. Nobody

監督:ジャコ・ヴァン・ドルマル

脚本:ジャコ・ヴァン・ドルマル

音楽:ピエール・ヴァン・ドルマル

撮影:クリストフ・ボーカルヌ

上映時間:141分

出演者:

ニモ・ノーバディ(34歳&老人):ジャレッド・レト

ニモ・ノーバディ(15歳):トビー・レグボ

ニモ・ノーバディ(9歳):トーマス・バーン

アンナ:ダイアン・クルーガー

アンナ(15歳):ジュノー・テンプル

エリース:サラ・ポーリー

エリース(15歳):クレア・ストーン

ジーン:リン・ダン・ファン

ジーン(15歳):オードリー・ジャコミニ

ニモの父親:リス・エヴァンス

ニモの母親:ナターシャ・リトル

ハリー(アンナの父親):マイケル・ライリー

記者:ダニエル・メイズ

ヘンリー:パスカル・デュケンヌ

※本レビューにはネタバレを含みます。

総文字数:15367文字

読み終わるまでの時間:約39分

目次

製作背景:初の英語作品……ベルギー映画史上最高規模の予算

ジャコ・ヴァン・ドルマル監督の代表作であり、初の英語作品となるSFファンタジー映画。

長編映画としては約13年ぶり、『八日目』に続く3作品目である。

ベルギー、フランス、ドイツ、カナダ4ヶ国国際共同製作となる今作は、製作費約4700万$(=約3300万€)……当時のベルギー映画としては最高額の超大作だが、ハリウッド映画で言うならば小〜中規模程度の予算作品である。それでも、英語での製作ということも合わせ、前2作と比べればかなり大掛かりなものとなった。

前2作は出演者についてもかなり重複していたが、今作は主要キャストに『レクイエム・フォー・ドリーム』(2000)で主演を務めたジャレッド・レト、『トロイ』(2004)のダイアン・クルーガー、『ドーン・オブ・ザ・デッド』(2004)のサラ・ポーリーなどが集まり、全世界公開の映画作品としてのメジャー感が増している。とは言え、今回も前作『八日目』で主演を務めたパスカル・デュケンヌが重要な役柄でカメオ出演しており、ドルマル作品としての刻印はしっかりと押されている。

今作の予算はドルマルの名前と脚本への期待に応じてキャスティング決定前に既に承認されており、その半分が前作でもタッグを組んだプロデューサー:フィリップ・ゴドーの運営するPan-Européenne Productionから、更に半分が、ドイツの映画配給会社:Wild Bunchと、同じくフランスの配給会社:Pathé Frèresから出ている。

前作と同じく、今作にもドルマルが短篇として発表した原典的作品があり、それが1984年の『È pericoloso sporgersi』である。こちらは僅か12分の作品ながら、一人の少年が離婚した両親にどちらの親と暮らすのかを迫られ、列車で去っていく父を追うという、まさに今作の少年ニモの物語と重なる作品だ。

(※残念ながら筆者は未見である)

脚本執筆に6年、資金調達・準備に2年、撮影半年、編集1年半の合計10年に渡り製作されたと言われる今作であるが、この短篇の構想までを含めると、実に30年近くドルマルの中で熟成された物語だったとも言える。

ドルマルは脚本執筆にあたり、デヴィッド・リンチ監督の恩師とも呼ばれる脚本家:フランク・ダニエルの古典的脚本術を学び直した上で、その《三幕八場構成》等のセオリーからの反転を目指したと言う。小さなカードに場面、イメージ、台詞等を書き溜め、三幕に対応する机にカードをバラバラに配置していき、そこから通しで脚本の一部を書いた後、再びカードに戻る。こうした作業を繰り返し、まるで“人の回想の連なり”のように、シーンの順番や時系列を入れ替えながら執筆を進めていった。

このカードに脚本の断片を書いていくという手法は『トト・ザ・ヒーロー』の頃からドルマルお得意のやり方らしく、それがこの二作に共通する独特の非日常性と、不思議な時間軸の世界観を作り上げているのかも知れない。

今作の脚本は映画公開前の2006年末に書籍としても刊行されており、今作は脚本完成稿・書籍版……更には映画自体にも劇場公開版と、長尺のディレクターズカット版が存在する。残念ながら日本国内ではディレクターズカット版は販売も配信もされておらず、観ることは叶わない。ただ、人生の分岐を描いた作品にこうした様々なバージョンが存在するというのが、まず面白いことではないだろうか。

規模が上がったとは言え、初期脚本をそのまま映像化するには製作費の倍近くの金額が必要だったということで、ゴドーとドルマルは予算の規模に合わせて改めて物語を組み直している。

撮影は2007年、約半年掛けてベルギー、ドイツ、カナダを巡り行われた。様々な人生が交差する物語に合わせ、背景となる世界そのものを違えているのも、非常に芸が細かいところだろう。

今作は当時ベルギーのアカデミー賞とも言うべき新たな賞レース:第1回マグリット賞で作品賞、監督賞、脚本賞、撮影賞、編集賞、音楽賞の主要6部門を制覇し、日本においても非常に話題となった。

筆者にとってもドルマルを知るキッカケとなった作品であり……何度でも、どんな観方をしても、観るほどに新しい見え方が出来る傑作である。同時に、人生の選択や先行きに迷った時、選択を誤ったのかと悩む時、それも含めて、自分の人生を肯定してくれるような、そんな風に思い直せるような作品であると言える。

映像論:予算規模の上がった近未来描写と“色”をテーマにした多重世界

始まりと終わりを重ねた白と、白黒の両極に囚われたニモの世界

映像においては、“色の使い方”が大きなテーマとなっており、画面全体のカラーリングや撮り方の変化によって、観客は今観ているのが“どの”ニモ・ノーバディの人生のパターンなのかを理解しやすくなっている。

これは前作『八日目』での、ジョルジュと出会う以前のアリーが青みがかったカラーリングの世界にいたことを、更に一歩進めたような表現であり、ドルマルの画作りが前作から地続きであることがよくわかる。

生まれる前……天上にいるニモの世界を白、老人ニモのいる未来世界も白基調とすることで、物語の始まりと終わりを重ねている。始まりの白はまだ“何ものにも染まらぬ白”であり、終わりの白は、何もかもを通り過ぎ“再び無へと近づく白”。この二つの世界が重なり合うことが、今作のラストシーンの演出へと繋がっていく。

『トト・ザ・ヒーロー』での未来世界の描写は、当時の予算規模の問題もあり、大掛かりなセットを組むことが叶わず、その分やや独自性、“観客の求める近未来感”にも欠けていた。対して今作では、フランスの漫画家:フランソワ・スクイテンと共に約4年に渡り未来の病院・交通のデザインや、火星での宇宙遊泳描写、宇宙船の形状を固めていったと言う。

そうして作られた未来世界の描写は、どこか『トータル・リコール』(1990)など、昔懐かしい近未来SFの雰囲気も感じられ、不死が実現し、性行為の必要もなくなった無菌室的世界……その色の失われた、無機質でどこか不自然な奇妙さが、今作の物語の解釈そのものを揺らしてくれる。

人々は互換性幹細胞を持つ豚を飼っており、恐らくその豚の存在によって病気や死が失われた世界なのだろうが、そうした発想も含め、どこか“作り物じみた世界”であるのも面白い。

また、今作にはニモが“生まれなかった可能性”の世界、劇中度々挿入される謎の空間にいるニモのシークエンスが存在する。

ここではニモの服装も、風景も白と黒のストライプになっており、何者でもなく、何色でもない、両極の色を同時に纏う表現としてこれが採用されているのかも知れない。ここは全シーンの中でも最も現実感の希薄な世界観になっており、これが時にすべてのニモの世界を俯瞰しているかのように入り込んでくる。

三人の女性と三色のイメージカラー……特別な“赤”

劇中、何より色が強調されるのは、やはりニモの人生の分岐に大きく関係する3人の女性……そして、彼女たちが持つそれぞれのイメージカラーだろう。

赤のアンナ、

青のエリース、

黄のジーン。

3人の女性とのそれぞれの恋愛と、結婚・生活の中で、ニモの人生は大きく変化していく。そして、これらの世界では、選ばれなかった色はその世界の表舞台から隠されてしまう。

勿論それはあくまで画面のイメージとしての話で、色自体が世界から排除されているわけではない。しかしそれぞれの世界において、選ばれなかった色を出来る限り省いて画を作るそのこだわりがあるお陰で、時系列や多重世界が混戦する物語の中で、観ている側を迷わせない。

それぞれの女性の持つ色は、彼女らとの関係性、ニモの送る人生のイメージにも重なっており、同時に、映像の作り方、撮り方も三者三様でまったく違えていると言う。

これはニモ自身の世界の見方が選択の結果によりまるで違っているという表現であり、それぞれの世界で、ニモが女性たちに向けている感情も大きく違う。

エリースとの関係はニモからの一方的な愛であり、その愛にエリースは同じ想いを抱いていない。青という色には冷たさがあり、愛が冷えているような印象にもなる。

ジーンとの場合は逆にジーンからの一方的な愛であり、ニモにとってはそうでない。黄色は富や財の象徴するような色であり、そこに注視し他の色を失った世界は、やはり青と同じく冷たい印象を受ける。

エリースとジーンと生きる人生においては意図的にニモか、相手かがピンぼけしていたり、重要なものが画面の外に置かれていたりと、映像の撮り方にも工夫が見られる。愛のない世界、何かを見失った世界の空虚さが、短いシーンの連なりの中にしっかりと感じられるのだ。

そんな中、アンナとの関係性は、明らかに他の二人とは違った発想で撮られている。

赤は情熱の色であり、アンナとの愛は物語の中で特別なものとして描かれている。そして何より、赤だけは失われるはずの色の中で、何故か他の選択の中でも、どこかに残されている。

白黒ストライプの“生まれなかったニモ”の世界においてすら、そこで走る車の色がすべて赤だったりと、アンナと赤だけは特別な色彩として扱われており、離婚する両親が割る花瓶の色も赤だ。色彩にイメージを重ねた作品の中で、それは間違いなく意図してやった演出だろう。

ただし、だからと言ってそこで単純に一人の女性との人生……アンナとの人生こそが正解で、他の人生が間違いだったとしてしまうと、今作の物語の根幹を捉え損なってしまうように思う。

物語論:選択の放棄ではなく、与えられた選択肢の先を描くための物語

ファミリーネーム=ノーバディ 両親の間で悩む少年に与えられた選択肢

この物語はどの人生がニモにとっての“True Ending”だったのか、を問う物語ではない。

恐らく、映画全体でドルマルが意図した正解はある。ただしその正解とは、12通りの人生のどれを選ぶべきか、ということではない。今作に考察をする余地があるとするなら、それは“老人ニモはどの人生の先にいた人物なのか?”だ。

今作の世界は、最終的に老人ニモが言う

「9歳の子が想像の世界で生み出したんだ」

という言葉の通りのようでも、そうでないようにも解釈できる。こうした観客側に想像する余地を残す作品作りもまた、ドルマルらしい意匠であり、2000年代終わりの映画らしさとも言える。

今作のタイトルは『ミスター・“ノーバディ”』であり、主人公の名前はニモ・ノーバディだ。

名前であるニモにも、ラテン語で「無名の人」「誰でもない者」という意味があるが、ここで重要なのは、英語を主言語に選んだ作品の中で、ニモはファミリー・ネームの側を“ノーバディ”= 「誰でもない者」と自称し、語って聞かせているという点だ。

老人ニモは、現在の自らを、自らがいる未来世界を、「9歳の子の想像の世界」だと語り、実際にその台詞の後に窓の外を見ると、老人ニモのいる世界が崩壊し、“生まれなかったニモ”の世界のようにその世界そのものが作り物であるかのような演出が取られる。

ここで物語の解釈は大きく別れる。老人ニモの言葉を信じるならば、未来世界や、3人の女性との人生、様々な生き方・死に方をしたニモ……そのすべては、人生最大の決断を迫られた少年ニモが頭の中に組み上げた、あらゆる人生のパターンの一つだった、という結末になる。

しかし、これは恐らく敢えてそう“見えるように”撮ったシークエンスであり、それだけを“絶対正解”とするのが今作のテーマではないのだと思う。

製作者インタビューの話になるが、ニモの人生には、監督が語る“9通りの人生”とニモを演じたレトの語る“12通りの人生”がある。

ニモの人生についてインタビュー内容まで分岐してしまっているわけだが、これはどちらかが間違っていると言うわけではなく、“生まれなかったニモ”や“宇宙へ行ったニモ”までを人生として含めるか否かの違いではないだろうか。

こうした分岐をわざと不明瞭にすることで今作は複雑化し、更には白黒世界のニモや、老人ニモと記者の見る『トゥルーマン・ショー』(1998)のような海のシーン、劇中度々挿入される模型を使った街の描写や、飛行機を飛ばす子供の手、などによってラストの解釈も分かれてくるが、それも含めた上で、仮にそれらの人生が現実に起こったかどうかさえも超えたところに、今作のテーマの根はあるのではないだろうか。

神が与えた人生へのアンチテーゼ……忘却の天使と生前ニモ

次作『神様メール』で特に顕著になるのだが、ドルマルの物語には、神やキリスト教的な概念が取り入れられている。本人は幼少からカトリック教育を受けて育ち、救いを求める人がいることも、聖書の“物語としての美しさ”にも関心はある一方、宗教的教義への信仰心は持ち合わせていないという旨を語っており、次作ではそれが物語の軸になっていく。

今作のニモが生まれる前に、天使によって記憶を忘却するのを忘れられた、というのも、『トト・ザ・ヒーロー』の「神が鼻くそをほじくってるすきに君は私になりかわった」と同じように、神の悪戯によって人の人生は左右される、といった、“神に与えられた人生というステージ”への不信感を表すような描写でもあるのだと思う。

筆者は以前トマのそれに関しては、“人生の鋳型を作るための言い訳”として語られた物語と解釈しているが、今作での“忘却の天使”のエピソードは、実際に生まれる前のニモが体験した出来事として描かれているのではないだろうか。

今作でのニモは、母親に引き取られた人生において、母の前で度々“予言”をしていたと見られる描写がある。それにより、アンナの父親……後のニモの母親の再婚相手であり、両親が共に暮らしていた頃からの不貞の相手であるハリーの事故死を予言するシーンがある。

これは劇場公開版では、思春期のニモが関係性が悪くなっている母親の気を引こうと、自殺しているフリをするシーンなどもあるため、その一環のようにも見えてしまうが、実はディレクターズカット版では、この予言についてはより明確なシーンが追加されていると言う。

実際に日本国内では字幕付のものや吹替版も存在しないため、ディレクターズカット版との比較を書いた以下のHPを参照させてもらったのだが、ディレクターズカット版には、まだ幼い少年ニモが車の事故に遭う父親の運命を予言し、それを止められなかったこと、その事故の原因として、母にあらぬ疑いをかけられるシークエンスが存在すると言う。

劇場公開版がニモの予言を思春期の反抗と重ね、序盤の忘却の天使のエピソードを目立たないようにしたのも、解釈の幅を広げることで、より物語のテーマを強く打ち出すためだったのだと思うが、このシークエンスがあるのとないのとでは、物語全体の見え方が大きく変わってくるように思う。

つくづく、ディレクターズカット版が日本で観られないのは残念でならない。

(参考:https://www.movie-censorship.com/report.php?ID=267603)

ニモは何度も人生をやり直し、人生最大の分岐が、あの日“両親のどちらかを選ばなければならなかった”ことだと知った。それは9歳の子供にとって身を引き裂かれるような想いであり……“愛を選ぶ”という、あまりに残酷な選択だった。

9歳以前の幼いニモの回想で描かれる両親との記憶はあまりにも尊い愛に満ちている。父が出掛けるとすぐにTVをつけ、父の映る天気予報番組を見る姿、歩きを覚えたニモに、母が「ブラボー」と言う姿……青年のニモがTVに出る仕事をするのも、生まれなかったはずのニモが母を求めるのも、すべては、ニモが両親を心から愛し、求めていたからなのだろう。

だからこそ、老人ニモは言う。

「どれか1つを選べということか?」

両親のどちらかを選び、アンナか、エリースか、ジーンか、生か死か、再会か別離かを選び……それが、人生において真に大切なことなのか?と。

死がなくなった世界で、死を選択した老人が、そう問いかける。これが、今作最大のメッセージだったのではないだろうか。

強制された選択を拒否し、第三の選択を自ら書き足す物語

この作品は、選択を拒否する物語ではない。

すべての選択を肯定し、すべての人生に意味を見出す物語だ。だからこそ老人ニモは、自らのファミリーネームを、“ノーバディ”とする。それが、ニモが人生最初の、最大の分岐に対して出した解答だからだ。すべての記憶を宿し、すべての記憶の先を見、その上で、最初の選択に、自らの手でこれまで存在しなかった“第三の選択肢”を描き足すまでの物語。

ラスト、老人ニモが息を引き取る瞬間に、劇中の火星世界でアンナの提唱した宇宙大収束が起こり、時間は逆行していく……そして、あの忘却の天使に忘れられた生前ニモへと繋がる。

つまりこのニモは、生まれる前に“あらゆるニモの記憶”を持った状態になっているということなのではないか。

選択の放棄・パスが許されないというチェスのルールにおける《ツークツワンク》……どう動いても不利になる状況で、しかし動けないということは即ち投了を意味する。“選ばないこと”ですべての可能性は維持されるが、それは結果として、人生を投げ出すことを意味するのだ。

だから少年は、両親のどちらも選ばずに、盤外にあるもう一つの道へ駆け出す……第三の選択の先に何があるのかはわからない。9歳の少年が保護者もなく一人で生きていけるはずもない。だから結局、その後どちらかの両親と過ごすことにはなったのだろう。

けれど、あの少年ニモが飛ばした落ち葉は、やがて“アンナと再会出来なかったはずのニモ”に届き、それはアンナとの再会に繋がり、老人ニモの世界は消えていく。第三の選択の先に、老人ニモはいないのかも知れない。多くのニモと同じように、2092年2月12日午前5時50分まで生き延びられず、宇宙大収束により、時間から解放されることはなかったのかも知れない。

この物語は答えを出さない。

宇宙大収束も、忘却の天使も、すべては少年ニモが創造した世界と解釈することも出来る。父親に引き取られたニモは、タイプライターで日々“火星へ行くニモ”の小説を書いていた。ニモが、そもそもそうしたSF好きであることは、母親に引き取られた人生での、飛行機の模型や宇宙飛行士のポスター、枕元に置かれた本などからも推察出来る。

しかし、乱暴な言い方をすれば、それがどちらであれ、物語の何が変わるというのか。

老人ニモの世界が創造の産物であれ、一度起こった事実であれ、少年ニモはそのあらゆる人生に繋がる最大の分岐に対し、“動かないことですべての可能性が守られた世界”ではなく、第三の選択の先……答えの見えない世界に行くことを選んだのだ。

そしてそれは同時に、選ばれなかった選択の否定ではない。人生に一つの正解を求めるなら、どちらかの道を選び、失敗をリカバリーして、何度でもその人生を歩めば良い。

けれど老人ニモは、そして少年ニモは最後に、経験すべきあらゆる人生、あらゆる選択を肯定した。生も死も、別れも、すべてを肯定したのだ。ニモ・ノーバディ:誰でもない者。誰でもない、ということは同時に、“誰にでもなれる”ということだ。選択により色が欠ける世界……一色にすべてが支配されるのではなく、何もかもを選べる白であること。幼き少年ニモの世界には、すべての色がある。

父親か、母親か、選べばそのどちらかとは会わなくなる、会えなくなる人生……けれど15歳のニモが事故で意識を失った際、そこには揃って彼を見舞う両親の姿もあった。

愛を“選ばされること”……それは、正解を選んでいるのではない。どちらかを選ばないという選択を強制されていただけなのだ。

物語は始まりと終わり……老人ニモと、生前ニモの白が重なる。

ならば、第三の選択の始まりと重なる色は何色だったのか。山吹色の落ち葉に満たされた世界から飛ばされた一片の葉は……あの茶色い橋の上のベンチで眠る青年ニモのもとへ届いた。

勿論、これもあくまで筆者の解釈だ。第三の選択を取った少年の人生がどうなるかは、まだわからない。時を巻き戻し、これまでのすべての記憶を持ったまま生まれるニモの人生でも、これは初めての選択なのだ。この先はまだ、誰にもわからない。

演出論:ニモの生きた12通りの人生徹底考察

ただ今作を鑑賞するに辺り、それでもやはりニモの“12通りの人生”を一つ一つ読み解いてみたいと思うのは仕方がないことだろう。

アンナ・エリース・ジーンを選ぶ3通りの人生から、その先もまた生と死に分岐する。画面上のニモがどのニモであるのかは、画面全体の色合いや、ニモが持つ小物から解釈が可能だ。

今作でニモが迫られる選択は、最後に第三の選択を選ぶまで、常に“二択”だった。

9歳の選択は父親or母親、

15歳の選択はエリースorジーン、

34歳の選択は生or死。

15歳の選択は9歳の選択の後にあるため、アンナ/エリース/ジーンの三択ではなく二択にしかなり得ない。つまり今作は、二択を選び続けたニモが、別の道を選ぶまでの物語だったとも言える。

だからこそ、生まれなかったニモ……選択すら出来ないニモは、白と黒のストライプになる。二択に囚われていたニモの世界には、白か、黒か……幸か不幸かの二元論しかなかったのだ。

ここでは考察として、ニモの12通りの人生を一つ一つきちんと分けていく。

これが整理できると、物語の観やすさが変わってくるが、わざと観にくくしているのが今作の特徴でもあり、野暮なこととは思うので、興味のない方は読み飛ばして頂いても構わない。

①ニモ1

選択肢1:父親or母親=母親

分岐条件→海に入る際にアンナに「カナヅチだ」と言うor言わない=言わない

アンナとの関係性は形成されず、同居しても恐らく仲は深まらない。

34歳の時、結婚して二人の子供がいるアンナと駅で再会する。

選択肢3:生存or死亡=生存?

死亡シーンはなし。

※このニモは身なりもしっかりしているので、ニモ3,5〜8と同じくTV局で働いている、もしくは何かしらの研究者でコメンテーターとして番組を持っているものと思われる。

ニモ1の特徴はべっこう眼鏡であり、実はこれはアンナとの結婚式のシーンでも着用しており、このべっこう眼鏡のニモがアンナと結婚するパターンもある。

これを分岐と捉えるか、このニモ1が後にアンナと再婚すると捉えるかは材料が少なく難しい。

②ニモ2

選択肢1:父親or母親=母親

分岐条件→海に入る際にアンナに「カナヅチだ」と言うor言わない=言う

アンナとの関係性が深まり、同居後は父・母に隠れ互いの気持ちを確かめ合うも、二人の離婚で離れ離れになり、別離を経験する。

34歳で駅で再会するも、連絡先の電話番号が失われ、アンナの手がかりのないまま灯台の下で待ち続ける。

※唯一このニモだけが身なりも悪く、髪も髭も伸び放題のニモである。プールの清掃の仕事をしているようだが、その日暮らしのようで、豊かな生活も、宇宙や時間への知識や探究心も持ち合わせていないように見える。

③ニモ3

選択肢1:父親or母親=母親

分岐条件→海に入る際にアンナに「カナヅチだ」と言うor言わない=言う

34歳、アンナと結婚しているニモ。車内に飾られた家族写真から、アンナの子供はニモ1の子供とは別人であり、こちらは最初からアンナと結婚しているようである。

選択肢3:生存or死亡=死亡?

車で小鳥を轢いてしまい、それに気を取られて入水事故を起こしてしまう。

タイトル明けで車の中でもがくシーンもある。

ただし、終盤で車の扉を開け水面へと上がるシーンもあるため、死亡がはっきりとはしていない。

※このニモは身なりもしっかりしており、TV局からの帰りに事故に遭うので、やはり1,5〜8と同じ仕事をしているようである。

ニモ1のその後……同一人物でない根拠は、眼鏡が薄縁の眼鏡であることだが、仮に仕事用とプライベート用と分けていた場合、1のニモ、アンナの結婚式のシーンのニモと同一人物である可能性は否定できない。

④ニモ4

選択肢1:父親or母親=父親

分岐条件→エリースに愛を伝えに行く際、諦めてバイクで走り去るor諦めない=走り去る

濡れた落ち葉でバイクが滑り、意識不明の重体となる。

選択肢3:生存or死亡=生存?

このニモがこの先どうなったのかは明言されていない。心電図が消失を表すように鳴り響くシーンがあるが、ハッキリと死の瞬間が画面に映るわけではない。

⑤ニモ5

選択肢1:父親or母親=父親

分岐条件→エリースに愛を伝えに行く際、諦めてバイクで走り去るor諦めない=諦めない

エリースに愛を伝え、ステファノを愛した彼女ごと愛そうとする。

そのまま大人になり、エリースと結婚するも、結婚式の日に車の事故でエリースが死亡。

顔に傷を負い、そのまま生き続ける。

選択肢3:生存or死亡=生存?

その後どのような人生を歩んだのかは明言されていないが、ニモ6は自ら命を絶つ場合もあるので、こちらでも同じように命を絶っている可能性はある。

※エリースを選んだニモ5〜8はわかりやすく、黒縁の眼鏡を愛用している。

これはエリースが死亡する・しないに関係なく着用しており、ニモ5は火傷の痕が遺る顔にその眼鏡を掛けている。

この人生でもTV局での仕事には就いている。

⑥ニモ6

選択肢1:父親or母親=父親

分岐条件→エリースに愛を伝えに行く際、諦めてバイクで走り去るor諦めない=諦めない

エリースに愛を伝え、ステファノを愛した彼女ごと愛そうとする。

そのまま大人になり、エリースと結婚するも、エリースはステファノを愛しながらニモと交際した傷を抱えたまま大人になり、やがて激しい抑うつで日々を無気力に過ごすようになる。

選択肢3:生存or死亡=死亡

そんな日々に疲れ切ったニモは、やがて自ら死を選ぶ。

⑦ニモ7

選択肢1:父親or母親=父親

分岐条件→エリースに愛を伝えに行く際、諦めてバイクで走り去るor諦めない=諦めない

エリースに愛を伝え、ステファノを愛した彼女ごと愛そうとする。

そのまま大人になり、エリースと結婚するも、エリースはステファノを愛しながらニモと交際した傷を抱えたまま大人になり、やがて激しい抑うつで日々を無気力に過ごすようになる。

その状態でニモと暮らすことに耐えられなくなったエリースはやがて家を出る。

選択肢3:生存or死亡=生存

このニモがそのままニモ8に繋がる可能性もあるが、服装・家が違うため今回はここを分岐として分けたいと思う。

⑧ニモ8

選択肢1:父親or母親=父親

分岐条件→エリースに愛を伝えに行く際、諦めてバイクで走り去るor諦めない=諦めない

エリースに愛を伝え、ステファノを愛した彼女ごと愛そうとする。

そのまま大人になり、エリースと結婚するも、エリースはステファノを愛しながらニモと交際した傷を抱えたまま大人になり、やがて激しい抑うつで日々を無気力に過ごすようになる。

その状態でニモと暮らすことに耐えられなくなったエリースはやがて家を出る。

選択肢3:生存or死亡=死亡?

その後、エリースと交わした火星に遺灰を撒く約束を物語の中で叶えようと小説を書き始めるも、洪水に巻き込まれ自室で溺れる。

⑨ニモ9

選択肢1:父親or母親=父親

分岐条件→エリースに愛を伝えに行く際、諦めてバイクで走り去るor諦めない=走り去る

→選択肢2:エリースorジーン=ジーン

エリースへの愛を諦め、その代替としてプロムでジーンと踊り、エリースに見せつけるように交際を始める。

成功者となり、プール付きの家に住むも、結婚生活への虚しさから自殺未遂を繰り返す。

選択肢3:生存or死亡=死亡

他人になりすまし、ダニエル・ジョーンズとして暗殺される。

※このニモの分岐は恐らく一つしかなく、自宅プール、列車など何度も自殺未遂を繰り返していることが描写される。眼鏡も着用しておらず、仕事も恐らくTV関係ではない。

プールに入水自殺しようとしてジーンに救われるシークエンスもあり、その後は自宅プールに水が張られていないという点にも注目したい。

自分以外の他者として死んでいく姿には、『トト・ザ・ヒーロー』の反復もある。

ドルマルが意図した9通りの人生は恐らくこの9通りであると思われ、分岐後については出来る限り画面に表れている映像のみで判断した。

ただ、ニモ8はニモ7の後の姿とも考えられ、その場合は、ニモ1〜3の分岐にもう一つ、アンナの父ハリーが生存or死亡という条件が存在する可能性がある。

ニモの予言をハリーが信じるor信じないにより事故の結末が変わり、アンナとの関係性が変わった、という分岐である。その場合、ディレクターズカット版での幼い頃の父の事故の反省から、アンナと出会うためにハリーに事故を仄めかした、と考えることも出来る。

また、レトの言う12通りの人生を数えた場合、これに火星へ向かったニモの2つのパターンや、“生まれなかったニモ”、最後に第三の選択をしたニモなどを加えて数えているものと思われる。

火星へ向かったニモは恐らく、少年ニモや、ニモ8の創作だとは思うのだが、宇宙カプセルでの移動中に事故に遭う序盤のパターンと、アンナと出会い隕石の衝突に遭うパターンがあり、これで+2である。

仮に“生まれなかったニモ”を人生とカウントせずとも、ラストで灯台の下でアンナと再会するニモは老人ニモの語る物語にはないため、これをもう1つとすると合わせて12通りとなる。

こうして考えると、ニモは父親を選んだ場合には、ほとんどの人生で、2092年2月12日午前5時50分を迎えることができず、宇宙大収束に辿り着いていない。

父親を選んだ人生では、混ざり合う記憶に混乱している描写が多いのはそのためかも知れない。アンナから最も離れたジーンとの人生を歩むニモ9は時間の流れについても関心がなく、仕事も他のニモと違うように思える。

最終的に老人ニモへと繋がるのはやはり母親を選んだ側であり、宇宙大収束についての知識があったからこそ、アンナと再会するためにその日まで生きようとしていたようにも思える。

恐らく9通りの人生は可能性としては並列ではあるものの、今作のニモが辿った順番も明確に決められているのではないだろうか。

宇宙大収束を経て、記憶を保持したままで時間を逆行することで、その前のニモの記憶を持ったまま忘却の天使に素通りされ、新たな人生をやり直せる。今作はそんな人生を送ったすべての記憶を持つ老人ニモの、薄れゆく記憶の回想の物語だったと言える。

キャラクター考:幼き日に出会った少女:アンナの記憶

どの人生でも面影を残すアンナという女性

映像論の項目でも述べた通り、今作ではニモの人生に現れる三人の女性にそれぞれイメージカラーが設定されており、選ばれなかった色は人生の中で後退するという演出が取られている。

しかし、その中で唯一、赤色とアンナだけは、他の人生にも現れる。これが、アンナがエリースやジーンとは明確に違う点だろう。

これは劇場公開版でも明確であり、ニモ6or7の世界では、すれ違う別の車に乗ったアンナの姿が見られ、エリースの人生の先……もしくは、エリースと交際できなかった少年ニモの描く小説の中……火星での一幕にもアンナの姿はある。

そして、これはまたも実際に観た訳ではないために断言は避けたいところだが、ディレクターズカット版では、同僚の葬儀で未亡人となったアンナと会うニモ5というシーンがあると言う。

このシークエンスではニモが自身も「自分もかつて配偶者を喪っている」とアンナに声を掛けるも、別の隣人から「死んだのはニモ本人であるはずだ」と言われてカットが変わるようである。

このシーンの有無も、物語の解釈を大きく変える。つまり、ニモは母親についていく選択をしなかった世界においてもどこかでアンナの面影を追い、その姿を投影していることになる。

劇中で15歳のニモがエリースと出会った際、ニモはエリースの瞳の色や匂いに、失った母の面影を感じている。そして、15歳でジーンを選ぶ時……それはエリースを失うことと引き換えに起こる。

青年ニモがアンナとすれ違い、アンナのパートナーの葬儀に行くのは、エリースとの人生の先であり、少なくともジーンを選んだ先でアンナが登場するシーンはない。これは、選択の中で、どんどんアンナという存在から離れていっているためなのではないだろうか。

そしてそんな中でも、ジーンと交際を始めたニモは、「赤いオープンカーに乗る」と、人生に赤色を求めている。

宇宙大収束を経験していないニモも、どこかで幼い日に見た赤の少女……アンナを求めていたのだ。

最期に呟く名前……誰の代替でもない“ただ一人の女性”

アンナ、エリース、ジーンの三人は、ニモが幼い頃に近所に住んでいたことが示唆されている。

アンナは父:ハリーの仕事の影響で国中を飛び回り転居も多いのだろうが、少なくとも9歳までのニモの近くには住んでいたはずだ。

しかし、エレメンタリー・スクール(日本の小学校)でのシークエンスに登場するのは、唯一アンナ一人であり、三人の少女のうち、9歳以前のニモにエピソードとしての記憶があるのはアンナだけなのだ。

アンナとの関係は複雑だ。ニモは幼い頃に母親の不貞を目撃し、後を追ったハリーが、アンナの父親だったことも知ってしまう。

母親が引っ越したのはハリーに着いて行った形だろうし、アンナとは両親の結婚により互いの連れ子関係、ハリーには「兄妹」と言われてしまう。この辺りにも、『トト・ザ・ヒーロー』のアリスとトマの反復を感じさせる意匠があり、幼き日に好きになった少女の面影を追い続ける姿にも、同作から続くプラトニックな愛への望郷が感じられる。

例えばアンナのいる世界線において、母親は青い服を着ているシーンが多く、ニモ6〜8で結婚した後のエリースの姿には、どこか失った母親の面影が重ねられているようにも思う。

エリースの激しい感情の揺れ動きと抑うつについては、ハリーと別れた後の母親の姿とも重なる部分がある。ある意味でニモは、父の介護生活の中で失った母親を求め、その代替のようにエリースを選んでしまったのかも知れない。

そして、エリースと交際できなかったニモが、その代替として選ぶのがジーンであることも考えると、劇中最大の分岐を迎える9歳のニモ……その時点から彼の中にいるのは、アンナただ一人だ。

そうした意味でも、アンナとの関係は、他の二人とは大きく違っている。

アンナとニモの人生は、過去と現在が同一線上で語られ、その想いに途切れがない。

再会した二人が互いを追いかけ回す姿は15歳の頃のままで、彼らの感情が、別離の日から少しも変わっていなかったことが示される。

老人ニモは最期にアンナの名を呟き、宇宙大収束についての説明を火星でのアンナにさせてもいる。そして……今作最後のカットは、川べりで石を投げる幼き日のアンナとニモである。

ニモが本当に愛したのは、やはりアンナだったのだろう。母親の代替でも、その女性の代替でもなく。最初に愛した人。あらゆる人生を歩み、見てきた上で、最期に名を呟く女性。

総括:すべての選択と可能性を否定しない物語

しかし、ならばニモは、何度でも母親と行く道を選べば良い。何度でもその二択で母親を選び、何度でもアンナの所へ向かえば良い。

けれど、ニモはそうしない。親が与えた選択肢に、自分で描き足した新たな選択肢を加え、その道を行くことを選ぶ。

その先に、アンナと会える保証はない。エリースとの関係に苦しむかも知れない。ジーンを苦しめるかも知れない。それでも、ニモはそれぞれが生きたすべてのニモを肯定する。ニモ・ノーバディは、誰でもない自分が選んだ、すべての自分、誰かと共に生きた自分を肯定する。

今作は《多次元宇宙理論》などの哲学的思考を物語に組み込んだ、難解なSF作品と思われがちだ。だが、実際には今作の下敷きには、一人の少年が別離を選ぶ両親の間で揺れ動く短篇作品の存在がある。この作品の分岐の起点には一人の少年の傷があり、それは『トト・ザ・ヒーロー』にも重なるドルマルの意匠で、だからこそ今作の物語は“9歳の男の子が想像した世界”なのだ。

人は生きていれば、誰かを傷つけることも、傷つけられることもある。誰かと別れ、出会い、しかしその関係は必ずしも永遠ではない。家族でさえ、離れていく。幼い子供にとって永遠の形であるはずの両親すら、永遠ではない。我々が生きているのは、そんな世界だ。

けれど、だからこそきっと人生は豊かになる。別れも、出会いも、繰り返す痛みも喜びも、すべてが人生を彩るのだ。

それはまるで、『トト・ザ・ヒーロー』のトマや、『八日目』のアリーやジョルジュ、彼らの選択まですべてを、肯定するかのような物語。

ニモは、幼い日に愛したアンナを、最期まで求め続けた。けれどそれは、15歳のニモが、34歳のニモが、エリースやジーンと生きた人生を否定し、上書きするものではない。

私事ではあるが、筆者の母方の祖母は生前「人生にifはないのよ」とよく言っていた。

戦争体験をし、戦後の世を生きた祖母にとっての人生観だったのだろう。空襲により隣にいた同級生が死亡した話など……ほんの僅かなズレで命が救われた経験を持つ人だった。実際、そこまでの経験はなくとも、やはり人生にifはないとは筆者も思う。

どんなに想定したとて、それはあくまで現実ではない。選ばなかった選択を“選ばなかった現実”は変わらず、我々が生きる世界は一つだ。

しかし、今作はそれを理解した上で、それでもそのすべての世界に存在したかも知れない自分自身を肯定する物語だ。恋の痛みを経験した自分も、不慮の事故に遭った自分も。そんなすべての自分が、必死に生きたその人生は祝福されるべきだ。

そんなあらゆる可能性を祝福した先に、他者の人生への祝福も生まれる。だからこそ我々は、まず自分自身の人生を祝福すべきなのだ。

可能性は無限大だ。一昨年94歳で人生の幕を下ろした祖母が、戦争を生き抜けなかった可能性も、祖父と知り合うことがなかった世界線もあるだろう。筆者にもまた、白黒のストライプの服を着て、どこかを彷徨っている世界線があるのかも知れない。

それならば、筆者はその自分にまずこう言おう。

「お前はいずれ『ミスター・ノーバディ』のレビューを書き、その後は即座に『神様メール』のレビュー執筆に取り掛からねばならない」

広がり続けたドルマルの世界は、次作で神が作り上げた選択の向こう側へ辿り着こうとする。選択と人生を描き続けたドルマルは、今作で描いた“第三の選択”の、その更に先へと物語を進めるのだ。

評価/鑑賞日

⭐ 4.5 / 5.0
📅 2026/09/02(DVD)

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📕ジャコ・ヴァン・ドルマル 全作品考察レビュー

・トト・ザ・ヒーロー(1991)

・八日目(1996)

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