『アメイジング・スパイダーマン2』(2014)ネタバレ考察レビュー|不可逆な時間と喪失の果て それでもヒーローは立ち上がる

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The Amazing Spider-Man 全作品レビュー2

――寂しさも,孤独も,痛みも……選んだ道の先に何があろうとも,希望を名乗ることで ヒーローは蘇る それがアメイジングなんだ

この作品はどんな作品?

マーク・ウェブ監督による『アメイジング・スパイダーマン』の第2作目にして打ち切りによる最終作。

ユニバース化の失敗により伏線は未回収、続編用の物語の幾つかは散らばっているが、ピーターとグウェンの悲恋の物語としては完璧で伝説的な結末を描いた。ラストシーンでの復活まで含め、きちんと物語は閉じた傑作。

この作品はどんな人にオススメ?

大切な人の喪失を乗り越えられず、迷いを抱えている人。

選んだ先の未来に裏切られても、それでも希望を失わず立ち上がった経験のある人。

『スパイダーマン:ノー・ウェイ・ホーム』の何があんなに泣けたのかわからない人。

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作品データ

原題:The Amazing Spider-Man 2

監督:マーク・ウェブ

脚本:アレックス・カーツマン

ロベルト・オーチー

ジェフ・ピンクナー

原作:Marvelコミック『スパイダーマン』

スタン・リー/スティーヴ・ディッコ

音楽:ハンス・ジマー

The Magnificent Six

主題歌:Alicia Keys feat. Kendrick Lamar

「It’s on Again」

挿入歌:Phillip Phillips

「Gone, Gone, Gone」

撮影:ダニエル・ミンデル

上映時間:141分

出演者:

ピーター・パーカー 《スパイダーマン》:アンドリュー・ガーフィールド

グウェン・ステイシー:エマ・ストーン

マックス・ディロン 《エレクトロ》:ジェイミー・フォックス

ハリー・オズボーン 《グリーン・ゴブリン》:デイン・デハーン

アレクセイ・シツェビッチ《ライノ》:ポール・ジアマッティ

フェリシア:フェリシティ・ジョーンズ

ドナルド・メンケン:コルム・フィオール

リチャード・パーカー:キャンベル・スコット

メアリー・パーカー:エンベス・デイヴィッツ

メイ・パーカー:サリー・フィールド

ホルヘ:ジョルジ・ヴェガ

アシュレイ・カフカ博士:マートン・チョーカシュ

ノーマン・オズボーン:クリス・クーパー

グスタフ・フィアーズ(謎の男):マイケル・マッシー

ジョージ・ステイシー:デニス・リアリー

本レビューにはネタバレを含みます。

サム・ライミ監督版『スパイダーマン』(2002)〜『スパイダーマン3』(2007)

『スパイダーマン:ノー・ウェイ・ホーム』(2021)についても言及有。

総文字数:14324文字

読み終わるまでの時間:約35分

シリーズ前作のレビューはこちら

目次

製作背景:失われたユニバースの面影を残すマーク・ウェブ版2作目

マーク・ウェブ監督による、『アメイジング・スパイダーマン』2作目で2026年現在最終作。

本来、今シリーズには《MCU(Marvel Cinematic Universe)》と同様ユニバース構想があったが、ライミ版のシリーズと同じく、その計画も今作以降頓挫してしまっている。

前作公開の一年前、2011年の段階で既に脚本執筆は始まっており、前作脚本チームの中心であったジェームズ・ヴァンダービルトの草案を基に、アレックス・カーツマン、ロベルト・オーチー、ジェフ・ピンクナーという今作のチームによって修正・改稿がなされていた。

この時点ではウェブのシリーズ続投は決まっていなかったが、前作が公開した頃には監督としてウェブ、主演にアンドリュー・ガーフィールドの再登用が決定し、更には今作撮影中の2013年には、3作目、4作目がそれぞれ2016年と2018年に公開予定と発表。それに伴い、ユニバースとして別キャラクターのスピンオフ企画についても本決定していた。

『クローバーフィールド/HAKAISHA』(2008)の脚本を書いたドリュー・ゴダードを監督・脚本に据えた《シニスター・シックス》に加え、今作の脚本チームにも加わったカーツマンが監督も務める《ヴェノム》単独作品など、かなり具体的な計画が立てられていたようで、ガーフィールドとウェブは『アメイジング・スパイダーマン3(仮称)』の参加に意欲的である旨の発言も残しており、『アメイジング・スパイダーマン4(仮称)』ではウェブが監督を辞退するつもりであるということさえ報道されていた。

キャスト続投についてはハッキリしていなかったものの、今作で登場したフェリシア・ハーディ(=ブラックキャット)が登場する映画作品の企画も進んでいたとされ、計画自体はかなり長期的な展望で進められていたことが窺える。

今作の全世界興収は7億1700万$で前作よりやや下がったが、前作レビューでも述べた通り、この結果は決して悪い数字ではない。実際、2014年の映画興行収入ランキングでは、クリストファー・ノーラン監督の『インターステラー』(2014)を抑え9位にランクインしている。

しかし、Sonyの求めた“MCUを超える”ユニバース計画において、ライミ版の興収にさえ劣るこの結果は歓迎すべきものではなかったのだろう。

表向きには、2014年にSonyがハッキング被害を受け、今シリーズ4作目の構想や、ライミ版のトビー・マグワイアのスパイダーマン復帰案など、様々な計画が流出したことで、このユニバース計画が白紙になったとされる報道もあったが、それだけが原因だったかどうかは余計な勘ぐりをしてしまうところだ。

結果として、2015年初頭にSonyとMarvelはスパイダーマンの映画シリーズを共同開発していく契約を締結させ、MCUには“新しい”スパイダーマンが出演することになる。

今作は2026年現在、Sonyが単独で製作した最後の実写スパイダーマン映画作品だ。物語は中途半端なまま未来を奪われ、演じたガーフィールドにとっても、そして当時観ていた観客にとっても苦い思い出になってしまった。

しかし、この作品が残した悲劇の痛みは、今も変わらず胸を刺し、心に棘を残す傑作だったと、筆者は変わらず言い続けていきたいと思う。

アクション論:アクションにも物語の意味が宿るマーク・ウェブの映像観

人間らしいスウィングの動作とピーターの余裕

前作のアクションは、ピーターがスパイダーマンになる過程……その中で、生身に近い、スタントによるアクションによって、その不慣れさまで含めて物語を表現していた。

今作はアクションをより大規模なものにすることで、スパイダーマンとして成熟したピーターの姿を効果的に表しているが、その上で、緻密な計算で仕上げられたCGアニメーションは、スパイダーマンの実在性を更に高めてくれた。

今回も実写スタントで可能なアクションは出来る限り実写で行っているそうだが、CGアニメーションによる《ウェブ・スウィング》のシークエンスをより大きく、長く見せることで、CGI技術の発達を誤魔化しなく表現している。

NYの摩天楼を飛び回り、ビルからビルの間をすり抜けるように移動するスパイダーマンを、長回しに近いショットでじっくりと見せながら、そこにはCGアニメーションの不自然さや、画面からの浮き上がりはほとんどない。

スウィングの動作を“振り子”として扱うことで、今シリーズのスパイダーマンは“空を飛ぶ”のではなく、ウェブに捕まることで“落下を免れる”方向で表現されている。

身体に掛かる重力抵抗や鞭打ちまで考慮に入れて表現されていると言うその動作感により、スパイダーマンのスウィングはより人間らしく、“自然な不格好さ”まで表現されるようになった。

前作でのウェブはカットを細かく割ることで、スパイダーマンのスピード感やCGの不自然さを軽減する効果を狙っていたようだが、今作ではむしろスパイダーマンの姿をじっくり見せることで、ピーターのヒーローとしての“慣れ”や“余裕”さえ表しているような気がする。

冒頭のアレクセイとのカーチェイスのシークエンスでは、そのアクションにかつての喜劇役者:バスター・キートンの動きを取り入れていると言い、絶えず軽口を叩いている姿も含め、そこには“親愛なる隣人”らしい軽やかさがある。

様々な映像技術を用いた大作映画としての面白さ

映像のスケール感も前作より圧倒的に上がっており、カーチェイスのシークエンスでは、実際の道路にカメラを設置したワイヤーを張り巡らせ、走る車両にもカメラを設置し、その迫力はまさに大作映画らしい大仰さに満ちている。これが、冒頭10分経たずに繰り広げられるのだから堪らない。

前作のようにオリジンから語らなくて良いため、冒頭から大規模なアクションで掴みを作れるのが続編作品の良さである。

エレクトロ(=マックス)がタイムズスクエアを襲うシークエンスや、終盤の発電所などはセットをCGIで拡張しており、タイムズスクエアの市民の大半もCGで作られたものである。

こうした現代的な技術の他、ピーターの部屋は《ロティサリー》と呼ばれる回転セットを用いて騙し絵的な撮り方をしており、技術の革新と古くからの技法がうまく取り入れられている。

ウェブも長編映画の撮影3作目、シリーズ続編ということもあり、映像作りに余裕が出てきていたのかも知れない。

また今作でも前作同様スパイダーマンの手元からカメラを回す手法を採ってはいるが、完全なる主観、POVだった前作と違い、今作のそれはスパイダーマンの顔や、全身像に近い映像を観ることが出来る。

今作のPOVは、言ってしまえば、“スパイダーマンに救われたNY市民の視点”……スパイダーマンの目線で世界を見るのではなく、胸に抱かれ、共にスウィングする誰かの目線なのだ。

スローモーション演出が浮き彫りにする物語のテーマ

今作のアクションが前作とは明確に違う点に、“スローモーション演出”が多用されていることが挙げられる。

序盤の道路で、吹き飛ばされたバスから親子を救うシーン、

中盤での、エレクトロの電流から人々を救うシーン、

そして、終盤時計塔の、グリーン・ゴブリン(=ハリー)と争うシーン……

各ヴィランとの闘いにつき一度は必ずスローモーションが用いられており、これが非常に効果的に働いている。

スーパーヒーロー作品において、高速で動くキャラクターや、時間を止める能力は頻出だ。その表現の仕方も多岐に渡り、名匠名監督の歴々が多種多様な演出でそれを見せてきた。

その中にあって、《スパイダーセンス》と合わせた敏捷性、《ウェブ・シューター》の仕組みまで見せるような細かい描写は非常にスタイリッシュな映像ではあるものの、今作の画そのものは、決して目新しいものではないだろう。

ウェブの演出が優れているのは、アクションがただのアクションとして機能しているのではなく、物語のテーマと密接に関係している点だ。

前作と今作を比べると、スパイダーマンの身体性や、ガーフィールドの肉体の美しさを活かした映像は共通しているが、アクションの撮り方には実はあまり共通点がないことがわかる。

前作が“ピーター・パーカーがスパイダーマンに変化していくまで”を描いたように、今作でのスローモーションも、物語のテーマと深く関連していたのではないか……ラストの時計塔を例に出すまでもなく、この物語は、“時間”というものが一つのテーマになっていたように思う。

演出論①:モチーフを散りばめた時間と、ロマンスとしての演出

繰り返し描かれる時間と、不可逆性

今作冒頭はピーターの父:リチャードの着けた腕時計の歯車の映像をオープニングに、「もう少し時間があると思っていた」という台詞から始まる。

そこから、高校の卒業式に“遅刻”しそうなピーターと、“時間の尊さ”についてのスピーチをするグウェンに繋がり……その他にも、今作には時間のモチーフが数多く存在している。

マックスの誕生日や、望まれぬ残業、

ハリーとピーターの“8年ぶりの”再会、刻一刻と迫る死期、

グウェンはオックスフォードの面接に遅刻しかけ、

リチャードは死に瀕して研究データを転送しようとするが何度も中断され、PCには止まった砂時計が表示される……

これら例の他にも、今作では、繰り返し繰り返し時間というモチーフが描かれ、意識される。

スパイダーマンのスローモーション・アクションと合わせて、それに抗ってしまうのがピーターであり、ハリーなのだ。

アクションがスローモーションで描かれるのは、スピードの表現であると同時に、抗えぬ時間に逆らおうとする“異物”としての描写なのかもしれない。

しかしそれは幸福な結末には辿り着かない。迫り来る死期に逆らおうとしたノーマン・オズボーンはピーターの両親を死に追いやり、前作のリザード(=コナーズ博士)を凶行に走らせた。そして今作ではハリーが、死の運命に逆らった結果その肉体と精神を変貌させてしまう。

今作は“時間の不可逆性”について描かれる物語であり、それを受け入れるか、受け入れないかがテーマの一つとなる。

だからこそ、冒頭と終盤に置かれたグウェンのスピーチは重要な意味を持つ。彼女は前作の父の死で、時間の不可逆性を受け入れていた。そしてだからこそ、その時間の尊さを理解してもいたのだ。

王道の恋愛映画としてのストーリーラインと演出

この二部作の中心は、ピーターとグウェンのラブ・ストーリーだ。スパイダーマンはNYを救い、グウェンは今作でもそのサイドキックとして共に闘ったが、あくまで主題となるのはただ人間である二人の恋。

今作においてのハリーはライミ版のように恋敵にはならず、前作ラストでピーターとの関係が改善されたフラッシュも登場しない。この恋の物語は、あくまで二人だけのものとして進行し、完結する。

グウェンは「スパイダーマンのあなた“も”好きよ」と言う。初めからピーターを愛し、そのピーターがスパイダーマンだったから、彼女はスパイダーマンも愛したのだ。

恋愛映画としての演出は、前作より更にロマンチックだ。そもそも、物語からスーパーヒーローの要素をなくすと、完全に10代の恋愛映画の王道になる。

高校卒業と共に別れる→友達に戻ろうと言い合う→復縁かと思いきや、相手が故郷を離れると言う→空港へ向かう道すがら迎えに行く……

この流れだけを見ると、どこかで見たようなストーリーラインになる。

卒業式、遅れて壇上に上がり、生徒・保護者に見せつけるようにグウェンと口付けを交わす姿や、終盤のブルックリン橋のシークエンスも、今作のピーターはとにかくロマンティストだ。

恐らく、ライミ版のマグワイアのピーターではこうしたシーンがイマイチ様にならない。別れを告げたグウェンに呼び出され、車の通りが多い往来の向こうに姿を見つけてフラフラと近づくシーンや、互いに友達に戻ろうと言いながら、「その可愛い仕草禁止」と言い合う姿……ガーフィールドのピーターには、こうしたシーンが本当によく似合う。

ライミ版レビューでも述べたことだが、実写版スパイダーマンのキャストは実生活でもパートナーになることが多い……と言うより、信じられないことにMCUまで3シリーズで100%の確率である。

今作撮影時のガーフィールドとグウェン役のエマ・ストーンも交際中であり、そうした二人のコンビネーションもまた、映画全体に一本の芯を通していたのかも知れない。

(マグワイアとMJ役のキルスティン・ダンストは2作目撮影時には交際解消していた)

グウェンからの着信で、携帯画面に表示されるのは満面の笑みのピーターの頬に口付けするグウェンとのツーショットだ。マグワイアのピーターがこんな写真を撮っていたら、またブラックスーツの影響を考えて心配になってしまうが、今シリーズのピーターだと納得できてしまう。

それだけ二人のピーターは、別のキャラクターとして成立していたということでもあるだろう。

物語論:大いなる責任への目覚め〜幼かったあの日の少年がスパイダーマンになるまで

離れた方がいい理由より、一緒にいる道を選んだ

今作は前作と2作で一つの、“スパイダーマンのオリジン作品”でもある。

ピーターが、“大いなる力には大いなる責任が伴う”という現実に向き合い、真の意味でスパイダーマンになるまで……そして、前作から続く両親の宿命に向き合うまでの物語だ。

ピーターは今作の中で、常に前作で死んだグウェンの父:ジョージの幻影に悩まされている。

「グウェンに近づくな」と言い遺したジョージの言葉……前作からこの卒業までの期間、何度もピーターは悩み、グウェンとの関係を解消しようともしていたのだろう。

劇中では卒業式にさえ遅れるほど、日々プライベートとスパイダーマンの活動の板挟みに苦労している描写がある。そうしてスパイダーマンとして活躍するほど、ジョージの言葉は切迫した問題として降り掛かってきたのではないだろうか。

今作の中で、ピーターはずっと探していた両親が、その研究データを私的利用するために逃亡した可能性に行き当たる。それは本当の意味で“両親が自分を捨てた”ことを意味し、自分との生活よりも、金銭や名誉を選んだということでもある。

けれど、そのすべては世間に語られたカバーストーリーであり、リチャードはまさにジョージの言うように、“ピーターを守るためにピーターから離れた”ことが判明するのだ。

“ルーズベルト”と呼ばれた、廃線した地下鉄の駅に隠した研究室……そこに置かれたPCには、幼いピーターとリチャードの写真が貼られていた。

ピーターは両親の本当の想いを知り、その幼いトラウマを乗り越えることで、再びグウェンの元へ帰ることを決意する。両親に置いていかれた少年が、両親とは違う道を選ぶ。

「離れている方がいい理由は山ほどある。

(それでも)僕は君を選ぶ」

「君が僕の道だ」

マンハッタン橋にかけた「I LOVE YOU」の文字は、恋愛映画としての最高のクライマックスであり、二人の男女が、親の遺した選択肢ではない、自分たちだけの道を選んだ証明でもある。

だからこそあのシーンは、本来であれば、二人にとって最高のハッピーエンドになるはずだった。

すべての演出は“時計塔の悲劇”に繋がっていた

今作の物語は、すべてが時計塔の悲劇へ向けて演出されている。

散りばめられた時間のモチーフ、

ハリーのグリーン・ゴブリンへの変身、

スパイダーマンのスローモーション・アクションに至るまで……。

ウェブは一作目の時点で“グウェンの結末”を考えて動いていた旨を語っており、だからこそ、前作でのピーターはスパイダーマンになり切れなかったとも言える。

序盤のカーチェイスでのやや浮き足だったスパイダーマンの表現……まるで、ピーターの驕りを描いているかのような描写さえ、あのラストに至るために用意されていたものだったのかも知れない。

スパイダーマンのスローモーション・アクションは、今作では常に不可能を可能にするヒーローの特権だった。

ヴィランの凶行を止め、NYの人々を救い、スパイダーマンは軽口を叩く……だから、ハリーの凶行も止められるはずだ、と観客の誰もが思った。蜘蛛の糸は、グウェンに届いた。だから、間に合ったはずだ、と。

このシーンは本来、そのウェブ・シューターの衝撃で首が折れたという展開にするつもりだったと言う。しかし、試写でこのシーンを観た観客がグウェンの生存を誤解してしまったため、公開版ではわざわざ、彼女が頭を強打し、バウンドする姿と音が付け加えられている。

この鈍い音が、あまりにも絶望的だった。遥か上空からウェブを放ったピーターが、その音を知覚していないのもまた残酷だ。ピーターは、間に合ったと思っていたはずだ。

“スパイダーマンは無敵だ”と、ピーター自身が過信していた。ピーターは、傲慢だった。すべてを救い、すべてを正せると思っていた。敵を相手に軽口を叩き、NYの市民たちに礼を言い、その活動を楽しんでさえいた。

前作でピーターは死の恐怖を学んだ。しかしそれでも尚、ピーターはどこか驕っていたのだ。

自分はもう“普通の人間ではない”。グウェンや、市民を“守る立場”で、“守れる存在”なのだと。

ピーターに抱きかかえられたグウェンの表情は静かで、まるで眠っているように、気を失っているように安らかだ。

だから、観ている側もどこかまだ希望を捨てられない。今作は恋愛映画だった。そして、一度離れた二人は、これ以上ないほどにロマンティックに、再び人生が交わったはずだった。

二人は、ほんの数分前に、スパイダーマンとその相棒として、今作のヴィランであるエレクトロにさえ打ち勝ったはずなのだ。

静かに眠るグウェンの鼻から流れる鼻血……これまで観てきた映画の中でも、あんなにも静謐で残酷な死の描写は他に知らない。

爆発に巻き込まれるでも、銃弾の嵐の中血塗れになるでもない、頭を打った後、静かに流れる鼻血。

ピーターにも、観客にも、有無を言わせぬ、死の描写。あまりにも静かで、最後の言葉すらない、突然の死。

今作は、そんな最悪の衝撃を観ている側に残す。そして、その原因となったのが、ピーターの親友であるハリーであることも、今作の痛みをより深くする。

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キャラクター考①:ピーターとスパイダーマンを憎んだ二人のヴィラン

ハリーは今作のもう一人の主人公だった

今作はアメコミ映画作品によくあるヴィラン2人体制だが、その実、ハリーがヴィランとして動く時間は、上映時間141分の中でほとんどない。むしろハリーの物語はピーターとは別軸で展開していき、もう一人の主人公と言っても差し支えないほどだ。

ピーターと同じように親に捨てられた過去を持ち、互いに親の呪いに苛まされている。ハリーは父や、オズボーン家の遺した呪いとも言える病魔に侵され、日々近づく死に怯えている。

その上で、彼には父:ノーマン・オズボーンから無理やりに受け継がされた《オズコープ社》という責任がある。

「20歳の子供に2000億$の企業なんて父がおかしい」

会社を継ぎ、役員たちの前で言ったこの言葉は間違いなく本音だっただろう。自分を半ば捨てた父親の急逝により、突然大企業の社長に祭り上げられ、しかも父は死の寸前に残酷な余命宣告まで遺した。

四面楚歌の役員たちの中で、秘書であるフェリシアにしか心を開けない中、会社と、父が隠した秘密に近づいていく。

前作ではピーターが両親の秘密へと近づくシークエンスにサスペンス調の演出が採られていたが、今作ではそれはハリーに割り振られている。サスペンスとロマンスの両端……その片翼を担うハリーは、まさに中盤までは準主人公のように演出されている。

ピーターとの関係は、ライミ版や原作コミックでの学友とは違うものの、共に親を失い、同じ傷を持ち、忘れ難い幼い時間を過ごしたという原体験がある。

ある日突然両親が消えたピーターにとって、当時のハリーは何よりの支えだったのだろうし、そのことを覚えていて、ハリーの父が死んだ報を受けて8年ぶりに会いに来たピーターにも、ハリーはひどく驚かされたに違いない。

ハリーは中盤“スパイダーマンに”血液提供を求める際「皆僕の金を欲しがる」と叫んだ。実際、突然大会社の社長として報道された彼に、金目当てで近づく者は後を絶たなかっただろう。

けれど、ピーターは違う。

それが違うことが、家に訪ねてきたピーターからすぐに伝わったからこそ、ハリーはピーターを受け入れた。

二人が河原で石投げをしながら、グウェンのことや、互いのこれまでを話す場面は、非常に穏やかで優しい空気感に満ちている。

ピーターはスパイダーマンという運命や、グウェンとの別れを一時忘れ、

ハリーは押し付けられた会社や責任から逃れ、

出会った頃の、12歳の子供に戻っている。

この不可逆な物語は、あの時計塔で二人の友情もまた修復不可能なものにしてしまった。

ピーターにスパイダーマンへの連絡を頼み、「僕に背を向けるな」と縋るように抱きつく姿も、

スパイダーマンが自室に現れた際、「ピーターに僕の話を?」と聞く表情も、親友への心からの信頼と感謝に満ちていた。

スパイダーマンに拒絶され、会社から追い出され、死の迫る恐怖の中で、スパイダーマンの拒絶の裏にいるピーターへの怒りも芽生えてはいただろう。

だからこそ、終盤スパイダーマンとグウェンの姿を認め、ハリーがスパイダーマンがピーターだと理解する瞬間にすべての希望は壊れてしまう。あの一瞬の絶望的な無表情からの狂ったような笑いは、演じたデイン・デハーンの演技が非常に光っていた。

あの瞬間、ハリーは親友をもう一度、今度こそ確実に失ったのだ。スパイダーマンの拒絶が、親友であるはずのピーター本人の拒絶であり、ピーターからの死刑宣告だったことを理解してしまう。

だからこそ、彼は壊れた。今作ラストまでただ一度の後悔もなく、スパイダーマンへの憎悪を激らせた男。あれが、完全なヴィランへと堕ちた瞬間だったのだろう。

透明化された存在への残酷な希望……マックスがエレクトロを名乗るまで

今シリーズは“名前”も大きなテーマの一つだ。スパイダーマンは、中盤で共に闘った消防士たちへも、一人一人名前を呼んで労う。

前作で初めて救った少年:ジャックのように……“名前を聞く”ことはピーターにとって大きな意味を持っているのだろう。……しかし、その何の気無しの善意が、人を壊してしまうこともある。

今作のメインヴィランとなるマックスは、社会において“透明化された存在”だった。

現代社会において、電気系統は生活の生命線だ。終盤の展開の通り、電気がなければインフラ設備のほぼすべてが途絶え、公共交通機関もストップする。飛行機や自動車の事故も多発し、死者も出る可能性が非常に高い。

エレクトロは「神になる」とまで言ったが、実際に街の配電盤を作り上げた彼は、神と言っても差し支えのないほどの貢献をしてきたはずだ。

しかし、社会はそんなマックスに目を向けない。誰もが生活の中で無意識に使う配電システム……その設計図を運ぶマックスが、それを道端に落としたとしても、道行く人々は誰一人マックスのために足を止めない。

それだけの功績を会社にもたらしても、マックスは粗雑に扱われ、彼の死は“不幸な事故”にさえならない。優秀な技術者の死よりも、投資家の信用こそが会社にとっては重要だった。

悲劇なのは、そんなマックスが、その内側に誰よりも高い承認欲求を抱えていたことだ。

自分の誕生日を殊更に主張し、「パーティーには有名人が来る」と吹聴する。身体が変質し、エレクトロという怪物になって尚、マックスは衆目の目を集めたことに歓喜さえしていた。

そんな彼にとって、スパイダーマンに救われ、名前を呼ばれ、ヒーローの“協力者”になったことは、何より大切なことだった。それはマックスの人生にとって、何にも代え難いほどの幸福だったに違いない。

スパイダーマンに救われて以降、マックスはラジオにハガキを送り、周囲にスパイダーマンの正義を語り続けていた。それは当然、自分が目立つためのものであり、周りはそんな彼の話に耳を傾けてはいなかっただろう。

けれどそれは、どこの世界でもデイリー・ビューグルに安く写真を買い叩かれ、デマを流されるピーターにとっても、心強いことではあったはずだ。

マックスは他の何よりも、“自分が覚えられていなかったこと”が許せなかった。

直接的な怒りの炎が燃え上がったのは、確かに騙し討ちのように警官隊に銃弾を放たれたことかも知れない。しかし、マックスの絶望はその前、スパイダーマンが自分の名前を覚えていなかったことが最大のことではなかったか。

「分からなかった、顔が違う」

と言い訳をするスパイダーマンに、マックスはあの日の記憶と自分の名を告げる。ピーターの側も完全に忘れているわけではないのだが、この名前とエピソードが結びついていない空気感は、“忘れられた側”ほど感じ取りやすいものだ。

そしてこの期に及んでも、スパイダーマンはあくまで“親愛なる隣人”としての軽口を止めない。

望まぬ名前と運命を受け継がされ、その名前を奪われたハリー。

誰にも呼ばれなかった名前を呼ばれながら、忘れられ、その名を捨てエレクトロと名乗ったマックス。

ハリーはマックスに「君が必要だ」と、マックスが何よりも欲しかった言葉を与える。けれどこの共闘すら、実際に同じ場面にいたのはオズコープを最初に襲った時だけだ。彼らは互いに別々の目的のために互いを利用し、最後まで本当の意味で共に闘うことはない。

自ら選んでスパイダーマンの隣にいたグウェンとは大きく違い、彼らの間には信頼も、友情も存在していなかったのだ。

キャラクター考②:グウェンの死が、観客に与えたもの

原作コミックから運命付けられた悲劇の予感

原作コミックを知る人ならば、グウェン・ステーシーというキャラクターが登場した時点で、今作の結末は予想し得るものだったのかも知れない。

スパイダーマンの基本的な原作世界……《アース616》を舞台とした『The Amazing Spider-Man』でのグウェンは、ライミ版ヒロインであるMJに先んじて登場した、ピーターの最初の交際相手である。

彼女の存在は、スパイダーマン……いやMarvelコミック史において後世に遺る衝撃を与えた。

『The Amazing Spider-Man #121』(1973)。そこに描かれた物語が、まさに今作のモデルとなっている。

グリーン・ゴブリンに連れ去られたグウェンは橋から落とされ、スパイダーマンはウェブ・シューターで彼女を助けようとする。そのウェブは確かに彼女の身体を捉えたものの、その落下と、ウェブの反動でグウェンは首の骨を折り、今作の初期案の通りに、そのまま息を引き取った。

“ヒーローが愛する人を救えなかった”

その絶望は、70年代のコミックにおいてエポックメイキングな出来事だった。この後のグリーン・ゴブリンに復讐するその顛末は、ライミ版『スパイダーマン』(2002)でのグリーン・ゴブリンの死でもオマージュされており、当時の原作読者にとっても、このエピソードはあまりにも印象深いものだったのだと思う。

今シリーズの基本的な設定は、アース616のものよりもむしろ、後年のアルティメット・ユニバース《アース1610》が下敷きとなっているが、グウェンはアルティメット・ユニバースにおいてもその死が運命付けられている。

ヒロインとしてのグウェンの死は、半ば既定路線だったのだ……。

巡る無情な四季〜喪失とヒーローの在り方

マスクを自ら外すことで、“ピーター・パーカーの物語”を描いた前作と違い、今作でのピーターは、スパイダーマンのコスチュームを着ている際にマスクを外すことはない。

ピーターがマスクを外すのは、グウェンの前でだけだ。面談に遅刻しそうなグウェンの所に現れた際も、マンハッタン橋での「I LOVE YOU」も。今作で、ピーターはグウェンの前でだけはスパイダーマンでありながら、ピーターでもあった。

ピーターは、今作で一度たりともグウェンを引き止めない。グウェンは、自らの意志で物事を選択し、自らの意志で闘うことを選ぶ女性だ。

ピーターは誰よりもそれを知っている。その強さに、スパイダーマンとしての彼も救われてきた。だからこそ、彼女の夢を尊重し、才能を理解し、自分が彼女について、イギリスに行くことを選ぶのだ。

ピーター・パーカーは正しい選択をした。しかしそれは、スパイダーマンにとってはどうだったのだろう。

グウェンを喪い、スパイダーマンが不在となったNYは、深い悲しみに包まれ、犯罪の温床になっていた。あのままイギリスに行っていたとしたら、同じことが間違いなく起こっただろう。

今作をスパイダーマンのオリジンとするなら、グウェンの死と喪失は、ピーターをスパイダーマンにするために必要な、まさしく後の『スパイダーマン:スパイダーバース』(2018)で《カノン・イベント》と呼ばれる“必要不可欠な喪失”なのかも知れない。

ヒーローは二者択一を選ばない。

ライミ版の『スパイダーマン』(2002)でも、同時に落とされた子供たちの乗るゴンドラも、MJも、両者を救い出した。

けれど、この年代のヒーローに、そうした甘さは通用しない。クリストファー・ノーラン監督のバットマン『ダークナイト』(2008)でも、ヒロインのレイチェルの命はジョーカーに奪われてしまった。

そのリアリズムはヒーローの物語において重要な意味を持つのかも知れない。それでも、それまでのピーターとグウェンがあまりにも幸福だったからこそ、今作の終幕はあまりにも無慈悲だった。

グウェンの墓前で、四季を巡るシークエンス。手足が長く、劇中いつも真っ直ぐにスパイダーマンとして立っていたピーターが、背を丸め、無言で立ち竦んでいる。移ろいゆく季節が、癒すことがない傷を、ただただ観ている側もピーターと共に感じるしかない。

時間をテーマにした物語が、四季という美しい時間の流れを、こんなにも無情な演出として見せる。

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演出論②:傷ついた少年は、こうしてヒーローに“なった”

今作は最後の最後に、もう一度名前と時計のモチーフを物語に返す。

序盤にスパイダーマンが救った少年:ホルヘ。彼は凶悪犯や、火事や災害から救われたわけではない。同級生と思わしき子供たちに虐げられ、大切なものを壊されたところをスパイダーマンに救われる。

スパイダーマンが生きるNYには、凶悪犯の被害者だけでなく、こんな風に彼を求める人達が存在しているのだ。

スパイダーマン不在の街の中、暴れ回るライノ(=アレクセイ)の前に立ち塞がるホルヘに告げる「代わりをありがとう」

本来ならマックスが欲しかった言葉でもあり、それを言えなかったことも、グウェンを喪い、あの日のことを思い出す度、もしかしたら何度も、何度も後悔したのかも知れない。

その後悔も、痛みも、全部を背負い、大切な思い出を「しまうべき場所にしまい」

「僕は戻ったぞ」

これまで不可逆な時に逆らうようなスローモーションで闘ってきたスパイダーマンが、ここで時計の歯車のようなマンホールの蓋をウェブに絡め、“時計回りに”回りながら闘いに挑んでいるのも、グウェンの遺したスピーチとホルヘの勇気が、ピーターを、スパイダーマンを前に進めた証拠でもあるように思う。

本来今作のラストでは、グウェンの墓前に生きていたリチャードが現れ、ピーターを鼓舞するシーンが撮影までされていたそうだが、結果としてカットされたのは正解だったように思う。

少なくとも、今作において“死んだと思われた登場人物が生きていた”……時間の不可逆性を裏切る演出は、あるべきではなかっただろう。

総括:打ち切りだからこそ今も美しく輝く痛みの物語

今作は確かに、ユニバースの設計としては大失敗作と言えるだろう。

今作だけでは語り切れなかったハリーの物語や、前作から匂わせていた謎の男= グスタフ・フィアーズの伏線も回収されないまま作品は終わり、シリーズとしては、やはり“打ち切り”だったと言わざるを得ない。中途半端という印象を持つ人もいて当然だろう。

しかし、ピーターとグウェン二人の物語は、その悲劇があまりにも美しく閉じられており、そうして再び立ち上がったスパイダーマンの姿は、あまりにもヒーロー然とした強さに満ちている。

今作には本来、続編に向けてMJの登場も予定されており、シェイリーン・ウッドリーのキャスティングで実際に撮ったシーンもあったと言う。が、それもリチャードと同じく、今作の物語をピーターとグウェンの物語にフォーカスするためにカットされている。

今作、今シリーズは本当に、ピーターとグウェンの物語だったのだ。

二人の物語は、アメコミ映画史に残る悲劇で、観るのが何度目であっても、グウェンの死は、理解は出来ても納得するに時間を要する。

結果として今作の打ち切りに連鎖するように、後の《SSU(Sony’s Spider-Man Universe)》もまた批評・興収共に伸び悩み打ち切りとなってしまうが、結果論とは言え今作は“ここで終わったがゆえに”今も傑作として語られ続けることになったのだと思う。

その後の物語が語られず、ブラックボックスになったからこそ、観ている我々の胸にいつまでも抜けない棘を残し、観る度に鈍い痛みを思い出させてくれる。そして、何度でもあの時計塔で、時間よ止まれと願うのだ。

※【注釈】『スパイダーマン:ノー・ウェイ・ホーム』(2021)におけるピーター3

最後にMCU『スパイダーマン:ノー・ウェイ・ホーム』(2021)について触れておきたい。

こちらについてもいずれ別でレビューを書くつもりだが、今回は“ピーター3”と呼ばれたガーフィールドのピーターについてだけ少し語ることにする。

『スパイダーマン:ノー・ウェイ・ホーム』(以下NWH)は、やはりライミ版のピーター2や今シリーズのピーター3に囚われた当時の観客である我々に向けた、“幸せな二次創作”だったと言える。

キャラクターは公式に同一であると明言され、時系列として今作の先の未来なのは間違いない。

けれど、NWHにウェブや、当時の製作陣は関わっておらず、構想されていた当時の物語は反映されていないだろう。本来のピーター3にはMJと出会う未来があったはずだが、NWHでは「怒りに満ちて冷酷になっていた」と回想するシーンもある。ピーター2がハリーを語る「僕の腕の中で死んだ。僕を殺そうとして……」と同じく、やはり違和感を覚える台詞だった。

(同じようにマックスの描写にも疑問はあるのだがそれは本論にて語ることにする)

やはり、今シリーズは今作で終わっていたのだ。NWHの監督ジョン・ワッツが描いたのは失われた続編ではなく“今作の”先にいたピーターであり、それはグウェンの喪失を抱えたピーターだ。

だからこそ、救えなかった大切な人の代わりに、別世界の自分の大切な人を救う。今度こそ間に合う。あの瞬間、ようやくピーター3は本当の意味で先に進めたのだろう。

反目し合った親友と同じ行動で、救えなかった親友の父と、怒りに支配され自分と同じ過ちを繰り返しそうな“自分自身”を救ったピーター2と同じように……ピーター3はようやく救われたのだ。

あれからのピーター3は、グウェンのスピーチを聴き、再びスーツを着て、何度もNYを救ったのだろう。何度も救い、何度も戦い、何度も傷つき……一歩進むたびに戻り、怒りに囚われ、解放されたと思えばまた囚われ……そうしてようやくあの日、グウェンを救えなかった自分自身を救えた。

それは2014年公開当時、『アメイジング・スパイダーマン』という世界そのものを失った観客である我々にとっての救いでもあった。

それは“観るはずだった映画”ではない。

NWHは『アメイジング・スパイダーマン3』でも、『スパイダーマン4』でもない。けれど、『アメイジング・スパイダーマン2.5』であり、『スパイダーマン3.5』ではあった。

ファンメイドに近い物語であったとしても、あの日から足を止めた人の背中を押すことくらいは出来たのではないだろうか。

Sony、Marvelの関係性や、スパイダーマンというキャラクターの使用権利、映画製作の複雑な事情は、これからも観る側を大いに迷わせるだろう。

けれど、それも含めて、物語は紡がれていくものでもある。彼らの姿を見ると、そんな風にも思えるのだ。

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