――憎しみの連鎖に呪われた血……その村にあったのは祟りか,それとも見ないフリをした痛みへの報復か
この作品はどんな作品?
横溝正史原作金田一耕助シリーズ代表作『八つ墓村』を清水崇監督がホラー作品に大胆アレンジ。
かつての映像化とも原作とも違うが、その根っこにあるテーマやメッセージには横溝正史作品の魂が受け継がれている。多くの金田一翻案作品を観てきた後に楽しみたい変わり種。
この作品はどんな人にオススメ?
令和に蘇る新しい金田一耕助像を楽しみたい人。
これまで金田一耕助シリーズや『八つ墓村』映像化作品の多くを観てきた人。
清水崇監督の村ホラーシリーズを追いかけてきた人。
作品データ
原題:八つ墓村
監督:清水崇
脚本:尾ヶ井慎太郎/清水崇
原作:小説『八つ墓村 金田一耕助ファイル1』(横溝正史著)
音楽:アントンジュリオ・フルリオ
主題歌:TMG 「DOOM」
撮影:大内泰
上映時間:117分
出演者:
金田一耕助:尾上松也
井川辰弥:奥智哉
森美也子:堀田真由
里村慎太郎:小野塚勇人
里村典子:永瀬莉子
井川鶴子:中島亜梨沙
久野恒実:川瀬陽太
田治見小梅、小竹:高島礼子
田治見久弥、要蔵:滝藤賢一
フリフリさん:笹野鈴々音
磯川警部:小籔千豊
田治見庄左衛門:髙嶋政伸
尼子義孝:渋川清彦
工藤修平:佐野岳
隼雄:中山慎悟
勇:小林大斗
石坂駐在:今野浩喜
野村刑事:松嶋健太
市川刑事:葉月
※本レビューにはネタバレを含みます。
該当作品の他、本作原作小説・77年版他翻案作品、
金田一耕助シリーズ『悪魔の手毬唄』
『犬神家の一族』
『獄門島』等についても言及有。
総文字数:13638文字
読み終わるまでの時間:約34分
製作背景:金田一耕助シリーズ最多映像化作品に清水崇が挑戦
ミステリー作家横溝正史原作:《名探偵・金田一耕助》シリーズの一本を原作とした、清水崇監督による実写映画化作品。
2026年の夏は、清水崇の夏だった。
数年の後にそう言われてもおかしくないほど、この夏は清水監督作品がスクリーンを埋め尽くしていたように思う。
2026年7月3日に『口に関するアンケート』、
2026年7月24日に『だぁれかさんとアソぼ?』、
そして2026年9月18日に今作が公開された。前2作から2ヶ月空いているとは言え、同年の同じ季節に三本の映画を公開するというのは相当なハイペースだ。
製作時期はそれぞれだが、今作の撮影は2025年3月から始められており、公開時期に反して撮影時期は一番古い。金田一耕助初登場から80年、前回松竹で映画化した『八つ墓村』(1977)からは49年ぶり……松竹・原作管理元の角川両社にとっても、時間と予算をしっかり使って撮りたい企画だったのではないだろうか。
原作小説は金田一耕助シリーズの中でも代表作と言える一本であり、映像化本数も実は『犬神家の一族』と並び最多級。今作含め映画が4本、ドラマ7本……舞台版やコミカライズ版、ラジオドラマまで存在し、非公式的なものまで含めれば恐らく更に増えることになるだろう。
中でも多くの人が最初に思い浮かべるのは、やはり前述した渥美清主演× 野村芳太郎監督による1977年の松竹映画版だろう。
金田一耕助の映像化としては、東宝が製作した石坂浩二主演×市川崑監督の映画シリーズが有名だが、『八つ墓村』の映像化としての知名度は、この77年版に軍配が上がる。
当時、劇中の台詞である「祟りじゃあ〜!」は《ザ・ドリフターズ》のコント番組『8時だョ!全員集合』でもパロディされ、一躍社会現象にまでなった。山田洋次監督による《男はつらいよ》シリーズの当たり役:フーテンの寅さんのイメージが強い渥美を敢えてキャスティングした金田一は、同時期の石坂演じる金田一とはまったく異なる印象を残し、長い邦画の歴史の中でもある種の伝説となっている作品だ。
当然、清水監督もその作品を知らないはずがなく、今作のオファーがあった際、製作参加にはやはり相当な迷いがあったと言い、更にオファーを受けた前年には、丁度77年版を新文芸坐で観直していたタイミングだったとも語られている。
製作は2023年から始まり、まず脚本家である尾ヶ井慎太郎に松竹から企画が持ち込まれた。この時点ではまだ監督は未定だったということで、今作での77年版のオカルトを更に一歩進めたような表現や、舞台の現代化などは、元々松竹からの依頼ありきだったのかも知れない。
(77年版も、実は当時の“現代化”(=70年代化)がなされた作品でもある)
その後に清水監督が合流し、脚本を仕上げる際には『十角館の殺人』(1987)等《館シリーズ》の原作者綾辻行人に助言を求め、今作の方向性が固まったことが、綾辻本人のXで語られている。
今作は金田一耕助シリーズの愛読者からは間違いなく賛否両論……いや、否の意見が多く出るだろう。しかし、1947年の片岡千恵蔵による初の実写化から約80年……様々な金田一を楽しんできた観客にこそ、この変わり種を楽しむ余裕があっても良い。今作は間違いなく、清水監督にしか撮れないミステリーホラー作品だ。
横溝正史著:『八つ墓村』原作小説を読む・購入する
原作比較:実は原作通りに映像化された作品は少ない超・代表作
原作はオカルトではなくロジカルな本格ミステリー
まず大前提として……これはやはり77年版の印象が強いために誤解されがちなのだが、原作小説『八つ墓村』(1951)は、少なくとも事件解決にオカルトやホラー要素が介在することはない。祟りは真犯人による“見立て”や“心理誘導”の材料として用いられるものであり、作品自体は非常に正統派のミステリー小説である。
原作は坂口安吾著『不連続殺人事件』(1947)を読んだ横溝がそこから着想を得て書き始めた作品であり、横溝はこの作品をアガサ・クリスティの『ABC殺人事件』(1936)の複数化と捉えていたとも語られている。この2作を知る人ならば理解できるとは思うが、原作は非常に緻密に計画されたロジカルな殺人事件であり、オカルトの入り込む隙などないのである。
勿論、原作にも戦国時代の落武者との因縁や1938年の《津山事件》という実際の事件から着想を得た田治見要蔵の32人殺しの要素は存在しているが、それらはあくまで物語を面白くするための装飾でしかない。
『八つ墓村』にホラーの印象を植え付けたのは、やはり77年版の野村演出によるところが大きい。
終盤の鍾乳洞での真犯人と辰弥の逃走劇、山崎努が演じた田治見要蔵の鬼気迫る迫力……戦国時代の落武者8人の謀殺に至るまで、そのオカルトホラーテイストな演出は、当時全年齢対象で公開されているのが信じられないほどにグロテスクな画の強さがある。
これまで映像化されてきた他の翻案作品にも、数奇な運命に操られた登場人物たちに“祟りの影響”を見ることは出来るが、ここまでオカルトに寄せた作品は、これまで実は唯一77年版だけだったのだ。今作のようにホラー映画の巨匠たる清水監督に映像化の話が持ち掛けられるようになったのも、やはり、77年版がそれだけ印象深く、その後の作品群ではその印象を塗り変えることが出来なかったということでもあるのだと思う。
同時に、これだけ数限りなく映像化されながら、実は原作の“忠実な再現”がほぼされたことがないというのも八つ墓村の特徴の一つと言える。
原作の総頁数はシリーズ長編作品の中でも特別多いわけではないのだが、事件の総被害者数は8名、戦国時代の怨嗟や要蔵の凶行、登場人物同士の相関や家系図なども含めて物語は非常に入り組んでおり、全てを盛り込むとかなり駆け足な展開になることが予想される。
NHK総合でドラマ化された全5話の1971年版、古谷一行主演で石坂版に次ぐ人気シリーズでもあった1978年《横溝正史シリーズII》でも全5話で描きながら、やはり一部登場人物や事件のあらましが省略・簡素化されており、そうした意味でも映像化が非常に難しい作品であることが窺える。
実際、清水監督も脚本執筆段階で過去作品を観返し、忠実に映像化することの難しさを悟ったと言う。
これまでの映像化の多くでは、原作において非常に重要な存在である里村慎太郎・典子の兄妹がオミットされることが多かった。仮に登場したとしても、その役割が大きく削がれてしまっていることが常であり、どちらかが出てもどちらかがいない、ということも多々あった。
そんな里村兄妹が今作では揃って登場しているが、ポスターヴィジュアルやプロモーションには兄妹を演じた二人はほとんど出ておらず、筆者も映画を観るまで二人が登場していることすら知らなかった。今作劇中の役割については後述するが、まずは原作と過去の映像化作品での扱いについて述べておきたい。
坂口安吾著:『不連続殺人事件』を読む・購入する
不遇のキャラクター・里村兄妹の原作での役割について
原作における里村慎太郎は物語の中心軸であり、真犯人にとっての犯行動機となる人物だ。
里村兄妹は田治見要蔵の甥姪にあたり、要蔵の弟:修二の子供たちである。父:修二が田治見家ではなく母の実家の里村の家を継いだため、田治見の家との折り合いは決して良くないが、戦後の没落で田治見の家に身を寄せているという設定になっている。
田治見家とは幼少の頃から距離があり、戦前羽振りが良かった際には帰郷することもなかったので、特に小竹・小梅からは嫌われている。
今作では舞台設定が2020年代現代になっているが、原作小説の舞台である昭和20年代は、戦後の混乱による旧家の没落や、華族制度の廃止による混乱が物語の大きなテーマとなることが多かった。
同じ金田一耕助シリーズで言えば、『悪魔が来たりて笛を吹く』(1951)の椿家は旧華族であり、『犬神家の一族』(1951)も相続人の復員による家の跡取り問題がテーマである。今作の原作もその流れに則っており、慎太郎は辰弥や春代と同じく、田治見の莫大な財産を相続することが出来る候補者の一人だ。
現田治見家の長たる小竹・小梅からは疎まれ、更には敗戦兵としての帰還と家の没落ですっかり自信を失くしている。原作においては、この慎太郎に田治見の財産を継がせることが真犯人の目的であり、家督争いというテーマで見るなら、次々死者が出る中容疑者としても有力候補となる人物である。
ただし、この“慎太郎に家督を継がせたい”という動機そのものが回りくどくもなるため、これまでの映像化作品では慎太郎と真犯人の関係性が、そのまま辰弥との関係性にスライドされる場合が非常に多かった。
そうなると、妹である典子もその存在ごとオミットされがちである。
典子に関しては、辰弥の物語のヒロインとして描かれ、原作の最終盤では典子と結ばれることで辰弥の呪われた物語が終わりを迎えるという非常に大切な役割を担っている。
しかし、この典子の劇中での役割をそのまま真犯人に代替させ、悲恋の物語としての側面を強めることで、犯人の心情や物語終盤の演出を強めているのが77年版や、古谷版のドラマである。正直なところ、典子と辰弥の物語は本筋からはやや離れている上に、辰弥に想いを寄せる女性としては春代の存在もあるため、こうした改変は納得がいくものでもある。
そうした理由から、これまで辰弥と典子の恋がまともに映像化された作品は極めて少なく、2019年版ドラマではかなり久しぶりに原作に近い役割が与えられている。
今作には春代が登場せず、里村兄妹が揃って登場する珍しい映像化であったため、遂に満を持してのヒロイン回帰かと思われたのだが……(後述)
吉岡秀隆版金田一耕助:『八つ墓村(2019)』を観る・購入する
映像論:過去の八つ墓村オマージュとホラー映像の現代的課題
金田一耕助映像化の聖地・広兼邸でのロケ撮影
今作2026年版の八つ墓村は確かに原作とも、これまでの映像化ともかなり異なる印象だ。
だが、映像の作りや人物の名前などにはこれまでの作品へのオマージュが見て取れ、ホラー演出も清水崇らしいケレンに満ちており、映像は観ていて飽きが来ないものに仕上がっている。
(登場する刑事の名が市川や野村であったり、駐在の名前が石坂でフリフリさんの本名が豊川なのは気づくと笑ってしまう)
田治見家の屋敷については、これまでの八つ墓村作品でも使われた、岡山県高梁市に現存する《広兼邸》で撮影されている。広兼邸は77年版、豊川悦司主演×市川崑監督の96年版映画他、横溝作品の映像化の多くで使われてきた、まさに“聖地”というべき場所である。
今作は過去作品の時代にはなかったドローンカメラ等の機材を導入することで、外観だけではなく、広兼邸の庭先など内部にまでカメラを入れ、これまで以上に旧家屋の趣を楽しむことが出来る。
終盤の鍾乳洞シークエンスを撮影した宇山洞も同じく77年版の一部で使われた場所であり、このあたりにも77年版へのオマージュやリスペクトが感じられる。同じロケ地を使うことで、まさしく呪いがそのまま伝承されてきたような妙なデジャヴを感じることも出来るのだ。
桜の開花を待って撮影された桜並木の下を走る要蔵の狂気や、77年版では広兼邸に似たセットを作って実際に焼き払うしかなかった終盤の田治見家炎上をCGで再現するなど、ロケ撮影とセット・CGをうまく組み合わせた映像はまさに現代で八つ墓村を改めて作り直す意味が感じられる。
とは言え、映像の質感には、どうしても過去作品に比べ軽さが感じられてしまう。これは前述のドローンカメラ始めとする、撮影技術の進歩が逆に足枷となってしまったように思う。
今作の映像は、全体的に非常に明るく明瞭だ。夜のシーンや、鍾乳洞のように灯りが乏しいシークエンスでも、その映像は非常にクリアな質感になっている。
ホラーとしては、そこで恐ろしさが削がれる。
見えすぎてしまう現代のカメラとホラー的恐怖の関係論
“柳の下の幽霊”の例を出すまでもなく、心霊現象というものは、正体不明だからこそ恐ろしさが際立つ。Jホラー独特の演出論としてよく取り上げられる、小中千昭の提唱した《小中理論》においても、霊的存在をハッキリ見せない・見えないことが恐怖演出として効果を発揮すると定義されている。
清水監督は『呪怨』において、この理論を真っ向から破り、伽椰子や俊雄といった心霊をハッキリ見せながら恐怖を演出した先駆者と言っても良い。しかし、“見せる”と“見えてしまう”ではやや状況が変わってくる。
今作でも、終盤の落武者の霊:尼子義孝や、女の面が変化したような真犯人の描写をハッキリと観客に見せる清水演出は健在だ。
しかし、屋敷や鍾乳洞に関しては、隅々まで見えてしまうことで逆に作り物感が出てしまう。77年版も近年《4Kリストア版》の公開がされていたが、やはり当時のフィルムに残る特有のザラつき……それは、意図せずして恐怖演出の一つになっていたように思うし、当時はそうしたフィルムの質感まで考慮した上で、演出法が考えられていたのではないだろうか。
その一方、当時の技術では困難だったドローンによるコウモリ視点の上空逆さ吊りからの画や、それと合わせての尼子義孝の霊が真犯人に取り憑く描写などは、撮影技術の進化により生まれた面白い演出だ。
田治見家が焼け落ちる際のコウモリの描写を考えると、八つ墓村を飛び回るコウモリそのものが呪いの媒介になっているとも考えられ、この撮影法には画変わりだけでなく物語としての意味もきちんとある。
ホラー映画の全ての映像がモキュメンタリー風の擬似フィルム加工になっても表現の幅は狭まってしまう。ホラー映画は今、クリアな映像にどのように根源的な恐怖を乗せるかの過渡期なのかも知れない。
物語論:金田一耕助シリーズをホラーへと変換した清水崇の大改変
犯人は亡霊であり祟り?ミステリーを捨てた異色作
今作で賛否両論となるのは、やはり何よりその物語そのものだろう。
金田一耕助シリーズを“本格ミステリー”として読み、観てきた人は、終盤からの展開には納得出来なくても仕方がない。今作はミステリーではなく、清水監督が仕掛けた2026年夏の新作ホラー作品なのだ。
まず犯人自体は原作と変わりない。
田治見の家に嫁いできたが夫を亡くし、そのまま住み着いている女性:森美也子である。
しかし、彼女の犯行動機……いや、その殺人そのものに至るまで、美也子が自主的に計画し、行なったものではない。と言うより、今作の殺人事件の“真犯人”は美也子ではない。
犯人は、尼子義孝の亡霊である。
今作の殺人事件には推理すべき謎は一切ない。この事件は、尼子義孝の祟りが引き起こしている。
八つ墓村は、古くから祟られた村だ。
村人たちの策略により仲間共々殺され「末代まで祟ってやる」と告げて自らの首に刀を押し当てた、尼子義孝の恨み……それが現代まで田治見家と八つ墓村を呪っている。
過去の要蔵の凶行すら呪いによるものであり、田治見の家が代々受け継いできた狂気だ。田治見家当主は歴代、ある一定の年齢になると狂気に駆られ村を襲う。
尼子義孝を裏切った田治見庄左衛門に始まり、要蔵、そして久弥もまたその呪いの伝播役だ。久弥は父である要蔵の凶行を見、病床の縁で自らが狂気を宿す恐怖に震えた。だからこそ、その身代わりとして辰弥を求めていたのだ。
これまでの翻案作品では、そこにオカルトの風味を入れようと、ミステリーと謎解きという“探偵もの”の軸を外すことはなかった。
77年版でも美也子の背後に尼子義孝の怨念があるよう描写されていたが、今作ではすべての殺人が霊の仕業であり、終盤の美也子は完全に自らの意志が消失し、尼子義孝の器として言葉を発し、人間ではとても真似出来ない動きで辰弥を襲う。
77年版の鍾乳洞での一幕はギリギリでイメージシーンと言えなくともなかったが、今作は疑いようなく心霊現象であり、それはエンドロール後まで続いてしまうのだ。
“血の呪い”にどう抗うか……田治見家に生きる者達の覚悟
そもそも今作をミステリーとして観るのはかなり厳しい。
登場人物の数はこれまでの作品以上に削られ、犯人候補の容疑者が少な過ぎる。終盤まで生き残るのは辰弥、久弥、美也子、小竹、小梅であり、このうち久弥は病に伏し、小竹、小梅は老人である。辰弥が“信頼できない語り手”でない限り、残された容疑者は美也子しかおらず、原作を知らずとも犯人解明は容易だ。
連続殺人としても、本来原作では久野医師が書いた架空の殺人メモから着想した“不連続殺人”……真の動機を見え難くするために無関係な殺人を何件か挟み、総被害者数を“八つ墓”の8人に見立てているが、今作の美也子による殺害数は4人……原作では殺人被害者ではない辰弥の母:鶴子も含み、全員が田治見家の関係者なので不連続性もない。
他の映像作品でもこの不連続性トリックの再現は曖昧なことが多いが、今作では要蔵の殺害数も32(=8の倍数)と明言されておらず、犯行動機も田治見家関連であることは明白だ。
しかし、今作の動機は田治見の財産ではない。
文字通り、田治見の家を“末代まで”呪うこと……当主が凶行に走るのも、血を絶やすことが目的であり、だからこそ要蔵は鶴子と、鶴子が抱いた幼い辰弥まで手に掛けようとしたのであろう。
今作の要蔵は鶴子を無理矢理に犯し、監禁生活を強いるような存在ではない。要蔵と鶴子の間には本物の愛情があり、辰弥も二人の実の子供である。原作の要蔵と違い、今作の要蔵には凶行へと至る理由がない。このあたりも、2020年代の表現としてのギリギリの改変だったのかも知れない。
辰弥が要蔵の実子であることで、原作や他作品での“実は辰弥には田治見の相続権がない”というどんでん返しがなくなり、お家騒動としての小竹・小梅の策略もなくなるため物語の因果もわかりやすくなる。
子供のいない久弥と合わせ、辰弥は田治見の血が流れる最後の人間となり、美也子=尼子義孝の「お前で最後」という言葉に重みが宿る。
今作のあらすじに書かれた「内定ゼロ、彼女ナシ。」というややチープな表現もここで意味が生まれており、田治見を滅ぼすタイミングとしては、この時が最適だったのだ。
同時に、この設定があることで、狂気に駆られながら自らまるでかつての尼子義孝のように首を切った久弥の覚悟や、実子である辰弥にまで刃を向け、その血を終わらせようとした要蔵の苦悩にも、これまでの作品とはまったく違う人物像が付加される。
2019年版ドラマで金田一耕助を演じた吉岡秀隆はインタビューで作品について「愛がテーマだ」と答えていたが、今作にも共通して、現代を生きる田治見関係者の愛と、過去の因縁の対立が描かれていたようにも思う。
演出論①:二人の探偵〜金田一耕助とフリフリさん〜
オカルトに屈した金田一耕助をあなたはどう見る
物語がミステリー要素を排してしまったため、探偵である金田一耕助にも、活躍する場面はほぼない。
探偵ものにありがちな容疑者を集めて推理を披露する場面も、犯人を指差し告発するシーンもない。それどころか、終盤では何と金田一はオカルトの前に屈服し敗北宣言までしてしまう。
「もう……これは私の手には負えない」
と力なく座り込む姿は、金田一耕助の活躍を期待した観客からはブーイングの嵐だろう。
ただ、元来金田一耕助とは、そういう探偵であるとも言える。
目の前で次々起こる殺人を未然に防ぐことが出来ず、犯人の自死すら止めることが出来ない。ただ起こったことを解明し、目の前の死者の痛ましい姿に地団駄を踏む。
石坂浩二の「しまったああ!」や、古谷一行の現場に向かう自転車で転げ回る姿など、そうした“間に合わない探偵像”を、これまで何度も映像化してきたのではないか。
その中でどの金田一にも共通するのは、探偵としての卓越した頭脳だけではない。
生存した関係者たちに対する思いやりや、その後の人生へ後押しする姿、そして、事件現場から一人静かに去る姿……かつて市川監督が自ら描く金田一を“天使”と語ったように、そうした浮世離れしながら優しく人情に溢れた姿にこそ金田一耕助の本質がある。
今作ラスト、傷ついた辰弥の手に出会いの日に借りた千円札を握らせ、
「自分のために生きてください」
と告げる粋な姿こそが、尾上松也の金田一が間違いなくかの名探偵であった証だ。
事件を解決する探偵としての役割は果たせなかったかも知れない。けれどホラー作品である今作の呪い……辰弥に巣食った痛みを最後に祓ったのは、やはり金田一耕助だったと思うのだ。
被害者遺族の痛み……フリフリさんの良改変と問題点
今作で金田一耕助に代わり、一番探偵らしい姿を披露するのは“フリフリさん”と呼ばれる女性である。
彼女は原作や従来作品で強烈な印象を残す濃茶の尼の役割をスライドしたキャラクターであり、濃茶の尼と言えばあの「祟りじゃあ〜!」の台詞を発した人物でもある。
そんな八つ墓村の代名詞たるキャラクターを改変するのはかなり勇気がいることだったとは思うが、このフリフリさんこそ、今作のテーマを体現する存在でもある。
彼女は幼い頃に要蔵の凶行で家族を亡くし、精神に変調をきたした人物として描写される。
彼女の特徴的な服装が、田舎の村社会では“おかしなもの”として映るというやや差別的な田舎描写や、彼女のモデルが実在の通り魔殺人の犯人である《ひらひらさん》であることには思うところはあるものの、彼女が抱く田治見家への怨みや、村の親子連れをじっと見つめる姿などには、従来の作品に欠けていた要蔵の32人殺しの裏にある遺族の痛みが描写されていて非常に良い。
濃茶の尼もまた要蔵に家族を奪われた設定があったはずだが、これまでそれは初登場時に美也子の台詞で軽く触れられるだけで、彼女自身の痛みに焦点が当たることはなかった。
要蔵の凶行の回想で描かれた少女がフリフリさんの過去であり、彼女がその怨みから田治見家の過去や尼子義孝にまで調査の手を伸ばしていたというのも、彼女の尋常ならざる執念を感じさせる。
その調査ノートが、幼い頃に家族との思い出を書き記したノートであることも含め、その表現にはこれまでの作品とは一線を画したテーマがあったように思う。
だからこそ、終盤での集団心理の暴走にもまた、一つの筋が通るのである。
演出論②:村社会の同調圧力と現代社会の闇を描いた清水崇流村ホラー
96年版映画から派生した八つ墓明神の御神楽
今作では“村社会の同調圧力”もテーマとなっており、そこには現代社会のSNSによる私刑などへのアンチテーゼも含まれている。
『犬鳴村』〜『牛首村』と《東映恐怖の村シリーズ》を監督してきた清水監督らしいアレンジであり、同時に、低予算がウリの一つでもあった村シリーズを金田一耕助という巨大IPの中で思う存分に描き切ったとも言える。
このテーマを何より表しているのは、やはり八つ墓村明神で行われる御神楽だろう。
これは96年版の落武者謀殺シークエンスから着想を得たものだと言い、同作で村人たちが被っていた仮面に、より恐ろしく、陰湿な意味合いを持たせたものだと言う。
今作では“ホラー担当”として演出に清水監督作品ではお馴染みの川松尚良が参加しており、御神楽と村人がお守りとして村中に飾り付けている面のアイディアを、清水監督と二人で練り上げていったのだとか。
猿、犬、蛙、鳥、鼠、魚、狐、女の8面を落武者たちに着けさせ、村人たちはそれとは別に、同じ模様の“無私の面”を着けて彼らを殺す。
面をつけることで殺す相手を特定しながら、その表情を見え難くして罪悪感を消し去る。殺す側は皆で同じ面を着けることで、誰がトドメを刺したのかすら曖昧になる。これはまさに現代のSNSの匿名性、同調圧力の恐ろしさを具現化したものであり、その匿名の暴力がもたらす万能感は、数百年前から決して変わることがない。
傷つける相手を象徴とし、傷つける自らの手から主体を奪う……現代のインターネット社会がそれを生み出したわけではない。同じことは、鍬と刀が人を殺す武具であった時代から何ら変わっていないのだ。
作品の舞台が2020年代である意味を最も感じさせる演出でもあり、またこの悪趣味さには清水監督のホラー監督としての矜持が感じられた。
“無私の人”の暴力性と暴力の空想化
日本全国どこでも携帯やインターネットが当たり前にある世界で、終盤田治見家を襲う村人たちが戦国時代のように面を被るのは何故か。
彼らはそうすることで、その暴力を正当化する。暴力を空想化し、ゲーム化し、自分ではないものになり、祭り事として扱うことで、痛みから目を逸らそうとしている。
正義への妄信から、人が死を選ぶまで攻撃の手を止めない現代社会そのものを表しているかのようで、そこで先頭に立たされるのが、実際に痛みを背負ったフリフリさんであることもまた象徴的だ。
彼女の痛みもまた、村人に消費され、神輿に乗せられる。そして、実際には誰も彼女を守らず、その身体は久弥の刃に貫かれるのだ。
戦国時代の落武者たちの殺害方法や、息絶える際の動きは着けられた面の動物を思わせ、鎌を刺されて背中をかくようにバタつく姿、吊るされ足を震わせる姿、飛び跳ねながら網にかけられる姿は、死のシーンをイメージとして描きながら、じっとりと嫌らしい湿り気を感じさせる。
御神楽は祭事でありながら、この時の動きを完全にトレースしており、村人たちは数百年、それを神事として、娯楽として楽しんできた。
最も恐ろしかったのは、
田治見への怨みを末裔にまで背負わせた尼子義孝か。
僅かな金貨欲しさに友人を売り渡した田治見庄左衛門か。
それとも、自分には関係ないと見ないふりを続けた、八つ墓村の無私の村人たちだったのだろうか……。
キャラクター考①:被害者となった里村兄妹
残酷な心霊・殺害シーンを彩るのはまさかの典子……
今作現代の殺害シーンも、この御神楽と落武者たちの死に様に重なるように作られている。
そして、原作読者を何より驚かせたのが、この殺害シーンの中心にいるのが里村兄妹であった点だ。
今作での里村兄妹の役割は“被害者”である。
今作はそもそも、事件を成立させるには容疑者候補どころか被害者候補も少ない。
辰弥は鶴子の死を起因に自ら八つ墓村に来るために井川丑松は存在すらせず、八つ墓村での第一の殺人:久弥毒殺も起こらない。
本来なら終盤でその死が発覚する久野医師が鶴子に続く第二の被害者となる以上、この後被害者役として説得力が生まれるのは必然的に里村兄妹しかいなくなる。
久野医師が遺体発見のみで流されてしまうため、里村兄妹の死に様こそ清水演出の見せ場となり、狐の面を被らされ、御神楽の舞と同じように身体をくねらせる典子の死の不気味さは、まさにミステリーがホラーに侵食された合図だ。
灯りが明滅し、御神楽の面が現れたり消えたりといった描写を挟みながら、突如暗闇から出現する人影に鎌を背に突き立てられる。その遺体すら煙のように消え去り、兄である慎太郎は典子の死顔を見ることすら出来ぬまま、自らも鼠の面を被らされ、バラバラに切断されて殺される。
本来であれば、物語の上で重要な意味を持つキャラクターを、“映像として”重要なシークエンスに置き換えてしまったこの演出は、清水監督からの2026年版八つ墓村開村宣言でもあったのかも知れない。
ただ、それにしても原作読者待望の映像化とも言える里村兄妹の扱いとしては思い切りが良すぎたのではないだろうか。筆者は唖然としながらもその振り切りに笑いすら込み上げてきたが、受け入れられないと怒る権利は全原作愛読者にある。
このキャスティングによる原作準拠の八つ墓村も観てみたい
またそれとは別にしても、今作の里村兄妹の人物像は二人のキャラクターの新しい側面を描いていたため、もう少し活躍が見たかったというのも本音である。
慎太郎は村の青年団の中でも特別に人望のある人物であり、原作と違い八つ墓村の中心人物だ。その慎太郎が外から来た“他所者”であり、仲間たちの家族や知人を殺した要蔵の息子である辰弥に対して不信感を隠そうとしていないのは、辰弥-慎太郎の対立軸として新しい関係性が描けていたように思う。
典子にしても、そんな慎太郎たちを窘めながらも、辰弥の味方を積極的に出来るわけではない姿に、村の閉塞感に抗う2020年代の若者らしい人物像があった。
村の若者たちの不躾な会話に乗らず、辰弥を気遣う様子には原作典子の面影もきちんとあり、このキャストで原作通りの八つ墓村を演じるのも観てみたかったものだと思う。
キャラクター考②:呪われた血の物語に抗うということ〜森美也子の悲劇
呪いによって人生を支配された美也子の一生
今作は“村の因習と同調圧力”を描き、同時に過去の因縁からの脱却を描く愛の物語でもある。
尼子義孝の器として選ばれた美也子は、夫を亡くした後に八つ墓村に残った自分の決断に、ずっと迷いを抱えていた。地元に帰ることも出来たのに村に残り、血の繋がらない田治見の人間と過ごしてきた美也子の数年は、決してラクなものではなかったはずだ。
村人からは田治見の関係者という色眼鏡で見られ、田治見の家では部外者として扱われる。
それでも、そんな自分の決断には何か意味があったはずだと信じ、彼女は懸命に生きてきたのだと思う。
今作の美也子が辰弥の面倒を見るのは、他の翻案作品とはまるで意味合いが違う。
今作での彼女は田治見の遺産に興味があるようには描写されておらず、辰弥を異性として愛したわけでもないだろう。
ただ、自分と同じように家族を喪い、田治見の家に巻き込まれた辰弥を放っておくことが出来ない……そんな存在として美也子は描かれていたように思う。
演じた堀田真由と辰弥役の奥智哉の年齢差もあるためか、二人が並ぶシーンでは姉弟のようにも見えてくる。
だからこそ、今作はこれまでの八つ墓村翻案作品の中でも最大の悲劇となる。
美也子は、自身が尼子一族の末裔であることも知らず、殺人を犯した自覚もない。彼女が探してきた“村に残った意味”は、自分自身の決断ではなく、尼子義孝による呪いの一環であり、彼女は尼子の復讐に身を捧げるために生まれてきた。
村の中で、劇中現在唯一心を許す辰弥と金田一を探し、二人が会話している部屋へ入ろうとする……そこでは二人が自身の知り得ない先祖の話をしており、身に覚えのない疑いを掛けられた上に……彼女はそのまま、尼子義孝にその身体を奪われてしまう。これを、悲劇と言わずして何と言えるだろうか。
呪われた血からの解放……横溝正史の原作からの正しい継承
戦国の世の男たちの争いが、遥か未来の女性である美也子の人生を奪い、そんな彼女が被らされるのが“女の面”であることも象徴的な表現だろう。
復讐する側も、される側も、現代社会においては怨む理由も怨まれる理由もない。
「僕は美也子さんに殺されるために生まれたんでしょうか……
美也子さんは、僕を殺すために八つ墓村に残ったんでしょうか」
辰弥の悲痛な言葉には、この物語の根深い痛みが滲んでいる。そしてこれは同時に、原作を大きく改変したと思われがちな今作において、かなり横溝正史作品のテーマに沿ったメッセージであるとも言える。
金田一耕助シリーズの多くには、“呪われた血の物語”が横たわっている。
近親相姦により生まれた“悪魔”の物語である『悪魔が来たりて笛を吹く』、
お家騒動による連続殺人が起こる『獄門島』や『犬神家の一族』……
そして、それら作品の多くは、そうした血の呪いから、生き残った者が解放されていくことを示唆して終わる。
今作で辰弥を救うのは、田治見の家とは血の繋がりのない、母鶴子の亡霊だ。
彼女が辰弥を捨てた理由は明示されないが、要蔵を愛した彼女が、辰弥を田治見の呪いから遠ざけるためにしたことだったのではないだろうか。
呪われた血ではなく、自分自身の生を生きること……終盤では完全に尼子義孝の器でしかなかった美也子が、火に焼かれながら最後に見せた辰弥への表情は、彼女自身が呪いを断ち切り、自らの意志で尼子義孝の魂ごと朽ちようとした決意のように見える。
彼女はあの時初めて、祖先の血と魂を振り払い、森美也子という一人の女性として決断できた。
過去の男たちの呪いに苛まれた辰弥を救ったのは、現代を生きた二人の女性だったのだ。
美也子の血縁関係は劇中出てこないのでハッキリとはしないが、ここで辰弥と美也子が死ねば、田治見も、尼子も恐らく血が絶えることになったのだろう。
先祖の遺恨は終わり、復讐は成る。
けれど、そんな終わりではなく、辰弥を逃すことを美也子は選んだ。炎に焼かれ、意志を半ば乗っ取られながら、それでも彼女は復讐の連鎖を断ち切る道を選んだのだ。
だからこそ、エンドロール後のあの追加シーンは絶望的だ。尼子義孝の復讐は終わらず、美也子の決意は穢され、彼女の肉体の形で復讐は続いていく。ホラー作品にありがちな終わり方ではあるのだが、そんな意味合い以上にホラーを感じるバッドエンドであり、現代社会における女性の立ち位置まで含めて考えると非常に後味の悪いエンディングだろう。
総括:金田一耕助初登場より80年……こんな変わり種も如何ですか?
今作はミステリー・金田一耕助シリーズを求めるとかなり問題点の多い作品であるし、原作の映像化という意味でも、現代化という意味でもその翻案がうまくいっているとは言えない。
(スマホの活用法がライト代わりなだけならば、時代は現代でなくとも同じ物語は描けたようにも思う)
ただ、それでも今作で描かれる物語の底を掘っていくと、きちんと横溝正史の原作のテーマに行き着き、どうにも嫌いになれない作品である。
八つ墓村の初入村にも、金田一耕助作品のデビューにも勧めるには憚られる。
しかし、金田一耕助が初めて誌面に現れてから80年……これまで数限りない金田一像と、そして数限りない八つ墓村が描かれてきた。
筆者もそのすべてを観ている訳ではないが、そうした様々な事件を経てきた人にこそ、今作のような変わり種は面白いのではないだろうか。
シャーロック・ホームズが銃を撃ち、アクションシーン満載で描かれる映画もあれば、現代に甦りソシオパスとして描かれたり、アメリカのNYで薬物依存を治療するキャラクターとして描かれるものもある。
金田一耕助も、今やそうした新たな一面を見せる時が来つつあるのかも知れない。
前々作にあたる『口に関するアンケート』で、“ホラーはミステリーに非ず”と言うようにまるで考察を拒否するかのような作劇をした清水監督が、まさかのミステリーの代名詞をホラーとして描き直したことにも、清水監督らしい挑戦心が感じられた。
また綾辻行人協力の下、奥智哉主演作品にhuluドラマ『十角館の殺人』(2024)で共演した小林大斗が出演したことも、個人的には非常に嬉しい。
清水監督の挑戦は、これからもまだまだ続くだろう。次はどんなホラーを描くのか……個人的には、ホラーに飲み込まれた金田一耕助シリーズも、またどこかで観てみたいものだ。
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⭐ 3.0 / 5.0
📅 2026/09/19(映画館)
👻 令和のJホラー考察レビュー

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