『口に関するアンケート』(2026)ネタバレ考察レビュー|原作改変は大成功 清水崇が語るホラーとミステリーの違い

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――食べられる……食べられる…… 祝いは呪いになり,呪いは口伝えで伝播する お疲れ様でした じゃあ,××ますね

この作品はどんな作品?

白石晃士監督の『近畿地方のある場所について』に続き背筋の短編を今回は清水崇監督で実写映画化。

原作の物語はそのままに清水監督得意のギミックや改変を加え、日本のホラーらしい後味の悪さとじんわりとした恐怖を遺す。ホラーにも答えを求める考察時代に、敢えて解答を“語り切らない”良作。

この作品はどんな人にオススメ?

☑️日本のホラーらしい後味の悪さを味わいたい人。

☑️背筋ワールドの呪いを伝播していきたい人。

☑️口は災いの元だとわかっているけど口を塞いでおけない人。

作品データ

原題:口に関するアンケート

監督:清水崇

脚本:山浦雅大

原作:背筋『口に関するアンケート』

音楽:大間々昂

インスパイアソング:オレンジスパイニクラブ

「口」

撮影:大内泰

上映時間:89分

出演者:

村井翔太:板垣李光人

杏:吉川愛

伊藤竜也:綱啓永

原美玲:MOMONA(ME:I)

川瀬健:西山智樹(TAGRIGHT)

堀田颯斗:森愁斗(BUDDiiS)

西:柄本時生

草壁:中村獅童

本レビューにはネタバレを含みます。

該当作品の他、本作原作小説についても言及有。

総文字数:9685文字

読み終わるまでの時間:約24分

目次

製作背景:ポプラ社の新しい小説販売形式にハマったヒット作家:背筋

ホラー作家背筋(せすじ)による、ポプラ社より刊行された同名短編小説を原作とした、清水崇監督の実写映画化作品。

『近畿地方のある場所について』で鮮烈な商業デビューを果たした背筋が、『穢れた聖地巡礼について』と同時期に販売した、文庫判よりも小さな豆本サイズの小説。

元々はポプラ社のweb媒体からの依頼で書かれた作品であったが、出来上がりの原稿を読んだ社内での反響から急遽書籍化が決定し、そのweb短編としての文章量に見合った新しい販売形式が発案された。

ポプラ社では兼ねてより、出版不況の中で従来の本の形に囚われない新しい形での出版物の在り方を模索しており、新進気鋭のヒット作家背筋の存在と、この原作小説の内容はそのカテゴリーにピッタリと当てはまっていたのだろう。

『近畿地方のある場所について』に続き、宝島社『このホラーがすごい!2025年版』のホラー小説ベスト20(国内編)で第4位にランクインし、発売約1か月後には15万部に到達した大ヒット小説である。

実写映画版『近畿地方のある場所について』(2025)での白石晃士に続き、本作でメガホンを取ったのは『呪怨』(2003)や『輪廻』(2005)でホラー界にその名を轟かせた清水崇。

2000年代以降の平成Jホラーブームを牽引してきた両監督を跨がる背筋の小説は、まさに令和日本の新たなJホラームーブメントの代表と言っても良いかも知れない。

原作は全63ページ、文字数も16000字程度という超短編を89分の長編映画にするということで、観る前は余計な装飾や大胆な改訂が入ることを懸念していたが、今作においてそれはいらぬ心配だった。

原作の持つ恐怖や奇妙さを最大限に映像の中に落とし込みながら、清水監督作品らしい仕掛けや恐怖をふんだんに散りばめ、原作既読者ほど驚き、じわりと嫌な後味の残る、日本のホラーらしい良作に仕上がっている。

背筋著:『口に関するアンケート』原作小説を読む・購入する

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映像論:Jホラーのあらゆる映像技術を詰め込んだ“証言”の再現度

原作特有の語り口をどのように映像化したのか

原作における物語の特徴は、ある事件に関わった人物たちの証言……その残された音声データを読者が聞いている、という体裁で物語が語られることだ。原作では各章に【201908262310.m4a】のようなタイトルがつけられ、その内容が音声データであることが明示されている。

また、この音声データという形式そのものが物語のギミックにもなっており、ここをうまく映像化していないと、原作本の面白さの核を取り損ねてしまうことにもなる。

今作において清水監督はそれを見事に映像化しており、キャストの顔のアップでの証言映像から始まり、回想の形で物語本編に入っていく構造になっている。

この見せ方が絶妙であり、原作未読の観客に対し、原作と同じ驚きをきちんと感じさせることが出来る。

序盤〜中盤の証言はあくまで首から上の、限りなく顔だけがアップになる映像を作り、背景も真っ暗なので、ある種のイメージシーンのようにも見せていくが、次第に物語の全貌が明らかになるにつれ、証言者を引きで映していき、風で髪がなびく描写などで、そこが屋外であることを明かしていく。

また、その過程で徐々に彼らが何処にいるのかが推測できるように、少しずつその背後にある“木”を見せていくのも良い演出だ。この見せ方のバランスが、ギリギリわかるかわからないか程度、翔太が足を踏み外す最後の瞬間まで、ハッキリとした答えが明かされないのも良い。

こうしたある種ミステリー的なホラーの見せ方は、流石長年Jホラーの世界にいる清水監督ならではだ。

ラストで並ぶ5人の遺体も容赦がなく、劇中の描写の通りに首が伸び、舌をだらりと垂らしたその遺体の姿は、敢えてリアリティよりもチープな人形感を残すことでよりその不気味さを表現しており、先程まで証言を語っていたその人物が物言わぬ骸と化した残酷さを強調している。

今をときめく若き俳優陣の顔を使い、こんな表現をしてしまうのだから堪らないところであるし、そんな翔太の遺体が最後にその土気色の顔のまま人形から板垣李光人の顔に切り替わり、「ご協力、ありがとうございました」で締めるエンディングにもゾクゾクさせられる。

《小中理論》のタブーを破った先駆者:清水崇による映像マジックの数々

肝試しの墓や、この物語を象徴する木についてはきちんとロケ撮影をしていると言い、そのリアルな不気味さや、映像全体から漂う湿った夏の香りが、実に嫌な感覚で背筋を撫でてくる。

CGで拡張もしているとは言うが、実際の木に蝉の抜け殻を貼り付けたという枯れ木はまさに呪われた空気感があり、雨が残りぬかるんだ地面や、墓場に打ち捨てられた様々なお供物やゴミの山が、まさにそこが現世から隔絶された異界であることを表す。

まるで観ている自分自身がぬかるんだ地面を踏みしめてしまったかのような、なんとも形容し難い気持ち悪さを感じさせるライティングやカメラワークで、観客をその場にいるかのように錯覚させる臨場感がある。

清水監督は『呪怨』シリーズにおいて、それまで日本のホラー界で定石とされていた《小中理論》を破り、幽霊を画面にハッキリ見せるというタブーを冒した先駆者でもある。

今作でもやはり、堀田と川瀬の二人が見る、“穴を掘る女”の姿をしっかりと描き、その口が開き、蝉の鳴き声が聴こえてくる様子までも克明に画面に映し出す。

幽霊があまりにも実体を持っているとその恐怖感は薄れてしまうものだが、今作におけるそれは、あまりにも異常な状態を作り出す存在であり、首の伸びた姿も蝉の声も、“なんだかよくわからないがとにかく恐ろしい”という恐怖を生み出してくれる。画面に映るそれが、確実に正常な存在ではないことが肌感覚でわかるのだ。

かと思えば、中盤で翔太が街の中で出会う杏とのシークエンスでは、翔太の肩越しの杏にピントを合わせたり、ズラしたりしながらその姿をぼかして撮るという方式も使っており、ホラーの見せ方を様々な方法論で楽しませてくれる。

《呪いの木》について調べる美玲の背後に木とぶら下がる足が現れる場面ではその足の土汚れまでハッキリと映してみたり、美玲と翔太が大学の構内で杏の姿を目撃する際には、階段の高さがわかるようなショットで、そこから見える杏の首に違和感を覚えるように撮る。

こうした様々なJホラー文脈の映像技術を流用することで、この奇妙な物語の全貌を隠しつつ、ラストの驚きに繋がる地盤を作っているのだ。

堀田と川瀬のシークエンスでのモキュメンタリー風自撮り映像は、撮らされている川瀬がまったく乗り気じゃなく、上手に撮る気がないのを表すかのようなミスショットやカメラアングルの悪さもよく表現されており、そこに映る霊も、肝心なところは映っていなかったりするのが実にリアルである。

監督本人はYouTube上の対談で「あそこだけ白石晃士を呼びたかった」と語っていたが、その手ブレだらけの映像の作りは充分に“素人臭い”ものであり、証言中の川瀬と合わせ、表には出さない本音の部分が映像から見え隠れする良い画になっていたのではないかと思う。

演出論①:細かな人物描写によって暴かれる登場人物たちの本音

今作は実写化にあたり、細かな人物描写がしっかりと書き込まれており、それが物語の背後にある“青春の泥沼”をよく表している。

特に、呪いの根源となる杏の描写は絶妙で、“サークルクラッシャー”という言葉もあるが、男性二人に対し妙に距離が近く、女性目線で言うところの“付き合っている男性の友人にいたら嫌なタイプ”といった雰囲気があまりにもリアルだ。美玲と並ぶことで如実にわかる服装の違いや、歩き方・喋り方の間が本当に絶妙で、男性がついつい騙されてしまう女性像そのままである。

これは監督・脚本のディレクションもそうだが、演じた吉川愛自身がそれを理解した上で演じているのも強みだったのではないだろうか。原作を読んでいた時にも感じた、杏という女性への薄っすらとした嫌悪感が、彼女の演技によって存分に引き出されていた。

美玲は杏とは対照的に、翔太とも竜也とも友人として程良い距離を保っているようだが、その実「杏が突然現れて」と三人の関係に割り込み、挙句に恋愛を持ち込んで関係性を変えてしまった杏を疎ましく感じている面も出ており、そんな何とも言い難い微妙な立ち位置を、MOMONAはうまく演技から伝えてきている。

また、そうした印象のすべてが後半の展開により見え方を変えるわけだが、そうなった時に説得力が出るよう、翔太や竜也と二人きりになる場面では観ている側にきちんと違和感を覚えさせる演出が取られており、後半の展開が唐突にならないように、きちんと計算づくで組み立てられていたのも見事だったように思う。

例えば、彼女が図書館で調べ物をしている際に近づいてくる別グループの男性たちの美玲への接し方を見ると、杏と美玲の関係性や、彼女の性格についても読み取りやすくなっているはずだ。

また、原作から大きく関係性が変わった堀田と川瀬の二人のやりとりも非常にうまく表現されており、まったく対等ではない支配的な人間関係の中で、堀田が焦る姿を見てほくそ笑む川瀬、という図は非常にうまい。

特に肝試しから逃げ帰った際、喫茶店で動画を見ながら、怯える堀田を見て、一瞬川瀬が驚くほど凶暴な表情で、口角を大きく上げる瞬間がある。証言の中でも語られるが、各登場人物にはそれぞれ隠していた本音があり、それが木の呪いにより、口から次々と漏れていく。

翔太にしても、最後まで残った彼が段々と余裕のない表情になって竜也への呪詛を吐露し、「最高!」と叫ぶ姿は、まさに極限状態の中で他者の目を気にせずに漏れ出た裏の顔そのものである。こうした細かな人物描写が本編の至るところに含ませてあることで、物語最大のギミックも納得感のあるものになる。

とは言え、この物語のキモは人物描写よりもむしろ仕掛けの側にあるため、原作においても今作においても、実はそこまで人間を深く描こうとはしていないように思う。

実写化にあたって彼らの関係性やその見せ方にはかなりの要素が付け加えられているが、あくまでそれはキャストの好演や演出によるもの。キャラクターとしては書き割り的な意味づけをされているだけなので、人物として魅力には欠けている。

堀田と川瀬にしろ、わかりやすいほどの“支配者-被支配者”の関係であるし、翔太と竜也の間にあったであろう葛藤も特には描写されていない。

そこはあくまで、ホラーに必要不可欠な要素ではないのだ。あくまで、この物語をわかりやすく伝播するための“素材”であれば良い。

物語論:呪いの成り立ちと清水監督お得意の時系列トリック

祝いが呪いに変わる時……呪いの木は何故生まれた?

今作の物語は、呪いの木がどのようにして呪いとなっていったか、その呪いがどのように伝播していくかが最大の争点となる。

それが原作において非常に重要なテーマであり、物語の結末を大きくズラした今作においてもそこはまったく変わっていない。その点も、非常に丁寧な実写化だったと言えるのではないだろうか。

“呪い”という言葉には、口偏がついている。

元々の漢字の成り立ちが、口に“祈る人”を意味する“兄”を合わせて出来た形声文字であり、その語源には“祝う”という言葉がある。

“祝い”は、古来には神への祈り。今作で登場する“呪いの木”も元々は“祝いの木”。

本来であれば、寺に植えられそこから場所を変える際に一緒に持って来られた神木。人々が願いを祈り、それが叶う、そんな神力を持った木だったのだろう。

しかし、神力とはある意味で、人間の意識の介入を許さないものだ。神の目線からすれば、“良い願い”も“悪い願い”も、そこには何の差異もない。ただ、在るものに力を貸すだけ。

だからこそ、ネガティブな願いもその木は叶えてしまう。

そこには「◯◯と離れたい」と言った縁切り的なものから、「◯◯が不幸になれば良い」「◯◯が死ねば良い」といったものまで恐らくあり、それを、神木は分け隔てなく叶えていった。

そうするうちに、木はいつしか“呪いの木”となった。

人に呪いをかける木……それは転じて“呪われた木”に、木そのものが呪われ、その木自体が呪物となる。言葉が物語を作り、言葉が事象を作ったのだ。

これは今作において、物語の語り部・観測者として設定された刑事:草壁と、その刑事から情報を買う記者:西が電話でその木について話すシークエンスでも明示的に表されていた。

“呪い”について話す西の背後の壁には「㊗︎完売御礼」という文字が書かれた紙が貼ってあり、祝いが呪いに変わる物語のテーマを、観ている側にも暗示させるように作られているのだ。

呪われた杏が呟いた「食べられる」という原作にない言葉もここから出てきているのではないかと思われ、長い時間をかけて、祝いは、呪いに喰われ、変質し、消えてしまった。

祝いの木は、呪いの口の中で咀嚼されてしまったのだ。

原作既読者・清水崇ファンほど騙される仕掛けがある!

今作では、原作にあった叙述トリックとは別の、もっと大きな物語の改変が行われている。その改変により、物語の見え方は、初めと終わりとで大きく変貌することになるのだ。

その改変についてなのかは断言していないが、清水監督は背筋との対談の中で、刊行された原作小説とは別に背筋が構想していた『口に関するアンケート』“B案”があり、背筋にその内容を聞いた上で今作の脚本に落とし込んだことも語られている。

それが今作のどの位置に当たるのかはわからないのだが、『近畿地方のある場所について』のように今作もまた、メディアミックスによって原作の新たな魅力を引き出したとも言えるのではないか。

まずは原作からの大きな変更点として、堀田と川瀬の肝試しの時系列が変わっている。

原作では、序盤を普通に読んでいると、翔太たちと堀田・川瀬の肝試しは同じ時系列であり、6人での肝試しだったかのように読めるように書かれているが、映画ではまずそれに関してはオミット。映像でその騙しをするのは非常に難しい上に、それ自体は物語の内容にそこまで深く関わらない。

今作の面白いのはここからで、原作では堀田たちの肝試しは翔太たちの肝試しより一ヶ月先、杏が行方不明になった後の物語であることが読んでいるとわかっていくのだが、今作ではそれを入れ替え、堀田たちの肝試しは翔太たちの肝試しより“前の出来事”になっている。

ここでまず、原作既読者ほどこの仕掛けに驚くことになる。

何故なら、原作を読んでいる者は木の下で堀田と川瀬が見た女の正体が、杏の幽霊であることを知っており、杏が行方不明になる前、彼女が生きている段階でそれが現れるのはおかしいという認識があり、その時系列のズレを疑うこともしないはずだからだ。

ただ、これも劇中にきちんとヒントはあり、墓場から木のある場所へ向かう鉄扉が、翔太たちが肝試しに行った際は開け放たれており、川瀬たちが行った際には閉じられている。単純な仕掛けではあるが鉄扉を開ける動作や、翔太が不審気に開いた扉を見つめるシーンはしっかりと描写されており、翔太の証言の際に描写されたぬかるんだ地面も川瀬たちの時にはないため、きちんと観ていれば時系列のズレにも、どちらが先、という点にも気づくことはできる。

同時にこれは清水監督の作風を知っている人も騙されやすいギミックであり、清水監督作品である『呪怨』の《呪いの家》の中では、空間が歪み時間軸がズレるという仕掛けで物語が紡がれている。

今作においても、あの墓場と木がそうした異界を作り出すという考察も出来てしまうため、そこでも騙された人は多かったのかも知れない。

5人が残した証言の音声データを聞き事件を追っている草壁もまた、観ている我々と同じようにこのあたりで混乱してくる。

彼もまた、“首の長い女=杏”という前提でそのテープを聞いていたはずが、川瀬の証言による、「バイト先の後輩に肝試しのことを話した」=その後輩が翔太である、という流れの中で、前提条件が大きく覆ってしまうからだ。原作本における読者である草壁が観客と同じタイミングで混乱するのも面白い演出である。

ここから、物語の真相についての重大なネタバレがあります。

原作比較:原作からの最大の改変とその謎に迫る……散りばめられた違和感に気づけたか

今作最大のどんでん返しにして、原作からの最大の改変点……それは物語において“呪いの理由”であり、“呪われる存在”であったはずの杏が、物語の中に存在していなかった、ということである。

翔太たちが行方不明の杏を探すために作ったチラシの写真、

肝試しの前に寄ったコンビニの監視カメラの映像……そこに、杏はいない。

画面の中で、登場人物の記憶の中で、杏という存在は不確かになり、証言で語られる物語からも、杏の存在が揺らいでいく。

翔太と竜也は、杏との交際を巡り今回の肝試しと呪いの物語に繋がったはずだった。

美玲は翔太と竜也と三人の関係の中に、杏が入り込んできたことを疎ましく思っていたはずだった。

翔太は杏ともう一度交際したいとLINEを送り、それを杏は竜也に見せ、それが原因で二人は口論になったはずだった。

これらはすべて、原作で描かれた物語であり、行方不明になった杏の遺体を、堀田と川瀬が見つける……そこから呪いの木が彼らを集め、証言へと繋がる……しかし、今作はそうはならない。

杏は、彼らの記憶に存在していない。

翔太と竜也が取り合っていたのは美玲であり、彼らは三人で肝試しに行っていた。

ここで、杏という名前が、“木”と“口”という文字から出来ているという事実が効いてくる。

勿論原作からその名前には違いなく、今作もそれをそのまま実写化したにすぎない。

しかし、こうして杏の存在が揺らいでくると、その名前の意味合い自体が変わってくる。

今作の呪いの正体自体が杏であり、杏とは木そのものでもあったのではないか、と見えてくるのである。

演出論②:物語に残された違和感と矛盾……真実は本当に劇中の通りか?

この展開があることで、物語の見え方は大きく変わる一方、ここまでの描写の中で不自然に感じていた違和感が腑に落ちていく。

また、エンドロールのクレジットを見ると、あの木の下で肝試しをした6人の中で杏だけが、姓が設定されていないことにも気づく。

彼女には“杏”という、木と、口を組み合わせた名前だけがあるのだ。

これも、証言の際に本名を名乗ってから始める原作から、彼らの物語の中にしか登場しない杏には姓を名乗る場面がないという、原作そのままの設定ではあるのだが、こうして物語のギミックが明かされると、そこにも意味ありげなものを感じてしまう。

ただし、今作の面白さというのはこれが単なるどんでん返しということだけではないのではないか?と考える余地も残されていることだ。

今作の物語は、杏の存在を本当になかったことにしてしまうと、矛盾が生じる場面がいくつかある。そもそも原作とは設定が変わっているので、原作通りに作られたシーンに矛盾が生じるのは当たり前のことではあるのだが、それを敢えて残しているのが、この物語をより面白くしているのである。

例えば、本当に四人の肝試しの際に杏がいなかったのであれば……翔太が木に願った呪いは、肝試しを順に歩いた美玲に降りかかっていたはずだ。

翔太は木に、“次に木の前を通る人間を呪い殺してくれ”と願った。

死にかけた蝉を見て、「あんな風に、幸せの絶頂の中で苦しんで死なせてくれ」と。

しかし、竜也は木の前を通らなかった。翔太と直接話をするため、他の人間を避けて話すために木の前を通らずに直接車に戻る。これは、竜也の次が杏であろうと、美玲であろうと変わらないのだ。

そうなって来ると、美玲の存在がおかしなことになる。本来であれば呪いの身代わりになるのは美玲のはずであり、あんなにも平常に木の下で証言が出来るはずがない。

美玲が霊感があったために肝試しに行くことを渋り、墓地に着いた際も木の下まで行くことを迷っていたというのも、ここに“杏がいる”前提がなければ成立しなくなる。

男女3人のグループで、1人がそこに行くことを望まず、かつその女性に対して2人の男が並々ならぬ想いを抱いている状態で、果たして“肝試しに行く”というイベント自体が成立するだろうか。

杏の不在が明かされてからの車の中では、美玲が本来杏の位置にいたことも明かされるが、あの場面も、あんなに和やかな……杏の役割を美玲が演じることは可能だろうか。

作家論:ホラーはミステリーに非ず

今作の物語はそこに解答を出すことはしない。

矛盾が生じた物語はそのままに、何とも言い難い嫌な後味を残して物語は閉じられる。

だが、それこそがホラーの醍醐味とも言えるのではないだろうか。

この演出が、まさに清水監督や白石監督が全盛期を過ごした、90〜00年代のJホラーの在り方とも言える。

背筋の原作もそうだが、近年のホラーというものには、“考察”という要素が強く意識されているように感じる。

ホラーの背後にはきちんと解答があり、材料を揃えて推理すれば、物語の答えに行き着くように描かれている。

しかし、それはある意味で、ホラーというジャンル自体の変質にも繋がったのではないだろうか。

ホラーとは異界と繋がり、奇妙な出来事に、正常な世界にいた人間が巻き込まれてしまうことだ。そこでは我々の世界の理が通じるはずもなく、あり得ない事象に人は成す術をなくす。

『リング』でビデオテープを観た者が7日間で死んでしまうのも、『着信アリ』で自分の番号から電話が掛かってくるのも……そして、『呪怨』の家の中で、時空が歪んでしまうのも。

そこには確かに物語としての理由付けがあり、推理可能な謎は存在している。しかし、ミステリーと違いその謎を解いたところで、呪いを回避する術などない。異界に巻き込まれたが最後、その異界のルールに取り込まれた者は、呪いをただ受け入れるしかない。

ホラーは、ミステリーではない。

故に、論理的な解決など本来しなくても良い。

今作では、そうした意味で敢えて矛盾を残し、物語の解答を出すことを拒否したようにも思えるのだ。

だからこそ、この映画は観終わった後に、まるでかつての、90年代終わり頃の『世にも奇妙な物語』の一篇のように、釈然としないモヤモヤがぼんやりと胸にのし掛かってくる。

杏は、本当に“いなかった”のだろうか?

木の呪いに取り込まれ、存在が揺らぎ、時空や空間を跨いでそこにいる怪異そのものになったのかも知れない。

杏が呪いに「食べられる」ことで、彼らの記憶からも、世界からもいなくなり、杏は呪いの伝播の役となった。

そんな風に作品を観ることも出来るのである。

総括:口は災いの元……あなたはこの物語を誰かに話しますか?☑️

今作は原作の短編を見事に膨らませ、新しい解釈を加えた名作だ。

清水監督らしいアレンジと、若手キャスト陣の人間味のある演技が加わり、本を読んでいる時以上の、嫌な後味と恐怖を感じることができる。

原作にしろ今作にしろ、「口は災いの元」。伝播することで呪いは力を増し、人々の口から出る言葉を受け取り、またそれは大きく広がる。

“呪われた木”の呪いは強くなり、延々とその呪いを伝播し続ける。

観ている我々の視点である草壁刑事は最後に、「死ねよ」と木の前で呟くことで呪いの伝播役となった。持っていたチラシの木は杏の姿に変わり、その呪いはやがて西を蝕むだろう。

もしかしたら次は、西が“食べられる”番かも知れない。

そして、今作はそれを我々にも強いてくる。

最後のアンケートにある「この物語を人に話したいですか?」という質問。

証言者たちは音声データにこの物語を語ることで、草壁に呪いを伝播した。

では、今この映画について語っている筆者はどうだろう?おそらく筆者もまた、今この文章を読む誰かに呪いを伝播したのだ。

本が映画になり、コミカライズもされ、その物語を語る者がいることで、呪いは決してなくならず延々と伝わり続ける。

その度に、祝いが呪いに変わっていったように、今作が原作からの変質したように、物語も変わっていくのだろう。

『近畿地方のある場所について』に続き、Jホラーの巨匠が手掛けた今作は、同作と同じように呪いの伝播の役割を果たした。

背筋の描く呪いの物語は、こうして“伝播する”ことを目的とするかのように書かれ続けている。

次の作品はどうなるだろうか。

まだ映像化していない原作には『穢れた聖地巡礼について』が残されており、新作『目が』も映画と同時期に発売されている。

日本にはまだ、中田秀夫監督も黒沢清監督もいるのだ。

ああ……食べられる。

失礼します。お疲れ様でした。

評価/鑑賞日

⭐ 4.0 / 5.0
📅 2026/07/04(映画館)

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