Sam Raimi’s Spider-Man 全作品レビュー1
――悩んで,迷って,蜘蛛の巣みたいな青春に躓いて……そんな僕らのヒーローがスパイダーマンだった
この作品はどんな作品?
00年代サム・ライミ監督による『スパイダーマン』シリーズの第1作目。
00年代を代表するスーパーヒーロー映画の金字塔であり、現在のアメコミ映画の基準点を作り上げた作品。映像は古いがVFX黎明期の夢が詰まったアクションと、不器用な少年少女の青春物語の普遍性が素晴らしい。
この作品はどんな人にオススメ?
かつて誰かのためにヒーローになりたいと願った人。
ほろ苦い青春の日々と、恥ずかしくなるほど純な悩める日々を、今でも大切にしている人。
蜘蛛の糸が腕から伸びる、重力を無視して壁を登れる、と当時本気で信じた人。
→『スパイダーマン』を観る・購入する
作品データ
原題:Spider-Man
監督: サム・ライミ
脚本:デヴィッド・コープ
原作:Marvelコミック『スパイダーマン』
スタン・リー/スティーヴ・ディッコ
音楽:ダニー・エルフマン
撮影:ドン・バージェス
上映時間:121分
出演者:
ピーター・パーカー 《スパイダーマン》:トビー・マグワイア
ノーマン・オズボーン 《グリーン・ゴブリン》:ウィレム・デフォー
メリー・ジェーン・ワトソン:キルスティン・ダンスト
ハリー・オズボーン:ジェームズ・フランコ
ベン・パーカー:クリフ・ロバートソン
メイ・パーカー:ローズマリー・ハリス
J・ジョナ・ジェイムソン:J・K・シモンズ
ジョセフ・”ロビー”・ロバートソン:ビル・ナン
ベティ・ブラント:エリザベス・バンクス
ホフマン:テッド・ライミ
フラッシュ・トンプソン:ジョー・マンガニエロ
※本レビューにはネタバレを含みます。
『スパイダーマン:ノー・ウェイ・ホーム』(2021)
『スパイダーマン:アクロス・ザ・スパイダーバース』(2023)についても言及有。
総文字数:13297文字
読み終わるまでの時間:約33分
製作背景:2000年代初期、アメコミ映画の基準点が書き換えられた
サム・ライミ監督による、00年代実写版『スパイダーマン』シリーズ第1作目。
MCU『スパイダーマン:ノー・ウェイ・ホーム』(2021)では“ピーター2”、ファンからは“ライミ版”とも呼ばれる、トビー・マグワイア演じるスパイダーマンのデビュー作である。
スパイダーマン映像化の歴史は古く、初の実写化作品としては、アメリカで放映されていた子供向け教育番組『The Electric Company』(1971〜1977)のミニコーナー『Spidey Super Stories』(1974〜1977)がある。
続いて、CBSドラマ『アメイジング・スパイダーマン』(1977〜1979)と、そのパイロット版であるTV映画『スパイダーマン』(1977)が製作され、これが長編実写化作品としては初めての作品であった。ニコラス・ハモンドが演じたこのスパイダーマンは、2026年現在DVDやBlu-rayといったソフト化も、主要サブスクでの配信も確認できず、公式な手段で全話観ることが叶わない。こちらも、そろそろマルチバースの虚無空間から救い出されて欲しいものだ。
80年代に入ると、DCコミック原作の実写映画『スーパーマン』(1978)の成功に影響を受け、Marvelは再び本格的にスパイダーマンの映画化企画を進めていくことになる。その中にはミュージカルや巨大ロボットバトルなど、信じられないような案もあったとされている。
当然こうした企画は次々と棄却され、1985年には当時キャノン・フィルムズを率いていたメナヘム・ゴーランとヨーラム・グローバスが映画化権を取得した。当時この二人には原作コミックの知識がなく、スパイダーマンを“蜘蛛の化け物”と解釈し、監督には『悪魔のいけにえ』(1974)や『ポルターガイスト』(1982)のトビー・フーパーも検討されていたのだとか。
その後、原作者スタン・リーの要望により脚本が書き直され、企画も仕切り直されるも、ゴーランが21世紀ピクチャーズを設立したことで、スパイダーマンの映像化権もそちらに引き継がれることになる。
しかし、21世紀ピクチャーズでの映画製作の資金を得る過程で、TV放映権、ホームビデオ権、劇場公開権等は様々な製作会社に売却され、これが後に各社を巻き込む大規模な訴訟に繋がってしまう。
そんな中、経営悪化していたMarvelが1996年末に破産申請をするなどの流れもあり、最終的にスパイダーマンと関連キャラクターの映像化ライセンスを、今作を製作したSonyが取得することになる。こうして、ようやく企画は動き出したのだ。
ゴーランが劇場公開権を売却したカロルコ・ピクチャーズ期には『タイタニック』(1997)のジェームズ・キャメロンが書いた脚本草案があり、Sonyに権利が移ってからも、『エイリアン3』(1992)のデヴィッド・フィンチャーの企画が検討されるなど、その歴史には名だたる監督の名が並ぶ。
その後、現在でもスパイダーマン関連作品のプロデューサーを務めるエイミー・パスカルの強い推薦によりサム・ライミが監督として起用され、かつてのキャメロンの脚本草案の内容を参考に、デヴィッド・コープが今作の脚本を書き上げた。
公開された2002年周辺は、まさに映画界の大転換期。
『タイタニック』や、『マトリックス』(1999)の公開で、CGによる映像進化は広く知れ渡り、映画表現の幅は大きく広がった。そんな中、同じくMarvel原作である『X-MEN』(2000)でのミュータントの表現により、いよいよ世界は“カートゥーンに実写が追いついた”ことを目の当たりにしたのだ。
今作は興行収入8億$を突破し、当時のスーパーヒーロー映画の最大興収を塗り替えた。勿論今観れば、CGにもアクションにも甘いところはある。けれど、アメコミヒーロー映画好きは、きっと何度でもここに戻ってくる。今作は『X-MEN』と合わせて、まさに現在のアメコミ映画の基準点なのだ。
原作比較:Marvelを代表するヒーロー:スパイダーマン
Marvelのヒーロー像の新しい扉が開かれた時代
原作でのスパイダーマンの登場は古く、1962年の『Amazing Fantasy #15』まで遡る。これは当時SF・怪奇系の短編アンソロジー誌として刊行されていた『Amazing Adult Fantasy』が誌名を変えた最終号であり、既に休刊予定だったこのコミック誌に、唐突に現れたヒーローがスパイダーマンだった。
1950年代……第二次世界大戦以降のアメコミ市場では、スーパーヒーロー作品が流行遅れになっていた。60年代に入りDCが新たなヒーロー作品で人気を取り戻す中、Marvelは1961年にファンタスティック・フォーを生み出し、そこに続くヒーローとして生まれたスパイダーマンは、読み切りのはずが瞬く間に人気を獲得し、『The Amazing Spider-Man』として連載が開始されることになる。
これまでのスーパーヒーローシリーズと違い、主役となるヒーローが10代の若者……青春の痛みや苦悩を抱え、その弱さを隠すことなく闘うその姿は、家族をテーマにしたファンタスティック・フォーが切り開いた“不完全で人間らしいヒーロー像”を更に押し進め、この独自路線がその後のMarvelの方向性を決定づけた。
歴史あるキャラクターなため、スパイダーマンのオリジンや設定については、後年次々エピソードが追加されていき、中には《マルチバース》の根幹を成すようなものさえある。
(こちらは『マダム・ウェブ』のレビューを参照)
ただし、今作公開は2002年5月。《スパイダー・トーテム》を始めとする神秘的設定や、マルチバースへの接続が本格的にスパイダーマンの世界に登場するのは、2001年4月の『Amazing Spider-Man Vol.2 #30』以降なので、今作製作時点でのピーター・パーカーのオリジンはまだまだシンプルに表現可能なものだった。
コープの脚本とライミの演出は、原作の要素をうまく改変し、組み合わせ、シリーズの一作目に相応しいスピーディーな展開で実写版スパイダーマンのオリジンを作り上げている。

後に原作にも逆輸入された《オーガニック・ウェブ》の概念
ピーターが蜘蛛に噛まれるまでが10分、同時進行でノーマン・オズボーンの会社での立ち位置を描き、グリーン・ゴブリンが目覚めるまで20分も掛からない。ヒーローとヴィランのオリジンを同時に描き、それぞれに映画の物語として新しい設定も付与している。
当時のライミは『死霊のはらわた』(1981)などホラー作品の監督として知られていたが、実は大のコミックファンで、スパイダーマンの大ファンでもあった。今作の監督起用にあたっても前述のパスカルの推薦のほか、ライミ自身のスタジオへの直談判によって決まった面もあると言う。
MJをピーターの幼馴染にし、高校と大学のエピソードをまとめて、ハリーを高校からの同級生として改変することで、物語はシリーズを通して、この三人の関係を軸にした“青春群像劇”としての色合いが強くなった。
大学入学後のピーターとハリーをノーマンが面倒を見ている設定にしたのも、ヴィランとの関係に擬似的な親子関係を作り、ベンおじさんの死と対比させることにより、物語に一本の軸を作ることに成功している。
原作での放射能実験によって変異した蜘蛛が、遺伝子操作実験によるものと改変されたのは、2002年という時代での見え方を考慮したものだろう。
スパイダーマンの基本的な能力に関しては原作の通り。そんな中、原作から大きく改変された要素が、ピーターが腕から出すウェブである。
原作のウェブは、あくまでピーターが持ち前の科学的知識と技術で開発したものであり、《ウェブシューター》という機械から射出される人工糸である。しかし、今作ではキャメロン草案に残っていた要素を流用し、ピーターの身体から直接糸が出る設定としたことで、当時コミックファンの間ではかなりの物議を醸した。
ライミ自身「必ずしも裕福ではないピーターにそんなものを開発する資金があるだろうか?」という疑問があったと言い、蜘蛛に噛まれた変異の一つとして表現されたこの設定は、今シリーズ最大のオリジナリティにもなった。
結果として、後に原作Marvelのクロスオーバー作品『Avengers Disassembled』関連エピソード: 『The Spectacular Spider-Man Vol.2 #20』では、一時的とは言え、原作ピーターも今作同様の有機ウェブの能力を得ている。
その後も原作マルチバースのスパイダーマンの中には、こうした自らの肉体から射出するウェブを使う者も出てきており、今作の設定は正式に原作にも逆輸入されたと言えるのだ。
アクション論:CG/VFX表現の黎明期……コミックは遂に現実になった
映画館の帰り道、僕らは手から蜘蛛の糸を出そうとした
アクションと映像に関しては、さすがに古さを感じないと言えば嘘になる。スパイダーマンを象徴する《ウェブ・スウィング》。NYの街をまるで空を飛ぶように舞うスパイダーマンの姿は、そのほとんどがCGモデリングで作られたアニメーションだ。
公開当時は確かに、それは演じたトビー・マグワイア本人、もしくはスタントによる実写のようにも見えていた。けれど、2026年現在の視点で見れば、それはどう見てもCGモデル……画面の実写背景からは明らかに浮いている。
2002年と言えば、まだ家庭用ゲーム機でも《PlayStation2》などが最新鋭だった時代である。
筆者はまさしく、PSを初代からリアルタイムで体験した世代であるが、当時のPS2のグラフィックの進化は、まるで本当に新しい世界が開けたように見えたものだ。
《スーパーファミコン》などの、平面的で明らかに絵でしかなかったドット画から、実写と見紛うばかりのリアルなCGアニメーションへ……今作のスパイダーマンのCGは、まだまだ発展途上で、見ようによってはそんなPS2時代のゲーム画面のようにも見える。
実写の中でアニメーションが動いているという不自然さは、現在のVFX技術とは比べ物にならない。
けれど、そこには当時、映像化不可能だったコミックのキャラクターが実写の世界で表現された……世界が変わる瞬間の夢があった。
子供たちが愛し、大人たちが愛してきたキャラクター。このスパイダーマンを始めとして、そんなキャラクター達がこの世界に次々と現れてくれるのではないか。そんな期待がこの映画には詰まっている。
だからこそ、当時今作を観た子供たちは自分の手首から蜘蛛の糸を出そうとし、壁に手をついて登ろうとして両親に怒られていたのだ。
そんな記憶がある人は、筆者と同世代なら必ずいるはずだ。
劇中ピーターが初めて自らウェブを試すシークエンス……「シャザム!」といったDCコミックの小ネタまで挟むあの姿は、今作を観た帰りの子供たちそのままだ。
同時に、これはウェブシューターではなくオーガニック・ウェブだったからこそ真似しやすかったとも言える。特別な道具がなくても、自分の手首から何かが出るのでは……?自分はある日、特別な存在になれるのでは?今作独自の設定は、観ている人間とスパイダーマンをより近づけた。
そうした意味で、大人も楽しめる真正面のエンタメ映画でありながら、スーパーヒーロー映画が理屈よりも楽しさを優先した子供のものであった、そんな明るい時代もまた思い出させてくれるのである。
未成熟なVFXが広げた可能性と、泥臭い肉体のアクションのバランス
当時のグリーンバック/ブルースクリーンの撮影では、スパイダーマンの赤と青のスーツが同化してしまう問題があり、グリーン・ゴブリンも同じように、緑色のスーツが背景と同化してしまう難点があった。
こうした理由から、両者の空中戦は同じ背景で撮ることが叶わず、別々に撮った映像素材を後から合成している。当然そこにも不自然さは残り、グリーン・ゴブリンに関しては、それがスーツを着た生身の人間だからこそ、グライダーで街を滑空する姿は余計に画面との質感差が目立つ。
この時代のCG/VFXの不自然さは、映像の技術論として必ずしも否定すべきものではない。
ミニチュアや特撮で、頭の中にある世界を最大限に再現しようとしていた時代から、
新しい技術によって、これまで作り得なかった世界を無限に創造しようとする時代への過渡期……
そこには映像作家達の挑戦と、同時に純粋な興奮、喜びも伝わってくる。
多くのシークエンスでCGが使われる一方、肉体的なアクションの魅力もきちんと残っている。
蜘蛛に噛まれた翌日、ピーターがMJのランチをキャッチする場面は、すべてマグワイア本人によるアクションだそうで、トレイを手に貼り付け、計156テイクもの撮影を重ねて成功させている。
グライダーを後ろ回りのジャンプで避けるスパイダーマンの撮り方や、スパイダー・センスのスローモーション演出には『マトリックス』の“弾丸避け”や《バレットタイム》からの影響も見て取れ、やはり当時進化しつつあった映像表現、そのエポックメイキングの広まりが、アクション映画にもたらしたものの大きさを感じる。
終盤のグリーン・ゴブリンと殴り合うシーンは、かなり“もっさりした動き”にも見えるが、進歩的な映像に溢れた今作の中で、最後に行われる闘いが、マスクが破れ、半分素顔が見えた血塗れのピーターによる、肉体的な殴り合いであるというのも良いのだ。
スパイダーマンはどこまでも人間であり、“親愛なる隣人”だ。このマスクが破れかけたスパイダーマンの意匠もまた、今後のスパイダーマン関連作品に脈々と受け継がれていくことになる。
演出論①積み重ねられた人物描写で、キャラクターに個性が生まれる
丁寧な演出に見え隠れするホラー作家:サム・ライミの毒
今作ではどちらかと言えばコミックファンの立場から、その作家性はやや抑え目にしていたようにも見えるが、ノーマンがグリーン・ゴブリンの人格と対話するシーンや、感謝祭での一幕には独特の緊張感があり、そこにはライミのホラー作家としての演出法が見え隠れしている。
音を鳴らしてナイフを擦り合わせるノーマンの姿はまさに、ジェイソンやフレディのそれであり、グリーン・ゴブリンがメイおばさんを襲うシーンも、夜の祈りの最中に表れる姿は悪魔に近い。
そう考えると、やや前時代的で記号的表現に見えていたMJの“叫ぶヒロイン像”も、ある種のホラー的表現と言えるのかもしれない。
かぼちゃ爆弾で骨になって死亡するオズコープ役員の姿も、まるでティム・バートンの『マーズ・アタック!』(1996)のようで、そうしたB級感にもまたライミの個性が漏れ出ているように思う。
(今作劇伴がダニー・エルフマンなのも余計にその感覚を強める)
そうしたギミックはありつつ、今作の演出は、基本的には非常に丁寧で場面転換がスムーズだ。
冒頭、オープニング映像の蜘蛛の巣がアニメーションから実物へと切り替わるシーンや、グリーン・ゴブリンの爆破した爆風がピーター達の高校の卒業式へと繋がるシーン……日常と非日常が移り変わる演出は、まさにスパイダーマンの世界観そのものと言える。
場面の取捨選択に無駄がなく、前半30分で主要な登場人物がどんな性格で、何に悩み普段どんな生活をしているのかが、観ている側は自然と理解出来る。
勿論、中盤で一度スパイダーマンを拉致しながら、正体を知りたいはずのグリーン・ゴブリンが無抵抗の相手のマスクを決して外さないなど、気になる点もなくはないのだが、そのあたりはご愛嬌と言ったところだろう。
オタク少年:ピーター・パーカーの“普通さ”
ピーターは学校内での立ち位置が低く、科学に関する知識だけはある、まさに典型的なナード……こちらも現代的な目で見ると、やや画一的な表現にも見えるが、そこにリアルな悲壮感はないので、コメディとして受け入れやすい。
朝からバスに乗り遅れ、必死に追い着こうとする姿、バスに乗っても誰も隣に座らせようとはしない……MJが振る手に反応するも、そもそもそれは別の友人に向けられたもので、勘違いしていること気付かれることすらない。
親友であるハリーにも呆れられるほどのオタク知識を披露するも、好きな子には学級新聞の写真を頼むことすらしどろもどろだ。
MJに声を掛けられないピーターに痺れを切らしたハリーの、自分が話した知識を受け売りした会話術に不満げな顔をするも、一方で「これが会話か……」と感心もしていそうな表情。
蜘蛛に噛まれるまでの映画開始10分で、こうした細かい描写でピーターのキャラクター像を積み上げていく。
スパイダー・パワーを得たとて性格が変わるわけではないので、その後大学生になって再会したMJに話し掛ける際も「夕方にランチでも」と訳のわからないことを言ってしまう。
今作はヒーローのオリジン・ストーリーである以上に、そんな一人のナードな少年の、ままならない青春の物語だ。
恋に、友人との関係に悩み、そして、大切な家族に時に思春期の反抗で言わなくても良いことを言って後悔する……マグワイアのピーターはそんなごく普通の少年だった。
だから彼は、自らが得た力を持て余す。ライミは、そんなスパイダーマンの青春の軌跡をカメラに収めたのだ。
物語論:大切な者を喪うことで、スパイダーマンはヒーローになる
親友の父を奪い、親友を欺いた少年
ライミ版『スパイダーマン』のシリーズは、三部作を通して青春の痛みと成長を描いた物語だったと言える。だからこそ、ヴィランにはピーターの人生に深く関与した者が多く選ばれたのではないだろうか。
今作でのグリーン・ゴブリン=ノーマン・オズボーンは、その雛形であり……今シリーズを通して、彼の死は延々とピーターを苦しめることになる。
スパイダーマンのオリジンとして何よりも重要な、ベンおじさんの存在……両親を亡くしたピーターにとって父代わりの存在であり、その死が、ピーターをヒーローとして目覚めさせた。
「大いなる力は、大いなる責任が伴う」
“大切な者の死を経験することで、ピーター・パーカーは真の意味でスパイダーマンとなる”
後に『スパイダーマン:アクロス・ザ・スパイダーバース』(2023)では《カノン・イベント》と呼ばれるようになる、ピーター・パーカーがスパイダーマンになるための通過儀礼。
そんなベンおじさんの死を、今作ではノーマンの死と対比して描いていく。ノーマンはピーターに目を掛け、高校卒業後はハリーと共に住む場所を用意し、恐らくある程度の生活援助もしていたのだろう。
彼もまたピーターにとっては父代わりであり……そして、何より親友が心から愛し、尊敬する父親だった。
ピーターは今作で、その死を目の当たりにする。ノーマンの死は自滅だ。彼はスパイダーマンを狙ったグライダーにより自らの身体を貫き、原作『The Amazing Spider-Man #122』を再現するように死を迎える。
しかし、原作と違うのは、ノーマンがここでピーターに最悪の呪いを遺した点だ。
「ハリーには言うな」
それは、息子への最期の愛であり、ピーターへの心からの願いだっただろう。
けれど、それはピーターにとっては、たった一人の友人に永久に隠し事をし続けなければならないという呪いになった。
ノーマンの遺体をオズボーン邸に運び、そこでハリーに姿を見られたことで、ハリーにとってスパイダーマンは、
“愛する女性の心を奪い”
“愛する父の命を奪った”憎き仇となる。
ラストでハリーはピーターに「(もう)家族は君だけだ」と語る。
ピーターはこの時点で、親友を失っている。彼はたった一人の親友に、これから一生、嘘を吐き続けなければならない。
ベンおじさんを喪ったピーターには、ハリーの気持ちは痛いほどにわかるはずだ。ピーターもまた、今作劇中でベンおじさんを殺した強盗を、結果として死に追いやっているのだから。
最愛の女性の愛に背を向け、見守ることを選んだ少年
今作はあまりにも哀しいヒーローの誕生譚だ。
そして同時に、冒頭のナレーションでピーターが言う通り、「ある女の子にまつわる話」でもある。
ピーターが最初に“ヒューマン・スパイダー”になろうとするのは、フラッシュが親に買ってもらった新車に、MJを乗せるところを見たからだ。ピーターはスーパーヒーローになりなかったわけではなく、好きな女の子のヒーローになりたかった。
始まりは、そんな些細なこと。車を買う金を求めた、ただの思春期をこじらせたティーンエイジャーの欲求だったのだ。
そうでない人もいるのは重々承知の上だが、10代の若者にとって、“恋愛”とは人生の一大事を占めるものと言って良い。
好きな子のために強くなりたい、
好きな子のためにお金を稼ぎたい、
好きな子を守りたい。
非常にはた迷惑で安い妄想だが、幼い頃、好きな子が乱暴な何者かに襲われ、それを助ける強い自分、を夢見た人は、特に男性には少なくないのではないだろうか。
ピーターにとっても、行動原理のすべてはMJへの恋心に繋がる。
幼い頃に「天使」とさえ思った少女……小学校の学芸会で演じたシンデレラのことを今でも忘れられないほどに、ピーターにとってMJは人生の全てだった。
だからこそ、今作のラスト、ようやく本当の自分を見てくれたMJから、ピーターは自ら手を放さなくてはならない。
親友の父の命を奪い、親友を欺いたピーターは、グリーン・ゴブリン=ノーマンが遺した言葉を理解している。
「必死に戦っても 嫌われるだけだ」
ピーターは今作で、スパイダーマンであるために、親友も、誰より愛した女性も失ったのだ。
Marvelが生み出したスパイダーマンというヒーローは、明確に10代の若者として描かれた。
『バットマン』のロビンなど、10代のヒーローはそれまでにも存在していた。しかし、サイドキックではなくメインのヒーローとして、かつ、ごく普通のティーンエイジャーとして学生生活を送りながらヒーロー活動を行うヒーローは、初登場した1960年代には珍しい存在だったのだ。
だからこそ、スパイダーマンは多くの読者の心を掴んだ。コミックを読む層の大多数である子供たちが、自分に近い存在、自分と同じ、不器用でどうしようもなく青臭い悩みを持つ存在として捉えたキャラクター。
ライミは長年のファンだったからこそ、スパイダーマンに感じたそうした初期衝動を形にできたのかもしれない。
キャラクター考①:MJはいつも、自分の居場所を探していた
劣悪な家庭環境の中で、自分を肯定できなかった少女
今作を青春映画たらしめているのは、間違いなくヒロインであるMJの存在ありきだ。確かにキルスティン・ダンストが演じたMJは、ヒロインとして必ずしも評価の高いキャラクターではない。
今作でも、フラッシュ→ハリー→スパイダーマン→ピーターと相手を変えていき、そうした彼女の在り方に否定的な意見が出るのは、致し方がない部分もあるとは思う。
特に序盤においては、完全に単なる性格の悪い暴力者としての役割しかないフラッシュと付き合っていたというのが、MJの印象をかなり悪くしている。けれど、そんな彼女もまた、今作の主人公の一人とも言えるのだ。
MJの家庭環境は非常に劣悪であることが示唆されている。父親は朝から酒を求めてMJを口汚く罵り、夜になれば両親の喧嘩の声は隣家のピーターにまで届いている。
父親はMJと母の双方を並べ、比較し、その上で罵詈雑言を捲し立てており、両親の関係は冷え切っていると言うより、完全に破綻しているようにも見える。
これは、実の両親ではないが常にピーターのことを第一に考えているメイおばさんとベンおじさんとの対比にもなっている。
MJは、フラッシュの前では彼に合わせて明るく振る舞い、後にハリーと付き合った際には、自身が女優としてのオーディションに落ち、カフェでアルバイトをしていることをひた隠しで彼と交際している。
パーティーで「何故黒を着て来なかった?父が好きなのに」とハリーに言われて不満気な顔を見せるも、実際にノーマンと会う際には黒のドレスを身に纏う。
彼女は根本的に自信がなく、自らを肯定することが出来ない少女として描写されている。
彼女は周りに合わせることで身を守っているが、実際はピーター以上に孤独感を感じていたのではないか。だから、彼女はピーターと話した直後、迎えに来たフラッシュにまるで人格が変わったように明るい声で近づいていく。
何故MJはピーターを選んだのか?
MJにとって、抑圧された家庭で居場所を作るには、父を出来る限り怒らせないようにするしかなかったのではないだろうか。
だから彼女は、誰にでも合わせる術を学ばざるを得なかった。
愛のない父親からの罵声に耐え、愛を求めていたから、自分を愛してくれる誰かをいつも探していた。
だからこそ、自ら愛したスパイダーマンとのキスは彼女にとって特別なものだったのかも知れない。雨の中、ウェブで逆さ吊りのスパイダーマンとのキスシーンは、今作を象徴する名シーンの一つだが、MJにとってあれは、初めて誰かに自ら愛を表明したシーンでもあったのかも知れない。
MJの肩を抱くフラッシュや、パーティー会場でキスをしようとするハリーを拒否するシーンがそこまでに差し込まれていたのは、その対比の意味もあったのだと思う。
それでも、MJが最後に選ぶのは、ピーター・パーカーという、冴えない幼馴染だ。
力自慢しか取り柄がないフラッシュでも、
ご機嫌取りにプレゼントをくれるハリーでも、
不思議な力で彼女を守ってくれたスパイダーマンでもない。
ただずっと彼女を信じ、彼女の演技や生き方を肯定し、愛してくれていたピーター。
ピーターは作中、MJを決して否定しなかった。彼女の夢も、見栄を張って吐いた嘘も、痛みも、悲しみも何も否定しなかった。
MJは家に居場所がなく、女優の夢を追いかけてNYに逃げてきた。それは、間違いなく家族からの逃避の意味もあっただろう。
けれど、そこにも居場所はなく、付き合ったハリーも、ノーマンの語るMJへの暴言を否定してくれなかった。
彼女は、本当はいつだって孤独を感じていたのだろう。
ピーターだけが、彼女の孤独を肯定してくれる存在だった。遠くから助けに来る謎のヒーローではなく、どんな時も隣にいてくれた弱い幼馴染が、誰よりも彼女の孤独に寄り添っていたのだ。
彼女は最後のキスで、ピーターとスパイダーマンの正体に気づいたような素振りを見せる。
やはり今作は最初から最後まで、「ある女の子にまつわる話」でもあったのだ。
キャラクター考②:ハリーは、父のようになれない自分を誰よりも知っていた
ピーターとハリーは、互いにコンプレックスを抱え合っている
ハリーもまた、今作の主人公の一人であり、MJと同じように孤独を抱え、それを隠して生きている。
冒頭から、ハリーは父が乗る車の中で、「公立高校の生徒がこんな車で来れないよ」と、人目を避けるように現れる。ハリーは私立校を退学し、公立校へ編入してきた……それは、父の期待を裏切る行為でもあっただろう。
ハリーは父を尊敬し、父のようになりたいと夢見ているが、ピーターが語る科学的知識には興味を示さず、父の論文も恐らく理解は出来ていない。彼にとって、それは幼い頃から大きなコンプレックスだったはずだ。
ピーターがノーマンの論文の感想を述べたときも、卒業式でノーマンがピーターへの期待を語ったときも、ハリーはあからさまに表情を曇らせている。「(ピーターを)養子にしたがるぞ」という言葉には、そんなハリーの複雑な心境が見え隠れしている。
ピーターはハリーに対して、そのコミュニケーション能力や、後のMJとの交際に関してもコンプレックスがあっただろう。
けれど、ハリーもまた同じように、自分の父からの信頼と評価を得たピーターに対し、コンプレックスを募らせていたのではないだろうか。
こうしたハリーの“落ちこぼれ”設定にしろ、MJの父親との不仲にしろ、実は今作のオリジナルではなく、原作にきちんと存在する設定で、今作はそれを物語に合わせて改変し、テーマ軸にうまくまとめ上げている。
Sonyのスパイダーマン関連作品は、実はこうした原作改変が実に巧みなのである。
ノーマンの目に映らない自分を誰より知っていた息子:ハリー
ノーマンは今作において、必ずしも原作のようにハリーに冷淡な父親ではなく、きちんと愛も、関心も向けているように描かれる。
中盤では「お前を放っておいて」という台詞もあるが、母親がいない家庭の中で、ハリーには充分な愛をもって接していたのではないだろうか。
だからこそ、余計にハリーは父の足元にも及ばない自分を許せない。ノーマンの期待に応えられない自分……いや恐らく、“期待されていない”ことにさえハリーは気づいていたのではないだろうか。
グリーン・ゴブリンとしてのノーマンは、スパイダーマンにこう言った。
「(この街の多くは)ごくわずかな特別な者を下から支えるためにいる」
グリーン・ゴブリンの人格は、必ずしもノーマンのすべてではないだろう。しかし、彼の心の中には、どこかそうした選民思想に近いものがあったのではないだろうか。
ハリーはそれを感じ取り、理解していたからこそ、自分が決して父の“理想の息子”でないこともわかっていた。
だからこそ、大学に入ってからの彼は必死に、父の目が自分に向くよう、ピーターと勉学に励んでいたのだろう。
今作の三人の少年少女は、本当にあまりにも青臭く、泥臭く、人間らしい悩みを抱えながら三角関係を作り上げている。
そして同時に面白いのは、スクール・カーストにおいて三人の中で最底辺であろうピーターこそが実は、誰よりも“愛された存在”であるということだ。
父親に愛されず、愛を探し求めたMJ。
母親は家を出て行き、父親の期待には応えられないハリー。
だからこそ二人は、ピーターにどこか負い目を感じながら、惹かれてもいたのだと思う。
演出論②:“親愛なる隣人”スパイダーマンがもたらしたもの
今作は少年少女の青春の物語であり、同時に、そんな彼らが生きるNYの物語でもある。
“親愛なる隣人”スパイダーマンは、観ている我々にとっても、劇中世界の人々にとっても身近な存在だ。
秘密のベールに隠れたヒーローではなく、隣にいて、いつでも守ってくれる存在。そんな気楽さと身軽さが、スパイダーマン最大の魅力でもある。
今作には、NYの人々のイキイキとした生活が描写されている。
スパイダーマンの噂をし、スパイダーマンを語り、スパイダーマンの歌を歌う市井の人々。中盤で描写されるそんな人々は、グリーン・ゴブリンからすれば、“特別な者を支える”踏み台でしかない。けれど、今シリーズでは、そんな彼らがスパイダーマンを救う姿も、幾度となく描かれていく。
今作のラスト、グリーン・ゴブリンとの戦闘においても、地上に落下させられそうになったゴンドラを川を渡る船が助け、人々はスパイダーマンを助けるためにグリーン・ゴブリンに石を投げる。
あのスパイダーマン憎しのJ・ジョナ・ジェイムソンですら、ピーターを守ることで間接的にスパイダーマンを救っている。
スパイダーマンは一人であるはずなのに、まるでNYの街とチームであるかのように闘うのだ。そして同時にこれは、この時代の、アメリカが描く物語の大きな転換点でもあったのだと思う。
今作の公開は2002年5月……撮影は2001年1〜6月の間で行われているが、そこから公開までの間……アメリカでは後に《9.11》と呼ばれる、アメリカ同時多発テロ……ワールドトレードセンターとペンタゴンに、ハイジャックされた旅客機が激突するという、大規模なテロ事件が起こっている。
今作のNYにも当然ワールドトレードセンターの映像はあり……こうした状況下でそれをすべて削除するため、大幅な再編集、再撮影も行われたと言う。
これは、アメリカ……いや世界にとって、当時あまりにも大きな事件だった。
誰もが知る、NYの象徴とも言うべきビルに旅客機が吸い込まれていく……その映像が、世界中のメディアで流された。現実とはとても思えない光景……映画が新しい映像体験を生み出す中で、現実がフィクションを超えてしまった。
今作の脚本が書かれた時期は事件とは無関係だ。けれどアメリカはこの事件以降、混迷を極める社会への分断や恐怖を乗り越えるように、“市民の連帯”も、創作物の一つのテーマとなっていったように感じる。
その中で、“親愛なる隣人”は一つの希望になり得たのではないか……あの時代を経験した筆者としては、そんな風にも思ってしまうのだ。
総括:2000年代ヒーロー映画の金字塔にして、あまりに眩しい青春偶像劇
今作は00年代を代表するスーパーヒーロー映画であり、今のアメコミ映画ブームの先駆けとも言うべき金字塔のような作品だ。
しかし物語の中身は、誰もが普遍的に感じる青春のほろ苦い痛みと愛おしさが詰まった、ただただ不器用な男女の青春群像劇だったのだとも言える。
同時に、これは00年代に映画や、エンターテイメントの文化の中に新しい表現が芽生えていった、その黎明期の代表作でもあるのだ。
娯楽も、時代も何もかもが変わり始めていた。社会が変わり、ツールが変わり、情報伝達の方法も変わり、時代の変化の強い潮流が来る、そのまだほんの少しだけ前……その中心にスパイダーマンという存在がいたからこそ、今でも今作は忘れられない名作として歴史に刻まれ続けているのではないだろうか。
今作はこれ一作でも充分すぎるほどに楽しめるが、ここから始まる三部作の最初の一作としても、あまりにも完璧な幕開けである。
そして、ここから三作の中で、何度もピーターは大切なものを喪い、傷つき、それでもヒーローとして立ち上がり続ける。
そんな“親愛なる友人”だからこそ、シリーズが終わって15年近く経って描かれたその後の姿に、人々は心から感動したのだと思う。
次作では、ヒーローと自身の人生との間で迷うピーターの、その決断が描かれる。
⭐ 4.0 / 5.0
📅 2026/07/13(Disney+)
“あなたの親愛なる隣人”になりたい人は観る・購入する
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