『クレイヴン・ザ・ハンター』(2024)ネタバレ考察レビュー|SSU最終作で描かれた、哀しい血族の決別と受容

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Sony’s Spider-Man Universe全作品レビュー6

――呪われた血を受け入れるか、拒否するか……コンプレックスは人を変えるのか ヴィランの誕生譚であり、兄弟の共生の終焉の物語

この作品はどんな作品?

2年延期の末公開されたSSU最終作。スパイダーマンのヴィラン:クレイヴン・ザ・ハンターのオリジン作品。

アメコミ×『ゴッドファーザー』風味の重厚な物語にSSU初のR指定となるシビアな演出が映えるも、シリーズの凋落は取り返し不能に……。作品の出来は最高とは言えないものの、アクションにも物語にも見所多数。

この作品はどんな人にオススメ?

家族=ファミリーというテーマのギャング・マフィア映画に惹かれる人。

肉体的で野生的なアクションシーンに心躍る人。

SSUというシリーズの最後を見届けたい人。

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作品データ

原題:Kraven the Hunter

監督: J・C・チャンダー

脚本:アート・マーカム

マット・ホロウェイ

リチャード・ウェンク

原作:Marvelコミック『クレイヴン・ザ・ハンター』

スタン・リー/スティーヴ・ディッコ

音楽:ベンジャミン・ウォルフィッシュ

エフゲニー&サーシャ・ガルペリン

撮影:ベン・デイヴィス

上映時間:127分

出演者:

セルゲイ・クラヴィノフ《クレイヴン・ザ・ハンター》:アーロン・テイラー=ジョンソン

セルゲイ(少年時代) :リーヴァイ・ミラー

カリプソ:アリアナ・デボーズ

カリプソ(少女時代):ディアアナ・バブニコワ

ディミトリ・クラヴィノフ《カメレオン》:フレッド・ヘッキンジャー

ディミトリ(少年時代):ビリー・バラット

ニコライ・クラヴィノフ:ラッセル・クロウ

アレクセイ・シツェビッチ《ライノ》:(アレクセイ)アレッサンドロ・ニヴォラ

(ライノ) チ・ルイス=パリー

ザ・フォーリーナー:クリストファー・アボット

セミョン・チョーニィ:ユーリー・コロコリニコフ

本レビューにはネタバレを含みます。

総文字数:12354文字

読み終わるまでの時間:約31分

目次

製作背景:実写化を待望されながら、数え切れない計画変更に巻き込まれたキャラクター

J・C・チャンダー監督による、『スパイダーマン』シリーズのヴィラン:クレイヴン・ザ・ハンターを主役とする、《SSU(=Sony’s Spider-Man Universe)》シリーズ第6弾にして、2026年現在最終作。

今作は本来SSU第4作目になる予定で製作が始まっており、正規の公開順であれば、『ヴェノム』2作と、『モービウス』と今作のローテーションで上映されていたことになるだろうか。

(『ヴェノム』→『モービウス』→『ヴェノム:レット・ゼア・ビー・カーネイジ』→『クレイヴン・ザ・ハンター』)

クレイヴンの実写化構想も遡ればかなり古く、サム・ライミの降板なく予定通りに製作が進んでいれば、『スパイダーマン4』に登場する構想もあった。

シリーズがリブートしたことでその話は白紙に戻ってしまったが、2017年に後のSSUの計画が本格発表されるより以前、『アメイジング・スパイダーマン2』(2014)を起点に《シニスター・シックス》のスピンオフの構想が練られていた段階で、既にその一角に据えられていたほどには実写化が待望されていたキャラクターでもある。

同作監督であるマーク・ウェブもこの企画には興味を示していたが、やはりこのシリーズも興収・批評両面での問題からリブートされ、クレイヴンの実写化はSSUの始動まで待たれることになった。

クレイヴンのキャラクター使用を求める声は 、実はMCUの側からも出ており、『ブラックパンサー』(2018)の監督ライアン・クーグラーは同作へのクレイヴンの登場を望みSonyへの交渉も行っていたと言う。ただ、当時の企画段階ではSonyは自分たちのシリーズとMCUの接続を考えておらず、スパイダーマン関連キャラクターの権利をMCUに預けることは叶わなかった。

その後MCU『スパイダーマン:ファー・フロム・ホーム』(2019)の監督ジョン・ワッツもまたMCUスパイダーマン3作目のヴィランにクレイヴンの登用を考えていたが、これも、MCUスパイダーマンが本格的なマルチバース・サーガへ移行する中で企画が変わり、実現することなく終わっている。

今作の脚本はSSUの計画が本格化した2018年からリチャード・ウェンク中心に執筆が進み、2020年にはアート・マーカム&マット・ホロウェイも加わり、リライト作業は大凡終了していた。

(ちなみにマーカム、ホロウェイ両名は『モービウス』の脚本リライトにも、ノンクレジットで参加している)

同年には監督としてチャンダーへの交渉が始まり、2021年、主演のアーロン・テイラー=ジョンソンと共にチャンダーも正式にキャスティングされた。

2022年初頭には撮影が始まり、主要な撮影工程も年内には終了し、今作は2023年1月の公開を目指していた。しかし、その後2023年の《WGA(=全米脚本家組合)》と《SAG-AFTRA(=全米映画俳優組合)》のストライキによって、編集作業や脚本クレジットの調整、プロモーション活動にも遅延が生じ、最終的には『マダム・ウェブ』や『ヴェノム:ザ・ラストダンス』の公開日との兼ね合いもあり、延期を繰り返した今作はSSU最後の作品となってしまう。

当然その間に再撮影も行われており、恐らく掛けられた予算も、当初の予定を大幅に超過していたはずだ。

今作の興収は約6200万$。SSU史上最悪の成績を叩き出し、製作費1億1000万$規模の作品としては大赤字を記録してしまう。その結果をもってSSUは本格的にリブート……と言うより、現時点では“打ち切り”という言葉に近い状況に陥っている。

2026年2月にはSony上層部のトム・ロスマンの口から実質的なシリーズの終わりが仄めかされ、現時点で今作以降のSSUの計画もすべてが凍結してしまったようだ。

実写化が待望されながら、幾度となく計画の変更に巻き込まれた今作……しかし、単体映画として観ると、シリーズ随一の重厚で荒々しい物語が語られ、映像もアクションも非常に見応えのある作品である。公開当時SSUそのものへの期待値が大きく下がっていたが、そうした先入観をなくして観ると、新たなヒーロー映画の形として楽しめる人も多いのではないだろうか。

原作比較:実は原作設定の取り入れ方が非常に巧みなSSU

原作の長い歴史を家族とヒロインを軸にまとめたオリジン

原作におけるクレイヴンの登場は古く、『The Amazing Spider-Man #15』(1964)が初出であり、SSUのキャラクターの中でも最古参に近い。

当然そのオリジンも幾度となく上書きされ、後年になるほど設定は増えていくが、今作ではクレイヴン・ザ・ハンターというキャラクターの誕生譚を家族の物語にまとめ上げ、カリプソをヒロインとしてそのオリジンに絡めることで、一本の映画としての整合性を作り上げている。

原作でのクレイヴンも狩りの名手であり、基本的に武器の類は使わず素手で動物を狩っていくが、今作では狩猟者であった父への反発か、動物は狩りの対象ではなくどちらかと言えば自然の中で共に過ごす友人であり、彼が狩るのは密猟者など人間の側に設定された。

この設定により、SSUシリーズにおける“ヴィランのダークヒーロー化”もより強調され、父との確執や生き方の違いが表現されている。

原作では《ロシア革命》の影響でNYに逃げ込んだという設定があり、その長寿の理由付けとしてアフリカのハーブや特殊な調合の血清などにより筋力を強化し、老化を圧倒的に遅らせているというものがある。

今作ではカリプソの一族相伝の秘薬により死にかけたところから蘇生し、現在の人間離れした能力を手に入れたことになっているが、原作においても、元々特殊能力の類は持っていなかったクレイヴンに、超人的な力を与えたのがブードゥー教の司祭であったカリプソである。

またこれも後付けされた設定ではあるが、原作のクレイヴンにはワカンダを追放された呪術師:アジャ・オリシャの儀式により能力を覚醒したという過去がある。今作ではそうした要素を一つにまとめ、カリプソとアジャ・オリシャの役割を統合することでワカンダの設定を省いている。SonyとMarvel間での、使用できるキャラクターや用語設定の問題もあるだろうが、この辺りのキャラクター史のまとめ方は、やはり非常に巧みであると言わざるを得ない。

トーテムという裏設定があった?SSUがシリーズとして繋がろうとしていた名残

今作で最も重要となるのは、このカリプソの秘薬の他に、クレイヴン・ザ・ハンターとして能力を覚醒するにあたって“ライオンの血液”が必要となっていた点だ。これは、長い原作シリーズの中でも、一度も語られていない、今作独自の設定である。

SSUは、『ヴェノム』以外のキャラクターのオリジンについて、全作品である共通点があった。

コスタリカの吸血コウモリを求めた『モービウス』、

ペルーの不思議な蜘蛛と超能力者:ラス・アニャラスの調査に向かった『マダム・ウェブ』、

そして、ガーナへと伝説のライオンの狩猟に向かった今作。

ヴェノム以外の物語は、すべて主要登場人物が海外へ“動物”を求めて旅立つシークエンスから始まっているのだ。

こうした設定のほとんどは原作には登場しない実写版オリジナルの設定・場面であり、特に今作においては、カリプソの秘薬だけでも充分に説明がついたクレイヴンの能力に、わざわざライオンの血液が体内に入る、という、『モービウス』のコウモリ血清や『マダム・ウェブ』の蜘蛛に噛まれるといったものに近い設定を与えている。

これは、偶然ではなく意図的な設定変更と思われ、この演出は、SSU全体の物語に《トーテム》を取り入れるために行われたものだったのではないだろうか。

トーテムについては『マダム・ウェブ』のレビューで詳しく述べているが、後年この設定がスパイダーマンの世界に加わったことで、スパイダーマンのヴィランに動物モチーフが多いことの理由付けがされることになる。

彼らは“純粋で完璧なトーテム”とされる蜘蛛という存在への本能的な嫉妬や警戒から動物のモチーフを選び、それがスパイダーマンへの執着や敵対に繋がっているという設定が生まれたのである。

SSUにスパイダーマンは一度も登場することはなく、それが批判の的にもなっていたが、シリーズは常にスパイダーマンとの繋がり・共生を模索していた。今シリーズではヴィランの誕生に動物の要素を強く意識させ、『マダム・ウェブ』にトーテムの設定の一部を取り入れることで、このスパイダーマンへの因縁を演出しようとしていたのではないだろうか。

トーテムの設定はマルチバース全体の設定にも関わっており、もしもこれをうまく活かすことが出来れば、マルチバースを束ねる壮大なスパイダーマン・サーガも描けたはずだ。

偶然か必然か……伝説のライオン“ザー”に隠されたイースターエッグ

今作のクレイヴンのオリジンには父親であるニコライとの確執も大きく関係しているが、ニコライが“伝説”と呼ぶライオン:ザーもMarvel原作から持ってきたものである可能性が高い。

Marvelの初代社長であるマーティン・グッドマンが刊行したパルプ誌『Ka-Zar #1』(1936)で登場し、その後Marvelの初号『Marvel Comics #1』(1939)に登場する、デヴィッド・ランドというキャラクターを育て、相棒となったライオンの名が《ザー》なのである。

これはあくまで小ネタ的なお遊びではあるとは思うのだが、デヴィッド・ランドは後にカ=ザールと名乗り、この名は原作でクレイヴンの息子と関わりのあるキャラクターへと引き継がれていく。

SSUの各作品はこうして並べてみると、かなり細かく原作のオマージュを織り交ぜ、それぞれの作品のテーマにうまく落とし込んでいるのではないだろうか。

今作ラストで能力に目覚め、カメレオンとなるディミトリにしても、“どこかで改造手術を受けた”ということが語られるが、もしこれも動物由来のものであるなら……SSUの未来の《シニスター・シックス》に、トーテムの設定が関わってきた可能性は充分にあっただろう。

勿論、『モービウス』のポストクレジットで登場したバルチャーはMCU側のキャラクターであり、こうした設定は存在していない。

現状“たまたまそう見える”だけで、SSUのこの先に予定されていた『エル・ムエルト』や『ヒプノ・ハスラー』がトーテムと関係があったとはどうしても思えないのだが、ここでシリーズが終わっているからこそ、こうした見え方が出来てしまうというのが面白く、SSUのシリーズレビューで語ってきた通り、このシリーズは必ずしも原作を軽視していたわけではないのではないか、と思わせるのである。

アクション論:アーロン・テイラー=ジョンソンの肉体美とJ・C・チャンダーのスピード感ある編集

多様でありながら、“撮りたい画”が明確なアクションの数々

今作はここにきてSSU初のR指定作品となり、主演のテイラー=ジョンソンが大幅な増量とトレーニングを行った上で撮影に臨んだということで、アクションシークエンスの見応えはシリーズでも最高に肉体的でワイルドだ。

そもそも作品自体が非常に硬質でバイオレンスなマフィア・ギャング映画の質感を持っており、そこに半分野生に還ったかのようなクレイヴンが乱入してくるわけで、画面は黙っていても見応えのあるものになる。

冒頭、ロシアの刑務所に潜入し、脱走する場面から、クレイヴンの人間離れしたアクションと、血飛沫舞う残酷な殺人劇がこれまでのSSUにはない雰囲気を楽しませてくれる。

クレイヴンの能力として、基本的なアクションに目新しいものがあるわけではないのだが、チャンダーの撮る画は非常にスピード感があり、大作映画らしい迫力とスケール感で観ている側を飽きさせない。

また、このシークエンスの終わりと、中盤のトルコ修道院への潜入もそうだが、今作にはどこか007シリーズのような、スパイ映画的な要素も盛り込まれている。

修道院では音もなく敵兵の背後に忍び寄り、吹き矢での殺人、人の倒れる音すらカバーしての潜入など、昔ながらのスパイ・アクションが存分に楽しめ、かつクレイヴンが最後には肉体を駆使し、生身で銃弾をかわしながら敵を殲滅していくので、そこはやはりスパイ映画よりもスーパーヒーロー映画らしい非現実感で期待を裏切らない。

今作は上映時間約2時間の中にバランスよくアクションシークエンスが挟まれ、そのどれもが違う魅力を持っている。『ヴェノム:ザ・ラストダンス』はその多様なアクションがただ散漫であった印象だが、今作ではクレイヴンというキャラクターの能力値に対し、チャンダーが撮りたい画を明確にして画面を作っているのが伝わり、そこが映画としての出来上がりに差をつけている。

ディミトリの部屋に忍び込むなど、建物が映るシーンでは上からの俯瞰ショットやローアングルを効果的に織り交ぜ、高さや距離を感じさせることでクレイヴンの人間離れした動作を観客にハッキリと示していく。

特にディミトリの誘拐犯を追い掛ける中盤のカーアクションと、ヘリにぶら下がる空中戦のシークエンスは圧巻の仕上がりであり、当然CG合成も多用してはいるだろうが、野生児:クレイヴンの肉体的なアクションの魅力のすべてが詰まっている。

細かなカット割に、テイラー=ジョンソンの肉体を活かした激しい動きが画面を彩り、映像が非常に派手で、これぞアクション映画!と実にワクワクさせられる。

映画全体の作風にそぐわなかったライノ戦のパワーバトル

ただし、アクションとしてのピークはその中盤で終わってしまい、最終盤のザ・フォーリナーやライノとの戦闘アクションが地味に映ってしまうのはやや肩透かしだ。

ライノはここでようやくその能力のすべてを解放し、原作コミックに近い姿で登場するわけだが、今ひとつその強さは発揮されず、むしろ知恵だけで戦っていたここまでの方がよっぽど強敵に見えてしまうのは完全にヴィランの見せ方に失敗している。

ザ・フォーリナーにしても、劇中その催眠能力は圧倒的で、ここまで凡そ弱点らしい弱点がないように見えていた男が、カリプソの不意打ちのボーガンで退場してしまうのは拍子抜けだ。

こうしたラストバトルの尻窄み感には、今作全体の作風も影響していると思われ、物語はここまで、基本的ラインが重厚でシリアスなマフィア・ギャング映画の型を取ってきた。

だからこそ、その中で異物のように暴れ回るクレイヴンの凶暴性が際立ち、ライノがそれに対して知の力を駆使する現代的なギャングとして応戦する面白さがあったのだ。

ザ・フォーリナーにしても、必ずしもパワー系ではなく、サイコな魅力を放ちながら、その能力によって相手が気付かぬうちに殺しを遂行するというキャラクターとして描写されてきたはずだ。

こうした演出やキャラクター描写の数々が、どうにもスーパーヒーロー映画のラストに求められる大規模アクションとの噛み合わせが悪かったように思う。結果として、そのフォーマットに無理矢理に当てはめたことでそれぞれのキャラクターの魅力が損なわれ、アクションのキレもやや落ちてしまった。

本編では最終的にカットされてしまったが、「クレイヴンは動物を操って獲物を狩るらしい」というザ・フォーリナーの台詞もあったようで、終盤のバッファローの大群の突撃にはその名残もあるが、これは当然CGなので、CGのライノがCGの牛に跳ね飛ばされるという終幕になる。ここまで肉体的なアクションを売りにしてきた今作としては、そこが少し寂しくも感じてしまうところだ。

演出論①:SSUに『ゴッドファーザー』を持ち込んだ成功と弊害

目指した物語とスーパーヒーロー映画フォーマットの乖離

今作はこれまでのSSUとも、既存のアメコミヒーロー映画ともかなりカラーの違う作品で、それが演出としてうまくハマっている部分とハマっていない部分が顕著に出ていたように思う。

“家族”をテーマにマフィア・ギャングを描く物語には『ゴッドファーザー』(1972)などの影響も感じられ、そうした目指した作風と、“スーパーヒーロー映画のフォーマット”にどうしても乖離が出てしまっている。

ディミトリのクラブで突然に始まる銃撃戦、腕に受けた銃創に酒をかけて応急治療をするニコライなど、その荒々しいシーンの数々はまさしくバイオレンス映画の定型だ。

ピアニストでもあるディミトリを拉致し、その指をわざわざ切り落とす、といった表現や、ライノの勢力拡大のため、敵対組織の構成員同士で銃を向け合わせた忠誠心のテストなど、その残酷さは筆舌に尽くし難いものがあり、R指定故の刺し傷や血飛沫のアップ、クレイヴンの鼻齧りなども含め、その映像表現には『ヴェノム』シリーズにあったコミカルなフィクションがない。

しかしながら、クラヴィノフ家を単なる名家ではなく、裏社会で暗躍するマフィアとして描き、カリプソの現在を弁護士にするなどリアリティラインを原作コミックからかなり上げる一方で、ヴィランにライノを設定し、その変身描写に関してはかなり杜撰な処理で、急にリアリティラインが下がるあたりには、SSU特有の雑さや、シリーズ構成としての難しさも確かに感じてしまう。

クレイヴンは現在何かしらのチームを構成して裏組織や密猟者を狩っているようではあるが、そのチームメイトに関しては何の説明もなく、後半は一切登場しないのも気になるところである。

シリーズはスパイダーマンの呪縛に囚われ続けていた

クレイヴン=セルゲイの母が心を病み、幻覚を見て譫言を言ったり、それがセルゲイのトラウマになっているという描写も、それ自体は物語の中で非常に苦い味わいを残す。

しかし、その母のトラウマに蜘蛛の要素が入ってくることで、シリーズ恒例のスパイダーマンとの繋がりを何とか模索した痕跡が感じられ、相変わらずSSU製作陣の苦労が偲ばれてしまう。

母とのトラウマと重ねることで、仮にスパイダーマンと繋がらないにしても物語上の意味はきちんと出てはいるが、母が恐れるものが蜘蛛である理由は特別にないので、ここはやはりどうしても無理を感じてしまうところだ。

『ヴェノム:レット・ゼア・ビー・カーネイジ』でのクレタスが潰した蜘蛛よりは、本筋に絡んだ匂わせではあったものの、やはり全作品において“スパイダーマンの呪い”からシリーズは決して逃げられなかったことの証明であるようにも見える。

結果として最終作となった今作で蜘蛛が“恐怖の象徴”として表現されたことにも意味ありげなものを感じてしまうが、こうした演出を見るにつけ、やはりもう少しうまくシリーズを構成出来なかったものかとは思ってしまうのだ。

物語論:歪んだ弟のコンプレックスと決別が描くクレイヴンとカメレオンのオリジン

シリーズの幕引きは、家族の共生の終わり

物語は、クラヴィノフ家の“家族の物語”だ。それはどうしようもなく歪な絆の物語であり、SSUに通底してきた“共生”の物語の終わりでもある。

これまでのSSUの物語は、他人同士の重なり合いを描いてきた。

エイリアン(=よそ者)であるヴェノムとエディ、

同じ施設で同じ病気に冒され育った義兄弟であるモービウスとマイロ、

居場所のない孤独な女性たちが擬似家族となるマダム・ウェブ:キャシーと未来のスパイダーウーマンたち……

今作のセルゲイ/ディミトリ/ニコライには、初めから他者にはどうしようもない“血統”という絆がある。

自身がそれを否定しようと、家から離れようと、身体に流れる血は入れ替わることはない。今作は、その血統を受け入れることと、その中で共生が否定されることの両方が描かれる。

今作がSSU最終作となってしまったのは結果論でしかない。本来であれば、公開順も違っていたはずで、この先にもまだまだ予定していた作品はあった。故に、これはまったくの偶然で、製作陣が意図したことではないだろう。

にも関わらず、シリーズの幕引きを飾る作品の終わりが、血を分けた兄弟の決別、共生の終わりで締め括られてしまうことが、あまりにも出来過ぎていて運命的に感じてしまうのだ。

兄と比べられ続けた弟は、誰でもない者になることで未来を得た

セルゲイとディミトリの兄弟には、初めから大きな誤解があった。

セルゲイは弟を心から大切に思い、ディミトリも兄を信用している。横暴な父の英才教育に耐えられたのは、互いの存在があったからで、互いに守り合って生きてきたからだろう。

しかし、この二人の育ち方は、やはりどこか歪だ。

二人が共通の思い出として語り、セルゲイ=クレイヴンのアジトとなるロシアの辺境……そこで母とキャンプをした思い出が二人にはあるが……その母とは、セルゲイの母であり、ディミトリの母ではない。

ディミトリはニコライがメイドと不貞を働き生まれた子であり、正式な妻の子ではないのだ。

男性と違い、女性にはハッキリと、“自分が産んでいない子”を認識することが出来る。

兄弟と母に同じ思い出があると言うことはつまり、セルゲイの母は、自分の子ではないディミトリと生活を共にすることを、ニコライによって強要されていたということである。

セルゲイの母の自殺の原因は劇中ハッキリとは語られていないが、こうした生活が、彼女の精神を蝕んでいったというのは想像に難くない。

序盤の回想シーン、ザーの狩猟のためにアフリカに出向いた際にディミトリは「母さんに会いたい」とこぼし、セルゲイは「俺もだ」と応える。けれど、この二人が思い浮かべているのは、本当に同じ顔なのだろうか?

セルゲイには、不貞の子として生まれ、兄へのコンプレックスを持つ弟の気持ちが、真の意味では理解出来ない。

ニコライはディミトリを常にセルゲイと比べ、弱い存在であると期待することもなく、自身が身分の落ちるメイドに産ませた子であるディミトリを蔑んでさえいる。

劇中セルゲイはニコライを憎しみの対象としてしか見ていないが、ディミトリはクラブでも歌を捧げたり、自身の誘拐に身代金が払われることを期待していたりと、父の愛を乞い続けていた。

ディミトリは、ずっと、兄や父に認められたかった。だからこそ、自分の庇護者のように振る舞うセルゲイも、死して尚セルゲイにクラヴィノフ家の誇りを託した父も許せない。

ライノの人質になった際、「よその女に産ませた子供に2000万$を払うはずがない」と言われ、自分があくまでセルゲイ=クレイヴンを誘き出すための餌だと知ったとき、ディミトリの胸に去来したのはどんな感情だったのだろうか。

ラストの、あの兄の姿に一度変わってからの決別宣言には、そんなディミトリの歪んだコンプレックスが表れているのだろう。

演出論②:共生の失敗の物語に描かれた歪んだ家族の絆とは

真のヴィランであり、オリジンそのものである父ニコライ

今作において真のヴィランは、父親であるニコライだ。

この物語はニコライによるセルゲイへのクラヴィノフ家の誇りの継承の物語であり、それが結果として、クレイヴン・ザ・ハンターとカメレオンという、二人のヴィラン・キャラクターを生み出す結果となった。

ニコライは序盤の狩りのシークエンスで、

「伝説を殺した者が伝説になる」と語る。

彼は伝説となったライオン:ザーを狩ることに執心し、自身を伝説にしようとしていた。

生涯かけて築き上げた誇り……それは歪んだ暴力と支配によるもので、母を愛し、「あの人みたいにならないと約束して」という手紙を受け取っていたセルゲイが望んだものではなかった。

しかし、セルゲイにとって“良い親”とは果たしてどちらだったのか。暴力と血に塗れた家系の中で、常識的な愛や優しさとは無縁な親子関係ではあった。けれど、ニコライにはセルゲイに対する期待も、愛も確かにあったのだと思う。

物語において、ニコライとセルゲイの母は、結果として同じ結末を選んでいる。

その方法は違えど、どちらも自ら死の糸を手繰り寄せ、その命と引き換えに息子への杭を打ち込んだという点では同じことだ。

そして、両者共に、セルゲイに手紙を残している。

呪いの言葉で、父への憎しみを育てた母、

自身の全てを託し、その道を示した父。

どちらも共に、一般的な価値観で見れば親としても家族としても破綻しているが、今作の物語において、セルゲイの……いやクレイヴンにとっての指針となり得たのはどちらの言葉だったのか。

クレイヴン・ザ・ハンターは物語の最後に生まれる

伝説も、人間である以上は老いには勝てない。ニコライには、もはや自分が伝説の席に座り続けることが出来ないことが誰よりもわかっていたのだろう。だからある意味、最後にセルゲイによって殺されるか否かは、彼にとっても賭けだったのだと思う。

最後までニコライは生を諦めてはいなかっただろうが、死を受け入れてもいた。

ここで殺されても、仮にセルゲイを殺すことになっても構わないとさえ思っていたのかも知れない。

セルゲイに残したスーツと手紙は、非常に歪んだ家族の愛の証であり、それを受け入れたセルゲイは、ここでようやく自身に流れるクラヴィノフの血の意味に気づいたのではないだろうか。

SSUというシリーズにおいて、“共生”は大きなテーマとしてこれまでの全作品に横たわっていた。そして、まるでそうした流れに沿うかのように、

共生に成功した者は、『ヴェノム』や『マダム・ウェブ』のようにヒーローに

共生に失敗した者は、『モービウス』や今作のように、ヴィランへの芽生えを見せて物語は終わりを迎える。

今作で、セルゲイは父を殺し、弟と決別をした。同時に、誰よりも憎み、その手にかけた父親と同じ血が流れていくことを、彼自身が自覚して物語は終わる。

椅子に腰掛け、スーツを着たその姿は、原作カバーアートのオマージュであり、今作のポスターにも使われたカットである。

彼は物語の本当に最後の最後で真の意味での“クレイヴン・ザ・ハンター”となったのだ。原作コミックシリーズにおいて、シニスター・シックスの一角であり、スパイダーマンにとって古参のヴィラン。弟との共生の失敗から、自身の血を受け入れたことで、その姿はようやく現れたのだ。

キャラクター考:物語の本筋に絡めなかった二人のヴィラン

ニコライが真のヴィランとして設定されている以上、終盤のライノやザ・フォーリナーとの戦闘が地味になるのも仕方のない面はある。

この二人はヴィランと言うより、あくまで今作においてはニコライの計画に組み込まれた舞台装置でしかない。

ライノは知的なギャングとして新興勢力を伸ばしながらも、飼っている犬が言うことを聞かなければ本気で怒り出し、奇声を上げて怒りを露わにするなど、どうにも小物感が漂う。

ザ・フォーリナーにしても、その能力は圧倒的だが、中盤まではライノとまったく無関係に動いており、最後の最後で突然に共闘を持ち掛けている。

クレイヴンを追う過程でライノの存在にたどり着いたのはわかるのだが、序盤から意味深に暗躍している姿を見せていた以上、初めからライノと協力し、ライノの指示で動いていたことにした方が良かったようにも思う。

ヴィラン二人体制があまりうまくハマっておらず、最終バトルでも別々のシークエンスでの戦いになるので、この二人である意味もあまり感じられなくなってしまった。

ライノもザ・フォーリナーも能力にしろ劇中での存在感にしろなかったわけではないので、物語の本筋と合わないのであればどちらかをオミットして次作に回しても良かったのではないかと思う。

(次作は作られなかったがそれは結果論である)

シリーズ論:SSUはスパイダーマンとの共生に失敗した

全作に通底した“共生”のテーマは、そもそもMarvel根底のテーマ性

これまで何度となく語ってきた通り、SSUはユニバースとしての物語の繋がりも、世界観や時代も曖昧で、スパイダーマンシリーズとの接続が最後まで叶わないまま終わってしまったシリーズである。

それは当然公開時から批判に晒されていたし、結果としてヴェノム三部作以外の3作は、今作含め興収・批評共に思うような結果はあげられなかった。ただ、こうして通して全作観てみると、思っていたよりも綺麗にこのシリーズは終焉を迎えたものだとも思う。

「We are Venom」という宣言から始まったユニバースは、ヴィラン側のキャラクターを通して共生の失敗を。

ヒーロー側のキャラクターを通し、異世界……この場合、文字通りの意味だけでなく、人種や国籍というメタファーを織り交ぜ、共生の希望を描いた。

そのシリーズの終わり2作で、中心にいた共生体の別れと共生の困難を描き、最終作である今作では、家族・血縁という、あらゆる動物が生まれた瞬間から背負わされる、半ば強制的な共生の決裂を描いた。

SSUはシリーズ統括者がいないことが問題視されてきたシリーズであり、これが意図的な流れだったとはとても思えず、前述の通りシリーズがこのまま継続していた場合この流れの意味も変わっていただろうとも思う。

しかし、この僅か6作で終わり、世間的にも“失敗”と呼ばれたユニバースに、こうしたテーマ的な繋がりがあったのかも知れないと考える余地があることは、やはり映画文化というものの面白さを感じさせられる。

共生や差別というテーマは、Marvel Comicsが、いやアメリカ社会そのものが何十年もかけて語ってきたテーマでもある。

2010年代の終わりから、2020年代のコロナ禍、移民問題で議論の絶えない世界において、こうしたテーマに物語が行き着くのもまた必然だったのだろう。

スパイダーマンに対して、シリーズは常にオープンでい続けようとしていた

トーテムという設定を匂わせるキャラクターたちの出自の変更や、原作に繋がる数々の小ネタやオマージュの数々……予定通りにはいかなかったのだろうし、苦肉の策や、原作を知る製作者からのせめてもの抵抗だったのかも知れない。

それでも、このシリーズが常にスパイダーマンとの共生の道を模索し、いつでも受け入れられる隙間を作ろうとしていた軌跡が、作品の中には確かに残っているのである。

結果として、そうした様々な要素が故に各作品単体での出来は悪くなる一方ではあった。しかし、共生という物語が通底していながら、スパイダーマンと共生できなかったこのユニバースを、一方的にヴィラン扱いしなくても良いのではないか、と。筆者としてはそう思う面はあるのである。

マイロを殺した後のモービウスが

カメレオンと決別した後のクレイヴンが

まだ未熟なスパイダーウーマンたちが

その後どんな物語を紡いだのか。

ほんの少しそんなことに想いを馳せてみるのも、面白いものだ。

総括:失敗したユニバースの最終作、だからこそ忘れずにいたい作品でもある

今作はSSUで随一の重厚でシリアスな物語だ。しかしだからこそ、そのジャンルを超えた物語はスーパーヒーロー映画のフォーマットと不釣り合いだった。

その歪さ故どちらの見方でも中途半端な作品であったことは否めず、SSUというシリーズがここまで凋落しておらずとも、評価がそこまで変わったとも思えない。

SSUはやはり、どの作品をとっても一級品ではなく、明確に“失敗したシリーズ”だったと言って間違いはないだろう。

しかし、アメコミ文化には長い歴史があり、時にそのシリーズそのものの設定や、キャラクターの歴史がソフトリブートされることなど日常茶飯事である。現実、映画の世界でも失敗したアメコミ作品など、一般に知られている以上に沢山ある。

SSUを無理矢理評価することもしないし、これからの人生で何度も観返すことはないだろう。

映画としてもシリーズとしても、どうしようもなく歪で、粗雑で、このアメコミ映画群雄割拠の時代にはそぐわなかったのかも知れない。

それでも、複雑な権利関係や、会社間、コミックの間に細い蜘蛛の糸を通し、必死にユニバースという形を作ろうとしたシリーズがあったことは、忘れずにいたいものだと思うのだ。

評価/鑑賞日

⭐ 3.0 / 5.0
📅 2026/05/30(Prime Video)

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🕸️ SSUシリーズ考察レビュー

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