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連続ドラマレビュー
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――願いを一つ言ってください?
by 堤田蓮(演:UTA)
作品データ
原題:ガス人間
監督: 片山慎三
脚本:ヨン・サンホ
リュ・ヨンジェ
原作:『ガス人間第一号』
(監督:本多猪四郎 / 脚本:木村武)
音楽:大間々昂
主題歌:サザンオールスターズ
「いとしのエリー」
製作:東宝
配信:Netflix
出演者:
ガス人間/堤田蓮:UTA
岡本賢治:小栗旬
甲野京子:蒼井優
藤川華歩:広瀬すず
三浦威(東京都知事):岡部たかし
森靖利(上場企業「ビットマネートレード」社長):竹野内豊
森靖利(過去):野村周平
岡本信也(賢治の父):青木崇高
甲野京子(過去):斉藤柚奈
京子の母:和田光沙
旧文庫ラーメン店主:松崎悠希
※本レビューは第07話の完全ネタバレレビューとなります。
筆者は配信全8話視聴済みですが、出来る限り07話時点のネタバレで語ります。
リメイク元映画『ガス人間㐧1号』についても言及有。
総文字数:4643文字
読み終わるまでの時間:約12分
第7話短評
ドラマも最終回直前。
ガス人間の性質には原作映画やそのシリーズへのオマージュが感じられるものの、今作においての設定にはやはりブレがあり、観ていて疑問が尽きない。
キャストの好演や画の強さでここまで引っ張ってきたが、物語への不満はいよいよ看過出来なくなりつつある。
ガス人間という存在のルールが曖昧に処理されてしまった問題
今作についてはこれまでも“演出のための演出”が多いのではないか?という事を語ってきたが、今回はそれがメインであるガス人間の設定にも関わってきてしまう。
ガス人間自体の設定は、勿論荒唐無稽なものなのだが、だからこそそのルールが物語上できちんと守られていないと、劇中のすべてが台無しになるのではないだろうか。
今回、自殺だと思われていた森の死に京子が関わっており、ガス人間の“最初の被害者”は佐野教授ではなく森であったことが明かされる。しかし、この一連のシークエンスは、すべてにおいて不自然なのだ。
まず、京子はこの殺人の際に初めてガス人間となった蓮に“願い事”をするわけだが、これまで指令を聞き届けたガス人間は即座にターゲットの元へと飛んでいっていたはずが、今回は何故か京子と連れ立って森の家を訪ねている。
これは“意志がない”とされるガス人間……蓮としての人格は既にそこになく、自動的に兵器のように殺人を犯してきた設定と矛盾してしまう。
ここには大きな問題があり、今回中盤で岡本は京子に「ガス人間は、本当に蓮さんなのか?」と問いかける。
これは物語上非常に重要な問いであり、ガス人間に蓮の感情や意志が残っているか否かは、前回無関係な富士太を殺害したことにも関わってきてしまう。
だからこそ、命令に対して有無を言わさず遂行する自動人形のような表現が大切であり、そのルールがブレては物語が根底からひっくり返ってしまう。
勿論これに関しては、京子があの後命令を追加した可能性もあり、一概に否定は出来ないが、終盤でも三浦の事務所に何故か街を歩いて向かうガス人間の姿があり、ここでは華歩との邂逅が描かれている。
これも三浦の選挙事務所に行くのなら、いつもの様に飛んでいけば良いわけで、わざわざ街中を歩かせて人目に晒す意味がわからない。華歩がガス人間から隠れ、その後を尾けるという展開のためだけの演出のようで、これにも疑問が残る。
森靖利の偽装自殺が杜撰すぎる
森の殺害そのものもおかしく、まず京子とガス人間は森の家に特に変装もせずに入り込んでいるが、森のように危ない仕事をし、資産も持っている人間が家に監視カメラの一つも設置していないのは違和感がある。が、これは重箱の隅のようなものなので一旦置いておこう。
しかし問題は、森の殺害方法が明らかに佐野や富士太と異なっている点だ。
第3話の大友に関しては状況が違うので良いとしよう。しかし、これまでガス人間はターゲットの体内に入り込み、内側から爆発させることで確実に息の根を止めるということをしてきた。
しかし、何故か森の死にそれはない。同じように内側に入り込んではいるが、森の遺体は損壊されず、綺麗な状態で死んでいるのだ。
仮に最初から自殺に見せ掛けるつもりであったのなら、内側から入るのではなくそのまま首を締め上げれば良かっただろうし、自殺に見せ掛けるところまでガス人間に指示を出せば良かったはずで、ここもどうしても展開のための演出に見えてしまう。
森が死んだ後の京子は明らかに動揺しており、初めての殺害ということでそこまで冷静でなかったのかも知れないが、ガス人間をただ命令に従うだけの意志を失くした化け物として表現するのなら、尚更こうしたルールには厳密である必要があるのだ。
また細かい点ではあるが、仮に監視カメラがないにしても、自殺に見せ掛けるのに手袋もせずに森の部屋をうろつく京子がまったく疑われていないようでは、この劇中警察はあまりにも捜査が杜撰である。
原作映画『ガス人間㐧1号』の物語の複雑さは失われた
“戦後世界”の現代的な置き換えは正しかったのか?
物語にしても、京子とガス人間の過去を積み上げ、今回は蓮の死の瞬間を幼い京子が目撃していたことが明かされた点は非常に良かった。
幼い彼女にとっての希望が、最悪の形で奪われた記憶……前話で京子を“身勝手だ”と称したが、こうして過去が語られると、彼女の時間はあの幼かった瞬間で止まってしまったのかも知れない、と納得出来る部分もあるのだ。
ただ、やはりそれでも今作で描かれたテーマは、原作の『ガス人間㐧1号』と比べてあまりにも矮小化され、一般化されたもののように感じてしまう。
京子が育児放棄の果てにホワイトセンターに預けられたことも、同じように幼い頃行く所がなかった蓮がその京子を引き取ろうとしたことも、エピソードとして悪いわけではない。
無風の名を冠した国の権力者たちの腐敗も、既視感は感じるものの、物語を現代化するにあたってそれしかなかったのかも知れない。
しかし、原作のガス人間:水野にあった孤独や貧困の裏には、確実に1960年という年代の持つ“戦後の痛み”があり、そこには第二次世界大戦の混乱の中でまだまだ完全に庶民の生活までは復興し切っていなかった時代特有の痛みと苦悩があったように感じる。
それを現代に置き換えたときに、国家ぐるみの陰謀や、そうした権力者に搾取される貧困を描くのは、あまりに物事を単純化して見ているのではないか、と思ってしまう。
そして、何よりもその痛みの描かれ方自体があまりに画一的で、型通りの表現すぎるのではないかとも思う。
だからこそ、今回岡本と京子の会話の中で、「ガス人間が蓮さんなら、人を殺すことを望むような人だった?」と問う、その言葉にも重みが出てこない。正直、“復讐に意味はない”といった結論は古今東西あらゆる作品でやり尽くされている。今作は、そこに新しい視点も見せ方もないように感じてしまうのだ。
京子は無自覚に他人を巻き込んでいる
筆者がこのように感じてしまうのは、やはりどうしても復讐の中心にいる京子に共感出来ていないからなのかも知れない。
京子の過去が明かされたことで、多少なり理解の余地が生まれはしたものの、今回も相変わらず自分本位な言動が多すぎる。
京子は、あまりにも無意識に他人を自分の復讐に巻き込みすぎているのだ。
岡本との会話の中で、彼女は「三浦のこと許せるの?私たちのことをこんなに苦しめたあいつを許せるの?」と問うているが、この事件に岡本を巻き込んだのは京子である。
岡本は京子が森を殺したことで謹慎処分に遭い、今回の事件を担当し、京子を逃す為に警察に追われている。
岡本の父が坂本によって口封じに殺されたことは確かに示唆されているが、この復讐に、岡本は一切関係ないと言って良い。
京子は、勝手に岡本に依存して運命共同体に仕立て上げているだけである。
同じように、富士太の死も確かに彼自身の承認欲求が招いたことではあるが、巻き込んだのは京子である。
にも関わらず、彼女は明らかに富士太の死のニュースよりも、ガス人間に指示を出した三浦が死んでいないことの方に関心があるように見え、華歩からの電話で三浦がガス人間の操り方を知ったと聞かされたときも、自分の身の危険を察してあからさまに顔を歪めている。
何より華歩からの電話では華歩が先に京子の安否を確認し、その後で「本当にごめんなさい」と申し訳程度に伝える京子には、嫌悪感すら感じてしまった。
この辺りは藤川兄妹贔屓の筆者の重箱の隅をつつくような指摘だとは思うが、どうにも物語の主体である京子のこうした人物描写が、今作を観る上でノイズになってしまっていたというのが、正直な所だ。
ガス人間自身のドラマを描く種は芽吹いていた
ただ、そんな中でも今回ガス人間の新しい解釈として面白かったのは、蓮がまるで魂に導かれるようにあのアジト=蓮と京子がかつて暮らしていた倉庫に帰ってきた、という点だ。
これには前回触れた『美女と液体人間』(1958)の液体人間にある、彼らは既に人間としての意識がなく、ある種の帰巣本能として日本へ帰ってきたという設定に近いものを感じる。
ガス人間となった蓮があの場所に帰ってくるのも、目覚めて最初にする行動が京子との一番大切な記憶であろう「リスナーさん、願いを一つ言ってください」なのにもそうした要素が感じられ、第5話で描写された、石像から人間体に戻るガス人間が一筋流す涙にも意味が生まれている。
京子がガス人間に指令を出す為に用意した、ピタゴラスイッチ的なレコード再生機が幼い京子と蓮の思い出の品であることも明かされ、ガス人間という怪物がそれでも京子と蓮の絆によって出来上がっているという皮肉も合わせて非常に良い演出だった。
ちなみに、このガス人間の石像がある地下に続く通路には妙なキノコが生えており、『マタンゴ』(1963)への目配せも感じられるのは嬉しい。
こうした物語が下敷きにあるため、森を殺害する際の、“蓮の顔を一切覚えていなかった”が京子の殺意の最後のトリガーになってしまったことにも説得力が生まれていた。
……であればこそ、ガス人間に蓮の意志がまったく残っていないように描写したことが尚更勿体なくも感じる。最終話でどうなるかはまだわからないが、僅かに残る蓮の意志との葛藤が描かれていたなら、もう少しガス人間の物語にドラマ全体を戻すことも出来た。
結果として蓮を殺人の道具にしてしまっている京子にしても、そんな自らに対する苦悩が少しでも描かれていれば、物語の主体としての京子と蓮のドラマがきちんと成立したのではないかと思う。
キャスト陣の好演に支え続けられたドラマの弱さ
今回も、キャスト陣の演技は非常に良い。
ドラマ本編にいくら不満があろうとここまで観ることが出来たのは、間違いなく最高のキャストの作る画と、藤川兄妹の物語があったからだ。
森を演じた竹野内豊のコカイン中毒ぶりと奇妙なダンスは、映画『レオン』(1994)のノーマン・スタンスフィールド(演:ゲイリー・オールドマン)を思わせる怪演であり、京子の身体を舐め回すように見ての「(情報を話すなら)君じゃないなぁ」の何とも言えない嫌らしさ……女性蔑視と変態性のないまぜになった最悪の台詞を、最悪の表情で演じ切っている。
今回は前半で野村周平の演じる過去の森もたっぷりと登場するが、キャストの顔が必ずしも似ているわけではないこの二人が、本当に一人の人間の過去と現在に見えるのは重ね重ね素晴らしい。登場時間は決して多くないが、竹野内は忘れられないインパクトを残している。
華歩を演じた広瀬すずはもはや言うまでもない。
富士太を喪い、ボロボロの状態で入った漫画喫茶で、彼女は自分たちのチャンネルを観る。
再生数も伸びず、兄がひたすら空回る面白くもないオカルトチャンネル……けれどそれは華歩にとって、二度と取り戻すことが叶わない幸せな記憶だ。
涙を流しながら、それでも、そんなつまらないチャンネルを見て笑みを溢す……この表情が、彼女にとって兄がどれほど大切な存在だったかを物語る。
そんな中で京子の指名手配のニュースに心を痛めたり、罵詈雑言を投げても許されるような状況の電話で京子を気遣う華歩の優しさを、広瀬は完璧な演技で演じていたと思う。
次回へ向けて……
いよいよ次回は最終回。60年以上の時を経て蘇った『ガス人間』という物語も再び眠りに就く時である。
現状、正直なところ今作の評価は決して高くない。観るべき点は沢山ある、けれど何度となく物語の没入が削がれる不満点に現実に戻され、その度原作映画とどうしても比べてしまう。
ドラマの見方として正しくはなかっただろうが、リメイク作品である以上、どうしても比較は避けられず、製作陣もそれは理解していたことだと思う。
最終回は是非とも、本編の物語に観るべきものを見つけたいものだ。
最終話へ続く

💨 ガス人間考察レビュー

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