『モービウス』(2022)ネタバレ考察レビュー|ユニバースの混迷に巻き込まれた不遇の吸血鬼……その共生できない孤独とは

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Sony’s Spider-Man Universe全作品レビュー3

――世界でただ一人の義兄弟との絆……共に生きるではなく,共に死ねたならそれで良かった

この作品はどんな作品?

SSUシリーズ3作目にして、スパイダーマンのヴィラン:モービウスを主人公とした作品。

SSUの混乱、コロナ禍での映画産業事情に巻き込まれ必要以上に評価を落としたが、ヴィランであるマイロの孤独、義兄弟の絆の崩壊は物語として見所がある。演出や物語展開の雑さは世評通りだが一見の価値はある。

この作品はどんな人にオススメ?

自身ではどうしようもない痛みを抱え、それで何かを諦めた経験がある人。

ヴァンパイアというテーマに無条件に惹かれてしまう人。

SSUというシリーズが何故失敗したのか?その理由の一端を分析したい人。

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作品データ

原題:Morbius

監督:ダニエル・エスピノーサ

脚本:マット・サザマ

バーク・シャープレス

原作:Marvelコミック『モービウス・ザ・リヴィング・ヴァンパイア』

ロイ・トーマス/ギル・ケイン

音楽:ジョン・エックストランド

撮影:オリバー・ウッド

上映時間:108分

出演者:

マイケル・モービウス:ジャレッド・レト

マイケル・モービウス(少年時代):チャーリー・ショットウェル

ルシアン / マイロ・モービウス:マット・スミス

ルシアン / マイロ・モービウス(少年時代):ジョセフ・エッソン

マルティーヌ・バンクロフト:アドリア・アルホナ

エミール・ニコラス:ジャレッド・ハリス

サイモン・ストラウド:タイリース・ギブソン

アルベルト・“アル”・ロドリゲス:アル・マドリガル

エイドリアン・トゥームス / バルチャー:マイケル・キートン

本レビューにはネタバレを含みます。

MCU『スパイダーマン:ノー・ウェイ・ホーム』(2021)についてのネタバレも含みます。

総文字数:11618文字

読み終わるまでの時間:約29分

目次

製作背景:ユニバースの計画変更を受け続けた不遇の作品

ダニエル・エスピノーサ監督による、《SSU(=Sony’s Spider-Man Universe)》の第3弾であり、『スパイダーマン』シリーズのヴィラン:モービウスを主役に据えた作品。

本来であればSSU……製作発表段階ではまだ《SPUMC(=Sony Pictures Universe of Marvel Characters)》と呼ばれていたシリーズの2作目となるはずであり、キャラクターの実写映像化構想自体は『ブレイド』(1998)にまで遡る。

90年代のMarvelキャラクター映像化ライセンスの問題については『ヴェノム』レビューで述べた通りで、この当時ブレイドの映画化権を持っていたのは現在ではWarner Bros.と合併したNew Line Cinemaであり、今作と直接の関係はない。

『ブレイド』の監督スティーヴン・ノリントンには続編ヴィランとしてモービウスを登場させる計画があり、当時そこに繋がるシーンも撮影していたが、ノリントンが続編製作から降板したことでそのシーンも削除されてしまった。現在ではDVDソフト等の特典映像でその痕跡が確認できるばかりである。

しかし、日本でのマイナーさに反し、本国では少なくともシリーズ二作目のヴィラン候補に挙がるほどの知名度はあり、2014年にIGNが開催した「Top 25 Spider-Man Villains」では19位にランクインし、21位であるカーネイジより上に位置したほどだ。

2000年頃にも単独映画企画が持ち上がるも頓挫しており、2017年に『ヴェノム』を皮切りにしたSonyのユニバース化計画の中で、モービウスの実写企画はようやく本格的に動き出す。

同年11月には既に脚本もスタジオに提出されており、主演のジャレッド・レトとエスピノーサも2018年6月には企画に合流している。ヴェノムにしてもそうだが、SSUのキャラクターの多くは、20年近くの企画・構想を経ての、待望の映像化だったのである。

『ヴェノム』の好評によりこれらの単独企画は正式にユニバースに統合され、 MCUスパイダーマン単独デビュー作『スパイダーマン:ホームカミング』(2017)を監督したジョン・ワッツは、既に製作が決まっていたタイトル未定の続編(後の『スパイダーマン:ファー・フロム・ホーム』(2019))にブレイドとモービウスを出演させたい旨を語ってもいた。

2019年には一時的にスパイダーマンに関するMarvelとSonyの連携が危うくなる場面もあったが、その後MCUが本格的にマルチバースを扱い出したことで、SSUとMCUは正式にフランチャイズの横断を始めることになる。

しかし……今作の公開は2022年4月。本来予定していた2020年7月から大幅に後ろ倒しになり、SSUとしても2作目でなく3作目になってしまった。コロナ禍を発端とするようにユニバースの計画は大幅に変わり、今作の物語も相当な改訂を強いられたように思う(後述)。

今作はSSUで最も計画変更の煽りを受けた作品であり、公開時期や製作時期を鑑みても、スタッフ・キャスト陣含め本当に先の見えない製作環境だったのではないだろうか。

結果として興収・批評両面で苦戦を強いられ、「It’s Morbin’ Time」等ネットミームまで生み出されてしまった不遇の作品と言える。

今作は決して出来の良い映画とは言えないが、公開当時の時代性や歴史の生き証人として非常に意義のある作品であり、シリーズ失敗の原因も透けて見える重要作だ。

原作比較:《コミックス・コード》問題と生けるヴァンパイア・モービウス

モービウスというキャラクターの歴史には複雑な事情があり、そこには1954年に制定された《コミックス・コード》が関係している。

これは精神科医のフレドリック・ワーサムの著作『無垢への誘惑』(1954)に書かれた「コミックが非行少年を生み出している」という主張を受けたものであり、この倫理規定により、当時多くの表現・キャラクター設定が規制されていた。時を経て徐々に緩和され、2011年には実質全撤廃となったが、モービウスが初登場した『Amazing Spider-Man #101』(1971)の頃はまだ1度目の規制緩和の狭間の時期である。

今作を観ればわかる通り、モービウスは吸血鬼を模したキャラクターな訳だが、このコミックス・コードには

歩く死者、拷問、吸血鬼および吸血行為、食屍鬼、カニバリズム、人狼化を扱った場面、または連想させる手法を禁ずる」

という規定があり、当時のアメコミには吸血鬼を出すことが出来なかったのだ。しかし、ゴシックの象徴であり、多くの物語で取り上げられるこの題材は、Marvelにとって諦め切れるものではなかったのだろう。

モービウスというキャラクターを、“死者から蘇った存在”ではなく“生きながら吸血鬼に極めて近い能力を持った人間”という設定にすることで、この規定をすり抜けたのである。キャラクター名も正確には《モービウス・ザ・リヴィング・ヴァンパイア(=生ける吸血鬼 モービウス)》だ。

狐につままれたような気にさせられる話だが、コミックス・コード自体が古い時代の悪習であり、その規定も厳密なものではなかったということだろう。事実、コード制定の基となったワーサム自身は「不適当な間に合わせの手段である」としてコミックス・コードに批判的だったとも言う。

能力については基本的には今作で描かれた通り。モービウスは吸血コウモリから作られた血清を打つことでその能力を手に入れており、彼の元々持っていた血液疾患、及びそれに伴う四肢の弱さは改善され、超人的な身体能力、治癒力、異常な視力聴力を持つ。原作では後に相手の目を見つめることで催眠状態にする能力も加わったが、オリジン作品でもあるためか今作ではオミットされている。

モービウスが人工血液“ブルー”の開発者であり、そのブルーと実際の人間の血液“レッド”では能力の発現に差異が出るというのは、今作のオリジナルで最も上手い改変だろう。これにより、モービウスがノーベル賞を受賞するほどの天才医師である設定もわかりやすくなった。

今作ではヴィランを同じ異能となったオリジナル・キャラクター:マイロにすることで、その力を自らに許す/許さないというテーマがダークヒーローのオリジンとして機能している。モービウスがノーベル賞の受賞を拒むのも、恐らく今作では実験の資金源をマイロに担わせるための改変だろう。

(原作においては受賞することで実験の資金源を得ている描写がある)

血液を摂取しないと吸血鬼としての能力が徐々に失われ、病気の症状も戻ってくるというのも今作のオリジナル設定に近いが、原作でも単独作品『Morbius the Living Vampire』にて、医師である友人のジェイコブ・ワイゼンバーグと共同で開発した血清により、元の人間に戻るという展開があった。この血清の効果が作中で4〜5時間とされており、今作はそれをうまく取り込んで設定を作ったものと思われる。

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アクション論:ヴァンパイア・アクションとしての新しさは生み出せなかったか

そんな吸血鬼モービウスであるが、残念ながらアクションシーンにおいて今作はそこまで目を見張るものはない。

古今東西、ヴァンパイア映画は数限りなく製作され、筆者も好きな作品が幾つもある。ヴァンパイア・アクションにしても、それこそ前述の『ブレイド』や、『アンダーワールド』(2003)がある中で、モービウスにしろマイロにしろ、基本的には動きの素早さが描写されるばかりで今作独自の魅力は少ない。

唯一あるとすればモービウスやマイロが動く際に身体の周りに浮かび上がる黒いモヤのようなエフェクトで、今作の象徴として印象深くはあるものの、その映像効果には疑問が残る。

彼らはそれまでの人生からは考えられない身体能力を手にしたわけだが、今作のアクションは基本的にグリーンバックとエフェクト処理であり、身体性に欠けるのでその設定もあまり映えない。

地下鉄での警官殺しや電車に併走して飛び去るシーンでは、コウモリのように滑空する姿や銃弾を避ける姿に見応えはあるものの、これも『マトリックス』(1999)以降、多くの映画で観てきた手法だ。

ラストの戦闘において、大量のコウモリを集めて攻撃する、というのはなかなか迫力を感じる画であり、“必殺技発動”といった演出も往年のヒーロー映画らしく懐かしい気持ちにさせられる。ただ、冒頭の調査シークエンスで既に大量の吸血コウモリを出しているので、映像としては既視感があり、アクションのピークにはならないのは残念だ。

寄生生命体が全身を覆い動き回るという『ヴェノム』シリーズに比べ、やはりどうしても地味な印象は拭えない。

演出論①:製作トラブルを感じるぎこちない編集と病の孤独に見る物語のテーマ

“撮りたい画”を重視した無理なシーンの繋ぎと設定

SSU全体に通じる演出の雑さは今作でも健在だ。

その80〜90年代的な“緻密過ぎない構成”が、考察や伏線を追求する2020年代にあっては一つの魅力として働く面もあるが、今作では物語に明らかな矛盾が生じてしまっている。

冒頭、《ホリゾン》実験室のシークエンスはかなり問題で、中盤以降この部屋は、建物の奥まった場所に設置され、入るにはいくつかのセキュリティを抜ける必要があると描写される。のだが……序盤のシークエンスでは、一般病棟とあまりにも近すぎる。

そこにマルティーヌやマイロが出入りしているのは理解出来る。会話の内容からマルティーヌもこのシーンまではモービウスの実験内容を知らなかったようだがそこは目を瞑ろう。しかし、「医師免許はく奪になる」とまで語る実験が行われる研究室に、なんとこの後一般の看護師がモービウスを呼びに入ってくるのである。

コウモリの入った水槽は暗証番号を打たない限りマジックミラーのように外からは視認できないシステムになっていたようだが、マルティーヌが解除した直後なので、看護師が来た時コウモリは楽しげに飛び回っている。後にシングルマザーであることも語られるこの女性……奪われかねんぞ、仕事を。

その後病状が急変した患者の子供を救うため、モービウスとマルティーヌは病室に急行するが……まさかの病室は研究室の対角線上にあり、かつ研究室の扉は開け放したままにされている。

患者の容態が落ち着くと同時に、マルティーヌが研究室の実験用ラットに目をやり「成功した」という台詞で物語は本格的に動き出すが……撮りたい画を優先しすぎたのか、あまりに雑な演出である。これでは実験成功の翌日には二人とも医師免許剥奪だ。

この時の看護師は後にマイロの初の被害者にもなり、彼女もまた重要な秘密を握る協力者であった、という見方も出来なくはないが……そんな描写もモービウスとの関係を示す台詞もないので、深読みで理由付けするしかない。

切り貼りしたショート動画のような不自然な編集

今作の演出や物語進行にはこうした不自然さが数限りなくあるが、そもそもカット割やシーンの繋ぎにもおかしな点が多々ある。

病室と実験室についても、別々のシーンの間を抜いて繋げたようにも見えるし、モービウスが船上の実験で正気を失い、傭兵たちを殺して正気に戻るシーンも、所々画と台詞が合っていない。

特におかしいのはモービウスが刑務所から脱獄するシークエンスで、モービウスが叫び、壁を叩いている段階で既に警備兵が厳戒態勢で、銃を構えて走り始めている。

「サンフランシスコ以来の惨事」という言葉もあるので、今作世界にはヴェノムという前例があり、モービウスを異形として警戒しているという理解は出来るのだが、その割には肝心のモービウス本人への警備は薄い。

せめて壁を壊し、脱獄したことがわかってからならあの対応もわかるのだが……まだ、彼は壁を叩いただけである。そこまで警戒するなら、もう少し部屋そのものを厳重にすべきだ。

このあたりには、どうしても物語が途中で変わった影響を感じざるを得ない。

詳しくは後述するが、今作ポストクレジットで登場するMCU世界と同一キャストのヴァルチャー(=エイドリアン・トゥームス)は、事前の予告映像を観る限り、本来ならこのシークエンスで登場するはずだったのではないか。そして、刑務所にヴァルチャーがいるということは、本来この『モービウス』の世界はMCU世界と同一アースだったのではないか。

これに関してはまったくの推測でしかないが、MCUとSSUを同一世界の出来事として描いていた映画が、製作中に別アース、マルチバースの世界になってしまい、残された撮影素材から無理やりに編集したのが今作ということは考えられないだろうか。

確信に繋がる材料は予告編とヴァルチャーを演じたマイケル・キートンの控えめなインタビューだけであり(「彼ら(スタッフ)が何を言っているのか、登場人物たちが一体誰なのかわかっていない」)確証はない。しかし、今作のあまりにぎこちない編集には、どうしてもそんな影が感じられ、中でもこの刑務所のシークエンスが特に目立つのは穿ち過ぎではないと思うのだ。

明らかに自分が犯した罪ではない看護師殺しを否定せず、「記憶を失ったのか?」と反芻するシーンも明らかにそのタイミングがおかしい。この時点ではマイロが血清を打ったことも知らず、彼を庇っているわけでもないので、モービウスが黙秘する理由がないのだ。

少なくとも取り調べを受ける前のカットでその葛藤を入れていれば、シーンとして繋がるのだが……どうにも感情の繋がりが不自然で、無理矢理に映像を切り貼りしているような印象を受けてしまう。

ただ生きているだけで危険な二人の男の絆

そんな中演出の良さが見えるのは、モービウスとマイロの病気に関する描写である。今作においてこれは彼らを繋ぐ歪な絆であり、アクションシーン以上に重要な演出としてキャラクターの魅力を引き出している。

中でも、モービウスがマイロと二人で街を歩くシーンは非常に印象的だ。

多種多様な人々が往来するNYの街中、足の悪い男が二人並んで歩いているが、周囲はそんな彼らに目をくれることもない。彼らは群衆の中の個であり、その会話にも、存在にも意味はない。

世界は廻る。死期を引き延ばし、その日を待つだけの彼らがいつ死んでも、この景色に変化はないだろう。それを表すように、ここでは彼らをアップにせず、風景の一部のように遠景でカメラを向ける。

公園での二人の会話もよく出来ていて、モービウスの語る治療について、「その治療は危険なのか?」と問うマイロに、モービウスは「ウソを言おうか?公園の散歩と同じ」と返す。

これは、この二人が生きてきた世界を象徴する言葉だ。四肢が悪く、杖なしではまともに歩くことさえ出来ない二人にとって、ただ公園を歩くことすら決して安全とは言えない。

例えば走る子供がよそ見して突進してきたら?

例えば子供が投げるボールがぶつかったら?

原作では幼少期、モービウスは親友であるニコスと屋外で遊んだことで手足を骨折し、家を出られなくなるというエピソードがある。彼らの生活は、常にそんな危険に晒されてきたのだ。

物語論:マイロとモービウスの義兄弟にあった圧倒的な死への解釈違い

今作のヴィランであるマイロは映画オリジナル・キャラクターだが、物語は原作モービウスが、初の船上実験の際に幼い頃からの親友:ニコスを殺してしまった、というエピソードを拡大解釈したものだ。

(ニコスの名前については恐らく恩師:ニコラスに引き継がれている)

モービウスとマイロが初めて出会った病室での会話

「もし1時間だけ健康な体になれるなら何をする?」

この物語は、この言葉がすべてであり、その言葉の解釈におけるモービウスとマイロの圧倒的な差異が今作の核なのだと思う。

モービウスは、幼い頃から天才だった。壊れた医療機器をボールペンの部品一つで直し、ノーベル賞を取り誰もが彼に期待した。

けれど、モービウスにとってすべての目的は、“マイロと共に生きること”だった。研究はあくまで二人の病気を治すためであり、マイロへの手紙に書いた「ヨボヨボになるまで生きよう」という約束を守りたいが為に研究を続けた。

時に非合法な手段や方法を使い、それをマイロに協力してもらい……そんなある種の共犯関係は、モービウスにとっては最良の時でもあったのかも知れない。

しかし一方で、マイロはそんなモービウスにどこかずっとコンプレックスを抱いていた。

病気がある以上、モービウスのような才能がないマイロの人生には何もない。

「仕事ってものがあってね」

「そんな言葉聞いたことない」

というモービウスとの会話にしても、冗談めかした言葉ではあるが、マイロにとっては“仕事をする”ことすらも遠い夢のようなことだったのだろう。

マイロは資金面でモービウスを支援し、汚れ仕事のすべてを請負ってきた描写がなされている。スネに傷のある傭兵を雇い、モービウスの希望があればその死を隠蔽も出来る。

冒頭モービウスがコスタリカに行く際のヘリを用意したのもマイロだろうし、マイロの資金なしで研究は成り立たない。

けれどどこか、マイロにはモービウスのような生への強い渇望が見えない。マイロは常にどこか諦めており、だからこそ、命を狙うような相手にイカサマポーカーを仕掛け、危ない橋を渡ることさえする。

才能もなく、未来もなく、しかし潤沢な資産だけはある……“あの世に金は持っていけない”と言うが、まさにマイロからすれば、そんな痛みをずっと抱えて生きてきたのだろう。

マイロは、本当の意味でモービウスの実験が成功するとは信じていなかったのではないだろうか。或いはむしろ、成功“しないで欲しかった”のではないか。

マイロはこれ以上、モービウスに置いていかれたくなかった。だからこそ、彼は同じ力を手にした時、親代わりのニコラスも、モービウスの恋人であるマルティーヌも殺してしまう。

マルティーヌの血を飲んだモービウスへ放つ

「これで君と僕だけだ」

の言葉には、心からの喜びがあり、ホリゾンで血清を打つのを拒否された際に浮かべた表情には、怒りや恐怖よりも心からの失望と哀しみがあった。

「死ぬ日が来るまで一緒だ、兄弟」

マイロの言葉を、モービウスは生きるための言葉として受け取っていた。

けれどマイロは、本当のところモービウスと一緒に生きたかったのではなく、“一緒に死にたかった”のだと思う。

自分たちの未来について、彼は一度も、想像すらしたことがなかったのではないだろうか。

キャラクター考:もしも1時間健康な姿になれたなら……マイロが見た夢

メインの登場人物が少なく、小規模な範囲で展開していく今作だが、詰まるところすべては、“1時間健康な体を手に入れた”マイロの最後の夢だったのだと思う。

「恋愛だけはするなよ」とモービウスに忠告し、恋は本の中のものだと諦めていた。だから力を手にしたマイロはクラブに行き、ナンパの真似事をし、邪魔をした男たちを殺す。

マイロは今作でヴィランに位置付けられてはいるが、その悪に、理念や目的は一つもない。ただ彼は、自由を謳歌し、食事(吸血)をし、健康な身体を楽しんでいただけだ。

筋肉質になった身体で鏡の前でポーズを決め、筋トレをし踊りながら服を着替える姿は、無邪気な少年そのものであり、そんなマイロが、人生の中でどれほどのことを諦め、どれほどのコンプレックスを抱えてきたのかが垣間見える。

モービウスには、マルティーヌがいた。恋をし、不器用なキスを交わし、彼女は異能に変化した身体さえも受け入れてくれた。

モービウスには、ニコラスがいた。才能を認め、仕事を与え、支援してくれる親代わりがいた。

モービウスには、仕事があった。勤める場所があり、功績と信用があった。

マイロは、そのすべてを奪う。それは、モービウスがマイロを置いていく理由で、二人だけの世界に不要なものたちだから。

世界は彼から奪うばかりで何も与えてくれなかった。義兄弟であり親友は、同じものを見ているはずなのにそのすべてを持っていた。

だからマイロは、モービウスにも“レッド”の誘惑に堕ち、自分と同じ場所に来いと促す。“一緒に死にたかった男”は、異能となることで、今度は一緒に生きる未来を夢見てしまった。

モービウスとマイロの最後の戦い、マイロは倒れ込むモービウスを不安気に覗き込む。この戦いも、マイロにとってはモービウスを殺すためでなく、説得する為の戦いだった。

「殺さないよな?」

吸血鬼となったマイロは、もう死を望んでいない。死を望む理由は取り払われ、共に生きるべき兄弟は同じ異能なのだから。今の彼には争う理由も、殺される理由もわからない。

マイロの痛みが中心軸となる分、その他のキャラクター描写は薄くなる。

マルティーヌがモービウスに惹かれた理由も、彼らの関係性も深くは描かれないし、ニコラスとモービウス・マイロの間にある信頼や、二人への接し方の差も推し量るしかない。今作は、あくまでモービウスとマイロの関係性を軸に物語は進む。

演出論②:共生出来なかったことでモービウスはヴィランに傾いていく

前二作で書いてきた通り、SSUの物語には、“共生”というテーマが共通して流れていたように感じる。今作では、義兄弟の絆と、その見解の違いにより、共生が崩れていく様が描かれた。

これは6作目『クレイヴン・ザ・ハンター』とも共通するテーマであり、クレイヴンもモービウスも、映画のラストではダークヒーローよりもヴィラン側に寄っていくような演出がなされる。

ヴァンパイアというモチーフは、元来人間との共生が可能か否か、というテーマで語られがちだ。

人間の血を吸うことでしか生きていけない異形の怪物。その“食事”は人間世界での“殺人”=罪であり、罪人でなくなるということは彼らの死を意味する。どう足掻いても、人間との共生が叶わない存在。それは人間の脳を食べようとするシンビオートとも通ずる。

モービウスはマイロと違い、船上で傭兵たちを殺して以降は、自身が作ったブルーを摂取し、絶対にレッドを吸おうとはしなかった。モービウスは自身の人間性を守り、人間として生きるため衝動を抑えていたのだ。

それを表すため、劇中ではわざわざFBI捜査官の口から「傭兵は死んでも良い」とまで言わせ、犠牲者としてカウントしないように演出している。これに関してはシリーズ全体の課題である雑演出の極みで、その倫理観も含め納得は出来ないのだが、とにかくモービウスは今作ラストまでは、人間と共生できる側にいたということだ。

しかし、終盤で彼は、遂にマルティーヌの血を吸ってしまう。彼女に促されたとは言え、その身体にレッドを取り込み、真の力を手に入れることでマイロを殺す。

故に彼は、コウモリと共に街を飛び出していくしかない。これはモービウスのオリジンであり、スパイダーマンシリーズのヴィランの誕生譚になるはずだった物語なのだ。

シリーズ論:統括者不在のSSU……無計画なユニバースの接続

ヴァルチャーはMCU世界のヴァルチャーなのか、それは今でもわからない

今作は本編にも確かに雑な演出や不自然な編集が見られたが、やはり問題となったのはポストクレジットの演出だろう。

ここでの展開が物議を醸し、何よりSSUがユニバースとして非常に無計画なストーリー展開をしていることが露見した出来事だったように思う。

ヴァルチャーが刑務所に現れるシーン……これはまさしく『スパイダーマン:ノー・ウェイ・ホーム』(2021)でのマルチバース演出を彷彿とさせ、物語はそこから直接的に繋がっているように見える。

……が、実はここにMCU側との整合性はまったくなく、同作はドクター・ストレンジの失敗により、“スパイダーマン=ピーター・パーカー”という事実を知る、あらゆるアースの存在(主にヴィラン)がMCU世界に集まった、という設定の物語だ。そういった意味でヴァルチャーはそこに当てはまっているように思えるが、彼はそもそもMCU世界の住人である。そのヴァルチャーが別アースに行くのでは、ドクター・ストレンジの魔法の効果そのものが変わってきてしまう。

更に、当然SSU世界では何の罪も犯しておらず釈放されたヴァルチャーはモービウスに接触し、「俺たちが手を組めばいいことができる」と共闘をもちかける。その際には「スパイダーマンの話だ」とスパイダーマンのことにも触れている。

しかしヴァルチャーがマルチバース間を移動する描写があった以上、SSU世界のスパイダーマンはMCU世界のスパイダーマンとは別人のはずで、かつ、SSUにはここまで三作スパイダーマンの気配もないので「スパイダーマン」という単語が通じること自体まず違和感がある。

そもそもモービウスは今作劇中一度たりとも自ら悪事を行うことはなく、スパイダーマンと敵対する理由がない。

ヴァルチャーがスーツを着ているのも問題で、この世界では無一文、身分すらないはずの彼がいつの間にスーツを作ったのか……。まず、恐らく本編最後に行方を晦ましたはずのモービウスとどのように連絡を取ったのか……。

MCUヴァルチャーは『スパイダーマン:ホームカミング』のラストを観る限り、必ずしもスパイダーマンに憎しみを抱いているわけでもなく、彼の秘密を守ろうともしていた。わざわざ別世界のスパイダーマンと戦うのもおかしければ、逆にモービウスを自分の世界に連れ帰って復讐しようとしてもおかしくなる。

仮に、このヴァルチャーがMCU世界と役者が同じだけの“別アースのヴァルチャー”だったとしても、マルチバース間移動の説明がつかず、ここでミスリードを生む意味もないだろう。

SSUにシリーズ統括者がいなかったことの弊害

これは、まさしくSSUがユニバースとしての統括がなされていなかった証左ではないだろうか。

MCU側のストーリー展開の影響で、本来予定していたヴァルチャーの登場シーンをそのまま使えなくなったのも確かだろう。コロナ禍でスパイダーマン関連作品の公開順に大幅な入れ替えが起こり、それぞれの物語に合わせる必要があったのも難しかったのだと思う。

MCUプロデューサーであるケビン・ファイギはSSUの展開について「先走り過ぎないように」と警告に近い言葉を発していたようだが、この連携の悪さは両シリーズ共に責任がある。

勿論この時期……コロナ禍やDisney+オリジナルコンテンツの量産でMCU側の統括すら取りきれなくなっていたと噂されるファイギに全責任があるとも言えず、SSU側にファイギのような全作品の統括プロデューサー、ストーリーテラーがいなかったのが一番の問題だ。

結果として、このシーンの謎は2026年の今日に至っても回収されてはいない。2026年7月、MCUスパイダーマン最新作『スパイダーマン:ブランド・ニュー・デイ』が公開されるわけだが、ここでMCU世界のヴァルチャーについて、「現在でも刑務所内にいる」ということが明言されるようであれば、SSUは本格的に“なかったこと”にされた可能性すらある。

総括:SSUの混乱に巻き込まれ、必要以上に評価を落とした作品

単純に一映画として見れば、今作はやや雑なアメコミ・ヒーロー映画であり、批判はされてもネットミームになるほどの酷評はされなかったかも知れない。しかし、ヴェノム二作によりシリーズに掛かっていた期待、MCUマルチバースへの不整合な繋がりや、それを匂わす予告・プロモーションにより、その評価を必要以上に落としてしまったのではないだろうか。

そこにはやはり、巨大IPに縋らざるを得なかったコロナ禍での映画産業の混乱も無関係ではなかったはずだ。

SSUの製作環境の綻びも今作で表面化されてしまい、原作要素の取り入れや、次作へ繋がる伏線も無計画なのではないか?と思わせる一因になってしまった。

血を吸われ目覚めたマルティーヌや、原作ではヴァンパイア・ハンターとして活躍するサイモン・ストラウドのFBI警官としての登場など、まだまだ続きを作る余地はいくらでもあった。

サイモン役のタイリース・ギブソンは自身の演じたシーンの多くが公開版からは削られているとも語っており、本当に、当初予定していた物語として作られていたらどのように評価されたのかも気になるところだ。

ただそれでも、生を諦め、生に縋り、世界でたった一人の義兄弟との関係だけがすべてだった孤独な男。共に生きることではなく、共に死ぬことを望んだ彼が、“生きる楽しみ”を知ってしまったことが、二人の関係を決定的に引き裂いてしまった事実。

そんなマイロの孤独の物語は、やはりどこか嫌いになれないのである。

「僕に名前をくれた。覚えてるか?」

モービウスは、自分のベッドの隣に来た患者すべてをマイロと呼んだ。そして何人ものマイロを喪ったのだろう。けれど、孤独だったマイロにとってはたった一つの名前であり、本名よりも大切な、モービウスとの絆だったのだ。

マイロは今作において悪だった。けれど、そんなマイロと生きられなかったことで、ラストでモービウスが悪へと傾いていく予兆を見せて物語は終わる。それは、うまく演出すればSSUの大きなテーマになり得たはずであり、今作で描かれた物語も、軸はきちんと通っていたのだ。

次作『マダム・ウェブ』では、まるで今作と反するように、居場所のない少女たちと一人の女性が、蜘蛛の糸を中心にヒーローとしてまとまっていく。SSUから周辺のトラブルを除き、物語だけを取り出すと、また別の見え方も出てくるのだ。

評価/鑑賞日

⭐ 2.5 / 5.0
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ヴェノム(2018)

ヴェノム:レット・ゼア・ビー・カーネイジ(2021)

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