Sony’s Spider-Man Universe全作品レビュー5
――共生は困難だ 恐怖も,怒りも平常だ だからこそ,僕たちには彼らがいた 「We」 are Venom!
この作品はどんな作品?
SSUシリーズ5作目であり、ヴェノム三部作完結編で、実質的なSSUの終焉。
拙い演出、散漫な物語……エディとヴェノムの別れへの感情移入は阻害され、アクションも数は多いがキレはない。しかし、共生を描いたシリーズの終幕に、二人の絆こそを最大の脅威とした物語の意味は間違いなくあった。
この作品はどんな人にオススメ?
SSUヴェノムとエディの物語の終幕を見届けたい人。
ヴェノムの能力をふんだんに使い切ったアクションの数々が観たい人。
まだトム・ハーディのヴェノムの復活を諦めていない人。
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作品データ
原題:Venom: The Last Dance
監督:ケリー・マーセル
脚本:ケリー・マーセル
(原案)ケリー・マーセル/トム・ハーディ
原作:Marvelコミック『ヴェノム』
デイビッド・ミッチェリニー/トッド・マクファーレン
音楽:ダン・ディーコン
撮影:ファビアン・ワグナー
上映時間:110分
出演者:
エディ・ブロック《ヴェノム》:トム・ハーディ
レックス・ストリックランド:キウェテル・イジョフォー
テディ・ペイン博士:ジュノー・テンプル
セイディ・クリスマス:クラーク・バッコ
パトリック・マリガン:スティーヴン・グレアム
チェン:ペギー・ルー
マーティン・ムーン:リス・エヴァンス
ノヴァ・ムーン:アラナ・ユーバック
エコー・ムーン:ハラ・フィンリー
リーフ・ムーン:ダッシュ・マクラウド
バーテンダー:クリスト・フェルナンデス
ヌル:アンディ・サーキス
※本レビューにはネタバレを含みます。
総文字数:11287文字
読み終わるまでの時間:約29分
前作レビューはこちらから
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製作背景:シリーズ脚本家 ケリー・マーセルの監督就任と三部作構想
ケリー・マーセル監督による、《SSU(=Sony’s Spider-Man Universe)》の第5作目にして、2026年現在、トム・ハーディ主演の『ヴェノム』シリーズ最終作である。
ハーディは1作目『ヴェノム』公開直前の2018年8月に今作を含む三作品分の出演契約を結んでおり、当時まだSSUの企画進行も未定な中、既にヴェノムには三部作としての構想が出来上がっていたようだ。
三作品すべてで脚本に関わったマーセルは、主演のハーディと共に2022年には今作の脚本執筆を始めており、その後同年10月に監督として起用された。前作監督のアンディ・サーキスの復帰も検討されていたが、サーキスは前作『ヴェノム:レット・ゼア・ビー・カーネイジ』の撮影のため延期していた『アニマル・ファーム』(2026)の企画を動かすために参加を見送り、結果としてマーセルが脚本と兼任で映画監督デビューを果たすことになる。
マーセルとハーディはシリーズ開始以前からの友人でもあり、Sonyから監督を打診されたマーセルを、ハーディは強く後押ししたとも伝えられている。今作の脚本も、ロンドンのホテルにこもって二人で仕上げたのだと言う。
マーセルは1作目時点から足繁く撮影現場に通い、シリーズの製作には単なる脚本家の一人と言う以上に深く関わっていた。三部作の締め括りである今作で監督を務めるのは、主演のハーディにとっても必然だったのだろう。
企画が本格化した2022年中頃は『モービウス』の公開直後……興収・批評的な落ち込みはありつつ、まだシリーズは修復可能な状態に見えていた。けれどここまで四作の製作背景を見るに、脚本執筆時点で『スパイダーマン』シリーズへの接続はもう手詰まりな状況であり、ユニバースとしての計画は当初の予定からかなりズレてしまっていたのではないかと推測できる。
マーセルは今作の物語について、「ファンの話を聞いたり、できるだけ多くの意見を取り入れた」とも語っており、“ヴェノムの可愛さ”というイメージと、シリーズ構成の揺らぎに振り回され続けた製作過程でもあったのだと思う。
今作公開時点でSSUのシリーズとしての評価は完全に落ち込み、世間的にはコロナ禍を経た後、MCUを含むアメコミヒーロー映画全般が“ヒーロー疲れ”という言葉で一括りになっていた時期でもある。興収は三部作で最も低い4億7000万$強であり、批評についても前2作に比べ、好意的な意見よりも否定的な意見が多く散見された。
映画単体の出来で見ても、SSU唯一とも言って良い人気キャラクター:『ヴェノム』シリーズの幕引きとして、相応しい作品だったとはとても言い難い。しかし、ヴェノムとエディの共生から始まったユニバースが、その中心にいた二人が離れることで終わりへと向かっていく……そんなSSUの終わりを語る物語として、ただの一作品以上に意義深い作品でもあるのではないだろうか。
原作比較:シンビオートの親であり闇の王:ヌルというヴィランの登場
原作ヌルの設定〜初登場はSSU開始と同時期
今作のヴィランであり、シンビオートの王・邪神:ヌル。長い歴史を誇るMarvelにおいてその初出は新しく、存在が匂わせられたのが2013年、『Venom Vol 4 #3』(2018)で本格的にその姿を表し、続く『Venom Vol 4 #4』でその名とシンビオートとの関わりが語られた。
基本的に物語が終わらないアメコミ作品ではよくあることなのだが、原作でのヌルの登場はこれまでのシンビオートの設定を根底から覆すものであり、ヴェノム達のオリジンには新たな設定が付与されることになった。
ヌルは宇宙創生以前の虚無の中にいた唯一の存在であり、ビッグバンにより“光の世界”を生み出した神々(=セレスティアルズ)を憎み、自らの深淵から生み出したシンビオート達を兵に光との戦いを続けてきた。シンビオートはヌルが無尽蔵に生み出すことの出来る私兵であり、その共生能力は“光の支配”を目的としたものであったという理由付がされたのである。
シンビオート同士を繋ぐ集合意識から彼らを洗脳し、思いのままに操っていたヌルだが、原作では《マイティ・ソー》の雷撃によりその意識は切断され、シンビオート達が解放されてしまう一幕があった。
自由を得たシンビオート達はヌルの意図しない宿主との共生を開始し、そこで光の側の精神を学んだことでヌルに反旗を翻すこととなる。
シンビオート達はヌルを封印し、自分達の歴史を“ヌルのいなかった世界”に改竄して語るようになった……ヌル登場以前のシンビオートのオリジンは、すべてこの改竄された歴史だったということになったのだ。
ヌルの存在が明らかになったのはSSU1作目『ヴェノム』公開とほぼ同時期であり、当然この段階でヌルの設定が取り入れられていたはずもないが、アメコミ作品はこのように後付けで設定が膨らんでいくことなど日常茶飯事だ。
今作は“ヌルの物語の始まり”の役割も担っており、初めてそのヴィジュアルが出されたのもヴェノムの単独シリーズと言うことで、最終作に相応しいヴィランとして満を持しての登場だったと言える。
コーデックスの設定変更と別離の物語
基本的な設定は今作冒頭でヌル自身が語った通り、凡そ原作通りの背景を持つキャラクターであるが、《コーデックス》の役割にはわかりやすい改変が加えられている。
原作でのコーデックスは過去にシンビオートと共生したすべての生物のDNAに残る痕跡であり、これを大量に吸収することで、ヌルを解放する力が得られるというもの。
今作でもヌル解放の鍵になるという点は共通しているが、一度死んだ宿主をシンビオートが共生によって蘇生することで生成されるものと設定された。
これにより、コーデックスは地球上でヴェノムとエディの体内にだけ存在する“絆の証”という意味が生まれ、それが逆説的に彼らの命と、地球の存亡に関わると言う、今作の別れの物語に繋がる要素として機能している。
また、ヴェノムとエディが完全な共生体とならない限り知覚されないという要素を付け加えることで、戦闘においても全力を出せないハンディを背負わせることが出来た。
ゼノファージも原作においてはシンビオートを好物とする、ヌルとはまったく無関係なエイリアンなのだが、今作ではヌルが使役する意志を持たない化け物として描写される。
原作のゼノファージは言葉も解し意志の疎通も可能であるが、今作ではその要素を排すことで、これまで二作のようなヴィランとの対話の余地がなくなった。
エディ以外の目から見たゼノファージとシンビオートに大きな違いはなく、終盤のストリックランドの「(こいつらは)まだ友人か?」という台詞もそれを強調している。
物語のテーマを語る上で、ゼノファージを怪物化し、サメ映画やゾンビ映画のような、《モンスター・パニック映画》として表現することで、前作で「差別は断固反対だ」と言わせた“エイリアン”を、圧倒的に共生不可能な存在として描く必要があったのだろう。
シンビオートも人間も無慈悲に喰い殺すゼノファージは、シリーズで初めて現れた“理解不能な脅威”だが、人の脳を食べたがるヴェノムらシンビオートもまた、人間の立場から見れば本来同じようなものなのだ。
アクション論:思いつく限りのシンビオート・アクションは楽しいが……
脚本と監督の違い〜脚本の説明文になってしまった映像
今作はアクションについて語る前に、まず演出全体の問題について語らなくてはならない。
監督のマーセルは元々脚本業一本であり、長編映画監督としては今作が初であることは既に述べた。
あくまで私見ではあるが、映画監督の仕事は“脚本を再現すること”ではない。むしろ、脚本に書かれた言葉を取捨選択し、映像や役者の演技にどこまで委ねるかを決め、映画という箱に収めるのが役割と考えている。
これは『X-MEN:ダーク・フェニックス』(2019)で、同じく脚本家のサイモン・キンバーグが監督にシフトした際にも同じことを感じたのだが、この二作は、脚本に描かれた要素を説明するため、映像にあらゆるジャンルが詰め込まれ過ぎている。
今作においても空中戦・水中戦・地上戦、シンビオート大集合に、カジノ、ロードムービー、チェンさんとのダンスシーンではミュージカル演出まで飛び出す。
恐らく1作目にしろ2作目にしろ、脚本の作り方自体はそこまで変わっていないのだと思う。
そこで、1作目のルーベン・フライシャーはヴェノムとエディの関係性に絞ってオフビートなコメディに仕上げ、
2作目のサーキスは自身のモーション・アクターとしての経験を活かしたアクション大作として映画を仕上げた。
両監督の場合は、“撮りたい画”が明確にあり、それに合わせて脚本から必要な要素を抽出していたのではないだろうか。
マーセルもキンバーグも共に脚本家としてシリーズに深く関わり、原作コミックへの愛情も、“語りたい物語”も無限にあったのだろう。
しかし、結果としてそれらを時間一杯に詰め込むことで、一本の映画としては散漫になり、画の強さに欠けることで肝心な物語のテーマさえ見え難くしてしまった。
この二作には、画が物語の説明文になってしまっているという明確な弱点が共通している。
状況に違いはあるが、前作『マダム・ウェブ』監督のS・J・クラークソンもまた、TVドラマ演出の経験は長いが映画監督としてはほぼ未経験だった。製作・企画は数年掛けて動く為、あくまで“結果として”という話ではあるが、SSUというシリーズの屋号自体が崩れかけている段階で、二作続けて長編映画デビュー作となる監督を起用したのは、やはり悪手だったのではないだろうか。
地上・空中・水中戦にシンビオート大集合とピークがあり過ぎるアクション
前述の通りアクションシーンには様々なバリエーションがあり、序盤は10分に一度程度のハイペースで大掛かりなアクションが繰り出され、大作映画としての満足度は高い。
最序盤の悪党を倒すシークエンスは、これぞシンビオート!と言った触手を使ったアクションで、銃弾をガードしたり、触手で伸ばされたエディ自身が蹴りを喰らわせたりと、本当の意味でヴェノムとの共闘が見られるのも楽しい。
檻に入れられた犬を逃して襲わせたり、悪党を逆に檻に入れたりと、ここだけでも見所は多く、最後に悪党4人を並べて頭を齧るのも、テンポ感がポップなのでゴアには寄らない。
今作もこれまで同様PG-13指定ではあるが、最終作にしてようやく、控えめながらハッキリ頭を食べるシーンが画面に映ったのも、嬉しいポイントだ。
ヴェノムの触手で飛行機に張り付くと言うのは、1作目でのスパイダーマン不在の壁張り付きへのアンサーの様で微笑ましい。シンビオートの触手がベタベタ便利器具になっているのは気になる人もいるかも知れないが、映画と言う視覚表現においてはわかりやすさ第一だ。
上空で寒がるエディに文句を言いながらも完全体になって防護するヴェノムは可愛らしく、SSUヴェノムは中身も外見もベタベタで良いのだ。
馬ヴェノムに振り回されるエディは1作目のバイクチェイスのオマージュを感じさせ、水中戦では魚ヴェノムに蛙ヴェノムまで見られる。この水中戦はCG合成ではなく実際に水の中で撮影を行っていると言い、ヴェノムというどうしてもCGに頼らざるを得ない作品の中で、かなり肉体的なアクションを魅せてくれる。
ラストの大量のシンビオート達と共にゼノファージと戦うシークエンスも、爆炎が舞いヘリが飛び、シリーズの看板となったバイクアクションも楽しめる。
ヴェノムとの共闘はバイクに始まりバイクに終わる……映画独自の設定である“バイカーとしてのエディ”が最終作まで活かされ、大規模なアクションはやり残したことをやり尽くすかの如き大サービスだ。
こうしたアクションの数々は確かにこれまで以上に楽しいのだが……とにかく多様な要素をひたすらに詰め込んだ結果、一つ一つの印象が薄まり、アクションのテンションが一定化してピークがなくなっている様に感じてしまう。
ラストでバイクに乗るなら馬ヴェノムはいらなかっただろうし、滝から落ちるシーンと飛行機からヴェノム・パラシュートで降下するシーンも印象が似通っている。
演出論①:チープ過ぎる演出の多用と、物語のテーマを見え難くしてしまう荒さ
不慣れな演出に感じる映画としてのチープさ
その他演出面でも、マーセル自身の演出の拙さに、シリーズ全体に通ずる詰めの甘さが同居してしまっている。
まずは何より、音楽の使い方がお定まりなのが気になる。
馬ヴェノムが走るシーンでのQUEENの「Don’t Stop Me Now」、
ムーン一家とのドライブ・ロードムービーのシークエンスで歌われるDavid Bowieの「Space Oddity」、
チェンさんとのダンス・シーンで流れるABBAの「Dancing Queen」……
どれも60〜70年代を感じる最高の名曲だが、この選曲は型通りの意味合いで安直過ぎる上に、物語としての必然性がない。
ヴェノムやエディの人生に特別関係がある曲というわけでもなく、ムーン一家に関連したヒッピー文脈の曲でもない。年代を考えてもマーセルやハーディの青春時代の曲というわけでもないだろう。
ヴェノムの原作初出は大きく幅を取っても1984〜1988年の間なので、そこに関連があるわけでもない。
映画開始1分、ヌルが登場するオープニングは最大の問題点だ。これは今作において……いや、本来ここから続いていくはずだった物語において、最大にして最強の脅威:ヌルの顔見せであり、その圧倒的な存在感を観ている側に感じさせなくてはならない。
……が。
「我はヌル……」
原語で言うと、「I am Knull」
冗談ではなく、本当にこの通り。
自己紹介である。誰に向けてなのか、ゼノファージと彼しかいない囚われの空間の中で、観客である我々に自己紹介を始めてしまう。
言うまでもなく、デッドプールやシーハルクのような、《第四の壁》を破り観客に語り掛ける、という演出ではない。
これは本当に擁護のしようもなく、映画の撮り方に慣れていない、脚本の内容をそのまま映像化した、としか言いようがない演出であり、映画開幕早々、ヌルという非常に重要なキャラクターでそれをやってしまったことで、観ている側の士気も一気に下がってしまう。
今作には、こうしたあまりにもチープで稚拙な演出が多過ぎる。
ラストのエディが一人歩きながらヴェノムの思い出を回想するシークエンスにしても、Maroon5の「Memories」を流す“泣き”の演出はさすがにやり過ぎであるし、それが妙に長いのも気になるところだ。
ストーリー展開に影響が出てしまうほどの演出の甘さ
演出の甘さは、折角の物語のテーマを語る設定までも曖昧にしてしまい、コーデックスの設定はまったく活かされていない。
ヴェノムが完全体になれないというハンディがありながら、何パターンもあるアクションでそれが影響するシーンがないのは片手落ちだ。
にも関わらず、チェンさんと踊りたいという理由でわがままにヴェノムは完全体になり、アッサリとゼノファージに捕捉され、ストリックランド率いる軍に捕まってしまう。
前作でチェンさんに寄生したこともあったのだから、チェンさんの身体に入って踊れば、より素晴らしい思い出が作れたのではないだろうか。
終盤のシンビオート大集合にしても、これまで語られてきた“シンビオートと人間の相性”を考えるとあまりにも適合者が多過ぎる気がする。
今作冒頭では2作目ラストで意味ありげにシンビオートの寄生を匂わせられていたマリガン刑事が再登場し、彼はあのシンビオートと相性が悪く、「捨てられた」ということが語られている。シンビオートとの相性という設定は変わらず今作でも存在しているのだ。
特に今作はエディとヴェノムの別離の物語であり、彼らが如何に奇跡的な相性だったかを描いて欲しい中で、あんなに沢山の共生体が生まれてしまうのはやはり違和感がある。
これでは、1作目で死んだマリアやドーラが報われない。
後付けかつ、原作から改変して新たに設定したので参考にする物語もなく、詰めの甘さが出てしまうのもわかるのだが、肝心のコーデックスの設定に説得力がなければ物語に大きく影響が出てしまう。
“一度死んだ人間をシンビオートが蘇らせた際に生成される”という設定の定義が明確でないので、例えば研究所の警備員であるジムがシンビオートに寄生された際には生成されていないのか?という疑問は出てしまうのではないだろうか。1作目のエディにしろ、明確な死が表現されたというより仮死状態にも見え、その差異はもっと映像として強く出すべきだった。
ジムは1作目でライオットに貫かれたエディと同じくゼノファージの触手に貫かれており、その状況が被っているため余計に引っ掛かりを感じる。
説明台詞でも何でも良いので、死者に対して「あいつは救えない、コーデックスが生まれる」のような台詞をシンビオートに言わせるなどの工夫は欲しかった。
今作の演出には、こうした物語の根幹に関わるものや、前2作で積み上げた設定を崩してしまうものがあるのがどうにも気になるのだ。
細かい点ではあるが、序盤の悪党退治で母親の話が出た際のエディとヴェノムの冗談めかした反応も、前作でクレタスに語らせたエディの生い立ちを考えると違和感があった。
あの台詞も唐突ではあったが、今作はヴェノム最終作として、これまでの描写について無視するような演出はすべきでなかったと思う。
物語論:共生の困難とヴェノムとの別離……物語はそれを描くだけで良かった
アメコミ・ヒーロー映画シリーズの三作目は失敗作が多い?
物語については、“アメコミヒーロー映画2作目傑作説”に続き“アメコミヒーロー映画3作目の呪い”という説を提唱したい。
三部作構成が多いこうしたシリーズの中で、3作目というのは評価を落としてしまうことが多いように感じる。
サム・ライミ版『スパイダーマン3』(2007)は興収と反比例して評価を落とし、シリーズはライミ降板と共に打ち切りになった。冒頭で例を挙げた20世紀FOX版『X-MEN』も初期三部作の3作目『X-MEN:ファイナル ディシジョン』(2006)は決して評価の高くない作品だ。
三部作の完結編は、物語の本筋に加え、これまで張ってきた伏線の回収、三作で貫かれたテーマの結論を描く必要があり、かつこうしたコミック原作の作品では、グッズ商戦の観点から“これまでに登場していない新しいキャラクター”も出す必要がある。
結果、そうした要素の一つ一つが散漫で浅くなり、肝心の物語の本筋、テーマの結論が描けなくなることが、評価を落としてしまう要因の一つであるのではないだろうか。
今作においても、前述のマリガン刑事やヌル、終盤でのシンビオート達に加え、物語にはペイン博士の過去やクリスマス博士、ストリックランドや、ムーン一家の背景まで描かなければならなかった。
これが、ヴェノムとエディの別れの物語への集中を削ぎ、二人の旅の終わりに繋がる感情を薄めてしまう。
前作ラストで誰もが期待したマリガン刑事のシンビオート:トキシンが出ないのであれば今作でマリガンは出すべきではなかったし、ペイン博士が兄を救えなかった過去を清算するようにクリスマス博士を救うラストも、エディとヴェノムの別離のカタルシスを邪魔するだけだ。
これまでレギュラーだったアンとダンを削ってまで、新しいキャラクターの背景を描く必要はなかった。今作の物語はエディとヴェノムの共生の終わり……エイリアンとの共生の意味を問いながら、二人の避けられぬ別離を描くだけで良かったのだ。
共生を巡る困難と立場による目線の違い
コーデックスは、エディとヴェノムの劇中時間1年間、そして観客としては1作目『ヴェノム』からの6年間の絆の象徴だ。
今作のゼノファージの姿に表されるように、本来であればシンビオートは捕食者の側であり、人間の脳は食べ物だ。ヴェノムは、そんな“食料である”エディの命を救った。互いに落ちこぼれで、不完全で、弱かったからこそヴェノムはエディを救い、“残虐な守護者”となった。
今作では、この二人の絆こそが最大の弱点であり脅威になる。どちらかが死ななければ消えないそれがある限り、ヌルとゼノファージは、永遠に彼らを追ってくる。
物語に描かれるのは共生の終わりであり、共生の難しさへの問い掛けだ。
それは劇中、至るところで対比的に語られている。
ムーン一家は父であるマーティンがエイリアンに夢を見ているが、息子のリーフはエイリアンに恐怖を感じている。
ストリックランドはシンビオートが地球にやってくることを“移住”と表し、ペイン博士は「逃げてきただけ」と応える。
これは2020年代のアメリカにおいての移民問題への向き合い方に通ずるものであり、エディとヴェノムが目指す場所が、移民に対しての歓迎を表すシンボル:《自由の女神》なのも象徴的だろう。
今作は“共生”というテーマに、単純な善悪や倫理以上の問い掛けをしてくる。
言葉の通じないゼノファージの存在は異文化・異人への恐怖の具現化のようであり、人間を救うために戦うシンビオート達が味方をしたはずの軍のロケットランチャーに焼かれるのも、理解と共生が追いつかないが故の悲劇だ。
だからこそ、今作には“言葉を発するヴィラン”がいない。ストリックランドとて、ヴィランではない。彼は立場の違う正義であり、部下の死に憤るキャラクターとして表現されている。
奇跡の様なエイリアンとの共生……その先に描くべき物語はまだあった
今作にはそうしたテーマを描くべき物語の種は幾つもあった。
しかしその難しいテーマに対し、描くべき要素があまりにも多過ぎ、かつその取捨選択が出来るほど、マーセルには映画監督としての経験もなかった。
中盤でエディが、自らの手で人を殺しヴェノムと口論するのも、本来ならば今作の中心となるべき物語だったように思う。けれどそれは2作目の喧嘩の再演にしかならず、いつの間にかその諍いは解決してしまう。
人間の脳を食べるシンビオートは、本来なら人間の天敵のような存在で、共生は難しい。
それでもそんなエイリアンとでも共生し得る未来……そんな希望を三作掛けて見せてくれたのが、ヴェノムとエディだった。
そうしたこれまでの軌跡と、それでも完全な共生が望めない痛みを描けていれば、ムーン一家とのロードムービーでの「この家族を喰わないで良かった」という台詞にも、自由の女神に対する「彼女に会いたかった……」という言葉にも意味が生まれていただろう。
これまで、エディ達はギリギリの綱渡で共生を続けてきた。
「人を食べない」とルールを張り出し、悪人だけを退治し、互いの領域を守る……
今作でも、エイリアンを恐れていたリーフは最後にはヴェノムに笑顔を見せ、ストリックランドもヴェノムと共闘し命懸けで地球を救う。
共生の道は、確かに見えていたのだ。
ヴェノムとエディは、『E.T.』(1982)の様に指を合わせたりもしない。そんな型通りの理解よりも、ヴェノムは離れることで、犠牲になることで、何よりも大切な相棒を救う道を選んだ。
病院で目を覚ましたエディに、政府組織の男は「元々彼とは共存できなかった」と言い放つ。
「他言しなければ過去の罪は問わない」とも。
エディとヴェノムの共生は、第三者によって否定され、秘匿される。彼らは自由の女神に辿り着けず、エディは一人で旅を終えたのだ。
恐らくSSUのシリーズが打ち切られなければ、ヴェノムの物語もここで一区切りはつけても、終わらせるつもりではなかったのだと思う。
原作のヴェノムは宿主を幾度となく変えながら結局エディのところへ戻る、を繰り返しており、今作でも、その伏線は張られていた。ハーディの契約もあくまで初期段階での三作契約であり、シリーズが続けば再度契約を交わすこともあっただろう。
ここで一度彼らの共生を否定し、終わらせたからこそ、本来であれば“その先の物語”が観たかった。
シリーズ論:ユニバース構築・マルチバースの繋がりを模索し続けたシリーズ
SSUというシリーズは、今作のみならず、これまでに幾度も、『スパイダーマン』やMCUに繋がる物語を模索してきたように感じる。
デイリー・グローブ、デイリー・ビューグルといった雑誌や新聞の名称、J・ジョナ・ジェイムソンに繋がる親族の存在、マルチバース間の移動、舞台設定や年代の調整……今作でのヌルの登場にしてもそうだ。
接続できる要素を散りばめ、その度に計画が変わり、バラバラの蜘蛛の糸は、どこにも繋がらずに終わっていったユニバース。
それはまるで、SSUというシリーズそのものが、スパイダーマンやMCUと共生出来なかったかのようでもある。
マルチバース間の移動に関しても、『スパイダーマン:ノー・ウェイ・ホーム』(2021)のポストクレジットでは、ヴェノムのシンビオートのカケラがMCU世界に残されている。
しかし、今作冒頭ではそのシーンが別のパターンで再演され、ヴェノムのカケラは、SSU世界のバーに残されたように描写された。
本記事執筆中の2026年6月現在、MCUのスパイダーマン世界のその後はまだ描かれていないが、今作でのこうした描写も、繋げられなければどうとでも理由がつくようにした、という見方も出来てしまう。
SSUは毎作品、いつも予定していた通りにいかず、その度辻褄合わせのように物語を微調整しているように見える。
ヌルは原作ではソーや《エターナルズ》とも繋げられるキャラクターであり、後の原作ではマルチバースの設定にも深く関わっていく。
うまくこれを活用出来れば、MCUのマルチバース・サーガと物語的な繋がりを生み、SSUの各作品に忍ばせた伏線も回収可能であったかも知れないが、現在のところ、MCUにはヌルの気配は微塵もない。
原作の設定を見ていくとわかるのだが、SSUの作品群は必ずしも、スパイダーマンを雑に扱ったシリーズではなかったのだと思う。
むしろ各作品、原作にある設定や物語を、その作品のテーマに沿って上手に改変しており、その原作へのリスペクトの姿勢に関して言えば、時にMCU以上だったとも言って良い。
今作でも終盤ゼノファージに脚を食べられた軍人を、わざわざストリックランドに「トンプソン」と名前を呼ばせている。これは原作でエディの後のヴェノムの宿主となり、戦争で脚を失ったという設定のフラッシュ・トンプソンへ繋がる要素だったのではないだろうか。
SSUは毎作品こうして、非常にコミックオタク的に今後のシリーズ展開への種を蒔いていた。そのほとんどが、単なるイースターエッグとして消費されてしまったが、ある意味でそれは、ギリギリの状況下で何とかシリーズを継続しようとした各クリエイターの奮闘の跡でもあるのではないだろうか。
総括:SSUはヴェノムに始まり、ヴェノムに終わった
今作は『ヴェノム』三部作の終わりであり、同時にSSU最後の作品と言っても良いだろう。
『クレイヴン・ザ・ハンター』は本来もう少し前に公開されるはずであり、仮に予定通りの公開順で上映されていたとしても、もうSSUの終幕は避けられなかったはずだ。
映画単体としての出来は、残念ながらシリーズでも最低だ。演出には不慣れなぎこちなさが溢れ、物語は散漫に散らばり、最も大切なヴェノムとエディの別れについても感情的な盛り上がりに欠けていた。
しかし、シリーズ全体に貫かれた“共生”のテーマの中心にいた「We」の終わりを描く事で、共生の困難を描き、それでも未来への希望を失わせない物語の結末を描こうとしたことは、特にアフター・コロナの世界において意味はあったのではないだろうか。
そして、シリーズの終焉を彩るのが、シリーズの始まりを告げた共生体の別離であることにも、やはり偶然にしては出来過ぎな創作の神の悪戯を感じてしまう。
共生できた者はヒーローとなり
共生できなかった者はヴィランとなったシリーズの中で、ヒーローで在り続けるために自ら共生の道を絶ったヴェノムの姿には、やはり、何故ヴェノムがSSUの中心だったのかの理由が詰まっている。
最後まで、SSUは『スパイダーマン』、MCUとの接続を模索し続けていた。それもまた共生の難しさを示す物語だったのかも知れないし、会社間の利権により思うように製作が進められない映画の世界の困難を示す良い例なのかも知れない。
次作はいよいよ、SSU2026年現在の最終作、打ち切り/リブートを決定づけた『クレイヴン・ザ・ハンター』。
人間と宇宙人の共生の成功と失敗、
義兄弟の共生の崩壊、
他人同士の共生とヒーローへの目覚めを描いてきたシリーズは、
実の兄弟の決裂の物語で幕を閉じることになるのだ。
⭐ 2.0 / 5.0
📅 2026/05/27(Netflix)
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