『ヴェノム』(2018)ネタバレ考察レビュー|SSUを始め、そして終わらせてしまった魅力的すぎるヴェノム

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Sony’s Spider-Man Universe全作品レビュー1

――オレたちなら何だってできる! 奇妙なエイリアンと共生した最悪のダーク・ヒーローの誕生譚

この作品はどんな作品?

スパイダーマン関連キャラクターシリーズ:SSU1作目にして『ヴェノム』シリーズの開幕。

アメコミ映画黄金期には似つかわしくない雑な演出と物語展開だが、ヴェノムというキャラクターの可愛らしさとエディとの夫婦漫才にすべてが帳消しにされた快作。不満も疑問も「でもなんか楽しい!」と言えてしまう。

この作品はどんな人にオススメ?

異星人・異能者・ロボットなど人外と人間のバディ・ムービーに心躍る人。

激しいアクションと派手な映像のスーパーヒーロー映画らしい明るい世界を楽しみたい人。

いまでもヴェノムの復活を待っている人。

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作品データ

原題:Venom

監督:ルーベン・フライシャー

脚本:スコット・ローゼンバーグ/ジェフ・ピンクナー

ケリー・マーセル

ウィル・ビール

原作:Marvelコミック『ヴェノム』

デイビッド・ミッチェリニー/トッド・マクファーレン

音楽:ルドウィグ・ゴランソン

主題歌:エミネム

「Venom」

撮影:マシュー・リバティーク

上映時間:112分

出演者:

エディ・ブロック/ヴェノム:トム・ハーディ

アン・ウェイング:ミシェル・ウィリアムズ

カールトン・ドレイク/ライオット:リズ・アーメッド

ダン・ルイス:リード・スコット

チェン:ペギー・ルー

ドーラ・スカース:ジェニー・スレイト

ローランド・トリース:スコット・ヘイズ

マリア:メローラ・ウォルターズ

クレタス・キャサディ:ウディ・ハレルソン

本レビューにはネタバレを含みます。

総文字数:11381文字

読み終わるまでの時間:約28分

〜筆者より〜

本日から三週に渡り、SSUのレビューを書いていく。

今回は第1作目ということもあり、かなりのボリュームになってしまったが、前提知識として入っていると、シリーズが何故うまく機能しなかったのかは理解しやすいはずだ。

世間では“打ち切りの失敗ユニバース”という扱いになってしまったが、筆者はそれでもどうしても嫌いになれない。

これから全六作、その理由も、そしてSSUとは何だったのか?についても語っていきたいと思う。

お付き合い願えれば幸いである。

目次

製作背景:棚上げされ続けたスパイダーマンの人気ヴィラン映画化企画

ルーベン・フライシャー監督による、Sony Pictures主導のスパイダーマン周辺キャラクターを描くシリーズ《SSU(=Sony’s Spider-Man Universe)》の第1作目で、スパイダーマンのヴィラン:ヴェノムを主人公とした作品。

(今作の時点ではSSUという名称は定まっておらず、Sony’s Marvel Universe、若しくはSony社内でSony’s Universe of Marvel Charactersと呼称されていた)

アメリカン・コミック……アメコミ映画史の話をする際、90年代のMarvel Comicsの状況について触れておかなくてはならない。

MCU(Marvel Cinematic Universe)が映画シリーズとして一躍有名になった現在では想像し難い話かも知れないが、90年代末期のMarvelは経営難に陥り、自社のキャラクター映画化権を大手映画会社にライセンスせざるを得ない状況にあった。詳しい内訳はここでは省略するが、その中でスパイダーマンと関連キャラクターの映画化権を持っていたのがSony Picturesである。

Sonyによる映画化第一弾が『スパイダーマン』(2002)から始まるサム・ライミ監督の三部作であり、本来であれば『スパイダーマン3』(2007)にヴィランとして登場したヴェノムのスピンオフとして映画化企画は始まっている。

が、同作でのライミとSonyの製作上の対立、及び『スパイダーマン4』の製作中止を経てその企画も頓挫し、シリーズは『アメイジング・スパイダーマン』(2012)へとリブートされた。そこでも再びヴェノムのスピンオフ作品を製作する計画があったが、『アメイジング・スパイダーマン2』(2014)は興行・批評両面で思った以上の成果が上げられず、ヴェノム登場の機会もないまま、またも企画は棚上げになってしまう。

そうしたスパイダーマンシリーズの不振を他所に、『アイアンマン』(2008)から始まるMCUは順調に作品数を増やしており、2014年には新たなスパイダーマンをMCUに出演させるための交渉も始まっていた。その後、第13作『シビル・ウォー/キャプテン・アメリカ』(2016)にてトム・ホランド演じる“(実写映画)3代目スパイダーマン”は初出演となり、単独作品製作前に“SonyとMarvelの共同製作契約”という形でシリーズに合流することとなる。

その傍、依然としてスパイダーマン関連のキャラクター映画化権を保持していたSonyは、MCUとは無関係な独自企画としてヴェノムの映画化を計画し、ようやく本格的に単独タイトルの製作が動き出した。

それでも、このヴェノムを含むスパイダーマンのユニバース計画はMarvel側とSony側とで関係者の公式発言すら内容が食い違っており、観客やファンの目に見える段階で既に前途多難な始まりではあったのだ。

2019年にはスパイダーマン映画化権における利益分配交渉が難航し、MarvelとSonyの提携継続が一時危ぶまれる事態もあった。こうした事情からも、このシリーズは当初からその計画の通りには動けていなかったものと思われる。

SSUのシリーズ顛末についてはここから6作分、紆余曲折な歴史が積み上がっていくことになるが、少なくともこの1作目に関しては全世界興収8億$以上と上々すぎるほどの成績であり、ヴェノムというキャラクターの知名度は日本でもかなり上がることになった。

シリーズ構成や計画はともかく、今作は異生物と人間のバディ・ムービーとしても、一本のヒーロー映画としても、非常に楽しい作品と言えるだろう。

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原作比較:SSUヴェノムと原作ヴェノムの違いとは?

初出から『スパイダーマン3』に登場するまでの簡易的歴史

まずは原作『スパイダーマン』シリーズにおけるヴェノムというキャラクターについてだが、『スパイダーマン3』での登場の仕方からもわかる通り、基本的にはヴィラン=敵役の立ち位置にいるキャラクターだ。

初出は古く、ヴェノム・シンビオートとしての登場は1984年『Amazing Spider-Man #252』、その後1986年に(名前が出たわけではないカメオだが)エディ・ブロックが登場し、エディとシンビオートの共生体としての初登場は1988年『Amazing Spider-Man #300』となる。

歴史が長く、キャラクターやシリーズの描き手が代わっていくアメコミではよくあることではあるが、ヴェノムの宿主も2026年現在までに何人も代替わりしており、歴代宿主の性格やオリジン、シンビオートそのものの設定もマイナーチェンジされ続けている。

ただ、その中でもやはり馴染み深いのは今作で映像化された初代宿主:エディ・ブロックであり、メディアミックスされる際にもエディのバージョンが採用されることが多い。

原作でのエディとヴェノムの共生の流れについてはライミ版『スパイダーマン3』でわかりやすくまとめられており、エディのキャラクターも後年になって追加された幼少〜青年期のエピソードを考えるにあちらの方が原作イメージには近いように思う。

(それもあくまで時期やエピソードに依る)

今作でのエディは主人公然とした正義感溢れるキャラクターであり、ヴェノム/シンビオートのオリジンも今作独自のものだ。

原作ヴェノムの特徴的能力はスパイダーマン由来である

そもそも原作におけるヴェノムは、能力的には“スパイダーマンありき”の存在である。

エディを初代宿主とは書いたものの、本来コミックでの初代宿主は(後年様々なエピソードが追加されてしまったので諸説あるが)スパイダーマン=ピーター・パーカーだ。

そのため原作のヴェノムは胸にスパイダーのマークがデザインされており、その能力のほとんどがスパイダーマン寄生時に受け継いだものになる。ヴェノム固有の能力は驚異的な回復力と宿主の感情・能力を増幅させることであり、後は火と超音波という弱点があるだけで、正直なところ、スパイダーマンなしで映像化するにはやや画が弱い。

これもSSUの計画性の薄さだと思うのだが、このシリーズは後にスパイダーマンと合流するのか、するとしたらそれは“どのスパイダーマン”なのか。MCU版なのか、それともライミ版や『アメイジング・スパイダーマン』を復活させるのか……まったく新しいスパイダーマンを生み出すのか……。

恐らく今作が製作された段階では、SS“U”のユニバースが何を指すのか、将来的な展望はまったくもって不透明な状態だったのではないだろうか。

だからこそ今作のヴェノムはオリジンとして、

“ライフ財団の宇宙計画により地球に降り立ったシンビオートの一体”

という設定が付与され、どのスパイダーマンからも独立した物語として演出せざるを得なかったのだと思う。

既に地球に存在していたシンビオートにエディが寄生される、という原作に近い展開を作ったり、胸にスパイダーマークをデザインしてしまえば、後々スパイダーマンと繋げた前日譚を語らざるを得なくなり、その流れを期待されてしまうだろう。

今作の物語構成は苦肉の策と思えなくもないが、敢えて今作“以前”の時系列を潰してオリジンを描くことで、後のシリーズの自由度を優先したのではないだろうか。

……では、そうなるとヴェノムの能力はどう描かれたのか。

アクション論:ゲル状スライムのシンビオートという再解釈

スパイダーマンなしで壁の張り付きを成立させる“映像の嘘”

やはりスーパーヒーロー映画はアクションが売りの一つ。

よほど監督の作家性が強く、原作そのものまで塗り替えてしまうような作品ならともかく、映画としての楽しさはやはり非現実的なアクションや存在をどう魅力的に見せるか。それによってグッズ商品の売り上げも大きく変わる。

コミックのカバーアートに描かれた印象的なアクションを現代技術で再現することで、スパイダーマンにせよ、MCUのアイアンマン、キャプテン・アメリカにせよ、観客はそこに自分を投影して楽しむことができるのだ。

スパイダーマン設定なしの中、フライシャーと脚本陣はそこをうまく映像的な説得力で改変したものだと思う。

ヴェノムはじめシンビオートという存在が、弾力と粘りのある性質であることを念入りに演出することで、本来はスパイダーマンの能力である“壁の張り付き”といった原作通りのアクションへの違和感を感じさせなくしている。

確かにあれだけベトベトしていれば壁くらい張り付きそうだと納得しそうになるが、あれは本来スパイダーマンの蜘蛛の能力でヴェノム固有の力ではない。

今作のヴェノムは弾力と粘りがアクションの中心であり、スライムのように自在に伸びながら、固く銃弾を防御する盾にもなり、ゲル状のベタベタからどこからともなく顔が現れお喋りに動き回る。それが映像的に面白く、コメディ要素としても使われているのだ。

ハッキリ言えば見た目には格好良くもなければ、共生体の表現として目新しいものでもないが、そこは『ゾンビランド』(2009)のルーベン・フライシャー。ほぼ監督作のすべてで見せているカーアクションは今作でも健在で、それが最大の見せ場となる。

乗り物アクション大喜利をヴェノムに持ち込んだ発明

SSUでのエディはバイク乗りであり、取材にもバイクで乗り付けるキャラクターとして描写されている。これは間違いなく、中盤のバイクシーンがやりたかったが為だろう。この乗り物アクションは3作通して継承され、SSU版ヴェノムの看板芸になっていく。

大量のドローンに追われながら、腕はヴェノムに支配され、猛スピード・ノーヘルで往来を走り抜ける……。顔は風に煽られ、周りでは避けたドローンの爆風が飛び交う。車のドアを破壊して盾にし背中を守り、火花が舞えばヴェノムがエディを包み込む。地面に広がるヴェノムの身体ごとバイクをスライディングさせ、飛び上がってバイクから離れても伸びたヴェノムがバイクへ戻す。

このスピード感と、本気で怖がるエディの普通さがこのシークエンスの楽しさを担保している。カットも空撮、ローアングルと様々で観ていて飽きない。最後が余所見で転倒という間抜けな終わり方なのも最高だ。

ただ残念ながら、今作で一番面白いアクションはここで終わってしまい、アクション映画のピークはここまでというのは些か寂しい。

ラストのライオット戦や、エディの元勤め先での警官たちとの戦闘も決して悪くはないのだが、どちらも画面が暗く、肝心のシンビオートが何をやっているのかイマイチわかりにくいのは勿体無い。

ライオット戦での互いのシンビオートを剥がし合い、絡み合い、二人+二体が融合したりエディやドレイクの顔がたまに覗いたりと面白いシーンもあるのだが、どうにもシークエンス自体が短く決着も存外にアッサリなので消化不良感は否めない。

ここもカットが細かくスピード感があって良いのだが、キャラクターがCGな分見にくくなってしまうのは残念だ。

バイクチェイスが非常にワクワクさせられただけに、アクション映画としての盛り上がりがもう一つくらいあって欲しかったのは正直なところだ。

演出論①:ご都合主義的展開が目立つ古き良きアメコミ映画的世界観

ヴェノムの食欲に説得力がない

アクションにはシンビオートの持ち味をたっぷり活かした面白さがあるが、今作はその他の演出面ではかなりチープさが目立つ。

物語を進行させるためのご都合主義な展開が目立ち、そんなところに80〜90年代のアメコミ映画黎明期を感じ、微笑ましくすらある。

そもそもまず、エディが会社をクビになり、アンとも別れることになる導入のドレイクの取材からかなりおかしく、冒頭のエディの担当した番組は明らかにライフ財団とホームレスの不審死について調査・批判しており、そんな人間を財団の代表の元に送る上司など、常識的に考えればいるはずがない。

今作最大のコメディシーンとして有名な、エディがアンに助けを求めに行くシークエンスも、レストランでステーキを「死んでる」と投げ捨てたり、水槽のロブスターに齧り付くのはコメディとしては面白い。そのまま水槽に身を投げ込むのはエディ演じるトム・ハーディのアドリブだそうで、そうした点も、設定よりコメディの勢いを重視したシーン作りなのだとも思う。

しかし、これだけ空腹に支配されたヴェノムがレストランの人間を一切食べず「ダメだ」と自ら律しているのは、考えてみればおかしな話だ。

この時点でのヴェノムは、まだエディと感情的なやり取りはなく、人類に対する思い入れなどあるはずがない。

この後エディの元職場の警備員:リチャードや戦闘した警官を躊躇いなく食べようとして止められているので、エディの記憶や感情に影響されて食欲を抑えたわけでもなさそうだ。

続編を見ると、エディが肉体を支配している間は力を抑え、エディの味覚に変化がある様子もないので、今作の寄生→ヴェノムの存在が明らかになるまでの一連のシークエンスは、エディがひたすら冷蔵庫の食べ物を漁ったり、それを吐き出したりといった動作も実は何もかもおかしい。

展開として“何か”に寄生されたエディを演出しなければならないのはわかるのだが、そういった物語の進行や演出にはかなりご都合主義的で雑な展開が目立つ。

「そうはならんやろ」のツッコミが無限に出てくる展開の数々

ヴェノムに寄生されたことをエディが自覚したシーンでは車のガラスに映ったエディの姿がヴェノムに見える演出もあったが……これもまさしくそうはならないだろう、というシーンだ。

ヴェノムを身に纏っていない状態で鏡に映る姿がこうなるのは明らかにおかしく、この時点ではエディはヴェノムの姿も知らないはずなので、場面展開のためのイメージシーンとしても微妙な演出だ。

また、中盤のアクションがもたらす結果についても整合性がなく、ライフ財団の私兵は警官の「死体だらけだ」の言葉通り死んでいるようなのだが、それならば同じ様に投げる・飛ばすを繰り返したエディの元職場での警官隊も何人か犠牲になっていないとおかしい。

壁を破壊するほどの衝撃で人を叩きつけて生きているはずがない。エディ、既に善人も殺してしまってるぞ……。

ヴェノム周りばかりではなく、様々な人間に寄生しライフ財団の研究所へと向かうライオットも、屋台でウナギを丸齧りしたり、それを咎めた店主を殺すまではわかるのだが……その店主の死に対して、突然ライオット相手にナイフを向ける無法者三人衆に関しては、本当にこの演出自体が“一昔前のカンフー映画”のようで笑えてしまう。

お前ら三人一体その店主とどんな関係なんだ。

原作設定としてシンビオートはすべての個体が記憶を共有するというものがあるので、ライオットがライフ財団まで真っ直ぐ向かうこと自体は問題ないのだが、次々人を乗り換え、飛行機にまで乗っているのは妙にまだるっこしい。

あんなにちまちまと子供の身体まで使って移動せずとも、変身すればもう少し早く……後もう一体くらいは仲間が生きているうちに辿り着いたのではないだろうか……。

物語論:描くべき物語が描かれていない?描写不足なエディ×ヴェノム

“互いに負け犬”が台詞のみの描写なのは残念

物語の内容も荒さを感じてしまうのは否めない。

今作の最大の魅力であるヴェノムとエディの関係性にしても、実は劇中この二人に深い友情が築かれるシーンはほとんどないのだ。

エディとヴェノムは双方“負け犬”であり、ヴェノムもシンビオートの中では落ちこぼれだったということが終盤で語られるが、これに関してはヴェノムがそう言うだけでそんな描写は劇中一つもない。

ライオットやその他シンビオートと共に地球に来たという設定を作るなら、彼らの口からヴェノムを揶揄するような台詞でもあればまた違ったのだが、終盤ライオットと対峙する際にもそんな会話は交わされない。

エディへのヴェノムの共感については、ヴェノムが寄生した段階でエディの記憶のすべて読み取っている、という理由づけも出来るが、エディからヴェノムへの共感はセリフで語られた「俺も負け犬」だけなので今ひとつ彼らの絆がどこで形成されたのかわかりにくい。むしろ、エディは中盤までヴェノムから離れたがっていた気がするのだが……。

アンにしても、彼女はエディ救出のために一度ヴェノムをその身体に宿したものの、そのシーン以外での繋がりはほぼない。にも関わらず、ラストでは「ヴェノムは残念だったわね」とその死を惜しみ、続編でもやたらと仲が良い。

画面の外で一体何があったのか、そこが一番知りたい。

ルーベン・フライシャーの作風と80~90’sアメコミ・ムービー風の雑さ

『ゾンビランド』を代表するように、今作監督のフライシャーの作風は、物語のディテールを詳細に描くより、オフビートなコメディとアクションを楽しむものだ。

脚本家としてヴェノム三作品に関わり続けたケリー・マーセルが監督を兼任した『ヴェノム:ザ・ラストダンス』を観ればわかるように、恐らく脚本段階ではもう少し物語の説明シーンが用意されていたのではないだろうか。ただ、フライシャーはそうしたシーンを出来るだけ削り、テンポとヴェノムのキャラクターに注視した映画に仕上げたのだと思う。

現在のアメコミヒーロー映画はシリーズとしての繋がりや、先々の物語に繋がる伏線を探し出し、考察するのも楽しみの一つであるが、80〜90年代のアメコミ映画・アクション映画はもっとシンプルだった。

ヒーローがいて、ヴィランがいる。派手なアクション、キャラクターの独自性で物語を引っ張り、そこにヒーローの葛藤や、ヴィランのオリジンや事情で物語に深みを出していく。

シリーズ作品と言えど、それぞれはあくまで物語としては独立しており、ヒーローのオリジンと周辺キャラクターとの関係値さえ知っていれば、必ずしもナンバリング通りに観なくても充分に楽しめた。

SSUは、その頃のアメコミ映画のような作りをしている。シリーズ6作のうちヴェノムの続編2作を除きすべてがオリジンを語る一作目だからということもあるかも知れないが、全作品それ単体で迷いなく観ることが出来る。

逆に言えば、物語自体には特別語ることはないのだ。作品同士の繋がりも薄く、ユニバースとして観るような構成にもなっていない。そんなところが、現代のアメコミ映画に慣れた層には物足りなく感じられたのかも知れない。

キャラクター考:すべてを打ち消す「We are Venom」の愛らしい魅力

そのコンビは原作にすら影響を与えた

こうして見ると、今作レビューにおいて、筆者はほとんど褒めていない。

しかし、ならば何故この映画は、全体評価として決して低くはならないのか。何故今作は世界でこれほど受け入れられ、そしてSSUで唯一と言って良いほど、ヴェノムと言うキャラクターだけが惜しまれたのか。

詰まるところそれは、ヴェノム……この場合はエディと二人合わせての「We」としてのヴェノムの圧倒的な愛らしさとコンビネーションの魅力。それが今作、今シリーズ最大の武器だったと思うのだ。

原作においてもこのエディとヴェノムの関係は“結婚”に例えられたり、エディがヴェノムを「ダーリン」と呼ぶシーンがあったりとその関係性も人気の一つではあるが、今シリーズにおけるヴェノムのキャラクター設定と1作目でのフライシャー監督の演出は大きな発明だった。

これがある意味でこのシリーズの起爆剤となり、そして同時に、“シリーズとしてのSSUの未来”を失わせたと言っても過言ではない。

今作のエディとヴェノムは、あまりにもキャラクターとしての魅力が強過ぎた。近年では、原作ヴェノムのキャラクターもやや映画版に寄ってしまうほどのインパクトがあった。

可愛らしく、エディ大好きなSSUヴェノムは、映画全体の矛盾や、マイナス点を帳消しにするほどに、ファンを増やし“過ぎて”しまった。それがシリーズへの期待値を上げてしまったし、シリーズ全体の構成も変えてしまったのではないだろうか。

「俺たちなら何だってできる」ヴェノムは観ている側にもそう思わせた

日本語吹替版ではエディを諏訪部順一、ヴェノムを中村獅童が演じているが、原語版だとエディとヴェノムはトム・ハーディが一人二役で演じており、冷静に見れば一人で喋ってるだけではある。

……のだが、いやだからこそ、か。このエディとヴェノムの種族を超えた夫婦漫才のようなやり取りは、あまりにも魅力的に映る。

ライフ財団の私兵と対峙する際には手を上げるのを頑なに拒み、「格好悪い、情けないバンザイ野郎」と駄々をこね、アンを終始“俺たちの花嫁”と呼ぶ。ヴェノムは日本版ポスターに大きく書かれた“最悪”とはほど遠い愛らしさを振り撒いた。

エディと初めての対話では支配者然とした喋り方をしながらも、前述のバイクシーンでは「死んじゃう」というエディに「死なせない」と返し、警官隊に囲まれれば彼らの「マスク」を真似、エディの「マスク」に合わせて全身をコーティングする。

このエイリアン、最初からエディのことが好きすぎるし、エディはエディで最初から信頼し過ぎているのだ。

前述の通り、エディとヴェノムの関係性が築かれるまでの物語は非常に雑なのだが、ヴェノムの可愛さと後半〜終盤にかけての夫婦漫才のようなやり取りですべてが許せてしまう。

「寄生虫」と言われて怒り出すのも、そこには寄生体としての恐ろしさより、ヘソを曲げて吠える犬のような可愛らしさがある。

そんな仲良し親友同士の珍道中を観せられては、あまり細かいことを気にしていても野暮だろう、とツッコむことさえ許されない気分になるのだ。

ラストにチェンさんの店の悪人を食い殺し、

「何したい?」

「俺たちなら何だってできる」

なんて熱い友情で締められては、何とも爽やかに大満足で劇場を後にしてしまうではないか。

これは別段、評価を手放しているわけではなく、このように思わせるだけのキャラクター力が今作のヴェノムとエディにはあり、それを取り囲むアンやダンといったサブキャラクターたちも非常に魅力的に、イキイキと描かれていたと言うことだ。

細かいアラや矛盾が気になるのは、映画に没入出来ていないからだろう。こうして文字にすれば不満も疑問もいくらでも出てくるが、映画を観てる最中はヴェノムとエディを愛おしく思える。そういう映像・演技・物語が今作には用意されているのだ。

演出論②:SSUは何を描いていたのか?時代の波と“共生”というテーマ

しかし、単なるキャラクター映画かと言うとそうとばかりも言えない。今作には、ここからSSU全体を流れるテーマがきちんと芽吹いており、それが、ヴェノムとエディの関係に代表される、“共生”というテーマだ。

SSUには全作を通して、“擬似家族”や“異種族・異民族の共生”というテーマが根底にあった。恐らくこれは意識して作ったというわけではなく、この時代のアメリカの世情……延いては“超能力を持つヒーロー”を描き続けたMarvelの歴史全体で貫かれてきたテーマが、たまたま表出しただけだったのだとは思う。

エディはホームレスのマリアや移民としてギャングに虐げられているチェン夫人と親しく、彼らを守るためにその力を行使した。

2作目ではヴェノムの口から「よそ者への差別は断固反対だ」という台詞があり、『モービウス』は義兄弟の、『マダム・ウェブ』も家庭に居場所がない、人種もバラバラな少女たちが居場所を見つける物語だった。

公開時の2018年、アメリカではトランプ大統領による「ゼロ寛容」政策が導入され、不法入国者問題に対し様々な意見が飛び交っていた。2020年代前半、コロナ禍でそれは更なる問題を引き起こし、世界中で議論が交わされることになる。

そんな世情の中で、ヴェノムという地球外生命体や、特殊な能力を持つキャラクターが中心となる今シリーズにおいて、“共生”というテーマが物語の軸に置かれるのは必然だったのではないだろうか。

この点は他の作品でも深掘りしていくが、《スパイダーマン》という本来絶対に必要なメインアイコンの軸がない以上、せめてこうした物語のテーマを軸として機能させていたなら、このシリーズの未来もまた違ったのではないかと思うのだ。

シリーズ一作目としては、フライシャーにしろ脚本陣にしろ、後に繋げられる小ネタは随分と仕込もうとしていた。

エディがスパイダーマンの主戦場であるニューヨークを現在離れている、という設定や、エディの元職場の男性の娘が《MIT》に合格した話、《デイリー・グローブ》など、スパイダーマンと繋がる要素はいくらでもあった。

ライフ財団の宇宙飛行士の生き残りで、ライオットが最初に寄生した人間の名前がジェイムソンだったりと、後々拾えば物語に組み込めるし、拾わないならイースターエッグとして処理出来る程度のバランスで、スパイダーマン関連の用語やキャラクターは散りばめられていたように思う。

シリーズ論:エミネムのEDテーマに見るSSUの計画性のなさ

EDテーマはHip-Hopアーティスト:エミネムによる「Venom」。今作を象徴する楽曲であり、エミネムとヴェノムもまた一つの共生関係にあったと言えるほどファンにも受け入れられていた印象だ。

都会の路地裏に迷い込み、地を這うようなクールなトラックが今作の世界観に最高にマッチしており、踏み倒された韻とエミネムのフロウが緊張感を絶やさない。

このテーマソングのマッチング具合はSSU随一で、ヴェノム三部作の中でも最高のテーマソングだ。

同時に、このテーマソングの雰囲気自体も、SSUが方向性を迷っていたことの証明でもある。この時点でまだこのシリーズは、スパイダーマンのヴィランのスピンオフを順に描く、ややダークな空気感を狙っていたのではないだろうか。

今作の時点でヴェノムはかなりヒーロー然としたキャラクターとして演出されてはいたが、SSUには本来スパイダーマンのヴィラン・チームである《シニスター・シックス》を組み込む計画も後にあったわけで、方向性としてはそうしたダーク寄りなものにしていくつもりだったのかも知れない。

ただ、そんな中“思った以上に”売れてしまった今作のヴェノムにより、製作側がキャラクター人気商戦に乗ってしまったような気がしてしまう。

EDテーマにせよ、次作『ヴェノム:レット・ゼア・ビー・カーネイジ』ではまだコラボレーションでエミネムのラップも入り今作の空気感を残していたが、『ヴェノム:ザ・ラストダンス』ではマルーン5のかなりポップ寄りな曲も劇中で使うようになる。

曲の善し悪しではなく、ここまで来るとヴェノムにもSSUにも、ヴィランの面影はなくなっていた。

ポストクレジットは本来予定してた次作『モービウス』への橋渡しではなく、直接的な続編である『ヴェノム:レット・ゼア・ビー・カーネイジ』への繋ぎになっているが、これは結果として非常に良かった。

ユニバース形式が曖昧になったのは確かだが、あくまでヴェノムという作品内で物語を完結してくれたので、観ている側は余計なことを考えなくて済む。

クレタス・キャサディの描写が今作ではかなり底の知れないサイコパスだったのが、次作で登場した際には随分と人間らしくなってしまったのは残念だが、これもシリーズの方向性が変わったのが問題だったのかも知れない。

総括:1作目にしてシリーズを終わらせてしまったヴェノムの功罪

SSUはヴェノムに始まり、ヴェノムに続くことなく終わってしまったシリーズだ。このユニバースの作品群は、物語は全体的に雑で、演出もどこか古臭い。現代のアメコミ映画の水準としては、正直に言えばかなり低い位置にいるものが多かった。

しかし、“物語を語る力”という一点で言えば、今作とてそう大差はなかったはずだ。

SSUとはある意味、MCUへのカウンターシリーズでもあった。

「ヒーロー映画だぜ?そんなに難しく考えてどうするの?」と言うような、一作一作を気軽に楽しめる作品作りは、それが成功すれば決してここまで酷評されるシリーズにはならなかっただろう。

ただ、それを現代の目が肥えた観客に観せるのならば、その分圧倒的なキャラの魅力が必要で、そうなるには、ヴェノム以外のキャラクターはあまりにも弱く、知名度もなかったのだと思う。

今作公開後まもなく、世界は新型コロナウイルス感染症という未曾有のパンデミックに見舞われ、SSUのシリーズ計画のみならず、映画産業の在り方そのものが大きく狂わされていく。

結果として次作は予定通りの『モービウス』ではなく『ヴェノム:レット・ゼア・ビー・カーネイジ』になり、更にはMCUが《マルチバース・サーガ》に突入し、『スパイダーマン:ノー・ウェイ・ホーム』で大々的にその設定を取り入れた影響を受け、ユニバースの構造構築はますます混迷を極めていく……。

今作は、SSUがまだそうした時代の向かい風を受ける前、ヴェノムという奇跡を生み出し、シリーズへの期待を高めた、唯一の作品だったと言って良い。

何度観ても、文句を言いつつも最後にはヴェノムが好きになっているし、エミネムのラップを口ずさみながら、少し強くなった気になる。アクションヒーロー映画としては、それで満点なのである。

評価/鑑賞日

⭐ 3.0 / 5.0
📅 2026/05/20(Hulu)

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