『マダム・ウェブ』(2024)ネタバレ考察レビュー|孤独な女性達が擬似家族を築き,未来のヒーローへと繋がる物語

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Sony’s Spider-Man Universe全作品レビュー4

――家族でなくとも,家族になれた 孤独の糸を紡ぎ合わせたスパイダー・ヒロイン達のオリジンストーリー

この作品はどんな作品?

SSU4作目、スパイダーマンのキャラクター:マダム・ウェブと未来のスパイダーウーマンのオリジンストーリー。

シリーズ展開の不透明さの露呈やプロモーション文言と作品の不整合により大酷評となったが、原作の再解釈や孤独な女性達が居場所を得る物語には見所も有。今作でSSUは本格的にスパイダーマンとの接続不全に陥った。

この作品はどんな人にオススメ?

孤独で居場所のない者達が手を取り合い生きる意味を見出していく物語が好きな人。

女性同士の連帯によるシスターフッドの物語に惹かれる人。

血縁以上の関係の強さを信じている人。

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作品データ

原題:Madame Web

監督:S・J・クラークソン

脚本:マット・サザマ/バーク・シャープレス

クレア・パーカー

S・J・クラークソン

原作:Marvelコミック『スパイダーマン』

スタン・リー/スティーヴ・ディッコ

(マダム・ウェブ創造)

デニー・オニール/ジョン・ロミータ・Jr.

音楽:ヨハン・セデルクヴィスト

撮影:マウロ・フィオーレ

上映時間:116分

出演者:

カサンドラ・“キャシー”・ウェブ《マダム・ウェブ》:ダコタ・ジョンソン

ジュリア・コーンウォール:シドニー・スウィーニー

マティ・フランクリン:セレステ・オコナー

アーニャ・コラソン:イザベラ・メルセード

エゼキエル・シムズ:タハール・ラヒム

ベン・パーカー:アダム・スコット

メアリー・パーカー:エマ・ロバーツ

コンスタンス・ウェブ:ケリー・ビシェ

オニール:マイク・エップス

アマリア:ゾーシャ・マメット

サンティアゴ:ホセ・マリア・ヤスピク

本レビューにはネタバレを含みます。

総文字数:11617文字

読み終わるまでの時間:約29分

目次

製作背景:SSUではなかった?特殊な立ち位置にいる女性主体のヒーロー映画

S・J・クラークソン監督による、『スパイダーマン』シリーズのキャラクター:マダム・ウェブとスパイダーウーマン達を描く《SSU(=Sony’s Spider-Man Universe)》シリーズ第4弾。

今作はSSUシリーズの中でもやや特殊な立ち位置にあり、シリーズ全作でプロデューサーに名を連ねたアヴィ・アラッドの名前はエンドクレジットの何処にも見当たらず、プロデューサーはロレンツォ・ディ・ボナヴェンチュラ単独となっている。

また、基本的に原作シリーズのヴィランを主役に据えた他作品と違い、スパイダーマンの協力者であるマダム・ウェブやスパイダーウーマンといった、ヒーロー側のキャラクターに焦点を当てた作品でもある。

長らく映画化が待望されていた他のキャラクター達と違い、今作の企画はSSUが本格的に動き出してからのもので、その点でもやや異なった動きであったように思う。2019年、『ヴェノム』公開後に脚本が執筆され、監督のクラークソンは2020年、主演のマダム・ウェブ役:ダコタ・ジョンソンも2022年にキャスティングされている。

当初の公開予定は2023年7月で、その前2023年1月に『クレイヴン・ザ・ハンター』が予定されていたが、コロナ禍の影響や、2023年に勃発した《WGA(=全米脚本家組合)》と《SAG-AFTRA(=全米映画俳優組合)》のストライキの問題もあり、両作品共に公開延期を繰り返し、結果として今作が前倒される形となった。

実現はしなかったが、当時SSUには『ジャックポット』等ヒーロー側のキャラクター・ムービーの製作も予定されており、本来であれば今作はその第一弾だったのかも知れない。

製作当初今作は『ヴェノム』や『モービウス』とは異なる世界が舞台になるという話もあったが、シリーズの御多分に漏れず、やはり製作過程で脚本の変更や再撮影が行われ、その中には舞台となる時代背景の変更さえあったと言われている。

こうした製作環境はファンにも周知され、公開前から既に作品の出来を不安視する声は多かった。SSUシリーズ4作目に位置づけられてはいるが、それさえも、本来クラークソンや製作スタッフの意図したものではなかったのかも知れない。

後のインタビューでも一部出演者からは作品に対して否定的な発言が認められ、この頃にはSSUは最早、SNS社会の中で“笑いものにして良いもの”という立ち位置にまでなってしまっていた気がする。

今作は全世界興収1億50万$と、製作費8000万$規模の作品としてはかなりの大苦戦を強いられ、批評も前作に負けず劣らぬ……前作以上の酷評が飛び交う結果となった。興収・批評両面において、SSUの失敗を世間的に決定づけてしまった作品とも言える。

一方で物語に描かれた“居場所のない女性たちの擬似家族”というテーマは、2020年代の中で非常に重要なテーマでもあり、その点には見るべきものが確かにあったと思うのだ。

原作比較:マダム・ウェブ/エゼキエル・シムズと複雑化したスパイダーマンの世界観

マルチバース全体の設定に関わる《スパイダー・トーテム》

今作はマダム・ウェブの第1作目であると同時に、スパイダーマン(=ピーター・パーカー)のオリジンにもなるべき物語だった。終盤で生まれた子供はベン・パーカーの甥であり、母親の名がメアリー、父親がリチャードである以上ほぼ間違いなくピーター・パーカーであったはずだ。

(原作『スパイダーマン』において故人であるピーターの両親の名はリチャードとメアリー)

スパイダーマンの設定は今作でヴィランに位置づけられたエゼキエル・シムズが登場する『Amazing Spider-Man Vol.2』(2001)の頃からかなり複雑化していくのだが、今作ではそれらをうまく取り入れつつ、設定を簡略化して原作未読の観客にも出来るだけわかりやすくまとめる工夫が随所に見られる。

マダム・ウェブ(=キャシー)やエゼキエルに能力を与えた蜘蛛と、ペルーの先住民族である《ラス・アニャラス》の設定は映画オリジナルだが、これは原作で語られる《トーテム》の再解釈だろう。

トーテムはマルチバース全体に関わる設定でもあり、並行世界の蜘蛛の女神《ニース》がマルチバース上の人間を調査し、運命を導くため、並行宇宙の過去や未来を繋ぐ《グレートウェブ》を作り出した際、その監視・拡張・修復・継続などの目的で生み出されたものだ。原作『スパイダーマン』でピーターに能力を与えた蜘蛛は長らく放射線を浴びた蜘蛛として描かれてきたが、エゼキエルの登場で、この蜘蛛にトーテムという神秘的解釈が加わり、マダム・ウェブの未来視の能力も、このグレートウェブを介して視ているものとされた。

このスパイダートーテムに選ばれたピーターは運命的な存在であるとされ、今作でキャシーがラス・アニャラスによって選ばれた存在であったように描写されるのもここから連想したのだと思われる。

キャシーの母とエゼキエルがペルーに蜘蛛の調査に訪れていたという設定は、前作『モービウス』の冒頭コスタリカに吸血コウモリの調査に向かったモービウスとも重なり、シリーズは2作続けて国外での動物の調査から始まっている。(これは後の『クレイヴン・ザ・ハンター』にも繋がる)

原作において、トーテムとグレートウェブの設定が生まれた時点で、スパイダーマンはマルチバースの中心に置かれることになったが、もしもあのままシリーズが続いていたなら、モービウスのコウモリやクレイヴンのライオンと合わせてトーテムの設定に繋げることも可能だったかも知れない。

エゼキエルとマダム・ウェブは原作においてもスパイダーマンの背景設定に深く関わるキャラクターであり、今作でスパイダーマンのオリジンの流れをうまく作れていたなら、『スパイダーマン:ノー・ウェイ・ホーム』(2021)や『スパイダーバース』シリーズ(2018〜)への接続も説得力を以って行うことが出来たはずだ。

実はMCUより原作準拠?SSUの設定の再構築・再解釈の巧みさ

今作でのマダム・ウェブの能力は原作と比較するとかなり縮小されているが、物語はキャシーが能力を開花する前日譚であり、終盤の展開で彼女は視力を失い、脚も悪くして車椅子に乗ることで、原作のヴィジュアルイメージに近くなる。

『Amazing Spider-Man #210』(1980)にてスパイダーマンを導く老齢の占い師として初登場し、生まれつきの重症筋無力症という設定のマダム・ウェブと今作のキャシーはかなりイメージが違ってはいるが、キャシーは本来そうした障碍を持って生まれてくることが宣告されており、その治療のために、彼女の母が蜘蛛の調査に向かったという設定に活かされている。年齢も今作ラストで生まれたスパイダーマンが成長する頃には50代にはなっていると思われるので、近からず遠からずと言ったところだ。

原作のマダム・ウェブは代替わりしており、2代目マダム・ウェブとなるのは今作でも登場したシドニー・スウィーニー演じるジュリア・コーンウォール(原作ではジュリア・カーペンター)である。

今作のキャシーのヴィジュアルはどちらかと言うとこの2代目マダム・ウェブに近く、ペルーの毒蜘蛛によってスパイダー・ウーマンの力を得たというオリジンもここから取り入れたものだろう。

SSUはMCUと比べ、実はこうした原作の設定の再構築/再解釈には一日の長があり、今作でもキャシーに一番懐いて見えるのがジュリアなのは、原作を知っているとニヤリとさせられるところではないだろうか。

今作でヴィランとして設定されたエゼキエル・シムズは原作ではスパイダーマン=ピーターのメンターとなる存在ではあるが、その実自身の身代わりにピーターを利用しようとする利己的な一面も持っており、“未来に自分を殺しにくる少女達”を先回りして殺そうとするキャラクター設定にもそこまで違和感はない。

ビジネス上の大きな成功を手に入れた富豪であるという点も原作のままであり、スパイダースーツらしきスーツを着ていたり、キャシーと同じように未来視の能力を持つ点以外は概ね原作の設定に準拠している。

アクション論:Marvel初のミステリーサスペンス?アクションシーンの地味さ

アクションシーンは残念ながらシリーズで一番地味な印象だ。ただし、今作はプロモーション上は“サスペンス主導のスリラー”とされており、マダム・ウェブというキャラクターも原作においては後方支援的な役割でアクション主体のキャラクターではない。

そうした意味ではアクションを語る作品ではないのかも知れないが、結果として作品はスーパーヒーロー映画のフォーマットに組み込まれてもいるので、そのように観ないわけにはいかない。映像作りに工夫は見られるものの、大作映画シリーズと比較してしまうとかなり厳しいものがある。

劇中時系列ではスパイダーウーマン達はまだ何の能力も持たない状態であるため、アクションはヴィランであるエゼキエル中心になる。

とは言え、そのエゼキエルにもスパイダーマンの亜流のような能力しかないため、今作独自の楽しさには欠ける。壁に張り付き、縦横無尽に移動することは出来るが、その他には手から毒を出せるという能力のみで、それも直接手を触れなければ発動できない為、見た目にはただ首を締め上げているようにしか見えない。

壁の張り付きによる移動を表現するため、カメラが前後左右、上下の別なく動き、蜘蛛の空間認識を疑似体験させるような映像になっているのだが、これがエゼキエルの登場するシークエンスで多用されるためにややカメラ酔いしてしまう場面がある。

キャシーの未来視の演出もそうだが、今作はカットを細かく組み合わせる編集でそれぞれの能力を表現している。その切り替えがやや性急なため、観ていて混乱することが多々あるのだ。狙ってやっている部分もあるとは思うのだが、映画のサイズ感の中では時に見難さに繋がり、集中が途切れる場面もあったように感じる。

クラークソンは元々TVドラマ監督であり、こうした編集は90〜2000年代のTVドラマでよく観られたものではあるが、2020年代ではやや使い古された手法だ。

繰り返し演出されるカーアクションも、基本は轢くか当てるかしかなく、スピード感も足りないため、『ヴェノム』シリーズと比べると物足りない。終盤の救急車でのエゼキエルへの突進にせよ、やや無理矢理な見せ場作りに見えてしまう。

ラストの戦いのシークエンスでの、打ち上がる花火をバックに飛び回るエゼキエルのブラックスパイダーマン姿は見応えがあるが、ラストで急に派手になるのは如何にもドラマ的な演出に思える。

キャシーが救急救命士であるという設定を活かしたAEDでの攻撃や、救命活動の伏線が終盤に繋がる展開は非常に良かったので、どうせならこうした今作独自のキャラクター要素がもう少し欲しかったものだ。

演出論:物語の整理が出来ていない為にご都合主義に思える展開の数々

マダム・ウェブ=キャシーの能力が何でもありになってしまう

演出の雑さはシリーズのお家芸となっている感があるが、今作においては最も重要なはずのキャシーの能力さえ展開のために都合良く使われている感があり、スーパーヒーロー映画としてはかなりのマイナス点だろう。

中盤、キャシーが一度少女達を置き去りにモーテルから一人逃げ出すシークエンスはまさしくその代表例で、それが能力によるものか夢だったのかすらわからない。

キャシーはモーテルから去る道中、エゼキエルに襲われたダイナーに立ち寄り、そこでエゼキエルの精神体と会話するわけだが……これは、一体どういったシーンなのか。少なくともこれは未来視ではなく、仮に原作にある“テレパシー能力”にしても、エゼキエルが自分の目的やキャシーの母とのことまで全部話してしまうのは不自然だ。

この後キャシーはモーテルのベッドから跳ね起き、このシークエンス自体が夢であったかのような演出もされるが……例えばあれが夢で、情報自体は母が残したノートからキャシーが推理した内容である、と解釈すれば今作宣伝文句のミステリー・サスペンスのようにも出来たかも知れない。

しかし、それをするにはあまりにも観ている側の深読み任せになっており、シーンとしての意味そのものに疑問が残る。

肝心のキャシーの未来視能力にしても、前述の通り序盤〜中盤までの、現実か幻視か、観ている側にも混乱させる演出は、能力を使いこなせないキャシーと観客を同期させる意味では面白い映像表現になっているのだが、あまりにも多用され過ぎるため観ていてもどかしく感じてくる。

電車内でアーニャ、ジュリア、マティの死のシーンを繰り返すのは未来視というよりタイムリープでやり直しをしているようにも見え、その後ダイナーのシーンではキャシーに「もう一度」という台詞まで言わせてしまう。

視た未来を変えられるのであれば、それは未来視と言うよりやはりタイムリープに近くなり、更に終盤ではベンの家から三人が出て行った過程を、未来視ではなく過去視の力で視ている描写さえある。

ペルーでの一幕では過去の母と繋がることで和解を果たしており、そうした意味では原作のグレートウェブの能力として未来も過去も視える能力が開眼していく描写だったとは思うのだが、全体としてそうした能力の整理が物語の中でされていないので、どうしても物語都合の便利能力に見えてしまう。

このあたりは、やはり重要な設定としてもう少し何が可能で、不可能なのかを整理すべきだったのではないだろうか。

リアリティラインがシーン毎に変わるような不自然な物語進行

今作の問題点は数限りなく語られているが……やはりキャシーが盗難したタクシーを劇中最後まで使い続けるのは大問題だろう。

確かに、80〜90年代の映画にはこうしたご都合展開が多かった。盗難車での移動などアクション映画では日常茶飯事な治安の悪さもあった……が、いくらなんでも物語の最初から最後まで使い倒すようなことは流石にしていなかったと思うがどうだろうか。

ナンバープレートを外したりと、変にリアリティはあるので尚の事、キャシーがそのボロボロのタクシーで空港に行くなど、別の疑問や問題が生じてしまう。

何より、そのタクシーを帰国後も再び乗り回しベンの家に戻るのはいくらなんでも物持ちが良過ぎる。……キャシー、普通のタクシーに乗ってくれ。倹約家なのか。

エゼキエルがジュリアたちを探すためにNSAから奪った顔認証システムは、2003年と言う舞台設定を考えればかなりトンデモ科学ではあるがそこは目を瞑ろう。

ただ問題は、エゼキエルは三人の逃走にキャシーが関わってることを知り、彼女がかつて自分が蜘蛛を奪った女性の娘であることまで突き止めながら、調査対象からは完全に外してしまっていることだ。

キャシーがペルーにいる間、ジュリア達は確かにベンの家に匿われているが、当のキャシーは盗難車に乗り、飛行機を乗り継ぎペルーに向かっている。

この間一度も監視カメラに映っていないとは考え難く、交友関係を調べればベンの存在もすぐに判明しただろう。

ジュリアたちの探索に3分おきにカメラ映像をチェックさせているという話も出てきたが、それならばまずはキャシーを探すべきだ。

この仕事を任せるハッカーが一人だけというのも、見ているディスプレイの数も今ひとつリアリティがなく、どうにもここは低予算のB級映画的表現に思えてしまう。

リアリティラインが低いのは、必ずしも悪いことではない。荒唐無稽な物語はエンターテイメント作品になくてはならないものだし、スーパーヒーロー映画は本来そうあるべきだ。

ただ、今作ではそのバランスを見誤り、どっちつかずな印象になってしまった気がする。

エゼキエルにしても、1973〜2003年の30年間、特にヒーロー活動も、ヴィラン活動もしていなかったであろう彼が何のためにあんなスーツを用意したのか……電車から降りて突然着替えていたり、顔を隠したいのかと思えば事あるごとにマスクを外したりと、その行動には疑問符ばかり付き纏う。

物語論:居場所のない女性達のシスターフッド〜擬似家族を得るまで

野良猫のように居場所を確立できないキャシーの孤独

そんな中で、物語はSSUでこれまで描かれてきた“孤独と共生”と言うテーマが、ある意味最も強く表現された作品と言える。

社会や、家庭に居場所のなかった女性たちが、互いの孤独を分け合い、疑似家族のような関係性を築いていく物語……人種も、国籍も違う彼女らのシスターフッドと、自身の出生から出産や子供という存在に懐疑的だったキャシーの心の解放を描いている。

キャシーは序盤からどこか“閉ざした存在”として描写された。

救命士としては非常に優秀なのだろうが、患者からの感謝にうまく言葉を返せず、ベンに誘われたベビーシャワーのイベントにも参加したがらない。周囲からは浮いていて、それを周りから心配されてもいるが、本人はそれすらもどこか煩わしいのだろう。

ベビーシャワーでのゲーム大会でも会話力が圧倒的に低く、家にやってくる猫に「野良同士助け合おう」とミルクをやる姿には孤独が滲む。彼女は、自分に居場所がないことも理解しているし、それを受け入れてもいたのではないか。

それでもベンやオニールとの関係を見る限り、彼女は情が薄いと言うより、単純にそれを表に出さないようにしていたようにも見える。

同僚が「古い映画でも見て」と言えば実際に古い映画を観たり(この映画が『クリスマス・キャロル』(1951)なあたりも、今作は未来視というよりタイムリープものとして作った印象を受ける)、死んだ母の遺品を眺めている姿には、彼女が必ずしもそんな孤独を良しとしているわけでないことが見て取れる。

誤解していた過去の母との和解……そして,彼女は母となる

キャシーは救命士として多くの命を救い、同時に“間に合わなかった人々”にも数多く立ち会ってきたはずだ。だからこそ、臨月の母が、何故海外にまで行き、命と引き換えに自分を産むような危険を冒したのかがわからない。

わからないし、理解もできず、同時にそうして自分が産まれたことへの自罰的な負い目もある。

「母は自分を産みたいと思っていなかったのではないか」

キャシーの父親の描写は劇中一切なく、キャシーがどうしてここまで思い詰めたかは推察するしかないが、とにかくそれが現在の彼女の孤独に根差したトラウマだったのだろう。

彼女は一度、三人の少女達から手を引こうとする。未来が視えてしまうのに、その力を使いこなせなかったが故に同僚を死なせ、初めはその負い目から見知らぬ少女達を救っただけだった。

それでも、彼女は蜘蛛の糸を辿って過去の母と繋がり、その想いを受け取ることで、自身の人生の下敷きにあった孤独を解消することが出来たのだ。

だからこそ、彼女は三人の少女を救うため、危険を顧みず再びエゼキエルと……自身の母を殺した男と対峙した。母が、危険を承知で、それでも産まれてくる自分の病気の治療のためにペルーまで行ったことを知ったから。

惜しむらくは、物語としてこのキャシーの心情変化がうまく伝わらず、そこに関わる設定についても説得力が薄いため、母との和解の重要なシーンの感情的な盛り上がりに欠けてしまうことだ。そのため、どうしてもキャシーと三人の少女の繋がりも浅くなり、『モービウス』のマイロや、ヴェノムとエディの関係のように感情移入出来るレベルに至らないのだ。

キャラクター考:機能不全家族の中にいた孤独な少女達を救ったもの

三人の少女達は皆未来のスパイダーウーマンであることが示唆されるが、今作においては何の能力も持たず、居場所を失った孤独な十代の若者達である。三人ともそれぞれの生活から逃れようとしてキャシーと出会った電車に乗り、けれど、そこから逃れる先のなかった少女達だ。

ジュリアは両親が離婚しており、本来なら母に引き取られて暮らしていたのだが、その母が心を病み、入院したことで父方の新しい家庭に間借りしている。

母の状態と、そして新たな家庭を持った父の姿を見るに、その離婚の過程に何があったのかは推して知るべしと言ったところで、その家庭にジュリアの居場所などあるはずもない。

この父の後妻は物語序盤でキャシーが救護した女性であり、キャシーが貰った絵はその子供が描いたものだ。そこに、ジュリアの存在はない。

彼女は、幼い子供にまで“いないもの”扱いされている。

この幼さ故の残酷さと、序盤でのキャシーが救った患者には何の興味も示さず、そこにジュリアの不在を意にも介さないという点。こうした人物描写は実に巧く、クラークソンがかつてエピソード監督を務めたドラマ『ジェシカ・ジョーンズ』(2015〜)にも通ずる細やかさだ。

こういった人間関係の積み上げの描写があると、後半での変化が効いてくる。

アーニャはキャシーと同じマンションに住んでおり、彼女は父が不法移民として強制退国させられているのを隠して生活している。

序盤でマティに対して冷ややかなのも、キャシーが戻ることを信じてはいなくとも、目立つことを嫌うのもそのためで、彼女は自分もいつ国外追放されるかわからない恐怖と戦っている。

「18歳になるまで存在を消す」

アメリカでは18歳からは法的成人と扱われ、親の同意なしでのフルタイム労働やアパートなど賃貸の契約も認められるようになる。それまでを耐え忍ぶことが出来れば、アーニャ自身は自由になれると考えていたのだろう。

今作舞台は2003年であり、確かに当時の米国の移民政策はトランプ政権となった現在より穏健だったかも知れない。しかし勿論劇中言われている通り、警察が素性を調べれば強制送還は免れず、18歳を過ぎても在留資格や就労許可が降りる訳ではない。

これは、アーニャの若さ故の楽観思想であり、2020年代現在の移民問題と重ね合わせることで、より問題の深さが浮き彫りになる。

マティは逆に、家庭が“裕福であるために”居場所を失った少女だ。三人の中で唯一携帯電話を持っており、自由に使える金もある。序盤でキャシーの救急車を止めた際に友人達と歩いており、マティに関しては生活に問題があるようには見えない。

ただ、1990年代末〜2000年代初頭は、こうしたアメリカ中流家庭の“核家族化”が問題となっていた時期である。家族関係の衰退は携帯電話の普及でより可視化され、マティの抱える孤独は、当時の若者層の抱える大きな問題の一つでもあった。

マティの孤独は他二人に比べ切迫感はないため、常にその行動には身勝手さと後先考えない無鉄砲さがついて回るが、思春期の少女にとって、何か問題があっても頼ることが出来ない親との生活は、何よりの孤独を感じることだったはずだ。

だからこそ、彼女もまた、劇中の事件を通してジュリアやアーニャとの関係、キャシーへの親愛を深めていくのである。

彼女らは皆、人種も国籍も違うが、それぞれ問題の大小はあれ親との関係に迷う少女達だ。そしてキャシーもまた、自身の親への不信と、出生への後ろめたさを抱えている。

普通に生活をしていれば、同じ街の中で出会うこともなかった四人だろう。

子供嫌いのキャシーは序盤にすれ違う三人に目もくれていないし、ジュリア・アーニャ・マティは、同じ学校にいても所属するグループが違ったはずだ。

それを視覚的にも表すため、彼女らは服装や雰囲気にかなり差をつけられている。

それでも、彼女らは物語の中で、互いを頼り、守り、孤独を分け合うことが出来た。親を誤解し、子供を嫌い、人を避けていたキャシーは、最後には「三人とも(家族です)」と答える。

未知の能力を使い、命を狙う男に必死に抗い、キャシーが伝授した救命術でキャシーの命を救った。この経験が、家族を失った四人を家族にしたのだ。

シリーズ論:何処にも繋がらずに消えたSSUスパイダーマンの蜘蛛の糸

トム・ホランド?アンドリュー・ガーフィールド?トビー・マグワイア?

今作はSonyのスーパーヒーロー作品としては初の女性中心の作品であり、監督・主要キャストの多くも女性で、プロデューサーも違うことから、SSU作品として以上に、女性のシスターフッド/エンパワメントを目的とした作品として企画されたのではないだろうか。

クラークソン自身、「女性主導の地に足のついた作品として」撮る予定だったという旨をインタビューで語ってもいる。

SSUは当初、MCUのケビン・ファイギのような統括プロデューサーを設けず、個々の監督やスタッフに独自のスタイルで作品作りをさせることを目指していたと言う。

今作の製作も恐らくそのつもりで始まったのだろうが、やはりシリーズ全体でのスパイダーマンの扱いや、MCUとの関係に不整合が生じるにつれ、そう簡単な問題ではなくなっていったのだと思う。

再撮影や脚本変更の中には、元来の脚本にあった“1990年代への言及”を削除する目的があったという噂もある。

今作の物語は『アメイジング・スパイダーマン』の世界に繋げる予定だったという話もあるが、製作過程でその案は棄却され、MCU版との接続を余儀なくされたのではないだろうか。

ただし、MCU『スパイダーマン:ファー・フロム・ホーム』(2019)の劇中パスポートに記されたピーターの誕生日は“2001/08/10”であり、2003年舞台で生まれた子供はこのピーターと同一人物では有り得ず、ここにまた新しいピーター(?)が生まれてしまう結果になった。

恐らくユニバース同士の接続や設定は製作中に二転三転したのだろうし、2003年設定も“結果としてそうなった”というのが実際のところなのではないだろうか。

1970年/2003年の年号は作中で明言されるわけではなく、画面に文字として表示されるだけなので、編集でいくらでも変更可能な箇所だ。流行歌としてのブリトニー・スピアーズの曲も、ラジオで流れるだけなのでどうにでも重ねられただろう。

キャシーがマティの携帯を投げ捨てるシーンでその携帯が一切画面に映らないのも、時代性を感じ取らせないための不自然な編集に見えてくる。

SSUシリーズはスパイダーマンとの共生が不能となった

SSUというシリーズは今作を以ていよいよMCUとの連携を完全に誤ったのだろうし、それによりSony独自のシリーズとの接続さえ難しくなったのだろう。

『モービウス』予告編においてNYの街に“Murder”と書かれたサム・ライミ版『スパイダーマン』のポスターが貼られていることが話題になるも、本編にそんなシーンはなく、その予告映像は同作監督のダニエル・エスピノーサすら把握していなかったというのは当時大きな問題となった。

Sony側としても、SSUの世界をどうにかマルチバース展開に繋げようと躍起になり“過ぎて”いたのがこうした逸話から伝わってくる。

本来であれば、ベビーシャワーでも語られず、最後まで名前が明かされなかったベンの甥に、「ピーター」と名付けるシーンで終わっていたなら、いよいよSSUが『スパイダーマン』に繋がる最高のポストクレジットが演出できたはずだ。

しかし、それをせず、生まれた子供の名前を隠すことで“どうとでも取れる”終幕になったのは、恐らく、ピーターの名を意図的に“出さなかった”のではなく、“出せなくなっていた”だけだったのではないだろうか。

今作も『モービウス』もそうだが、こうしたスパイダーマン関連のトラブルは実は映画の出来そのものとはまったく無関係だ。

雑に見える演出も、物語のご都合主義的展開も、弱い点はポストクレジットとは無関係に点在している。

……ただ、そうした演出や編集の粗雑さ、物語の整合性のなさに製作中二転三転したであろうSSUのユニバース計画の変更が影響していないはずもなく、それを考えるとやはり、このユニバース作品の製作スタッフやキャストだけを責めるわけにはいかないと思うのだ。

総括:原作への尊重・共生のテーマ……良作になる種は存在していた

今作を語る時、どうしてもシリーズ周りのトラブルを語らざるを得ず、その問題は限りなく溢れてきてしまうのだが、ここまでSSU4作で描かれた“共生”のテーマが未来のヒーロー達を生み、彼女らが擬似家族として居場所を手に入れたという物語は、共生が崩れる様を多く描いたシリーズの中で救いになっていると思う。

本来これはオリジンであり、ジュリアや、アーニャ、マティの三人がヒーローになる過程で、その未熟さや幼さが成熟し、未来のスパイダーマンをサポートするまでの物語を楽しめる余地はあったはずなのだ。

スパイダーマンのオリジン設定や、ラストの

「(ベンは)伯父なら無責任でいいしね」

「どうかしら」

とすべてが視えているマダム・ウェブの匂わせなど、原作ファンが楽しめる小ネタも数多く含ませており、うまく繋げることが出来れば、今後の実写版『スパイダーマン』全体に波及する物語にもなれていたと思う。

あまりにも酷評された作品ではあるが、惜しい要素は本当に多々あり、三人のスパイダーウーマン達のキャラクターも、まだまだ引き出し切れていない魅力が残っていた。

映画としての出来は良いとは言えないが、孤独で、何の力も持っていなかった少女達が未来のチームアップのために共同生活をし、家族となっていく物語には、MCU《アベンジャーズ》という超人だらけのヒーローチームの結成とは一味違う面白さがあったのではないだろうか。

前作『モービウス』では義兄弟の共生が崩れるまでを描き、今作では家族を失った少女達が疑似家族になるまでを描いた。次作では“共生”の中心にいた「We」ヴェノムとエディの別れが描かれ、いよいよシリーズも終わりに近づいていくのだ。

評価/鑑賞日

⭐ 2.0 / 5.0
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🕸️ SSUシリーズ考察レビュー

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ヴェノム:レット・ゼア・ビー・カーネイジ(2021)

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