特別企画:毎日更新
連続ドラマレビュー
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――ドンと来い!ガス人間!
by 甲野京子(演:蒼井優)
作品データ
原題:ガス人間
監督: 片山慎三
脚本:ヨン・サンホ
リュ・ヨンジェ
原作:『ガス人間第一号』
(監督:本多猪四郎 / 脚本:木村武)
音楽:大間々昂
主題歌:サザンオールスターズ
「いとしのエリー」
製作:東宝
配信:Netflix
出演者:
ガス人間/堤田蓮:UTA
岡本賢治:小栗旬
甲野京子:蒼井優
藤川華歩:広瀬すず
三浦威(東京都知事):岡部たかし
阿部美智子:芋生悠
吉田則夫:こばやし元樹
西山達也(テレビ局JNT 報道記者):伊島空
伊花純一郎(テレビ局JNT 報道局長):古舘寛治
大友リキ(指定暴力団「藤代会」若頭):松浦祐也
桐島かずみ(三浦都知事のライバル候補):夏川結衣
※本レビューは最終話までの完全ネタバレレビューとなります。
リメイク元映画『ガス人間㐧1号』についても言及有。
総文字数:6532文字
読み終わるまでの時間:約16分
〜筆者より〜
8日間ドラマ『ガス人間』毎日更新、如何だったでしょうか?
次回更新では再び『スパイダーマン』関連作品に戻り、サム・ライミ版3作と『アメイジング・スパイダーマン』2作のレビューを今月中に仕上げたいと思う。
2026/07/30からはMCU『スパイダーマン:ブランド・ニュー・デイ』が公開である。
本来であればMCUスパイダーマンをレビューすべきとは思うが、あちらはMCUの流れを無視しては書くことが出来ない。MCUはいずれ、『アイアンマン』からきちんと書いていきたいと思っているので、気長にお待ち頂きたい。
とは言え勿論新作は観に行くので、そちらはSNSで短評程度は上げることになるだろう。
シリーズ論、監督論と順序立ててやらないと書けない面倒臭いブログ主ではありますが(笑)。
今後とも末長く楽しんで頂きたい。
まずは次回、『スパイダーマン』の世界に入っていきましょう。
最終話短評
昭和の東宝特撮『ガス人間㐧1号』を令和の時代に蘇らせたドラマ『ガス人間』も第8話となる今回が最終話。
筆者としては、“原作映画を語り直す”という役割としても単体ドラマとしても物足りない作品になっていたように思う。
ドラマ全体の作風が安定せず、どんなドラマとして見せたいのかが不明瞭であり、最後まで観てもこの作品の持つ強みや面白さが伝わり難かった。そのため、本来なら気持ちが昂るようなシーンであっても、感情の置き場が今ひとつわからないまま終わってしまった印象だ。
B級作品として楽しむべきだった?片山監督の奇妙な演出
点滴を飲み干す岡部たかしの怪演
本来このドラマは、“重厚なサスペンス”として観るよりも、極端な色付けをされたキャラクターが暴れ回る、ある種の“B級作品”として楽しむべきだったのかも知れない。
第3話の藤代会、第4話でのゴロ監督始めとする《イン・ザ・ソックス》や《ドリームサキュバス》のメンバー描写など、片山監督のカメラは明らかにそうしたキャラクターを撮る時こそイキイキしている。
今回で言えば、物語の黒幕である三浦は、前回に引き続きすべての描写が“奇妙”だ。人間的なリアリティや、悪役としてのカリスマがあるわけではない。けれど妙に記憶には残る。
前話の車内で突然歯を磨き出す姿や、コーヒーのカップにそれを吐き出す仕草……今回中盤では、入院中の病院から抜け出すために点滴を引き抜き、点滴薬に直接口を付けて飲み出す始末。
第6話で語っていた“エクアドルのコーヒー農場のミゲル”は“ルーマニアの養蜂家のミゲル”になり、最後は“日本のミュージシャンのミゲル”へと変化する。
ミゲル=旧約聖書の大天使の名を冠したこの物語は三浦の鉄板ネタなのか、己の野心や人間観を語る際に何度もパターンを変えて現れ、最後には、惨めに足切りされる三浦自身の喩えとして話される。
これは今村昌平監督の映画『復讐するは我にあり』(1979)のオマージュだということだが、クリスチャンである同作の主人公:榎津巌と違い、三浦がクリスチャンであるという設定は少なくとも作中で示されてはいない。更に言うと、オマージュ元は東宝ではなく松竹作品でもあるので、ここには物語としての意味も、作品的意味付けもあるわけではない。
無限武器の吉田とパーフィニー
今回はいよいよ藤代会若頭:リキによる“パーフィニー”の全貌が明らかになるわけだが、これはどうやら拷問……それも様々な道具を使った人体損壊拷問らしく、この描写も非常におかしなものだ。
刃物を並べ、上半身裸の上にマルチポケットエプロンをかけ、穏やかな声で「これから、パーフィニーを始めます」と宣言する。
部下たちもきちっと佇まいを直し、「押忍」と厳粛な声で応えるが……最終回まで観てこのシーンに辿り着くと、やはりこのドラマを真面目なサスペンスとして観ることそのものが間違っていたのではないかと思ってしまう。
恐らく筆者は、そもそもドラマの楽しみ方自体を間違えていたのだろう。
警察内通者の吉田にしても、背後から岡本を撃ち殺そうとして阿部と対決することになるが、この二人のバトルもリアリティなど皆無である。
吉田は阿部に銃を落とされながら、足元から次の銃を出す。その後は、武器を落とされる度にナイフやらワイヤーやら次々と隠し持った武器を出していく、まるでドラえもんの四次元ポケットの如く武器が増えていくのだ。
この武器もまたどこでそんなものを手に入れたのか……不思議なデザインの武器ばかりである。思えば第2話で小畑を殺害したヒットマンのナイフも、普通のバタフライナイフではなく、まるでメリケンサックとナイフが合わさったような形状だった。
この辺りは警察ドラマと言うより、まるでアクション……スーパーヒーロー映画のようですらある。
京子の復讐は、京子個人のものである
自分の立場を理解していない京子の言葉
しかし、問題はそうしたリアリティのない演出ではない。実際、大友の死に際の“ハワイアンパンケーキ”など、全話視聴した上で思い出すのはそうしたシーンばかりである。そういう意味で、片山監督の撮る画が面白かったのは間違いない。
荒唐無稽な設定・演出がアラとして目についてしまうのは、ドラマ本軸の物語に感情をうまく乗せられないからだ。物語に共感出来ていたのなら、どんなに奇妙なキャラクター描写もスパイスとして楽しむことが出来る。
今作はやはり、ドラマ全体で“演出のための演出”・“ご都合主義展開”が多すぎた。
そしてやはり全話通して、物語の主体であるはずの京子の行動には説得力を感じなかったのだ。
今回、京子と岡本は富士太が隠していたカメラに三浦の秘密が収められているのを知り、それを回収しに行く。藤代会の追っ手から逃げる中、京子は「考えがある」と作戦を告げるわけだが……なんと、ここで岡本を囮にしてしまうのである。
この後岡本はヤクザに囲まれて拷問に遭い、リキによるパーフィニーまで受けそうになるわけだが……これは「考えがある」で提案して良いレベルだろうか。三浦と藤代会によって、既にこの短期間で小畑と富士太の二人が犠牲になっている。過去に隕石墜落現場での悲劇も目にしているはずの京子がこの提案をするのは正気の沙汰ではないし、そこに何の躊躇いがないのも問題だ。
三浦への復讐を遂行するにあたり、京子はそこに巻き込む人間たちに対して自らの目的意識を押し付け過ぎてはいないだろうか。
三浦のライバル候補:桐島の元へ華歩を向かわせる際の「大丈夫、きっとうまくいく」
JNTの後輩である西山に三浦のニュースを託す際の「あんた死んでも記者としてやりたいって言ったよね?」
どちらも、発破をかける台詞として間違っているわけではない。しかし、それを言う京子は自分の立場を本当に理解しているのだろうか。
華歩を巻き込んだのは間違いなく京子であり、富士太の死の間接的原因も京子にある。
西山にしても京子の取材という名目でホワイトセンターの調査に巻き込まれただけで、彼には危険を冒してまでそれを報道する強い理由はない。まさに、“記者魂”だけでこの事件に関わっている状態だ。
このドラマ内の世間で騒がれている“ガス人間事件”の黒幕は京子である。今作において、世間的な興味の対象も、その犯罪を仕組んだのも京子なのだ。
ホワイトセンターの問題、蓮の死は確かに大きな問題だ。しかし、今作の登場人物のほとんどの人間は、その事件には一切の関係がない。世論としても、それが暴かれたとて騒がれるのは一瞬だろう。
極論を言えば、三浦も、大友も、坂本も……無風の誰一人として裁かれなくとも、このドラマの世界にはそこまで大きな影響はなかったとすら言えるのだ。
岡本と京子の別れに向けた積み上げがない
社会的な正義と、個人的な恨みは決して同一のものではない。今作の脚本の倫理は、その壁を踏み越えてはいないだろうか。
無風の被害者は確かに大勢いただろう。
岡本の父も、確かに口封じで殺されてはいる。
華歩も兄を殺された。
しかし彼らがそれを知ったのも、巻き込まれたのも、そもそも京子が復讐を始めたからであり……彼らは誰一人、堤田蓮の死とは何ら関係がない存在なのだ。
岡本には、警察官としてのプライドや正義感がある。当然、三浦を逮捕したいという気持ちもあるだろう。
しかし、そもそも岡本賢治という、今作の主人公である刑事の正義感を表すエピソードも、実は今作でそこまで強く表現されているとは言えない。岡本が組織や社会よりも、己の倫理を優先し、社会的弱者に手を差し伸べるようなエピソードは、第1話冒頭の外国人男性を助けるシークエンスだけだ。
三浦を逮捕しに向かう際の叫びも、どうにも唐突で物語の中で浮き上がっている。
岡本のキャラクター描写が積み上がっていないので、京子との最後の会話も、またも京子が自身の復讐を他人に委託しているように聞こえてしまう。
「三浦を逮捕するんでしょ?私の復讐は……もうあなたのものだよ」
本来であれば、これは今作の感情の一番のピークであり、殺人という形での復讐に目的を見出していた京子が、その感情を捨て去り岡本に運命を託すシーンなのだろうと思う。
しかし、岡本が三浦の逮捕にこだわる理由も、その正義感にも説得力がなく、京子のこれまでに関しても共感が生まれていないので、ただひたすらに京子の無責任な言葉への違和感しか生まれない。
岡本が渡すはずだった指輪を指にはめ、決意を固めているようだが、その岡本はそんなことをしている間に顔にビニール袋を巻かれ顔の原型がないほどに殴られパーフィニーである。
岡本、許さなくて良いぞ絶対。いや、本当に……。
そもそも、全8話という決して短くはないエピソード数の中で、主人公である岡本の人間性を積み上げて来られなかったのは、明確に脚本の失敗ではないだろうか。
原作映画の岡本と京子は、あくまで狂言回しであり、物語の主体は水野と藤千代であった。だから、岡本と京子の描写が浅くとも問題はない。しかし、今作においての二人は、物語の主体として描かれなくてはならなかったはずだ。
物語を終わらせたのは最後まで藤川兄妹だった
筆者としてはやはり、今作は最後まで、藤川兄妹の物語としてしか観ることが出来なかった。
三浦の最後の罪にしても、暴いたのは富士太の遺したデータであり、物語全体の中でも、人間として最も成長したのは華歩だったのではないだろうか。
本来であれば第7話という終盤も終盤で登場する予定だったという、物語の外部からやってきたキャラクター。“途中離脱をさせないために面白いものは先出しにする”というNetflixのドラマの鉄則として、予定変更で第4話からの出番となった数奇な兄妹。
結局のところ片山監督のカメラも、最後までこの兄妹にフォーカスしていたように感じる。
華歩は今回、三浦の罪を暴露するためにカメラの前に出る。
自身の顔のアザにコンプレックスを抱え、決して人前に出ることはなかった。第4話でホストクラブのケンタに会いに行った際も、目も合わせずに、吐くほどの酒を飲み、その力を借りて無理矢理に会話していた。
今回も、桐島の事務所に入った華歩は誰とも目を合わせようとしない。それは当たり前で、ほんの数日前まで、彼女は富士太の言った通り兄と二人だけの世界で生きてきた。
けれど、そんな兄は、この事件の中で喪われてしまった。彼女の世界は、その時点ですべて失くなったも同然なのだ。
そんな彼女が、兄とそっくりなメイクをし、兄と同じ衣装を着て、初めてカメラの前に立つ。
兄と同じようにから回ったMC。兄の死さえも、往時の富士太のようにテンションを上げて語っていく。
カメラに立つ前に兄に語りかける姿と、収録が終わってメイクを落とす姿。垂れてきた前髪を払い、これまでただ隠してきた顔のアザを全面に鏡に映す。
こうしてようやく、華歩は閉ざされたあのペントハウスから一歩外へ踏み出すことが出来たのだ。兄の遺したデータを、兄の意志を継ぐことで世に放った。
最終的には、《フジタとカホの恐怖地帯》が三浦威という男を終わらせたのだ。
物語がすべて終わった後、フジタとカホの恐怖地帯は1000万人のチャンネル登録者を得ている。
……ホラーチャンネルが1年で1000万人はさすがに過剰な表現な気もするが、兄の写真を傍に、兄がやっていたままのチャンネル名で、「フジタとカホの」恐怖地帯を続ける華歩の姿は、物語の読後感として本当に素晴らしいものだ。
これまでの華歩の旅は終わり、彼女は今、配信者として新しい物語を刻み始めたのだ。
京子の死は富士太の死の再生産でしかない
正直なところ、華歩の配信が終わった時点でドラマはほとんど大切なものを語り切ってしまった印象で、ラストの京子とガス人間の心中についても、それは第6話の富士太の死の再生産でしかないので、今ひとつ響くものがない。
富士太の死も、京子の死も同じ自己犠牲だ。
けれど、妹が助かるために、なんの言葉も残さずに死んでいった富士太と、岡本に言葉を遺し、岡本に看取らせるように死んだ京子では、その死に対する覚悟すら違って見えてしまうというのは言い過ぎだろうか。
ラストにガス人間を誘き寄せる京子にしても、あれだけの距離をまったく追いつけず、鼻と口を抑えれば体内に入り込めないガス人間など、やはり演出のためのご都合主義が目立つ。
せめて、ガス人間が人間体に戻る際に涙を流した理由付けとして、ここで少しでも蓮自身の記憶や感情が見えたならもう少し見え方も変わった気がするが、そういった伏線回収もない。
「どんと来い、ガス人間!!」という京子の台詞に関しても、本当にそれで良いのか……蒼井優の演技が真に迫っているだけに、余計に脚本や台詞が気になってしまう。
シーズン2を作れる余地のあるエンディング
海外ドラマ的な引きのあるエンディングとして、物語はどこか謎を残しており、シーズン2も作れそうな演出だが、これも物語に矛盾を残すだけで効果的とは言い難い。
三浦が最後に恐らく彼より上にいる、無風を動かした黒幕に電話を掛けていたことに関しても、国家ぐるみの隠蔽工作のトップが一介の都知事であるはずもなく、大した驚きはない。その際の台詞や演出にはやはり既視感しか感じず、黒幕がどこまでも上方修正されていくのはドラマ『アンフェア』シリーズ(2006〜)にも近いが、三浦の「俺も人間燃料ってことか……」という台詞も含め、やはり随分とわかりやすい結末に着地してしまった感は否めなかった。
ラストに岡本の部屋に現れるガス人間が京子だとすれば、前話レビューでの“ガス人間は自身の思い出の地に還る”という解釈がより深まるが、京子がガス人間になるのなら富士太も、佐野教授ですらガス人間になっていなければおかしく、そのあたりの謎は深まるばかりである。
これであのガスが固まり蓮の石像になってもそれこそ意味がわからないので、さすがに京子だとは思うのだが……。
これも、エンディングで何かを匂わせるためだけの演出に見えてしまい、疑問と違和感だけが膨らむラストシーンであった。
全8話を観て
今作は『ガス人間㐧1号』のリメイクとしても、単体のドラマとしても必ずしも出来の良い作品だったとは言い難い。
ドラマ全体で、“何を見せたいのか”“どう見せたいのか”が最後まで定まっておらず、片山監督の演出がどこか物語と乖離しているように見えてしまった。
原作にあった、戦争という大きな歴史の後に残ったもの……その混乱の中で、自分たちの意志だけでは自由に生きることが叶わなかった若者が、ガス人間という怪物になるまで……そして、そんな怪物の罪や、その行き着く先にある罪と罰を描いた物語を、現代に置き換えるにあたりあまりにも単純化してしまったのではないだろうか。
国家の中枢に巣食う陰謀、現代の貧困、それを“人間燃料”と呼ぶ支配者層……テーマ自体は悪くない。
しかし、そこに単純な善悪二元論を持ち込み、原作にあったガス人間:水野の持つ身勝手で自己承認欲求にまみれた人間的な要素を取りこぼしたことは、やはり原作の核を捉え損ねたリメイクだったと言える。
それは今回も書いたように、京子を身勝手な人間として描写すれば良いという話ではなく、作り手がそんな水野や京子を、どんな存在として扱い、見せるかの問題だ。
筆者としては、そうした復讐者:京子の見せ方にどうしても、原作のDNAを感じることが出来なかった。
だからこそ、本来物語の外側にいたはずの藤川兄妹の物語だけが、『ガス人間㐧1号』のテーマを2026年現代に体現していたように思えてならないのだ。
承認欲求を抑えきれない兄、コンプレックスを抱え外に出ることさえ拒否する妹……兄は原作藤千代と同じ形での死を選び、しかしその死は、ただ自身の芸術に殉じて心中を選んだ藤千代とはその意味がまるで違っていた。
富士太の死は、華歩を生かし、華歩を日常へ帰すための死だった。自己犠牲という形ではあったが、彼は最終的に、華歩が何より守りたかった日常を守ろうとしたのだ。
その後、配信者の道を歩み続ける華歩も合わせ、この兄妹だけが原作の“その先”に辿り着いたのではないだろうか。
だからこそ、仮にもしシーズン2があったとしても、華歩にはもう悲惨な事件には巻き込まれてほしくないと願ってしまうし、一方で華歩が登場しないのであれば、物語の魅力は8割方なくなってしまうだろう。
昭和の名作を現代に蘇らせる試み自体は素晴らしい。だからこそ、次があるのであれば原作の“核”をきちんと見定めてほしいものだ。
💨 ガス人間考察レビュー

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