Sam Raimi’s Spider-Man 全作品レビュー2
――人は誰もがヒーローになれる……それでも,“スーパー”ヒーローになるには責任がいる 親愛なる隣人は,逃げることなく帰ってきた
この作品はどんな作品?
サム・ライミ監督による『スパイダーマン』シリーズの第2作目。
前作から続くレギュラー陣の青春の苦悩、ヒーローの孤独と責任の物語が絡み合い、続編としても一本の映画としても成立するシリーズ最高傑作。スパイダーマンは、あの時代のNYの心優しき人々の“親愛なる隣人”だった。
この作品はどんな人にオススメ?
自分の責任と個人としての幸せの間で苦悩したことがある人。
不器用な人間関係に迷いながら、それでも誰かと共に生きることを願う人。
特別な力は持っていなくても、心に強く優しいヒーローを宿す人。
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作品データ
原題:Spider-Man 2
監督:サム・ライミ
脚本:アルヴィン・サージェント
(原案) アルフレッド・ガフ
マイケル・シェイボン
マイルズ・ミラー
原作:Marvelコミック『スパイダーマン』
スタン・リー/スティーヴ・ディッコ
音楽:ダニー・エルフマン
撮影:ビル・ポープ
上映時間:127分
出演者:
ピーター・パーカー 《スパイダーマン》:トビー・マグワイア
オットー・オクタビアス 《ドクター・オクトパス》:アルフレッド・モリーナ
メリー・ジェーン・ワトソン:キルスティン・ダンスト
ハリー・オズボーン:ジェームズ・フランコ
ロージー・オクタビアス:ドナ・マーフィー
メイ・パーカー:ローズマリー・ハリス
J・ジョナ・ジェイムソン:J・K・シモンズ
ジョセフ・”ロビー”・ロバートソン:ビル・ナン
ベティ・ブラント:エリザベス・バンクス
ホフマン:テッド・ライミ
Mr.ディコヴィッチ:エリヤ・バスキン
アースラ・ディコヴィッチ:マゲイナ・トーヴァ
ベン・パーカー:クリフ・ロバートソン
ノーマン・オズボーン 《グリーン・ゴブリン》:ウィレム・デフォー
※本レビューにはネタバレを含みます。
総文字数:12543文字
読み終わるまでの時間:約31分
前作レビューはこちらから
→

製作背景:理想的な続編として評価された2作目
サム・ライミ監督による、実写版『スパイダーマン』シリーズ第2作目。
前作キャストほぼ全員が続投し、物語もそのまま2年後へと繋がる正統続編。
前作公開直後、初週興収が1億1400万$という当時としては記録破りな結果を迎え、すぐに今作の製作は発表された。主演のトビー・マグワイアは既に一作目撮影段階で三作品分の契約を結んでおり、製作発表時点で、マグワイアと共にMJ役のキルスティン・ダンストの続投も公表されている。続編製作の本決定自体は興収ありきだったにせよ、Sonyとしてもこのシリーズへの自信は相当高かったものと思われる。
ただし、この時期のマグワイアは、以前から患っていた背中の疾患の問題のために降板する可能性があり、実際に代役を探す段階にもあったと言われている。また、後にスパイダーマンシリーズのお定まりとなる“主演とヒロイン役との実生活での交際”……その第一号であったマグワイアとダンストの関係もこの時期には解消されており、そうした意味での不安も、ライミの中にはあったと言う。
マグワイアの代役には後の『スパイダーマン:ファー・フロム・ホーム』(2019)でミステリオ役を演じるジェイク・ギレンホールも交渉されており、更にこの頃ギレンホールはダンストと交際中だったとも言われている。そんなところも含めて、つくづく青春を感じる作品ではないか。
今作の脚本はアルフレッド・ゴフとマイルズ・ミラーがまず執筆者として登用され、そこに前作脚本家のデヴィッド・コープが加わって初期稿が書き上げられた。この時点では現在のストーリーと大きく異なり、『スパイダーマン3』でも登場したグウェン・ステイシーが重要な役割を担う予定だったと言う。
その後脚本にマイケル・シェイボンが加わり、この時点でヴィラン役としてドクター・オクトパスが登場する物語が描かれるも、やはり今作と内容は大きく違い、ドクター・オクトパスにはヴィランとしてだけでなく、前作での遺伝子操作された蜘蛛の発明者としての役割も与えられていた。こうした過程を経て、最終的に脚本チームにはアルビン・サージェントが加わり、ライミと共にこれまでに四人が描いた脚本から様々な要素を取り出し、今作の物語が仕上げられた。
ライミはヴィランであるドクター・オクトパスとピーターの関係性を深め、物語を二人の師弟関係という形にまとめていった。
ドクター・オクトパスは、元々前作に至るまでのスパイダーマン実写化の企画過程で何度もヴィラン候補になっており、古い企画には1980年代のものも存在している。ドクター・オクトパスをヴィランに、冷戦をテーマにした物語を描く予定だったようで、これは何と、脚本執筆にスタン・リーを登用しようともしていたらしい。
前作でも、グリーン・ゴブリンのサブヴィランとしてドクター・オクトパスを登場させる案もあったそうで、原作ファンのライミとしては待望の映像化だったのだろう。
今作は2004年のAFI(アメリカン・フィルム・インスティチュート)が選ぶTOP10映画の一つに選ばれ、興収も全世界7億9700万$を超え、続編映画としても非常に良い結果を残した。
第77回アカデミー賞では視覚効果賞を受賞し、音響ミキシング賞と音響編集賞にもノミネートされている。SF・ファンタジー・ホラー映画の賞である第31回サターン賞でも最優秀ファンタジー映画賞、最優秀監督賞、最優秀脚本賞などの他、映画部門で計5部門を受賞し、名実共に傑作と名高い作品である。
シリーズ2作目としても、一本の映画としても、ヒーローの挫折と復活、ヒーローと個人の人生のバランスを描いた今作は、Marvelの描く“悩めるヒーロー像”を前作以上に鮮やかに描き出した素晴らしい作品だ。
アクション論:視覚効果技術の発展の軌跡と観客の憧れの具現化
ジョン・ダイクストラとスティーブ・ジョンソンによる視覚効果の発展
前作のアクション面では、スパイダーマンのCGアニメーションにやや違和感があったが、今作では大幅な予算増加と技術の発達により、そうした点もかなり改善されている。
勿論、まだまだ映画業界におけるCGの技術が発展途上だったことは間違いなく、前作同様スパイダーマンが実写画面から浮いている部分があることは否めない。けれど、スパイダーマンのスーツのデザインや色調も変わり、画面の色に対し、前作に比べ格段に馴染むようになった。
この時期はとにかく技術の発達が目覚ましかった頃で、ほんの2年、3年差で大作映画の映像の質感は大きく変わる。今シリーズを順に観ると、そうした意味でも楽しむことが出来るはずだ。
今作のVFXチームには『スター・ウォーズ』シリーズやABCドラマシリーズ『宇宙空母ギャラクティカ』(1978〜)等で、現代映画の視覚効果技術を大きく発展させた立役者:ジョン・ダイクストラが前作に引き続き参加しているが、今作では前作で使った《モーション・キャプチャー》の技術をほとんど使っていない。
スーパー・パワーを持つヒーローやヴィランの動きをよりリアルに見せるにあたり、実際の人間の動作をトレースするのではむしろリアルさが出なくなるということだったのだろう。
今作ではキャストやスタントの全身を細かくスキャンし、骨格や筋肉の動きをより緻密に設定した上でCGアニメーションを作り、更には1シーンの中のカット/コマ単位でキャスト・スタント・CGを置き換え、組み合わせるなどの工夫で、その動きに自然な繋がりを作っている。
ヴィランであるドクター・オクトパスを特徴づける機械のアームとその仕掛けは、『イノセント・ブラッド』(1992)や『ロード・オブ・イリュージョン』(1995)で特殊効果技術に画期的な技術革新をもたらしたスティーブ・ジョンソン率いるEdge FXが製作した。
それぞれ4本のアームに、複数の操作士がついて稼働させたそれは、ドクター・オクトパスの筋肉の動きと連動して見えるようリハーサルを重ね、作中の設定通りまるで本当に知性があるかのように動く。
バトルシークエンスなど一部ではこのアームをCGモデリングでも表現しているが、基本的には一度実物のアームを動かし、再現不可能なシーンだけに留めていると言う。CGについても実物のアームをスキャンして作り上げ、やはりここでもシーンの連続性が失われないようにしている。
ドクター・オクトパス役のアルフレッド・モリーナは4本のアームに“ラリー”、“ハリー”、“モー”、“フロー”と名前を付け、眼鏡を外したり煙草に火をつけるなどの繊細な作業は、女性操作士が操るフローが行ったのだとか。
リアリティと没入感により、スパイダーマンは身近な存在となる
ウェブ・スウィング等の撮影には《スパイダーカム》という機材が用いられ、四つのケーブルから左右上下を撮影技師が操縦しながらカメラを回すという方法が採られている。
その名称からまるで今作・今シリーズのための撮影技法のようではあるが、これ自体は2000年にオーストリアの《CCSystems社》が開発したもので特別作品との関連はない。ただ、今作ではこの撮影法が非常に大きな効果を生み出しており、スパイダーカムを用いた映画の代表作と言っても良いだろう。
前作ではラストのスパイダーマンがNYの街を飛び回るシーンでのみ用いられたが、今作では全編に渡り効果的に用いられ、あるシーンの撮影ではビルの高層階から落下し、NYやロサンゼルスでは数百mに及ぶ高さからのショットがこの技法により撮影されている。
これにより、ビルの壁を登るスパイダーマンやドクター・オクトパスの姿はより自由度の高い動きになり、高さや空間を感じる構図から、観ている側はより世界に没入できるようになった。
スパイダーマン/ピーター・パーカーの視点から撮られたPOV的なシークエンスでは、まるで観ている側も共に空を飛んでいるかのような気分を味わうことができる。
今作は、スパイダーマンのアクションにリアリティと没入感を付加することで、この映画の観客……特にやはり、メインターゲット層であった子供たちに、感情を同期させるように作られていたように思う。
だからこそ、今作最大の名シーンでもある、電車を止めるスパイダーマン……ピーターのアクションにも切実なリアリティが生まれている。
電車の上でドクター・オクトパスと闘うスピード感のあるアクションは、勿論非常に気持ちが昂るものだが、それよりもやはり、ピーターがマスクを取り、素顔を晒して電車を止めようとするあのシークエンスこそがアクションシーンとしても、映画としても感情のピークだ。
風に煽られ、スピードに逆らい、顔面を歪めて電車を止める姿……観ている側と、電車内のNY市民の気持ちが完全に一つになる瞬間。
ラストのドクター・オクトパスとの闘いについても、ピーターは泥臭い殴り合いで勝負し、最後にはマスクを外す。今シリーズが、ヒーローである前に一人の人間としてスパイダーマンを描こうとした証左だろう。
演出論①:より深みを増したサム・ライミの人物描写やシーンの繋ぎ方
サム・ライミお得意の丁寧なシーンの繋ぎとホラー描写
今作においても、ライミの映像はカットの切り替えや編集が非常にスムーズだ。
オープニング映像では、前作の名シーンがコミック風イラストで描かれ物語を振り返らせる。ナンバリング作品で2から観る観客はほぼいないだろうし、仮に前作から当時と同じ間隔を空けて今作を観たとしても、この映像だけで充分に記憶は蘇るのではないだろうか。
MarvelやDCのカバーアートも手掛けたことのあるコミック作家:アレックス・ロスによるこの書き下ろしは、それそのものがコミックファン必見の作品でもある。
MJのイラストから実写のMJへと変化し、更にそれがNYの街に貼られた看板であることがわかるところから、物語は本編へと入っていく。
前作の蜘蛛の糸のCG→実物への繋ぎのように、日常と非日常を繋ぐ編集が物語の空気を効果的に入れ替える。中盤のドクター・オクトパスのアジトの壁の影から、病院で検査中のピーターの口内に繋がる編集にも、ヴィランに堕ちた者と、ヒーローの力を失った者……物語としての対比が生きている。
今作ではスパイダーマンのスウィングの他、ドクター・オクトパスの妻ロージーが息絶えるシーン等で効果的にPOVが用いられており、そうした演出の一部にはライミのホラー作家としての側面が強く出ている。
ロージーに割れた硝子が飛んでいくシーンでは、敢えてそれが突き刺さる瞬間は映さず、飛んでいく硝子側からの映像と、倒れるロージーの姿だけで、そこにある“最悪の結末”を想起させてしまう。
病院での手術中にオクトパスのアームが暴走し、その場の医師を次々と惨殺していくシークエンスも、まさに『死霊のはらわた』を想起させる名シーン。床のタイルが剥げるほどに爪を立てながら暗闇の中に引きずられていく看護師の姿には、ライミの悪趣味なホラー観が見え隠れしている。
2作目かつ、大好きなキャラクターの映像化ということで、ライミの演出にも前作より遊び心と、自身の得意技を入れていく余裕があるようにも見える。
小道具や細かな演出で厚みの出る人物描写
ライミの演出は、台詞よりも人物の細かな描写を重ねることで、観ている側に“生きた存在”としてキャラクターを刻みつけてくれる。
序盤のピザ配達、掃除用具を倒してまごつく、スーパー・パワーを得ても変わらぬピーターの鈍臭ささや、肝心なところで空気が読めない姿、
舞台からピーターが座るはずの空席を見つめて、一瞬台詞に詰まるMJの表情や、今度は逆にピーターが現れた時、本当に台詞が飛んでしまう姿、
スポンサーをしているオクタビアスの前ではやや傲慢になるハリーの青さや、部屋の机にスパイダーマン関連の新聞や雑誌を重ねている姿、
メイおばさんは寝言でベンおじさんの名前を呼び、ジェイムソン始めとするデイリー・ビューグルの面々の漫才は、今作でも変わらず馬鹿馬鹿しい。
こうした細かな人物描写が積み上げられることで、レギュラーメンバーが前作から重ねた2年の間に変わったこと/変わらないことが観ている側にも伝わってくる。
今作では、画面を彩る背景や小道具を効果的に使い、人物描写に厚みを出す演出も冴えている。
中盤、ピーターはパーティ会場でMJに“空っぽの席”と評され、放心状態でウェイターが運んできた酒を口にするが、それは既に飲み干されたグラスを下げてきたもので、まさしく中身が“空っぽ”だったというオチがつく。
終盤でハリーが運ばれてきたスパイダーマンを手に掛けようとナイフを取る際、そのナイフが置かれたテーブルにハリーと笑顔で映るノーマンの写真が飾られているのも、観ている側を一瞬にして前作の因縁へと引き戻してくれる名演出だ。
物語論①:ヒーローであるということ/ヒーローになるということ
ヒーローの重荷を背負うには、若過ぎたピーターの孤独
今作は“ヒーローの責任と帰還”の物語だ。前作がヒーローとしての目覚めなら、今作はヒーローとしての自覚。同時にピーター・MJ・ハリーの三人の物語もまた確実に前作から地続きな青春のすれ違いとして進行しており、この二つのテーマが、最終的には一本の物語に結実していく。
ピーターは元々、ヒーローになりたかったわけではない。蜘蛛に噛まれたのも偶然であり、最初に自ら能力を使ったのは、MJのために車を買いたかったからだ。前作はそんなピーターがヒーローになり、そのために愛する人達を裏切る物語だった。
メイおばさんには、ベンおじさんの死のいきさつを、
ハリーには、スパイダーマンの正体を、
MJには、自らの想いを隠す。
ピーターは“大いなる責任”の下、スパイダーマンとして生きるための孤独を受け入れたはずだった。
けれどそれを一人で抱えるには、ピーターはあまりにも若すぎた。
学校には毎回遅刻し落第寸前、バイト中に事件が起こればそちらに向かいクビになる。MJの舞台にすらピーターは一度も観劇に向かえず、やっとタイミングを作れたと思ったら、それすらヒーロー活動のために遅刻してしまう。
たった一人の親友には、会うたびにスパイダーマンのことを聞かれ、互いに気まずい空気は隠せない……ヒーロー活動はお金になるわけでもなく、家を追い出されそうなメイおばさんを救うことも出来ない。
そうした挙句、MJは自分以外の……それもピーターがあまり好感を持っていないジェイムソンの息子と婚約発表までしてしまう。
ピーターが力を失ったのは、能力がなくなったわけではなかったのだろう。ピーター自身の心がスパイダーマンの孤独を否定し、その力を無意識に抑え込んだだけだ。
スパイダーマンの否定……しかしそれは同時に、ベンおじさんを否定することでもある。
ピーターの正義はベンおじさんから受け継いだものであり、ベンおじさんを死なせた後悔と痛みが、ピーターをヒーローにした。
けれどピーターは、白日夢の中でおじさんの伸ばした手を拒否し、自分の勝手で責任を放棄する。そんな結果として、結局ピーターの手からも、愛する人たちは溢れていく。
ピーターがベンおじさんの死について告白し、メイおばさんが哀しげに部屋へと閉じこもるのは、今作、今シリーズの中でも、最も静かで哀しいシークエンスだ。
手を握らなかったベンおじさんと手を握れなかったメイおばさんが対比的な構図となり、ピーターが選択を間違ったことが可視化される。
誰もがヒーローになれる、けれどスーパー・ヒーローになれるのは一握りだ
ピーターがヒーローに戻るには、メイおばさんの言葉が必要だった。
「子供たちにはヒーローが必要よ」
これは、メイおばさんが前に進んだ証でもある。ベンおじさんと暮らした家から出て、彼女は前を向いて歩いていくことを決める。
「どんな水も流れすぎて行くわ」
「あなたを愛してるわ」
とピーターを抱きしめるおばさんにも、葛藤はあったはずだ。
この時のメイおばさんは、ピーターがスパイダーマンであることを“わかっている”ようにも見える。MJがキスでそれに気づいたように、メイおばさんも今作中盤で共に闘っている、気づいていてもおかしくはないだろう。
今作のピーターは、幾度となく子供たちと視線を合わせている。序盤でMJの舞台を観に行き、バイクから飛び上がるシーン、メイおばさんの家の近所に住むヘンリーが、スパイダーマンへの憧れを語るシーン、そして、能力もないまま火事に飛び込み、子供を助けるシーン。
ピーターがかつてコミックブックに夢中だったように、子供たちはヒーローに憧れる。それは観客である我々も同じことで、今作を観る人はやはりどこかで自分をスパイダーマンに重ねたり、夢見たりしたことがあるはずだ。
だからこそそんな彼らのために、ピーターは再びヒーローに戻る決意をする。
火事のシークエンスでは、力を失ったピーターは、扉を蹴破ることさえ、燃え盛り底が抜けた床から這い出ることさえ容易にはいかず……なんとか少女の助けを借りて、ようやく外へ出ることが出来た。
少女は救われる。力なき人間、ピーター・パーカーでも一人は救うことが出来た。けれど、その火事には、一人取り残され、死んでしまった犠牲者もいたのである。
「僕の好きに生きることもできないのか」
ピーターの心には、確かに正義感があり、彼の心にはヒーローがいる。けれど、“心だけでは”ヒーローの責任は果たせない。
人は誰もが心にヒーローを宿している。今作で登場する子供たちも、前作でグリーン・ゴブリンに石を投げた人々も、今作でピーターの秘密を守ろうとした電車の乗客も、ベンおじさんも、メイおばさんも、ピーターにとっては間違いなくヒーローだ。
けれど、心だけでは、スーパー・ヒーローにはなれない。強大な武器を持った敵から、多くの人を救うことは出来ない。だからこそ、“スーパー”ヒーローにはスーパー・パワーが必要で、その力には「大いなる責任が伴う」。
あらゆる正義の代表として、“親愛なる隣人”として、ピーターは再びその責任を引き受ける。パワーを得たのは偶然じゃない。ピーターは、今作で本当の意味でスパイダーマンとしての運命を受け入れた。
だからそんなピーターに、子供たちは「お帰り、スパイダーマン」と言うのだ。
物語論②:ヒーローとヴィラン……正義のために大切なものを捨てられるのか
ピーターにとって理想像であり鏡像であったドクター・オクトパス
今作のヴィランは、ピーターの理想の未来像であるオットー・オクタビアスであり、スパイダーマンの鏡像であるドクター・オクトパスだ。
ピーターにとって、オクタビアスは人生の目標とも言える存在だった。知識もあり、それを活用する技術もあり、愛する妻もいる。彼の言葉に感銘を受け、「愛する人には詩を読め」と言われれば、すぐに何冊も本を買い漁る始末。
「優秀なだけではダメだ、努力しろ。
知性は特権ではなく授かり物だ」
この言葉は、ピーターとしても、スパイダーマンとしても、授かった能力=ギフトをどう使うか、という、今作のテーマの根幹に関わる言葉でもある。
オクトパスの存在は、グリーン・ゴブリン=ノーマン・オズボーンとも重なる。
ピーターの能力を買い、育てた人……それが、自分の人格とはまるで違う人格に支配され、彼らが守るべきもののためにしてきた研究で世界を破壊しようとしている。
ピーターはマスクを外し、素顔でオクトパスに向き合う。ノーマンを救えなかった過去への贖罪のように、オクタビアスを死なせるためではなく、救うために闘う。
ドクター・オクトパスは、スパイダーマンを捨てたピーターの鏡像だ。
その研究は人類のためであると同時に、自身の悲願だった。最初の実験で、暴走し始めた装置をすぐに止めていれば、彼は何も失わなかった。もう一度計算しなおせば、彼はまた新たな結果を生み出すことが出来たはずだ。
それをしなかったのは、彼のエゴ。
そのエゴが、制御が利かなくなったアームの人工知能により暴走し、彼はドクター・オクトパスとなってしまう。
オクトパスには何度も立ち止まれるタイミングはあった。アームに支配されていたとは言え、自身の計算ミスを認めた場面も、命を断とうした場面もあった。それを出来なかったのはやはりどこかで、オクタビアスとしての彼もまた、失った夢を諦め切れなかったのだろう。
ピーターは再び、恩師と呼べる人を喪う
「ときに正義のためには毅然として
大事な物もあきらめないと。たとえ夢でも」
それは、ピーターが自分自身へも向けた言葉だ。
ピーターはスパイダーマンに戻る決意をし、MJを再び拒絶する。
ピーターはスパイダーマンに戻ることで、ハリーに正体がバレ、ハリーの信頼を裏切る。
それでも、彼はこの運命から逃げられない。逃げないと決めた。だからこそ、彼は改めて、スパイダーマンの姿でMJに別れを告げなくてはならなかった。
今作で帰還するヒーローは、スパイダーマンだけではない。ドクター・オクトパスも、最後には英雄として死んでいく。
自身の神経に深く巣くい、制御装置を失ったアームに対し、自らの意志でその動きを制御する。そして、その頭脳が創り上げた人工太陽と共に、自らの潰えた夢を終わらせることを選ぶのだ。
ピーターに送るオクタビアスの視線で、ピーターも彼の覚悟に気づいていたのだろう。だからこそ、ピーターは恩師を見送るしかない。
「怪物のままでは死なん」
オクタビアスは、水中に沈みながら、最後まで目を見開いていた。その目には、自身の罪も、後悔もすべてが映っていただろう。
唯一残念だったのは、オクタビアスから死なせてしまった妻:ロージーへの感情がドクター・オクトパスになってからはほぼ描写されなかった点だ。ピーターにとっての理想像であり鏡像であり……夫婦の在り方に、MJとの未来を重ねてもいただろう。だからこそ、実験の失敗により命を落とした妻への言葉がほんの少し、欲しくはあった。
ピーターは、オクタビアスの魂は救えた。
けれど、その命は救うことが出来なかった。
魂も、肉体も死なせてしまったノーマンの時とは違う。けれど、今作でもピーターは、また大切な人を喪っている。
キャラクター考①ハリーがピーターに抱いていた不信とコンプレックス
ハリーの孤独……スパイダーマンの影
構想段階では、今作にはオクトパスの他にブラックキャットというキャラクターを登場させる計画があったと言う。……しかし、結果として今作はそうしなくて正解だったように思う。
シリーズの主軸には、ピーター・MJ・ハリーの三人の苦い青春の物語があり、キャラクターが増えすぎると、物語の方向が散ってしまうからだ。
今作のハリーとピーターの関係は、序盤から不穏な空気を纏っている。
ハリーにとってピーターは今でも大切な親友だ。父から譲り受けた会社の大切な取引相手に公私混同で時間を使わせ、自分のかつての交際相手であるMJとの関係さえ後押ししようとする。
しかし、二人の関係には、常に“スパイダーマンという影”がある。
ピーターはスパイダーマンだ。ハリーは当然そのことを知らない。しかし、ピーターがスパイダーマンの写真を撮り、それで生活費を稼いでいたことは知っている。
ハリーからすれば、父を殺した仇と、たった一人の親友は繋がり、その情報を決して自分には渡そうとしない。
ハリーは、二年に渡りその感情を抑えてきた。そこにはピーターとはまた違った意味の深い孤独があったはずだ。
ハリーを裏切ったのは、ピーターの“嘘”だったのか?
父から受け継いだ事業……自分にノーマンのような才能がないことは、ハリーは誰よりも理解していた。だからこそ、彼は経営の側に回った。社長であるノーマンも……役員他幹部すら前作の時点で失った会社を、わずか2年で立て直してみせた。
オクタビアスの実験により、すべては報われるはずだった。最後まで自分を真の意味で認めることはなかった父も認めてくれる……ハリーはそう信じていたはずだ。
実験は失敗し、多くの死者も出し、責任者は危険なアームと共に消えた。
ハリーと会社の負った負債も計り知れなかっただろう。酒を呷り、疲れ切ったハリーの口からは、隠していた本音が漏れる。
「お前はMJを奪い父の愛を奪った」
ピーターからすれば、ハリーはすべてを持っている親友だった。
優秀な父、恵まれた環境……かつてはMJすらハリーを愛した。けれど、ハリーも同じように、ピーターに対してコンプレックスを抱いていたことに気付かされる。
だからこそハリーはドクター・オクトパスに、ピーターの名を告げてしまう。
スパイダーマンの居場所を知りながら、自分の復讐には決して協力しない親友……誰よりも信じながら、誰よりも秘密が多い、優秀で恵まれた友。
それはその場の勢いで放った言葉だったのだろう。ハリーは去り行くオクトパスに、慌てたように「聞くだけだ」と叫んでいた。
スパイダーマンのマスクを剥いだ時、ハリーの世界は瓦解する。信じていたものも、コンプレックスも、申し訳なさも……すべてがない混ぜになったように、足は震え言葉を失ってしまう。
ここで、ピーターは更にハリーを傷つける。
「君が父を殺したのか?」
「今はそれより大事なことがある」
……これだけは、絶対に言ってはいけなかった。
確かに状況は一刻を争っていた。けれど、ハリーの人生にとって、それはそんな風に捨て置ける話であるはずがなかった。
ピーターは、どこか肝心なところで繊細な人間関係の選択を間違える。MJに対しても、ハリーに対して。この会話によって、二人はもう今度こそ戻れない場所まで来てしまったのではないだろうか。
キャラクター考②:MJの愛は、等価交換では手に入らない
変わらぬMJの孤独に、ピーターは気付けていたか
MJはこの二年、ピーターを待ち続けていた。その間に彼女は女優としてきちんと自身の立ち位置を確立し、舞台では主演を、NYの街には彼女を擁した広告看板が立つまでになった。それでも、彼女自身の孤独は、実は何も変わっていない。
ピーターへの言葉の中で、MJの母親は病気を患い、父親は楽屋に金の無心にきたことが語られている。彼女の家庭環境は、前作のまま何ら改善されておらず、むしろ、彼女が成功したことにより、その機能不全は悪化しているようにも思える。
それでも、彼女はピーターを舞台に誘い、誕生日を祝い、ピーターを信じ続けた。ジョンという新しいパートナーがいても、彼女はどこかでピーターを想い続けていたのだ。
ピーターは、スパイダーマンである限り、MJと交際することは出来ないと思っている。
けれどそれは、スパイダーマンを辞めることが、=MJとの交際、ではない。ピーターは、その点を致命的なまでに取り違えている。
ピーターは正義感もあり、ヒーローであり、誰よりも優しい男として描かれる。その一方、恋愛に不慣れで、友達も少なく、口下手で、空気の読めないナードでもある。
それが、ピーターと周囲の人々との軋轢を生んでしまう。
スパイダーマンの傍で生きる覚悟
スパイダーマンのスーツを捨て、MJの舞台を観に行き、愛を伝えても、既に婚約しているMJがそれを受け入れることはない。
「舞台を観ただけで私に結婚をやめろと?」言葉は痛烈ながら、ピーターはまったくピンと来ていない。
「やり直そう」「何も始まってないのに?」
……頼む一回殴らせてくれ、ピーター。
かつてのピーターは、MJをただ一人、そのまま肯定してくれた人だった。
高価なプレゼントをするでも、力を誇示して彼女をトロフィーのように扱うでもない。ただ夢を応援し、彼女の目を見つめ、愛を伝えてくれる人だった。だから彼女はピーターを選んだ。
けれど、この時のピーターはただ自分勝手に、自分の都合だけで彼女の愛を手に入れようとした。“舞台を観た”“スパイダーマンをやめた”それは等価交換によって愛を得ようとする態度であり、純粋に好意を伝えているのとは、あまりにも意味合いが違いすぎる。
「あなた変わった」とは、MJからピーターへの最後通告であり、深い失望に満ちた言葉だ。なのに、ピーターがそんな言葉に満足気に微笑み、その意味にさえ気づいていない。
二人が本当の意味で愛を確かめるには、ピーターは嘘を吐くことを止める必要があった。
それは、MJを守るための嘘であると同時に、“危険から守る責任を放棄するための”嘘でもあったからだ。
今作ラスト、MJはジョンとの結婚式を放り出し、スパイダーマン=ピーターの元へと走っていく……彼女が覚悟を決めたように、ピーターも覚悟を決めなければならない。
演出論②:NYを一つにするヒーロー……それが親愛なる隣人だった
今シリーズでライミは、スパイダーマンやレギュラー陣だけでなく、彼らが生きるNYの街を活き活きと描いた。
だからこそこのシリーズは、他のスパイダーマンシリーズと比べても、特別に観ている側の郷愁を誘う。
ライミの描くスパイダーマンは、本当に“親愛なる隣人”で、その世界が輝くほどに、レギュラーメンバーの物語も膨らむ。
今作から登場するピーターの借りたアパートの大家であるMr.ディコヴィッチも、娘のアースラも、原作には登場せず、今作の物語にも直接的には関係しない。けれど、映画を観た後の観客の心には、彼らの姿もしっかりと残っている。
そんな世界が、スパイダーマンが守るべきNYの街なのだ。
そんなスパイダーマンの存在こそが、2000年代、9.11以降の大きな混沌の中にいたアメリカにとっては、希望の一つだったのではないだろうか。
後の『スパイダーマン:ファー・フロム・ホーム』(2019)では、スパイダーマンの正体はSNSを通じて一気に拡散されてしまう。
2000年代初め、一般の人々にとって情報は、自分達が扱うものではなく受け取るものだった。そんな中で、情報を得た、情報を扱う側になった人々が採る行動が、今作においての希望であり、ライミ版のスパイダーマンの特異性と、時代の持つ空気がある。
この時代のアメリカは特に、個であるよりも群として、人々は手を取り合う必要性を感じていたのだ。
総括:仮初のハッピーエンドと青春の終わりを示し、物語は最終章へ
今作でピーターが出した結論は、結果として前作の決断が正しかったことを証明してしまう。
ピーターとスパイダーマンの関係を知り、混乱するハリーに、ノーマンの幻影が語りかける。
それでもハリーはその誘惑を拒否し、鏡に映る幻影を振り払うようにグラスを投げ……そして彼は、グリーン・ゴブリンの秘密の部屋を見つけてしまう。
「彼は親友だ」
「私は父親だぞ」
ピーターは、ベンおじさんとの約束を思い出し、ヒーローへと回帰した。
ハリーは逆に、父の幻影に呑まれるように、ヴィランへの予感を残して物語を終える。
MJは“スパイダーマン”と口付けを交わし、ピーターは喜びに満ちた声を上げNYの街を飛び回る。そのスウィングは前作の孤独を受け入れた姿とは違い、愛を得た喜びに溢れている。
しかし、それを見送るMJは、表情を曇らせる。彼女は、常に死と隣り合わせのスパイダーマンの傍にいることを選んだ。その恐怖は、前作と今作で同じように死に瀕した彼女だからこそ切実だ。
ピーターにとっては、青い春を犠牲にすることなく迎えた、文句なしのハッピーエンド。
しかしそれによって、ギリギリのバランスを保っていた三人の関係は崩れていく。
今作が一本の映画としても続編としても優れているのは、映画としてのテーマと、続編としての物語が独立して存在しながら、それが有機的に絡み合っているからだ。
前作から引き続き、MJとハリーとの物語を描きつつ、今作ではヒーローの責任と帰還を描き、そしてそれはしっかりとピーターの青春の物語に帰属していく。
これはシリーズの2作目として理想的な作りであり、その上で今作に登場するヴィランもしっかり魅力的であることが、あまりにも稀有な映画なのである。
次作はいよいよシリーズ最終幕……。
ピーター・MJ・ハリーの三人は、彼らの関係性にどんな結論を出したのか……そして、それは14年後の『スパイダーマン:ノー・ウェイ・ホーム』(2021)にどのように繋がっていくのか。
青春はいつか終わる。望むとも望まざるとも、絡み合う蜘蛛の糸は、いつか解けてしまうのだ。
⭐ 4.0 / 5.0
📅 2026/07/15(Disney+)
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