『スパイダーマン3』(2007)ネタバレ考察レビュー|人は赦すことができるのか……三部作が描いた青春の終わり

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Sam Raimi’s Spider-Man 全作品レビュー3

――痛みも、喜びも、苦悩も、すべてを共に過ごして来た日々は終わる……蜘蛛の巣のような怒りを解き,眩しいあの時へ帰ろう

この作品はどんな作品?

サム・ライミ監督による『スパイダーマン』シリーズの最終作。

ピーター・MJ・ハリーの青春とすれ違いの日々の終わり……を描くにはサブ・プロットが多すぎ、あまりにも散漫になってはいるが、物語のテーマは描き切っている。過小評価されがちだが、最終作の満足度は充分。

この作品はどんな人にオススメ?

どうしても手放せない怒りや負の感情に迷ったことがある人。

大切な友人や愛する人を傷つけてしまったことがある人。

やっぱりサム・ライミ版スパイダーマンは終わって欲しくなかった!と思う人。

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作品データ

原題:Spider-Man 3

監督:サム・ライミ

脚本:アルヴィン・サージェント

サム・ライミ

アイヴァン・ライミ

原作:Marvelコミック『スパイダーマン』

スタン・リー/スティーヴ・ディッコ

音楽:クリストファー・ヤング

主題歌:Snow Patrol

「Signal Fire」

撮影:ビル・ポープ

上映時間:139分

出演者:

ピーター・パーカー 《スパイダーマン》:トビー・マグワイア

メリー・ジェーン・ワトソン:キルスティン・ダンスト

ハリー・オズボーン:ジェームズ・フランコ

フリント・マルコ《サンドマン》:トーマス・ヘイデン・チャーチ

エディ・ブロックJr.《ヴェノム》:トファー・グレイス

メイ・パーカー:ローズマリー・ハリス

グウェン・ステイシー:ブライス・ダラス・ハワード

J・ジョナ・ジェイムソン:J・K・シモンズ

ジョセフ・”ロビー”・ロバートソン:ビル・ナン

ベティ・ブラント:エリザベス・バンクス

ホフマン:テッド・ライミ

Mr.ディコヴィッチ:エリヤ・バスキン

アースラ・ディコヴィッチ:マゲイナ・トーヴァ

カート・コナーズ博士:ディラン・ベイカー

ベン・パーカー:クリフ・ロバートソン

ノーマン・オズボーン 《グリーン・ゴブリン》:ウィレム・デフォー

本レビューにはネタバレを含みます。

『スパイダーマン:ノー・ウェイ・ホーム』(2021)についても言及有。

総文字数:14200文字

読み終わるまでの時間:約35分

〜筆者より〜

ようやくライミ版『スパイダーマン』シリーズが完走……これまでで最長記事になってしまった。

7月末が多忙だった為予定より一週遅れてしまい、更新頻度も下がってしまって申し訳なかったです。

本来であれば予定通りすぐにでも『アメイジング・スパイダーマン1,2』をレビューしたいところですが、さすがに少し息切れしてきているので(笑)2週間ほど更新お休みを頂き、リフレッシュとストックを貯めようかなと思っております。

また2026/08/19より更新再開できればと思っておりますので、それまで過去記事をお読み頂ければと思います。

また、過去記事もちょくちょく修正・追記しておりますので、たまに確認してもらえると面白いかもしれません。

これからも自分なりのペースで映画と向き合っていきますので、どうかお付き合いくだされば幸いです。

※シリーズ前作レビューはこちら

目次

製作背景:サム・ライミのクリエイティブ・コントロールが行き届かなかった最終作

サム・ライミ監督による、実写版『スパイダーマン』シリーズ第3作目。

Sonyとしてはシリーズ4作目、5作目の予定もあったようだが、当時ライミとSonyの間には創作上の重大なすれ違いがあり、その問題のすり合わせ・解決が出来なかったことで、現時点では今作がシリーズ最終作となっている(後述)。

1作目『スパイダーマン』の成功を受け、前作公開前から既に今作の製作は動いており、製作発表も先回りで出されていた。

2005年初頭にはアルヴィン・サージェントによって今作の脚本執筆が始められ、この時点でサージェントは4作目の契約も結んでいたと言われている。今回はライミとその弟であるアイヴァン・ライミも脚本に加わっており、二人はハリーとサンドマンをヴィランとし、今シリーズ3作で描いてきた“ハリーの物語の終わり”を描くつもりだった。

しかし、脚本初稿の完成後、プロデューサーであるアヴィ・アラッドから、もう一人のヴィランとしてヴェノムを物語に組み込むことが要請される。ライミはヴェノムが登場してからの原作スパイダーマンの知識がなく、キャラクターについてもほぼ知らない状態だったと言う。ヴェノムについての設定や物語の描き方は、サージェントのアドバイスありきで進めていったようだ。

ただし、ヴェノムの宿主となるエディ・ブロックに関しては当初から物語の中に登場していたようで、ヴェノムとしての活躍がなくとも、ピーターのライバルカメラマンとしての役割はそのままだったのかも知れない。

今作ではエディが“付き纏う相手”という設定が付与されたグウェン・ステイシーに関しても、プロデューサーのローラ・ジスキンの提案で登場が決まっており、こちらは2作目時点で既に登場する脚本案もあったとは言うものの、やはり、ライミの想定にはなかったキャラクターと言える。

更にはこれに加え、ヴァルチャーがヴィランとして登場する案も検討されていたと言うが、さすがにサージェントにはそれらの要素すべてを脚本にまとめることが出来ず、その案は断念されている。

今作はシリーズ最終作となったが、興収は8億9000万$を超え、シリーズ最高興収を更新した。が、映画としての対外的評価は必ずしも高くなく、シリーズの締め括りとしては、やや不本意な結果に終わってしまったと言って良い。

結果としてライミは今作をもってシリーズを離れ、予定されていた『スパイダーマン4』の企画も頓挫し、『アメイジング・スパイダーマン』(2012)へとリブートされることになる。

製作過程を見ても、ライミのクリエイティブ・コントロールが完全に行き届いていたとは思えず、後年本人も今作への後悔を語っている。

とは言え、前作、前々作に比べれば確かに内容的に劣る部分はあるものの、作品が描いたテーマや物語自体は決して悪くなく、三部作の締め括りの役割はきちんと果たしている。監督本人の談や、シリーズが打ち切りに近い終わり方をしてしまったことで過小評価されている気もするが、ライミ版の描こうとした“青春の終わり”は、今作の中にきちんと存在していたのではないだろうか。

アクション論:シリーズ3作で向上した映像技術と後続作品へと続く道標

実写素材を織り交ぜたCGIによるリアリティの向上

今作でのCGI/VFXは、間違いなく1作目から比べて格段に進化している。

スパイダーマンのCGアニメーションは限りなく自然な質感になり、実写画面からの乖離感はもうほぼ感じられない。その上で、前作・前々作よりキャラクターの動きも派手になり、アクション面での見所が増した。

今作最初のアクションはピーターとハリーによる生身に近いアクションであり、互いにスウィングとグライダーで空を舞い、ビルとビルの間の狭い隙間をすり抜けながらの大迫力のシークエンスが見られる。

アクション映画はやはり一発目のアクションが映画全体の価値を決める。今作は、開始20分でもうそれはクリアしたようなものだ。

前作でも一部でそうしたシーンはあったが、今作は全体的に役者の顔が見えるアクションが多く、それが余計に、誤魔化しが効かないため技術の発達を浮き彫りにしてくれる。

序盤のピーターはスパイダーマンのスーツを着ておらず、ハリーは劇中、終始グリーン・ゴブリンの面はつけない。終盤での共闘も、ピーターのマスクは剥がれかけ、ハリーも顔を隠さずに闘う。ヴェノムからも、エディの顔が何度か覗いている。

前作でアカデミー賞視覚効果賞を受賞したジョン・ダイクストラは降板しているものの、スコット・ストックダイク始めとする主要なチームは続投しており、序盤でのグウェンを救出するクレーン事故では、実写、CG、模型、ミニチュア、デジタルダブル、ニューヨークの写真背景などを統合して一つのシークエンスを作り上げている。

今作ではこのように、アクションシーンにおいて、CGアニメーションだけで制作出来る映像であっても、可能な限り実写素材を一部に残していると言う。現実の映像を入れることで、観客に実在感を与える狙いがあるそうで、それがシリーズを三作作ってきたスタッフによる結論であり、スパイダーマンを表現する上での一つの最適解だったのだろう。

CGだからこそ表現出来たヴィランたちの活躍……後続作品の手本となる遺伝子

今作にはヴェノムやサンドマンといったCGだからこそ表現できるヴィランが登場しているが、この二人の表現からも映像技術の革新がよくわかる。

特にサンドマンに関しては、製作までに2年半に渡り視覚効果技術の研究が行われ、ようやく完成したヴィランだと言う。前作公開段階から既に今作でサンドマンを出す計画は進んでおり、その研究と映画製作が同時に進んでいたのも、今シリーズがきちんと結果を出してきたが故だろう。

世界中から12種類の砂を集め、“砂・オーディション”をして決められた砂は、スタントが実際に埋まる必要があるシーンで使用する“トウモロコシの穂軸を粉にしたもの”とも合わせて質感のチェックをし、実際に投げたり、砂を役者に吹きつけてみたりと、想定し得るあらゆる砂の動きを試し、撮影した上で、そのCGモデルを作り上げてサンドマンの形に近づけていった。

人間体のモデリングを制作する際には、実際にスタントの動きをCGにしたものに、体積を計算した上で砂エフェクトを乗せ、流れを作る。そこでその砂の動きが物理的に成立しなければ、再びスタントの動きから作り直したのだと言う。

そうして出来上がったサンドマンは、竜巻のように舞い上がる砂の質感も、スパイダーマンにパンチされて溢れていく描写も、そして水を浴びて泥のように固まったり流れていく描写も実にリアルな表現になっている。

サンドマンというキャラクターは砂そのものが人格を持ち、その動きがフリント・マルコというキャラクターの感情と同期していなければならない。こうした妥協のない作業のため、今作の推定予算は公開当時、ハリウッド史上最高額の製作費とも報じられた。

ヴェノムは製作上最後に加えられたキャラクターだが、シンビオートという未知の生命体について、今作はかなり高い再現度で解釈出来ていると思う。これはシリーズの製作チームが、これまで二作で重ねてきた実験ありきだろう。教会の鐘や、終盤の鉄骨の音に反応して形を変える姿も、そこにどこか知性が感じられるように調整されている。

こうした動きにはストップモーションの巨匠: レイ・ハリーハウゼン的な意匠も取り入れていると言い、最終的には時間的制約でCGによる自動処理も増やしてはいるが、基本的にはアニメーターによって手作業で触手を動かす動作が加えられた。

後のSSUヴェノムも、『アメイジング・スパイダーマン』やMCUスパイダーマンも、今シリーズが三作かけて表現した地盤があればこそ、よりリアルで、より実写映像らしい映像を作ることが出来たのではないだろうか。

そうした意味でも、やはり今作・今シリーズが後のスパイダーマン、ハリウッドの大作映画に与えた影響は大きい。

演出論:ライミ版『スパイダーマン』はNYそのものがキャラクターだった

親愛なる隣人が愛した隣人たち

今シリーズの大きな特徴として、スパイダーマンやヴィラン、MJやハリーといったレギュラー・キャラクターだけでなく、彼らの生きる世界……舞台であるNYそのものが生き生きと描かれていると言うものがある。

レギュラー陣は、退場したベンおじさんやノーマン・オズボーン含め、ほぼすべてのキャラクターが役者をそのままに続投、新規の撮影シーンがある。その上で、名前のないキャラクター……所謂“モブ”と呼ばれる市民たちにも、書き割りではなくきちんとした個性と役割があり、妙に記憶に残る。

ライミが描いたスパイダーマンは、まさしく“親愛なる隣人”だ。だからこそ、今シリーズはNYそのものが、もう一人のレギュラー・キャラクターでもあったのだと思う。

前作から登場したピーターのアパートの管理人:Mr.ディコヴィッチとその娘:アースラの二人も、相変わらず物語の本軸には一切関わらないが、彼らはスパイダーマンを一個人・ピーター・パーカーとして世界に繋ぎ止める役割を担っている。

いつものように遅れた家賃の取り立てをするMr.ディコヴィッチを、シンビオートの影響から凶暴になり、怒鳴りつけるピーター……ここで、普段はピーターの味方で、どこか好意を抱いているようにも描写されるアースラが「ひどいわね」と睨みつける。

ただこれだけで、ピーターが普段のピーターではなく、“何か別のもの”になっていることが明示されている。

前作から登場したアースラは元々の脚本には存在せず、“通行人役”としてオーディションに来たマゲイナ・トヴァの演技を見たライミによって急遽追加されたキャラクターだと言う。

ピーター贔屓でありつつ、父への悪態は見逃さない。けれど、Mr.ディコヴィッチに謝ればすぐにご機嫌でピーターを許してしまうところも非常にチャーミング。MJとピーターの喧嘩を察し、MJからの電話が掛かってくると満面の笑みで取り継いたりと、出番は少ないが本当に良い子なのだ。

中盤ブラックスーツに支配されて調子に乗りまくったピーターに、まるで小間使いのようにクッキーを渡す姿は見ていられない……殴るよピーター?

デイリー・ビューグルの面々も相変わらずで、会社の良心・ロビーに、いつもジェイムソンに良いように使われるホフマン、今作ではついにピーターに靡き始めるベティなど、この面々が出てくると妙な安心感がある。

今回はジェイムソンが高血圧の薬を飲み始めて多少大人しくなっており、こうしたコミカルな小ネタもまたライミ版の魅力だ。妻からの電話とベティの制止で怒りを抑えながらも、結局最後には怒鳴り散らしてしまう姿も、まさに“鉄板ネタ”。

今作のジェイムソン、終盤ではいよいよ特ダネを求め子供の持ってるカメラまで買い叩く始末。しかしこの子供がまたフィルムを抜いたカメラを渡し、「フィルム代は別」とほくそ笑む知能犯っぷり。こうした息の抜けるシーンは、ライミが60〜70’sのコミックファン故のポップさで、だからこそこのシリーズは重くなりすぎないのだろう。

レギュラー・キャラクターの演出が今作はやや駆け足に……

カメラ少女や、スパイダーマンとグウェンのキスシーンに「おぇ」と顔を顰める少年、MJのバイト先のジャズバーで、ピーターの暴走に傷ついたMJを気遣うマスターなど……本当に1シーンしか登場しないようなキャラクターにも、きちんと人生や物語が透けて見え、かつ、そんな人々は観ている観客の視点にも重なる。“もしも自分たちが物語の中にいたら?”を、彼らは代替のように演じてくれているようにも感じるのだ。

だからこそ、このシリーズでスパイダーマンが救うNYは架空の街にならず、観ている側にとっても“帰るべき我が家”のある場所になる。ライミ版が他と替えが効かないのは、このNY含めて“あのスパイダーマン”の世界だからだろう。

ただその一方、今作では物語の軸が多くなりすぎたため、メインの登場人物は描くべき場面が増えすぎ、そちらの演出はやや性急になってしまったようにも感じる。

前二作までは、メインキャラクターの描写に間を持たせ、台詞で説明する以外に、目線や小道具、場面の切り替えや演出によって心情の変化や物語の流れを表現してきた。

今作も勿論そうで、基本的にはライミの演出は丁寧だ。ただ、それでもどこか展開が多すぎるために、キャラクターの心情に観ている側が追いつく前に次のシークエンスに進んでしまう。

特に終盤でのピーターがMJを取り戻すための共闘をハリーに持ち掛けるシーン……この二人の和解こそが今作・今シリーズが1作目から描いてきた物語の重要な帰結であり、そこでハリーの出す答えこそが、サンドマンとピーターの関係性とも合わせて非常に重要なテーマであったはずだ。

今作ではそれが、あまりにもあっさりと解決してしまう。当然、シリーズを追ってきた観客にはハリーやピーターとの関係性に地盤があり、積み上げてきた描写で彼らを理解出来てもいる。そのため、ある程度は補完して観ることは出来るのだが……だからこそ、余計に違和感を覚えてしまうのだ。

物語論①:ピーターは憎しみを超えることが出来るのか?

私怨による復讐は、正義のヒーローの行動と言えるのか

今作の物語は、“赦し”が大きなテーマとなっている。同時に、1作目から描いてきたピーター・MJ・ハリー三人の青春の物語……互いにコンプレックスを抱き合い、無い物ねだりをし、それでもどうしようもなく互いを愛した三人の、不器用で未熟な青春、三角関係の終わりを描く物語だ。

ピーターは1作目で、ベンおじさんの死を糧にヒーローとして目覚め、前作では一度パワーを失うも、もう一度その責任の所在を自らに問い、再起したはずだった。

しかし、今作で彼は再びおじさんを殺した犯人と対峙することになる……真犯人は別にいた。しかも、そいつは脱獄し、街を闊歩している。ピーターは今作で、再び私怨のために動き……その怒りの感情は、シンビオートによって倍増されてしまうのだ。

これは父であるノーマンの復讐のため、いよいよ人体強化ガスまで浴びて真のヴィランへと変化したハリーにも重なる。

二人は怒りに駆られ、同じ過ちを犯す。そして同じように、二人は大切な人……MJを傷つけることになる。

ピーターがサンドマンを狙うのは、明らかに正義の為ではない。警察無線の傍受は、これまではヒーロー活動のためだった。しかし序盤でのピーターは、サンドマンに関連しない情報を意図的にシャットアウトし、動こうとしていないように描写されている。

これは、ヒーローとしての役割の放棄だ。

MJが家にやってきた際も、ピーターは「無線、消して」と言う言葉を無視し、ただ音を落とすに留める。二人の背後に薄く流れる無線の音……この描写の細かさが流石ライミで、こうした演出の積み上げが、ピーターの復讐に駆られた姿を浮き彫りにしてくれる。

サンドマンとの地下での闘いも非常に激しいもので、いくら相手が砂人間とは言え、走行する電車に顔面を押し当て、水責めにするのは明らかに殺意が宿っている。

確かにそれはブラックスーツの影響もあり、ピーター自身その闘いから戻った後スーツを封印するかのように仕舞い込んではいた。しかし、その後のメイおばさんへの言葉……

「フリント・マルコ。ゆうべ殺されたよ。スパイダーマンに」

これは、ある種の告白だ。1作目でベンおじさんを殺したと思われた強盗の死は、あくまで事故と言い張れるものだった。けれど今回のサンドマン=フリントに対しては、明確に殺意を持っていたことを、ピーターはこの言葉で認めてしまったのだ。しかもピーターは、メイおばさんがそれを喜ぶとさえ思っている。

ピーターの“赦し”への葛藤がブラックスーツの物語に覆い隠されてしまう

ここでのメイおばさんの言葉は、ピーターの“赦し”のテーマにかなり深く関わるものだ。

しかし、この後でもう一度ピーターがブラックスーツの影響で調子に乗るエピソードが挟まれ、終盤でのおばさんとの会話はどちらかと言うとMJとの関係についてになってしまうので、どうにも見え方のバランスが悪い。

これこそ今作が物語の軸を増やしすぎた弊害なのだが、フリントへの感情とハリー・MJとの関係が物語として分断されているので、ピーターが自我的な怒りを手放し、ヒーローとしての正しい道へ戻る導線がやや薄く感じる。

ブラックスーツはピーターの怒りを増幅させる意味でも、ナードだったピーターが承認欲求とコンプレックスの解消をそこに求める意味でもよく出来たエピソードだと思うのだが、物語の展開と順序がやや悪く、今作の問題すべてがブラックスーツ由来のものにも見えてしまう。

前作でも、おばさんはピーターがスパイダーマンであることに気づいているかのように振る舞い、ピーターがヒーローに戻るキッカケを与える存在だった。今作でもまた、フリントを殺害した(と思っている)ピーターへの言葉は、ベンおじさんの死という、同じ傷にどう向き合うのか、という、ピーターの決断に繋がる重要な場面だったと思うのだが……。

おばさんとの対話はどちらもピーターの心に深く刺さり、自身の行動を省みているとは思うのだが、フリントへの赦しとMJへの想いが別軸なためにどうにも感情が噛み合わない。

物語論②:復讐に囚われたハリーはピーターの鏡像でもあった

失われた記憶は、束の間の青春の再生だった

それはハリーの物語も同じで、“復讐心=怒りの手放し”というテーマは、ピーターとハリーの二人が抱えた問題だ。

今作では序盤にハリーに記憶を失わせることで、三人の時間を無理やりに戻し、壊れてしまった青春を再現するという非常に残酷な物語が描かれる。

記憶を失ったハリーは、ノーマンの死についても覚えていない……その欠落がどこまで影響しているのかは劇中でもハッキリはしないが、少なくともハリーの中に、ピーター=スパイダーマンと憎しみ合った記憶はなくなっている。彼はその空白期間に、自分ではなくピーターがMJと交際していることにも納得し、それを笑顔で迎えているのだ。

前作でのハリーは傷付き、荒れながら、「お前はMJを奪い父の愛を奪った」とその心の内を吐露した。けれど、本来のハリーは、そんなコンプレックスに塗れた負の感情を抑え、ピーターに笑顔を向けられる男だ。

「親友だ、命だってやれる」

憑き物が落ちたようなハリーの言葉に、嘘はなかった。前作ラストでも、既にピーターの正体を知り、グリーン・ゴブリンの秘密の部屋を見つけた後の状態にも関わらず、ハリーは笑顔でMJの結婚式に参列していた。

(その後ピーターの所へ向かったMJにどんな感情を抱いたのか……)

そんなハリーだからこそ、傷ついたMJを慰めるために、わざとらしく明るく振る舞い、苦手な料理を一緒に作る。

このシークエンスは、本当に青春映画的な恋愛のすれ違いを描いたシーンだ。MJとキスをしてしまうハリー、立ち去るMJ……ここで、ハリーがピーターの家に行って一発殴り合い、涙ながらの仲直り作戦に出れば立派な青春恋愛映画になる。しかし、今作はスパイダーマンの物語、ハリーはグリーン・ゴブリンの子である。

このキスをキッカケにハリーの記憶は戻り、彼は帰宅したMJを襲いピーターの心を完全に壊そうとしてしまう。

MJにピーターへの別れの言葉を告げさせ「名演技!」と囁き、ピーターにMJが愛したのは自分だと言ってパイを頬張る姿は、まさにハリーが完全にグリーン・ゴブリンに飲まれたことを表す。

この時のハリー役:ジェームズ・フランコは、まさにヴィランと言うべき最高に嫌らしい演技で、ブラックスーツを纏うピーターと同じく、自分自身を見失い負の感情に飲まれながら、その快楽に酔い痴れた表情が素晴らしい。

彼らは同じように怒りに身を任せ、愛する人を傷つける。ピーターとハリーは、まるで鏡のように堕ちていくのだ。

怒りの手放しは、親友同士二人の力で解決して欲しかった

中盤、オズボーン邸で殴り合うピーターとハリーのシークエンスは実に良い。

二人はスーツも着ずに、完全に生身の肉体で殴り合う。互いに人間離れしたスーパー・パワーは手にした。けれど、ここでの二人は一人の人間として、ただの喧嘩をする。会話の内容を冷静に聞いていると、結局はMJを取り合っているだけで、幼稚な青い喧嘩だ。

今作でのピーターとハリーのシークエンスは、ほとんどが互いの顔が見える状態で行われる。

ある意味で、前作でスパイダーマンの正体が割れた時点で、二人にはもう秘密がない。二人はスパイダーマンでもグリーン・ゴブリンでもなく、ただただ親友として、互いにすれ違った道が故に争ってしまうだけなのだ。

ただ、ここでのピーターはブラックスーツに支配され、怒りに身を任せている。

そうしてハリーに対し、「(ノーマンはハリーを)軽蔑してた。恥ずべき息子だと」と語り、パンプキン・ボムでハリーを躊躇なく殺しかける。

この辺りの物語は、やはりブラックスーツがノイズになる。例え負の感情に飲まれていたとしても、二人の和解はこの流れの中で、互いに本音をぶつけ合うことで成されるべきではなかったか。

本来なら、このシークエンスは物語のハイライト、クライマックスとして演出しても良い場面だったと思うのだ。

結果として、終盤でハリーがピーターを赦すかどうかの葛藤は、執事であるバーナードが語る「お父上はご自分で命を落とされた」という言葉によって解決してしまう。

これに関しては、展開に次ぐ展開の中で随分と駆け足に感じる。それで納得出来るのならもっと早く伝えていれば良かっただろうし、ハリーの赦しはやはり、ピーターとの関係性の中でこそ芽生えるべきだった。

爆弾で死に掛けてからここまで出番がないので、結論に至る場面が互いに自分を見失った殺し合いの末というのがどうにも繋がりが悪い。

ピーターがサンドマンを赦すキッカケがメイおばさんの言葉であり、

ハリーがピーターを赦すキッカケがバーナードの言葉であるという、

互いにとって大切な大人に導かれる子供たち、という意味ではこれも対比関係になっており、NYという街、彼らを取り囲む世界を描いてきたライミらしい演出と言える。

しかし、今作ではメインの物語にサブ・プロットがうまく絡まず、最後まで一本の物語に収束していかない。一つ一つのエピソードは重要なテーマを描こうとしているのだが、それが収束する、その手前で切られてしまっているような、そんな印象なのだ。

キャラクター論①:シリーズ初のトリプル・ヴィラン体制……その功罪

ヴェノムの持つテーマはハリーの縮小再生産でしかない

今作はシリーズ初の複数ヴィラン制になり、ダブルどころかトリプル・ヴィラン:ハリー(2代目グリーン・ゴブリン)・サンドマン・ヴェノムとなっているが、やはりそのキャラクターの多さを持て余しているのではないだろうか。

本来、ライミにはヴェノムを登場させる予定はなく、エディもほんの脇役程度の扱いであったと言う。同時に、ライミは最後までヴェノムというキャラクターに共感を感じ得なかったという話もある。

そのためか、確かにヴェノム=エディは物語の中で浮いており、担ったテーマも他のキャラクターと重複してしまっているように思う。

デマ記事をピーターに暴かれることで怨みを抱く、というのは、原作エディがスパイダーマンによって誤報記事を暴かれ、職と妻を失う、という物語をうまく改変しており、教会でピーターから剥がれたシンビオートがそんなエディに寄生する、というのも原作を再現した展開だ。

原作版の妻であるアン・ウェイングの立ち位置にグウェンを置き、そのグウェンとピーターが付き合う、というのも一本の映画にするにあたってうまい改変だったとは思う。

……が、そうした愛する女性を奪われた、という物語も、カメラマンとしての立場がピーターに奪われる、というのも既にハリーが担っている役割で、今作のエディにはシリーズにおいての新しいテーマが存在していないのだ。

シンビオートという怒りの感情を増幅させる寄生体を挟み、ピーターとエディを鏡像のように描くというのも……前述の通り、ピーターとハリーの物語に重なっており、エディとヴェノムはその縮小版にしかなっていない。

その上で、最後にハリーにトドメを刺すのがヴェノムになってしまうので、どうにも物語のバランスが悪くなる……ただ、仮にサンドマンがハリーの死に関与した場合、ピーターの赦しの意味もまた大きく変わってしまうので、単純にヴェノムを完全に削除すれば、物語が成立するかと言えばそうはならないのも難しいところではある。

サンドマンの後悔や反省が今ひとつ伝わらない

本来であればメインヴィランであるはずのサンドマンも、ピーターの“赦し”に深く関わる重要なキャラクターだ。

ライミは基本的に60〜70’sのスパイダーマンの古いヴィランに新たな設定を付け加え、そこにシリーズ全体に関わるドラマを生み出してきた。グリーン・ゴブリンにもドクター・オクトパスにもピーターとの師弟関係という新たな物語が生まれ、非常に魅力的なヴィランに仕上がった。

が、同様にサンドマンには、ベンおじさんの死の直接的犯人という改変がなされ、そこに娘のために犯罪を犯さざるを得なかったという物語も加わり、重層的な物語が語られるはずが……どうも、ここもうまくハマっていない。

娘の写真が入ったロケットを肌身離さず持ち歩き、序盤で分子分解の実験に巻き込まれサンドマンとなった際にも、そのロケットに手を伸ばすことで人間体に戻っていくというのは、演出としてよく出来ている。

しかし、フリントからは常に「誤解だ、理由があった」「仕方なかった」と自分の行いについて反省する様子が見えて来ない。ラストで「後悔してる」とは言うが、その感情が最後のシーンまで観ている側には伝わらず、オクトパスのように共感できる要素が少ない。

娘の病気の治療費のために、現金輸送車を襲うまでは納得出来る。しかし、ヴェノムと組んでスパイダーマンを襲うのは、やはり私怨でしかなく、ラストのバトルに関しても、本当に理由なくただ暴れていただけだ。

最後はピーターに後悔を語り、赦されれば砂になってその場を逃亡していく……娘のための金はまた稼がなくてはならない。ここで逃げたのなら、また同じことをするのではないだろうか。

赦すのと、罪を償わせるのはまた別問題だ。ピーターはスパイダーマンとして、おじさんの死は赦した上で、警察に委ねなければならなかったのではないか。

キャラクター論②:MJもまたピーターへの青いコンプレックスを抱いていた

ピーターは無自覚に恵まれ、無自覚に人を傷付ける

今作はピーター・MJ・ハリーの物語の終わりだ。ただ、語るべき物語があまりにも多すぎ、その大切な主軸がかなり薄まってしまった印象だ。

それでも前半〜中盤までの三人の物語は非常に丁寧に描かれており、今作では、MJが抱えていたコンプレックスについても表面化することになる。

それは、これまでのシリーズでも根底にはずっと存在していた。

1作目でのピーターは学校において立場のないナードで、MJを遠くから眺めるだけ、ハリーには羨望の眼差しを送っていた。けれど、実は三人の中で、最も家族からの無償の愛を受け取り、その才能を周囲から評価されていたのはピーターだったのである。

ピーターはそれに無自覚で、ハリーとMJは、そんなピーターに対してどこかコンプレックスを抱いていた。

今作では、ピーターがスパイダーマンであることを知り、MJが主演舞台を降ろされたことでそれが表面化してしまう。

MJが劇場を出、拍手で迎えられたことで笑顔を取り戻すも、それがスウィングで飛び去るスパイダーマンに向けられたものであったことを知った際の表情……その後に舞台の主演女優の看板が別の女優に差し代わる描写がクローズアップされるのも痛々しい。

スパイダーマンはNYの人気者……どこへ行っても求められ、喝采を浴びる……MJは逆に、主演舞台は酷評され、役は彼女に同意なく奪われる。そんな中で一人浮かれたピーターは、MJとの思い出のキスの再現を、衆人環視の前でグウェンとしてしまうのだ。

ピーターはMJの前でもマスクを外せていなかった

ピーターは、必ずしも自己肯定感の強い人間ではない。元々がナードであり、スクールカーストの底辺に近い場所にいた。ハリーにも「高校時代は守ってやったが」と言われているように、本当に学内での立場は弱かったのだろう。

だから、彼は自分が今どれだけMJを苦しめているのかがわからない。ピーターにとってはいつまでもMJは“高嶺の花”なのだ。

だからピーターは、無意識に無神経な言葉でMJやハリーを傷つける。この鈍感なピーター像は、今シリーズだからこそのもので、それが余計にこの三人の関係を複雑にしてきた。

「彼女とキスしたのはどっち?」

役者としての道を半ば失ったように感じ、ピーターにも裏切られた彼女が詰め寄るのも無理はない。

グウェンがただのモデルならまだ我慢も出来ただろう。しかし、現実のピーターとしての知り合いに、スパイダーマンとしてキスをする。それはもう、ヒーロー活動の一環という領域を逸脱していた。

ピーターはMJにスパイダーマンであることは話しているが、ハリーとの仲違いの原因については話していない。フリント・マルコへの復讐心に寄り添おうとすることすら拒否した。

ピーターとMJには、ピーターが思う以上の距離と、厚く冷たい壁がある。彼女は、それにずっと傷ついていたのだ。

ジャズバーで暴走したピーターにMJが言う「あなた誰?」は、前作での「あなた変わった」以上に重い言葉だ。

MJが1作目から愛したピーターは、弱くとも、情けなくとも、他者を悪戯に傷つけるような人間ではなかった。ピーターはここで、ようやく自身の過ちに気づき、ブラックスーツを捨て去ることを決めるのだ。

このあたりの物語の流れも非常に良いのだが、結果としてこの後のサンドマンとヴェノムによる拉致で、MJからピーターへの感情も消化不良のまま終わってしまい、同様にハリーへの気持ちについても宙に浮いたまま終わってしまう。やはり、一番大切な三人の関係性の叙情性が薄れているように感じるのだ。

総括:それでも、そこに青春の終わりとキラメキがあった

とは言え、やはりラストのバトルシークエンスでのピーターとハリーの共闘……

「間に合った」 

「ゆっくりし過ぎだぞ」

の会話や、最後に朝日に包まれながら手を取り合う三人の青春の終わりは、やはりシリーズを追ってきた身としては感極まるものがある。

ハリーもノーマンも、同じように自らの武器であるグライダーに貫かれた。

しかし、後ろからピーターを狙ったノーマンと違い、ハリーはピーターを守るために盾となる。この時ようやく、本当の意味でハリーは父の呪いから解き放たれたのではないだろうか。

今作の物語は、確かに詰め込みすぎて散漫になってしまい、描くべき部分が薄まった印象はある。

しかし、物語の流れや要素自体はすべて必要不可欠なものであり、いざ削るとなるとかなり難しい。精々、ヴェノムの登場を次作以降にして、エディにシンビオートが寄生した部分をポストクレジットに回す、くらいだろうか。

……やはり、それだけで大分余裕は出来た気はする。

後年、ヴェノムの登場を要請したアラッドもライミの自由にさせなかったことへの後悔をインタビューで語り、ライミ自身も今作から暫くスーパーヒーロー映画に関わることすら避けていた旨を語っている。

今作でのSonyとライミのすれ違いが解消されることはなく、『スパイダーマン4』の製作スケジュールと脚本の出来に納得出来ないままライミはシリーズを離れてしまい、シリーズはカート・コナーズ博士などの伏線を残したまま今作で打ち切りとなった。

製作とクリエイター側の認識の違いや、それによる失敗はアメコミヒーロー作品に限らず至る所で聞こえる話だが、やはり今作もその憂き目に遭った作品と言えるだろう。

ただ、それでも……2002年から5年を費やしたシリーズの終幕として、今作はきちんと役割を果たした。ラスト、無言で抱き締め合うピーターとMJ……二人の想いは再び通じる。けれど、彼らはそこにいたもう一人、ハリーを永遠に失い、その不在を確かめ合いながら生きていかなくてはならない。

三部作で、明確に三人の青春は終わり、大人へと向かう……これまではピーターの独白とスウィングで終わっていたシリーズ、そのラストが台詞もなく終わるのが、なんとも切なく、哀しく、しかし確実に彼らが次のステップへと向かったことを表してもいる。

ライミ版のその後は想像することしか出来ない……けれど、ハリーを失い、大人になった二人の物語も、観てみたかった。そして、ライミ版で、恐らくライミだけに表現できた、あのNYの街の人々にも、もう一度会いたかった。

そんな想いを20年経っても抱えるほどに、このシリーズはやはり特別なものなのだ。

※【注釈】『スパイダーマン:ノー・ウェイ・ホーム』(2021)におけるピーター2

あの日の後悔があったから……「努力してます」

そして、それから14年経ったMCU版『スパイダーマン:ノー・ウェイ・ホーム』(2021)にて、もう一度トビー・マグワイア演じるスパイダーマンに出会うことになる。

こちらの作品についてはいずれ別にレビューを書くつもりだが、今回は“ピーター2”と呼ばれたライミ版のピーターについてだけ少し語りたいと思う。

『スパイダーマン:ノー・ウェイ・ホーム』(以下NWH)でのピーター2は、明確に今作から続いた未来のピーターであり、三部作のすべての経験の先にいるスパイダーマンである。

そんな彼が、ラストでMCUピーターを庇い、グリーン・ゴブリンのグライダーに後ろから刺され、そうすることでノーマンもピーターも救った時、本当の意味でこの三部作の終わりが観られた気がしたのだ。

ピーター2とハリーの関係が崩れたのは、ノーマンの死……ピーター2がノーマンを救えなかったことが原因である。そのノーマンと、そしてあの日のハリーや自分のように復讐に囚われた別世界の自分自身を救うことで、ピーター2はようやく、あの日の自分を赦せたのではないだろうか。

NWHの世界には、ドクター・オクトパスがいた。

「大人になったな」

「努力してます」

このオクトパスは、『スパイダーマン2』で水に沈む直前、「怪物のままでは死なん」と言い残したオクトパスではない。それより前の時間軸、ピーター2を殺そうとしていた“怪物”だ。しかし、彼はMCU世界、アース616(199999)で制御チップを修復し、死を選ぶことなく元のオクトパスの人格を取り戻した。だからこそ、この台詞も強く心に刻まれる。ほんの僅かな、死者との邂逅。ピーター2にとっても、これはあまりにも眩しい奇跡のような時間だったはずだ。

ハリーはヴィランではなく、ずっと親友だったのではないか?という可能性

NWHは、どこか“同人誌”のようなifの物語だ。ライミも、マーク・ウェブも関わっていない以上、真の意味では今シリーズの続きとは言えない。それでも、10年以上頭の中で何度も願った救いの一端が観られた。それが、あの作品のすべてだったのだとも思う。

NWHにハリーが現れなかったのは、物語のバランスやキャストの都合などもあるのだろう。けれど、今作から続けて観ると、恐らく本当の意味ではただの一度も、ハリーはヴィランには堕ちていなかったのだとも思う。

彼はピーターを憎んだが、同時にずっと親友を愛してもいた。だから彼は、NWHの世界には現れなかったのかも知れない。

ハリーの人生はやはり、あの朝日の中で最愛の二人に囲まれたことで、間違いなく、悔いもなく終わっていたのだ。

NWHは、『スパイダーマン3.5』だったのかも知れないし、観られなかった続編の先……『スパイダーマン4.5』や『スパイダーマン5.5』だったのかも知れない。

ライミの描くNYまでは再現されなかったが、あの日々を思い出すには充分な作品だった。だからこそ、作品自体には言いたいことはあれど何度観ても泣いてしまうのだ。

……サンドマンに関しては今作を観てから観直すと相変わらず何も考えず流されて暴れているので、やはりさっさと市警に引き渡すべきだったと思うのだが。

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評価/鑑賞日

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