『アメイジング・スパイダーマン』(2012)ネタバレ考察レビュー|自身のルーツを探す新たなスパイダーマンの恋愛の物語

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The Amazing Spider-Man 全作品レビュー1

――危険も,不安も,すべて飲み込んで……ただ君といたいと思った……ヒーローの責任と痛みを抱えて,それでもただ君を求めたんだ

この作品はどんな作品?

マーク・ウェブ監督による『スパイダーマン』リブート・シリーズの第1作目。

不器用な青春を描いたライミ版とはまったく別のオリジンを描く、“自分探し”と“恋愛”をメイン軸に据えた新たなスパイダーマン。“名前を名乗る”意味や死の捉え方をテーマにした、次作と2本で1本のスパイダーマンのオリジン。

この作品はどんな人にオススメ?

2010年代のキレのある映像とアクションでスパイダーマンのオリジンを楽しみたい人。

何を犠牲にしても傍にいたい、本当に大切な人がいる/いた人。

自分に名乗るべき名があるか迷ってる人、あなたの人生にも、意味はあるよ。

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作品データ

原題:The Amazing Spider-Man

監督:マーク・ウェブ

脚本:ジェームズ・ヴァンダービルト

アルヴィン・サージェント

スティーヴ・クローヴス

原作:Marvelコミック『スパイダーマン』

スタン・リー/スティーヴ・ディッコ

音楽:ジェームズ・ホーナー

撮影:ジョン・シュワルツマン

上映時間:136分

出演者:

ピーター・パーカー 《スパイダーマン》:アンドリュー・ガーフィールド

グウェン・ステイシー:エマ・ストーン

カート・コナーズ 《リザード》:リス・エヴァンス

ジョージ・ステイシー:デニス・リアリー

リチャード・パーカー:キャンベル・スコット

メアリー・パーカー:エンベス・デイヴィッツ

ベン・パーカー:マーティン・シーン

メイ・パーカー:サリー・フィールド

ラジット・ラーサ:イルファーン・カーン

フラッシュ・トンプソン:クリス・ジルカ

ジャック:ジェイク・キーファー

ジャックの父 トロイ:C・トーマス・ハウエル

謎の男:マイケル・マッシー

本レビューにはネタバレを含みます。

サム・ライミ監督版『スパイダーマン』(2002)〜『スパイダーマン3』(2007)についても言及有。

総文字数:13076文字

読み終わるまでの時間:約33分

〜筆者より〜

2週間のお休みを頂き、ようやくレビュー再開と相成りました。

今週で『アメイジング・スパイダーマン』2作品のレビューを上げたら、一旦スパイダーマンシリーズの連載は終了となります。本当は『スパイダーマン:ブランド・ニュー・デイ』前に全作品上げたかったのですが……さすがに間に合わず(笑)。

皆さんはBND観に行ったでしょうか?MCUはいずれ全作レビューをやるつもりですが、『アベンジャーズ/ドゥームズデイ』が俄然楽しみになりましたね。予告も解禁され、MCUが今再び面白くなっています。

新作映画もレビューはしていませんが色々と観には行っていますので、そうした軽い感想などはX等SNSでも呟いております。宜しければ、皆様そちらもフォローお願い致します。

目次

製作背景:MCUの裏でリブートされたアメコミ映画作品たち

マーク・ウェブ監督による、『アメイジング・スパイダーマン』第1作目。

MCU(マーベル・シネマティック・ユニバース)『スパイダーマン:ノー・ウェイ・ホーム』(2021)では“ピーター3”と呼ばれた、サム・ライミ監督版からリブートされたアンドリュー・ガーフィールド演じるスパイダーマンシリーズである。

トビー・マグワイア主演の『スパイダーマン3』(2007)の公開後、Sonyは『スパイダーマン4(仮称)』の公開を2011年に定めたが、製作中にライミは降板、今作はそこから企画が練り直されることになる。

今作の脚本を務めたジェームズ・ヴァンダービルトを中心に、デヴィッド・リンゼイ=アベアー、ゲイリー・ロスはいくつかの脚本案を出していたが、それらはライミの意に沿うものではなく、シリーズ3作目で生じたライミとSonyの軋轢は決定的なものになってしまう。ライミは幾度となく脚本にリライト要請をかけるも、製作側には先に決めた公開日程を変更する意思はなく、ここでライミのSonyへの不信は決定的なものになったのではないだろうか。

結果としてシリーズはキャスト・スタッフを一新して新たなスタートを切る形になり、監督にはライミ版製作以前にも候補に上がっていたデヴィッド・フィンチャーや、『K-19』(2002)のキャスリン・ビグローなどが考えられていたと言う。

最終的に『(500)日のサマー』で映画監督デビューを果たしたばかりのウェブが起用され、脚本にはヴァンダービルトの他、ライミ版2作に参加しながら、『スパイダーマン4』の企画段階ではスケジュールの都合で参加が見送られていたアルヴィン・サージェント、そして『ハリー・ポッター』シリーズの脚本を担当していたスティーヴ・クローヴスが加わった。

公開時は既にMCUが始まっており、今作とほぼ同時期には初の集合作品『アベンジャーズ』(2012)によってアメコミ映画作品の世界は大きな広がりを見せていた。

そんな中、同じくMarvel作品で当時20世紀FOX製作だった《X-MEN》も『X-MEN:ファースト・ジェネレーション』(2011)でリブート、DC Comics原作作品も『マン・オブ・スティール』(2013)から始まる新たな映画版ユニバースが構築されようとしていた。

“シリーズ監督の降板”というネガティブな理由でリブートされ、興収的にもライミ版に及ばなかった今作は、Sonyとしてはやや不本意な展開だったのかも知れない。全世界興収7億5000万$強の成績は決して悪いものではないはずだが、直近の『スパイダーマン3』の全世界興収が8億9000万$、MCU『アベンジャーズ』の全世界興収は15億$を超えており、比べる相手が悪すぎたのだ。

しかし、同じ名前の主人公・オリジンを描きながら、ライミ版シリーズとはまったく異なるテーマで“ヒーローの人生と痛み”を描いたウェブの二部作は、やはり今でも強い印象を残す傑作だったと確信している。

サム・ライミとSonyに確執が生まれた前シリーズ最終作のレビューはこちら

原作比較:ライミ版とは別の設定と続くはずだったユニバース構想

原作アルティメット・ユニバースを下敷きにした世界観

今作でもシリーズ1作目として、『スパイダーマン』(2002)と同じくピーター・パーカーが蜘蛛に噛まれ、スーパーパワーを手に入れるまでが描かれるが、その背景にはまったく違う物語が存在している。

原作《アース616》、『Amazing Fantasy #15』(1962)、『The Amazing Spider-Man』(1963〜)の設定を土台に構築されたライミ版と違い、今作では後年になって生まれたアルティメット・ユニバース:《アース1610》で展開する『Ultimate Spider-Man』(2000〜)の設定・物語構成が下敷きになっている。

もはや“マルチバース設定”については2026年現在では説明するまでもないと思うが、今作とライミ版では、そもそも参照した原作作品自体が別アース(=並行世界)であるということである。

シリーズがリブートされるにあたり、原作でも2000年代に複雑化したコミックシリーズを仕切り直すために展開されたアルティメット・ユニバースの設定を持ち込むことで、明確に“今作からは別世界の物語である”ことを示したのは非常に良かった。これにより、原作既読のファンは迷うことなく新シリーズを受け入れられ、知らない観客であっても、明らかに別のオリジンが語られることで物語の整理がし易かったように思う。

今シリーズで物語の鍵となるピーターの両親は、アース616原作世界では、《アベンジャーズ》の中心的役割を担うニック・フューリーとの繋がりや、政府諜報部員としての設定が付与されることになったが、アルティメット・ユニバースでは科学者であり、今作ではその設定がベースとなっている。

スパイダーマンを象徴する装備の一つである《ウェブ・シューター》についても、アルティメット版ではピーターが父の遺した接着剤フォーミュラを応用して作り上げており、今作ではその設定をうまく改変している。父の遺した研究ノートとネット検索で蜘蛛の生態や遺伝子情報の知識を得た上で、オズコープ社のバイオケーブルを用いてウェブの仕組みを作り上げることで、アース1610の設定を一本化し、今作オリジナルの物語に接続しているのだ。

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ヴェノム単独作品やシニスター・シックスに続くはずだった設定の名残?

原作アルティメット版でのピーターの父:リチャードは、《ヴェノム》の宿主であるエディ・ブロック Jr.の父:エディ・ブロックSr.と共に医療用バイオスーツの研究に携わっており、これがアース1610におけるヴェノム・スーツである。

(→アース616原作ヴェノムの設定については

『ヴェノム』(2018)のレビュー参照)

今作ではその設定と、スパイダーマンのオリジンとなる蜘蛛の設定を合わせ、ピーターが噛まれた蜘蛛の研究にリチャード、そして今作ヴィランのリザード(=カート・コナーズ)を関わらせることで、スパイダーマンの宿命と、ピーターの人生の因果を強めている。

ピーターを噛む蜘蛛についても、アース616での放射線を浴びた蜘蛛の設定が、アルティメット版ではオズコープで遺伝子操作された蜘蛛へと変化しており、こうした設定が組み合わさって今作は構築されたものと思われる。

シリーズ2作で明言されてはいないが、原作でのリチャードがヴェノム・スーツの研究に関わっていた設定も、次作以降シリーズが続いていれば新たな物語に展開していったのかも知れない。

『スパイダーマン3』でヴェノムが登場した後、Sonyはヴェノムという人気キャラをどうにか単体で売り出したいと考えていたようで、今シリーズと連動して《シニスター・シックス》と呼ばれるスパイダーマンのヴィランチームのスピンオフや、ヴェノム単独作品の企画も進行していたと言う。

結果として今シリーズは次作で打ち切りとなり、スパイダーマンのシリーズはMCUとの連動に、ヴェノムやシニスター・シックスの企画は、形を変えてSSU(Sony’s Spider-Man Universe)へと引き継がれていくことになるが、本来であればヴェノムのオリジンについても今シリーズのピーターと絡め、現在ある物語とはまったく違うユニバースが展開されていた可能性は充分にあるだろう。

後のSSUは“スパイダーマン不在のスパイダーマンシリーズ”と半ば揶揄されてもいたが、もしも今作から物語がきちんと続いていたのなら、違った未来があったかも知れない。

SSU各作品の演出の一部には今シリーズを思わせる要素が散見され、意識的か無意識的か……どこかに繋がりを持たせようとしていた気もする。これはあくまで筆者の邪推の邪推である。

(『ヴェノム』寄生直後のエディの冷蔵庫漁り、

『モービウス』(2022)の能力の研究を録音する姿、

『マダム・ウェブ』(2024)のマティのスケボー等々……)

SSU含むスパイダーマン関連作品のレビューまとめはこちら

アクション論:人間・ピーター・パーカーがスパイダーマンになるまでを描くアクション

身体性と躍動感を活かした大迫力のアクションシーン

今作のアクションシークエンスは空間を活かし、大きな動作でスパイダーマンの空に舞う姿を映すと同時に、細かな筋肉の躍動やスーツのシワなどで、非常に人間的・肉体的な画を作り上げている。

一部ではシネマスコープ(縦横比2.39:1)で撮られた映像に“物足りない”という意見もあるそうだが、2012年の公開時期を考えれば、まだ圧倒的にシネスコ隆盛の時代だ。その分、カットの切り替えが多くスピード感のある編集には、映画製作以前から多くのミュージック・ビデオ製作に携わってきたウェブの強みがよく出ている。

(B’zの「今夜月の見える丘に」のMVを撮っているのは日本人としては押さえておきたい)

CGI/VFXの発達と共にスパイダーマンのスウィングを具現化し、その表現を3作かけて磨いていったライミ版とは違い、今作では可能な限り役者の肉体を使ったアクション表現が採用されている。

《ウェブ・スウィング》についても、一部のシーンではスタント・コーディネーターであるヴィック&アンディ・アームストロング兄弟率いるスタント・チームが、数ヶ月かけて開発したワイヤー装置を使用し、『類猿人ターザン』(1932)の蔦渡りなどのアクションを参考に、実在の道路にその装置を張り巡らせてスウィングさせている。

中盤の警官隊との逃走劇では、まさしく人間だからこそ表現出来たやや不慣れなその動きが、力を使いこなせていないピーターの描写として非常に効果的だ。

スウィング・シークエンスにはスパイダーマン視点のPOV映像もあるが、今作では当時流行だった3D形式での上映も取り入れられており、こうした場面ではその効果が存分に活かされている。

まさにスパイダーマンの目から世界を見ているような、ウェブを掴む手やピン、と伸ばされた足……生身のアクションによるリアリティ、3D・POVの掛け合わせにより、観ている側はまるで実際にスパイダーマンになってNYの街を飛び回っているような気分にさせられる。2010年代、映像の進化と共に、遂に観ている側は自身がスパイダーマンになったかのような映像体験まで楽しめるようになったのだ。

スパイダーマンのスーツに関しても、より身体のラインが浮き出るデザインになっており、演じたガーフィールドの手足の長さがよく映えている。

かなり肌に密着したスーツであるため、スーツの下には下着以外何も着用出来ず、撮影は大変だったそうだが、厳しい肉体トレーニングとパルクールのトレーニングを受けて役作りをしたガーフィールドは、多くのスタントシークエンスを自身でこなし、そうした意味でも今作のアクションはかなり見応えがある。

ガーフィールドの肉体の美しさをCGでも表現するため、CGアニメーションでの表現にはオリンピックの体操選手の動きをモデリングするなど、今作のアクションは全体的にとにかくスタイリッシュで画面映えしているのだ。

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スパイダーマンとピーターの違いを明示するアクションシーンの演出

今作の生身に近いアクション演出は、まさしく“スパイダーマンに変わっていく”ピーターの物語とも同期していたように感じる。

映画中盤まで、ベンおじさんが死んでからのピーターは、ただ私怨のために動いていた。それはヒーロー活動ではなく、ピーターは警官相手にも“助けてやっている”という態度で、『スパイダーマン3』(2007)のブラック・スーツに支配されたあのピーターと変わらない。

こうした、少年らしい未熟なピーターのアクションは、特に人間らしい動作感で描かれていたような気がする。

一方、リザードと初めて対峙する橋……あのシークエンスでピーターは、いよいよ“NYのヒーロー”スパイダーマンに近づく。ここでのアクションは、CGIによる“人間を超えた”アニメーション・アクションになり、そうした映像の作り方そのものにも、物語のテーマが映し出されていたのではないか。

学校にリザードが襲撃してきたシークエンスでは、実写スタントによるアクションから、後半スーツを着込んでからはCGIアニメーションでのアクションに移行しているようで、そうしたところにもピーター/スパイダーマンの区別、そしてそれが次第に溶け合っていくまでが表されている。

ライミ版では、マスクが破れかける演出が多用されることでピーターとスパイダーマンが同期していく感覚があったが、今作ではマスクを被っていても、そこには常にガーフィールド演じるピーターの顔が見えていたように思う。

今作でのピーターは、自らの意志でマスクを外すシーンが多い。

車の中で少年:ジャックを助けるシーン、

学校で襲ってきたリザードを説得するシーン、

そして……グウェンの父であるジョージに、正体を明かすシーン。

やはり今作は、スパイダーマンでありピーター・パーカーを主人公とした、非常に個人的な物語だったのだろう。

演出論①:“自分探し”のサスペンスと“青い恋物語”のロマンス

知力で闘うピーターの頭脳戦シーンの数々

今作・今シリーズには、ピーター自身の起源、両親の秘密に迫るサスペンスな側面と、ひたすらロマンチックな恋愛劇としての側面がある。

NYの街そのものを一人の登場人物とし、ピーター・MJ・ハリーの青春の三角関係を描いたライミ版とは大きく違い、ウェブが描いた二作はひたすらにピーターとグウェン……二人の恋人を中心とした物語だ。

今作のピーターは、序盤からその知的さが繰り返し演出されている。序盤のベンおじさんとの水道管修理のシーンや、自室の鍵を自作の機械式のものにしている点などで、ピーターには父:リチャードの天才の血、発明や機械いじりのセンスが受け継がれていることがわかる。

マグワイアのピーターもノーマン・オズボーンやオットー・オクタビアスにその才能を認められてはいたが、その才能が画面上で示される場面はあまりなく、どこか“科学オタク”的な印象に留まっていたように思う。

今作ではオズコープ社、バイオケーブル開発室への開錠パスワードを盗み見ての潜入など、序盤ではスパイ映画風の演出さえ見られるが、これもピーターが学園“2位”の頭脳があることが明示されてこそ成立する展開だ。

蜘蛛に噛まれてからも、発現した能力に戸惑うのはライミ版と同じではあるが、“筋力が上がる/視力がよくなる”という、画的にわかりやすい演出で非常にコミック的だったライミ版に比べ、今作ではその能力についてピーターが調査し、“理解しようとする”描写が多くなる。

中盤以降も、ヒーローとしてのアクションシーンは確かに136分の上映時間にふんだんに盛り込まれてはいるのだが、同じくらいにコナーズ博士との遺伝子実験や、ウェブ・シューターやスパイダーマン・スーツの研究・開発を進めるシーンが多い。

首に表出したトカゲの皮膚を隠しながら喋るコナーズや、そんなコナーズが去った後、ネズミのフレディが凶悪化しているのを見てピーターがリザードの正体について確信を得るシークエンスも、こうしたどこか探偵のような演出がハマるのは今作のピーターの特色と言えるだろう。

スーツの収縮素材についてや、動物実験の理論については、専門家の目から見ればかなり無理筋な理論であるという批判もあるようだが、そのあたりは“映画的な嘘”として大目に見て良い。少なくとも、ピーターが頭脳明晰であることは観ている側に伝わるはずだ。

圧倒的なナードとして描かれたライミ版ピーターに関するレビューはこちら

グウェンに伝える二つの想い……個人とヒーローが同居する新しいピーター像

恋愛要素の描かれ方についても、まさに『(500)日のサマー』や、後に『さよなら、僕のマンハッタン』を撮るウェブの、ドラマ作家としての強みが出ており、それが今作をヒーロー映画と思えないほどにロマンチックな作品に仕上げている。

ライミ版の三人の青春は、誤解を恐れずに言えば彼らの設定された年齢より幼く描写されていたように感じる。観客は高校〜大学とピーター達の物語を追ったわけだが、彼らはそこで、どこか中学生のような、青臭く不器用な幼い恋愛と友情に苦しんでいた。

今作のピーターとグウェンの恋にも、若さゆえの青さはある。しかし彼らにあるのは、不器用さよりもむしろ、若さ故の無鉄砲さや、世界の中心に自分たちがいるかのような、二人だけの世界の万能感とそこから生じる複雑な感情だ。だからこそ、今作は“恋愛映画”になる。

初めてデートの約束をした日の帰りに、おばさんとの約束を忘れてスケボーで飛び回る、初めて家に招かれ、恋人の父親と口論になる。窓から忍び込み、相手の両親にバレないように逢瀬をする……そうした恋愛映画のセオリーに、同時にきちんとスパイダーマンの物語が重なってくる。

グウェンの父であるジョージとの口論がなければ、ピーターはヒーローとしての責任に目覚めることはなかっただろうし、浮かれて約束を忘れずメイおばさんを迎えに行っていれば、ベンおじさんが死ぬこともなかった。

スパイダーマンとしての悲劇も喜劇も、今作では常に中心にあるグウェンとの物語に繋がる。グウェンは今作において、初めてスパイダーマンの正体を知る人物でもあるのだ。

中盤での、愛の告白とスパイダーマンとしての告白が同時に行われるのは、スーパーヒーロー映画の歴史上屈指の名シーンだ。言葉に詰まりうだうだと迷うピーターに背を向けたグウェンを、ウェブで引き寄せての初めてのキス。これが本当にロマンチックで、どこか微笑ましい。

今シリーズは、スーパーヒーロー映画のセオリーからは尽く逸脱している。しかし、それこそシリーズリブートの意義であり、前段階にライミ版があったからこそ、こうした演出がより輝いたのだとも言える。

物語論:「大いなる力には大いなる責任が伴う」を問い直す二部作

ベンおじさんの死の再解釈……売り言葉に買い言葉

今作は次作と合わせ、ピーターがスパイダーマンになるまでの物語でもある。

「大いなる力には大いなる責任が伴う」

スパイダーマンを象徴するこの言葉は、今作では直接的に台詞として登場することはないが、2作続けて、ピーターはこの言葉の意味に向き合わざるを得なくなる。

今作のピーターは、ナードというよりもどこか“やんちゃ”な印象がある。確かに学校内での立場はそこまで高くなく、フラッシュとも折り合いが悪いことは示唆されている。しかし、ピーターは弱気ではあるものの、冒頭では彼より更に弱い立場の少年がおり、フラッシュが少年を虐げる現場に出くわせば、それを身体を張って止める勇気もある。

また、校舎内でスケボーに乗って注意されるなど、必ずしも品行方正な人物としては描かれていない。

原作・ライミ版でのピーターは視力が悪く、蜘蛛に噛まれる前は眼鏡を着用することでナードな雰囲気をより高めてもいたが、今作のピーターは普段はコンタクトであり、眼鏡は父の遺品である。このあたりからも、ピーターをわかりやすくナードとしては描こうとしていないことが窺える。

だからこそ、スパイダーマンが生まれるキッカケ:“ベンおじさんの死”についても、今作ではライミ版のように明らかにピーターに非がある描かれ方にならない。どちらかと言えば“売り言葉に買い言葉”という印象を受ける。

確かにピーターはグウェンとの関係が進展する予感に浮かれ、父:リチャードの秘密に迫る中でコナーズ博士と研究を進め、自身の才能が開花していくことに喜びを感じてはいただろう。結果としてメイおばさんを、夜道に一人歩かせてしまったのは事実だ。

しかし、今作ではベンの側にもピーターの“生みの親ではない”後ろめたさがあり、学がない自身が、優秀な兄の血を引くピーターの親として望むものを与えられていたのか、と悩んでいる描写がある。

だからこそ、両親の死の真相を知るために躍起になるピーターに言うべきでないことを言ってしまい、それが原因でピーターは夜中に家を飛び出してしまうのだ。これは言葉が足りない同士の男親と思春期の息子のすれ違いであり、ライミ版のような一方的なピーターの反抗期という表現ではない。

このベンの死には、遺言のような台詞は似つかわしくない。「大いなる力には〜」の言葉が“ベンの言葉”として描かれないのはそうした理由があり、だからこそ、そのすれ違いが余計に悲劇的でもあるのだ。

パーカー親子の呪い……ピーターが生み出した怪物

ヴィランであるリザードは、ピーターが生み出した怪物でもある。

コナーズの研究は、一人では完成させられなかった。彼は長年自身の失った腕を回復させる術を探し、ピーターの父に協力していたが、リチャードが去ってからは思うように成果を上げられず、オズボーン社の目的である“ノーマン・オズボーンの治療”も叶わぬままだった。その研究を、急速に進めてしまったのが、リチャードが遺し、ピーターが解き明かした計算式だったのだ。

コナーズは必ずしも、悪心を持った怪物ではなかった。急進的な人体実験を求めるオズボーン社に逆らい、研究資金を引き上げられても尚、決してその意志を曲げようとはしなかった。

自身に人体実験を施し、その手が生えているのを見たときも、そこには純粋な喜びだけがあった。科学者として、理論が完成した喜びと、求めて止まなかった腕を取り戻した幸福。

そうしてコナーズは、そんな自身の怪物性に狂っていってしまったのだ。

コナーズは類稀なる頭脳を持った優秀な研究者だった。しかし、理論とは優秀なだけで生み出せるものではない。リチャードの血を受け継いだピーターの力がなければ、コナーズには最後の一手を生み出すことは出来なかったに違いない。

ピーターは父の秘密を知る過程で、リチャードが遺すはずではなかった負の遺産を受け継いでしまい、それにより彼はスーパーヒーローの世界に足を踏み入れることになる。そしてそこで、あまりにも大きな代償を払うことになる。

ピーターが生み出したリザードを倒す過程で、グウェンの父は死に……ピーターは“大いなる責任”に直面することになるのだ。

キャラクター考:グウェンがいなければこの二部作は成立しない

ピーターの恋人でありスパイダーマンのサイドキック

今作の物語は、すべての要素が

“ピーターの両親の秘密”

“グウェンとの恋”に繋がるように出来ている。

だから、どんなに物語が様々な要素を描き出そうと、全体に散らかった印象はない。シリーズとしては数限りなく未回収の伏線があるのだが、中心にあるグウェンとの物語があまりにも魅力的に描かれるため、そうしたマイナス面がすべて塗り替えられてしまうのかも知れない。

グウェンのヒロイン像は、2000年代のアメコミヒーロー映画ではあまり見られなかったものだ。彼女にスーパーパワーはなく、純然たるヒロインという立ち位置でありながら、グウェンは常に自分の意志でスパイダーマンのサポートに向かう。

ピーターを“クラスで2番の優等生”と呼び、1番手は自分であることを主張する。オズコープ社のインターンとして働き、知性も勇気もある。

ライミ版のMJがヒロインとしてあまり人気がないのは、後年のこのグウェンと比べられているから、という側面もあるだろう。グウェンは今作において、ただピーターの恋人であるだけでなく、スパイダーマンのサイドキックでもあるのだ。

同時に、グウェンとピーターの恋には、初めからスパイダーマンは一切介入していない。

グウェンの父はスパイダーマン否定派であり、彼女自身も、スパイダーマンがNYに現れてから、命を救われた経験があるわけではない。

グウェンは同級生であるピーター自身に惹かれ、ピーターもその愛に真っ直ぐに応えた。だからこそ、彼は自身の一番大きな秘密を、彼女にきちんと伝える。

これはスーパーヒーロー映画としては非常に革新的な描写だ。本来マスクのヒーローはその正体を隠し、周囲の人間に秘密を持って生きていく。最初から顔を隠していないヒーローも勿論存在するが、スパイダーマンの物語とは、“正体を隠す”ことが大きなテーマでもあった。

ライミ版三部作は最後まで、

“スパイダーマンか/ピーター・パーカーか”という命題に囚われ続けた物語であり、原作でも幾度となくそうしたテーマが描かれてきた。

スーパーヒーローは、愛する人を守るため、正体を隠し彼らを遠ざけなければならない……ライミ版のピーターは、そうしてMJとすれ違っていったのだ。

ピーターとグウェンにある“死のイメージの違い”

今作ではむしろ、グウェンの側がピーターから離れようとしていた。

幼い頃から警察官としての父を見て育ち、毎朝、毎日、「無事に帰ってくるのか」という不安と共に生きてきた。それを、リザードによって胸に大きな傷を受け、ボロボロの状態のピーターに語る。

この二人の会話はロマンチックでありながら、非常にリアルな、“闘う身内”を持つ者の意見だろう。警察官だけでなく、消防士や、パイロット……死の危険と隣り合わせの仕事は数限りなくある。そうした“待つ家族”の側の言葉……ピーターにはまだ、その覚悟が理解出来ていない。ベンおじさんを失い、グウェンの父であるジョージに嗜められ、ジャックを救った。リザードとの闘いに傷つき、死にかけて尚、ピーターの死にはリアルがない。

こうした“現代っ子”的ピーターの描写は、地下水路でリザードに罠を仕掛け、待っている間携帯用ゲーム機で時間を潰す仕草にも表れている。この時点では、死はピーターよりもグウェンの側によりリアルな感覚だ。

恐らくそれは、ピーターにとっての死は常に、“自分を置いていくもの”だったからだ。

両親に置き去りにされ、目の前でベンおじさんを亡くし、死は常にピーターの身近にあった。しかしそこでは自分はあくまで置いていかれる側であり、自分が“置いていく側=自分が死ぬこと”のリアル感がない。だから彼は、リザードに傷つけられても、どこかそこに余裕がある。

リザード戦でのジョージの死……それは最大の“呪い”であり、同時に、ピーターが初めて“自身の死”を意識した瞬間だったのではないだろうか。

警察官としての命を賭けるということ……グウェンが幼い頃から抱いてきた恐れは現実のものとなり、それはピーター自身の未来にも重なる。

「守れない約束もある」マスクのヒーローへのアンチテーゼと恋人たちの幸福

「もうグウェンに近づくな」

ジョージの言葉は、ピーターへの嫌がらせでも、遺言でもない。それまでスパイダーマンを“真夜中に市民を襲う素人”と警戒していたジョージが、それがピーターであることを知った上で共に闘い、ヒーローとしてのピーターを認めた証でもある。

だからこそ、娘には近づかせられない。

どれほど危険で、どれほどの恐怖を与えることかは、死にゆくジョージ自身が誰よりも理解しているからだ。そしてピーター自身も、それを痛感せざるを得ない。

今回の闘いは、どう考えてもピーター一人では収められなかった。グウェンの勇気と、知性が解毒剤を作り、ジョージがそれを届けてくれた。これからも、グウェンはこうして、スパイダーマンの“仕事”に巻き込まれるだろう。

ピーターはこの後、一度はグウェンから離れる決意をする。ジョージの葬式に顔を出さず、グウェンを遠ざける。これはライミ版とも同じ展開だ。

ピーターは、愛情を“置いていかれるもの”と考えていた。それが今では、“置き去りにするもの”という目線が、そこには間違いなくある。

リザード戦の後、メイおばさんに以前買って帰れなかった卵を持って帰るシーン……これも、ピーターが「帰らなければならない」を強く意識したがゆえの行動ではないだろうか。

それでも、今作は最後まで、恋人たちの物語であり続ける。

「守れない約束もある」

教師の言葉に応えるように、グウェンに向けられた言葉。振り向かず、溢れるように微笑むグウェン。

これはライミ版や、あらゆるヒーロー映画へのアンチテーゼであり、若い恋人たちの覚悟の言葉だ。それは若さゆえの勇み足ではあるだろう。しかし、だからこそ今作のエンディングは、これまでのヒーロー映画にないほどロマンチックなハッピーエンドで、それが次作を、より心に刺さるものにする。

演出論②:個人の結びつきと“名乗る”ことの重要性

NYの街の描かれ方にライミ版から10年の月日を見る

今作はライミ版第1作から丁度10年後に公開された。それはアメリカ史の大きな爪痕である“9.11”……アメリカ同時多発テロ事件からも10年が経ったということだ。

その影響がどこまであるかは明言されていないが、ライミ版はNYという街を一人の登場人物として表現し、“親愛なる隣人”と共に闘う市民を描いていたように思う。

対して今作では、市民は“群衆”より“対・個人”という描かれ方をしている。

今シリーズは、“名乗る”ことが重要なテーマの一つだ。序盤でのグウェンの「自分の名前わかる?」に始まり、オズコープ社に人の名前を借りて潜入する、など“名乗り”のシーンは物語の中に度々挿入される。

これは次作でも大きな意味を持ち、今シリーズのNY市民は、名前のないモブキャラではなく、わざとらしいほどに名前が強調されている。

リザードのいるオズコープ社へと向かうピーターを救うのは、ピーターが初めてスパイダーマンとして命を救った少年:ジャックの父親だ。今シリーズのスパイダーマンは、街そのものと繋がっていたライミ版のピーターよりも、より個人との結びつきが強くなっている。

ライミ版では単なる嫌な奴として高校編でフェードアウトしていったフラッシュがおじさんを亡くしたピーターを気遣ったり、スパイダーマンのファンになるという原作コミックの設定に近くなったのもそうした結びつきを表す描写なのではないだろうか。

これが、2002年から10年経った、2010年代のヒーローのリアリティだ。携帯が若者に普及し始めた2000年代初頭から、2010年代はスマホが一般化し、SNSサービスの多くも既に存在していた。匿名性が強くなった時代だからこそ、個人の結びつきを再確認する意識が強まっていたのかも知れない。

同じオリジンを描きながら、10年でキャラクターや街の描き方がこれだけ変わるというのも、非常に面白いのではないだろうか。

今作のピーターはまだスパイダーマンではない

ジャックの父が仲間たちにクレーン車を作動させ、スパイダーマンの足場を作るシークエンスでは、彼らは互いの名前を呼び合い、クレーンを繋げるように足場を作っていく。

そして、そこに飛び込んでいくピーターもまた、「いくぞ、パーカー」と自らの名を名乗って走り出すのだ。

人は名乗ることで個人となり、名乗ることがその人間を作り上げる。ピーターが“スパイダーマン”を名乗るのも、ジャックを助ける際にマスクを脱ぎ、その名をジャックに与えて勇気を奮い立たせようとするのも、そうした意味合いが含まれているように思う。

同時に今作でも次作でも、“誰もが心にヒーローを宿す”というテーマはライミ版より強く表現されている。

ライミ版『スパイダーマン2』(2004)では“誰もがヒーローになれる、しかしスーパーヒーローには限られた者しかなれない”というテーマが描かれていた。今シリーズではそれよりもむしろ、ピーターもまた一人の個人であり、ジャックやジョージもそれは変わらず、そんな誰もがヒーローになれる、という描き方としているのではないか。

ジョージや、ベンおじさんの死も、それを強く補強している。これは次作にも続いていくテーマと演出であり、今作がまだあくまで、“ピーター・パーカー”の物語であることにも繋がっているのではないだろうか。

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総括:ヒーロー映画の定石を崩し、打ち切られたからこそ忘れられない傑作

シリーズは2作しか作られず、物語に張られた伏線のほとんどは回収されなかった。

今作ポストクレジットでリザードの牢獄にやってきた男は、次作でも登場する“ザ・ジェントルマン”とクレジットされた謎の男で、原作の要素を拾うならグスタフ・フィアーズというシニスター・シックスに関連するキャラクターのはずだったのだろう。しかし、それは作中明言はされず、彼の目的も、今作ラストで匂わせたリチャードの秘密も謎のままだ。

ベンおじさんを殺害した“星のタトゥーの男”も、ピーターが探すのをやめてしまいその後出てくることはなかった。

シリーズとしては、本当に中途半端に、打ち切りで終わってしまった物語と言えるだろう。

しかし、ピーターとグウェンの物語としては、今作と次作であまりにも美しく幕が閉じられている。今シリーズは、アメコミヒーロー映画としてはあまりにロマンチックで、哀しい物語だったかもしれない。それでも、その美しい恋の物語は、今も当時観た観客の心を掴んで離さず、続きが描かれなかったからこそ、その後のピーターの人生について、我々は長いこと考え続けたのではないだろうか。

今作ラストでは、ベンおじさんが遺した留守番電話の「私のヒーロー、お前を愛している」が流れて物語は終わる。最後までこれはピーターの物語で、スパイダーマンのオリジンとしての物語は次作へと続いていくのだ。

次作でもやはり、ヒーロー映画のセオリーを大きく逸脱した結末が描かれる。そして、それこそが、今シリーズのピーターが真の意味でスパイダーマンになるために必要なことだとも言える。

何度観ても、胸に棘を突き刺す次作をもってこのシリーズは幕を下ろすことになるが、スパイダーマン作品の中にいつまでも残るその痛みを、忘れることは出来ない。この二作は、そんな作品なのだ。

※シリーズ続編レビューはこちら

評価/鑑賞日

⭐ 4.0 / 5.0
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